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青草民人の宗教遍歴
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青草民人は小さいころ、『地獄と極楽』というマンガを好んで読んでいました。これは、毎年初詣に行っていた川崎大師の夜店で買ったもので、宗教マンガとでもいうのでしょうか。『おしゃかさま』とか『かんのんさま』といった本もあり、何回も楽しんで読んでいました。ほかにもオカルトの本だとか、お化けの話なんかもよく読んでいました。
6年生の時、よく友だちとコックりさんをやっていました。あのころ、ツノダジロウの『恐怖新聞』だとか『うしろの百太郎』を読んだ記憶があります。オカルトに興味があったのでしょうね。そういう不思議なものに惹かれました。
だけど、地獄には恐怖は感じていなかったです。行きたいとは思いませんでしたが。心の中で、仏様を信じている自分には無縁なところだという気持ちがあったのでしょう。自分は信心しているから大丈夫、仏様が守ってくれるんだから、という感覚でしょうか。
選ばれた人間というか、信じる者は救われるという自負がありました。オカルトについてはかなりのあいだ信じていましたね。霊というものに対する怖れは大人になってからもありました。ただ、今は霊の否定ということではなく、怖れがなくなりました。
我々自身が生としての存在だけでなく、「死もまたわれらなり」(清沢満之)という存在であることを認識すれば、おのずと霊というものの存在を否定もしませんが、肯定する必要もなくなるのだと思います。
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父が個人タクシーをしていた関係で、川崎大師に車のお祓いに毎年行っていました。そして護摩をあげる僧侶の加持祈祷に強く心を引かれました。『般若心経』の書いてあるお守を大事にもち、ときどき自分で読み上げていました。
自己暗示というのでしょうか、「南無大師遍照金剛」とお大師様のご法号を唱えると、力が沸き出すように感じました。自分は法力を授かったんだと、今考えると吹き出しそうなことを思っていました。
不可能を可能にしてくれる真言。
「おんあぼけやべいろしやのまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」
真言宗の修法には、法力があると強く信じていました。真言には不可能を可能にする法力が宿っていて、そのことに集中すれば自分にも力が与えられるんだと。
不思議な真言と護摩の火や太鼓の音に憧れ、お大師様に惹かれていきました。そのうち、真言密教に憧れるようになり、加持祈祷で不思議な霊力を身につけたいと思うようになりました。
しかし、不可能を可能にする法力というのはないですね。不可能を可能にしようとする気持ちにさせる修法はあるかもしれませんが。私は、ひたすら真言を唱えるということぐらいしかしていませんでしたが、唱えていると何だか願いがかなうような気がしました。
神秘体験といったことはありませんでしたが、何かをしようとするときに、おつげのようなものを感じるというのでしょうか、お大師様のおつげを自分で聴いていたような気がしていたかもしれません。
多分、勝手に思い込んでいたんだと思います。それでいい思いをしたことはないですね。法力を身につけて超能力を得るということは凡夫の私にはできません。
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中学生になると歴史に興味をもつようになり、空海を歴史上の人物として捉えるようになりました。弘法大師から空海という人物として見るようになったわけです。
それと初めて、真言宗が宗派仏教として私の信仰の対象になったのがこの時期だと思います。空海の教えは宇宙との一体化、梵我一如に近い発想ですね。やはり密教はバラモン教に影響を受けているのでしょうか。如来の加持とは、阿弥陀の他力とは違うように思いますね。祈祷によって加持を得るのが真言の秘法でしょうから、呪術的なものでしょうね。思い通りにはたらかせようとする。やはり自力です。
真言宗の教義の根本は即身成仏、生きたまま仏になること。仏との縁を結び、真言を唱えることにより仏と一体になる。現世利益は即身成仏に近い考え方ですが、本当は同じことではないと思います。ただ、大師の即身成仏の信仰がこの現世利益と結びついたのは庶民の信仰だからでしょう。私が真言宗に惹かれた理由は、やはり即身成仏=現世利益という部分に神秘的な要素が加わったからだと思います。真言宗の本当の意味の教義ではありませんが。
そのころ大好きだったおじが白血病で急逝しました。病気平癒の護摩札を送りましたが、おじの家は真宗王国の北陸です。「気持ちだけは有り難くいただく」と言われ、護摩札を母が持ち帰ってきました。
浄土真宗という宗派が自分の一族の宗派だと初めて認識したのと、護摩札をお棺に入れてもらえなかったことを悲しく思ったことを覚えています。
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中学、高校はいろいろとそれなりに楽しいことに追われて過ごしましたが、信仰という面ではやはりお大師様を信じていました。
ちょうど弘法大師のご遠忌があって、北大路欣也主演の『空海』という映画を見たのがきっかけだったでしょうか、空海を歴史的に研究するようになりました。また、丹波哲朗の『大霊界 死んだらどうなる』という映画にもはまって、神秘的なものへのあこがれから、学問的に仏教を学ぼうと思い始めました。
将来の仕事も僧侶になりたいと考えることがありました。それは世の中のためになる仕事として歴史上の僧侶の生き方にあこがれたからです。しかし、そんなある日、決定的な出来事がありました。
いつものように川崎大師にお参りに行ったときのことです。いつになくお経が簡単になったなあと思いました。その日は、たくさんの人出で、お経もこころなしか短かったように感じました。そして、参詣している私達の前に警備会社の人がきて、賽銭箱のお金をジャラジャラと取り出して持って行ったのです。寺院関係者には別に日常の出来事かもしれませんが、参詣に来た信者にはいかにも味気ないというか、馬鹿にされたような行為でした。
そのとき、これが自分の追い求めていた仏教なのかと思い始めたのです。もちろん弘法大師が求められた現世利益は自分の利益だけを求めるためのものとは無縁だと思います。空海は朝廷に仕えた高僧ではありましたが、民衆の力にもなろうとした人です。
この賽銭事件は仏教に対する熱意をさましたというよりも、現代の仏教の在り方に対して幻滅した出来事です。歴史上の弘法大師と現実に目の前にいるお坊さんとのギャップというのでしょうか。お坊様はみんな偉い人だという観念が崩れていく。憧れの彼女が化粧をへらで落とすのを見てしまったようなものです。
そんなことから仏教の原点にかえりたいと思うようになりました。あこがれの仕事も僧侶になることを諦め、現代で僧侶の役目をするなら教育者であろうと、教師への道を選びました。
大学生になると、空海のことを学術的に調べるようになり、また他の仏教についても学ぶようになりました。私の大好きだった女の子が鎌倉の出身だったということもあって、よく鎌倉の寺を一人で散策しました。
ただ彼女に会いたかっただけかもしれませんが、彼女には結局想いを伝えきれず、一緒になれませんでした。切ない心を紛らわせるために、という気持ちもあったのかもしれません。煩悩を抱えながら、どうすることもできない自分に悩み、いろいろな宗派の寺を巡り、仏教の世界に救いをもとめていたのかもしれません。
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小学校の教員に就職してからは、教育のことが中心だったので、宗教はあまり意識しなくなりました。青春まっただ中なので、遊ぶことぐらいしか考えていなかったのでしょう。そのころから釣りを趣味にしていまして、家内と結婚してからも二人で釣りに行ったりしていました。
ちょうど29歳のときに長男が生まれて、好きな釣りにも行けず、本を読む機会が増えました。そして仏教関係の本を読み直したりしました。
絵を描くことにも興味を持つようになりました。最初は風景を描いていましたが、私は墨彩画を描くので、仏画に興味をもち、写仏を始めました。そのうち写経もするようになり、『般若経』や『浄土三部経』を書写しました。
またお寺めぐりを始めました。朱印帳を持っていろいろな所に行きました。ちょうど仏教ブームが始まるころで、仏教に再び興味を持ち出したのはそのころだと思います。
きっかけといえば、息子が生まれたことでしょうが、お釈迦様のような深い悩みからというわけではないので、お恥ずかしい限りです。ただ、なかなか子宝に恵まれなかったので、いのちをいただいたという感慨はあったと思います。釣りをすることを殺生だと感じるようにもなりました。
今思うと、仏教に深く関わるようになったのが29歳、お釈迦様が出家されたのと同じ歳でした。親鸞聖人が法然聖人の門にはいられた歳と同じです。ただの偶然ですが。
実はお寺めぐりをするようになったり、写経をするようになったのには、きっかけがありました。平成9年の3月に教え子を亡くしたのです。あのときのショックが原因で、いろいろと思うところがあって、お寺をまわろうとか、写経をしようとか、仏画を描こうとかと思いました。
あの子の死に接していなかったら、お寺に興味を持つこともなかったかもしれません。子供の死を目の当たりにしたのは初めてでしたし、その子の数奇な運命を考えると、死は受け入れられるものではありませんでした。
あの子は3年生の終わりに交通事故に遭い、車にひかれながらも一命を取りとめ、奇跡的に生還しました。しかし引っ越した先の学校でひどいいじめに遭い、ふたたび越境して私の小学校に戻ってきました。ところが、2週間ほどで卒業という矢先、風邪をこじらせて再入院した病院で、呼吸器に異常をきたして、あっという間の死でした。
大きな事故を乗り越え、つらい目に耐えてきたのに、彼女に与えられたものは死だったのです。そんな無常な死に様を目の当たりにしたことは、教師として、人間として、とてもショックでした。いのちのはかなさを深く感じたのです。
古寺巡礼も写経も写仏も仏教へのとば口を求めていたにすぎないのでしょう。宗派にとらわれずに、仏教そのものに触れていきたいと考えなおしました。今風にいうと仏教による癒しです。
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古寺を巡るようになって、何度か京都に行くようになりました。お東さん(東本願寺)は両親の御先祖様が納骨されているところという感覚でした。両親の故郷には何年も帰っていませんでしたから、墓参りのつもりで寄るようにしていました。まあ、京都の観光をかねて回っていたのは事実です。
ただ、あちこちのお寺を歩いているうちに、次第に自分にもっとも縁のあるのは真宗大谷派の東本願寺というお寺なんだということが感じられるようになってきました。これは神秘的な感覚なので言葉でうまく言えませんが、死んだ祖母が「なまんだぶなまんだぶ」と称えていたことを思い出しながら、阿弥陀堂の阿弥陀様の前に座っていると、なにか心が落ち着きました。我が家に帰ってきたような感覚。
それまで阿弥陀様は知っていましたが、どんな教えなのかも知りませんでした。そういえば、おじさんの葬式でもお大師さんのお札は戻ってきたけれど、浄土真宗の教えってどういうことなんだろうと思うようになりました。こんなに大きなお堂のまん中にいる親鸞聖人ってどんな人だろうって。いろいろ興味が出てきました。
今までの自分の感覚で考えていた仏教とは何か違ったものを御本山で感じました。広いお堂に民衆を包み込むような包容力というのでしょうか。そこに結集する人々の力というのをあの毛綱やお堂の広さから感じました。自分が求めていた教えはこれかもしれないと直感しました。
帰り際、参拝接待所のところに「真宗門徒は帰敬式を受けましょう」という看板がありました。いろいろ聞いたりして、3回目に京都へ行く前に、真宗には帰敬式というのがあって、お剃刀を受けると法名をもらって門徒になれるということを知りました。
法名=仏弟子=お坊さん。そんな感覚で平成10年の1月28日(旧暦では11月でしょうか)、ちょうど親鸞聖人の御命日の日に帰敬式を受けました。
参拝接待所では変なのが来たと思ったでしょうね。所属寺はないし、「どうして受けるのか」と問われて、「とりあえず先祖供養のため」なんて答えるんですから。でも、真宗の門徒になりたいということをなんとか聞いてもらえて、その日の帰敬式を受けることができました。
真宗の門徒になったという自己満足は持てました。真宗の教義もわからずに、なんとなく真宗の門徒になったという時期でした。そして、私の本当の意味での回心体験となる転勤が4月に待っていたのです。
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帰敬式を受けたあとですが、根無し草の浮き草門徒である私は、練馬に真宗会館があることを知り、早速日曜礼拝に通いました。帰敬式が1月、転勤が4月。楽しい真宗lifeが本当の浄土真宗として自分のどん底を救う教えになるなんて、新参門徒の知る由もありませんでした。
親鸞聖人は、35歳で越後に流されましたが、私は35歳で過酷な転勤を強いられました。不遜ですが、親鸞聖人の人生と私の年令が重なるのは、偶然でしょうが、不思議な気持ちがします。
転勤してしばらくは、仏教どころではありませんでした。教員として自信に満ちていた有頂天から、学級崩壊のクラスを担任するという地獄にたたき落とされたのですから。毎日、クラスでいろいろな事件が起きました。自分の無力さとどうしようもない現実にウツになりました。何も考えられない状態というか、次に何が起きるのか、そればかりが頭の中にあって、整理がつかない状態でした。真宗の本を読む気力さえなかったです。ただ、自分で描いた阿弥陀様に手を合わせるだけでした。
朝が来るのが恐い。眠りについても、学校の夢を見て夜中に起きる。不眠と疲労で限界までいきました。そしてあの日。小田急線のホームでのこと。向かってくる電車に近づいた寸前に足が止まりました。今思えば、恐くて死ぬことなんかできなかったのでしょうが、電車に向かう自分は自分でなかったような気がします。ふと我に返った瞬間でした。
真宗が本当に自分の求めていたものだと思ったのは、やはり転勤して、つらい思いの中で現実を受け止められるようになったときだと思っています。それまでは真宗の教義も、学問としてとか、雰囲気の問題であって、自分との関わりはなかったように思います。そこで踏み止まってからです。お寺に行ってみようと思いました。
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年度が変わり、受け持ちのクラスが変わって、気持ちにゆとりが出てきたころ、パソコンを買い替えました。そして、初めてインターネットを始めました。
その当時、「同朋新聞」を真宗会館でもらって読んでいましたが、あるお寺の総代さんが「お寺を開く」という題で文章をのせていました。その中にお寺でホームページを開いていると書いてあったので、呼び出してみたところ、すぐ出てきたのが今の所属寺です。しかもアットホームな感じが伝わってきました。
すぐにメールを送ってみたら、返事がきたのです。「一度お寺に来ませんか」というお誘いでした。地獄に仏ではありませんが、早速、聞法会にお邪魔しました。どこの馬の骨かもわからない私に、とても親切に対応してくださいました。住職もスタッフの人たちも気さくな人たちで、ほっとしたのを覚えています。
光が差したというのでしょうか。行き場を失っていた自分に新しい居場所ができた。少しでも肩の荷をおろして、自分と向き合える場所ができたと安心しました。
お寺に通うようになると、連れ合いさんをなくされた方とかお子さんをなくされた方がいらして、そんな方の話を聞いているうちに、私も自分自身を見つめる機会を得ました。まだまだ私は、自分の現実から逃れようとしていただけなんだと、そう思うようになりました。そしたら、現実が少しずつ冷静に見られるようになってきたのです。
いろいろな教えを聞いていくうちに、真宗の教えが自然法爾の教えだと受け止めるようになりましたね。ありのままの自分をどう受け止めて、川が流れるように生きていけるか。流れに逆らって生きている自分との往還。根本的にものの見方が変わりました。ものを裏側から見るというのでしょうか。
私を苦しめていた子どもたちは、子どもたちが私を苦しめていたのではなく、私の子どもを見る目によって、自分の都合に合わない子どもたちと決めつけていたのだと思えるようになりました。
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そうこうしている間に、再び転勤し、学校の仕事も安定してきました。いろいろな方と出会い、聞法していく間に、再び自分も僧侶の道を目指したいと思うようになりました。昔から僧侶の生き方にあこがれてきたこと、自分の苦しい体験を通して、仏教の教えに対する見方が変わったことなど、所属寺の住職に何度も聞いていただきました。
もちろん得度することが、そう簡単なことではないことは、私も強く感じていました。寺族でないものが簡単に、得度を認められるものでもないし、また、御同行、御同朋と僧俗の別なく信心に生きよという教えに導かれているものが、僧侶を望むこと自体、名利を求める行為であり、教えの道に背くことではないかとも思いました。
しかし、一生を通して、自分自身が救われた教えを、少しでもいろいろな方に伝えたいと思い、得度をその決意表明にしたいことを住職に話しました。住職は深く考えておられましたが、私の思いに真摯に向き合ってくださいました。なかなか承知できることではなかったと思いますが、私の得度を認めてくださいました。本当に感謝しています。
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