『ショアー』という映画があります。第二次世界大戦中の、ナチによるユダヤ人虐殺を主題とするインタビュー映画です。残念ながら見ることができなかったので、映画のすべての語りを翻訳した本を読むことにしましょう。
ナチスの強制収容所で何百万もの人間が殺されたということは信じがたい、デマではないのか、という投書を産経新聞で読んだことがあります。しかしこの本を読むと、それは事実を知ろうとしない人がいい加減なことを言っているにすぎないことがわかります。
被害者であるユダヤ人、加害者のドイツ人、そして目撃者といえるポーランド人が、監督のランズマンの質問に答えていきます。
一日に18000人もの人間を処理したのかと聞かれ、収容所の元伍長は答えます。
「18000とは多すぎるよ。その数字は誇張だ。12000から15000までだね」
こんな事がどうして可能だったかが、多くの人の証言で明らかになります。ユダヤ人絶滅のために、いかに計画的に整然と秩序正しく行われたかがわかります。
「今になって考えると、人間が、同じ人間に対して、どうして、あんなことができるのか、わからない。ぜったいに考えられないことだよ。どうしても理解できないことだよ」
同じ気持ちを読後に感じました。
収容所のすぐ脇で農作業をしていた人は、
「恐ろしい叫び声が聞こえてきたよ」
「叫び声が、そんな間近から聞こえてきても、平気で働けたんですか?」
「初めのうちはほんとに、やりきれなかった。でも、しばらくすると、慣れるもんでね」
「どんなことにでも?」
「ああ」
今この瞬間にも、世界のあちこちで、人が殺され、苦痛にあえぎ、恐怖におびえています。日本人はそれらに対して傍観者です。収容所の近くに住むポーランド人と同じ立場です。彼らの発言は我々の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。
「あなた方は、ユダヤ人の身も、心配していたんですか?」
「あんたが、指を切ったって、わしが痛い思いをするわけじゃない、だろ」
我々の本音かもしれません。
ダン・オルバン『沈黙という名の遺産』はナチスの高官、強制収容所の医者、兵士といった人たちの子供にユダヤ人の著者がインタヴューした本です。家族もユダヤ人虐殺ということで傷つき苦しんだことを教えられます。
1941年から1942年にかけて大量殺戮にかかわった特殊作戦部隊の隊員や指揮官のうち、神経衰弱になった人はごくわずかしかいない。正気を失わずに任務を遂行した。彼らは家庭では家族思いのやさしい父親だった。大量殺戮は普通の人間が行なったものである。ある状況におかれると、普通の人間も大量殺戮の実行者となりうるのである。
戦後、父親たちは口を閉ざし、自分の行為を妻や子供に説明しなかった。妻もその問題に触れようとはしなかった。
アウシュビッツで医師だったエルンストはメンゲレについて、「彼が行った実験にしても、アウシュビッツにおける通常の任務を基準に考えれば、常軌を逸したものではありませんでした。双子を対象とした実験にしたところで、対象者はいずれにせよ死ぬ運命にあったわけでしょう」と語っています。
エルンストは選別にはかかわらなかったし、裁判で囚人たちが彼の親切で人道的な態度を証言したので無罪となり、医師の仕事を続ける。「夜はぐっすり眠れましたか」という質問にはこのように答えます。
「夢はまったく見ませんでした。私の経験は非常に特殊です。現実にあった恐ろしいこと、人びとの悲惨な運命にうなされることはありません。おかしな話ですが、ああいう事柄には慣れてしまうものです」
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』は、戦争において人を殺すことはどういうことなのかが書かれた本です。
「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する。
大多数の兵士は、自分自身の生命、あるいは仲間の生命を救うためにすら、戦場で敵を殺そうとしなかった。
第二次世界大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵は15%~20%しか敵に向かって発砲していない。第二次世界大戦中に撃墜された敵機の40%近くは、アメリカの戦闘機乗りの1%によって撃墜されたものだった。ほとんどのパイロットは、一機も撃墜しなかったどころか、発砲さえしなかったらしい。
「敵を殺すことをためらうあまり、多くの兵士は闘争という手段を採らず、威嚇、降伏、逃避の道を選ぶのだ」
しかし、そういう状態では戦争に勝てないから、訓練法が開発され、朝鮮戦争では発砲率が55%に、ベトナム戦争では90~95%に上昇した。
ところが、発砲率の上昇は隠れた代償がともなっていた。戦闘が6日間ぶっ通しで続くと、全生残兵98%がなんらかの精神的被害を受けている。
ごくまれな例外を除き、戦闘で殺人に関わった者はすべて罪悪感に苦しみ、重度のトラウマを負うことになった。
ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵は約280万で、ベトナム帰還兵のPTSDの患者は40万人から150万人。一般人とくらべて4倍も離婚率や別居率が高く、ホームレスになった人も多い。自殺率も高まる傾向にある。
「殺人には代償がつきものであり、兵士はみずからの行為を死ぬまで背負ってゆかねばならない」
ただし、人を殺すことに罪悪感を持つのは、相手の顔を見ることができる距離においてである。
敵の顔を見なくてもすむ場合、たとえば飛行機による空襲とか遠方への砲撃だと、こうした罪悪感を持つことはない。原爆を投下した爆撃機の乗務員もそうである。
また、機関銃のように複数で使用する武器の場合も発砲率は100%。
あらゆる人間が罪悪感を持つわけではない。
「98%もの人間が精神に変調をきたす環境、それが戦争なのだ。そして狂気に追い込まれない2%の人間は、戦場に来る前にすでにして正常でない、すなわち生まれついての攻撃的社会病質者らしいというのである。(略)
彼ら(2%の人間)は明らかに殺人に対して常人のもつ抵抗感をもたず、戦闘が長引いても精神的な損傷をこうむることがない」
ジェームズ・ボンドはその2%の1人なのである。
デーヴ・グロスマンは戦争に反対しているわけではありません。戦場から帰った兵士たちに対して国民が暖かく迎え、そして精神的なケアをする必要性を説いているのです。
にもかかわらず、戦争は非人間的な行為を強い、悲惨な結果をもたらすものだということがよくわかります。
デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』は、イラクから帰ってきた兵士たち(自殺した兵士も含む)とその妻たち(夫が戦死した妻も含む)のドキュメンタリーです。
兵士たちが日常にすんなり戻れないこと、精神的なダメージを抱えて苦悩していることを知ったデイヴィッド・フィンケルは、兵士本人、妻子や身内、ペンタゴンの上層部や医療関係者からも聞き取りをおこなった。
200万人のアメリカ人がイラクとアフガニスタンの戦争に派遣され、帰還兵の20%から30%(約50万人)が心身外傷後ストレス障害や外傷性脳損傷(外部から強烈な衝撃を与えられた脳が頭蓋の内側とぶつかり、心理的な障害を引き起こす)を負っている。
彼らは爆弾の破裂による後遺症と、敵兵を殺したことによる精神的打撃によって自尊心を失い、悪夢を見、怒りを抑えきれず、眠れず、薬物やアルコールに依存し、鬱病を発症し、自傷行為に走り、ついには自殺を考えるようになる。そうなったのは自分のせいだ、自分が弱くてもろいからだと思っている。
彼らは弱い人間だと思われたくないし、嫌われたくないので、家族にも戦場での体験や現在の苦悩を打ち明けられない。
毎年、240人以上の帰還兵が自殺しており、自殺未遂はその10倍と言われている。
「イラクで最悪なことのひとつが、明確な前線というものがなかったことだ。360度のあらゆる場所が戦場だった。進むべき前線もなければ軍服姿の敵もおらず、予想できるパターンもなければ安心できる場所もなかった。兵士の中に頭がおかしくなる者が出たのはそのせいだった」
アダム・シューマンは3度目のイラク派遣で心が壊れてしまう。アダムだけでなく、同じ大隊にいた兵士たちは、どこか壊れて帰ってきた。
「ひっきりなしに悪夢を見るし、怒りが爆発する。外に出るたびに、そこにいる全員が何をしているのか気になって仕方がない」
「気が滅入ってどうしようもない。歯が抜け落ちる夢を見る」
「家でくつろいでいると、イラク人が襲撃してくる。そういうふうに現れる。不気味な夢だよ」
「妻が言うには、ぼくは毎晩寝ているときに悲鳴をあげているそうだ」
自殺する兵士を調べると、戦闘に参加していた兵士もいれば、そうでない兵士もいるし、PTSDと診断された兵士もいれば、そうでない兵士もいる。精神衛生の治療を一度も受けていなかった兵士はいるが、半数は治療を受けていた。
20代後半で陸軍に入る者は、自殺に至る確率が20代前半もしくは10代で入る者の3倍だし、繰り返し派兵された兵士は自殺しやすい。
『帰還兵はなぜ自殺するのか』は、帰還兵の自殺という問題をとおして、貧困、依存症、家庭内暴力、虐待など、アメリカの病理を描いているともいえます。
アダムの妻サスキアは、精神衛生事務所でケースマネージャーとして、最低に位置する貧困層にいる、悲惨極まりない女性たちを担当する。レイプされた人、性的虐待を受けてきた人、多重人格の人、重度の精神病の人たちの話を聞き、買い物や病院に連れていくなど、日々の暮らしのサポートをする。
イラクで戦ったのは、大半が貧困家庭出身の若い志願兵で、父親たちも戦争に行っている。
アダムの祖父は第二次世界大戦を体験して酒びたりになり、朝鮮戦争やベトナム戦争でも戦い、25年間家族を虐待した。
アダムは、幼い頃にベビーシッターの少年に性的いたずらを受けた。6歳の時、父親がいきなり殴りはじめ、9歳の時、父親が出ていき、母親は金がなく、家からの立ち退きを迫られ、親類の家に転がりこんだり、車の中で生活したりした。
夫がイラクで戦死したアマンダの父はベトナム帰りのPTSDで、酒飲みの父親は母親と5回離婚し、5回結婚している。兄は14歳の時に家出し、車の事故で死んだ。
サシャの父も祖父も両親の兄弟のほとんども軍人か州兵で、サシャが最初に結婚した男は怒りっぽくて乱暴なイラク帰りの兵士だった。そして、イラクから帰ってからフラッシュバックを起こし、酒を飲んでは大騒ぎし、薬を過剰摂取して自殺を試みたニックと結婚した。
復員軍人の回復施設の所長フレッド・ガスマンの父親は、第二次世界大戦から戻ってきてから、フレッドをベルトで打ちすえるようになった。
次期陸軍医総監の父親は第二次世界大戦で戦い、朝鮮とベトナムでも戦った。彼女は「わたしは父が眠りながら悲鳴をあげるのを毎日聞いています。ですから、ええ、軍医総監として精神衛生を含む問題に特別な関心を寄せています」と言う。
第二次世界大戦では、帰還した兵士はさほどの問題もなく社会に溶け込めたと思っていましたが、罪悪感に苦しみ、重度のトラウマを負っていた兵士は少なくなかったのです。
スタッズ・ターケル『「よい戦争」』は第二次世界大戦についていろんな人にしたインタビューです。
ビクター・トリーは海兵隊員だった。
「1941年に戦争がはじまったとき、私の暮らしはまったくアメリカの夢そのものだったよ。白いくいがきの小さな家、小さな女の子、優しい妻、それに立派な職業だ。29歳で、熱烈な愛国者、好戦派だった。海兵隊に入ったんだよ」
広島に原爆が投下されたときにはサイパン島にいた。
「我われは歓声をあげ、かっさいし、だきあい、とびあがった。たぶん、このいまいましい戦争は終わりになって、我われ日本本土に進攻しないすむってね。みんなそう思ったんだ」
若い中尉から「我われは長崎を占領しに行く」と指示される。
「百年たたなければ誰も入れないといわれてるのに、どうやって長崎を占領するのでありますか」と質問すると、中尉は「海兵隊員、心配することはなにもない。科学者がすでにはいっている。きわめて安全だ」と答える。
9月23日に長崎の港に入り、次の日、長崎の街を見に行く。
「墓場にはいりこんだようだった。完全に静まりかえっている。あたりは、死のような臭いがする。ひどい匂いなのさ」
ある日、合州国科学探検隊と船側に書いてある船が入ってくる。
「おれたち二週間ほどここにいたことになるじゃないか。いまごろになってこの科学部隊を送ってきやがって。安全かどうかを調べようってんだぜ。おれたちはたぶん子どもができないってわけさ」
みんなで冗談を言い合って笑った。
深刻に考えたことはなかった。
しかし、口には出さなかったが、心のどこかでだれもが気にしていた。
この原子爆弾は何をしたのか。
「ある日相棒たちからはぐれてしまったことがある。見知らぬ街にひとり。敵兵だよ、私は。ちいさな日本人の子どもたちが道で遊んでいる。アメリカ人の子どもたちとまったく同じように遊んでるんだが、私はオーイといって手を振ったんだ。こっちをみると、海兵隊だろ。みんな逃げる。ひとりだけ逃げない子がいて、私はその子に近づく。英語がわからない。私も日本語がわからない。しかし、なんとなく通じるんだ。基地に帰ろうとしてるんだということを伝えようとする。彼が、ワイフが私に送ってくれたこのブレスレットに目をつけるんだ。
なかには、娘ふたりとワイフの写真があるんだ。彼はそれを見て指さすので、私はそれをあけて写真を見せる。彼の顔が輝いて、とびはねるんだよ。自分の住んでいる二階のほうを指さして、「シスター、シスター」というんだ。身ぶりで姉さんが腹ぼてだっていうのさ。
このちびさんが家にかけあがっていって、父さんをつれておりてくる。たいへんいい感じの日本の紳士だ。英語が話せる。おじぎをして「おあがりになって、お茶でもごいっしょにできれば光栄です」というんだ。それで、この見ず知らずの日本の家にあがりこんだんだよ。炉だなみたいなところに若い日本兵の写真があるので、「息子さんですか」ってきいてみた。「これは娘の夫で、生きているかどうかわからない。何も聞いていないのです」というんだ。
彼がそういった瞬間、私たちと同じように日本人も苦しむんだってことがわかりはじめたんだ。彼らは息子たち、娘たち、親類を失ってるんだ、彼らも苦しむんだってね。
日本人には軽蔑しかなかったんだよ。日本人が残酷だっていう話ばかり聞いてね。私たちは日本人を殺す訓練をうけた。敵なんだ。パールハーバーで連中がしたことを見ろ。しかけたのは連中だ。だからこらしめてやるんだ。この男の子と家族にあうまでは、それが私の気持だったんだよ。姉さんがでてきて、おじぎをする。ものすごく大きな腹をしてる。あの瞬間を私は忘れないよ」
ビクター・トリーは広島長崎復員兵委員会に加わる。
異常に多くの復員兵が、癌、白血病、多発性骨髄腫、その他の血液の病気などにかかっていることがわかる。
「私は政府を信じてた。ルーズベルトのいうことは何でも、神にかけて――いやルーズベルトが神様だったけどね――信じたのさ。(略)いまじゃ、私は疑うことができる。政府を疑っているんだよ。アメリカ人はみんなそうするべきだ。(略)
大統領だろうが誰がなんといおうがだめだよ。私は自分で考えなけりゃならないんだ。そして、みたものは、みたんだ。
私たちは、あのふたつの原爆を軍事施設に落としたんじゃない。私たちは、女たち子どもたちの上に落としたんだ。私がとんだりはねたり、相棒とだきあって、得意になってたその瞬間に、道路に幼い赤んぼがころがっていて、黒こげに、焼かれて、生き残るチャンスがない。七万五千人の人間がいて、生きて、呼吸して、食べて、生きたがっていた。それが一瞬にして黒こげにされてしまった。これはアメリカが永遠に背負わなければならないものだ、と私は思う」
それに対して日本軍の元兵士に尋ねた野田正彰『戦争と罪責』を読むと、どうも日本人はあまり罪の意識を持たないようです。ベトナム戦争では多くのアメリカ軍兵士が戦争神経症になったのですが、日本人で戦争のためにノイローゼになった人は少ないそうです。
池田俊彦『その後の二・二六』は二・二六事件に加わった元将校が書いたものです。正しいと思ってしたことであっても、結果として大きな誤りだったわけで、その責任をどう受け止めているか興味があったのですが、失望しました。自分たちのしたことが分かっていないようなのです。
辺見庸『1937(イクミナ)』に、辺見庸さんの父は復員してから、妻や子供をよく殴っていたとあります。
「かれはすでに(少なくとも部分的には)死んでいた」
母親は「あのひとはすっかり変わってかえってきた」と言ったそうです。
イラクに派遣された自衛隊員も、イラクから帰還後に28人が自殺し、PTSDによる睡眠障害、ストレス障害に苦しむ隊員は1割から3割にのぼるとされるそうです。非戦闘地帯にいてもこの状態です。
安保法案によって戦争のできる国になった日本でも、心が壊れて戦場から帰ってくる兵士が増えることは間違いありません。
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