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細川 巌先生 |
『正信偈讃仰』 |
本当の人というのは、人の悪口を言わない。これは間違いありません。
人は、私はどうしたらいいんでしょうかと、いつもそれを問うている。
私はどうしたらいいんでしょうか、と問うかぎり、答えはないんですよ。
信心とは自分が本当にわかること。
こういうていたらくの私、これではいけない、もうちょっと立派にならなきゃならない、もう少しきれいにしなければ、これだけはなくさなければいかん、というような煩わしいはからいが捨たっていったところを信心というのである。
人間が殻を破って出ることを覚者となると言い、仏となると言う。
これではいけないと、あなたがあなたの心を心配している。そこには如来が無視されている。あなたは如来を無視しているのだ。
赤ん坊がおしめを汚した。これではいけない、私が洗濯しなければならない。これは親を無視しているのである。親がどんな不始末も迎えとってくれる。そういうことがわからない。
それを誹謗正法という。
信は心を澄み、浄らかにするはたらきをもったもの、それを信と言うている。これは仏心をいう。仏心こそが人間の煩悩を明らかに知らせて、それを浄化していくのである。
信仰と信心は違う。信仰というのは人間が信用し、仰ぐ、人間のはたらきを言っている。したがってその中には、はからいが入り、いろいろな煩悩が入りうる。信仰というのは幸せを得たい、願い事が叶うように、苦しみをとってもらいたい、そういう願いで信仰に入る。
深く自己を知る。自己に目が覚める。それが機の深信。そして、仰ぎ見る世界を持つ。それが法の深信。
機の深信は深い懺悔であり、悲しみです。法の深信は感謝であり、喜びです。
他力のはじめは自力である。がんばって、がんばって、やらなきゃならない段階がある。
一生造悪の自己とわかることが大事。如来はそれを待っておられる。それが私の責任。
問題は常にある。問題は常に内にある。問題は自己にある。
それがわかることが仏法に入る門である。
私に問題がある。この私にどんな問題でも受けとめる力ができれば、どんな矛盾も念仏になってゆく。
南無阿弥陀仏が私に届くためには、南無阿弥陀仏を伝え、南無阿弥陀仏を喜び、それを私に教えてくれる人、そういう人が必要なのである。
南無阿弥陀仏も口コミなんです。
私は周囲に引きずられ、ぶら下がり、流行に流されて生きている。その私が照らされて、「われわれ」から「わが身」がはじめて出てくる。
南無阿弥陀仏によって人は最終的に独立する。それは照らされて、照らされて、そこに自己を教えられるからである。自己を発見できるからである。
凡夫でなければ本当の独立者ではない。凡夫でなければ、「われわれ」の中に帰ってきて、「われわれ」を引っぱっていくことができない。
念仏は呼応だ。呼びかけに対する応答だ。呼びかけに対する私の答えなんだ。南無阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏である。
南無阿弥陀仏が私にとどいて信心になり、南無阿弥陀仏と念仏して出ていく。だから念仏と離れた信心はない。
出発点は聞にある。信ずる必要はない。信ずるということは要求されない。ただ聞いていくことだけが求められている。
信心というのは何かを信ずることであると思うが、そうではない。目覚めである。この目覚めが深まっていくのである。
信心ができたということはわかるものなのか。わかるとしたら、どうしたらわかるか。そうですね。わからないものです。それがわからないのでは目的達成したかどうかわからないではないか。そのとおり。信心を獲たかどうかわからないが、だんだんとわかってくるものがある。教えがだんだんとわかってきて、それに順っていこうという力がだんだんと深くなってくる。
ご恩というものを思わない。だから、自分でやったという思いしかない。
絶対というのは、如来の中に私がいる。如来と私が並んでいるのではない。大きなものの中に小さなものが生かされており、大きなものの内容として小さなものが生きている。 |
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