真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ


  法事について

 死んだらホトケとよく言います。しかし、私たちは亡くなられた方を本当に仏さまだと思っているでしょうか。仏さまであるならば、私たちを教え導いてくださいます。仏さまがどこかで迷うということはありませんし、ましてや祟るということなどあり得ません。ところが実際はどうでしょうか。亡くなられた方がどこかで迷っていやしないかという気持ちはありませんか。

 たとえば友引です。友引とはともに引く、つまり引き分けという意味で、その日は吉でも凶でもないということなんだそうです。ところが、誰かが友を引くと間違って読んでしまい、友引に葬式をしたら続けて誰かが死ぬという迷信が生まれたわけです。
 友引に葬式をしなければ誰も死なないというのなら結構な話ですが、実際は毎日多くの方が亡くなっています。当たり前のことですが、友引に葬式をすることと人が亡くなることとは無関係です。このように無関係なものをひっつけて、いいとか悪いとか言うのが迷信です。

 子供のころ「明日天気になれ」と言いながら靴をとばして、靴が上を向いたら晴れ、下を向いたら雨ということをやってました。子供のころはこの天気予報を信じていたと思います。けれども大人になれば、靴がどっちを向こうが明日の天気とは無関係だと知っています。
 迷信も道理に気がつけば、なあんだとなるはずです。ところが気になるんですね。どうしてそうなるんですかと聞いたら、「よくわからないけど、みんながそうするんだから、みんながすることはしたほうがいいんじゃないか」とか「昔からしているんだから」と言われます。迷信は道理にかなっていませんから答えようがないわけです。それなのに私たちの迷いが深いものですから、それは迷信だ、そんなことは馬鹿らしいと思いながらも気になるわけです。

 あるいは、四十九日を三月にかけてしたらよくないことがある、ということを気にする人も多いですね。これは「始終苦が身につく(四十九が三に月)」という言葉の語呂合わせにすぎません。
 仮に三月にかけて法事をして、何かよくないことがあったとしましょう。「やっぱり」と思いますか。それじゃ、よくないことをしたのは一体何なんでしょうか。それは亡くなった方が、ということになります。亡くなられた方が、「こいつら法事の仕方がけしからん」というので、子供や孫によくないことをするという理屈になります。

 墓相もそうです。墓の向きとか石の組み方がどうのこうのと言うわけですが、花崗岩が何かするわけはありませんから、お墓に入っているお骨、つまり父や母、ご先祖が、「最近、墓参りに来ない。けしからん。ひとつ懲らしめてやろう」というので、長男を若死にさせたり、仕事を失敗させたりするということになります。
 お子さんやお孫さんにそういうことをしますか。逆じゃないでしょうか。最近、顔を見せないが何かあったんじゃないだろうかと心配になることはあっても、罰が当たればいいなどとは思わないでしょう。

 新興宗教のほとんどは先祖を大切にしなさいと、先祖供養を勧めます。先祖を大切にしたらいいことがありますよ、しかし先祖を粗末にしたらよくないことがあります、だから先祖を大切にしましょう、と説いています。
 つまり、よくないことは先祖のせいなんだというわけです。自分が責任を負うべきことなのに人に責任をなすりつけているわけです。そして、自分が幸せになるための手段として先祖を大切にしましょうというわけです。都合の悪いことは人のせいにして、自分の幸せのためならなんでも利用する、こうした気持ちで先祖供養をすることがはたして先祖を大切にすることになるでしょうか。

 私たちは、自分の思い通りになるのが当然なんだという気持ちがどこかにあります。だから、何かよくないことがあると、これはおかしい、何か間違っているんだというふうに思ってしまいます。それで法事の仕方であるとか、墓だとか、そういったことを気にするわけです。
 しかし言うまでもないことですが、人生、いいこともあれば悪いこともあります。人生万事、塞翁が馬ということわざがあるように、いいことも条件が変われば悪いことになります。いつもいいことばかりの人生なんてあり得ません。

 それは頭ではわかっていても、思う通りにしたい、よくないことがあるのはおかしい、そういう気持ちはなくなりません。それで悩まなくてもいいことを自分で作り上げては、自分で悩んでしまいます。それは私たちが愚かだからです。

 私たちは亡くなられた方が仏さまとは思っていません。死んだら霊魂になると思っています。霊魂は迷いますし、祟ります。それで迷わないように、どこかいいところに行ってもらわなくてはと考えるわけです。特に、突然亡くなった方や不慮の事故で亡くなられた人は思いを残して亡くなった、と私たちは思い、余計にどうなんだろうかと心配になります。

 出棺の時にお茶碗を割ったり、棺桶を二、三回ぐるっと回したりすることがあるそうです。お茶碗を割るのは、あなたが使っていたお茶碗はもうないから、帰ってきても居場所はありませんよ、だから帰ってきたらだめですよということです。棺桶を回すのは方向感覚を狂わせて戻ってこれないようにするためです。まるで子供だましです。

 もちろん、こういういわれがあることを知らずにされているんでしょう。しかし、亡くなった方は霊魂となって迷っていはすまいかという不安が私の中にありますから、そういう都合の悪いものはどこか私とは無関係なところに行ってもらいたいという思いが、私たちの心のどこかにあることも事実です。

 しかし、迷っているのは亡くなられた方ではなくて、私のほうです。私が迷っているから、亡くなった方が迷っていると思いこんでいるにすぎません。たとえて言いますと、逆さになってものを見ると、世界が逆さに見えます。しかし逆さなのは自分のほうで、世界ではありません。ところが自分が逆さであることがわかっていないと、自分はまともだけど、世界がおかしいと思い込みます。けれども、自分が逆さであったことに気づいたら、自分のほうがおかしかったんだということに初めて目覚めることができます。

 私が迷っていたことに目覚めたら、亡くなられた方は迷ってなんかいず、実は仏さまだったんだとうなずけるでしょう。そして、仏となられた亡くなられた方が私に対して、どうか迷いから覚めてほしいという願いをかけられていた、それにもかかわらず仏さまのそうした願いに今まで背いていたことに、頭が下がってくるはずです。
 このように、亡くなられた方の願いを聞くことによって、仏さまの教えに出会い、私の迷いを教えられる、これが法事の意義であろうかと思います。