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  市場 恵子さん
    「親と子どもの心に寄り添うために」

                                 
 2007年1月31日

 岡山から来ました市場といいます。広島大学・岡山理科大学などで非常勤講師をしたり、昨年から週1回広島大学の霞キャンパスの「ハラスメント相談室」で専門相談員をしています。セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)や、パワハラ(パワー・ハラスメント:上司や先生からのイジメ)、アカハラ(アカデミック・ハラスメント:研究の妨害)などの被害を受けた人のための相談室です。さらに、岡山では女性や子どもの人権を守るための活動に携わったり、岡山市男女共同参画社会推進センターで心理専門相談員をしています。センターでの相談内容はほとんどがDV、つまり配偶者による暴力です。

 今日は「親と子どもの心に寄り添うために」というテーマで、子どもと親をめぐるお話をさせていただきたいと思っています。
 人と人とがつながる、人が人を理解していく、人が人に寄り添っていく、という時に、何より大切なことは相手の「話を聴く」ということだろうと思うんですね。お説教をしたり、何か言ってあげようというよりは、まずそこにいる人が何を感じたり、考えているかに耳を傾け、じっくりと聴いていく。
 「話をきく」というとき、どういう漢字があるでしょうか? まずは「聞く」ですね。他には、傾聴、静聴の「聴く」、そして訊問の「訊く」。

 この三つの漢字の違いを説明すると、「聞く」は門を構えて、その後ろで小さい耳で聞いているという感じですね。たとえば、「ねえねえ、お母さん」と子どもが語りかけても、「うんうん」と生返事で聞いて、心ここにあらず。声は聞いているけど、内容を覚えていない。または、こちら側の思い込みで勝手に決めつけて聞くということもあります。同じく相手は「聞いてもらえていない」という気持ちが残るでしょうね。
 「訊く」は質問攻めにする、相手を信じず、責めたり、問いつめたり、追い込んでいく、という聞き方。
 「聴く」は耳を澄まして聞く。全身を耳にして、相手に関心を寄せ、暖かいまなざしを注ぎながら、ありのままを受け入れながら肯定的に聞いていく。
 たとえば、罪を犯したり、失敗をしてしまった人を責め、「何でこんなことをしたんだ」と訊くのは訊問です。けれども、どんな理由があってこうなってしまったのか、どういう気持ちからこういうことをしてしまったのかと、行動のもとをたどっていけば、その人なりの事情なり、気持ちがあるはずです。それを聴いていかないかぎり、人を理解することは難しい。
 ある人が問題を抱えているとします。問題を解決するために、何ができるか、一緒に考え、支援していくためには、「訊く」や「聞く」ではなく、心に寄り添い、理解・共感していく「聴き方」が大切です。
 逆の立場で考えてみましょう。自分自身がつらい時、困っている時、どんな人に話を聞いてほしいでしょうか。訊問するような人は選ばない。「心ここにあらず」という人にも話を聞いてもらいたいとは思わない。黙って話を聞いてくれ、自分をありのまま受け止め、理解しようとしてくれる人を選ぶでしょう。
 途中で話の腰を折ったり、説教したり、批判したりするのではなく、最後まで黙って真剣に聴いてくれ、肯定的に受け止めてくれる人がいれば、問題の半分以上が解決することが多いんです。

 十数年前、私と夫の間でこういうことがありました。夫は当時、大学病院で小児科の医師をしていました。3分間診療とまでは言わないけれど、次々と来られる患者さんの話を聞くのが仕事なわけです。患者さんの話を聞いて適切な診断をし、薬を処方したり、看護師さんに指示して次の治療を決めていく。
 診療の場では、どちらかといえば、聞き方が「訊く」に近いものになると思うんですね。または、「ああしなさい」「こうしなさい」と指示を出すような話し方になる。

 それが習い性になっているのか、家に帰っても、私や子どもたちの話もそういう聞き方になってしまう。そうすると、私たちはたまったもんじゃないわけですね。
 たとえば私が、「今日、こんなことがあったのよ」と夫に話し始めます。ところが、夫は3分も聞かない。「わかった」と途中で話を切り、「相手が悪い」と切り捨ててしまうか、「こうすればよかったのに」とか「こうすべきだ」と頼みもしないアドバイスをして、私の話を終えてしまおうとするわけですね。
 私が、「ちょっと待って。まだ話の途中よ。最後まで聞いてから言ってくれない?」と言うと、夫は「ただ黙って聞いているだけじゃ、君のためにならんだろう」と言うのです。
 仲のいい友だちに話を聞いてもらうと、アドバイスなんかしてくれなくても、話すだけで気持ちが軽くなって、「そうだ、こうすればいい」「こうしよう」など、自分の中から答えが出てきます。
 私はアドバイスがほしくて話しているのではなくて、自分の抱えている状況や気持ちを夫にも共有してもらいたかっただけです。そう伝えたら、今度は夫がこう言うのです。「それじゃ女の人の聞き方と一緒だろ?」
 女同士の会話は、ただ「ふ~ん」「そう」「それで」などと言いながら延々と話が続いていきますね。そばで聞いていると無駄話、時間つぶしのように感じられて、歯がゆいのでしょう。それを観察していた夫には、「そんな聞き方では君の役に立たないだろう」と思えたのでしょうね。
 「しばらくの間、うちに来る女友だちが人の話をどんなふうに聞いているか学んでほしい。そしてできれば真似をしてみてほしい。それが何よりも私にとっては安心できる聞き手なのだから。家では職場のやり方は捨てて、人の話にただ耳を傾けてほしい。話を十分に聴いてもらった後、私がアドバイスを望めばアドバイスをしてね。でも、望まないときは、まず気持ちに寄り添うことをしてほしい」と頼みました。

 私たち夫婦には子どもが四人います。現在は33歳、31歳、27歳、25歳になりましたが、二十年前に、当時、上の子がちょうど思春期に差しかかっていました。
 それまでは四人兄弟みんなでワイワイやっていたのが、自立の兆しでしょうか、反抗を始め、親から遠ざかり始めました。たとえば、旅行に行こうと誘っても、「私は家に残りたい」と拒むようになりました。
 長女は自我が強く、何でも自分で考え、自分で決めて行動する子でしたから、父親に対しても、いやなことははっきりと「いや」と言って、頑として聞きません。それに、思春期の娘特有の性的嫌悪感が父親に向けられるようになって、寄るな、触るな、あっちへ行け!みたいな拒否が始まりました。

 夫は娘との距離が遠くなって寂しいものですから、距離を狭めようとして、むしろいらない口を出してしまい、ますます煙たがられる存在になっていくんですね。
 たとえば、子どもたちがコタツに入ってテレビを見ている時に、夫が帰ってきます。すると、何となく居間のムードが変わるのです。夫は子どもたちに、「勉強はすんだか?」「早く風呂に入れ!」「テレビを切って二階に上がれ!」と、指示・命令を始めるんですね。
 「ただいま。みんな元気だったか?」と言われるのならまだしも、帰ってきた途端にがみがみ言われるのですから、たまりませんよね。
 夫は「君が言わないから、僕が言わざるをえなくなる。君がちゃんと勉強させれば、僕は何も言わないですむ」と言うんですね。私は「勉強は学校でしているんだから、家ではのんびりさせてやりたい。家に帰ってまで勉強しろじゃ、学校と同じじゃないの」と答えました。

 次の日から、夫は「勉強しろ」とは言わなくなりました。でも、言葉に出さなくても空気で伝わってくるものがある。子どもと一緒に居間にいるんだけど、決して子どもたちを受け入れていないことがわかる。父親の存在は子どもにとって次第にうっとうしいものになっていくんですね。
 私は思いあまって、「ねえねえ、勉強しろと言わなくなったのはいいけれど、無言のうちにトゲが出ているのもつらいものよ」と言ったら、「じゃ、僕にどうしろと言うんだ」と怒る。「まずは、子どもたちをありのまま受け止め、みんなと一緒にいることが楽しいって気持ちでそこにいてほしい」と頼みました。

 そんな葛藤を繰り返しながら、夫も悩みながら大切なことに気づいていってくれました。だんだんと人の話が聞けるようになったんですね。医者としての態度も変わってきたのか、患者さんがいろんなことを話してくださるようになったそうです。
 診療の中で、病気や障害をもつ子どもたちの親の話に耳を傾けていると、大切なことが語られることにきづいたんですね。

 ある日、長年つきあってきた患者さんのおばあちゃんがこんなことを話してくださったそうです。
「昨日、町内で寄り合いがあって寒い中出かけて行ったんですね。私が家に帰っても、上の子どもたちは何も言わずにテレビを見てました。ところが、障害のあるこの子が『おばあちゃん、寒かったでしょ。早くおこたに入って暖まって』と言ってくれたんです。今まで私はこの子のために長生きをしてやらなくちゃいけない、元気でいてやらなければ、と思っていました。だけど、実際はこの子が私を支え、助けてくれていたんだなと気づきました」と。

 3分間診療だったら、長年つき合っていてもそんな話は聴けないかもしれません。ところが、医者が心の余裕をもって、「最近どうですか?」と尋ねれば、患者さんも心を開いて素敵な話をしてくださるんですね。
 私たちは聞いているようで、実は聞いていない。そして何よりも、相手が聞いてほしいようには聞けていないということが多い。そこで微妙に心がすれ違うと、「もういいや、この人には話したくない」と、心が離れていくんじゃないかなあと思います。
 レジュメを作ってきましたので、それに従って話をしていきます。

  1、自己肯定感・自尊感情

 自分のことをどれくらい大切に思えるか。自分のことをどれくらい好きでいられるか。そういう感情は日々変わりますよね。いやなことがあった日、いじめられたりした時には、自尊感情が下がります。いくらがんばっても成功せず、「自分はだめだ」と思ったりすることもあります。
 でも、失敗したり、批判された時でも、身近な誰かが「あなたはあなたのままでいいんだよ」と認めてくれたら、救われる。「そのままのあなたが大好きだから応援してるよ」と、ありのままの自分を受け入れ、肯定してくれる人がいたら、どんなにつらい時でも乗り越えられる。

 奈良県のある町で、両親ともに医者の家庭で育った高校1年の息子さんが、父親を憎み、「人生をリセットしたい」と自宅に放火して、お母さんと小さい弟妹を焼き殺してしまうという事件が起きました。事件を起こした少年は、小学校時代から成績優秀、スポーツも得意、性格も明るい人気者。小学校の卒業文集では、医師である父親にあこがれ、自分も大きくなったら医者になりたいと語り、近所の評判によれば、家族仲は良く、少年も行儀の良い好青年と見られていたそうです。しかし、勉強ができるとか、問題行動を起こさないからといって、自尊感情や自己肯定感が高いというわけではないですよね。

 「いい子のパラドックス」といいますか、外から見ればいい子かもしれない。でも内面は、すごく寂しく、自分自身にOKと言ってやれない。欲求不満や孤独感をためていたり、フワフワした実存感というか、生きている実感がない。そういう子たちが事件を起こす時代になったんだなあと思います。

 自尊感情とか自己肯定感って何でしょう。心がホカホカと暖かく保たれている、心にしっかり空気が入っている、心に栄養が行き届いている、という物差しで考えてみたいと思います。
 おとなだって同じです。皆さんのまわりにもいらっしゃいませんか。にこにこしながら、「わたしもOK、あなたもOK」と、平和な心や関係を保っているような人。子どもたちの中にも、この子は自分を持っていて、心が安定しているなあ、という子がいますよね。

 そういう視点で見ると、事件を起こすような子どもたちは冷やっとした心や、しぼんだ心や、栄養不足の心になっていて、それがいろんな問題行動に結びついたのではないかと思えることがあります。
 心に空気が入っているか。心の温度は保たれているか。心に栄養がとれているか。これはイメージなんですけど、大切な感覚です。
 たとえば、身体が凍えそうな時は、暖かい上着を羽織ったり、ストーブにあたろうとしますよね。ところが、心は寒くても気づきにくいから、周囲も放置するし、手当てが遅れます。

 「勉強ができるからいい」「問題行動を起こしていないからいい」というふうに、外から見えるものだけで判断し、心をなおざりにしてはいけないと思います。特に、バブルのころから金がすべてという価値観が内面化され、子どもの心に深い被害をもたらしていると感じています。

  2、話を聴く(アクティブ・リスニング)

 さて、人の話を肯定的に聴くということが、何よりの援助になると申し上げました。だれだって、仲良くしていた人に意地悪されたらつらいでしょ。陰口を言われていたことが後からわかったりしたら、どんどん心の温度が下がっていき、自己肯定感が低下します。
 そういう時には、誰かに話を聴いてもらいたい。もしも、相手が「あなたも悪いからそういう目に遭ったんだよ」と言ったらどんな気持ちになりますか。そんな人のところには話しに行きたくないですよね。
 「自分だってパーフェクトじゃないけど」と思いながら話しているのに、「あなたも悪い」と責められたら、因幡の白ウサギが毛をむしられてヒリヒリ痛いところに塩を塗られるようなものです。そんな時こそ、「蒲の穂に身をくるめてしばらく休みなさい」と言ってくれる人に話を聴いてほしいのです。

 「話の聴き方」ですが、今日は皆さんに練習をしていただきます。二人一組になってください。一人が2分間話すのを、もう一人は口をはさまずに傾聴します。2分過ぎたら、今度は交代します。
 最初に、聞く人が「最近どうですか」と尋ねて、あとは相手が話すのを聴くだけです。温かい眼差しを向け、相槌をうったり、うなずいたりして、心を寄り添わせながら真剣に聴いてください。こういうやり方を「アクティブ・リスニング(能動的傾聴)」と言います。聴くことは受け身に見えて、実はとても能動的な行為なんです。では始めてください。

(話が終わる)

 皆さんいかがでしたか。時間が足りなかったでしょうか?今日はわずか2分間ずつで、ごめんなさい。
 話を聴くことは根気のいることですが、たとえ2分間でもじっくり真剣に聴いてもらえれば、本当にうれしいですよね。普段、誰にも言えないと思っていることも、心を開いて話してみようという勇気が出てくる。
 悩んでいる人は、なかなか心を開きにくい。話すかどうか迷ったりしています。ですから、決して急かしたり、話の腰を折ったりしないこと。それから、絶対に責めない。尊重する。
 「安全」ルールを守って、傾聴する。秘密を守る。ルールを守って話を聴き合えば、お互いに心を開いて近づくことができる。人と人とが出会い、つながるという喜びを得ることができます。

  3、エモーショナル・リテラシー(感情を理解し、適切に表現する能力)

 エモーショナルというのは感情、気持ち、情動という意味です。リテラシーは読み書き能力、読解力です。つまり、感情を理解し、そして適切に表現する能力がエモーショナル・リテラシーということです。
 では、感情とはどんなものなのかということで、4つにまとめてみました。

①感情にいい・悪いはない
 たとえば、腹が立つ・くやしい・ねたましい・イライラする・ムカツク、こういう感情は抱えているとしんどくなります。だから、私たちはそれを「いい感情」ではないと思い違いをしています。しかし実は、「感情にいい・悪いはない」のです。どんな感情も自分の身体からやってくる正直なサインです。
 自分という存在が大切にされていたら、うれしい・幸せ・好き・わくわく、という気持ちになりますし、自分の存在が何らかの形で痛めつけられていたり、危ない状態になっていると、恐い・悲しい・傷つく・助けて、という気持ちになります。その気持ちをためていくと、時には怒りになっていくし、憎しみにだって変わってしまいます。
 感情にいい・悪いはないんだということがまず一つです。どんな感情も「あなたを大切にして」ということを教えてくれるサインだし、感情はそこに生じている、ただそれだけのことです。その後の処理を誤ると困りますが・・・。

②人はどんな感情も持つ
 人間ですから、いつも仏さまのような気持ちになれるわけではないですね。いやだ・嫌いだ・お前なんかあっち行け、という気持ちにもなるでしょう。人はどんな感情でも持つのです。仏さまのような人だって、憎しみで心がかき乱されることだってあるのです。

③感情は抑圧してもなくならない
 そういう気持ちはどんなに押し殺してもなくなりません。記憶のすみずみにたまっていきます。そうやってため込まれたものが、いつか爆発することだって起きます。いろんな犯罪はため込まれた感情が、反社会的な形で外へ爆発するという形で表れたようなものです。

④言葉にして表現し受けとめてもらうことでセルフコントロールができる
 では、ため込まないで、どうしたらいいのか。言葉にして表現し、誰かに受け止めてもらうことが必要です。話すことでセルフコントロールができ、知恵がはたらくようになるのです。
 むかついたり、腹が立ったり、つらいなという気持ちはため込まず、できるだけ早く、安心して話せる人に聞いてもらうことで、理性的な行動を引き起こすことが可能になってくるのです。
 たとえば、みなさん、誰かを大嫌いになったり、怨んだり、「あんな奴、いなくなればいいのに」と思ったこともあるでしょう。でも、だからといってその人を殺しはしなかったでしょ。冷たくしたり、いじわるをしたことはあるかもしれないけれど(笑)。
 そういう時にこそ、誰かに気持ちを聞いてもらえば、「ああそうか。相手もしんどいんだろうな」とか、「何か問題を抱えているから、こんなことをしたんだろうな」とか、「勇気を出して“やめて”と言ってみよう」と思えるようになります。
 つまり、平和な方法を選ぶことができるわけです。足を引っ張ったり、無視したりしなくても、違う形で自分の知恵を生かすことができるわけです。

 エモーショナル・リテラシーについて、「切れる子ども」「暴力の連鎖」「ヒトラー」というキーワードで考えてみましょう。
 「切れる」というのは、誰にも受け止めてもらえないで、つらい気持ちやいやな気持ちをため込んで、それが爆発した時の行為でしょう。

 「暴力の連鎖」とは、いじめられた人が相手に直接返さないで、弱い人に向けていく。たとえば、親にどうしても受け入れられなかった人が、みんながみんなそうなるわけじゃないけど、自分が親になった時に、子どもに対して自分がされていたことと同じことをしてしまう。あるいは、いじめられた人が、今度はより弱い人をいじめる側にまわるとかね。
 暴力の被害者が加害者に転化していく心理の中には、気持ちを誰にもわかってもらえなかった、助けてもらえなかったという欲求不満や怒りがあると思います。その怒りがまちがった形でより弱い人に向けられてしまうのですね。

 アリス・ミラーの『魂の殺人』という本がありまして、「親は子どもに何をしたのか」という副題がついていますが、親が子どものためにと思ってやっていることでも、子どもの側ではそれが支配や抑圧として受け止められ、心の傷として刻まれる。その傷が癒されないままおとなになって、いろんな問題を引き起こすということが書いてあります。

 アリス・ミラーは子どものころヒトラーを見かけたことがあって、彼が子ども時代の怒りと攻撃性を溜めて成人した人であることを直感したのだそうです。ヒトラーの生育歴を調べたところ、お父さんは厳格な軍人で、ヒトラーを叱咤激励して育てていました。体罰はもちろんのこと、身体的な虐待や暴言。厳しいお父さんにしつけられたヒトラーは弱音を吐けなかった。お母さんに助けを求めても、お母さんは彼を見殺しにした。さらに、意地悪な叔母さんも同居していて、陰湿なやり方で彼をいじめた。
 ヒトラーには安心して自分の気持ちを打ち明ける人が家の中にはいなかったわけです。もし、ヒトラーのまわりに誰か一人でもヒトラーの気持ちをわかってやり、手を差し伸べてくれる人がいたら、ああいうことにはならなかっただろうというのが、アリス・ミラーの考えです。

 いじめられたり、暴力を受けた人が必ず暴力をふるう人になるわけではありません。多くの人はそうならない。じゃ、暴力をくり返す人と、暴力を自分のところでとめる人との大きな違いは何か。
 誰か一人でもいい、その子を愛してくれる人、その子のことをわかって手を差し伸べてくれるいたら、暴力をくり返さないですむということがわかってきたんです。それは身近な誰かでもいいし、身近ではない誰かでもかまわないのです。
 その子に人間的な愛情を注いでやったり、話に耳を傾けて聴いてくれる人が一人でもいたら、暴力はとめられるのです。

  4、気持ちと向き合う

 「気持ちと向き合う」ということで十項目あげてみました。これは八巻香織さんの『こじれない人間関係のおけいこ』という本で紹介されています。

①「かなしい」は大切なものを失ったときの気持ち
 誰だって大切にしていた、たとえばペットや友達や、あるいは子どもを失ったり、何かを壊されたりした時の気持ちは「かなしい」です。

②「はずかしい」は私の存在を慈しむ気持ち
 私を大切だと思うから恥ずかしくなるのですね。

③「さみしい」は人を求める気持ち
 さみしい時は人の声を聞きたくなったり、誰かのそばにいたくなりますよね。

④「しんどい」は私の無理を知らせる気持ち

⑤「たのしい」は私を温かく楽にする気持ち

⑥「こわい」は自分を安全に守る気持ち

 「こわい」という感情だって個人差があります。高いところが平気な人がいれば、高所恐怖症の人もいます。「こわい」という感情はその人独自のもので、自分の身を守りたいと思う時に生じる感情であれば、誰も馬鹿にはできません。とても大事な感情です。

⑦「すき」は人や物事に関わっていく気持ち
 好きだから近づきたい、いつも一緒にいたい、と思いますね。

⑧「緊張(ドキドキ)」は力を十分出せるよう応援する気持ち
 人前でドキドキする人は、あがっているのかなと思うかもしれないけど、応援団の太鼓のドンドンという音だと思えば、気持ちも変わってきます。

⑨「きらい(いやだ)」は人や物事と適切な距離をとる気持ち
 親子・夫婦・親友の間でも、いやだ・嫌いだという感情は自然に起きるはずです。それは「ちょっと距離を取りなさい」と教えてくれているのです。距離が近すぎてそういう感情が出ているのですから、しばらくの間、適度な距離を取りさえすれば、また収まって、好きという感情が回復してくることもあります。あるいは、距離を取ってさえいれば、自分も相手も傷つけずにすみます。
 親を殺した少年たちに逃げ場があったらよかったのに、殺すぐらいだったら家出してでもいいから、しばらく親から離れて、自分を取り戻す時間を作れたらよかったのにと思います。
 相手との距離をとって、冷静になれば、何をすべきか知恵もはたらくようになります。

⑩「不安」は期待の大きさと釣り合う気持ち
 不安になったとき、それは期待の裏返しなのだと思えば、期待値を下げて不安に対処することもできそうです。
 さて、こんなふうに自分の気持ちをそのまま認める、少なくとも自分が自分の感情を抑圧せずに肯定的に認めてあげることが大切で、その作業は自己肯定感、自尊感情を高めます。
 自分の中に生じている感情なのに、「何で私はこんないやなことを思っているんだろう」と考えると不幸になりますよね。そういう感情に圧倒され続けて、他のことが考えられなくなっている状態は不幸ですね。そういう時こそ誰かに話を聞いてもらって、感情を外に出したほうがいいのです。
 ものを食べれば排出します、うんちやおしっことして。それと同じように、感情もためてはいけない。消化しにくいと感じられても、人に話しながら少しずつ噛み砕いて、自分のものにしていけば、取り扱いがやさしくなります。ためると、取り扱いが難しい感情に変質してしまいます。

  5.怒りの取り扱い方

 第一次的な感情と、後からやってくる二次的な感情と分ければ、怒りは二次的な感情です。最初から「あの野郎!」と思うわけではないのです。つらい・傷ついた・いやだというのが原初的な感情だとすれば、それをため込んでややこしくしていくと、どんどんたまっていって、怒りという副産物になります。
 怒りになるまで放っておかないで、怒りの前の段階の時に小出しにしておくと、大きく固まった怒りが爆発してしまうのを防ぐことができます。早いうちに小出しにして、いやなことは「いや」、つらいことは「つらい」と言っていると、怒りがふくれあがらずにすみます。
 さて、この怒りを取り扱うには、いろんな方法があります。

①安全な時間と場所の確保
たとえば、子どもを目の前にして、カッとすることはあれば、おとなのほうがおかしいんですから、庭に出て百まで数えるとか、深呼吸するとかして、冷静になる必要があります。安全な時間と場所を確保して、知恵を働かせるのです。

②体内のエネルギーを放出
 怒りは身体を緊張させますから、エネルギーをどこかに出しておかないと緩みません。たとえば、子どもがよく地団駄を踏みますが、あれはいい方法ですね。地面にエネルギーを逃がしているわけです。
 エネルギーを放出していけば緊張が緩みます。少しリラックスすれば、「ああ、私はこんな気持ちだったんだな」と、もとの感情に気づくことができます。もとの感情のほうが扱いやすいんです。

③信頼できる誰かに気持ちを聴いてもらう
 私はいろんな方の相談に乗っていますが、最初に「いやだ」と思った時に相談してくださると、楽です。お話をしっかり聞いて、何ができるか一緒に考えられますから。
 相談する側は人に聞いてもらいながら、自分の気持ちを整理し、「でもやっぱりこれだけは言いたい」という気持ちを確認されます。たとえばある人は、セクハラ発言に傷ついて相談に来られました。カウンセリングの中でご自分の気持ちを整理した上で、後日、会社の人事課を通して上司に面談し、「宴会での発言に私はとても傷ついた。二度とおっしゃらないでいただきたい」と直接伝えることができました。
 このように筋を通して言ったら、加害者も感情の津波を受けずにすみ、「確かに申し訳ありませんでした。以後気をつけます」などと冷静に応対ができるんですね。
 ところが、何度も何度もいやな目に遭って、状況が改善されないと、腹が立ってくる。怒りをため過ぎると気持ちを伝えるのは難しくなるし、伝えても真っ直ぐ伝わらない。加害者は弁解ばかりして逃げ、「それは君の勘違いだ」というふうに、言葉が通じなくなることもあります。
 もちろん、加害者が人でなしの場合もあります。その場合は裁判に訴えないとだめかもしれませんが、普段の人間関係の中では、早いうちに気持ちを整理して率直に伝えれば、相手に伝わりやすいと思います。

  6、抑圧とエンパワメント

 人はかけがえがない存在です。おぎゃあと生まれて亡くなるまで、大切な存在です。誰かと比べて、上だ、下だ、すぐれている、劣っているなんてことはなく、対等でかけがえがない。これが人権の考え方です。
 どんな家に生まれようが、どんな仕事に就いていようが、どんな学校を出ていようが、そういうこととはまったく関係がなく、その人の人権、基本的な尊厳は掛け値なしに尊く、等しい。

 ところが、人権が保障されない現実もあります。人権が尊重されないと、人は深く傷つきます。体罰や虐待を受ける。いつも誰かと比較され、低い評価ばかり受ける。ああしろ、こうしろと、指示・命令ばかりされる。管理・支配される。過剰な期待を受け続ける。「男のくせに」「女のくせに」と、性別で差別されるなど。
 親・教師・周囲のおとなから子どもにこのような抑圧が加えられれば、自尊感情は育たず、自分らしさや個性は失なわれていきます。自分は大切な人だという意識が損なわれていきます。安心でなくなります。安全を感じられなくなります。

 昔から、男らしい、女らしいということが世間に固定した考えとしてあります。女は「しとやかに、家庭のことができなければ、子どもを一人前に育てなければ。家事・育児・介護は女の仕事」と、長い間考えられてきました。他方、男は「泣くな・弱音を吐くな・強くなければ・勝て・負けるな・やられたらやり返せ」というメッセージをたくさん受けてきました。
 以前は女の役割、男の役割がとてもはっきりしていた社会でしたが、今はそうではありません。女の人も仕事をするようになりましたから、母親の6~7割は働いています。
 核家族になって、祖父母に手伝ってもらえないとなると、男は仕事だけしていればいいという考えでは、家庭の平和は保たれません。幼い子どもを育てている核家族の若い夫婦の中には、父親も積極的に子育てに関わったり、家事を分担したりする人もふえてきました。それでも、まだまだ子育てを応援する状況が整っていないのが現実です。

 男の子が「バレエを習いたい」、女の子が「ボクシングをやりたい」と言ったら、さておじいちゃん・おばあちゃんはどう答えますか。あるいは、息子の家に行ってみると、今まで家事をしなかった息子がエプロンをして慣れた手つきで料理を作っているのを見たら、「息子は嫁の尻に敷かれている」と感じられるでしょうか。どうでしょうか。
 そのあたり、古い世代と新しい世代とではギャップがあると思うんですが、家庭を切り盛りしていく上で、おとなも子どもも、男も女も、家事も育児も介護も、そして仕事も、それぞれに分担して協力しながらやっていくのが、これからの社会のあり方だろうと思います。

 今の子どもたちは、男の子でも中学や高校で家庭科を習っていますし、女の子も専門の仕事に就こうと、早いうちから夢を育てる時代になってきました。
 そんな中で、「あんたは男だからこうしちゃいけない」とか、「女だからこうすべきだ」ということを言うと、個性を尊重せず、抑圧することになっていくと思います。

 自尊感情、自分らしさ、権利意識、安心・安全といった、その人のかけがえのなさを育むためには、愛情・受容・共感・援助・尊重・肯定・信頼をもった関わりが必要です。
 その人を丸ごと受け入れたり、「愛している」と伝えたり、気持ちをわかってやったり、手を差し伸べてやる。あなたは私とは違う考え方や生き方を持っているけれども、でもそれはあなたにとってとても大切なこと、違うからといって否定はしない。そのまんま相手を肯定し、信じるという関わりが、何よりもその人を育て、自尊感情をはぐくんでいくことになります。

 子どもに手をかけ過ぎることがイクオール愛情というわけではないですよね。子どもを育てるというのは、子どもの自立を温かく見守りながらはぐくんでいくことで、いずれは親の元から飛び立っていく日がきます。できないことには手を貸すけれども、できるようになったら徐々に手を離していきたいものです。

 我が家では、「お尻を拭ける手は何でもできる」と子どもたちを育てました。子どもたちはあとから「我が家は厳しすぎた」と言ってますけどもね。
 小学校の低学年から、自分が食べたあとのお皿は自分で洗っていました。私は仕事をしていましたので、保育園に連れて行く前に、洗濯物を二人の保育園児と一緒に干していましたしね。
 私も夫も帰りが遅い日には、上の子たちが下の子のためにご飯を炊いたり、自分たちでできる料理を作ったりして、私たちの帰りを待っていてくれることもありました。
 子どもたちはそうやって働く親を助けてくれていたんだなあ、四人で仲良く健気に親を支えてくれていたんだなあと、今さらながら感謝しています。

 お母さんがそばにつきっきりだと、子どもが自分でやれることまで、愛情の名の下に手を貸してしまうことも起きます。どこかで手を離さないといけないのだから、よくよく言い聞かせて、「少しずつ自分でやっていけるようになろうね」と励まし、できたことには一つずつ「よくやったね」とほめていくと、子どもも自立していくようになると思います。
 自立を促していくには、忍耐が必要です。ただ、ぽ~んと手離すのではなく、やってみせたり、ほめたりしながら、徐々にできるようになっていくのを助けるのです。親がすべてをやってあげるよりもずっと労力や忍耐がいるんです。

  7、人権とは?

 私はCAP(キャップ)という活動をして11年目になります。CAPとはChild Assault Prevention(子どもへの暴力防止)の頭文字をとったもので、今から29年前の1978年にアメリカで作られたプログラムです。
 アメリカのオハイオ州コロンバスというところで、小学二年生の女の子が登校中にレイプされるという痛ましい事件が起きました。広島でも同じような事件が起きましたね。
 事件の後、地域はパニックに陥りました。不安ですよね。どうしたらいいだろうかと、人々が話し合って取った態度は、「子どもを守る」ということでした。
 親は四六時中、子どもに付き添いました。地域の人たちは、監視を強化しました。これも広島と同じです。
 ところが、監視と保護を強めすぎると、子どもは無力化されてしまうんですね。つまり、子どもはおびえて自信を失い、自分で何ができるか考えられなくなる。子どもはおとなに守られる弱い存在だと思い込んでしまう。
 そういう状況では、不安感が高まるもんですから、子どもたちの中には夜驚症、夜尿、チック、保健室へ行く子が増えるなど、いろんな問題が生じました。

 小学校の先生が「このままではいけない。何とかしなければ」と考え、子どもに「セルフ・ディフェンス・トレーニング(護身術)」を教えることを思いつかれた。
 どんな幼い子どもでも、暴力から身を守る方法を身につけていれば、いざという時に使えると、その先生は考えたのです。さらに、どんな子どもも大切な人、誰からも傷つけられてはいけない人、という人権意識を早くから育てていれば、それが身を守るための何よりの「内なる力」になる。
 そこで、その地域にあった強姦救援センター(おとなの女性がレイプなどの性被害にあった時に、安心して駆け込めるセンター)に相談したんです。
 そのセンターではおとな向けの護身術をやっていましたが、それを子ども向けにもっとわかりやすいものに作り直したプログラムがCAPです。

 CAPの一番根本にある考え方は、どんな子どもも生まれながら「安心」して、「自信」を持って、「自由」に生きる権利がある、ということです。
 ご飯を食べたり、おトイレに行ったり、遊んだり、勉強したりするのも子どもの権利です。心に置き換えれば、安心して、自信を持って、自由だと感じるような時こそ権利が守られている時だと、子どもたちにまず教えるわけです。

 もしあなたが恐いと感じたり、力を奪われて自信を失ってしまったり、身や心を拘束されて、不自由で何もできないと感じる時には、何か大変なことが起きているのかもしれない。
 頭の中で法律がどうのこうのと考えていたら時間がかかる。あるいは、これはいいことか悪いことかと考えていても遅れます。でも、「恐い」と思った時にすぐ逃げるとか、「恐い」と思ったものには近づかないとか、そういうことをきちんと教えておけば、子ども自身で暴力から身を守ることができるわけです。

 子どもへの暴力は不審者や見知らぬ誰かからよりも、家族・先生・友だちなど身近な人から起こされているほうが圧倒的に多いのです。とすれば、「知らない人に気をつけよう」だけでは、暴力の防止にはなりません。
 どんなに親しい人でも、どんなに世話をしてくれる人であっても、間違いを犯すことがあります。あなたの安心・自信・自由を奪うようなことが起きるかもしれない。

 たとえば、仲のよかった友だちに殺されることだってあるかもしれない。いじめられて自殺に追い込まれる子どもだっていっぱいいますよね。家族から虐待で殺される子どもたちは年に50人前後います。成人の女性だって、ドメスティック・バイオレンス(DV)という形で配偶者から暴力を受け、年間百20数人も殺されています。3人に1人が「配偶者から暴力を受けたことがある」と答えていますし、20人に1人が「命に危機を感じたことがある」と答えています。

 つまり、身近なところでも暴力が起きるのだから、暴力から身を守る術を知っておかないと大変なことになる。CAPは、「安心・自信・自由」というわかりやすい概念で権利意識を教え、大切な権利が誰かから奪われそうになった時には何ができるかを具体的に練習しておくプログラムです。

 たとえばイジメ。たとえば虐待。たとえば誘拐。たとえば性的な暴力。そういうものに自分が遭遇した時に、早く察知して逃げることができたら、暴力から身を守れるわけです。あるいは、いやだという気持ちを「いやだ。やめて」と言えば、未然に暴力を防げるかもしれません。暴力を防げなかったとしても、そこで起きたいやな気持ちを誰か身近な人に早く打ち明けることができたら、その子の人権は回復しやすいし、さらなる暴力に遭いにくくなるわけです。
 一人で何もかも解決しなくていいのです。誰かが手を差し伸べてくれたり、友だちに助けてもらったりすることで、暴力を防ぐことができるのです。あるいは、信頼できるおとなが相談に乗ってくれ、何ができるか一緒に考えてくれるだけでも、さらなる暴力を防ぎやすいのです。

 「安心・自信・自由」というわかりやすい権利意識と、大切な権利が誰かに取られそうになった時、「いやだ」と言う、逃げる、誰かに相談するという行動の選択肢を子どもたちにわかりやすく伝え、劇の中では暴力の被害に遭っている友だちを助ける役を子どもたちにしてもらいます。

 CAPは全国に約160ほどグループが生まれて、それぞれの地域で子どもたちに暴力防止を伝えています。広島にも「CAP広島連絡会」がありますし、岡山には「CAPおかやま」があります。
 実際にCAPのプログラムを受けた子どもたちの中から、「CAPで習ったことを使って身を守ったよ」とか、「いじめていたけど、CAPを習ってから自分のイジメに気がついて、ごめんと謝りに行った」というようなうれしい報告も届いております。
 おとなも「CAPを勉強してから、子どもの話がちゃんと聞いてやれるようになった」とか、「子どもの話をじっくり聞いて、何ができるかを一緒に考えることができた」と言われる人もいます。

  8.エンパワメント(本来もっている「内なる力」を引き出す)

 CAPの根本にある考えがエンパワメントという概念です。エンパワメントというのは、欧米などで人権を回復していく運動の中で使われていた言葉です。
 人は決して無力ではない。幼い子どもでも、お年寄りでも、障害を持った人でも、男でも、女でも、収入のあるなしにかかわらず、誰もが尊厳と力を持っている。弱者は力が弱いと思い込まされてきたが、誰もが内面の強さをもっている。立ち上がって、つながりあって、その人がその人らしさを発揮し、よりよく生きることを支えあっていく、そういう関わり方をエンパワメントといいます。

 「本来もっている“内なる力”を引き出す」と書きましたが、問題にぶつかった時に、何をしたいか、何ができるかを最終的に決めるのは、その人自身です。どんなに悩んでいる人でも、答えはその人の中にあるのです。それをうまく引き出していく関わりがエンパワメントです。どんな人も無力ではないことを信じ、相手の立場に100%立って支援するやり方です。

①否定的なパワー(無力化)ではなく、肯定的なパワー(自信回復)
 否定的なパワー、つまり相手が持っている力を奪っていくような関わりではなく、相手が自信を回復していくような肯定的な関わりが必要です。

②「泣くな、弱音を吐くな」ではなく「ありのままでいいんだよ」(受容)
 イジメが起きると、「いじめられている側にも問題がある」なんてことを結構平気で言う人がいますが、そういう立場に立つかぎり、イジメは解決できません。被害者を絶対に責めない。これが重要です。
 たとえばですね、いじめられて帰ってきた、いやなことがあって帰ってきた子どもに、「泣くな」「弱音を吐くな」「やられたらやり返せ」と言うんではなくて、「泣いてもいいよ」「つらいと言ってもいいよ」「ありのままでいいんだよ」と、そのままを受け止めることが、逆にパワーを回復するんです。不思議でしょ。「疲れたよね」「そうだよね」と、弱音をそのまんま認めてやることでパワーを回復するんですね。
 昔のやり方、特に軍隊のようなところでは、「弱音を吐くな」「男らしくしろ」というメッセージを押しつけてきましたよね。それは男性の人間性を深く傷つけてきました。

③「~してはいけない」(禁止)ではなく「~したらどうか」(提案)
 禁止や命令ばかりでぐるぐる巻きにしたら、人の力を奪ってしまいます。皆さんも、誰かに朝から晩まで「あれはだめ」「これはだめ」と言われたら、どんな気持ちがしますか。
 「それはだめだが、他にこういう方法もあるよ」と言ってもらったほうがわかりやすいじゃないですか。「走るな」より「歩こうね」と言うほうが気持ちいいですしね。
 「そっち行くと危ないが、こっちだと安全だよ。でも、どうしてもそっちに行きたいんなら気をつけて行きなさい。怖くなったらいつでも帰っておいで」
 失敗してみないとわからないこともあるから、やってみることも必要。失敗を恐れるあまり、あれもだめ、これもだめと言ったら、力を奪ってしまいます。

④「なぜ~しなかったの」(否定)ではなく「よく~したね」(肯定)
 「なぜ~しなかったの」と責めても、力を回復しません。よくおとなは詰問しますよね。「誰と行ったの」「どこへ行ったの」「何をしたの」と。「なんで」と問うのは訊問ですね。相手を責めてパワーを奪ってしまうんです。
 たとえば、痴漢に遭った子どもが五時過ぎに泣いて帰ってきたとします。「それみてごらんなさい。いつも言ってたでしょ、早く帰りなさいって。早く帰らないからこんな目に遭ったのよ」と、言いたくなるかもしれない。だけど、これは禁句。絶対に言っちゃいけない言葉です。傷ついた人を責めたらだめです。

 傷ついて帰ってきた子どもには、できるだけプラスを与えてやらなければいけない。では、どう言うか。物事は逆に見ればいい。
 「よく無事で帰ってきたね」です。痴漢に遭って、いやな目をしたけれど、無事に帰ってきたんだもの。「よく無事で帰ってきたね」と、この一言を聞いたら、子どもはホッとします。
 それから、「恐かったね、でも、そこで起きたことをよく話してくれたね」これもプラスです。「つらいことや言いにくいことを、本当によく話してくれたね。話してくれたおかげで、他の子があなたと同じ目にあわないようにしてもらえるよ。早く学校や警察に言って、犯人を捕まえてもらおうね」。ここまで言ってもらったら、どんなに安心するか。傷は早いうちに回復します。
 それからもう一つ、「もしまたそういう目に遭いそうになったら、今度は何ができるか、一緒に考えて練習しておこう」というのも、肯定的な勇気づけになります。
 遅く帰ってきたことを、責める必要はないのです。また次に出かける時に、「今日は早く帰っておいで」と、一言声をかけてやればいいのです。この子自身がすごく恐い目に遭ったのだから、自分で学習してきっと早く帰るようになると思いますよ。

 事件に遭った日に「早く帰ってこないから、そんな目に遭ったのよ」と言うのは間違いです。早く帰っても、こういうことは起きます。遅く帰ったからこういう目に遭ったのではなくて、そういうことをする人がいるから、被害に遭うのです。被害者は絶対に悪くない!
 イジメの被害者にも、「あなたは悪くない」と言ってやってほしい。おとなでもそうでしょう。自分にも非があると思ったら闘えなくなります。自分にもやられるだけの理由があると思ったとたん、「いやだ」と言えなくなります。いやなことはいや、されていけないことはされちゃいけない。傷ついていやだ」と感じるのは正当なことです。

 子どもでも同じです。いじめられている側の非を探したりしたらいけない。「あなたにも悪いところがある」と言ってはだめ。「何で断らなかったの」とか「何で逃げられなかったの」と過去を責めるのもだめ。
 その子なりに精一杯のことをやったんだから、「つらいことがいっぱいあったのに、よくがんばったね。すごいよ。強いね」という肯定ですね。親は「あなたは悪くないよ。あなたがいやだと思ったことは正しいよ。誰でもそんなことをされたらいやだよ」と言ってやることです。

 それから、子どもだけで解決できないときには、親が先生にきちんと言う必要があります。しかし、先生もイジメを解決できる力を持っている人ばかりではありません。いじめられる側を責めたり、いじめる側に立つ先生もいます。
 担任の先生とやりとりをして、これはどうしようもないと思ったら校長、校長がだめなら教育委員会、そして子どもが学校に行きたくなければ、行かなくてもいい。休ませてやりたい。今はフリースクールもあります。

⑤比較や評価ではなく「あなたはかけがえのない人」(尊重)
 親は子どもを誰かと比べたり、評価するのではなく、どんなことがあっても、「あなたはかけがえのない大切な人だ」ということをわかってほしいなと思うんですね。親も一人の人間ですから、子どもに期待します。そうすると、その期待値に到達しない子どもはいつもマイナスで、引き算になるわけです。
 引き算ではなく、足し算。どんなにいやなことや、うまくいかないことがあっても、ちょっと発想を変えれば、「生きていることがありがたい」とか「ご飯をおいしく食べることができる」など、できることがあると思うと、ぺしゃんとならずにすみます。

 人間はあきらめて無力化することが一番恐いんですね。子どもたちや身近にいる誰かを、そして何よりも私自身を無力化させない。「私は大切な人」というところから目を離さない。それと同じく、「あなたも大切な人」と思うと、相手が輝いて見えます。
 久しぶりで会ったお孫さんに「よく来てくれたね。会えてうれしい。あなたの元気な顔を見るとうれしい。ありがとう」という言葉が、「ああ、この人には受け入れられている」という感情を心の栄養として与えていくことになります。

 私の祖母は私を愛してくれ、私が母として子育てをするようになってからも、必ず言ってくれていた言葉があるんですね。「恵ちゃん、ようやっとるな」「恵ちゃん、よくここまで育てたな」と。私は「自分でやりなさい」という子どもたちの自立を促す育て方でしたから、子どもに何かをしてやっているという自覚はなかったんですけどね。おばあちゃんは足し算の生き方をしていたんだと思います。
 おじいちゃん・おばあちゃんの世代は、孫を甘やかすのでも、放任するのでもない。その子を足し算で見ていく。生きていてくれることが本当にうれしい。元気にしてくれることが何よりも幸せというスタンス。
 お孫さんやお子さんをどんどんほめてあげてください。そうしたら、自分を肯定したくなる気持ちが起きてくるのではないでしょうか。
 こんなところで時間となりましたので終わります。どうもありがとうございました。

(2007年1月31日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)