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  生きがいを求めて

オウム真理教に多くの人が惹かれたのは、生きがいを与えたからです。

カナリアの会編『オウムをやめた私たち』
村上春樹『約束された場所で』

この中から信者の声を集めてみました。
すべてこの本からの引用です。

  入信するのはどんな人か

・心を開いて話せるような相手はいません。みんな受験勉強に熱中しているか、あるいはがらっと違って車とか野球の話とかばかりです。

・就職して結婚して家庭を持って老後を迎えて、というお定まりのコースを、オウムに惹かれる人たちって、そういうコースが幸せな道なんだって鵜呑みにしていた人たちではないと思うんですよ。違和感を感じていると思うんです。これがマトモで幸せな人生だなんて感じていない。

・今までいろんな人たちが、社会をよくしようとか幸福な社会をつくろうとか、いろんなことを言っているわけだけど、どんどん悪くなっていく。例えば、人類の歴史の中で膨大な知識が生まれてきて、図書館に行けばいっぱい本があるけれど、それらを全部読む人がいるんですか? その中で本当に役立つものは何ですか? それだけ人類が何千年もかけて知恵を結集させてきたのに、なぜ社会はよくならないんですか? どうして戦争がなくならないんですか? 生きがい、人生の苦しみの問題にどうして答えが出ないんですか? どうして人間は進歩しないんですか?

  悩みに答えて

・そこで悶々としている人たちに、オウムは自分が何をすればいいのか、根本的なところで「これが答えだ」と教えてくれるわけです。人間は絶対幸福に至らなければならない。その最短の道をオウムの修行体系である。
他の宗教では、それをガーンと言ってくれるところはありません。

・「解脱・悟り」という自己の救済、「衆生済度」という他の救済。この目標が自分たちの活動により実現できると信じていました。オウムが、麻原が描き出した目標は、私の求めていたものとあまりに合致していました。自己を高めたい、他のために何かをしたいと考える私は、あらがう術もなく、オウムに引きよせられていきました。

  麻原についていこう

・オウムの本を読んでいちばん心地よかったのは、「この世界は悪い世界である」とはっきり書かれていたことです。僕はそれを読んですごく嬉しかった。こんなひどい不平等な社会は滅んでしまったほうがいいと僕もずっと思っていましたし。ただし僕が「世の中なんてあっさり滅んでしまえばいいんだ」と考えているのに対して、麻原彰晃はそうじゃなくて、「修行して解脱すれば、この悪い世界を変えることができるんだ」と言っているのです。これを読んで僕は燃え上がるような気持ちを持ちました。この人の弟子になって、この人のために尽くしてみたいと思ったんです。そのためなら現世的な夢も欲も希望もみんな捨ててもかまわないと思いました。

・結局、僕が麻原さんについていけば大丈夫なんだって感じたのが、壮大な救済ドラマだったわけ。三万人の成就者が出れば、世の中の人たちを救済できるって言ってたけど、そこなんですよ。もし単なる一兵卒で終わってしまったとしても、人生をまっとうできると思った。当時は、自分は存在していてもかまわないんだ、自分にも価値があるんだって思えた。

  仲間たち

・驚きました。道場の雰囲気がすごくよかったんです。みんな一生懸命。とくにオバサンがすごく輝いていた。目が輝いているんです。自信がみなぎっている。びっくりしました。
こうやって生き生きと輝いている人をつくっているところなんだって感じましたね。こんなすばらしいところがあったんだ!

・みんな開けっぴろげで、親身になって人の話を聞いてくれるし、自分の悩みや苦しみも話してくれる。
そういうこともあったので、私のほうもすぐに心を開いてしまいました。

  充実感、使命感

・「人は何のために生きるのか?」
 この問いに対する答えを与えられ、その実現に向かっていると信じていたわけですから、オウムでの生活は精神的に充実していました。

・すごい充実感がありました。まったく疲れは感じませんでした。

・自分のためではない、本当に人のために何ができるか考えていたんですよ。すべてを断ち切って救済のために自分を捧げていました。

・現代におけるオウム真理教団という存在は、戦前の「満州国」の存在に似ているかもしれない。(略)彼らの意志は純粋であり、理想主義的でもあった。おまけにそこには立派な「大義」も含まれていた。「自分たちは正しい道を進んでいるのだ」という確信を抱くこともできた。
彼らが共通して抱いていたのは、自分たちが身につけた専門技術や知識を、もっと深く有意義な目的のために役立てたいという思いであったのではないか。

  神秘体験

・具体的な修行法があって、それをやることで自分が変わっていく。それをすることで、一時的だけれども心が安定したり、光が見えたりとかの神秘体験が起こるものだから、これは本物だと確信してしまう。

・初めての体験(神秘体験)の感動は「今までこのために生きてきたんだな」と思うほどでした。

・ちょっと修行をしただけで目に見える結果を出せたことは、すごいと思うんですよ。

  麻原の魅力

・フツーのオジサンというところも魅力だったと思いますよ。聖人君子然としていないんです。絵に描いたような聖者じゃないんですよ。だから、「オマエたちの苦しみはみんなわかっているんだよ」という言葉に現実味がある。生まれたときから清らかな道だけを歩いてきたわけではない。悪いこともいっぱい知って、そのうえでこの道を選んだ。だから、「オマエたちの苦しみはみんなわかっているから、その解決方法を教えてあげよう」。そこに惹かれた人も多かったでしょうね。

・麻原さんって、感情の起伏が激しいでしょう。緩急の使い分けが巧みなんだよね。これでもか、というくらい優しいときと、殺されるんじゃないかと思うくらい怖いときがある。修行やワークで失敗したりして落ち込んでいるとき、タイミングよく声をかけてくれる。それから怒った後に「オマエとは前世で縁があったんだから、そんなことするなよ」ってボソッと言うから、泣けてくるくらい感激する。

・自信がゆらいできて、自分もたいしたことやってないって感じる。だけど、「私はあのとき尊師と実際にお会いしてお話ができたんだ」なんて思い直して、自分だけは違うってことをいろいろ導き出してくるんですよ。

  それがなぜ

オウム真理教にかぎりません。
すべての宗教は生きがい、生きていく道を与えてくれます。
それがいつの間にか、自分を失い、人を傷つけてしまう。
これもオウム真理教にかぎらないことです。
どこでおかしくなるのでしょうか。

1,
麻原個人の性格

被害者という妄想
ハルマゲドンという妄想
救世主という妄想

麻原の「毒ガス攻撃されている、出家できるものは出家しなさい」という一連の説法

昨日まで法友だった人間を平気でスパイ扱いする。

2,麻原が絶対者になってしまった

・殺人ということよりも「いかに自分がグルのために身を捨てられるか」、そこに意識を持っていきました。

・事件はポアで、グルの深いお考えがあってやったことに違いないって自分を納得させていたんです。具体的な事実を突き付けられても、信はゆるがなかったんです。

3,信者のエリート意識

・私も、一般の人に対して、自分は修行をしているから、あなたたちよりも上なんだって感じるようになってしまったし、みんなそうでした。

・オウムには「自分たちは社会の人たちよりえらい」っていう選民思想があって、中にいたときも、そんな傲慢な考えはやめようって思ったけどダメだった。

・サマナ(出家)の人たちって、徹底的に外の世界を嫌っているんです。外の世界で普通に生活している人たちのことを凡夫って言うんですが、凡夫は地獄に落ちるしかないんだとか、さんざん悪いことを言います。出家修行者なんて、たとえば外で他人の車にぶっつけたって、悪いとも思いません。こっちは真理の実践者なんだという感じで、相手を上から見下ろしています。

村上春樹がサリン事件の実行犯の裁判を傍聴してこう言っています。

この人たちはなんのかんの言っても、自分たちが<一般の方々>よりは高い精神レベルにあるという選良意識をいまだに抱き続けているのだなという印象を受けないわけにはいかなかった。(略)たしかに出てきた結果は悪かった。反省はしています。でもオウム真理教というあり方の方向性そのものは間違っていないし、その部分までを全否定する必要は認められないのです」と。

4,現実から遊離してしまった

・オウム信者は、他者の存在が全く見えていないんじゃないか。社会と接していても、オウムの教義なり観念なりで物事を見ているから、他者が入り込む余地がない。
物事のすべては教義を通した理解でしかなくなる。

・死ぬことに恐怖があるから、そういうふうに大騒ぎするわけですよね。死ぬことに対して。だから死を知ればいいんじゃないでしょうか。

・論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います。

・オウムの人たちの感覚から行くと、(地下鉄サリン事件をオウムが)やったやってないというのとは関係なく、それよりも自分が修行するかどうかが問題なんです。

・事件自体にも現実感を持っていないし、遺族の人たちが、オウムに対して憎しみを抱いているということすらわからないでしょうね。

  なぜやめられないか

・指示に従わなければ、オウムにいることはできなくなります。そのことは生活の基盤をすべて失ってしまうだけでなく、修行ができなくなり地獄行きになってしまうと思い込んでいたのです。

・自分が何年も信じてきた教えを捨てるわけだし、それをやめてスタート地点に戻る、その空虚感、虚脱感といったらねえ…。

・私がオウムをやめたとき、一番怖かったのが、ああ、やっぱりここで生きていかなきゃいけないんだ、どこにも逃げる場所がないんだってことだったの。

・社会の中でどういうふうに生きていけばいいのか、わからないわけです。また、オウムでは、現世というのは非常に無常で無意味なもの。そう教え込まれているわけですから、泥沼に入っていかなければならない苦しみもある。