第一章 薬物依存症とダルク
1、薬物依存症とは
ダルクの井上と言います。薬物依存症です。薬物依存症は、意志が弱いとか人格に問題があるのではなくて、一生治ることがない進行性の病気なんです。完治することはないので上手につき合っていくしかありません。
薬物依存症の特徴です。
・コントロールできなくなる
・自分の力でやめることができない
・自分は病気ではないと否認する
・まわりの人に迷惑をかける
・最後は死に到る
薬物依存症は自分の意志ではやめることができない病気です。一人ではとめることはできません。自己流のやり方で薬物をやめられる可能性はほとんどありません。また、やめたとしても短期間で、〈やめる→使う〉といったサイクルが徐々に短くなり、症状が進みます。症状が進んだ薬物依存者のほとんどは使いたくないのに、もしくは泣きながら使う経験をしています。身体によくないとか理屈ではわかっていてもやめられないんですよ。
薬物依存症は否定・否認の病気だと言われます。自分では「薬物をコントロールして楽しみながら使うことができる」「いつでもやめることができる」と思っているんですけど、それができない。なのに「自分はうまくやっている」と思っています。
だけど、薬物依存者がほどほどにすごすことは困難で、何もする気が起こらないので何もしないか、またはやりすぎるといった極端なケースが多いんですね。これも薬物のせいです。「大丈夫!!」と思っていても大丈夫じゃないんです。そうして問題を起こし、どうにもならなくなってしまうわけです。
それでも、ほとんどの薬物依存者は「自分はヤク中じゃない」と否認します。問題が起きても、自分の中でつじつまを合わせて「問題ないんだ」と正当化するわけです。その根拠のために違いさがしをします。「自分は幻覚を見たことがない」とか「まだ精神病院に入ったことがない」とか、他人との違いをさがして、「あいつらとは違う。自分はヤク中じゃない」と思い込むわけです。
否認しているうちに肉体や精神がむしばまれ、社会生活が破壊されます。刑務所や精神病院に入り、仕事を失い、お金はなくなり、借金をこしらえ、家族は去り、まともな友人は離れていって、まわりには薬物依存者しかいないという状態になります。このように薬物依存症は人間関係を壊し、家族も巻きこみながら進行していき、最後には死ぬこともあります。自傷行為、あるいは慢性自殺みたいなもんです。
自分自身、もしくは家族が薬物依存ではないかと思ったら、恐れずに医療や福祉、あるいはダルクに相談してください。家族だけで抱え込むと状態はどんどんひどくなります。
じゃ、薬物がとまればいいのかというと、そうじゃないんです。薬物がとまっていても、考え方や行動が今までのままだとまた使ってしまう。ですから、自分の考え方や行動を変えていかなくてはいけない。薬物を使わない新しい生き方をダルクやNAで学ぶということです。クスリがとまることがゴールではなく、スタートなんですね。
依存症は薬物だけじゃありません。一番身近なのはタバコやお酒ですね。ギャンブル、買い物、摂食障害、セックス、いろんな依存対象物があります。家庭を顧みない仕事人間もちょっと危ない。ありとあらゆる依存対象があるんです。人間関係の依存もあります。他者への依存ですね。人を頼ったり、人に頼らせたり。
依存には健康な依存と不健康な依存があると思います。不健康な依存というと、たとえば覚醒剤のように法律に触れたり身体をこわすような依存です。信心も家庭を顧みず、家財道具をなげうってでもという宗教だったらどうかなと。わけのわからん壺を買わしたりとか、そうなると犯罪ですよね。
何でも度を超したらいけませんよね。要はバランスだと思います。お酒でも晩酌を楽しむ程度だったら問題はありませんけど、意識がなくなるまで飲んでしまうとなると、これは問題です。僕には覚醒剤をバランスよく使うということができなかった。覚醒剤をまた始めると、僕は捕まるか死ぬまでやってしまうと思います。
2、NAとは
NAとはナルコティクス・アノニマス(無名の薬物依存症者たち)の略称で、薬物依存症者の自助グループです。アルコール依存症の自助グループであるAA(アルコホーリクス・アノニマス)に参加していた人たちの中から生まれたんです。1950年代にアメリカで最初のミーティングが開かれました。2005年には116ヵ国で21、500以上のグループができています。
NAは宗教ではありませんし、どんな団体、政党、組織にも縛られていません。市民運動や社会問題などについて意見を持たず、どのような論争や運動にも参加しませんし、支持も反対もしません。また、職業紹介、法律相談、資金援助、精神科治療や医療サービスなどもNAは行いません。
NAのメンバーになるために必要なことはただ一つ、「薬物をやめたい」という願いだけです。薬物依存者であれば誰もがメンバーになることができます。どういう薬物を使ったか、何と併用したかといったことは問題にされません。
会費もないし、料金を払う必要もありません。ミーティングは自分たちの献金だけで運営され、完全に自立しています。無名ですから本名や仕事などを明かす必要はありません。自分で好きなニックネームをつけます。それがミーティングネームです。
回復の原理を大まかに示すと次のようになります。
・問題があることを認める
・助けを求める
・徹底的に自己分析を行う
・信頼できる人に自分のことを打ち明ける
・傷つけた人に埋め合わせをする
・回復を望んでいる薬物依存者の手助けをする
3、ダルクとは
1985年に創設されたダルクには薬物依存症から回復したいと願う人が集まっています。ダルクとは、Drug
Addiction Rehabily Centerの頭文字を取ってDARCです。民間の薬物依存リハビリテーションセンターということです。薬物をやめたい人のサポートとケアをするところです。英語読みだとダークになりますが、それじゃ暗いイメージなので、フランス語読みでダルクにしたんだと、ダルクを創設した近藤恒夫が言ってました。
ダルクには指導者はいません。ダルクのスタッフも薬物を使っていた仲間です。上下関係はなく、スタッフが下から支える組織なんです。ダルクの入寮期間は三ヵ月から六ヵ月。通所の人もいます。ダルクの入寮金は月に16万円です。お金がなかったら生活保護を受けます。
ダルクは薬物をやめさせる施設じゃないんです。ダルクでは「こういうやり方がありますよ」と提案するだけです。「僕はこういうことでクスリをやめれました。今のところはとまってます。よかったら一緒にやってみませんか」ということを伝えるだけです。おしつけじゃないんですよ。強制するわけじゃない。ダルクは普通の民家でして、鍵はかかってないし、窓に鉄格子がはまっているわけでもない。出たくなかったらいつでも出ていける施設なんです。
ダルクでは「今日一日」という言葉があります。これから先ずっとクスリに手を出さないと決意するのではなくて、とりあえず今日一日はやめておこう。明日はするかもしれないけど、今日はやめておこう。そうやってクスリを使わない一日を積み重ねていくわけです。
ダルクに来ることで半分は薬物がとまります。みんなと何となく暮らして馬鹿話でもしていると、ストレスが解消して、クスリを使わない生活になじめるんです。その中で三年以上やめつづけているのが三割です。みんなと一緒に生活して行動をともにすると、割ととまるもんです。そのあとですね。ちゃんと自立の道を歩めるかは本人次第です。本人がどの程度よくなりたいと思っているか、やる気を持っているかということなんです。
薬物がとまるためには最終的には本人のやる気にかかっています。本人がやめる気がなかったら、まわりの人間がいくらやめさせようとしても無理。しかしまた、本人の意思で簡単にやめられるなら依存症という問題は起こらないわけです。同じ問題を抱えている仲間との出会い、薬物がとまっている仲間の存在が希望となるんです。
家族のためにクスリをやめたいという考えではなかなか回復しません。「家族のため」と言ってる間は自分と向き合うことを回避している。薬物依存者はいつも他人を気にしながら生きている人なんです。家族の目も気にしている。「家族のために」ではなく、「自分のために」でないとクスリはとまりません。
本人がどうにもならなくなって、「助けてください」というところまでなっている人にはダルクが効果あります。本人がやめようと思っているということが条件です。だけど、「まだまだわしはやめる気ないよ」と言う人を連れてこられても、何の意味もないです。「こういう方法があります。やめたくなったら来てください」と言うだけの話で。「やめるためにはどうしたらいいのか」と聞いてくる人には効くかもしれませんよということです。「やめようと思えばいつでもやめられる」という考えだと、ダルクに来ても意味がないわけです。でも、どうしようもなくなるところまで追いつめられる時が必ず来るんです。
ダルクでは「12のステップ」というのがありまして、一番目は
「私たちは、アディクション(依存)に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」
ということです。
ダルクでは「底つき」という言葉を使います。自分の力ではどうにもならないと底をついて、無力だと認めることが回復の第一歩です。底をつくのも人によってさまざまです。警察に捕まって底をつく人がいれば、何度となく精神病院に入り、すべてを失って底をつく人もいます。それが逮捕された時か、刑務所に十回目に入った時かはその人次第です。そんな時にもしやめようと思ったなら来てくださいと、そういう話なんですね。
だけど、無力なだけではどうにもならないままですよね。「12のステップ」の二番目、三番目は
「私たちは、自分より偉大な力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになった」
「私たちは、私たちの意思といのちを、自分で理解している神(ハイヤーパワー)の配慮にゆだねる決心をした」
ということです。
ハイヤーパワーとは宗教や特定の神を指しているわけではありません。自分なりに理解した神ということです。自分の力で何とかできる、何とかしようとするのをやめ、自分の無力を認めて、信じたものにおまかせしなさいということです。
人によってハイヤーパワーは違います。キリスト教の神や仏さんだったり、ミーティングの場だと言う人もいます。僕は先祖だと思ってるんです。死んだ僕のばあちゃんとか御先祖様。守護霊というとおかしいみたいだけど、ハイアーパワーは僕を守ってくれているという感じだとすごくしっくりくるんです。いいことも悪いことも、ばあちゃんが与えてくれた試練だったら乗り越えることができそうだなと思うんですね。
4、ミーティングとは
全国各地でNAやダルクのミーティングが開かれています。どのミーティングに参加してもかまいません。また、発言の内容について責任をとらされることもありません。
ミーティングでは、「ねたみ」「無力」「受け入れる」「二つのものを見分ける賢さ」「自己憐憫」「いわれのない不安」「怒り」といったテーマに沿って、一人ずつ自分の体験談を正直に話します。話したくない時にはパスしてもいいです。言いっぱなし、聞きっぱなしですから、その場では質問やアドバイスしたりはしません。まして批判はしない。黙って聞くだけです。
薬物依存者は「感情の二日酔い」を起こしやすいんです。嫌なことがあると、それを翌日まで持ち越してしまう。そうならないためにも、自分の体験をさらけ出して話をし、仲間の話に耳を傾けることで自分のあり方を見つめ直すことが大切になってきます。そうしてだんだんと自分を見直すようになって回復していくんです。それと、依存症は孤独感がもたらす病でもあるんです。ですから、ミーティングへの参加は空腹や寂しさ、薬物に近づかないために大きな役割を果たしてもいます。
5、薬物依存者とは
薬物依存者というと社会の落伍者とか、ヤクザといったイメージがあるように思います。だから、薬物依存やダルクは自分とは無関係だと思っている人は多いでしょうけど、でも覚醒剤の乱用者は全国に100万から260万人いると言われているんです。実際の薬物依存者はみなさんが思われているような感じではないことが多いです。特殊な人間の問題ではなく、サラリーマン、主婦、大学生や高校生といった普通の人も珍しくありません。
ダルクには某有名高校の子も来るし、大学生もいる。あらゆる年齢層の、16歳ぐらいから60すぎの人までいます。最近は高齢者の方が増えましたね。行くところがどこにもなくなってダルクに来る。74歳の耳の遠いおじいさんもいました。だから、恐い人ばかりというわけではないんですね。
薬物依存は覚醒剤やシンナーだけじゃないんです。市販薬、たとえばセデスや下剤を一ぺんに飲む人とか、精神科でもらう処方薬を医師の処方通りに飲めなかったら注意信号です。バファリンなんかでも一回でワンシート全部飲んじゃうとか、そういう人は依存症になる一歩手前です。実際にそれで依存症になっている人がいるんですね。錠剤をすりこぎで粉にして飲む人もいるんですよ。そうすると覚醒剤と同じような感覚になるそうですし、咳止めシロップを一瓶飲むと楽しいらしいです。そういう人もいます。それから市販のガスボンベをシューと吸うとか、マリファナ、コカインもあります。年を取っている人でもシンナーをやる人がいますね。そんな人も全部ひっくるめて薬物依存者なわけです。
最初のころは僕も、覚醒剤とシンナーはやったことがあるからよくわかるんだけれど、処方薬依存やガスを吸う人たちのことはわからなかったんです。でも、やるきっかけとか使ってしまう場面とかは同じなんですね。だから、同じ病気です。
近藤の『薬物依存を越えて』という本に、薬物依存症についてこう書いてあります。
「私は、薬物依存とは「痛み」と「寂しさの痛み」の表現だと受けとめている。「痛み」とは身体的な痛みで、「寂しさの痛み」とは自分は学校や社会の中で必要とされていない、役に立たないという気分の悪さ、疎外感、虚しさ……という心の痛みである」
「覚醒剤やコカイン、シンナーなどの薬物は、耐え難かった身体の痛みや寂しさの痛みを、努力なしできわめて効率的に取り除いてくれる魔法のクスリなのである。そして、身体的な痛みと寂しさの痛みが強ければ強いほど効き目は大きく、薬物依存に陥りやすい」
「もう一つ、薬物を理解するうえでキーワードとなるのは「恨み」の感情だ。薬物依存者の心の中は、自分ではコントロールのできない恨みの感情で満ちている。薬物依存者は家庭や学校、職場で、自分の思い通りにならなかった体験をたくさん抱えている。コンプレックスと言い換えてもいい。嫉妬や羨望、自己憐憫、高慢なども含むコンプレックスが、ドロドロとした恨みの感情になって、心の中に沈殿されたままになっている」
「やっかいなことに、薬物依存者はクスリを使い続けるために、この恨みさえも巧みに利用する。クスリを使うためには理由が必要だ。そこで、誰かを悪者にして恨みを晴らすために、クスリを使う。恨みが大きければ大きいほど、クスリを使い続けるためには好都合なのだ」
これを読むと、薬物依存症になるのは決して特別な人じゃないということがわかってもらえると思います。まじめで人がいい小心な人、ものごとをいい加減にすることができない人、自己肯定感がなくて自分はだめだと劣等感を持っている人、他人との距離感を適切にとることが下手で人間関係を作るのが苦手な人、そういう生きづらさを感じている人が依存症になりやすいんです。そんな人がストレスを抱えて、それから逃げるために薬物を使ってしまうわけです。
依存症の人は自分自身にはないものを自分の外側に求めてしまうんですね。何かに依存することで自分の中でバランスをとり、自分は自立していると思おうとします。自分に自信が持てない、そんな人でも薬物によって全能感が与えられ、違う人間になったような気になるんです。そうやって現実から逃げようとする。でも、生きづらさを薬物でごまかしているだけだから、クスリがとまると自信を失い、元に戻ってしまう。それでまた薬物を使うということです。
6、薬物の後遺症とは
覚醒剤の後遺症が残ると回復が難しくなります。後遺症が残るかどうかは覚醒剤を使った期間、量はあまり関係ないそうで、体質によって違うらしいです。どういう後遺症が出るかも人それぞれで、幻聴・幻覚がある人や、被害妄想や統合失調症とかいろいろです。
覚醒剤をあぶって煙を吸うと効き目が弱いので、いっぱい吸うことになってしまうんですね。それで余計に脳に負担がかかって、脳にダメージが来るのが早いんです。シンナーにしても、十代でシンナーをやると脳のダメージが大きくなります。
妄想とは、あり得ないことをあたかもあるように考えてしまうことです。たとえば、いつも警察に見張られているとか、車に乗ると同じ車につけられているとか。人影があると、見張られていると自分で理論づけて、自分は被害者だという物語を作るんですよ。ほんとにそうなんだと、自分の中でつじつまを合わせてしまうんですね。
僕も悪口を言っているのが聞こえたりしました。被害妄想なんですけど、「お前、何で面と向かって言わないんだ」と言ったら、「何言ってんの。そんなこと一言も言ってないよ」と言われて、「いや、ちゃんと聞いた」とケンカになるんですよ。そんなことで仕事をなくしていくんです。僕は軽度でよかったなと思います。
覚醒剤を使うことによって統合失調症になる人もいます。もしくは、もともと統合失調症だったんだけど、覚醒剤を使ったことで症状が悪化して病院に行かなくちゃいけなくなった人もいます。病気を隠すために覚醒剤を使って正常を装っていたのが、覚醒剤が切れたら病気が出たという人もいるんで、境目が難しい。
後遺症がひどいと精神病院にかかる必要があります。ところが、精神病院で薬物を断つために投薬治療を受けるわけですが、処方薬の依存症になることもあるんですね。精神薬を飲まないで社会生活をできるようになる人が少なくなっています。病院の世話になって処方薬を飲み続けないといけない人が増えてて、この人は社会復帰できないんじゃないかと思う人が結構いますね。60%ぐらいは処方薬を飲んでます。十年前は逆だったんです。入院して処方薬をやめることでよくなる人が多かったんですけどね。精神病院に入院していた薬物依存者の回復率は5%だそうです。
犯罪のことで言いますと、犯罪というのは被害者と加害者がいるんですけど、覚醒剤事犯に関しては被害者も加害者も自分なんです。でも、その認識は間違ってるんですけどね。実際は、捕まると親や家族は心配して面会に来るし、結婚していれば収入がなくなって妻子に迷惑をかけるわけです。身内を傷つけているはずです。
最初はそういう申し訳なさみたいなものがあるんですけど、だんだんと麻痺してしまうんですよ。初犯の刑務所では、罪の意識とか人に迷惑をかけたという意識はあるんです。再犯になると難しくなりますね。罪の意識がなくなる。一人で住んでて、一人で使ってる人は、「また懲役に行けばいいんだろ」と、そういう感覚になってしまう。懲役に慣れてしまうんです。「捕まったら三年入ればいい」という程度になるわけです。
七、リラプス(スリップ)とは
薬物を再使用することをリラプスとかスリップと言います。リラプスするのが当たり前だと思っていたほうがいいですね。回復への一過程です。近藤によると、ダルクに入寮してから一度もリラプスしていないのは約0・7%だけです。リラプスをくり返したけど、今はクスリがとまってNAのミーティングに出席している者は30~35%。僕もリラプスしましたし。
ひとたび何かことが起こると、何か理由をつけてクスリをやってしまう。何年もやめていても、パチッとスイッチが入るように、いやなことばかりだなという時にかぎって思い出しちゃうんです。それでまた始めるんですね。人のせいにしたり、社会だとか、仕事だとかのせいにしてまたやってしまう。だから、自分に責任があることがわかりません。
それとか、お金がもうかりすぎてヒマがあるとか、そういう時にもリラプスするらしいですね。お金があって、家族もいて、幸せに暮らしていて、そんな時に落とし穴があると聞いたことがあります。仕事に関しては、仕事がうまくいっても使うし、仕事で上司に怒られても使いたくなるんですね。よすぎてもだめだし、だめすぎてもだめだし。人間の生活は浮き沈みがあるんですけど、急激なアップもダウンもクスリを使うきっかけになるんです。
再使用すると、やめようと思ってもやめることのできない自分に嫌気がさし、こんな自分はだめなんだと自己否定的になります。それでまた薬物をやってしまうわけです。自己評価の低いのが薬物依存者の特徴なんですね。自尊心がなかったり友達が少なかったりするから、誘われたら「友達を失いたくない」という気持に負けて一緒にやってしまうこともあるんです。
ダルクには薬物をやめようと思ってきているんですけども、クスリを使った時の話をしますんで、やりたくなるかもしれません。それで、つい買ってしまうということも起きなくはないと思います。でも、リラプスすることがあっても、使っちゃだめなんだ、やってはいけなかったんだとわかってもらわないとしょうがない。
覚醒剤がこの世で一番好きなことなわけです。もしもクスリがなかったら、自分には何にもなくなってしまう。それなのにやめようというわけだから、いかにコントロールして、その日一日やらない努力をいかにするかということです。それを怠っていると、ミーティングに来なくなり、リラプスすることにつながっていきます。
先のことはわからないので、今日一日をやめるために自分は何をするかということが大事じゃないかと思うんですね。それがわかるまでは時間がかかります。今日一日ということを忘れたら、僕もまた覚醒剤を使うかもしれないんです。
でも、リラプスしたことがいいきっかけになる可能性もあるわけです。僕はリラプスしたことを許してもらうことによっていいものを得ました。リラプスをすると恥ずかしいと思う、その恥ずかしさを乗り越えんといけんですね。クスリを使ったのは見ればわかります。本人から言ってこないと意味がないので、僕は知らん顔をしています。こっちはリラプスしたことはわかっているし、温かく見守るつもりなんです。
恥ずかしさを超えて正直になれた時に、自分が許されていることがわかる。そういうことを自分で学ばないとだめです。そこを乗り越えると、何かしらいいことが起こるはずなんです。自分のステップアップになるというか。恥ずかしいからというのでそのままにしていると、恥ずかしいのを忘れるためにまたクスリをやってしまうことになりかねないんですよ。そうならないためにも正直にどうしたらいいかということを何でも話すことですね。
そうはいっても、「またリラプスしました」と何べんも言われると、「またかよ」とこっちも思いますけど、それで僕のほうも忍耐力がつくんです。そうした一連のことを自分も相手も経験し、今までと違った行動と対応をおっかなびっくりしていく中で、少しずつ形ができていくように思います。
第二章 体験談
1、ダルクにつながってから
僕はシンナーを始めとして、覚醒剤には十年ぐらいはまって抜け出れなくなって、最終的には31歳の時に交番に自首して逮捕されたんです。ダルクにつながって覚醒剤がとまり、来月で11年になります。
僕が逮捕されてから親が東奔西走しまして、ダルクという施設があると探しあててですね、ダルクの赤本というのを買ってきて、拘置所に差し入れしてくれました。その時、初めてダルクを知ったわけです。
それまで何度かテレビのドキュメンタリーとかを見て少しは知っていたんですけど、僕が行くところじゃないなと。ダルクというところは精神病院や刑務所に入ってもやめられん人が行くところなんだ、僕はクスリさえやめれば普通の人だ、という認識でした。それは違っていたと、あとで気づくわけですけれども。
僕は初犯だし、自首もしているということで、地裁の判決は懲役一年、執行猶予三年という刑でした。とにかくダルクには入寮したくありませんでした。それでも、親の顔を立てるために三ヵ月ぐらいダルクに行ってやるかということで、相談と見学を兼ねて東京の荒川にある東京ダルクに行ったんです。
ものすごく汚くて、おどろおどろしくて、入寮仲間もちょっと恐いイメージでしたね。精神薬を飲んでずっと一点を見つめる人がいたり、親切な人がコーヒーを持ってきてくれるんですけど、手が震えてほとんどこぼれてしまったんです。コーヒーが甘いんですよね。砂糖をいっぱい入れて。
東京ダルクに仕方なく入寮して、約一年、グループワーク、ミーティングに出席しました。ダルクの最大の約束、守らなければならないことは、「一日三回のミーティングに出る」ということだけです。ほかの約束事はありません。他の決まりは住んでいる人たちで決めて、モラルを持った生活を自分たちでしてくださいということです。最初はルールをいっぱい作ったけど、破ってばかりいるんで、近藤が決まり事は一つだけ、「一日三回のミーティングに出ること」にしたらしいです。
僕は埼玉の生まれなんで、地元の生活保護を受けてダルクに入ろうと思ったんですけど、いざ入寮となったら生活保護がなかなか認められなかったんですよ。小さい町では薬物依存症ということがなかなか理解されないし、僕はどう見ても健康そうだし、どう見ても働けるし、この人に生活保護を与えていいものかどうかと、ものすごく疑われました。
何度も何度も地元の市役所に行って、泣いてお願いして、やっと認めてもらえました。それで入寮するんですけど、三ヵ月目に再使用してしまうんです。ダルクといえども必ずクスリがとまるわけでなく、ダルクにいながら再発する人がいて、その人につられてしまったわけです。
薬物依存症は否認する病気なんですけど、僕も薬物依存症だということがなかなか認められませんでした。僕のそれまでの認識は、クスリをやめようと思えばいつでもやめられるということだったんです。でも、それは間違いなんです。二、三ヵ月は自分の意志でとまります。何とかやめることはできるんですけど、いったんやめても必ずまたやってしまうんです。
僕は覚醒剤を再使用したことをものすごく悔いました。何しにダルクに来ているんだと。覚醒剤を本当にやめるために来たんじゃないのかと。自問自答し、そこで初めて自分を見つめ直すことをしました。ダルクでいう底つきですね。それまでは親が言うから入ってやるかぐらいのもので、お客様気分でしたから。
リラプス・プログラムをしたことは僕にとってターニングポイントだったですね。これをきっかけにしなくちゃいけないと思いました。人のためにクスリをやめるんではまたやってしまう。これからは自分のためにどうしたらいいかを真剣に考えないと、またリラプスすることに気づきました。
それまではミーティングでうまく話せなかったんです。当たり障りのないこと、今までのことでなくて先のことですね、三ヵ月したらここを出て仕事をするんだというようなことしか話さず、自分の内側にある気持ちをちゃんと話せませんでした。
リラプスしてからはミーティングで徐々に自分の内面や今までしてきたことを話すようになりました。僕は本来あまりしゃべる人じゃないんですよ。でも、ミーティングで話すことを続けたおかげで、こうやって人前で自分のことを話すことができるようになったんです。
ダルクの教えに「今日一日だけクスリを使わない」ということがあるんですね。今日一日だけやめておくということをくり返し、それの積み重ねであることを教えていただきました。今日使わないために何をしたらいいのか。一日三回のミーティングに出ること。ダルクかNAのミーティングに参加することだとわかりました。ミーティングに出ることによって今日一日使わないという生活を毎日やらしてもらいました。
僕はクスリと僕の今までの生き方にどう因果関係があるのかがわからずにいたんです。ダルクでそれを教えてもらうことになったんです。薬物をなぜ使うのか、その本質ですね。僕はどういう場面になるとクスリを使いたくなるのかが少しずつわかってきました。じゃ、そうならないためにはどうしたらいいかという方法も、先にやめている人たちがまわりにいますので、アドバイスを受けながらやってみました。
そうやっていると自分のことをいろいろ気づくわけです。入寮するまでの三十年間、一生懸命働いても何も報われていない。お金は貯まらないわ、彼女はできないわ、何一ついいことがなかったという認識なんですね。つまり、自分を否定している。俺なんてつまらない人間なんだと思ってた。
そんな中で覚醒剤と出会って、ものすごくやる気と前向きさをもらったんですよ。それまでは毎日パチンコに行くだけの夢のない生活でしたから、覚醒剤に没頭するにはもってこいだったと思うんです。覚醒剤がなかったら、もしかしたら自殺してたかもしれないという人生だった気がします。そんなことをミーティングで話したんですね。
それと、出会いが大きいと思います。今まではクスリをやってる人しか出会ってなくて、やめてるヤク中に会ったことがない。やっているヤク中とか売人しかつき合わない。やめているヤク中に会うのはダルクで初めて経験しました。それで衝撃を受けて、俺にもできるんでないかなと。
目の前に仕事をしていて自立している人、結婚して子供が生まれて幸せな家庭を築いている人がいるわけです。もしかしたら僕もこうなれるのかなという気になるし。そういう人が一人、二人ではなくて、日本中に、世界にも大勢いるわけですよね。そういう人に会うとものすごく勇気をもらって帰るというか。ダルクではみんな知り合いになれるんです。だから、出会いがものすごく大事なんだなと思うんですね。
そうこうしているうちに、気がつけばクスリをやっていない時期が延びていきました。クスリがとまってから半年以上たってたんですね。ダルクから「アルバイトに行ってみなさいよ」と提案されました。NAのミーティングに毎日必ず出席するのが仕事をする条件です。
いい仕事が見つかり、パートで働くことになりました。そのへんからですね、ハイヤーパワーがいるんじゃないかということが実感できるようになったのは。すべてのことに全部意味があって、僕がヤク中になったのもなるべくしてなったんだ、そういう道のりだったんだと認識できるようになりました。
ダルクはいつまでもいるところじゃなくて、一年ぐらいしてからアパートを探して自立するのがコースなんです。不動産屋に行くという生まれて初めての経験をし、一軒目でいい部屋が見つかりました。晴れてダルクから卒業して、仕事に打ち込みながら夜はNAに参加するという生活をしました。
不思議なもので、クスリがとまるとほかの依存対象物が出てくると言われているんです。覚醒剤に伴う依存がからみ合っているんですね。僕は覚醒剤をやっている最中からすでにいくつか持っていたんですよ。覚醒剤とパチンコがセットになっていまして、覚醒剤がとまったと思ったら、今度はパチンコの病気が出てきたんです。それはダルクを出てから一年以上たってからのことです。
NAに行く途中にあったパチンコ屋に何気なしに入って、その時は出たんですね。それから入りびたりになって。結局負けるんですけど、どうにもとまらないというか。給料の70%ぐらいですかね、使ってました。米とか漬け物とかを買っといて、あとの金は全部パチンコに使ってしまうという生活です。家賃と光熱費は引き落としになっていたので何とかなってたんですけど、にっちもさっちも行かなくて何をしとるんかなという。パチンコするために働いているという感じになってきました。
そんな時に、NAで年に何回かギャザリングといって、日本中の仲間が集まって情報交換したり、話し合ったりして、みんなで薬物をやめていこうという会があるんですけど、そこで近藤にダルクの職員にならないかと声をかけていただいたんです。そうして、群馬県の藤岡にあるAPARI藤岡研究センターというところにスタッフ研修で入ることになりました。
ダルクの職員というのは僕にとって一番向かないであろうと思っていた仕事なんですね。というのも、自分の世話もできないのに、しかもパチンコでつぶれそうになっている僕が仲間と一緒に生活できるかなと。団体生活が好きではないんですよ。でも、ほかの仕事を探すのも面倒くさいし、流れに身をまかせてみようかなと思ったんです。クスリをやめる基礎を東京や群馬できっちり研修して、ダルクの職員になりました。だめならやめればいいという考えでやり出してから、はや十年がたってしまいました。一番長く続いている仕事なんですよ。
みんなと一緒に生活したり、学校とか刑務所とかいろんなところに行かしてもらって、今日のような自分の恥しい体験を話すことによって、今日一日のクスリがとまるんですね。そういうやり方を教えてもらいました。
ダルクの職員をやらしてもらいながらいろんな経験を積ましてもらう中で、また新しい縁が生まれたんです。2008年10月に、島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の矯正施設がオープンしました。ダルクの職員がそこで覚醒剤教育をするということになって、だったら広島にもダルクを作ろうということになったんです。僕は広島に住んでいたことがあるし、ほかに来る人がなかったんで、僕に白羽の矢が立ったんです。ということで、三度目の広島行きが決まりました。
僕は広島に縁がありまして、覚醒剤をやり始めたころ、友達の行っている会社の社長が広島の人だったという関係で、広島のとある工場に派遣労働者として来てるんです。二度目はこれから話しますけど、地元におれなくなって逃げ出した先が広島だったわけです。
僕はダルクに入寮したてのころ、こういう助けを求める施設が広島になかったということをものすごく感じて、知っていれば自首しなくてすんだんじゃないか、前科一犯にならなくてよかったんじゃないかという思いがありました。そういうこともあって広島にダルクを作りたいと思っているんです。
十年前の僕みたいな人が結構いると思います。僕のようにやめたくてもやめれなくて困っている仲間がいる。その人たちの助けになることが、僕自身が今日一日やめる糧(かて)になるんですね。十年間クスリがとまっているからといって、薬物依存症が治ったわけではないんです。だから、ダルクがないと僕が困るんです。自分のためにもダルクを作っていきたいなと思ってます。
2、ダルクにつながるまで
僕の親は二人とも身体障害者でして、一人っ子です。シンナーは12歳、小学校六年の時に初めてやりました。当時、インベーダーゲームがはやっていて、ゲームセンターに入りびたっていたんです。ゲームをしてたら、ヤンキー、不良の中学生が来て、うまいとほめてくれたんですね。それで気をよくしたというか。見た目は恐いんですけど、仲良くなってこの人たちと一緒にいたら、後ろ盾になってくれるんじゃないかと思ったんです。それというのも僕は見てくれはでかいんですけど、それとは反対の性格でして、図体ばかりでかくて気が弱く引っ込み思案なんです。それで後ろ盾がほしかったんですよ。
ちょうど夏休みですから、毎日その先輩の家に遊びに行ってました。いろんな悪さをしました。スイカやメロンを盗みに行ったり、バイクを乗り回したりして。それがものすごく楽しかったですね。夏休みの終わりころ、遊びに行ったら何人かがシンナーを吸ってたんです。ラリってるわけです。「よう来たな。お前もやれや」と言われた時に断れなかったんですよ。三つ年が離れている先輩ですから。
もちろんやったらいけんという認識もあったし、教育もされてましたけど、そんなこと起こるわけないだろうと思ってたですからね。急にそんなことになって、いやだと言う勇気もなかったんですよ。とりあえずつき合って吸ってみたら気持ち悪かったです。で、その場かぎりにしました。
中学に入ってからはあんまりいいことなかったですね。野球部に入って一生懸命やろうと思ったんですけど、練習がきつくて。グラウンド20周とか球拾いばっかりさせられて、いつになったらボール持たせてくれるんだろうか、という学校だったんで、肥満児の僕は耐えられなかったんです。
僕は丙午生まれで子どもが少なく、小学校では一クラスしかなかったんですけど、それが中学校ではよその小学校と一緒になって三クラスでした。挫折した上に、他の中学校から来た子ともつき合わないといけないという苦労があったわけです。
僕は身体がでかいし、太いズボンをはいてるから目をつけられるわけですよ。「体育館の裏に来い」と。「生意気だ」と言われて殴られて、金までせびられました。その時に思ったんです。このまま中学生活を送るわけにはいかないな、こりゃ先輩に頼むしかないなと。三つ上の先輩の後ろ盾がまた必要になったわけです。
本当は親や先生に相談することなんでしょうけど、僕のその時の頭の中は、僕を殴った奴にも先輩がいて、そいつの先輩よりもえらい先輩じゃないとだめだということがあったんですね。僕の先輩は名の知られたワルだったので、その先輩に言うしかなかったんです。それにはシンナーを吸うつき合いをしなくちゃいけなかったわけです。
わかってるけどしょうがなく、先輩に頼んだら快く承諾してくれたんですね。ついでに「やってみろ」と言われてやったシンナーは気持ちよかったです。いらいらやいろんな悩みやらあったのが、シンナーを吸ってぼうっとしているうちに楽しいことに変わっていくんです。楽しいことしか思い浮かばなくなって、夢の中にいるようで気持ちがふわふわして。これにははまりましたね。
それと、一緒にやることがきずなの一つというか、先輩との約束事というか、二人だけの秘密につながったし。土曜日とか学校が早く終わる日には先輩の家に行ってシンナーを吸うというのが日課になったんです。事あるごとにシンナーを吸ったですね。
そんな中学生活を送っていたもので勉強できなくて、高校は行きたくなかったんです。親がどうしても行けと言うので、仕方なく最低レベルの高校に行きました。ここはワルの巣窟でしたね。毎日、暴走族が校庭に入ってきたり、そういう学校でした。でも、それはそれで楽しかったんですけど、学校の勉強についていけなくなったんです。毎日シンナーを吸ってましたから。
半年ぐらいで高校はやめました。先輩は職業訓練校に行って電気工になっていたんで、先輩が勤めていた電気屋に僕も就職したんです。そのころシンナーは吸ったり吸わなかったりでしたね。親方に怒られたり、つまんないことがあったりすると吸う程度だったです。
そんな僕にも親友がおりまして、その友達も電気屋になったんです。遊びに行く途中に僕はバイク事故を起こし、後ろに乗ってた友達を死なせてしまいました。16歳の時です。わき見運転が原因でマイクロバスに衝突しまして、友達は前に投げ出されて前の車の天井に落ち、さらに頭から地面にたたきつけられて、六時間後に死にました。
友達が死ぬか死なないかという時に、僕はシンナーを吸ってたんです。耐えられなくて、泣きながらシンナーを吸ってました。目が覚めた時に電話が鳴ったんです。「今、死んだ」という電話でした。
大事件でしたね。えらいことをしてしまったという自責の念と、人を死なしてしまったというでっかい荷物を背負い込んじゃったんです。友達のためにも死ねなくなりました。自殺はできないなと。こいつの分まで生きてやらなくちゃいけないんだということを胸に秘めて生きてきたつもりなんですけどね。
死んだという電話がくる前に吸ったシンナーが最後になりました。免許は取り消しになったので、仕事には毎日十キロぐらいを自転車で通いました。そして、親方に「違う仕事につきたい」とわびを入れて、トラックの運転手になったんです。
それからしばらくはクスリをしませんでした。それなのになんで覚醒剤を始めたかと言いますと、トラックの運転手を勤めたんですけど、仕事がきつくて19歳ぐらいの時に辞めたんです。そのあとどうしようかと思ってたころにスナックに行ったんですね。
お酒は僕、だめなんです。身体にあわないというか。頭が痛くなるか、眠くなるかなんですね。でも、場の雰囲気が楽しくて、誘われるといやだと言えないし。いつも僕はしゃきっとして、酔っぱらった仲間を送り届けるという役割だったんです。友達が酔っぱらった姿を見るのが楽しいという感じでした。お酒はコントロールできるんですよ。
ショーパブみたいな、物まねショーとかダンスショーとかがある店だったんですけど、物まねのうまい人がいまして、その人にあこがれたんですね。女にもてるし、かっこいいし、ちょっと芸能人っぽいし。この人といたら楽しいことがありそうだなと思って、一緒に遊ぶようになったんです。シンナーの時と同じですよね。
ある日、遊びに行ったら、打つ瞬間だったんですよ。そして「お前もやれ」と言われて、断れなかったんです。その時に「またかよ」とは思いませんでした。今なら、自分を振り返って見ることができるんですけど、その時はシンナーに出会った時のことなんてさっぱり抜けてますから。もしくは、シンナーやめれたんだから覚醒剤ぐらい大丈夫だと思ったりもしたんですね。
「やるか」と言われた時に一瞬葛藤があったんですけど、「一回ぐらいならいいか。つき合い断るとあとが面倒くせいし」というので打ってもらったんです。一回目は薄くて効かなかったですね。「こんなもんですか」と先輩に言っちゃったんです。そしたら濃いのを入れられて、ズコーンときましたね。あれっという感じでした。
覚醒剤をやるとすべての考え方がプラスになったんです。それまでずっと劣等感を引きずってましたから。引っ込み思案で気が小さくて、女の子をナンパすることもできない。それが女の子に気軽に声がかけられるし、多弁になるし、今までの性格とは真逆になったんですね。こんないいクスリだったのかと、目から鱗状態になりました。信じるものは覚醒剤しかなくなったんです。
あとから考えてみたら、なんで断れなかったのかと思うんですよ。誘われた時に気づくべきだったんです。だけど、まさか同じような場面に出くわすとは思ってもいなかったし、その人が覚醒剤をやってると思ってつき合ったわけじゃないし。自分はほんとにとっさの判断ができないんだなと思いますね。先輩と後輩の間柄でも「それだけは勘弁してください」となんで言えなかったのかなと、今は思うんですけどね。
近藤の話だと、「それは味方がいないからだ」ということになるんです。一対一で対した時に、自分は相手に勝るものを何一つ持っていない。そうなると相手に言われたことにノーと言えない。覚醒剤だけじゃなくて、ほかのことについても「いや、それは違います」と言えないのはなぜだろうと考えた時に、知識だったり、後ろ盾だったり、味方がいないと、対等になれないからなんです。
今はどうかというと、そういう考えを一切取り払おうとしています。近藤は67歳で、僕は42歳なんです。社会の中で生きている以上、目上の人と話す時にはそれなりに考えなきゃいけませんよね。だけど、ダルク内だったら割と対等にできるんです。「それはおかしいですよ」と言えますからね。昔だったら上司に対して刃向かうなんてできなかったんですけど、今なら「おかしい」と言えるようになりましたから。ちゃんと自分の意見を言うことができるようになった。
以前はわざわざクスリを使って、クスリの力を借りないと言えなかったし、言えないうさを晴らすためにクスリをやるということが多かったんです。ちょっとだけ大人になれたかなと。クスリを使うと、使い始めた年齢で脳みそはとまってしまうと言われてるんです。だから、僕は16ぐらいのままだったんでしょう。やっと精神年齢が20歳ぐらいになったかなという感じがするんですけどね。
話は戻るんですけど、最初のころは先輩から三千円だか四千円だかで打ってもらってたんですよ。腕を出して「お願いします」と言って。でも、だんだんとそれじゃ飽き足らなくなって、覚醒剤ほしさに暴力団に入ったんです。自分で打つようになってしまってからは、坂を転げ落ちるようになりましたね。
ヤクザの舎弟になったといっても、準構成員にもなってなかったです。部屋住という制度がありまして、親分の身の回りの世話をするんです。親分の運転手になったりして。そういうところに入りました。こづかいと称して生活費をくれるし、礼服も仕立ててもらいました。修業期間を三年とか五年すると、事務所を持たせてもらえたりして幹部になるんです。
そのころ、ヤクザの兄貴分に「吸え」と言われてシンナーをしばらくぶりに吸ったことがあるんですけど、その時はのどが痛くて吸えなかったですね。それからは吸ってません。
覚醒剤がいじりたいのにそれとは違うことをやらされて、でも覚醒剤をやりたいからどうしても手に入れるんですね。結局は見つかってはボコボコにされ、顔をはらして青あざを作るんですけど、痛みが消えるとまた使ったり、痛いから使ったりして、いつまでもクスリがやまないんです。
もしくは、仕事をちゃんとするために覚醒剤が必要になるわけです。ヤクザは時間にうるさいから時間を守らないといけない。夜、寝ないで待っていなくてはいけない仕事ですから、眠くても寝れない。覚醒剤をやると寝なくても大丈夫なので覚醒剤を打つ。それが慢性化してくると、時間が守れなくなって、結局一年ぐらいでヤクザをやめるんです。というか、逃げたんです。何度目かの寝ぼうの朝に、見つかったら殺されるなと。クスリ使ってますから、被害妄想もあったんでしょうけど。
その時になぜか西に流れたんですね。一回広島に行ったことがあるということもあって、気がついたら高速道路を走ってたんです。遠くにいる知り合いとなると広島しかなかったんで、知り合いを頼って逃れてきました。知り合いの奥さんに正直に話したんです。心機一転、こちらでやり直したいと話をしたら、快く運送屋に頼んでくれました。
最初のころはてきぱき仕事をして、会社のイエスマンでしたね。いやだとは一度も言わないで、来た仕事はすべてこなして信用を得ました。一生懸命働いて広島に骨を埋める気で仕事をしてたんです。不思議と覚醒剤はとまりました。買うところも知らないし。クスリのことを忘れて馬車馬のように働きました。
ある時、仕事がきついなと思ったんですよ。広島、大阪間のピストンを一週間ぐらいした次の日に東京へということがあって、とにかく忙しかったんですね。そんな時に、うとうとして事故りそうになりまして、はっと思いだしたのが、こんな時に覚醒剤があったらなあということなんです。薄いのでも一発打っとけば大丈夫だという思いが出てきました。
そんなことを思いながら仕事をやっとるもんですから、疲れもひどくなってきて、どこかにないかなと思ってたら、ある運転手が使っている人だったんです。というのも、ヤク中は顔見たらすぐわかるんですよ。もしかしたらこの人、持っとるかな、買うところ知っとるかなって思って、うまく取り入って聞いたら、手に入るルートが見つかったんです。そうして三年半ぶりの覚醒剤を打ったんです。
やっぱりこれだなと思いましたね。それまでの苦しみとか、仕事のストレスとか、疲れとか、ものの五秒で飛んでしまったんです。やる気みなぎる身体になって、ようし、これで東京まで寝ずに行けるという安心感でものすごく前向きになったわけです。これからは打つのは仕事のきつい日とか月一回とかだけにして、うまく使おうと思いました。甘い考えが出てきたんですね。
ところが、思ったようには使えんのですよ。最初は次の日に東京とか遠くに行く時だけ使ってたんですけど、だんだんと間隔が短くなっていくわけです。結局は仕事のためじゃなくて使うようになったんです。
覚醒剤をやってると、仕事の最中にサービスエリアに寄った時とか、自分の車が汚かったりすると、それが気になってきれいにしないと動けないんですね。僕はもともとトラックをギンギンに飾るのが好きで、きれい好きだったんですよ。覚醒剤を使うと余計に気になって、いったん気になりだしたら朝まで車を磨いてしまうんです。
そんなことをして荷物を遅らしてしまい、クビの危機になりました。世話になった人にも「クスリをやっとるんじゃないか」と言われたんです。僕は腕に打っていたんですけど、ヒジの内側を見せて、「やってないでしょ」と言い張って使いつづけました。違うところを見せるんですね。
最終的には荷物を何べんも遅らしてですね、会社には寄れんから逃げちゃったんです。ちゃんと「やめます」とは言えず、トラックを会社に出入りしているディーラーのところにとめておいて、そのまま行方不明にしてしまったんです。最悪のやめ方なんですけど、それしかできなかった。
その後、よその運送屋に雇ってもらっても、信用を得たあとはまた仕事の忙しい時に覚醒剤をするわけです。いつでも電話一本で買えますから。何度も職場を変えてもやっぱり同じことで、広島の運送会社に僕の名前が知れ渡って、こいつはだめだという感じになってしまったんです。
それからはパチンコ屋の店員とかいろいろやったんですけど、給料が入ったとたんにクスリをやる。一生懸命働いた自分にごほうびという感覚ですかね。給料をもらっても一日二日で使ってしまうんですよ。パチンコと覚醒剤がセットなので、夜に覚醒剤をやって、次の日は朝から閉店までパチンコ屋にいるという感じです。
そんなですから、金がいくらあっても足りない。しんどい思いをして仕事をして、給料をもらったら一気に使うという生活でした。お金もなくなって、仕事もなくなって、にっちもさっちもいかなくて交番に自首するはめになったというわけです。
自首するちょっと前に、公園のベンチに座って何でこうなってしまったんだろうと考えました。そうしたら祖母の声が聞こえてきたんです。祖母はその時は死んでたんですけど、僕は死んでるとは知らなかったんですよ。ばあちゃんの声が聞こえて、幻聴なんですけど、「智義、もうだめだから自首しな」と言ったんです。
その時は自分で覚醒剤をとめることができない苦しさ、やめたいのにやめれないというドツボにはまってましたから、覚醒剤をとめるには警察に行くしかないということで、交番に自首しました。泣き崩れましたね。涙があふれ出て。そうこうしているうちに警察署に連れて行かれて、おしっこを調べたら陽性で、警察に拘留され、判決は執行猶予が出たということです。
3、薬物依存症になって
ヤク中になってよかったということはありますね。ヤク中にならなかったらこういうところで話をすることもなかったですし、ヤク中になったからみなさんと知り合いになれたわけですし、新しい世界を教えてもらったということではよかったなと思います。
それと自分を変えるきっかけになったと思います。薬物を使って変わるんだったら、それは当たり前なんです。薬物を使わずに生まれ変われるんだということをダルクで教えてもらったのはものすごくありがたいと思っています。
まるっきり別人になるなんてことはできないですけれど、自分のいいところと悪いところを見比べることができたわけです。足りないところを知り、考え方とか生き方の間違っているところを教えてもらいました。
それまでは自分のことを真正面から考えることなんてしなかったし、考えようともしなかった。自分のことをこんなふうに話したこともなかった。ただ働いてパチンコに行くというだけの生活だったですね。それが覚醒剤に出会ってダルクにつながったおかげでここまで来れたわけです。いろんなことを教えてもらったし、さまざまな出会いもあったし。そうして、こうやって話ができるようになったんですね。
僕は覚醒剤がとまってから、生まれて初めて飛行機に乗って海外旅行したんです。NAの大会に行くためです。今年もバルセロナでNAの世界大会があるんですよ。行きたいですね。他にもやめてから始めたことがいろいろあります。趣味も広がったし。釣りとかゴルフとか。振り返って考えてみると、そういう考えにさせてくれたのはヤク中になったからだというのはあります。
(2009年1月24日に行われたおしゃべり会でのお話をもとにして、近藤恒夫『薬物依存を越えて』やダルクの出版物を参考にしてまとめたものです)
|