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  五百井 正浩さん「過去を振り返り、今思うこと」
                             
 2004年6月26日

 五百井と申します。神戸からまいりました。今日は今、思っていることをお話しさせていただいて、皆さま方のご意見、お考えをお聞きし、ヒントをいただければと思って寄せていただきました。

 私は東本願寺に所属する僧侶でございますけれども、いろいろ本を読んだり学んだりしても、命ということがよくわからないんですね。
 以前は、「命」と漢字で書くのが普通だったんですけど、このごろ平仮名で「いのち」と書いてあるのが多くなったように思うんです。「生命」に「いのち」とふりがなをつけたり、仏教書を読むと「無量寿」と書いて、「いのち」とふりがなをうってあったりします。
 どうしてそうことになっているのかなと。「命」では表現しきれんようになってしまっているのか、それともいろんな命があるということかなと思ったりもしております。

 また、全く知らない方の命とテレビ、新聞等でこっちが一方的に知ってる方の命、あるいは友人、家族、家族でも祖父母、両親、兄弟、子供、連れ合いと、それぞれ命の受け止め方、感じ方が違いますね。また自分自身の命とも違う。動植物の命となるともっと違うように感じます。
 自分を含めてのより近い身内の命となると、何か起こると真剣になりますけど、他の命というのは所詮他人事というか、何も考えてない時が多いように思います。

 以前、飛び込みがあったというので電車が止まったんですね。その時に、「また飛び込みや。また止まってる」という声が聞こえて、電車が遅れたことへの怒りを言うているんやけど、飛び込んで亡くなられた方のことは誰もしゃべってないなと、その時ちょっと気になったんです。
 それとか、イラクでも戦争状態になってますけど、テレビで映されている映像の奥には、人が亡くなっている事実があるわけですが、それが見えない。

 そういうことを言い出したら、いろんな命があるわけで、こんなことを考える人はあまりいないでしょうけど、たとえば薬ができるまでどんだけモルモットが実験台になっとんやろとか、動植物の命をいただかんと自分の身が保たないということもある。
 ある人にそういう話をしたら、「そんなこと考えてもの食べてたら、食べもんがまずうなるだけや」と、えらい怒られたことがあるんです。けれども、そういうことを考えることも必要ではないかと思ったりもします。

 私は田舎の育ちですんで、親から「米いうのはお百姓さんが一生懸命作ったんやから残したらあかん」というふうに育てられたんですけど、友達のとこは子供が食べもんを残すのが当たり前やし、同世代の女の子なんか、「全部食べたら太りますやん」と言うてますからね。
 一生懸命育てた命を「ありがとう」も言わずにそのまま捨ててるというのは、命というよりモノという感覚になってしまっているのかなあと思います。

 「いただきます」「ごちそうさま」とあまり言わなくなっているということもあります。家で言ってるんかもしれませんけど、レストランで言ってる人はほとんどいないですね。

 ある方に「人生には三つの坂がある」ということを教えていただきました。上り坂と下り坂、これは大体予想がつくと。もう一つ「まさか」という坂がある。この「まさか」という坂に出会って始めて感じるものがあると教えてくださったんです。
 それはただ言葉として頭に残ってたんですけれど、それがどういうことなんやということを考えてみまして、私は今年で40になるんですけれど、そのわずか40年間の人生でも、いろんなことがあったなという思いがめぐっております。


 私の生まれは神戸ではないんです。同じ兵庫県ですが、揖保郡というところです。「揖保の糸」という素麺の産地で、近所の家はみな素麺を作っている、そういうところで生まれ育ちました。

 そして20歳の時に、今の神戸のお寺に養子に入りました。そこは87歳と82歳の実子のない老夫婦の家だったんです。明治の人で、目上の人の言うことは絶対なんです。「決めた。来い」で終わるんですよ。
 私も何もわからずに入ったところ、明治そのものの考え方の人ですので、若者は親より早く起きて、庭掃除し、炊事、洗濯してから、年寄りが起きてくるのを待って、それから出ていって、二人の病院とかのことや家のことをやって、帰ってきたら夕方の買い出しに行って、ということが続いておりました。

 寺を出たろうと思ったこともありましたけど、総代さんが来られまして、「この寺は一年半以上保った人がないんや。頼むから我慢してくれ」とまず言われたんですよ。
 ただ、私は田舎もんやから、街に出たいという意識があったんですね。神戸やから引き受けたという。これがどっかの過疎地やったら断っとったかもしれません。

 それが二年目に、いきなりそれプラス養父の介護になったんです。大学を卒業した時です。
 22すぎのころでしたけど、友達から遊びに行こうと誘われても断ったり、友達の披露宴には全部欠席で、「人づきあいの悪いやっちゃ」と、みんなから言われてました。そんなわけで20代では全然遊んだことはないですね。

 養母は「私、しんどいこと、汚いことするのはイヤやから、あんた一人でやっとき」で終わってたんです。だから養母は、養父が死ぬまで一回も介護したことがなかったんです。
 そのことに対して私は腹を立ててたんですが、養父は身長が183センチあったんで、介護してかえって腰でも痛められたら、二人の介護をしなくてはいけない、それは不可能だなあとも思ってました。

 介護保険なんかないですし、家族が見るのが当たり前だという感じでしたし、またそういう施設があっても、養父は他人にはまかせたくないという意志があって、全部お前がしろということだったんで、ずっと介護、下の世話からなにからそんなことばっかりしてました。

 最初はそないきつい介護でもなくて、大変な介護になったのは最後の一年でしたね。介護疲れで25の時に倒れました。声が出なくなったし。養父は往診に来ていただいてましたから、私も一緒に点滴を打ってもらってました。
 今、同じことをしたら、とてもやないけど倒れてますね。まわり見てたら、介護を始めるのは50代60代からですよね。それではとても無理やろうと思います。

 精神的にストレスでしたし、炊事、洗濯から、すべて一人でしなくてはいけなかったですし、大変でしたけど、今まで学生でわりと時間があって、なんかせなあかんなという意識があったから保てたんかなとも思います。

 養父は自律神経が狂っておりましたので、真夏でもお風呂に入りながら、熱いお茶を飲みながら、寒いからストーブをたいてくれと言うんですよ。まわりのもんは滅茶苦茶ですね、汗タラタラで。
 そういう時にかぎって、お客さんが来られたりとか、電話が鳴ったりするんですが、誰も出ないので、「お宅はいつも留守ですか」と怒られたりするようなこともたびたびありました。

 養父が寝たきりになった時が90を超えてましたので、甥や姪いうても、年が上なのは80ぐらいなんで、寝たきりになってらっしゃる方もいるんですよ。なのに「何で甥や姪が来てくれへんのや」言うてました。自分だけが年いっていて、まわりは若いままという感覚やから、「なぜ来てくれへんのか」ということをずっと言ってましたね。

 他の人が来たら、なんか元気なところを見せなあかんというので、張り切って立つんですよ。帰られた後が大変で、バターンと倒れて、すぐお医者さん呼ばんならんことがしょちゅうでした。
 わがままは病気が言わせてるんやとわかってても、腹が立ちますし、言われたとおりしたら、言った本人が忘れてる。どこでストレスを発散させるかというのがありますね。

 でも、たまたま近所に元看護婦さんがいらっしゃって、こういうふうな介護をしたらいいとか、こんなん便利ですよとか、教えてくいただいて、それが本当に助かりました。

 最後は養母のこともわからなかったですね。養母がたまに顔を出すと、「向かいのパン屋のオバサンや」言うて、冗談を言っているのかと思ったら、本気で言ってるんですよ。

 私が26の時に養父が92歳で亡くなったんですが、何がどうだったのかよくわからなかったですね。ただ、生きることの大変さというか、老いること、病の身を生きること、一人の命がなくなるということの大変さということを、その場で身をもって教えてくださった時間だったと思います。


 1995年1月17日午前5時46分、阪神大震災が来ました。それでまた私の考えも変わるようになりました。
 だけど、震災がどうだったんだということがなかなかまとまらないんですよ。震災のことをしゃべれということで、昨日、一昨日と岐阜の高山に呼ばれたんですけど、やっぱり話がまとまらなかったですね。
 あれから十年近くたつんで、いやなことは忘れたいと思ってる人も多いんです。社会全体も何もなかったように動いていると思うんです。

 地震て何やったんやろうなあと考えてみると、日ごろ社会が隠してるものを見せてくれたというのが一番だったと思うんです。普段当たり前にできてると思ってたことができていなかったということでね。
 救急隊なんか当たり前にできてると思うてたけど、機能せんかったということとか、弱者と言われる人がほんとに弱者のままで見放されていたとか、つながりというものが表面上だけ塗り固められたことだったんじゃないかなあとか、そういう社会の不安というものを見せてくれたというような気がするんですね。

 行政がやっていることだから仕方がないと思ってたんですけども、なにせモノの回復ということしかなかったですね。テレビでは心のケアということが盛んに言われましたけど、心のケアという言葉自体が一人歩きして、それでもう世の中が暖こうなった気になってしまって、それだけで「おしまい」という感じなんです。
 行政も今までにないことやから、どう対応したらいいか、何を発言したらいいかわからないということがあったんでしょうし、我々もそんなもんだろうと思うてたんです。

 ところが、台湾地震が起こった時の李登輝さんの行動や発言にはびっくりしました。
 阪神大震災の時、行政のトップは迎えが行くまで自宅にいました。そのためにいろんな初動が遅れたということがありました。李登輝さんは即に飛行機で現地に入りました。
 阪神大震災の際の会見では、扇千景さんがデザインした、いかにも新品という防災服を着てインタビューされたんです。台湾では、普段着ている服で、現地を歩いたままのボロボロでインタビューしてました。
 そして神戸市長がまず言ったのは、「これで神戸空港を作る必要性について」ということなんです。ところが李登輝さんが言うたのは、「被災者の復活が国の再生につながる」みたいなことをいろいろな表現を使って言われたわけです。

 神戸というところは外国の方も多いんで、両方で被災された方があって、両方の違いについてお話を聞いたんですが、「被災者一人一人の復活が国の復興なんだ」ということと、「神戸空港は大丈夫なんか」と言うた神戸市長とはちょっと違うてたということを言うとられました。
 「それはどういうことなんですか」とお聞きしたら、李登輝さんの話は「あなたのかたわらにいますよというように聞こえた」とおっしゃいました。このイメージ、かたわらにいますよという投げかけは、私は大切なんちゃうかなあと思いますね。

 地域社会とか共生社会とか同朋とか言うけど、言葉だけが一人歩きしてるなあと思うんです。特に今、市町村合併問題とか、学校の統合とかいうことが言われていまして、それをせざるを得ないということもあるんやけど、そうやって社会を壊してる面もあるんとちゃうかなあ、ふるさと意識を持てんようにしていることも現実問題としてあるんちゃうかなあという感じを持ったりするんです。


 うちの寺では、震災で亡くなられた何人かのお骨を預かっています。小学校5年生の男の子のお骨もあって、もう十年近くたつ今でも、当時の同級生と担任の先生が毎月来られるんですよ。
 でもお母さんは全然来られないんですね。「なんでやろなあ」といつも不思議に思ってたんです。こないだ聞いてみました、「なんで来られへんのですか」いうて。「友達もこないに毎月来てるんですよ」と言うたら、「私の子供は小学校5年のままや。あの子らもう21なんや。大人や。それ見るのがつらいから、よう行かんのや」と。そして「それを主人に言うたら、いつまでそんなことを言うてるのやと怒られるんや」と。「どうしようもない」と。

 こういう場合どうしたらえんかなあと考えたんですけど、私は結論としては各地区ごとに近親者を亡くした人の会があればよかったんじゃないかと思うんです。

 あしなが育英会の人たちはそういう仕事に携わっていました。交通遺児とか自殺で親を亡くした人たちが、被災した孤児の家を尋ねて話し相手になったり、お互い支え合ってしゃべれるレインボーハウスという場所を作ったんです。精神的につらい思いをしている人を理解してケアしていく動きでした。
 また、尼崎市に英知大学というキリスト教系の大学があるんですが、そこのシスターの方は、震災でお子さんを亡くしたお母さん方を地域ごとに集めて、専門のお医者さんなり、カウンセラーなりを配置していく、悲しみを共有するという、そういうことをやられてたんです。

 ただそれは、阪神地区に一ヵ所じゃ意味がないんですね。各地区ごとに設ける。イヤな人がおるとかだったら、他の場所に行ってもいいという、そういう形のものがあったらよかったんですけどね。
 それは部分的にはあったけど、全体的にはなかったなあと。心のケアという言葉がかえってあやふやにしたという面があるわけです。


 その時によく言われたのが、トラウマという言葉とストレス障害ということです。

 トラウマというのはお医者さんの定義からしたら、自分が死ぬとか、殺されるという中で、それに対して無力な位置に立たされた時に起こった精神障害という規定があるんです。だから家が壊れたからとか、揺れたから恐かったというのは違うんだそうです。
 人間、つらい、思い出したくない体験をして、そこから逃げよう、忘れたいと思っても、思い出してしまう状態はストレス障害というんだそうです。

 トラウマとストレス障害とは治療法が全然違うのに、それが当時はごっちゃになっていたんです。それはもう、はっきり素人が手出しできる問題やないから、困ったと思ったら専門医に診せるしかないんです。

 それなのに、心のケアボランティアと称する素人が入って、いろんなことがあったんですよ。たとえば、「亡くなった子供はどこにいるんですか」と質問なさったのに、「あんた、亡くなったらどこへ行くつもりや」と言われたんですね。
 平生の場合なら、自分が考えんことを尋ねるのは横着なだけやけど、考えることもできない状態で質問した人がそういう答えをされたら、ものすごくパニックになるんですね。かえって傷つく。そういうサポートというのが全然なかったなと。

 それとか、勤めている会社がつぶれたとか、そういうこともあって、そういう二重三重の問題がごっちゃになってました。なぜごっちゃになったのか、なぜ対応できんかったというのもあります。


 それをどうやって支えるかというと、結局は人と人とのつながりちゃうかなあというのを思うんですね。生き埋めになったけど掘り出されて助かった人が、そういう人とのつながりによって、トラウマにならなかったという方も多いんです。社会の連帯のあるところとないところでは、そういうことも違うんだなあと思いました。

 新しい公民教科書には、阪神大震災では自衛隊の活躍によって復興したんだと書いてあるんです。たしかに自衛隊もよう活躍してくれました。けど、自衛隊だけじゃないんですね。自衛隊より先に来たのはレスキュー隊です。医療チームは名古屋から来てくれました。伊勢湾台風の時にお世話になったということがあったらしいんです。

 それよりも何よりも、倒れたところの八割を助けたのは近所の人なんですよ。隣のお兄ちゃん、お姉ちゃんが来てくれたんです。
 うちの門徒さんでもそうでした。あるお父さんが「生き埋めになったんを壁土を掘り返して助けたんや」言われてて、「ああ、そうですか」と聞いとったら、奥さんが「あんた、ふるえとっただけやん。私が掘り返したんや」言うて、えらい怒られとったんですが、やっぱり家族、近所という、そういうつながりが大切じゃないかなと思うんです。


 ただ、関係を作ると言うのは簡単ですけど、なかなかそうはいかへんのですよ。特にその後です。地震が起こるのは誰も止めようがないんですが、その後に社会がかけた負荷というんですか、そのことについてあんまり言われへんのですけど、たとえば「いつまでも言うとんや」という形で余計に精神的に追い込んでいることも多々あります。

 孤独死という問題がそうですね。孤独死というのはアルコール中毒の方が多いわけです。見回りサポーター制度というのがあって、保健婦等が孤独死防止のために見回る制度があります。
 マニュアルには、酒は体に悪いし、飲むと食費が酒にまわるから、取り上げろとまでは書いてないけど、「あかん」と書いてあるんですね。そうすると、その人らが訪問したら、「あの人らは酒を取り上げる人や」という認識を持たれて、話にすらならへんのですよ。ところが、飲んべえの男の人が行って、飲みながらしゃべっているところはうまいこといくんですね。

 精神科のお医者さんに聞いたら、「人と人とのつながりがあって、会話しながら飲んでる酒はアル中にはなりません」と言われたんです。「話が酒の肴になります」と。
 人と人とのつながりがなく、一人で飲んでる人がアル中になりやすいということなんですね。なるほど、孤独死という問題も人とのつながりが大事なんだなあと。

 仮設住宅というトタン屋根の住まいは、冬は寒く、夏は暑い。隣の声も聞こえる。でも、それが解消されたはずの市営住宅に入ったのに、仮設の方がよかったという声があるのは、ここまで人間関係が悪くなかったということを言っているのかなと思ったりします。

 でも、日本の近代社会が人とのつながりを大事にする人間を育ててないし、そういう文化でもないと思うんですね。生きているということが、人とつき合っていることが喜びだということがない。ただ成績がよくて、社会的に成功していると言われる地位についている人が幸せだみたいな、そういうふうになっているんですね。

 日ごろから人とのつき合いを喜びとしていないから、積極的につき合いを作ろうという自覚がない。だから行政も重要だと思っていない。そういうところにも問題があるんじゃないかなあと思ったりもするんです。

 また、連帯を強めようと思ってもできないということがありまして、たとえば「街作りはみんなでせなあかん」と、一時は連帯が強まったんですよ。それで、「こうしたい」「ああしたい」と言うたら、「いや、公園はこんだけの広さがないと予算がおりません。道路はこうしないと予算が出ません」と言われて、そこでみんなイヤになって、余計にバラバラになってしまったということがあります。
 それとか、全然知らない方が一緒に集まったから、誰も役員をやりたがらないんですね。押しつけられて役員をやっている人に対して、いろんな問題を持ってこられても、自分たちで判断できませんという形になってしまう。

 復興住宅のことで意見を求められて、「入る前に茶話会かなんかして、顔見知りになってから入るようにしたら違うんちゃいますか」と言うたら、「そんな金はどっから出るんや」と怒られたことがあるんです。けど、それぐらいのことするだけでも違うんちゃうかなあと思うんですけどね。


 震災の後に養母が脳梗塞で倒れまして、すぐに片目を失明しました。テレビ見てたら、ぱっぱっぱーと真っ暗になったというんですね。病院行くと、「これは脳梗塞や」と言われて、手術したら95%失敗する位置やそうで、「じゃ、ほっときましょう」ということになったんです。そしたら、動脈硬化になりまして、足が動かない。そして足の中指が壊疽になりました。

 養母は当時94歳でした。病院の若手のお医者さんは「手術や。切ろう」と言うんですよ。内科の先生は「投薬や」言うて、医者同士でやってるんですね。こちらから見たら、外科の若い医者にとったらええ練習台かいなという感覚に聞こえることを言うんですよ。

 薬ではダメで、結局は切断することになりました。そしたら手術したその日、すぐに葬儀社が来たんです。
 どういうことやと思って聞いたら、私、知らんかったんですけど、病院で足を切断したら、切った四肢は捨てられないから、葬儀社が委託を受けてこなごなに燃やしてしまうんですという説明を、その時始めて受けたんです。こっちにしたら手術が終わった直後に「葬儀社です」と来られたら、この人は何を考えているんだというふうに腹が立ちますよね。
 「事務から聞いてないんですか」と言われたんですが、事務長が言い忘れてて聞いてなかったわけです。そのトラブル起こってる最中に、「言い忘れてました」と事務長が来ました。

 でもまあ、手術は成功だということだったんで、まあいいわと思ってたんですけど、入院が長くなったんで肺炎を起こしたりとか、いろんなことが出てきたんです。

 そうしたら、養父の看病もしたことのなかった人がものすごく優しくなったんですよ。いろんなことに感謝しているし、普通だったら文句を言うだろうなということでも、全然言わないし。

 それまでは自分の甥や姪のことばっかり言うてたんです。震災の時に甥や姪が来てくれなかったとか。来てくれなかったんじゃなくて、来られないんですね。交通マヒやし、甥や姪も80超えているわけですしね。
 そういう事情がわからんかったのが、初めて理解できたらしくて、「自分のことだけ言うとったということが、94になって初めてわかった」と言うんです。
 そして、まだ意識がある時に言ってたのが、「私はこの年になってからわかったからいいけど、このまま死んどったら、94まで生きても若死にやった」と言いました。

 そういうことが実感として出てくるのはすごいなあと思いました。7ヵ月後、養母は亡くなりました。


 いろんな手記がありますが、私も何か書いてくれと言われた時に、こういうことを書いたら誰か怒るんちゃうかとか、傷つけるんちゃうかとか考えるんですね。だから、手記には行間にもっと言いたいことがあるんだと思うんです。誰かに遠慮して書いている部分もあるんでしょうし、ほんとのことは本人にしかわからないと思います。文章だけというのはわかりづらいですね。

 震災の時に特に感じたのは、映像では決定的にわからないのは実際の大きさと臭いということです。その時には五感全体使った、皮膚から響いてくるような感覚があったんです。映像、文字だけではわからないんです。自分自身の感覚で感じ、わかるというのがあったんですね。

 ちょっと話が前後するんですが、身体障害者の作業所や施設に勤めてる知人の紹介で、福祉施設に訪れることがあるんです。

 ある時に合唱団の方が口や耳の不自由な方に手話コーラスをしに来てくださいました。現在ではテレビの片隅をさいて手話をやってますし、落語を手話で表現することもあるんですが、当時私はそれがなんの意味があるのかと思ってたんです。そんなの歌詞カードを配ればすむことやんという感覚でおったんですね。

 それが演奏を目の当たりにして、違うというのがわかりました。手話をしながら歌われていると、聞いている障害者の方が「うー」とうなったり、足を鳴らしたりされるんですよ。それは歌い手の表情とか床の振動とか空気の振動を感じて何か表現したいけど、するすべがわからず発する言葉なんですね。そしたら、教えてあげようと手話をやってる歌い手の表情も明るくなるんですよ。
 ただ単に歌詞の意味を伝えるということだけでなしに、それをやっていることそのものに意味があるんだなあということを初めて教えていただいたわけです。

 五感の表現、それは何かを伝えるんで、こういう歌詞ですよ、これを言いたいんですよというのは、歌詞カードを渡せばすむかもしれませんけれども、それだけじゃ伝わらないものがあるんだなということを教えてもらいました。


 私自身いろんなことで救われているんですが、一つには近所の後輩の存在があります。そばにいてくれて話を聞いてくれたんです。これが震災時にある方から言われた、「同じ体験をしていないから同感はできないと思います。しかし共感はできると思います。それは心の糸が響き合うことです」ということに通じると思いました。

 それともう一人、これは酒鬼薔薇聖斗という少年にお嬢さんを殺された山下京子さんの文章です。ちょっと読ませてもらいます。『あなたがいてくれるから 彩花へ、ふたたび』という本の中の、「悲しむことの大切さ」という文章です。

「無意識のうちに私が選択していた方法は、泣きたいときは大声で泣くということでした。愚痴や泣き言も、無理に溜めないでいっぱい言います。誰かに寄り添いたくなったら、夫や友人にもたれかかります。
 つまり、周囲に大迷惑をかけない範囲で、自分の悲しみの感情に逆らわないことにしたのでした。
 悲しむということと、悲しみに振り回されることとは違います。私たちは、ここを混同してしまいがちなのでしょう。
 人間として生きていくうえには、深く悲しむということもまた重要なのだということに、ようやく私も気がつき始めたところです。
 他人に見せるか見せないかということは別にして、やはり人間には悲しまなければならない性質の事柄があるように思います。思いもよらない形で大切な人を亡くしてしまったなら、それはやはり悲しむべきことなのです。悲しむということは、自分とその人との関係を深く考えることだからです。
 深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと深い怒りを知ることができるのだと、ようやく納得しつつあるところです」

 この文章を読んだ時に、感情のままでいいんだなということを思いましたですね。泣きたい時は泣き、悲しみたい時は悲しみ、愚痴を言いたい時は言い、受け止められてから次のことをしたらいいんだなあと。
 そして、悲しんでいるのをまわりは邪魔しないであげることが本当のサポートではないかなあと思いました。

 ただ、自殺に入ってしまう可能性があるから、自分一人で悲しむのではなく、共に悲しんでくれる身内がいる、友人がいると思いつつ、こういう感情の発散をしないといけないのではないかなということも思いました。

 無理矢理「泣かずにがんばれ」とか言わないほうがいいと思うんですね。逆に「つらいね。悲しいね」と一緒に泣いてあげることができれば、そのほうがいいんではないかなあと。そして無理矢理立ち直ろうとしなくていいというではないかということを私は思いました。

 この山下京子さんは三冊の本を書いていらして、ご自身もその後、乳ガンになっておられるんです。そういうことに関して、いろんな受け止め方をされてます。
 こないだ酒鬼薔薇聖斗が仮退院しましたね。そのことについても書いておられます。ちょっとご紹介します。3月11日の朝日新聞です。

「加害男性に対して私個人としては、「社会でもう一度生きてみたい」と男性が決心した以上、どんなに過酷な人生でも生き抜いてほしいと思っています。
 私は決して犯罪者に寛容な被害者ではありません。また、決して罪を許したわけでもありませんが、彩花ならきっと、凶悪な犯行に及んだ彼が、それでもなお人間としての心を取り戻し、より善く生きようとすることを望んでいるように思えます。彩花のためにも、彼には絶望的な場所から蘇生してもらいたいのです。
 罪を自覚すれば、当然苦しくつらいことでしょう。しかし、「自分はなぜこんな思いをしなければならないのか…」との思いを突き詰めれば、あの事件にたどり着くはずです。それでも逃げないでほしい。
 そして、いつか彼の人生が終わる時に、被害者に対して改めて心から謝罪し、「自分もここまで頑張りました」と報告できる一生を送ってもらえたらと願います。
 私たち遺族に対する謝罪も、もう二度と人を傷つけず、悪戦苦闘しながらもいばらの道を生き抜いていくことしかない、と私は考えています。悪戦苦闘といっても制裁を加えるためだけのヒステリックな「苦しめ!」とはニュアンスが違います。
 現実社会は決して甘くはありません。そして、平穏な日々ばかりの人生ではないでしょう。それでも、人間を、生きることを、放棄しないでほしい。それこそが私たち遺族の「痛み」を共有することになるのです。なぜなら私たちも悪戦苦闘しながら、嵐の中をもがきながら自分の道を歩いているのですから」

 もう少し文章が続くんですけど、こういう受け止め方ってすごいなあと思い、もし私が同じ立場になったら、こんな受け止め方ができるかなあということも思いました。

 以前、山下さんのお話を聞きに行った時に言われてたのが、「もしこの人に死刑判決が出て死刑になったとしたら、自分も加害者のような気がする」とおっしゃってましたね。「それによって自分自身が間接的に人を殺してしまうことになるという思いがある」と。もっとも、山下さんもこれまでにはものすごい葛藤があったと思いますけど。


 似たような受け止め方をしていると感じたのが、緒方正人さんといわれる漁師さんです。この方は水俣病で両親を亡くされてて、ご自身も水俣病です。でも裁判を取り下げているんですね。なんでかなあと思ったら、こう言われているんです。

「自分は被害者で、チッソは加害者であるけれども、そしてチッソを怨み続けてきましたが、自分がチッソの中にいたらどげんしたやろか、あるいは自分が厚生省や環境庁の役人やったらどげんしたやろかと考えてみると、驚いたことは同じことをやらなかったという絶対的な根拠がない。自分がもう一人のチッソだと思った時は、なんちゅうか、ああという声しか出なかったですね」
と、そう思って取り下げたと言われております。そして、
「ひとつはいわゆる奇病騒ぎが世間でパニックを起こして魚が売れんようになっても、私たちは魚を食べ続けた。ふたつ目は子供が水俣病であっても生み続け育て続けた。授かる命はすべて受け続けた。毒を食わされ、傷つけられ、殺され続けても、こちら側からは誰一人殺さなかった。そういうすべての命に関わることです」

という受け止め方をされています。


 松本サリン事件の河野義行さんの話を聞いてもそのように感じるんです。奥様は身障者の認定をされましたし、河野さん自身もいまだに微熱があると言われてます。

 あんだけ犯人扱いされて、叩かれて、おまけに料金先方払いで文句が来たマスコミもあったらしいです。NHKはいまだ謝罪がなくて、でも講演依頼が来るんですって。「私はNHKの料金は払いませんよ」と言っておられました。
 麻原の判決が出た時に意見を求められて、「たぶん彼がやったとは思うけど、自分もマスコミから叩かれたから、判決が出る前に彼がどうだとは私は言いません」と話されてました。

 河野さんだけがクローズアップされるんですけど、ご家族もなんですね。当時、高校生の息子さんと中学生のお嬢さんがいらっしゃったんです。その方々の電話の応対やなんかがいいし、あんだけぼろかす言うてたマスコミや警察が来た時に、河野さんのお母さんは「まあ寒いでしょ」とお茶出してるんです。
 だから河野さんは、「母親がそんな性格やから、私も似たんでしょう」みたいな言い方をされてましたけど、それだけじゃないように思うんですね。

 河野さんは「自分が助けられたのは、勤めている会社なんだ」と言うておられます。あんだけのことがあったんだから、世間から見たら絶対に犯人ですよ。クビになってもおかしくない。それなのに社長さんが「判決が出てへんのに、社員を犯人扱いしたらあかん」言うて、入院してた時も給料をちゃんと出してくれたんだそうです。
 「だから生活できたんだ」と言うとられました。社長の支えがあったというんですね。「社長には感謝してる」と。「だから講演の時も私は会社が休みの土日以外は断るんです」と言われてました。

 その社長も当時は会社で矢面に立たされて、役員から「なんでクビにせんのや」言われたそうです。


 こうした人たちを見て、「自分もこういう受け止め方をせなあかん」と思う反面、こういうふうに思える人ばっかりではない、そうは思えない人はどうしたらいいんだということを考えます。

 そういうことに対しての答えはありません。けれども、今思っているのは、3Tということがよく言われたんです。Time(時間)、時間が解決する。二番目はTear(涙)、悲しませてあげる。そして、Talk、落ち着いた時にしゃべらす。
 そういうことができる環境作りを邪魔しないであげるということ。それから不幸が起こった時、社会がこれ以上悲しみを邪魔せず、また大きくしないということ。他人の命を思いやれない人は自分そのものをも大事にできないということ。そういうことを思ったりもしております。

 ただね、終われば忘れていくんです。忘れるのがいいのかもしれないんですけど。一回一回が違うんやなあというのがわかっとりながら、何か起こるたびに、ニュース見てひとくくりにしてしてしまうわけです。
 たとえば火事に遭ったとしたら、どう感じるか一人一人みな違うはずなのに、みな同じように思ってしまいます。違うとわかっておりながら、そう思ってしまう自分があって、今まで何を経験しとったんやと、自分なりに腹が立つ時があります。

 そういうことも含めて、私自身、どう考えたらいいんだろうかよくわかりません。それを突き詰め続けること自体が私の課題ではないかなと思っております。

 とりとめのない話になりましたけれども、これで終わりにします。どうもありがとうございました。


(2004年6月26日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです)