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岩崎 智寧さん「戦争と仏さまの心」 |
2014年7月9日 |
呉からまいりました岩崎と申します。よろしくお願いいたします。
本日は戦没者追悼法要ということでうかがいました。私たち浄土真宗の戦没者追悼法要は、すべての戦没者、それも戦争へ行かれた方だけではなくて非戦闘員、空襲で亡くなられたり、原爆で亡くなられたり、そういう方を含めたすべての戦争犠牲者を追悼してお勤めをさせていただく法要です。
また、怨親(おんしん)平等という言葉があります。怨みを持つ者も親しい者も、平等に出会っていける世界を求めるのが仏教徒です。
大切な方に思いをはせるとともに、敵対する人も大切な親や子を亡くされたんだなと思いながら、ご縁に遇(あ)っていただければありがたいことです。
自己紹介
私は50歳になります。戦後の生まれで、物の豊かな時代で育ちました。ひもじい思いをしたり不自由をしたことはありません。70年安保は子供でしたし、基本的にノンポリです。世の中のことに関心を持たずに大きくなりました。
ただ、ご縁があるといえば、私の父は広島市の生まれで、矢賀で原爆に遭いました。だから私は被爆二世なんですね。もっとも、父からそういう話も聞かずにいましたので、関心も持っておりませんでした。
大学では信楽(しがらき)峻麿(たかまろ)先生という方にご指導をいただきました。信楽先生は88歳。戦争に行かれまして、ご自身の戦争責任や教団の戦争責任を生涯かけて問うてこられた方です。そういうことをする人を教団は煙たがるので、異端扱いされました。それでも筋を通された。
そういう方の弟子だということで、わからんなりに先輩方からいろんな会に声をかけていただき、少しずつ関心を持たせてもらうことになりました。
まだ20代の頃、ご法事で平和のことについてお話をしたときに、あるおじいさんが「お坊さんは言うことが変わったわいのう」とつぶやかれた。ぎょっとしました。
何もなかったような顔をして平和のことを話しておった私ですけど、ご門徒さんは教団がやってきたことをちゃんとご記憶なんですね。
教団がどんなことを説いたか、二つほど紹介します。西本願寺の方、当時の門主は、
「念仏の大行は千苦に耐え万難に克(か)つ。国難何ぞ破砕し得ざることあらむや。遺弟今こそ金剛の信力を発揮して、念仏の声高らかに、各々その職域に挺身し、あくまで驕敵撃滅に突進すべきなり」(「皇国護持の消息」1944年)
と、敵を滅ぼすことが念仏者の生きる道だとみなさんに教えたんですね。
同じころの大谷派のスローガンです。
「迷う勿(なか)れ、皇軍は必勝す、襲敵何事かあらん。苦しむ勿(なか)れ、草を食べ野に臥(ふ)するも、護国の勤めは楽し。悩む勿(なか)れ、本願名号を信ずべし」
今から考えると、ずいぶんひどいことを東西本願寺は説いたんです。宗門全体が戦争に協力し、戦争を讃えたんですね。敵を殺すことは菩薩行だと説いたお坊さんもいました。
ところが、戦争が終わったら何もなかった顔をして平和を言うもんじゃから、そりゃあたまらんかったんでしょうね。おじいさんが「お坊さんは言うことが変わったわい」とおっしゃったのがこたえました。
私たちは何をしてきたのか。戦中戦後、私の祖父や父は何をしてきたのか。そういう疑念を抱くようになりました。
同様に、宗門全体、もっと言えば日本人は何をしたのかということを問うことを忘れてはならんぞと教えられたように思うんです。
若いころの経験は残るもので、これでいいんだろうかと思いながら五十歳になったわけであります。
どうして本願寺は戦争を推進し、門徒さんを戦場に送り込んだのか。もっと言えば、今はどっちへ向いて歩いているのか。それを問うということです。
私は、信楽先生が小学生か中学生の頃、行進の訓練をさせられたときの話が記憶に残っています。
学校の先生が後ろ向きになって下がりながら、笛をピッピッと吹いて行進をさせておったんです。その先生の後ろにバケツがあって、信楽少年はぶつかりそうだなと見ていたそうですが、先生は後ろをふり返らんもんですから、バケツに足が引っかかって派手に転んだという話です。
そのときに信楽先生がおっしゃった「自分がどこへ向いて歩いておるのか、時々は周りを見にゃならんのじゃないか」という言葉がすごく印象に残っています。
私どももお念仏の教えを聞かせていただき、「地獄真っ逆さまの身であります」と、普段お聞かせいただいていることでありますが、社会の中で、また歴史の中でどっちへ向いて生きておるのか、そういうことも時々は振り返らせていただくことを大事に思うわけです。
ある人がおっしゃった「今は戦後じゃない。もう戦前だ」という話を聞きましてね、そうかもしれんなと、ハッとしました。
私の思いでは、70年前の戦争を問い続ける人生を歩いてきたんですけど、すでに次の戦争の戦前になっている、当事者になっているんだなあと思ったことです。
人為と自然
学生時代に、「自然災害で人が死ぬのと、戦争で人が死ぬのとは違う」と言われましてね。自然というのは人間の力でどうすることもできません。戦争は人が起こす。だから、これは何とかなる。変えられるものです。自然は変えられない。これを混同してはならんということを聞かせてもらって、なるほどと思いました。
「戦争が始まる」という言い方をすると、「台風が来る」とか「雨が降る」とかのように、どこかから自然に始まるような気がしますが、そうじゃないですね。
過去の戦争もこれからの戦争も人間が始めるんです。「始まる」んじゃなくて、「始める」んです。
自然現象ではなくて人間の行為だということになると、過去の歴史に対しては、加害者じゃとか被害者じゃとか、しょうがなかったとか、そういう歴史認識が、日本の中で、また近隣の国々と共通認識がいまだに持てない。
こういう話になると大ゲンカになりますね。それぞれの立場からしかものが見えませんから、話がなかなか合いません。
そんな中でも、一つ大事にしたいと思うのは「これからはもう戦争はやめようや」という、その一点を大事に生きていけたらと思います。
もう亡くなられましたが、特攻隊の生き残りの方が、真宗遺族会ではいつも手を挙げて「どっちがええじゃ、悪いじゃ言うたら話が進まんけど、はあ戦争はやめましょうということで、これから生きていきましょうや」と言われていました。そこを大事にできたらと思うわけです。
第六潜水艇追悼式
呉の鯛の宮神社で、沈んだ第六潜水艇の追悼式を毎年やっていて、2009年から近くの小学校が参加しているという話を聞きました。
経緯をいろいろ聞いてみたら、自衛隊の後援会の人が教育委員会に依頼して、教育委員会から小学校に話が行ってですね、小学生が参加するようになったんだそうです。
ちょっと調べてみますと、その潜水艦は戦争に行って沈んだわけじゃないんです。
1910(明治43)年、訓練中に沈没し、乗員14名全員が死んだそうです。安全面で禁止されていた半潜行という、半分沈んで運転する訓練中に水が入って上がれんようになって亡くなったんです。
追悼式に小学生が作文を読むんですが、内容を知ってええっと思ったんです。どんな内容だったかというと、「非常な事態に持ち場を離れなかった。先生から、あなたらならどうしますか?と聞かれた。私なら我先に逃げる。持ち場を離れなかったのはすごいことだと思う」と読み上げたということです。私はちょっと怖くなりました。
私が子供のころは、平和教育を受けて書く作文はたいてい決まっっていて、「戦争は怖い、いやだと思いました」それでよかったんです。今の小学生は「死んでも持ち場を離れなかったのはすごいことだと思う」と言う。皆さんどう思われますか?
どういう目的で小学生を追悼式に連れていくのかよくわかりませんが、勘ぐってみると、「あとに続け」と教育しているんなら問題じゃなあと思います。「戦争はもうしません、やめましょう」という追悼の仕方なら大事なことじゃと思うんですが、「エライ人を見ならってあとに続きましょう」という追悼式なら怖いなあと思うわけであります。
仏教での戦没者の追悼というのは、軍人とか自分の側の人だけでなく、一般人や敵の人も含むすべての死者に思いをはせることです。二度と戦争を繰り返してはならないということを誓うご縁になればと思います。
「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」
日本新聞協会広告委員会が開催した「2013年新聞広告クリエーティブコンテスト」で最優秀賞に選ばれた作品です。鬼の子供が「ぼくのおとうちゃんは桃太郎に殺されたんよ」と泣いているわけです。なるほどなあと思いませんか。
私が習った桃太郎の話は、悪い鬼が村にやってきて、荒らしては物を盗って帰る。それで桃太郎が家来を連れて鬼退治に行きました。鬼を退治したので、鬼は村にやって来なくなりました。めでたし、めでたし、村が平和になってよかったなあと。
これは、このポスターのように後日談があるかもしれません。鬼の子供が聞くわけです。「ぼくにはどうしておとうちゃんがおらんのん?」と。
そしたら、おかあちゃんが「桃太郎いう奴がね、おとうちゃんを殺したんよ」と答えるわけです。きっと鬼の子は一生桃太郎を怨んで暮らすんじゃろうと思います。なんぼおとうちゃんが悪かったんじゃと言われても通用しませんよね。戦争をするということは、こういうことなんですね。
「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というポスターの一番下に「一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。広げよう、あなたがみている世界」と書いてあります。
村人にとっては鬼が死んで「めでたし、めでたし」ですが、鬼の子にとってみたら、「大事なおとうちゃんを殺して。とんでもないことしやがって」という世界なわけです。
「一方的なめでたし、めでたし」だけでなくて、違った視点からも見ていきましょうということだと思います。
私は、ハッとさせられました。正義のために敵国へ乗り込んでいく。勝ったら「めでたし、めでたし」です。こっちにとっては正義なんですが、相手にとっては正義どころか極悪人なんですね。
相手にとってどうかということを考えることを決して忘れてはならんように思います。正義のために殺された人や家族はどうなのか。いくら敵でも殺したり、命を取らにゃならんほどのことなのか。そこに立ち返ることができるようになりたいと思います。
お釈迦さまの言葉です。
「まことに、この世において、怨みに報いるのに怨みをもってすれば、ついに怨みのやむことはない。堪え忍ぶことによって怨みはやむ。これは永遠の真理である」(『ウダーナヴァルガ』)
やりやがったなと鬼を退治したら、鬼の子が怨みを持つ。鬼の子供が報復すれば、今度は村人の子供が怨みを持つ。
報復の連鎖という言葉がありますが、怨みの鎖は切れることがない。お釈迦さまが人間の心理を見通して戒めてくださっているんですね。
一度信頼関係が崩れたものを修復するのは本当に難しいと思います。家族や友人でもそうでしょう。ましてよその国に行って殺したら、いくら正義だと言っても、怨みを作って帰るようなもんです。「おとうちゃんを殺しやがって」と思っている人とどれくらい仲良うできるでしょうか。とても難しいと思います。
中国や朝鮮半島の人たちと仲良くしていきたいものですけど、お互いがやったじゃ、やられたじゃと思うとりますからね。一ぺんこじれてしまった関係の修復はとても難しいと感じます。だからこそ怨みを生むような種をまかないようにしなければと思います。
仏教は非戦
仏教はよい戦争も悪い戦争もない、どんな戦争も否定するという立場だと思います。
鬼の子の立場から考えると、「なんで殺すん?」ということですね。そういうところに立ってものを見ていくべきじゃないかと思います。
お釈迦さまの言葉です。
「すべてのものは暴力に脅えている。すべてのものは死をおそれている。(他人を)自分の身にひきあてて、殺してはならない。殺させてはならない。」(『法句経』)
自分が殴られたり、殺されたりするのはいやですよね。我が命が愛しいように他人も自分の命が愛しいのだから、殺してはならない。また、自分は直接殺さないけど、人を使って殺させようとするのをやめさせなければならない。
ちょっと前に、うちのお寺が全国ニュースで流れました。どうしてかというと、四月十四日でした。お寺の前で刃物を持った大人が小学生を脅したんです。
お参り先から帰ったら、警官がいっぱいいるし、空はマスコミのヘリコプターが飛んでいるし、何事かと思ったら、子供が刃物で脅されたんじゃそうです。
テレビのニュースを見て、どこかよそで起きた事件なら「大変じゃね」という話ですみますが、近所の事件だったら、「うちは大丈夫じゃろうか」と我が家を心配します。
三日後にお寺で花まつりをしたんですけど、保護者の人が心配されて、「ほんまにやるんですか」と聞かれました。花まつりをやって、何か事故でもあれば大変です。
それで、門のところに見張りが笛を持って立って、何かあったらピーッと吹くようにしました。式が始まったら門を閉めて、何とか無事に終わりました。
ところが一週間前なんですけど、下校時に刃物を持った男がまた出たんです。二度あることは三度ある。今度はどうなるかと思うと、他人事じゃない。
仏さまの教えは、みんな自分の命が愛しいのだから人を傷つけてはいけない、というところに立っていると思うんですが、それなのに私たちの教団は戦争になったら教えを見失ったんでしょうね、一緒に戦争しましょうと説いたわけです。
でも、数は少ないですけど、中には戦争に反対したお坊さんもいます。大谷派のお坊さんで高木顕明という方です。1910(明治43)年、大逆事件で逮捕され、獄中で亡くなりました。この方が書かれた『余が社会主義』という本にある文章です。
「極楽世界には他方之国土を侵害したと云ふ事も聞かねば、義の為に大戦争を起したと云ふ事も一切聞れた事はない。依って余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る。(略)
諸君よ願くは我等と共に此の南無阿弥陀仏を唱へ給ひ。今且(しば)らく戦勝を弄(もてあそ)び万歳を叫ぶ事を止めよ。何となれば此の南無阿弥陀仏は平等に救済し給ふ声なればなり」
これは1904(明治37)年、日露戦争のころに書かれた文章です。戦争中に「戦争はしちゃだめよ」と言うわけですから、骨のあるお坊さんだと思います。
当時はこんなことを言うと非国民です。高木顕明さんが大逆事件に連座させられたのもそのためです。高木顕明さんは大谷派から僧籍を剥奪されて追放されました。
高木顕明さんは仏さまの教え、お浄土の教えを見事に伝えてくださった。よその国を侵略してはならない。大義のために戦争をしてはならない。他の命を奪ってはならない。すべてのものを救済したもうのが阿弥陀如来である。このように高木顕明さんは説いてくださったんです。
戦争になったときに私がそんなことを言えるか。自信ないですね。尊いことをされたんだなあ、爪の垢でもいただければと思うようなことです。
日本人はこれからどう生きるのか
集団的自衛権の話です。私がこう思うという話ですが、大体3つに分けて考えることができると思います。
①もう誰も殺さない・殺されない
どこの国の誰も殺さない。私も誰にも殺されたくない。そういうふうに生きていくぞと、戦後、日本人は誓ったんですね。それが日本国憲法に書いてある。憲法の前文から抜粋します。
「日本国民は、(略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
人間同士の真心、信頼関係を構築する。お互いの信頼関係を大事にしながら生存していくことを誓うたんですね。「私も殺さんからあなたも殺さんでね」「あの人なら大丈夫よ」そういう信頼を大切にして生きていこうと決意したんです。
ということは、鉄砲やら武器を持って、それで生き残っていこうということではない生き方。それを誓うたのが憲法九条ですね。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
国際紛争解決、たとえば竹島を返せとかですね、尖閣諸島を守れとか、ああいう紛争を解決する手段として武力による威嚇、または行使を使わない。お互いの言葉で、信頼関係の中で解決していきますという生き方を誓うたわけです。私はこれがいいなあと思うんですね。
②個別的自衛権 自国は守る
ところが、すぐにこれが崩れるんです。朝鮮戦争が起こり、自衛隊ができました。自分の国を守るために武器を使うてもいいことにしようと、方針が変わったんですね。
基本的に、尖閣諸島に中国がやってくるというのは実は個別的自衛権の問題です。新聞で集団的自衛権がどうのこうのと言われると、この話かと思うんですが、そうじゃないんです。
個別的自衛権というのは、「攻めてこられたらどうするんよ。何もしないのか」ということですね。これを言われるとつらいですね。「それじゃ家に鍵もかけんのか。家族を殺されても何もせずに見とくのか」と言われると、家族は守りたいという思いを誰しもが持つんじゃないかと思います。
ただし、日本で武器を使うのは専守防衛。自分の国が攻撃を受けてからです。先制攻撃はしてはならないことになっています。さらに、必要以上の攻撃はしない。最低限にとどめる。相手の根拠地への攻撃も行わない。自国の領土、またはその周辺に限る。自分の国に攻撃したらやり返しますよ。そういう約束で戦後ずっとやってきたんです。
③集団的自衛権 他国を攻撃
集団的自衛権は何かというと、自分の国が攻撃されてなくても、仲間の国、たとえばアメリカが攻撃されたら、自分が攻撃されたと同じことにして、アメリカと一緒になってよその国を攻撃できるというのが、集団的自衛権です。
政府の言うことが二転三転して、わけがわからんようになりましたけどね。基本的に自分の国が攻められたらやり返すのは個別的自衛権なんです。自分は攻められてなくても、仲間と一緒に戦争するのが集団的自衛権です。
イラク戦争がありましたね。アメリカへの同時多発テロで、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込みました。そしたらアメリカは、イラクに大量破壊兵器があるに違いないと因縁をつけて攻撃したんですね。イラクの人は13万人亡くなったそうです。アメリカ兵は5千人死んだ。
あの戦争に日本が加わることができるようになったんです。安倍さんは「そんなことはしません」と今は言ってますけど、集団的自衛権とはそういうことです。日本が攻められたわけじゃないのにアメリカがする戦争に参加する。そんなことをする必要はないと思うんですけどね。
そうするとどういうことになるかというと、世界中に日本は敵を作っていくことになる。今まで「平和の国日本」というブランドがあったと思うんです。戦後70年間、どこの国の人も殺していない。だから、日本人はどこに行っても敵の扱いを受けない。
中村哲という、ペシャワール会というのを作って、アフガニスタンで医療活動や井戸を掘ったり、灌漑設備を作ったりしているお医者さんがいます。中村さんによると、アメリカ人が行ったら、すぐに捕まって殺されるそうですね。でも、「日本人はわしらの敵じゃない」というので活動させてもらってる。それなのに、日本がアメリカと一緒になって戦争やらをしだすと、日本も敵じゃと思われるようになる。だから、そんなことをしてもろうたら困ると中村さんが話されてました。
70年間をかけて培ってきた信頼関係を大事にして、これからも平和を守ってほしいなと私は思います。
個別的自衛権は反論しづらいですね。攻めてこられて殺されないようにすることまで否定するのかと言われると。でも、殺し合いをしないですむように信頼関係を築いていきたいと私は思うんです。いつの時代、どの国にも戦争をおこしたい人がいます。これから私たちはどういうふうに生きていくのか。考える足しにしていただければと思います。
原発は原爆のため
1967年に非核三原則を決議しました。「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」ですから、日本は核兵器とは無縁の国だと、私もそう思い込んでおりましたが、それが嘘じゃったことがばれましたね。
沖縄への核兵器持ち込みを許容するという密約があったんです。佐藤栄作さんは非核三原則でノーベル平和賞をもらったんですが、真っ赤な嘘だったんですね。日本は表では非核三原則と言ってますけど、裏では核があったということです。
もっとびっくりしたのが、外務省外交政策企画委員会内部資料というのがあって、このたび「わが国の外交政策大綱」という1969年に書かれたメモが公開されました。
「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、これに対する掣肘を受けないよう配慮する。又、核兵器の一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持ち込みに際し無用の国内的混乱を避けるように配慮する」
核を作れるようにしておこうと、政府はずっと考えておったんです。2011年に石破茂自民党政調会長は「原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという「核の潜在的抑止力」になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる」と発言しています。原発は核兵器を作るためにあるんです。
2012年には、先程紹介した原子力基本法が改定されまして、第二条にはこんな文言が入りました。
「前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする」
安全保障のために核爆弾を作る、使う、そのために原子力を使用するというんです。平和目的にかぎり、安全確保、民主・自主・公開という日本学術会議に代表される民主派の願った精神はねじまげられ、政府の思惑がここまで露骨に明文化される時代になってしまいました。
集団的自衛権が認められ、武器輸出三原則もなくなりました。日本は原則として武器および武器製造技術、武器への転用可能な物品の輸出が禁じられていたんですが、防衛装備移転三原則になりましたね。戦争の準備は着々とされています。
私たちはどこへ行こうとしとるんですかね。私が「めでたし、めでたし」と言っても、鬼の子供は「いつかやり返してやるぞ」と一生怨んで、怨みがずっと続くんですね。
最後にマハトマ・ガンジーさんの言葉を紹介します。
「自分が行動したことすべては取るに足らないことかもしれない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。暴力によって得られた勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから。
弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ。もし、ただ一人の人間が最高の愛を成就するならばそれは数百万の人々の憎しみを打ち消すに十分である。
「目には目を」という考え方では世界中の目をつぶしてしまうことになる。世界の不幸や誤解の四分の三は敵の懐に入り彼らの立場を理解したら消え去るであろう。握りこぶしとは握手できない。
明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。あなたの夢は何か、あなたの目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば必ずや道は開かれるであろう」
ガンジーさんのこの言葉は力になりますね。いくら私が大きな声をあげても、「閣議決定いたしました」と決められてしまうと、何にもやっても意味がない。そうじゃないんだ、取るに足らないことでも行動することが大切、私がどう生きるかが問題なんだと、ガンジーさんが言っているわけです。
お寺では「明日死ぬかもしれない」と聞かされますね。でも、「永遠に生きると思って学びなさい」とは聞きません。みなさんは永遠に生きると思ったらどういうふうに生きますか。もっと地球を大事にするんじゃないでしょうか。
子供や孫がおるにもかかわらず、私の本音は「わしはもう死ぬけええわ。あれらがどうにかするわい」と無責任になっておるなと気づかされます。永遠に生きるんだったら、100万年も守りをしなければならない核廃棄物を出すようなものは使わないと思います。
余談
お寺の墓地に放火されたことがあって、三回、消防車が来ました。そしてとうとう庫裏(住居部分)に放火されたんです。洗濯物に火をつけられましたが、幸い木製のベランダが焦げただけですみました。
ここまで来たら何もせんわけにはいかんなと、警備保障会社に見積もってもらったんです。ある会社は月に2万円でした。別の会社は全部セットで2千万円。「何をするんですか」と聞いたら、境内全体をセンサーで覆ってとか、炎が出たら何とかセンサーでとか、二重、三重のセキュリティになっています。
どうしたらええかわからんじゃないですか。業者の人に尋ねたら、「まあ費用対効果ですな」と言われました。これだけお金を使ったらこれだけ効果がある。どこで満足するか、2万円出したら、2万円の効果。2千万円出したら2千万円の効果、どこで納得するかだと言われたんです。
その日、テレビのニュースを見てたら、本通りの宝石店に窃盗団がブルドーザーでやって来て、全部盗っていったそうです。それを見て、こんなことをされたんじゃ2千万円かけてもだめじゃと思いました。
絶対やってやるんじゃと思ったら、どれだけガードされていてもやりますよね。スーパーでは、万引きされんように監視カメラをつけて、保安員を雇っても、それでも盗られるんですね。それでも盗ってやろうとやってくるわけですから、どれだけ備えをしても、絶対に盗ってやると思われたんじゃあ防ぎきれないと思いました。最近は、スーパーの方では、盗られることを計算に入れて値段設定されているんだと聞きました。
国を守るということも同じように思います。軍隊を作り、核兵器を持ったら安心かというとそうじゃない、相手が全滅覚悟でやってこられたら、どうやったって防ぎようはありません。私としては、いかにお互いが自分の心をコントロールし、信頼関係を構築して平和を築いていくかということを抜きにして、原爆を持ったってだめじゃないかと思うわけです。
私たちがどっちに向いているのか。どっちに向かって歩いていくのか。どうありたいのか。そこらをごいっしょに考えることができたらと思います。ありがとうございました。
(2014年7月9日に行われました戦没者追悼法要でのお話をまとめたものです)
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