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泉川 悦雄さん
「苦しみが大きいほど喜びも大きい」 |
2008年4月26日 |
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泉川と申します。よろしくお願いします。私は愛媛県の山村で、農家の次男坊として生まれました。昭和11年5月1日生まれですから、あと4日ほどで72歳になります。
小学校の時はあまり身体が丈夫じゃなかったんです。1年生の3学期に肺炎になって、これは一週間ぐらいで治ったんですが、2年生になって肋膜炎になり、それが治ったら今度は腹膜炎になったんです。3ヵ月たっても毎日微熱が出て、食欲がなくてやせ衰えていく。
おふくろがどこで聞いてきたのか、松山にお灸で有名なところがあって、そこで灸をすえてもらったら一週間ぐらいで微熱が出なくなって、食欲が出だし、2ヵ月ぐらいで完全に治ったんです。
6年生の夏、一晩中耳が痛んで耳鼻科に連れて行ってもらったら、「急性の中耳炎だから、すぐ入院して手術せなあかん」と言われたんです。そしたらおふくろが「絶対に入院はさせん」と。
何であれだけ言い張ったのか、後で知ったんですが、一番上の兄が12歳の時に中耳炎の手術を受けて亡くなってたんですね。同じ病気で「手術をしろ」と言われたので、おふくろとしては「手術はせん」と言ったんだと思います。
中耳炎はお灸ですぐ治ると聞いとったんだそうで、翌日、宇和島から船に乗って高知の中村というところまで、一晩泊まりで行ったです。大きな酒屋さんが家伝でやっていたんですけど、背中に九ヵ所すえられたのを覚えています。「一週間もすえれば治る」と言われました。すえている間に、ずっきんずっきんと痛んでいるのがおさまったんですね。帰りの船の中で耳からどんどん汁が出て、3日目からはそれも出なくなり、本当に一週間すえたら治ったんです。私は小学校の時に、二度お灸で病気が治る経験をしたわけです。
中学、高校とまったく元気で、医者にかかったこともなかったですね。私は中学のころはラジオを組み立てたり、竹ひごで鳥かごを作ったりするのが好きだったから、工業高校に行きたかったんです。おやじに言うたら、家から通える工業高校がないもんですから、「そんな余裕はない。高校に行かんでもいい」と。おやじは明治生まれで、小学校しか出とらんのです。「学校へ行かんでも、家の手伝いすりゃええんじゃ」と進学を許してくれんかったです。
そしたら、おふくろが間に入ってくれて、農業高校だったら家から通えるんですね。それで「朝晩、家の手伝いをするなら、農業高校に行かしたる」と言われて、仕方ないから農業高校に入りました。
2年生になると、クラスでも成績が上位だったもんですから、担任から「愛媛大学の農学部を受験したらどうか」と言われたんですね。おやじに言うと、「そんな金はない。勉強なんかせんでもいい」ということなんです。
ところが、3年生の12月に、おやじが脳溢血で倒れて、三日間寝ただけで亡くなってしまいました。大変なショックでしたが、それが逆に私にとって幸いしたんです。兄が「何とかしたるから、受験だけでもしてみろ」と言ってくれたもんですから、愛媛大学農学部農業機械科を受けたら、幸い合格したんです。父の亡くなった悲しみを打ち消してくれることになりました。
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大学生活を楽しんで2年になり、20歳の誕生日を迎えたのをきっかけのように視力が落ち始めたんです。毎朝、新聞を読んでいたんですが、読みづらくなったので、おかしいなと思って眼科へ行ってみたら、入学した時に1.5だった視力が0.6になっていたんですね。医者からは「視神経炎を起こしているから、1ヵ月もすれば治るよ」と簡単なことを言われたんです。痛みも何もないんですよ。
通院して1ヵ月たったら、視力がさらに下がって0.1になってしまってるんです。黒板の字は見えないし、通院するのも危なくなってるし、「いっそ徹底的に治療しましょう」と言われて入院したんです。いろんな治療を受けました。そして3ヵ月後に、「考えられる治療はすべてやった。それでも治らないので、大阪大学の教授を紹介するから、そこへ行ってくれ」というので、紹介状をもらって阪大へ行ったんですね。
診察の結果、「これは遺伝性のレーベル氏病といって、目の神経が萎縮している。治療しても治らないからあきらめなさい」と失明宣告を受けたんです。最初に医者に行ってから半年後のことでした。
失明宣告を受けたときの視力は今の視力と同じで、眼前手動弁と言うんですが、目の前で手を動かすのが見える程度です。これだけでも見えるのは、今はありがたいと思うんです。光とか輪郭がぼんやりとわかるから、外でも慣れた道は歩けるんです。
失明宣告はやっぱりショックだったですね。大学に退学届けを出して、家に帰りました。おふくろはあきらめがつかんで、また宇和島にお灸のえらい人がいるというので連れて行ってくれたんです。「これはちょっと難しいぞ」と言われたんですが、「3ヵ月ぐらいすえてみなさい」ということで、毎日おふくろがお灸をすえてくれました。しかし、全然効果は出なかったですね。
私は小学校の時に二回、お灸で治っとるから、二度あることは三度あるということで、今度も治るんじゃないかと期待を持っとったんです。しかし、期待も空しく何の変化もありませんでした。
治らんことがわかったら落ち込んだですね。それまではいつかは治るだろうと希望を持っていたから、まさか見えなくなるとは思いもしなかったので、それから相当悩みました。夢も希望も断ち切られて失望のどん底に突き落とされてしまい、食事も喉を通らなくなってしまって、家に閉じこもって人にも会いたくない。生きとってもつまらんとか、何もできんようになってしもうたとか、すべてをなくしたとか、そういうことばっかり思うとったですね。
見かねたおふくろがこういう話をしてくれたんです。おふくろは小学校を出てから女中奉公をしとったんですが、「女中奉公しとった時の話じゃがのう」ということで、ある大きなお屋敷であった話です。
正月の朝、大晦日に掃除をした時のぞうきんが床の間に置きっぱなしになっているのをおかみさんが見つけて、女中さんに「このめでたい正月になんたることか」と大声で叱りつけたそうです。それを聞きつけたご主人が「ああ、めでたい。こんなめでたい正月はない。「ぞうきんを当て字に書けば蔵に金、あちらふくふく、こちらふくふく」。こんなめでたいことはない」と言って円満におさめたそうです。
「そして、そのお屋敷では毎年ぞうきんを床の間に飾って正月を迎えられたそうな。だから物事は考えようなんじゃ。そりゃ目が見えんことはつらいじゃろう。しかし、目が見えんだけで、他はどこも悪くないんじゃけ」とおふくろが諭すわけです。
私は、視力がなくなって何もできんと思うておったんです。ところがおふくろの、「目が見えんだけで他はどこも悪くないんじゃけ、やろうと思えば何でもできる。だから短気を起こしちゃいけんぞ」という言葉で私もちょっと考えが変わったんですね。
そうこうしとるうちに高校の恩師から手紙が来ました。あとで気がついたんですが、この先生はいつも色眼鏡をかけておられたから、片目が悪かったんだろうと思うんです。手紙によると、松山の盲学校に一年ほど勤めておられたことがあったそうで、「慰める言葉もないが、松山の盲学校に相談しに行きなさい。そうすれば必ず道が開けるはずだ」とありました。
それまでは盲学校というのがあることも全然知らんかったんです。すぐにおふくろに連れられて盲学校へ相談に行きました。将来はこういう仕事があるといった進路の話を聞いたんです。
視覚障害者の職業は限られています。鍼灸あんまがあるおかげで日本の視覚障害者は自立できたんですね。中国や韓国では視覚障害者に鍼は使えないんですが、日本ではありがたいことに鍼ができるんです。
以前は視覚障害者に有利なようにというので、法的に守られておったんです。だから、理学療法士はほとんどが盲人でした。ところが、昭和40年に制度が変わって制限できなくなり、晴眼者でもできるようになったんです。それで、視覚障害者は患者が減ったし、個人病院しか就職口がなくなり、最近では個人病院も就職が難しくなってきています。
そこへ無免許の人が増えとるんです。人の身体に触って治療するのは養成学校を出て、国家試験を受けて免許を取らんといけんのですけど、足裏マッサージとかカイロプラクティックとかはみんな無免許なんです。素人の人は整体というといいように思って、あんまは古くさいようにとられていますけどね。
松山の盲学校では高校の勉強をしながら鍼や灸やあんまの勉強をするから、卒業までは5年かかる、大阪の盲学校なら専門の勉強だけする3年のコースがある。こういうようなことを教えてもらい、大阪に行くことにしました。
ついでに点字の説明を二時間近くしてもらったんです。点字はローマ字と同じようにできていて、母音と子音を組み合わせて六つの点で表すんです。濁音や拗音は2マス使います。数字は数符を前につけるんです。
母は50代半ばだったですが、一緒に点字を覚えてくれましてね。点字の一覧表と点字板、そして小学校1年の国語の教科書と『ヘレン・ケラー物語』という点字の本を借りて帰って勉強したんです。
点字を書くのはすぐできるようになったんですが、読むのが大変なんですね。点がごっちゃになって全然わからんのですよ。1ヵ月ぐらいかかって何とか少し読めるようになったです。
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昭和32年に大阪の盲学校専攻科に入りました。入学して1ヵ月ぐらいした時でした、生徒指導部の先生が新入生を集めて話をされたんです。その中で、「君らは目が悪いためにここに入ってきた。うれしくて入ってきた者は一人もおらんはずだ。だから、盲学校しか行くところがない、盲学校でも行ってみようかということで入ってきたんだろう。「失明は不便なれども不幸にあらず。失望こそが不幸なり」という先輩の有名な言葉がある。君らは目が見えんから不幸だと思っているはずだ。しかし不便なだけだ。決して見えんことは不幸じゃない。不幸なのは希望がないことだ。君らは若いんだから何でもできる。夢と希望を持って生きてくれ」とハッパをかけられたんです。
この言葉はヘレン・ケラーの言葉であることを後で知りました。目が見えんようになって不幸だと思っていたもんですから、ああ、そうか、見えんというのは不便なだけなんだということに気がつきました。
そうして、東京教育大学に理療科教員養成施設といって、盲学校の教員になるコースがあるのがわかったんです。勉強すれば盲学校の教師になれるというので、そこを目指してがんばろうという気がわいてきたんですね。それから夢中になって勉強を始めました。そしたら失明して不幸だとか悲しいとかいうことがなくなったですね。目標を持つということが大事だなと思いました。
盲学校では1クラス14人だったんです。授業のノートを点字でとるのはすぐできたんです。だけど、あとでノートを読むのが大変だったです。いまだに点字を読むのは遅いですけどね。
盲学校に入ってびっくりしたのが、みんな点字を使っていると思ってたら、点字は私一人なんですよ。みな弱視か網膜色素変性症といって、視野が狭くなり、失明する可能性がある病気の人なんです。誰かが新聞や週刊誌を持ってきて読んでくれるし、あちこち遊びに行くのも不自由はなかったです。
勉強が軌道に乗ったと思っていた1年の終わりになって、兄がひょっこり訪ねてきて、「実はわしも目が悪くなった」と言うんです。私と同じ病気で、いろいろ調べたら神戸大学医学部では開頭して目の神経を刺激する手術をしている、効果があるのは3%だが、それでも受けてみる、ということでやって来たわけです。
兄は小さい子どもが三人いて、兄は家の仕事はできんから、高校へ行っとった弟が高校を中退して家を手伝わないかん。おやじが死んで借金ができて、そこへ私が半年あまり入院したりして、相当金を使ったところに、また兄が手術するということで、私に仕送りを月に2~3千円してくれてたんですが、兄から「すまんがこれからは仕送りができない」と言われました。
結局、兄の手術は効果がなかったです。それでも0.04ぐらいの視力でとまったんです。新聞の大きい見出しがわかるぐらいの視力で、慣れれば耕耘機が使えるようになって、百姓はなんとかやっておるんです。
私も困ったですね。やっと目標ができて、道が開けると思っておったもんですからね。おやじが亡くなって2年目に私が失明して、それからさらに2年後に兄の目が悪くなった。クラスで私一人が点字で四苦八苦しよるのに、何で次から次へとこんな目に遭わないかんのかと、本当に嘆いたですね。
仕方ないから担任に相談したら、「幸い一年間あんまの実技をやってきておる。免許はないが、先輩を紹介するので、そこへ行って住み込みで働いたらどうか」と言われたんです。それで1年の春休みから住み込みでアルバイトをさせてもらうことにしました。
一人あんますると、当時は250円ぐらいだったですが、その3割をもらうんです。住まわしてもらって、食べさせてもらうわけですから、1ヵ月たってみたら、半分ぐらいが残ったですね。それを貯金していったわけです。経済的に余裕が出てきたし、働くことが楽しくなってきたので、腕一本で生きていけるという自信がわいてきたんです。
3年の夏休みが終わるまで働きました。それから猛勉強して、6人が東京教育大学を受けたら、全員が通ったんです。これは大阪府立盲学校始まって以来の新記録だと言われました。
東京でも2ヵ月だけ寮に入って、それからアルバイト先を見つけて住み込みで働きました。柔道をやって初段をとったり、アマチュア無線を点字で受験できるようになったものですから、これも合格したんですね。秋田から来た弱視の男が池袋のスケートリンクへ連れて行ってくれて、スケートを楽しめるようになったです。東京では2年間いて、趣味も結構楽しめました。
無事卒業して、松山の盲学校に就職しようと思ったら欠員がなくて、たまたま広島では欠員があるというので、昭和37年4月に広島県立盲学校に赴任したんです。
家内は大阪の盲学校で私の一級下だったんですが、恩師を通じて話をしてもらって、翌年結婚しました。それから4年後に息子が授かりました。おふくろが「今の苦しみに耐えていれば必ず幸せが来るよ」と言っていたとおりに、次から次へと幸せが舞い込んできました。
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私は東洋医学概論という授業と、臨床実習を担当していました。盲学校では解剖学・生理学・病理学・衛生学など、西洋医学の基礎を全部習うんですよ。それに鍼や灸の理論と、東洋医学概論があります。
東洋医学はすべての病気を陰と陽とに分け、それを五行に分けていくんです。ぜんそくなど呼吸の病は気の病といって陽の病気、血の病は陰の病気です。ノイローゼやうつ病、不眠症といった精神的な病は気の病に入るんです。気の病は治りやすいんですが、慢性になってから来られる場合が多いからなかなか治らんのです。慢性疾患はどちらかというと血の病、急性疾患は気の病です。
お灸で一番よく治したのがイボ痔です。イボ痔は循環器障害ですからね、血の病になるんです。魚の目やたことか湿疹も血の病ということになっているんです。これはお灸がよく効くんですよ。
イボ痔は頭のてっぺんにある百会にすえるんです。慢性でも1ヵ月もすれば治ります。切れ痔と痔瘻はだめです。特に痔瘻は細菌性のものですから、手術しないと治りません。
風邪は灸がいいんです。首のまわりや肩の血行をよくすれば治るんです。だから、寒気がする時に首のまわりを暖めるようにすればいいわけです。予防としたらマスクをして寝たり、首のまわりをまいて寝るとか。
以前、小学校1年生の子供を連れてこられたことがあったんです。紫斑病、専門的には血小板減少症という病名ですが、紫の斑点が全身にできる病気です。これは現代医学でも非常に難しい病気なんです。
「半年、医者に通っているが治らない。入院して骨髄の手術をしようと言われておるが、手術させたくない。救ってほしい」というので連れてこられたんです。
私はそういう病気はやったことがないんだけど、血の病気だから灸が効くはずなんですね。理論は知っとったから、背中とみぞおちの4ヵ所にすえたんです。私がしるしをつけて、お灸をすえるのを見とってもらって、ごま粒ぐらいのを毎日3つずつすえてもらいました。そして、病院で検査だけ受けてくださいとお願いしました。
そしたら、4ヵ月ぐらいたった時に、病院で全治したと言われて、「おかげさまで治りました」とお礼に来られたんです。血小板は20万から30万が正常なんですが、その子は5万~6万だったそうです。それが1ヵ月後の検査では20万になり、3ヵ月たった時には35万に増えたんです。斑点は1週間で消え、鼻血がよく出ていたのも、灸をすえだしてからは1回も出ないということで、症状がどんどん消えていったんですね。お母さんからはいまだに年賀状をもらっています。
東洋医学にも限界はあります。難病に指定されている病気は東洋医学でも難しい。たとえば、糖尿病も検査の数字が高いだけならすぐ治るんです。私自身も37、8歳の時に尿検査で糖が出ていると言われて、背中に灸をすえたら、1ヵ月で正常値になりました。症状が出ていない糖尿病はすぐ治るんです。ところが、網膜障害といった症状が出てきたら難しいですね。インシュリンの注射をするようになると灸ではだめです。
自然治癒力がたまたま弱っている時に、鍼や灸やマッサージでバランスが回復するようにするのが東洋医学なんですね。自然治癒力が回復できないような状態はどうにもならんのですね。
東洋医学では食べ物も陽と陰とに分けるんです。イモやニンジンといった地中の食べ物は陽性食品で、バナナや柑橘類は陰性食品なんです。陰の食べ物は身体を冷やし、陽の食べ物は身体を温めるんです。
私も65歳をすぎたら冷え性になって、女性の冷え性がわかるようになったです。年をとると陽性食品を多くとるように心がけて、毎日二種類以上食べるようにしています。冬、ミカンを食べる時には電子レンジでチンして温めて食べます。若い時はイモやニンジンみたいなのは好きではなかったですが、年をとると、身体に合うんですね、好きになってきたんです。
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盲学校を35年勤めて、平成9年3月で定年退職、それから非常勤で平成19年3月まで週2回勤めさせてもらいました。
私は犬が好きだったですから、盲導犬がほしかったんです。そのために、広島ハーネスの会を準備から関わってました。平成元年、面接を受けてもらえるところまでいったんです。ところが、訓練のために3週間から4週間かかるんですが、そのために仕事を休まないといけないので、これは現役の間はだめだとキャンセルして、退職して平成10年に盲導犬をもらったんです。
一昨年の11月まで、8年8ヵ月、一緒に暮らしました。本当に幸せだったですね。旅行も30何回行っています。本当に楽しい生活をさせてもらったですね。
信号が変わると盲導犬が歩き出すので、「盲導犬は賢いですね」とよく言われよったんです。ですけど、犬は色盲ですから、信号はわからんのですよ。私が信号が変わったと判断して「OK」と言うと、犬は動き出すんです。
よく誤解されていて、盲導犬は行き先を言ったら連れてってくれると思っている人があるんですが、そうじゃないんですね。車を運転するのと一緒で、「左行け」とか「右行け」とか「信号渡れ」と、口で犬に命令して運転するようなもんです。
だから、盲導犬が使えるかどうかチェックする時に、まず交差点へ連れて行かれて、自分の耳で判断して歩道を渡れるかどうかの審査があるんですよ。自分でその判断ができん者は盲導犬を使うことができないということなんです。ある程度、自分一人で歩けるようになっとらんと、盲導犬を使えないんですね。
小学校3年生の教科書に盲導犬のことが載ってるので、あちこちから広島ハーネスの会へ講演依頼があるんですね。数えてみたら私も97回、講演に行ったんです。一番最後は、孫が通っている小学校へ行かしていただきました。
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失明して幸せな生活を過ごすことができた体験から、私はいつも5つの時期に分けて話をするんです。まず「ショック期」です。失明宣告を受けてものすごいショックを受けました。中途で失明した者はみな同じように悩みます。
それから「苦悶期」といって、苦しみもがく。何で自分だけがこんな目に、何もできないから生きとってもしょうがない、死にたいという気持ちでいたわけです。私は恩師の勧めで盲学校に行ったことでだんだん吹っ切れて、苦悶期は半年ぐらいですんだんです。
そして「受容期」、自分が目が見えない身体障害者であることを受け入れていく。私は盲学校に入ったおかげで受容できたんです。
私は失明の宣告を受けてすぐに盲学校に相談に行ったわけです。それがよかったんです。それに20歳で失明したから、見えた時のことを覚えているし、点字などにも早く慣れることができました。失明したことをなかなか受け入れられなくて、2年も3年もぶらぶらしている人が結構おるんです。失明してから5年たって、やっと盲学校に来たという人もいました。専攻科には年齢制限がないんです。60すぎて入ってくる人が結構あるんですよ。今、3年生に私と同じ年の人がおられるくらいです。
それから、勉強すれば盲学校の教師になる道があるということで、それを目指して勉強を始めるんですね。希望を実現しようとする「克服期」です。自分の障害を克服していく。
そして、大学を卒業して盲学校に勤めるようになり、結婚して子供もできる。それからは「感謝期」と言ってますが、生きててよかった、ありがたいな、と感謝する生活に入っていくわけですね。
よく「見えんようになったら生きちゃおらん」と言いますけどね、失明したからといって自殺した人はいません。苦しみに耐え抜いて人間は強くなっていくんです。
失明してよかったと思ったことが何度かあるんです。おふくろは10数年前に92歳で亡くなったですが、田舎へ帰るたびに、腰の曲がった身体をもんで、いろいろ話ができたんです。「これが何よりの土産じゃ」と喜んでもらったですね。見えとったら、おそらく親の腰をもむこともなかったと思うんですよ。
失明するまでは親に感謝することもなかったんです。自分一人で生きとるぐらいのつもりでおったです。ところが、失明して初めてわかったことは、人間は一人で生きているんじゃない、生かされているんだということです。ほんとに感謝の毎日です。
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晴眼者にお願いしたいことがいくつかあります。道を歩いている時に声をかけてくださって手を引いてもらえたら助かるんです。でも、声のかけ方があるんですよ。大声で「危ない」と言われたら、こちらはびっくりしますからね。だから、声をかけられる時には、まず「誰々さん」と名前を言ってもらったらありがたいです。
そして、歩道のはしっこを杖をついて歩いている人がいるから、危ないと思って真ん中に寄せてあげるというのはかえって困るんです。どうしてかと言うと、杖をついて歩く場合、道のはしっこのほうがわかりやすいんです。だから、視覚障害者は歩道のふちを杖でさわりながら歩くんです。ところが、「溝があって危ないですよ」と歩道の真ん中に連れてこられると、かえって方向がわからんようになるんですよ。
歩道に自転車や店の看板が置いてありますが、あれは困ります。よくぶつかるんですよ。特に点字ブロックの上にバイクや自転車がとめてあるのは何とかしてもらえないかと思います。点字ブロックの上は安心して歩きますからね。点字ブロックの上にものを置く人は、ここは視覚障害者の歩くところだということを知らんのだと思うんですが。
障害者差別があるのは、障害者と接したことがないから障害者を特別視してしまう、だからいつまでたっても差別がなくならないと思うんですね。近所のセブンイレブンに盲導犬を連れて行った時、店員さんの愛想が最初は悪かったんですね。だけど、私が見えないことがわかってからは、すぐとんで来て「何にしましょうか」と聞いてくれるようになったんです。見えんのだということを知ってもらうのが大切だと思うたですね。だから、どんどん行動する障害者が出てくると変わってくるんだろうと思います。
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頻尿がひどくなって、昼間でも1時間に1回ぐらい、夜は3回から4回行くようになったので、昨年の2月に近くの泌尿器科に行ったんです。そしたら、前立腺が普通の二倍くらいになっておるということで、血液検査をしたら、「前立腺ガンではない。しかし、ALPとLDHが高い数値が出とる。かかりつけの内科に行きなさい」と言われました。高血圧でかかっている医者に診てもらうと、胸のレントゲンを撮り、それからCTも撮って、「市民病院を紹介するから、明日すぐ行きなさい」ということだったんです。その時点で、私もガンだなとわかったですね。
3月2日、市民病院で「ガンですね」と言われました。精密検査をせんと詳しいことはわからないというので、気管支鏡検査をしたら、肺ガンに四種類あるんですけど、そのうちの肺腺ガンで、大きさが5センチある、転移していなかったら手術をする、転移しとるかどうか検査するため中電病院へ行ってくれということで、また検査を受けました。その結果、リンパ節と骨に数カ所転移している、進行性でステージ4だということでした。
手術で治るだろうと思うとったんですけど、検査の結果は最悪なんですね。手術はできないから、抗ガン剤治療をする、ベッドが空き次第入院しなさいということでした。それから三日したら連絡があり、3月20日に入院したんです。
小中高と同級だった友達が40代で肺ガンで亡くなっているんです。それがすぐに思い浮かんだですね。あとから聞いたんですが、胸の調子がおかしいので診てもらうと、それきり退院せんまま亡くなったそうなんです。
私も入院したら退院することはないだろうと思って、荷物の整理をしました。録音テープが相当あったんですが、全部点字図書館に引き取ってもらったりしました。
入院すると、一週間ほど検査があって、3月27日から点滴が始まったんです。最終的な説明では「ステージは4だけど末期ではない。肺腺ガンは抗ガン剤が効きにくい。5年生存率は30%ぐらいだ」ということでした。
これを聞いてショックではあったんですが、またおふくろの言葉がよみがえってきたんです。ものは考えようだ。まだ他の内臓には転移しとらんのですね。それに30%の生存率があるんだから、30%に入ることを考えたんです。
それと、失明した時はおふくろがしっかりしとって助かったんですが、ガンの宣告を受けた時は家内がびっくりせんかったんです。おろおろしたりあわてふためいたら私が落ち込むところだったですね。
抗ガン剤の点滴は4~5時間かかるんです。副作用は食欲が落ち、足がだるくなったりして、2ヵ月ぐらいたったら髪の毛が全部抜けました。
部屋は4人部屋で、1人は咳がひどくて、その人の奥さんが「うちは抗ガン剤が全然効かんのですよ。3年たつのに効果がないんです」と言われるんですね。それを聞いて、抗ガン剤が効かんのに3年も生きているのなら、2ヵ月や3ヵ月では死にゃあせんなという気になったですね。
あとの2人は毎日散歩に出たり、土曜日には外泊して家に帰ったりということで、患者のようでないんです。これを見て私の落ち込みがだいぶなくなったですね。
せいぜい半年ぐらいの命かなと思って入院したのに、2週間で「大した副作用がないから、通院で来なさい」と言われて退院しました。
抗ガン剤治療を4回して、6月で終わったんです。7月の検査では腫瘍マーカーが正常値になり、CTの検査によると5センチあったのが2センチになって、リンパ節の腫瘍は消失、骨転移は変化なしとなっていました。ところが、8月の検査では腫瘍マーカーの正常値は3.3以下なのが110に上がっとったんです。9月からまた抗ガン剤の点滴を始め、3回やったら正常値に戻ったので、今年の1月に10回目の抗ガン剤が終わりました。腫瘍マーカーがまた上がるようだと、次の抗ガン剤をすることになるんです。
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去年の3月に市民病院を紹介された時点で、盲学校に「ガンになったから4月からの非常勤は辞めさせてください」と断ったんです。それで4月からは治療に専念しとるんです。
今は医者へ行くのが仕事なんですね。あとは悠々自適というか、パソコンのおかげで、新聞を読んだりしてます。それから、退職して時間ができたらと思っていた長編小説を聞いたりしとるんです。だから、退屈する間がないんですよ。食欲はあるし、何を食べてもいいんですね。夜は晩酌をしています。
免疫を高めるためにいろんな方法があるんです。過労をさせて睡眠時間を多くするのがいいというので、今まで5時間ぐらいしか寝とらんかったのを、なるべく早く寝るようにして、昼寝もするようにしました。こんな贅沢はないなと思っています。
血行をよくするのも免疫を高めるのに大事だとわかって、身体を動かすようにしています。朝、目がさめたら、布団の上で腰痛体操をやって、それから腕立て伏せを50回、スクワットを30回、そうしてラジオ体操をして、散歩に出るんです。50分から1時間歩いてから朝食を食べます。風呂は10分ぐらいだったのを40分ぐらいかけて長いことつかるようにしています。
それから、白血球の中のバランスをとることが免疫に関係するんです。副交感神経を活発にすることがリンパ球を増やすんですね。大声を出して笑うとかすると、副交感神経を刺激するんで、意識的に大きい声を出して笑うことにしています。
食べ物については、肉食をなるべく避けて、大豆製品を毎日食べています。玄米を食べたいんですが、家内がつきあってくれませんので、玄米パンとかライ麦パンを食べてます。
私は東洋医学を教えとったから、時々講演を頼まれることがあったんです。そんな時、白米は粕という字になる、だから白いご飯はかすを食べているようなものだ。糠はビタミン類が含まれているが、米偏に康らぐと書くように、糠を食べると肩こりがなくなったりして、身体をやわらげる。そういう働きをする糠を棄ててかすばっかり食べとる。こういう話をよくしとったのに、私は実際には玄米を食べとらんかったんです。
それから、悩みをためないようにすることが大切なんです。これが大変なんですね。ガンの告知を受けると、まず死の恐怖が頭から離れんですからね。
私はガンの告知を受けるまでは、死ということは他人事だと思っていたです。100%必ず死ぬことはわかっていても、死は他人事だったですね。ところが、ガンの告知を受けたら、それまで彼方にあった死が至近距離になったんです。うまいこといってもあと4、5年の命とわかったから、恐怖心はあります。それをなくせといってもなくならんです。
わかったことは、恐怖心はそのままにして、今できることに没頭するということです。だから、散歩とか読書とか、その日にやることに没頭しとるわけです。そうすると死の恐怖を忘れています。今は私は自分が肺ガン患者であることさえ忘れとることが多いんですよ。
私の場合、抗ガン剤では完治させることができないんですね。だから、いかにガンと共存して上手に生き抜くかということですから、いろんなことをやりながらガンとの共存に努めています。
失明した時は6~7年たって、やっと感謝期に入ったんですが、肺ガンの場合は5~6ヵ月で感謝期に入りましたね。手術して痛い目に遭わずにすんだとか、何でも食べられるから肺ガンでよかったとか。肺ガンになったことで盲学校を辞める決断がつき、家内とのんびり暮らせるようになったから、これもよかったと思うんですね。お金も死んだら持っていけないんだから、食べたいものを食べようと、あちこち外食に行ってます。去年入院した時に比べて5キロ太ってるんですよ。
病気にならんかったら、感謝することもなかったと思います。どうもありがとうございました。
(4月26日に行いましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)
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