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自助グループのメンバーたち 「酒害の体験談」
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2007年8月25日 |
1、アルコール依存症とは?
Aさん…私はアル中というのは、道ばたで寝ている浮浪者のような人とか、手が震えたり幻覚が見えるとか、そういったものを想像してました。ですけど、アルコール依存症は意志が弱いからなるんじゃなくて、病気なんです。完治することはないので、再び飲めるようにはならないんですけど、飲まないでいると進行はしないという病気なんです。私もたまたま今はお酒がとまっているだけなんです。
Bさん…アルコール依存症にはいろんな言い方があって、アルコホーリクとか、アルコール中毒者、アルコール症と言う人もいます。酒害者、飲酒障害、言い方はいっぱいあるんです。
僕らは飲みつづけると酒で死にますから。死ぬまでアルコール依存症という病気を抱えて生きていかなくてはならないんですね。
Cさん…アルコール中毒には急性アルコール中毒と慢性アルコール中毒とがあって、一気飲みなんかすると急性アルコール中毒になったりしますね。慢性アルコール中毒になると、譫妄といって禁酒したら頻脈や発汗、下痢などになったり、時には身体が震えたり幻覚や幻聴があったりするんです。それは長い期間飲まれた方です。
普通に飲める人は、「今日は飲んで楽しもう」という飲み方をしますよね。ほどほどに飲めて、次の日は仕事に行けるわけですよ。だけど、私たちアルコール依存症者は飲まなくては生きていけない。身体がいつも酔いを求めている。それは自分をかわいがって飲むとか、楽しんで飲むというのではなく、自分を痛めつけるぐらい飲むんですよ。飲まなければならないほどの苦しい生き方の結果です。
たとえば、普通の人は席にお酒が残っていても立ち上がることができますよね。でも、私たちはきれいに飲み干さないと立てないわけですよ。人のお酒でも飲んで帰らないといけないんです。そんなふうに、私たちは一杯飲むと、それで終わらず、ずっと飲んでしまうわけです。アレルギーみたいなもので、花粉症の人は春になるとくしゃみがとまらないように、アルコールが入ると自分の力ではやめることができないわけです。だから、アルコール依存症は進行性の病気で治療が必要になります。
私は渇酒症なんです。お酒にとらわれてしまうという感じなんですね。許容量を超えた飲み方をするわけですから。だから、一杯飲んだら、一ヵ月でも飲み狂うような飲み方をしてたんです。朝5時ごろまで飲むわけですね。一度吐いたらまた飲めるんです。汚い話ですけど、二日酔いの薬のサクロンを飲んで、緑色のものを吐くわけです。「二度と飲まんぞ」と心に決めるんですね。その時は嘘ではないんです。でも、夕方になり、ネオンがつくと、身体が元気になって、「さあ、今日も飲みに行こう」という考えになってしまうんですね。身体的な依存から、霊的な病となっていくんです。
Dさん…どれだけ飲むかより、どういう飲み方をするかだと思います。私の兄は二人とも大酒飲みです。主人も大酒飲みです。私は毎日二升近く飲んでましたけれど、量的には兄たちのほうがたくさん飲んでました。でも、兄たちは今日はこれでやめようと、酒をやめることができます。飲んでも次の日に仕事に行けるんですよ。兄は肝臓をやられまして、本人も自覚して、「今日はこれでやめる」という精神状態を保っていられる。
私はちゃんとやっているつもりでも、実際はそうじゃなかったです。手は震える。汗はたらたら出る。自分はまともなことを言ってるつもりなんですけど、まわりは相手にしてくれない。何を言われても、「うんにゃ、違う」と言ってましたから。そこの違いを自覚できるかできないかだと思います。それでも私は最終的にはたたきのめされて、どうしようもなくなって、結果的に「はい、認めます」と病気を受け入れたら楽でした。
Cさん…アルコール依存症は否認する病気なんですよ。私も最初はアル中じゃないと否定しましたね。アルコール依存症になるのはその原因があるわけです。自分の抱えている問題から逃げたいという。それでお酒に逃げるわけです。問題にきちんと向き合わないと、いつまでも飲みつづけてしまいます。そうして自分がアル中だと認めることができないんですね。だから、飲みつづけた結果は生か死の選択をする時がくるわけです。
Aさん…私も最初はお酒はいつでもやめられると思ってました。だから自分がアルコール依存症だとは認められなかったです。たまたま今はいろんなことがうまくいっていないから、ちょっと飲み過ぎてしまうけど、チャンスがあれば私はいつでもやめられるんだと思ってたんですね。
夜寝れない時に飲むとか、面白くないことがあったら飲むとか、機会飲酒といって、きっかけがあったら飲むという習慣だったのが、気がついたら毎日飲まないと寝れないとか落ち着かないという状態になって、連続飲酒、朝から晩まで飲むようになっていたんですよ。
私が初めて精神病院に入院したのは22歳なんですよ。精神病院には三回入っているんです。私はまだ若かったんで、何十年も飲んできたわけではないし、手が震えるわけでも、幻覚が見えるわけでもないというので、自分がアルコール依存症だとはなかなか思えなかったですね。精神病院に入院してまわりの人を見た時に、自分の父親ぐらいの方ばっかりだったんですよ。「君は治る。ちゃんと飲みながらやっていけばいい」と言われると、自分でもそうかなあと思ったりして。
それまで、大学を中退して、その後バイトもできんようになって、家族に暴力をふるうようになって、嘘をついて親から金を巻き上げて酒を買ったり、そんなことをしててもお酒は関係ない、お酒を飲んでいたけど、お酒は悪くないと思っていたんです。でも、実際トラブルが起きた時というのは、必ずお酒を飲んでいるのが常だったんです。それがアルコール依存症という病気なんです。
朝から晩まで飲んでは小便をたれ流して、まともな生活ができなくなっているから、家族が暴れる私を何とか精神科に連れて行く。それを三回くり返しても、自分が病気だとは認められなかったです。何日かして病院を逃げ出して、また元通り。学校へ行きながら週末だけ飲むとか、夜だけ飲むとか、そういうふうにすればいいと思ったんです。結局、前のように連続飲酒するようになって、何ヵ月もしないうちに病院に戻ったんです。
人との違いを探すんです。私はまだ若い、何十年と飲んできたわけじゃないとか、十回も二十回も入院したわけじゃない、手が震えることはあっても、幻覚は見えないしとか思ってたんですよ。ですから、アルコール性の痴呆になっている人や、症状がひどい人と比べたら、私はまだましだとか、人との違いばっかり探してました。そういう違い探しをするかぎり、自分が病気だとは認められないんです。
だけど、状態がひどくなると、最後は幻覚も出るようになって、みんなが私を悪く言ってるような声が聞こえるようになったりとかですね、自分の頭がおかしくなってるなと思って、初めて自分がアルコール依存症になったんだと思うようになりました。
2、自助グループとは?
Cさん…アルコール依存症者は一人ではお酒をやめられません。自助グループはみなさんと体験を分かち合って、そうして回復していこうというグループです。各地にグループがあって、各グループが毎週ミーティングを開いているんです。どのミーティングに参加してもかまいません。
一人ではやめられないから、ミーティングは大切です。私もミーティング場に行って、「一人ではなかった。ああ、よかった」と思いましたね。だから、自分の足でミーティングに行くことが大切。行くのも行かないのも本人の問題ですから。まずは自分が病気だと認めることがなくてはいけません。
Bさん…自助グループでは無名なんですね。僕は仲間と関わる時は、どこの出身でとか、何歳で、仕事は何かということはあまり気にしないんですね。だから、本名を知らない人もたくさんいます。それがものすごく大切なことなんですね。
Dさん…会費を取らないし、名簿もない。会長もいません。個人を優先し、個人を大事にする。だから、横のつながりです。一対一のつながりが網のようにつながっているとイメージしていただいたらいいかと思います。
Aさん…自助グループでは何年も酒を飲んでいない人がえらいんじゃなくて、初めて来られた人がお客さんなんです。上下関係はないんです。
Bさん…僕が最初に行った断酒会では、お偉いさんが妻に対して「そんなんじゃだめだ」とか「こういうふうに接しなさい」とかいう言い方をされたんですよ。僕はそれが耐えれんかったですね。僕の問題なのに、妻がなんで怒られなきゃいけないのか。自助グループは自分が自分のために仲間と一緒に回復するというプログラムなので、家族が責められることはなかったというのがありますね。
Aさん…毎晩どこかでミーティングをやっているんです。ミーティングにアルコール依存症の方が来て、体験談というか、その人がどういうことをしてきて、お酒を飲んでどうなって、そして今がどうなのかという話をしているんです。その中でだんだんと自分を見直すようになるんですね。ミーティングに出ることによって、自分はアルコールなしではどうにもならなくなっていて、生きていくこともだし、何をすることもどうにもならなくなっていたんだということを初めて教わりました。
飲んでたころは、自分はほんとはこんな人間ではないんだ、酒をやめたらあれもできる、これもできる、そんなふうに思っていました。だけど、酒がとまってみると、私という人間は変わらないということに気づかされたんですよ。飲まないでいても、ミーティングに出ないと、そういう私に気づかないようになって濁ってくるんです。それで同じことの繰り返しになるから、ミーティングに出ることがどうしても必要なんです。
Dさん…ミーティングで話したことは外に出ることはありません。だから、外で話せないようなことでも何でも話せる。それは信じれる仲間がいるということなんですね。
Cさん…自助グループは同じ体験をし、同じ苦しみをしている者の集まりです。だから、一人ではないんだということで、孤独感から抜け出せるんですね。人間は一人では生きていけないということがよくわかりました。
一人で酒をとめるのは難しいですから、支えてくれる人、相談できる人、手助けをしてくれる人がどうしても必要です。それが仲間だと思います。仲間とは上下関係にあるわけではないし、仲間の力で酒がとまるんじゃない。信頼のおける先行く仲間は水先案内人みたいなものです。
Bさん…仲間の言うことに絶対に従わないといけないということはありません。言うことを全然聞かない人もいますし、ゆだねる人もいる。人それぞれです。
自助グループでは「こうしなければならない」ということはないんですよ。みんな提案。「こうしたらどうですか」という感じで。だから、命令でなく、提案の中で、仲間と一緒に酒を飲まずに生きていきたいなと、僕はとらえているんです。
Eさん…たとえば質問があった場合、同じ経験をしていれば、「こうしたらいいんじゃないですか」とか「それはやめといたほうがいいんじゃないか」と言えるじゃないですか。そういう関係です。
3、体験談
Eさんの体験談
アルコール・薬物依存症のEと申します。私は三人兄弟の次男です。兄もアルコール依存症なんです。妹は依存症ではないですけど、酒は強いです。
私の父親は、私が5歳の時に交通事故で死にました。原因は酒です。酒を飲んでバイクに乗ったんですね。酔ってる状況でダンプカーと接触して亡くなったんです。父親はものすごく酒が好きでした。私は小さかったですから、当時の記憶はあまりないんですけど、父親を知っている人に聞いたら、よくケンカしていたし、競艇にのめり込んでいたし、家族を顧みなかったという話でした。
私は酒がすごく弱かったですね。私が酒を飲み始めたのは18歳ぐらいです。それまでは酒に弱くて、甘酒を飲んでも真っ赤になってた。食事の席で、大人から「ビールを飲んでみるか」とか言われますよね。匂いもだめだったし、どこがおいしいのかと思ってたです。父親が大酒飲みで、酒が原因で亡くなっていますから、酒を飲もうという気はなかったんですね。
高校を卒業して、就職が決まったお祝いだというので、家族と焼肉を食べに行きました。「お前も飲めよ」ということでビールを飲んで、吐きました。合わなかったんですよ。
それから半月ぐらいたって、遠くに仕事に行くことになったので、お別れだということで、もう一回飲んだわけです。今度はウイスキーの水割りで、とてもおいしかったです。フワーとしてね。楽しくなる酔い方。今まで「なんでこんなまずいもの」と思ってたけど、その時に飲んだ水割りはすごくおいしかったんですね。
私は性格的に内に入り込むタイプで、あまり外に感情を出さない。どちらかというと我慢する。人に自分のほんとの気持ちを話すことができない。心の中で相手のことを怒っていたり、恨んだりして、心にためるタイプです。いつも「俺は我慢してるんだ。なのにあの人たちは」みたいに思ってたですね。ところが、酒を飲んだ時の酔いは、自分の中にたまっているそんな思いを和らげるんです。開放的になって、なんか楽しい。うきうきする。初めて経験した、自分の感情が変わっていくという感覚は強烈だったですね。
私の仕事は打ち上げとかでお酒を飲む機会がすごく多かったんですね。何かあったら飲むという感じで。おまけに飲める人がまわりにたくさんいました。飲み方も量がすごかったですね。ある時の打ち上げで、お相撲さんが大きな杯に日本酒を入れて飲みますね、あんな大きい器に日本酒をつがれて飲んじゃったです。ぶっ倒れました。気がついたら、頭に怪我をしてました。それが初めてのブラック・アウト、記憶がなくなる経験でした。
三年後、仕事を辞めて、広島に帰りました。20歳そこそこで大酒飲みです。母はびっくりしてましたね。「どうしたん。そんなに飲んで」と。でも、好きで飲むのだからいいんだと思ってました。母は酒を隠すんですよ。でも、私はこっそりと飲んでました。ばれますよね。もっとわかりにくいところに隠すんです。それでも私は見つけ出しました。どこに隠していようがわかるんですね。
飲み方がだんだんひどくなってきました。家族団欒で飲むとか、そういう飲み方じゃなくて、酒は生活の一部です。ご飯は食べなくても、酒は飲む。酒で栄養をとるみたいな感じでしたね。
25歳で結婚しました。妻のお父さんもお母さんも一滴も飲まない方です。私の酒の飲み方を見てびっくりしてました。何をしたら私が喜ぶかがわかりますよね。酒を用意すればいいわけです。
三年たって子供ができました。すごくうれしかったですね。妻は一ヵ月ほど実家に帰っていました。私は仕事が終わったら、毎日子供の顔を見に行ってました。そして、家に帰る途中、必ず飲み屋に寄っていくんですよ。
二年後に次男が産まれました。そのころから不安になってきましたね。このまま子供をうまく育てていけるのかなという不安が少しずつ出てきたです。二日酔いで会社に行けなくなるのがかなり増えてきたんです。それは精神的にまいっていたというのがあります。私の酒が原因ではなくて、まわりが悪いと。会社のあいつが悪い。妻が悪い。酒を飲ます原因をまわりが作っているんだ。そんな感じですね。「なんで自分が」という被害者意識でいたわけです。すべてを人のせいにして、それを酒の肴にして飲むことができた。だけども、人に求めるものが大きいほど自分がしんどくなっていくんですね。飲むことによって自分をどんどん追い込んでいきました。
三人目は女の子でした。うれしかったですね。でも、その時の私はかなりひどい状態でした。子供が三人いるのにどうしたらいいんだ、このままやっていけるのか、すごく不安だったですね。会社でもうまくいっていなかったです。人間関係がうまくいかなくて、ノイローゼになってました。
そのころ精神科医に通い出しました。鬱状態です。精神安定剤とか入眠剤とかの薬をもらいますね。そういう薬は酒と一緒に飲んじゃいけないんです。私はその薬を焼酎で流し込むんですよ。酒で酔っているのか、薬で酔っているのか、両方がきますから、ものすごい酔い方をしていました。
それから何年後かな、娘が幼稚園に入った時、私はとうとう仕事ができなくなって、会社を辞めるんです。逃げるようにして辞めました。それまでも「体調が悪いので」と言って何度も会社を休み、入院も一回しました。「今度休んだらクビだ」と上司に言われていたんですね。
「家族がいるから会社に行かないといけない」と思ったんですけども、やっぱり酒を飲み始めたらとまらなくなって、また「自宅療養させてください」と、医者の診断書を持って休ませてもらったんです。だけど、療養が終わって会社に行く前の日に、上司に「辞めます」と電話しました。次の日に会社に行って退職届を出したら、上司はとめてくれたんです。「辞めてどうするんだ」と。今から考えると、なんてことをしたんだと思うんですけど、私はその会社から逃げたくて逃げたくて仕方なかっただけのことなんですね。
会社を辞めたら次の仕事が見つからないんですよ。年齢も38歳になってました。それまで専門職をしてて、仕事を探すにも、その専門職では年齢が高すぎる。新しい仕事をするには、私は何も資格を持ってなかったんです。運転免許すら持っていなかった。
自分の力のなさをすごく感じました。どうしたかというと、酒に逃げました。現実から逃げたんです。職業安定所に行くと、部屋の中は人でごった返していて、ムンムンしてましたね。求人の冊子を奪い合うようにして見ている。職安に行かないと失業保険がもらえないと思ってましたから行ってましたけど、私は十分とそこにおれない。職安を出て、自動販売機で缶ビール500mlを買います。汗をかいて喉が渇いたからではなく、とにかく酒を入れないといけない。一気に飲んで、ふらふら歩いて、公園のベンチで寝る。仕事もせずに昼間からビールを飲んで、ベンチで寝ているという自分の姿が情けなくて情けなくて仕方なかったけど、でもその状態が続くわけです。
別にビールがほしいというのじゃなくて、酒を入れないとやっておれない。酔って、考えがまわらなくなればいいだけのことです。でも、悲惨なのは酔いが醒めたあと。現実がどーんときますよね。現実を見たくないから、また飲む。そのくり返しです。
家の中でも私の生活は昼夜逆転していました。夜中じゅう何をしているかというと、ファミコンをしているわけです。子供たちが起きるころに寝ると。私のそんな情けない姿を子供たちは見ているわけです。それでもとまらない。
あるきっかけでとにかく働こうという気になって、仕事についたんですね。営業の仕事です。私はそれまで部屋の中でする仕事でしたので、営業はしたことがなかったんですけど、何とか変えていきたいと思ってたので、何でもやろうとその仕事につきました。飛び込みの営業もしました。まわりの人は私が変わったと思っただろうと思います。ただ変わらなかったのは酒がとまっていない。
営業職というのは契約を取っていくらの仕事ですから、契約があれば喜んで飲む。取れないとまた飲む。何があっても飲む。契約が取れていないのに嘘をついて、「契約が取れたから飲ませてよ」みたいな感じで飲む。そういうことをやってましたね。昼間でも素面じゃないんですよ。二日酔いの状態がずっと続いているんですね。自分が何をしてるのかもわからなくなってて。道ばたで寝ることもありましたね。繁華街でぶっ倒れて寝てしまうとか、何度もありました。最初のうちは警察のお世話になることは恥ずかしかったです。それが恥ずかしくなくなってくるんですね。もういいやという感じで。妻はそういう私を見放していました。
最終的にお世話になったのはアルコール依存症の施設です。その施設でも私は酒を飲んでしまって、結局は仕事を辞める。お金が入らなくなって、妻とは離婚。なぜ施設でもとまらなかったかというと、家族のためにやめなくちゃいけないという気持ちが私にあったからです。問題は自分です。アルコール依存症の私です。それがわからないと酒はとまらないですね。
何度もスリップ、つまり酒を飲んでしまい、私はその施設を出て、精神病院に入りました。そこが私にとっての底つきだったですね。何もできなくなった状況。手も足も出ませんという状況。それは家族と一緒の時じゃなくて、精神病院に入った時でした。そこで底について、このままじゃ終わりたくない、精神病院で暮らしたくない、もう一度家族に会いたい、そう思いました。
そこからスタートですね。「自分ではどうすることもできない。無力だ」ということを認めて、そこからスタートです。無力だと認められないと、本気で助かりたいとも思えないんですね。それまでの私は、私の問題ではない、まわりの問題だと思ってました。妻が悪い。会社が悪い。同僚が悪い。
「もう一度やらしてください」と、また施設に帰りました。今度は家族のためではないです。自分のためです。そこで自助グループのミーティングに参加しました。酒がとまってから5年たちます。やめたわけではないです。とまっただけです。
「酒がとまってるだけではだめですよ」と言われましたね。何が必要かというと、「自分を変えなさい」と言われたんです。今までは、俺は正しい、まわりがいけない、間違っている、それで苦しんでいたわけです。そういう私の考えが酒に結びついていたというのが、だんだんわかってきて、じゃ、どうするかというと、自助グループにはそれを変えていく道があったんですね。
施設に入ってプログラムを受け、二年後に再就職しました。半年後に施設を出てアパートを借りて自立するようになりました。別れた家族には、仕事について半年後に再会したんです。私が思っていた状況ではなかったですね。かなり悲惨でした。そのことに対して自分を責めたですね。家族を苦しめたと。
自分じゃどうすることもできない状況だったので、そこで私がしたのはミーティングに歯を食いしばって行くことでしたね。それで助かったかなと思います。自分一人で抱えていたらどうなってたかなと思いますね。
先月から長男と一緒に暮らしています。今まで子供に私の嫌な部分をずっと見せてきて、父親として何もやってきてなかったですから、何かしてやりたいという思いがあります。次男と長女もいます。いっぺんにはできないんですね。今の私はそれだけの力を持ってませんし、収入もないですし。でも、何かの手助けはしていきたいと思っています。
昔の飲んでいたころの自分と、今の自分とどっちを取るかというと、今を選びますね。私は今度酒を飲むとしたら、とことん飲んで、死ぬまで飲みつづけるでしょうね。そちらは選びたくない。何とかしてそれは避けたい。妻や子供に迷惑をかけました。親にも迷惑をかけた。迷惑をかけた人たちと何とかうまくやりたい。だけど、酒を飲むと全部吹っ飛びますし、今まで以上に迷惑をかけるのはわかってます。自助グループの仲間と一緒にいよう、そして酒を飲まない生き方をしたいというのが私の願いです。以上です。ありがとうございました。
Cさんの体験談
アルコール中毒のCです。私が自助グループにつながったころというのは、女が酒を飲むいうたら恥な部分があるころだったんですね。まして、私は自分がアルコール中毒とは思ってなくて、道ばたで寝っ転がっているおっちゃんがアルコール中毒で、女は絶対にならんという、自分なりの理論があったんですね。しかし、最後は生きるか死ぬかの選択を迫られ、生きたいと思ったんです。そこから死ぬ思いでここまで来たような気がします。
私は昭和26年のクリスマスイブに生まれたんです。家は商売をしてましたので、わりと裕福に暮らしていました。ところが、子供のころ父がいなくなりましたので、母の実家に行くことになったんです。でも、私は父が大好きでした。母が大嫌いでした。それはなぜかというと、母は私をずっと抑え込むんですね。兄は牛、私はブタと、いつも分け隔てをされてたわけなんですよ。
新聞に「父危篤」という広告を出して、しばらくして父が帰ってきたんです。小学校4年生の時、広島に小さな家を借りました。それなりの自由があって、楽しかったけど、母がプライドの強い人で、土地を買って家を建てたわけです。そのころが小学校の5、6年生ですか。兄がお風呂をわかして、犬を散歩させる役、私は炊事をする係。遊びたいのに、いつも家のことをさせられるのが嫌だったですね。だけど、母の言いなりになって、反抗しなかったんです。今から考えると、反抗期があまりなかったように思います。
うちは系統的に酒を飲む家系で、みんなが飲むんですよね。父も大酒飲みでした。母も飲んでたんですね、肝臓を患いました。私もよく考えてみたら、もともと甘いものが嫌いで、酒のつまみみたいなものが好きなんですね。小さい時に父がビールを飲んでいたら、必ず膝の上に座って「泡が飲みたい」とかね、お正月だとお猪口にお酒をもらったり、そんなことをしてました。短大の時にお酒を飲んでブラック・アウト。そのころから飲み方が普通じゃなかったんですね。
母が嫌で家を出たくて、私は短大を出てすぐの昭和47年に結婚したわけなんです。最初のころはそうでもなかったんですけど、母から逃げるための結婚だったから、結果がすごく悪かったんですね。小姑がいて、姑がいて、大姑がいて、昭和と大正と明治の人間の戦争が始まるわけですよ。それでも、親の元には帰れない。
三人の子供を産みました。仕事をしながら臨月まで働きました。つらかったですね。でも、私は妊娠してもお酒をやめてないんですよ。タバコもやめていない。何という自分勝手な親だったんだろうなと、今は感じるんです。そりゃ、浴びるほどは飲みませんでした。自制心を保つ飲み方だったんです。それが壊れていったのが三人目を産んだ後からなんですね。今までの恨みつらみ、憎しみ、悲しみ、全部が爆発したんです。三人目を産んだ時に、私は本当に疲れ果てて、自律神経失調症になったんですね。入退院を何回もしました。自殺未遂もしましたが死ねなかった。
そのころからお酒がすごくなったんですね。私はキッチンドリンカーではなく、本当の自分になれる流川の飲屋街が大好き人間でした。夜中にスーツを着て、サングラスをかけ、ソバージュという格好をして行くんです。飲み屋はいつも決まっています。そういう飲み屋にいたら、どんどん深みにはまっていき、ヤクザと知り合いになるわけです。そうなると、やっちゃいけないものがやりたくなるわけですよ。ぐでんぐでんに酔ってたのが、一発射ってもらったら、逆毛が立ったようになって膝がガクンと落ち、酔いがいっぺんに醒めたんです。その後、パトカーのサイレンが聞こえたら恐くなって。
結局、捕まったんですね。飲み屋のママさんがヤクザの女で、ヤキモチを焼いてちくったわけなんです。拘置所に入ったら、彼女と同じ房でした。私は起訴されたらすぐ保釈で出してもらえました。主人にはすまないことをしたなと思うんですけど、それでもまたどんどん飲んでいくわけです。
判決が出て執行猶予がつきますよね。でも、またやっているんですよ。その時は捕まらなかったけど、もし捕まっていたら今度は刑務所に入っていたわけです。そんなことをさせたのもお酒の力を借りてなんです。すまないと思っていても、人を恨むことに変わりはなく、みじめな自分をごまかすため、さらに深みにはまっていきました。
覚醒剤をやってるから、飲んだらフラッシュバックが来るわけです。人の足音がする、ひそひそ声が聞こえるとかあって。そのためにより深くより強い酒を飲むようになったんですね。ビールは水みたいなものであまり好きじゃないから、とにかく酔うものをと、ビールの中にウイスキーを入れたり、焼酎を入れたり。転げ落ちていくように飲み方がおかしくなっていくわけです。すっごい飲むんですよ。飲み屋のママさんが言うわけですね。「そんなに飲んじゃだめよ。薄くしたげる」と。ママさんがいなくなったら、ボトルからぐぐっと入れるわけです。もう生なんですよ。底なし沼いうか。家に帰れなくなったこともあって、ここはどこ、隣に寝ている人は誰、ということも結構あったんですね。人間が人間として生きられなくなった。そういう生き方しかできなくなった自分がいるんです。
女はホルモンの関係で依存症になる確率が高く、肝臓がめげるのが早いんですね。私もγ―GTPが3000までいった時は動けなくなりまして、救急車で運ばれたこともあります。それでもやめれないんですね。
そのころ、お酒と睡眠薬を飲んで寝たら、息ができなくなったことがあるんです。タクシーで病院に行きました。そうして、一回目の入院になるわけです。記念病院の先生が「ここはあなたの来るところではありません。次は呉のみどりヶ丘病院に行ってください」と言われたから、その病院に連れて行ってもらったら、そのまま入院になったんです。病棟に入って、ガチャンと鍵をかけられた時、「えっ」と思ったんですよ。おお、ここまで来たかと。女性の病棟ができたばかりでしたから、患者は五、六人しかいなかったんです。朝は六時に起きて、朝礼と断酒の誓いと、病院の歌を歌うわけです。「ここは気違い病院だ。私はもっとおかしくなる」と思ったわけです。食べるものは悪かったし、刑務所みたいな食べ方をさせられるし、一つもいいことがなかったんですね。
外出許可が出たんです。抗酒剤といって、酒を飲んだら大変な目に遭う薬を飲んで、買い物に行った時に、テレホンカードを借りて、「もう二度と飲まないから帰らせてくれ」と家族にお願いしたんです。家に帰ってもどんどん流川へ行きましたね。何も考えず、子供のことも忘れて、本能的になれることがよかったんです。
飲めば実家に戻されてました。実家へ行くと、母が針のむしろのように責めるわけです。円形脱毛症になって、三つぐらいハゲができたんです。おまけに階段から落ちて、頭を九針ほど縫う怪我をしたこともあります。それでも、カツラをかぶって流川に出ていくわけなんです。気がついたら谷底に落ちていく自分がいるわけです。
最初、断酒会につながったんですけど、私はなんか違うと思ってました。酒害者本人の会というのに行った時に、変なおっさんたちが暗い、しめったことを言うんですよね。「この人ら気の毒に。私と違う」と、すぐ行かんようになるわけです。行かんと必ず飲む。すると行くしかない。そのくり返しを何回かやるわけです。
そのうちわかってきたのは、その会に来ているおっさんたちは飲んでいないわけですよ。だけど私はお酒を飲んでいる。焼酎をこぼしながら飲んでましたから、口のまわりがかぶれてるわけです。おまけに拒食症になってどうにもならなかったんです。そうやって「自分は違う」と否認しつづけてたんですよ。逃げて物事が解決したかというと、余計ひどくなるばかりでした。逃げれば逃げるほどお酒が追ってきたんです。そのことに気づき始めて、酒害者の会に行くわけなんですけど、やっぱり受け入れられない。否認しつづけたんです。
父が死んだのが平成3年、私の結婚記念日でした。父が死んで、「もう飲まんからね」と涙の宣言をして、四ヵ月もしないで飲んでしまって、それが最後のスリップでした。そこから始まったわけなんです。チャンスをつかむかつかまないかで、大きな差ができてくるとと思うんですね。
離婚したのが結婚してちょうど三十年目、父が亡くなって十年、末の娘が20歳になってました。これは別れろということだなと思って離婚したんです。アパートを借りれるだけのお金をもらいました。昔の自分だったらもっと要求したと思いますけど、新しい自分がその埋め合わせになったんだと思います。
自助グループが広島で始まったのが平成元年です。自助グループでアルコール依存症の知識、酒をとめるプログラム、そして道すじを、先行く仲間から真剣に聞いていったわけです。なぜ飲むのか。「アルコール中毒は病気なんだよ。風邪をひいて熱が出たら熱を下げる処置をするでしょ。アルコール中毒者はそれなりの治療の仕方があるんだ」ということを先行く仲間に教えてもらい、わからないことは聞いていったんですよ。先行く仲間に反発して、「三日飲むのをあけたことがないのに、やめられるわけないじゃん」と片膝ついてほざいて逆らいながら、それでもやっていったんです。私はスポンサーに恵まれました。
自助グループは仲良しクラブではありませんし、仲良しクラブでは回復しない。自分の問題なんですね。今までは家族のためとか子供のためとか、そういうものを持ってきてたんですけど、自分のためでないかぎり酒はとまらないことがわかったんですよ。そうしたら、一年しないうちに、「お前はやめられる」という言葉をもらったんです。
レベルを落とすということも学びました。今まではプライドが高くて、自己中で、人のことを考えずに生きてきました。そのくせ他人が自分をどう思っているかが気になる。アルコール依存症はみなそうなんです。自分を中心に世界がまわっていると思ってるから、人がどう思ってるかが気になるんです。なのに人を平気で傷つけて、それに気づかない。そういう自分中心の考えでいるうちは超えていけない。
だけど、自分が変わっていく方法をミーティングを通して見つけさせてもらったんです。飲んでたころのことを正直に話す仲間を見て、過去の自分を投影するわけですね。つまり、仲間が鏡なわけです。そうやってミーティングの大切さを知って、二年間毎日ミーティングに出席をしました。その中で、ハイアーパワーが私を拾い上げてくださったと思うんです。
そうして、自分でグループを立ち上げました。そのミーティングは十年間守りました。今はそのグループを仲間に渡して、今度は女性だけのミーティング場を開いて三年目になります。ぼつぼつと新しい仲間が来てくれているんですけど、悲しいかな長続きしない。私の過去を見せてもらうような思いです。
アルコール中毒は飲まなければ進行していかないんです。生き方を変えていくためのいいチャンスだと思うんですね。恥ではないんです。アルコール中毒をひけめとするんじゃなしに、アルコール中毒になってよかったと思うんですよ。自分の過去を洗いざらい話し、これが私の人生だと言える勇気をもらいました。私の価値観とかプライドとか、何の役にも立たない。そういうものは捨てて、新しい自分に生まれ変わったと思えば、生き方、考え方も変わり、二度の人生を味わえる。
言われる通りにやって15年半がくるわけですけど、こんな日がくるとは思いませんでした。これが、死ぬにも死ねない、生きるにも生きれない暗闇の中で光を見出し、今に至っております。感謝、感謝。これからもいろんな方と知り合いになりたい。自助グループのため、女性のために使命をいただき、希望を持つ女のサンプルです。生かされている自分をこうやって皆様に話すことができたことを感謝いたします。ありがとうございました。
Bさんの体験談
アルコール中毒のBです。みなさん初めまして。僕は37歳、会社員です。僕は最初アルコール依存症と言ってたんですよ。今はアルコール中毒と言っています。
ミーティングに出て、自分のやってきたこととか、生きづらさとか、そういう自分の話をして、仲間の話を聞くということをずっとしていたら、「俺はひどいな」と思いましたね。今までひどすぎたなと。人間の格好をしてますけど、人間として生きていなかったなあと気づいたら、僕は自分をさげすむという意味で、アル中でいいやと。自分が恥ずかしいという気が今はないんですね。ある意味、アルコール中毒者ということに誇りを持っているんです。
ヒゲの殿下がアルコール依存症になって入院しましたね。面白かったのがですね、テレビで「殿下がアルコール依存になられました。でもアルコール依存症ではありません」と言ってたんですよ。僕も当事者ですから「アホなこと言よるな」と。アルコール依存とアルコール依存症とは同じだということは仲間は知っているし、お医者さんも知っているわけですね。それなのに、「治療一ヵ月、その後完治」と。アルコール中毒に完治はないんです。いっぺんアルコール中毒になると、元には戻れない。報道は誤りなんですね。もっと面白いのが、週刊誌を見てたら、「殿下は講演に行かれた時に「アルコール依存症の寬仁です」と自分で言われておる」と。自分で認めているわけですね。ところが宮内庁の人は「症をつけるのをやめてくれないか」と申し入れているそうです。よくわかりませんけど、依存症ではいけないんでしょう。殿下は自分がアルコール依存症だと、自分の口で言われている。アルコール中毒は自分で認める病気なんです。
18歳ぐらいから飲み始めたんですけど、僕もあまり飲めなかったんです。最初は一杯飲んだら吐いてました。記憶がなくなるということもなかったですし。ただ、僕は飲んじゃいけんところで飲んでましたね。車とか会社とか。僕は前に運送会社におったんですけど、壁と壁とのすきまで小さくなって酒を飲んでたことがあるんですよ。向こうから来る人を気にしながら酒を飲んでいたんですから、おかしいですよね。
そこらの問題意識はあったんですけど、酒飲んで寝ころがっているおじさんと違うわと、僕はずっと否定してきたんですね。俺は靴下をはいているし、ネクタイも締めとる。金もちょっとは持っとる。俺は違う。そう思ってたんですけど、やりよることは一緒なんですね。
私の子供が喘息で病院にかつぎ込まれた時もですね、夜の十時ごろだったと思いますけど、酒屋のおじさんを起こしましたからね。昔の自動販売機は五百円玉が入らなかったんです。店がしまっていたので、たたき起こしてビールを買って飲んで、子供のところに行ってました。
そういう飲み方をずっと続けてきて、最後は借金がすごくなり、会社はクビになり、離婚もしました。自分に残っているのは借家だけです。家賃を払っていないから、「出て行け」と言われてね、寝るところがなくなる寸前に私も中間施設につながったんです。五年前のことです。そこでお酒をやめるプログラムをしていくわけです。夜は毎日ミーティングに出ます。それを二年ぐらい続けて、一応社会復帰というか、社会に出させてもらったんです。
アルコール中毒は自分が認める病気と言いましたけど、これは酒以外でも、ギャンブルやクスリや異性でも、依存症はみんな一緒だと思うんです。自分がおかしいとか、自分に問題があると認めないと、なんぼ家族や同僚が言ったって、またやっちゃうんですよね。
私はミーティングにビールを飲んで行きましたね。終わってから、またビールを飲みました。そういうことをしながらミーティングに出てもとまらないんですよ。僕もその時は家族のためとか思ってましたもん。でも、何もなくなって、ちょっと素面になって考えた時に、自分の問題としてとらえだしたところから始まったですね。
酒がとまって来月で五年になります。自分のやってきたことは変えられないです。やったことを許してもらうよう謝ったりする気持ちを持ちつづけていかなくてはいけんと思うんですね。過去は変えられないけど、でも先はわかんないです。人を変えようとせんで、自分を変えたいという意識に楽しみがあります。それも一日一日やっていくことになるんです。
今、会社員なんですけれど、上司がすごい酒を飲むんですね。朝から飲んで来てます。出張に行くと、新幹線で「お前、のどが渇かんか」と言うんです。「そうですね」と言ったら、「買うてこいや。淡麗」という感じでお金をもらうんです。僕は「酒を買えません」とは言えなかったんですね。だから、そこらにいた人に「淡麗、買ってきてください」と頼みました。自分の手でお金を握ってお酒を買うことができないんです。なんぼ飲んでないといっても。飲み屋には行きますよ。まわりの人が飲んでても、僕はお茶でいいんです。でも、酒は買えんですよ。飲むんじゃないかという不安はそんなにはないんですけど、やっぱり買えんのです。
社会に戻って、仕事をしながら飲まないで生きていく。完治はないけど、回復はあるんですね。そのためには飲まない生き方を続けていく。僕は酒をやめることはできんでも、飲まないでこのまま生きることができたらと思っています。そのためには「今日一日だけ」、明日はわからんけど、今日一日だけは飲まんとこう。その積み重ねだと思うんです。
以前は、「今日一日飲まずにいましょう」と言われたら、「いつ飲めるんですか」と僕は聞いてたんですけど、今はね、毎日のミーティングとか仲間とか、社会の人との出会いを大切にして、一日一日を生きています。ありがとうございました。
Dさんの体験談
アルコール・薬物依存のDと言います。私は薬物といっても、処方薬をお酒で飲んでました。その薬の関係で最後にはジーパンの布目をボールペンで一つずつ追っていったり、タタミの目をボールペンでつつくんですよ。立ち上がったら、そこに跡がずらっとできてました。薬で何をやっているのかわからない。その薬は出さざるを得ない状況だったんですね。先生に「運転しとると前の車が近づいてくるんですよ」と言ったら、「あんたが呆けて、ブレーキを踏むのが遅いんよ。そしたらまた薬を強うせにゃいけんじゃろうが」というので、薬がどんどんひどくなってました。
それくらいお酒と薬から逃げることができない状況になっていた私なんです。今こうして自助グループにつながって、お酒をやらない日が何年か続いて、以前出ていた身体の症状もなくなってきています。
自分が何でそういうふうになったか。父や祖父がお酒を飲んでいる姿を見た記憶はほとんどありません。一回だけ、父が地区の新年宴会でよっぱらって人に背負われて帰ってきたことがあるというのが、かすかに記憶にある程度です。母は梅酒を飲んで大変だというので、救急車をよんだことがあるくらいでした。それなのに、兄二人、そして私は、盆だ正月だと集まれば、一升瓶が何本もあいていたんですよ。まずビールが入って酒になり、ウイスキーになって。たちの悪いことに、私たちはただただ飲むんです。
私は兄二人の末っ子でしたから、蝶よ花よと育てられる環境だったはずなんですが、おてんばで、父は「お前が男だったらのう」と言ってました。兄とチャンバラをしたり、竹藪を滑り降りて頭から足まで傷跡が残る怪我をしたこともあります。
お酒との縁はそんなに早くなかったんです。大学に入って、5月にコンサートの打ち上げで、即ブラックアウトを起こしました。自助グループにつながって自分をふり返った時に、「もとからアルコール依存症の素養があって、でも外に出てくるのが遅かっただけですね」とスポンサーに言われました。
小さいころは、活発で陽気で何でもできてと、ほめ言葉をいただいていましたけれども、私の内実はというと、外で虚勢を張らなければいけない。家も難しい家でした。私は小学校からおさんどんやっていました。私が高校三年生の時に祖父が死にました。お葬式を私が切り盛りした記憶があります。お葬式では父母や兄たちは上に座っていますから、裏の采配は私がやっていたんです。その時、父や母は何をしていたのかなと思うんですけども。それだけしっかり者としてやってきたから、逆に私は人に弱みを見せちゃいけないんだという部分を自分で抱えつづけてきたんだろうと思います。
高校三年の時に祖父が病気になり、学校に行っても呼びかえされるという状況でしたので、大学も行くところがない。先生に「二次募集があるけど、ここを受けてみないか」というので、何の目的もなく、流されるまんまに大学へ行かさせてもらいました。じゃ、大学を卒業して、次は何をするんやと言われたら、できちゃった結婚で、夫の家に行かざるを得なくなったんですね。
舅、姑、小姑etcの争いのど真ん中に放り込まれました。何一つ社会経験がないまんま、でも鼻っ柱だけは強い私は、誰も遠慮してくれる人のいないところに行くわけですからね。外に弱みを見せちゃいけないという踏ん張りだけでやっていかざるを得ない。
ありがたいことに主人がものすごくお酒を飲みます。酒の肴を五、六品並べ、子供を寝かしといて、二人で延々と飲むわけです。舅姑がぶつぶつ言いますが、でもどんなに遅くなってもきちんと片づけて、次の日のご飯の支度はちゃんとして、翌朝は五時半に起きてやっとるんじゃけ文句なかろうがと、完璧な嫁をやっていました。でも、それだけのことをするにはお酒の力が必要でした。
長男が生まれた時には、田舎のことですから、「でかした。跡取りを作ってくれた。ありがとう」だったです。でも、次男の時は違ってました。次男が生まれて半年たったころ、おむつを替えるのにどうもおかしい。六ヵ月検診で「すぐに大きい病院に行ってくれ」と言われ、「どうしてですか」と聞いたら口をにごされるんですよね。県立リハビリティーションセンターという障害者のための施設があるんで、そちらを紹介してくださいました。
何のことかわからないまま、次男を連れて受診しましたら、先天性中枢性機能協調障害、簡単に言えば脳性麻痺になる可能性があるということでした。即入院となり、訓練を二年半ほどやりまして、3歳の直前にやっと歩き始めました。今は見た目にはわかりません。でも、いまだに左手は親指が中に折れたまんまです。完全には治っていないんだなあと。
その時に、次男の病気はこうですと言ったら、舅姑の態度はころっと変わりました。「あんたのところの血が悪いんじゃないか」と言われましたからね。古い年代の人たちですから、仕方ない部分もあるんですけど。そこでまた私が「なにくそ」とやるんですよね。「じゃ、一緒にお願いします」と頭を下げることができない。
そうこうしていたら、舅の借金が出てきたんです。舅は腎不全ということで入院し、人工透析をするようになりましてね。天皇ですから、家に帰るとわがまま放題で、食べることにものすごく執着しました。「カリウムが多かったらいけん」「マグネシウムが多い」と言うんですよ。「育ち盛りの子供を抱えて、そんなことできるかい」と思いながら、やったんですよ。
そうしたら農協が舅の病気を聞きつけて、「実はお宅にはこれだけの借金があるんですよ」と言ってきたんです。金額を聞いてみたら、2700万円を超えとるんです。急遽親族会議を開いてどうしようかということになりました。主人に「あんちゃん、がんばってくれんか」と頭を下げられるので、私も簡単に受けたんですよね。それからしゃかりきになって働いて、十年間で借金を全部返しました。
その時に実家の両親が「あんたなあ、子供を連れて帰ってこい」と言ってくれたことがあるんですが、なぜか踏ん張ったんですね。お酒を飲んで、夜11時すぎの大相撲ダイジェストを見ながら洗濯物を干して、片づけして、朝五時に起きて仕事に行ってました。
最初十年間は結婚式場に勤めました。そうしたら、運送会社に勤めていた主人が独立しまして、私は会社の事務をやりながら、四トントラックに乗るようになったんです。絶対にバックはせんという条件でハンドルを握りました。
それも十年しか続きませんでした。その間にどんどんお酒がひどくなっていったんです。朝、出がけにくいっとひっかけて、トラックで出かける。仕事が終わるのが午後の3時か4時ですよね。家に帰ってご飯作るまでにたまらなくなって、またお酒を飲んで、バタバタと家事を片づける。
そのころからひどくなったのではなくて、前からひどかったと、今から考えると思うんですよね。子供たちが小学校の時に書き初めしますよね。子供と私が並んで書いたんですけども、私は「断酒」あるいは「禁酒」と毎年書いてたんです。息子が言うんですよ、「かあちゃん。絶対に続かんで」と。子供に言われよったぐらいですから、私は子供たちにひどい姿を見せていたんだなと思います。
でも、周囲の評価は、お酒を飲んで豪快にトラックを乗りまわすやり手のお母さんという感じですよね。だから、いつまでたっても弱音を吐くことができないまま、気がついたらお酒がとまらなくなっている。主人は忙しいからというんで、別に家を借りました。お酒を飲んで何もしない女房のところには帰りたくないということです。長男は家を出る。舅姑との争いがすごかったですから、次男は「こんな家、おりとうない」と言って、全寮制の高校に入りました。
そしたら、家には犬とじいさんとばあさんと私しかおらんのです。見透かしたように舅に「借金は返した。家は残った。アル中の嫁はいらん。出てってくれ」と言われました。勝手すぎようがと思ったんですが、まあいいかと思って、実家の援助を受けて家を買いました。
引っ越して新居に心機一転といっても、どんどんお酒はひどくなり、仕事ができなくなりました。他人様と応対する時はまともなんでしょうけれども。私は三年ほど会社の決算をやってなかったんですよ。お酒でできなかったんですね。主人が「税務署のほうはどうなったんや」と言うのに、「すました」とごまかしたら、次は「できてません。修正申告させてください」とは言えないんですよね。
マツダなんかから「緊急便で第何工場の何番に何を納めてくれ」という注文を受けるのが私の役目だったんですね。2時がリミットだから、2時をすぎると、「よし、飲める」と飲んでたんですよ。その調子でやっていて、とうとう仕事に大穴をあけてしまいました。
緊急便で呼び出しがかかって、さあ行こうと思って、出がけに飲みますね。近くに工業団地がありまして、気がついたらそこの駐車場で寝てたんです。夕陽が沈む寸前でした。時計を見て、「しまった」と思ったんですが、素直に謝れんのですね。そのまま家に帰って、ドアチェーンをかけ、電話のジャックをはずし、布団を頭からかぶって、酒を飲んで寝とったんです。
その時はさすがにマツダの生産ラインがとまったらしいです。主人が夜中に怒鳴り込んできました。チェーンをどうしてかはずして靴のまま上がり込み、「お前はのう」と言って蹴飛ばしたのだけは覚えています。私が何も言わないので、当たり散らして出ていきました。「やれやれ、おらんようになった」と思って、また飲んで、ブラックアウトを起こして寝るんですね。
最後のころはひどい状態で、よく覚えていないんですが、テンカンを起こして病院にかつぎ込まれました。それでも酒がとまらんのですよ。先生が「もう飲んじゃいけませんよ。約束してくださいね」と言って退院許可を出してくださるんです。「ありがとうございます」と言って、飲んでしまうんですね。先生もさじを投げるし、精神病院に入ってもだめなんです。
そのころ、主人が離婚調停を出しました。次男が20歳の誕生日でした。入院していた時で、呼び出しがかかり、二日で不調になったんです。私はべらべらしゃべりますし、主人は金は渡したくない。裁判所でぶっ倒れまして、救急車で運ばれました。
主人は縁を切りましたので、今度は兄が引き取ってくれたんですよ。「呆けた母と一緒におってええ。何もするなよ」と念を押されてたんですが、兄の酒を盗み飲みする、母親の財布からお金を盗んでコンビニで酒を買う。最後には、盗み酒があまりにもひどいからというので、兄に「出て行け」と追い出されてしまいました。
呉のみどりヶ丘病院は住民票を移したら死ぬまで面倒を見てくれるという知識だけはあったんですよ。先生に「私、あそこに移ります。紹介状を書いてください」と頼んだら、「もうちょっと待て。何か道があるじゃろうけ探そうや」と言ってくださいました。そうして、たまたま中間施設につながることができたんです。こうしてみなさんにお話しさせていただくことができるというレールに乗せていただきました。
8月15日に、残っていたホワイトリカーをもったいないからと全部飲んで、施設に入ったのが16日、母親の誕生日です。その時は「今日は母の誕生日だ」と思うどころじゃないんですよね。しばらくして、「あんたが来たのは8月16日で」と言われて、ああそうかと思ったぐらいで、それくらい親のことさえ考えられない有り様でした。
酒がとまっているから、アルコール依存症を克服しているんじゃないです。ただ、以前ほどこだわっているわけではないし、かといって乗り越えるぞと力んでいるわけでもない。こだわりがなくなったわけじゃないけど、いつまでもこだわりつづけるわけでもない。気楽に生かさせてもらっています。
今こうしてお酒をやめさせていただいて、何とか自分の家で長男と暮らしています。長男は「自分が見捨てたら、かあちゃんはどうなるかわからん」というので、最後まで踏ん張ってくれましたけれども、「もういやじゃ」と東京に出ました。その前に次男も出ています。
こういう母親に育てられたからか、長男は東京で六年間浮浪者みたいな生活をしてました。警察から連絡があるんですね、万引きとか銃刀法違反とかで。そのたびに引き受けに行きました。私が長男の人生をどん底まで追いつめたのかと思います。
その長男が去年の9月に着払いの荷物と一緒に帰ってきました。同じ屋根の下に暮らしてはいますけど、一日おきにタバコ代を300円請求するだけです。いまだに普通の会話も成り立ちません。何かあったら、お互いがすぐに感情的になってケンカになりそうな状態です。息子は昼夜逆転の生活で、何もしていません。なおかつ深夜徘徊しています。近くで何か事件があると、息子ではないかという猜疑心があります。でも、この子にあまり言うのは酷だなあと思って、何も言わずに、ただご飯だけ作って仕事に行っています。
長男が帰って一年になります。私は仕事が六時に終わりまして、ミーティングを週に三回持っておりますので、どうしても帰るのが遅くなるんです。昨日、「仕事に関係のあることを教えてくれと言よったなあ」と言うので、私の仕事に関する情報を教えてくれましてね。こんなふうにして心の固いとびらを一つずつ開けてくれたらなあと、ただ待つ気持ちでおります。
次男も東京へ出て羽目を外しすぎたんでしょうね、大きな借金を作っちゃ、そのたびごとに帰ってきて、私が二回尻ぬぐいをし、主人も一回尻ぬぐいをしました。四回目の時は主人もさじを投げまして、私もこういう状態ですから余裕がありません。「できない」と言ったら、パチンコ店に住み込みで入って、何とか借金を返しました。
それならというので、つき合っていた彼女も一緒になろうと、この6月に結婚しました。去年の秋に二人で挨拶に来てくれました。その時に次男は「かあちゃんが飲んどらんことを信じることができた」と言ってくれました。今までは「自助グループにつながって酒をやめとる」と言っても信じてもらえなかったんですね。でも、それは仕方ない、それだけのことをやってきたという思いがあります。
私は自助グループにつながってふり返ることができ、今までのことは否定しません。ある意味、私にとっての財産かもしれません。長男はいまだに何もしてません。でも、自助グループに教えてもらったことで、煽ることも、怒ることもせずに見守っていることができるなと思います。昔だったら、とてもじゃないがそんなことはできなかったなと思います。ありがとうございました。
Aさんの体験談
アル中のAと言います。私は人間関係がものすごい下手くそで、友だちを作ったりとかができなかったんですよ。大学生になると、飲み会というか、みんなで飲む機会があって、そういう時に酒を飲んだら、うまくみんなと話ができて、「面白いね」と言われて、気楽になれたんです。でも、それも長続きしなくて、どんどん酒がひどくなって、潮を引くようにまわりの人から相手にされんようになってきました。普通に学校に行けなくなって退学したんです。
最後のころは幻覚がひどくなってですね、隣の家の人が植木を切っていたんです。それが「お前を殺してやる」と聞こえるんですよ。泣きながら隣のおじさんに謝ったりとか。広島駅の地下道があるじゃないですか。あそこで倒れて、おしっこをもらしたんですね。昼間だから人は通るし、「もしもし、救急車をよびましょうか」と言われて。結局どうやって帰ったか、ようわからんのですけど。そういうことのくり返しなんですよ。自分ではどうにもならなくなっていて、何か無茶苦茶だったんです。
とうとう精神病院に入った時にはですね、それこそ浮浪者とか、社会的に適応能力のない人と烙印を押されたような気がして、まして精神病院に入ったというのが人にばれたらどうしようとか、すごい不安だったんですよ。精神病院で「何で入院したん」と聞かれて、「わしの息子もお前くらいじゃ。お前みたいに息子がなったらショックじゃ」みたいなことを言われてたし。
22歳の時に自助グループにつながったんです。自助グループではどこの誰というのを言わんでいい、秘密が守れるというのが、自助グループに行こうというきっかけでした。初めて自助グループに行った時に、「ここは何をするところで、何をしたらいいんですか」と聞いたら、「言いっぱなしの聞きっぱなしなんですよ」と言われて、「何のこと?」と聞いたら、「自分のこと、お酒を飲んだりとか、失敗したりとか、自分の話をするぶんには何を言ってもいいです。仲間も同じように自分の話をされるけど、それについては外で「あの人はこんな悪さをしたよ」とか、「こんな奴じゃ」とか言われることもないし、正直に話して、そのことをバカにしたりとかいうこともないから」と言われたんですよ。
そう言われても、最初は信じれんやったですね。精神病院の中で院内例会があったんですよ。みんな早く退院したいから「お酒はやめます」とか、いいことばかり言うんですよ。私も言ってたし。例会が終わった後で、「うまくホラ吹いたな」と患者同士で言って、「これで点数上がったね」とか。でも、こんな嘘つき大会をしてて何の意味があるんだろうと、すごく思ってたんですよ。だから、本当の話ができない。それと似たようなもんだろうと思いながら、自助グループに行ったんです。
ミーティングに出て、そこで仲間の話を聞いた時、目から鱗だったですね。汚い話ですけど、小便をたれ流しにしたとか、不倫したとか、ホームレスだったとか、仲間の人がそういう話をされるわけです。
私は仲間の話を聞いても、私は一生懸命に隠そう隠そうとしていました。精神病院のスリッパはいて、汚いジャージを着て、ヒゲぼうぼう、頭ぼさぼさで、「僕は大学にまだ籍があって、本当はこんなとこに来る人間じゃないです」とか、そんな調子だったです。私はその時、お酒がどうにもならなくなってたんですけど、「たまたま飲み過ぎて」とか言うわけですよ。たまたま飲み過ぎぐらいで精神病院に入る奴なんかおらんのですけども、私はそれがうまい言いわけだと思ってたんです。
でも、仲間は普通に話されているんです。女性の方でも、何でそんなことを話せるんだろうというか。私が一生懸命隠そうとしていたこと、たとえば、友だちなんて一人もいないとか、酒を買うために嘘をついて親を騙したこととか、家族に暴力をふるったこととか。父親が酒のことで注意したので、ボコボコに殴って片方の鼓膜を破ったんですよ。父親が退職する年で、「親に手をあげるのはどういうことや」と言われて。自分でも、仕事はできんし、酒を飲んで年老いた両親を殴る、そんなことをしよる自分がみっともなくて、情けなくて。じゃ、どうするのかと言ったら、酒を飲むしかないんです。そんな話を精神病院の患者とか、まわりの人に話したことがなかったんですよ。そんな隠そうとしていたことを、仲間の人は「僕はこうでした」と話をされるのを聞いた時に、ここでは何でも話ができるところなんだなあと安心できたのを覚えています。
最初のころは、ミーティングに出ることとか、仲間と一緒にやっていくこととか、私はそれが酒をやめることと何の関係があるのかとしか思わんやったです。自分でも、アルバイトを昼も夜もやったらどうだろうかとか、宗教の本を読んでみたらどうだろうかとか、いろんなことをやってみました。でも、どうにもならんかったんですよ。で、精神病院に入ったけど、でも私は外泊して飲んだり、抜け出して酒を買ったり、そんなわやくちゃでした。
ほんまどうにもならんから、自助グループも信じてなかったです。だけど、それしか私には手段が残されてなくて。でも、やってみたら、ほんと不思議と、なんでか知らんのですけど、お酒がとまったんですね。たまたまとまって、たまたま今まで続いているんです。
なんでミーティングに行ったら酒がとまるのか、うまく説明できんですけど、ミーティングに出ている仲間は続いています。私も続けたいなと思います。何年やめたからといって関係ないみたいなんですよ。二十年、三十年とまっていてもつぶれた人もいるそうです。ミーティングに出て、仲間と会って、自分がどうだったのかを教えられるんですけど、それを忘れたらまた飲むようになるんだと思います。そんな人をいっぱい見ましたし、飲んだらどうなるかというのも、前よりよくなることはないですよね。
ミーティングに出ている仲間の顔を見て、仲間に正直に話して、仲間も正直に話をしてくれる。私は嘘ばっかりついて、その嘘を隠すための嘘をついて、それをごまかすのにまたお酒を飲んで、ということのくり返しだったんです。それとはまったく逆の生き方というか。自分がどんな人間か忘れないためにもミーティングに出ないといけない。そういうのを思いださせてくれるのがミーティングなのかなと思います。ありがとうございました。
(2007年8月25日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです) |
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