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カルマの法則
バチが当たる
こんなことを麻原彰晃は言っています。
先日、私の五才になる三女が、ある大師をつかまえて問いかけたことがあった。
「ある人が他の人に殴られるのはなぜ?」
「それは、その人が以前に他の人を殴ったことがあるからだよ。」
「じゃあ、一回も殴ったことのない人が殴られるのはなぜ?」
「もし、人を殴ったことがないのに殴られたとしたら、その人は前生で人を殴ったことがあって、そのカルマが残っていたんだね。」
たいへんな不幸に襲われたときでさえ、「すべて自分の過去のカルマによる」ということを理解できるかどうかは、修行の大きなポイントでもある。「カルマの法則」を完全に理解しきらない限り、苦からの解放、すなわち解脱はあり得ない。(『滅亡の日』)
カルマ(業)の意味を全く誤解しているわけですが、このような間違った考えをして、災難に遭った人に非難を浴びせることは決して珍しいことではありません。
京セラの稲盛和夫が自分の私塾である盛和会で行った講話です。盛和会の塾生の多くは企業の経営者です。
大病になるとか挫折するとか、そういう災難に遭うのは、自分が過去に――先祖をも含めて――魂が積んできたカルマ、業というものが消えるときなのです。私は皆さんに、災難に遭ったら喜びなさい、とよく言います。それは、自分が今まで犯した罪が消えるのだから、その程度のことで済んでよかったではないかと言いたいわけです。実際、今度の震災では不運にも亡くなられた方がたくさんいらっしゃいますが、皆さんはこうして元気に生きておられます。つまり、あなたの魂が今まで積み重ねてきた因果が災難に遭って消え、カルマが消えたのです。
大地にもカルマがあります。神戸周辺は昔の源平合戦やいろんなことがあって、そこには定着したカルマがあったのでしょう。私には、そういう積み重ねられたカルマを清算するために、今度のような大震災が起きたとしか思えません。しかし逆に考えれば、神戸周辺のカルマはいま消えたのです。ですから今後、神戸地区は大きく発展するはずです。(斉藤貴男『カルト資本主義』)
震災に遭った人は過去に悪いことをしたその報いを受けた、つまりバチが当たったと、稲盛は言っているわけです。暴言としか思えません。
誘拐されて殺された子供の親に、「前世の罪の報いなんだ。だけど、これでカルマが消えたんだから喜びなさい」、こんなことを言っているわけです。
災害や事故に遭う、病気や身心の障害になる、あるいは身分の上下や貧富、そういったことがあるのは、過去の因縁、業(カルマ)の報い(前世や先祖の行いも含む)なんだ、つまり因果応報、自業自得、バチが当たったんだ、しかし苦しむことは悪業や罪の浄化になる。このように説く宗教はたくさんあります。
たとえば真光ではこんなことを言っているそうです。インターネットの掲示板からの引用です。
一応真光の教えというのは、一切は偶然ではない、すべてに意味があるという教えで、不幸現象というのは、霊障、因縁、神への御無礼等が原因と説明しています。
霊障ってのは、たとえば、車の事故、車にはねられて死んだ人がいる。そういう人は自縛霊となって、自分と同じような境遇のものを増やそうとしてひきこもうとする。または、自分はここで救われたい。それで誰かに気づいてもらおうとして、事故をひきおこす。これが霊障による不幸現象です。(他にもありますが)
そして、因縁というのは前世の話になりますが、先祖が人を殺したとか、そこまで極端じゃなくても、前世で人を虐めたというような人は、現世で殺されたり虐められたりする。
児童虐待はこれに入りますね。その子供が前世で自分の子供に同じようなことをしたからとか。虐殺なら、前世の時か先祖が戦争に加担して虐殺の一端をになったとか。神様への御無礼ははぶきます。
真光ってのは不幸現象にたいして、こういうとらえかたをしてます。つまり因果応報ですね。今の自分は悪くなくても、過去世の自分が今のつらい状況を作った。だから、現世であがないをさせられている。
このように不幸に対しての説明づけがされてます。
神慈秀明会でも、
因縁については大筋そんな話です。で、この理屈だと虐待する側は必ずしも悪とはいえないわけですが、それでも虐待した場合、した側はやはりしただけの罪は重ねるわけです。それは法律によって裁かれるし、来世に自分が虐待される側になるかもしれない。
つまり、虐待することで罪穢を取る方法は、それで罪穢れが取れることは取れるが理想的とはいえないわけです。痛いし。
それ(罪穢れ)を浄霊で取ると、虐待する側は虐待する理由がなくなるので虐待しなくなるという理屈です。これなら虐待側も罪を重ねる必要がなくなるということになります。
虐待することで罪穢を取る方法を人間が好んで採るという意味ではありません。どちらかというと自然現象に近い話です。
このように世界救世教系の教団でも、現在の苦しみ、たとえば子供が虐待されることは前世の罪のためであり、苦しむことによって前世の行いを清算し、悪業を消すことになる、と説いています。
次はオウム真理教です。
たとえばなにか悪いことが起こっても「あ、カルマが落ちた。よかったね」って言って、みんなで喜んだりします。失敗しても叱られても、なんでも「これで私の汚れが落ちたんだ」になってしまう。(村上春樹『約束された場所で』)
統一教会には蕩減(罪の清算)という言葉があります。
罪とは何か。それは原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪という四つである。「堕落論」によれば、原罪はアダム、エバの堕落によって人類全てが受け継いだ罪、遺伝罪は先祖が犯した罪、連帯罪は国家や民俗などが犯した罪、自犯罪は自分が犯した罪である。このうち原罪は祝福を受けることによって清算される。残りの三つ、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は善行の積み重ねによって清算しなければならない。(櫻井義秀・中西尋子『統一教会』)
祝福(合同結婚式)で韓国人と結婚した日本人女性信者の韓国での生活はこの三つの罪の清算のためにあるわけです。
櫻井義秀『霊と金』に、江原啓之『日本のオーラ――天国からの視点』の視点を次のようにまとめてあります。
①同性愛者には人を差別してきたカルマが見える。だから差別を受けることでカルマの法則を学ぶのではないか。
②アメリカの9・11テロも広島の原爆もカルマの法則で捉えられる。奪ってきたものがあるから、奪われる。戦争という形で魂の浄化が果たされる悲劇がある。
③社会貢献や慈善事業はカルマ落としになる。国税も稼いだ人に国がカルマ落としをさせるようなもの。
ひどいことを江原啓之は言っていますが、問題にしている人はあまりいないように思います。いずれにせよ無茶苦茶な話なんですが、理屈づけがされ、教義として教えられているわけです。
現在の苦しみ、たとえば子供が虐待されることは前世の罪のためであり、苦しむことによって前世の行いを清算し、悪業を消すことになる、こういう教えを皆さんはどう思いますか。
私は人間を不幸にする考えだと思います。
不幸や災難は過去の悪業のせいなんだ、という考えはどういう問題を生じるでしょうか。
①何もかもが正当化されてしまう
・犯罪を正当化
・貧富、貴賎、病気、障害などの社会的不正、差別の正当化
②災難や不幸に遭った人への非難
③すべてを運命だ、カルマだと片づけてしまう。思考停止
①どんなことをも正当化してしまう
前世の罪によって災難に遭うという論理だと、殺されるのは前世で悪いことをしたからなんだから仕方ないということになります。こういう理屈で殺人や児童虐待が正当化されれば、同じ論理でイジメも泥棒も、すべての犯罪が正当化されてしまいます。
そして、苦難に遭うことによってカルマが清算されるとしたら、人を殺すことも、殺された人のカルマを清算してあげたということになり、良いことをしたんだという理屈になります。
そうなると、どんなことをしようとも正しいことをしたんだと屁理屈をつけることができます。
オウム真理教ではカルマの重い人間を殺すことは善行だと説きました。なぜなら、その人は殺されることによって新たに罪を作ることができなくなるわけですし、今までの罪を清算してもらえたからだというわけです。
ポアとはチベット仏教では魂を高い世界へと導くことですが、オウムでは「殺してもその魂が高い世界に導かれればポアになる」そうです。
論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います。
親しい女性信者に質問してみたんです。「これだけいっぱい信者が死ぬというのは、いくらなんでも不自然じゃないか」って。そしたら彼女は「いや、そういう人たちは死んでもいいのよ。尊師は四十億年後に弥勒菩薩となって生まれ変わって、今死んだ人間の魂を引き上げてくださるんだから」と言いました。なんか無茶苦茶な話だなと僕は思いました。(村上春樹『約束された場所で』)
これと同じような無茶苦茶な理屈で、社会的不正や差別も正当化されています。
障害者に対して「親の因果が子に報い」と言い、ハンセン病を天刑病と言ったように、その人には全く関係ないことを原因として持ちだし、そのせいでこうなったんだと決めつける、おまけに人格までをも非難することを、私たちはしています。
過去世の行いによって現在の境遇が決まるんだということは、実は経典にも説かれています。このことをどのように考えたらいいでしょうか。
経典中には、現世の私たちのあり方が過去世の行いによると述べている場合がある。すなわち、現実社会の身分・貧富、身心の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴などを、その人個人の過去世の行いの結果によるものとするのである。このことは悪をつつしみ善につとめるという宗教的倫理を強調するための論理であって、どこまでも、現実の生き方を誡めて正しい未来を開くための教えとして受け止めねばならない。(略)
しかし、こういう表現が、経典の真意とは別に解釈され、そのために貴賎・浄穢というような差別意識が助長され、さらにまた一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方では被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。(略)
それは政治的につくりあげられた封建的身分差別までも、すべて個人の行いの報いであると説くことによって、社会的身分制度を正当化する役割を果たすものであった。しかもこのような現実社会を無批判に肯定してしまうような理解は、現実の差別をなくす取り組みを、因果の道理をわきまえないものだとして否定するとともに、またその取り組みを悪平等として非難する考えを生みだしたのである。
しかし、現実の幸、不幸の原因のすべてを個人の過去世の行いのせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことは、むしろ縁起の道理にそむく見解である。歴史的社会的に作られた矛盾や差別によってもたらされた不幸の責任を、被害者や差別されている本人に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらせてしまうようなことがあってはならない。(『浄土三部経―現代語版―』)
おかしいことはおかしいという感覚を持つことが大切だと思います。
②被害者へのいわれない非難
災難に遭うのは「自分が今まで犯した罪が消える」時なんだという稲盛和夫の論だと、地震で死んだ人は死ななかった人に比べてより多くの罪を作って業が深かったということになります。すなわち、死んだのは悪いことをしたせいなんだから仕方ない、と言っているのと同じです。
無茶苦茶な言いがかりですが、しかし我々は人の不幸に対して、バチが当たったというように考えたり、言ったりしがちではないでしょうか。
藤原弘達『創価学会を斬る』は、創価学会と公明党の大罪を七つあげていますが、その一つ「他人を「ノロウ」ものの罪」に、このような批判をしています。
創価学会教学部編になる『日蓮正宗創価学会批判を破す』という本の中に次のように書かれている。
「ちょっと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏がお山へ行きたいというので、戸田先生から案内するようにいわれて同行することになったのですが、出発の日に、東京駅で私が待っていたところ、佐木氏の方では、その前日でしたか『子どもが死んだから行けなくなった』というのですね。これは、ハッキリとした罰ですよ。そして帰ってきてからきいたのですが、佐木氏はイナカへ帰って、邪宗日蓮宗で葬式をだしたというのです。まるっきり、なっちゃいないですね。」
(略)いったい創価学会は人間の死というものをなんと心得ているのであろうか。(略)創価学会を批判する人であったとはいえ、その人の子供の死を罰としてとらえ、しかもこれを当然視する態度はいったい何たることであろうか。
あるアンケートにこういう回答がありました。
私の母が入院治療中、創価学会入会を強要されたが、母は断った。母が亡くなった際、病室に来て「学会に入信しなかったからバチが当たった」と言われた。その時の怒りは今なお覚えております。
自分のしたこと(業)だけでなく、先祖の業をも問題にすることがあります。その時には、たとえば四代前の先祖が自殺したなどと言います。
なぜかというと、曾祖父の名は知っていても、その親である四代前の先祖のことは知らないという人がほとんどです。まして、母方の曾祖母の親のことを知っている人となると、いないと言っていいでしょう。
十代前だとウソっぽいのですが、四代前と言うところがミソです。前世のこととなると、そんなこと誰にもわかりません。言いたい放題です。
これはインターネットからの引用です。
例えば、たまたま玄関が開いていたからという理由だけで、通りかかった高校生に殺されてしまった女性の事件ですと、これは教団の言葉を借りて答えるならば、「昔あの高校生の魂をあの女性が殺したはず」ということになります。
もちろん、そんなことは本当かどうかわかるはずがありません。しかし、答えを導く一つの手段として、霊的に物事をとらえるということを教えていただくわけです。
だからといって、具体的に考えるとやっぱおかしいと思いますよ。「ああ、なるほど。そりゃ仕方ないよね」なんて思う人は滅多にいないと思います。そういう教えと私たちの思いとのギャップから悩み苦しむ方もいらっしゃると思います。だからといって教義を全面否定はしませんが。
現在の苦しみを、そんなものがあるのかどうかわからない前世での行いのせいにされてはたまりません。
カルマの法則という奇妙な論理はいわれない苦しみを作り出しています。
③思考停止
おかしいなと思っても、疑問を持つことは教えを疑うことですから罪になります。それで、信者は自分で考えることをやめ、無茶なことでもそのまま受け入れていきます。
よくまわりの友だちなんかともそういうことを話しましたよ。ああいうの変だよねって。しかしそうは言っても最後には、「そういうことを考えるのは結局自分の汚れなんだ」とか「カルマなんだ」とかいうように納得して、そこで話は終わっちゃう。
だから何か疑問が頭に浮かんでも、悪いことは全部自分の汚れ、逆に良いことがあると、「これはグルのおかげだ」ということになっていたと思います。(村上春樹『約束された場所で』)
このように、おかしいと思っても、そこで考えることをやめて思考停止状態になるようにさせれば、インチキ宗教としてはしめたものです。
こうなると、信者にいいことがあろうとなかろうと、教団にとってはどっちに転んでも困りません。信者は自分で都合のいい理屈を考えて納得してくれるのですから。
これもインターネットの引用です。
現世で何か不条理なことが起これば、それは前世の自分のせいであり、神様に一生懸命仕えることによって、さらに信仰を深めなければならないと考える。
自分に不幸なことが起これば、神様への神向が足りなかったからだということで、さらに熱心に神向に走る。
逆に何かよいことが起これば、それは神様のお陰であり、自分の神向が神様に認められた印である。自分も努力してこその幸せですが、最後にはやはり神様のお陰ということになる」
いいことは神さまのおかげ、悪いことは自分のせい、そういうふうにして苦難を引き受けようとするわけです。このことは、他人のせいにせず、自分自身の責任として受け止めるのですから、一応もっともな考えだと思われるかもしれません。
しかし貧困、差別、飢餓、戦争などの苦しみは、個人の責任ではありません。国や社会の問題です。個人的な問題でも同様です。自分のせいとは言えないことはたくさんあります。
それなのに、なにもかも自分のせいだと思い込むことは、自分自身を意味なく苦しめるし、問題の責任の所在を曖昧にしてしまいます。それがカルマの法則を主張するインチキ宗教のねらいです。
「バチが当たった」という考えのどこがおかしいのでしょうか。
①因縁や業という言葉を誤解している
②因と果を単純に結びつける
③結果論からのこじつけ
・関係のないことを関係があるようにこじつける
・結果からあれこれ言う
①因縁や業に対する間違った理解
不幸や災難が過去の悪業のせいなんだという、稲盛和夫やオウム真理教、世界救世教などの教え、つまり「バチが当たる」という考えは、因縁や業に対する間違った理解から生まれたものです。
「前世の悪業が」とか「親の因果が子に報い」といったことは仏教では本来言いません。
因縁と業について
まず因縁ということですが、因とは直接的な原因、縁とは間接的な原因、条件です。
たとえば、種をまく(因)ことによって、花が咲きます(果)。しかし種をまけば必ず花が咲くとは限りません。土にまかなければいけませんし、太陽の光、水、肥料、手入れなどがないとだめです。また、台風が来ないとか、子どもがいたずらをしないといった縁も必要です。そのように、花が咲くための縁は無数にあります。無数の縁の一つでも欠けたら花は咲きません。
ということは、どんな些細なことであろうとも、今、現にここにあるということは、実に不思議なことなんですね。
このように因や縁は無数にありますから、
先祖が悪いことをした→地震で被害を受けた
というように因果関係を考えるのは、あまりにも単純すぎます。
冥助 榎本栄一
朝 起きて水をつかい
夜 電灯を消して寝るまで
世の中の
無数の人のちからに
助けられている私である
業とは行為とその影響という意味です。自分の心や体でいろんなことをしたり思ったりしたこと、そしてそのことが及ぼす影響の積み重なりです。
行為によって結果が生じます。善いことをすれば喜びを感じ、悪いことをしたことに気づけば苦しくなります。
たとえば、勉強をしなかったのでテストで0点を取った。自分がしたこと(自業)の結果は自分が引き受ける(自得)しかありません。当然のことです。
一人一人の業は違いますが、同じ人間ですから似ています。家族ならもっと似ています。子供が学校でいたずらをすると、親が先生から注意されます。いたずらは子供がしたことですが、親ですから業を共にするわけです。
ですから、他人に対して「バチが当たったんだ」などと言うべきでないのは当然のことです。
災難に遭うのは、自分が過去に―先祖をも含めて―魂が積んできたカルマ、業というものが消えるときなのです。
稲森和夫はこう言ってますが、自分が今までしてきたことやその影響は消えてなくなるものでしょうか。
これは因果や業の意味から言えば全くおかしい話です。私が行ったこと(業)は因となり縁となって、いろいろな果を生みだしています。
たとえば、先祖が人を殺したとしましょう。まず殺された人やその家族などに大きな影響を与えることは言うまでもないですね。もちろん殺した人自身やその周りの人にも影響があります。その一つ一つの影響にうながされた業が、また因や縁となって新たにいろんな影響を及ぼします。
ですから、殺したという行為(業)がしばらくは何の影響も与えず、なぜか何十年か何百年かたって突然にあらわれるというのは、どう考えても変ですし、そして消えてしまうというのはおかしいですね。しかもどうしてその影響が地震という形をとるのでしょうか。
次に「積み重ねられたカルマ」「定着したカルマ」ということです。おそらく業を次のようなものとして考えているのでしょう。
悪いことをしたら業というものができる。それは目には見えないけれど実在する。しばらくはそのままとどまっているが、その業が積み重なって、ある時に苦を与えるはたらき、災難や不幸を生じさせる。一度はたらいた業は消えてしまう。その業は自分が作ったものかもしれないし、前世でのことや先祖が作ったものかもしれない。自分ではどうすることもできないものだ。
こんなものが実在するということ、あるいは災難に遭うことによって「自分が今まで犯した罪が消える」ということ、こういう理屈(ヘリクツですが)は間違っていると証明することは困難です。先祖や前世のことなど確かめようがありませんし、そんな目に見えないものがあるのかないのか誰にもわからないのですから。
ただ、こうした考えは人を幸せにはしない、ということは間違いありません。
③結果論
カルマの法則というのは、すべて結果から原因をこじつけています。阪神大震災があった、これは過去のさまざまな悪業が積み重なっていたからだなどというふうに。
結果が出てから、原因はこうなんだと言うんですから、いくらでも言うことができます。そして自分がいかに正しかったかと主張します。
「ほら言ったでしょう」
「言うとおりにしないからこうなったんだ」
「どうせそうなると思っていた」
このように、最初からわかっていたように言います。こういう言い方は私たちもよくしています。自分が言われたら腹が立ちますけど。
しかし、それはたまたまそうなったからにすぎません。これは「下手な鉄砲も数打ちゃあたる」でして、友引に百回葬式をしたら一回ぐらいは続けて誰かが死ぬかもしれません。その時、「ほら言ったとおりだろ。友引に葬式をしたからこんなことになったんだ」ということになるわけです。
ある人の奥さんが二十年前から具合が悪くなり、いろんな病院に行って調べてもらったけど、原因がわかりません。その人はこう言われました。
「そのころ墓を建てた。それ以外に原因が考えられない。馬鹿らしいとは思うが、ほかに原因となるようなものは思い当たらない」
墓が病気の原因だということにうなずく人は多いかもしれません。しかし原因をこじつけていいのならいろんなことが言えます。たとえばカープが優勝したとか、孫が小学校に上がったとか。そんなことを言ったら変な目で見られますけど、墓が病気の原因だというのも同じように変です。
このようにして私たちは、全く無関係なことを原因だとこじつけて納得しようとするわけです。そんなことでは問題は少しも解決せず、かえって悩みが深くなるだけなのですが。
結果論からのこじつけの一例。
「結婚は先祖のお導きです」
「だったら結婚したいのにできない人は先祖のお導きがないんですか」
「それはまだお導きがないか、先祖を粗末にしているからでしょう」
「だったら先祖を大切にしても一生結婚できない人はどうなんですか」
「結婚しないほうがいいという先祖のお考えじゃないでしょうか」
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