カトリックとプロテスタントはどう違うのか。なぜ憎しみあってきたのか。それがよくわからないのでいい本はないものかと思い、掲示板で聞いてみました。すると徳善義和・百瀬文晃編『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』を薦められました。新旧両派の教会一致運動の流れの中で生まれた本です。
しかし読んでみても疑問は解けませんでした。キリスト教の知識がないのだから仕方ないでしょうが、儀礼や組織の違いという程度としか思えないです。東西本願寺の違いと似たり寄ったりのように感じました。
それはともかく、この本はキリスト教の入門書としてもお勧めではないでしょうか。異教徒である私にも納得できるような書き方をしています。聖書についても、
「聖書の描く歴史は、現代人が考えるような「史実」とは多少違っています。さまざまな神話や民話を表現手段として使います。ときには意図的に事実関係を書きかえることもあれば、想像力を用いて物語を語ることもあります」
と書かれています。
またイエスの奇蹟についても、たとえば盲人の物乞いが見えるようになることについて、
「イエスとの出会いを通して闇の世界にいた人に光がもたらされた様子が物語られています。罪の支配下にあった人間が解放され、傷を癒され、変革され、神の前で新しい生き方をするようになる」
ことなんだと説かれています。閉ざされていた心に光が指すことによって闇が破られていくことの譬えだとしたら、「無明の闇を破する慧日なり」という言葉と通じます。
問題は神とは何かということです。
ある掲示板で、神による創造説と進化論とは矛盾しない、と言う人がいました。すべての存在が生まれるのは神のはたらきであり、あらゆる物事に神は無関係ではない、とも言っていました。
神のはたらきということを仏のはたらきに置き換えれば、もっともとうなずける意見です。仏のはたらきとは縁のことだと言ってもいいと私は思います。ですから、はたらいている主体がどこかに実在しているわけではありません。
しかしキリスト教では神は実在しますし、意志を持ちます。このあたりが仏教徒としてはひっかかるのです。あらゆる物事に神が関わるということは、そこに神の意志を見出すことができることになります。
では、不幸や災難にも神の意志があるというのでしょうか。もっとわかりやすい例を挙げれば児童虐待です。なぜ幼い子供が虐待され、食べ物を与えられす、殺されるのでしょうか。なぜ神は何もしないのでしょうか。我々にはわからない深いみ心があるのでしょうか。
我々第三者が児童虐待という事実を目の前にしてさまざまなことを考えさせられ教えられるということはあります。しかし当事者である虐待されている子供にとってそんなことは関係ありません。虐待が無くなり、優しい親になってくれればいいのです。しかし神は何もしません。沈黙したままです。なぜでしょうか。
ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』でもこの問いがなされています。わたしもいろんな掲示板で質問したのですが、納得のいく返事はかえってきませんでした。
また復活についても異教徒には受け入れにくいです。復活を自己の内面の出来事とすれば、「前念命終、後念即生」、つまり自分中心の生き方をしていた私が如来を中心とするようになる、と受け取ることもできます。しかしキリスト教で言う復活は肉体の復活ですから、こういう解釈は成り立たないのでしょう。
終末思想もそうです。自分の迷いの生の終わりという意味ではなさそうです。時間が終わってしまうことなのですから。
仏教風に理解できることもたくさんあるのですが、基本的なところではやはり仏教とキリスト教は違うなと思いました。
青野太潮『どう読むか、聖書』によって復活や十字架などについての疑問に納得できるように答えてもらえました。
キリスト教の神は終始一貫、太初の昔から、不信心な者を愛し、ゆるし、義とする神です。
「人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる」(「マルコによる福音書」)
そしてすべての人間を愛し、ゆるす神を受けいれることのできる者は、罪人(つみびと)、不信心な者、貧しい者、泣いている者、飢えている者、悲しんでいる者です。罪人とはユダヤ教の戒めを守ることのできない人のことです。
そういう人々とイエスは交わりを持ちました。
イエスにとって人間とはゆるされるべき存在、というよりも、ゆるされなければ存在しえない存在であること、すなわち罪深く、誤りに満ちた存在です。
「義人はいない、ひとりもいない」(「ローマ人への手紙」)
ということは、人間の生みだした聖書には当然のことながら誤りも含んでいることになります。聖書の記述の誤りや矛盾を認めないということは、聖書を真剣に読んでいないことになると著者は言います。
そして復活のことですが、復活とは肉体の復活ではなく、イエスの言葉を通してイエスに出会っていくことが復活ということなんだと著者は説きます。そして復活を地上のことがらの連続線上で理解することを批判します。
つまり私が本当にイエスの教えに出会った、その時が復活ということなんでしょう。
このことは神の国についても同じです。死後についても著者の考えは明快です。
キリスト教の死後の考えには、死者の復活(ヘブライ的)と霊魂の不滅(ギリシア的)の二つがあるそうですが、要するに確定的なことは何一つ言えない、つまりわからないということです。確実に言えることは、生きていようと死んでいようと、神はつねに人間とともにいてくれることだ、と言います。
神がともにいてくれるのなら、死んでどうなろうとも問題ないではないか、ということでしょう。
次に十字架のイエスのことです。イエスは十字架の上で私たちの罪の贖いとして、私たちに代わって苦しみながら死んで下さった、ということが私は理解できませんでした。私の罪とイエスの死がどう結びつくのでしょうか。
罪の贖いとしてイエスが死んだのなら、その罪とはそれまでに作られた罪のことではないでしょうか。これからどういう罪が作られるのかはわかりません。となると、どんな罪かわからない罪をイエスは贖ったということはどうも理解できません。
しかし北御門二郎や星野富弘といった人たちも、「私達のために血を流された十字架」などと言っています。
「キリストは弱さのゆえに十字架につけられた」(「コリント人への第二の手紙」)
十字架を前にして恐れおののき、十字架で苦しみながら「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶望的な叫び声をあげるイエス。
そのイエスは弱い人としてのイエスです。しかし弱いから、神を信じきれないからこそ、神ははたらいているのだ、ということを示しています。
「弱さとしての十字架を担って死んだからこそ、そのかれに復活のいのちを与え、いま神の力によって生きているという現実を可能にした。このようにパウロは確信している」と著者は書いています。
この本を読んで真宗の教えを連想した箇所はたくさんあります。
たとえば、敬虔な、ユダヤ教の戒めを守り抜こうとした人たち、しかしそのゆえに「地の民」「罪人」を排斥した人々、律法学者、パリサイ人をイエスは徹底して批判しました。
この悪人観、つまり差別されている人が罪人とされたんだと説く河田光夫の意見と共通するものを感じました。
そして「不信心な者をそのまま義とする神」なのに、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」とあることについて、「聖霊をけがすこと」とは、神の無条件で徹底的なゆるしの言葉を否定することを意味する、と説明します。
このことは、すべての衆生を無条件に救うと誓われた十八願になぜ「ただ五逆と誹謗正法を除く」、無条件の救いから除かれる者がいるのか、という問題の答え、すなわち教えの否定が罪なんだ、ということだと思います。
著者は神々しく光り輝く力強いスーパーマン的なイエス像を否定します。この本を読むと、凡夫の代表としてのイエスだというふうに私は思えてきました。
その他、これは真宗の教えだなと思うことはたくさんありました。
徳善義和・今橋朗『よくわかるキリスト教の教派』は教派の違い、特色、そしてなぜ多くの教派に分かれたのかが説明されています。
|