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国家神道 |
村上重良『国家神道』
島薗進『国家神道と日本人』
葦津珍彦『国家神道とは何だったか』
安丸良夫『神々の明治維新』
大貫恵美子『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』
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1 国家神道と島地黙雷
明治維新前後の神道国教化政策により、神仏分離と廃仏毀釈が強行されました。それに加えて、キリスト教の影響力についての不安と恐怖が既成仏教教団にあり、そのため既成教団は明治政府に媚びたのです。
たとえば明治4年(1871年)の東本願寺の上奏文案です。
「我宗ニ崇ムル所ノ本尊ハ弥陀如来ト申テ、乍恐(おそれながら)皇国天祖ノ尊ト同体異名ニシテ、智慧ヨリ現レテハ天ノ御中主尊ト称シ奉リ、慈悲ヨリ現レテハ弥陀如来ト申シ候」
こうした動きに危機感を持った長州出身の西本願寺僧侶島地黙雷が伊藤博文たちに働きかけ、神道を非宗教化し、祭祀のみを行うものにしたのが国家神道だと、葦津珍彦『国家神道とは何だったか』は主張しています。島地黙雷は政教分離と信教の自由を主張し、神道は宗教ではないとして、神道非宗教論を展開した。
国家神道は島地黙雷が作り上げたものなのでしょうか。
2 国家神道の定義
① 神道指令の定義
「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)」に国家神道が定義されています。
「二(ハ)本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル(略)
(ヘ)本指令中ニ用ヒラレテヰル軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ナル語ハ、日本ノ支配ヲ以下ニ掲グル理由ノモトニ他国民乃至他民族ニ及ボサントスル日本人ノ使命ヲ擁護シ或ハ正当化スル教ヘ、信仰、理論ヲ包含スルモノデアル
(1)日本ノ天皇ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国ノ元首ニ優ルトスル主義」
② 村上重良『国家神道』の定義
「国家神道は、集団の祭祀としての伝統をうけついできた神社神道を、皇室神道と結びつけ、皇室神道によって再編成し統一することによって成立した」
国家神道は宗教ではなく祭祀に関わることだと規定され、国家神道の祭祀は国民すべてが関与すべき公的次元の事柄だとされた(祭政一致)。他方、諸宗教集団は、国政とは異なる次元に本来の場があり、その限りで自由な活動を認められた(政教分離、信教の自由)。
国家神道の教義は、そのまま国民精神であるとされ、国民にたいしては、国家の指導理念である国体の教義への無条件の忠誠が要求された。
③ 島薗進『国家神道と日本人』の定義
「国家神道という用語は、明治維新以降、国家と強い結びつきをもって発展した神道の一形態を指す。それは皇室祭祀や天皇崇敬のシステムと神社神道とが組み合わさって形作られ、日本の大多数の国民の精神生活に大きな影響を及ぼすようになったものである。皇室祭祀や天皇崇敬のシステムは、伊勢神宮を頂点とする国家的な神々、とりわけ皇室の祖神と歴代の天皇への崇敬に通じている。国家神道においては「皇祖皇宗」への崇敬が重い意義をもっており、神聖な皇室と国民の一体性を説く国体論と結びつく」
明治維新によって従来とは質的に異なる大規模な皇室神道が新たに創出された。しかも宮廷社会でごく少数の人々の関与のもとに行われていたこれまでのものとは異なり、大多数の国民の精神生活に深い影響を及ぼすものとなった。
国家神道は「祭祀」や「教育」に関わるもの、あるいは社会秩序に関わるものと考えられたのに対して、その他の「宗教」は死後の再生や救いの問題、あるいは超越者への帰依に関わるものだとされた。皇室祭祀は宗教ではないとされ、宗教としての神道が教派神道となった。
神道祭祀を行い、皇祖皇霊の権威に基づいて道徳を教える天皇に対して、国民が畏敬の念と愛着の心情を分け持つことによって強い統合力を発揮した。
ただし、国家神道という語には、国家管理された神社神道だけを指す用法もある。また、神社にまつわる信仰や実践が国家神道にすっかり統一されたわけではなく、神社神道がすべて皇室祭祀を頂点とする国家神道に組み込まれたわけではなかった。
3 国家神道関係の年譜
村上重良の区分に前史と戦後を加えたものです。
(1)前史
倒幕の前夜は神道の興隆は最高潮に達し、天皇の宗教的権威の復活が進行した。神祇官の再興が朝廷に建議され、神社の祭儀の復興が相次いだ。
皇室祭祀の大規模な拡充が、古代の「祭政一致」のあり方に返るという理念のもとに行われた。ユートピア的な「神武創業」への復古が「天皇の祭祀」と、それに基づく忠孝の教化を通して実現できると信じられた。
中央集権的な政権の核に天皇の人格的権威を置くこと(天皇親政)を目指した藩閥指導者らと呼応して、古代にそうであったように祭祀の多くを祭祀職に委ねるのではなく、天皇が自ら祭祀の主宰者となること(天皇親祭)を強調した。
祭政一致の理念は、神社優遇による神道国家樹立を目指す。廃仏を断行した藩があり、薩摩藩では藩内の寺院をすべて破壊し、僧侶は還俗させた。
(2)形成期 明治維新(1868年)~明治20年代(1880年代末)
近代天皇制成立期の国家神道。
明治政府の宗教政策の中心に進出した復古神道をはじめとする神道家たちは、神道国教化の構想を打ち出した。
明治元年(1868年)、神祇官が設置され、神道の国教化が進められた。
明治2年(1869年)、神祇官は太政官から独立して行政機関の筆頭に置かれた。神仏判然令(神仏分離令)が公布される。神社の仏教色の一掃とキリスト教の弾圧が行われた。
明治3年(1870年)、大教宣布の詔が出され、神道を国教と定めた。
廃仏毀釈の動きは明治3年~明治4年には絶頂に達し、佐渡、富山、松本、苗木などの藩では寺院の廃止、併合が特に激しく、京都や奈良、伊勢などでは寺院が破壊され、仏像や仏具が破却されたり売り払われたりした。
「路傍の地蔵等の石像もこわし、一ヵ所に集めて石材として利用した。農村部では、小学校の新築に、付近の石地蔵を集めて土台石や便所の踏み台に用いた。児童が罰をおそれて便所を使用しないので、教師がみずから石地蔵の上で用を足してみせ、仏罰が当たらないことを実地教育したという」
まるで文化大革命やタリバンみたいです。
政府は過激化する各地の廃仏毀釈運動をあえて抑止せず、おおむね成り行きにまかせる態度をとりつづけた。
明治4年(1871年)5月、神社はすべて国家の宗祀とされた。伊勢神宮を本宗として、その下に編成された神社は国の機関となり、神官は官吏となった。
しかし、非現実的な宗教政策は行き詰まり、明治4年7月の廃藩置県を境に、廃仏毀釈は次第に沈静した。
明治4年8月、神祇官は神祇省に格下げとなり、政府の急激な神道国教化政策も緩和された。
明治5年(1872年)、神祇省を廃止し、教部省を設置する。
明治6年(1873年)、キリスト教の布教が黙認される。
明治8年(1875年)、大教院廃止。
明治10年(1877年)、教部省を廃止し、内務省社寺局に事務を移す。
明治維新当初の神道国教化政策は国民教化政策に変わり、明治10年代には、祭祀と宗教の分離によって国家神道の基本的性格が定まった。この間に、宮中祭祀が確立した。
明治15年(1882年)頃、神道界が宗教側(宗教神道、教派神道)と祭祀側(神社神道)に分かれる。
(3)教義的完成期 帝国憲法発布(1889年)~日露戦争(1905年)
近代天皇制確立期の国家神道。
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の発布。
帝国憲法によって、国家神道の枠内での信教の自由が与えられた。国家神道が超宗教の国家祭祀として神仏基の公認宗教に君臨する国家神道体制が成立した。
明治23年(1890年)、教育勅語の発布。
教育勅語が近代天皇制の国家権力の宗教的基礎である国家神道の教典となった。
元田永孚と井上毅によって教育勅語は文章化された。元田永孚は国家神道を国教にして、宗教、道徳の全面にわたって国家が方向づけ、国民を教化するべきであるとする。一方、西欧流の合理主義者であり、政教分離主義の反国教論を抱いていた井上毅は、当初は教育勅語の制定に消極的であり、むしろ反対だった。
国の中心である天皇に一切の価値基準を置く教育勅語は、天皇への忠誠と祖先崇拝を結合した国民教化を目的とし、同時に、学校教育の基本とされた。
国家神道の思想は、敬神崇祖から八紘一宇へと展開し、内政における天皇帰一の家族国家観と、外に向かっての排外侵略思想を宗教的に基礎づけた。
明治27年(1894年)、府県社以下の神職職制が勅令で定められた。
明治33年(1900年)、内務省に神社局を設置、社寺局は宗教局になる。宗教集団と神社とが異なる法的地位にあることが行政組織上明確に示される。皇室祭祀と神社が構成する神道は、宗教以外のものと位置づけられた。
明治33年に制定された治安警察法は、神官、神職と僧侶および諸宗教の教師の被選挙権を奪い、政治結社への加入を禁止した。神職が非政治化されることによって、神道界は政府の意のままに、もっとも政治的な役割を演ずることとなった。
(4)制度的完成期 明治30年代末(1900年代後半)~昭和初期(1930年代初期)
内務省による神社行政が確立して神社の整理が行われ、祭式等の神社制度が完成した。神社と氏子組織を地方行政のイデオロギー的拠点として教化した。
(5)ファシズム的国教期 満州事変(1931年)~太平洋戦争敗戦(1945年)
天皇制ファシズムの時期の国家神道。
国家神道は名実ともに絶頂期を現出した。日本を神国とし、侵略戦争を聖戦とする。
昭和14年(1939年)、宗教団体法が公布され、宗教は政府に統制された。仏教は13宗56宗派が13宗28宗派に統合された。
昭和15年(1940年)、内務省神社局は神祇院に昇格した。国家神道の国教としての地歩が再確立された。日本の支配地域に神社が創建された。
『神社本義』(昭和19年)にはこのように書かれています。
「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇め給うた国であつて、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が、皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめし給ふ。これ万邦無比の我が国体である。(略)我が国にあつては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給ひ、国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろひ奉つて、忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生々発展し続けてゐる。これ我が国体の精華である。(略)伊勢の神宮を始め奉り、各地に鎮まります神社は、尊厳なる我が国体の顕現し、永久に皇国を鎮護せられてゐるのである」
(6)戦後
昭和21年(1946年)、神道指令で国家神道は解体した。宮中祭祀は天皇の私的行為となり、皇室神道も公的性格を喪失した。
昭和40年(1965年)、津地鎮祭訴訟で、神社神道の儀礼が一般的な習俗とされた。
村上重良の区分について島薗進は、第二期から第三期への移行を1905年の日露戦争終結時で区切るよりも、大逆事件と明治天皇の死によって特徴づけられる1910年頃で区切るのがよいとし、第二期を確立期、第三期を浸透期、第四期をファシズム期と提案している。
第一期には、皇室祭祀の整備が進展した。第一期の後半から第二期にかけて、国家神道を国民の間に広める布石が置かれた。民衆が積極的に参加する下からの運動に国家神道が取り込まれ、大きな政治的影響力をもつ勢力に成長し、国政を動かす勢いまでもつに至る。
4 葦津珍彦『国家神道とは何だったか』
葦津珍彦『国家神道とは何だったか』は、国家神道とは神道の国教化ではない、国家神道体制のもと、神社は保護され、仏教やキリスト教などが抑圧されたと考えるのは間違いであり、逆に神社は国からの保護、助成は削られ、淫祠邪教とされたと主張しています。
「国家神道をもって、明治日本の政治権力者と、熱烈な神道家とが相共謀して築き上げたものであるかのやうな虚像のイメーヂを拡散して俗説を通用させてゐる」
維新直後、熱烈な神道人が神道精神を国の基礎として固めようとして、政府を動かした。
慶応3年(1868年)12月、王政復古の大号令で「神武創業の始めに原つく」との宣言を発した。次いで「神仏分離令」が太政官から発せられた。
明治元年(1868年)3月、太政官布達で「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむべき件」が出された。
しかしまもなく、権力の主流の中に「神道的維新コースは、文明開化の妨げとなり、国際外交上も著しく不利となる」との思想が強大となる。仏教、とくに真宗のブレーンは権力(長州系権力者のほとんどが真宗の盟友である)との結合を固めて、神道の無精神化、空洞化の政策を進める。
そのために維新直後の神道的第一級人士は新政府の開明実力派と対決し、明治4年(1871年)には追放され、次々に検挙されて監禁された。
明治4年8月に神祇官が廃せられ、神祇省が設置される。その神祇省も明治5年(1872年)3月には廃止され、人事や教義講説、神社行政等は仏教ととも教部省に移る。
明治6年(1873年)、島地黙雷は海外視察から帰国すると、教部省、大教院の現状が神道偏重であると反対を表明した。
島地黙雷「建言 教導職治教、宗教混同改正ニツキ」を葦津珍彦はこのように要約しています。
「神道の事については臣は悉く知るわけではないが、それが宗教でないことだけは確かである。神道とは朝廷の治教である。古くから天皇は神道の治教を保たれた。宗教として儒仏を用ゐ給ふことがあっても、制度としては漢洋の風を模せられても、歴代天皇は、天祖継承の道を奉じて国民に君臨し給うた。これが惟神の道であり、朝廷の百般の制度、法令、みなことごとく神道である。この皇室の神道こそが神の惟神の道である。ただ近世にいたって、私に神道者と称するものが、宗教まがひの説を立てて、勝手に自らの一私説をもって、それを皇室の「神道」であるかの如く曲解せしめようとする者があるが、それは皇室の神道を、王政を小さなものにしようとする誤りである。神道とは、本来、決して宗教に非ざる者であり、天祖いらいの治教の大道である」
島地黙雷は、皇室の神道と神社や神道信仰とを無縁のものとした。皇室が神宮神社への官幣を供されるのは非宗教的礼典とすればいい。民間人の排仏的神道説は皇室国家の神道とはまったく別の、一私人の偏見として対抗すればいい。皇室と無縁の地方神社はアニミズム、シャーマニズムで、邪教迷信の類にすぎない。
「この「皇室の神道は宗教なる者に非ざるなり」との理論は、いはゆる後の「国家神道」「神社非宗教」の発端となるロジックであるが、その最初の有力な提唱者が、真宗の島地黙雷であるといふ事実、およびそのロジックの意図するところが、宗教的神道を封殺するための仏教との対神道政略であったといふ事実、これは、その後の「国家神道史」の推移発展を見て行く上で、もっとも重要な史実であることを明記しておくべきである。このロジックは、十年後には明治政府の公式見解となる」
島地黙雷は「祭政一致」の尊重を力説しつつ、「政教分離」の理論を利用しながら、神道の祭典を「宗教に非ざるもの」だと理論づけした。
明治8年(1875年)、真宗の大教院からの脱退を公認させる。
明治10年(1877年)、教部省そのものも廃止に追いこまれ、内務省社寺局内の一小課の行政下に移された。
明治12年(1879年)、府県社以下の神職の身分は寺の住職と同様とされた。政府は神社の99.9%を政教分離によって国家と切り離した。
明治17年(1884年)、神仏の教導職という国の制度を廃した。
明治33年(1900年)、内務省の社寺局を廃して、神社局を創設し、神社を「国家の宗祀」として、一般諸宗教の行政と区別した。
「この神社非宗教の法理が、主として島地黙雷以来の真宗の政治工作の成果であったことは明らかである」
政府は国家精神高揚の拠点として、新設の神社局の行政に力を入れていいはずであるが、政府はほとんどなにもしていない。明治6年以降は、府県社以下の神社に対して一文の補助金もあたえられていたわけではない。神社にとって経済的には少しもプラスではなかった。逆に、戦後の国家神道の解消は、経済的には神社にとって有利になった。
しかも、政府の「神社非宗教」は伝統的な神主の宗教的活動を制約する必要を示している。宗教真理を解しなかった明治以来の政府は西欧的合理科学主義を第一にし、非科学的な宗教を好まなかった。「宗教による吉凶禍福の祈り」「病気治療」は、科学思想を妨げる邪教迷信として禁圧するのが当然だとの法思想が有力であった。そのような情況下では神社の大多数が淫祠邪教であると断定された。
戦前の諸宗教が国家神道の重圧下にあったかのように誤認しているが、それは真相に遠い。むしろ神道が、「国家の正しい合理的教義」に反する迷信として、重圧を加えられている。
国家神道は宗教ではなく、祭祀だとされることによって、生き生きとした宗教性を著しく制限された。内務官僚の統制によって神社合祀などの変容を強いられ、仏教界からの圧力によって宗教活動を制限された。国家の財政的支えも、とりわけ明治期にはたいへん薄弱なものだった。宗教的生命を奪われた神社神道は、国民を侵略戦争に駆り立てるような力はとても持ち得なかった。このように葦津珍彦は論じています。
5 葦津珍彦への反論
①島薗進『国家神道と日本人』
神道学者の中には、明確な戦略的意図をもって、国家神道の狭い定義を掲げた論者が多く、代表的な論者が葦津珍彦である。『国家神道とは何だったか』は、国家神道の主体を神社神道と捉え、かつ国家神道が強大な力をもったという国家神道論を論駁しようという意図に基づくものだ。このように島薗進は批判しています。
「国家神道とは行政官僚が神社を支配し、神社は宗教活動に制限を受けた時期の、けっして厚遇されたとはいえない神社神道を指すのだという。このように神社が神道本来の活動から遠ざけられていた時代のあり方を、あたかも神社界が権力と一体となって跋扈し、悪しき国運を招いたかのように描き出すのは妥当ではないと葦津は論じている」
この立場は、神社神道が宗教であることを認めるように見えて、実は皇室祭祀・皇室神道が宗教であることを否定し、国家神道の陣地を挽回しようとするものだ。
国家神道を狭く神社神道に限定して定義することは、神社界を中心とした神道は戦前の軍国主義・侵略主義や信仰強制に対してさほどの責任はないとする論点とも結びついている。
しかし、皇室祭祀・皇室神道を排除した国家神道理解は成り立ちえない。国家神道は神社の国有化ではない。神社神道は、皇室崇敬に資するような新たな神社を設立しつつ、全国の神社を組織化していく過程で形成されていった。神社神道組織を皇室祭祀と切り離して、それだけを独立した宗教組織として実体視するのは適切ではない。
そもそも神社神道とよべるような統一的宗教組織は、明治維新以前には存在しなかった。皇室祭祀と連携して組織化されることにより、初めて神社神道とよびうる組織が形成され、次第に国家神道の重要な担い手となった。
天皇を神聖とし、天皇崇敬を鼓吹する行為が長期にわたり日常的に行われた。国体の教義と皇室祭祀や神社神道を結びつけたのは、教育勅語であり、祝祭日システムやメディアだった。明治維新後の祭祀は祝祭日に行われ、大多数の国民の日常生活に関わるものとなった。学校行事やマスコミ報道などを通して、皇室祭祀が多くの国民の生活規律訓練の場や情緒の昂揚を共有する機会を提供し、人々の生活のハレとケのリズムに深く関わるものとなった。
天皇が現人神だという神格化は、教育勅語が発布された段階ではそれほどの強くなかった。多くの人々が我が身を投げ出しても惜しくないと思うような信仰の対象に天皇がなったのは、1930年代以降の戦時中に限られる。
『尋常小学校修身書』(昭和2年)
三年生用「よい日本人」
「よい日本人となるには、つねに天皇陛下・皇后陛下の御徳をあふぎ、又つねに皇大神宮をうやまって、ちゅうくんあいこく心をおこさなければなりません」
五年生用「我が国」
「我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになって栄えて来ました。(略)世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。(略)我等はかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて我が帝国のために尽くさなければなりません」
天皇は民のことを常に気にかけて下さる。だからこそ、民は大御代の弥栄のために命を捧げなくてはいけない。そういう教育の基盤には国家神道がある。
このように島薗進は論じています。
② 安丸良夫『神々の明治維新』など 明治4年、島地黙雷は教部省設立を求める建言を提出しました。
その論旨は、安丸良夫『神々の明治維新』によると、キリスト教に対抗するために、神道のみを宣教する官を廃し、神仏合同の教化体制をつくるようせよというものです。
神祇官が神祇省に格下げとなり、さらには神祇省が廃止されて教部省に改変されるなど、明治初年の神道政策は何度も変更しています。これは葦津珍彦さんが主張する島地黙雷たち西本願寺僧侶の影響だけではないと、『神々の明治維新』を読むと思えます。
神道内部の対立、そして神道に有能な人材が乏しかったということがある。
神道の内部での守旧派と開明派の考えが違っていた。
国学者の中でも、津和野派の大国隆正や福羽美静は、時勢に敏速に反応して復古神道の内実を時代の必要に合致させようとする傾向が強かった。
それに対し、平田学派の人たちは時代離れした祭政一致を唱えた。明治3年には、神祇官の中で急進派と目された玉松操や矢野玄道、角田忠行、丸山作楽たち平田派国学者は岩倉具視たち政府中枢と対立し、また官員削減のあおりを受けて、職を失った。
あまりにも神がかった人を岩倉具視たちは嫌ったのです。
神祇官は制度上、最高の位置を占めたが、神祇官の実態は「昼寝官」「因循官」と称されるありさまで、太政官にあごで使われることに甘んじ、宣教の実績をあげることができなかった。
教部省が設立され、教導職が定められた。
明治5年には神官が4204名、僧侶は3043名だったが、明治13年には神道21421名、仏教79014名に増えた。神官教導職には学力のない修験からとりたてられた者も多かった。
そして、神官にはすぐれた説教家は少なく、説教が下手で人気がなかったが、僧侶には説教のうまい者が多かった。
神仏分離は民衆の支持を得ておらず、抗議行動が各地で起きたということもあります。
そもそも、僧侶が神職の上位に立っていたことに不満を持つ者たちが強引に神社と寺院を切り離したという面がある。
さらには、廃仏毀釈の動きは明治3年~明治4年には絶頂に達し、各地で寺院が破壊され、僧侶は還俗させられ、石塔、石仏まで壊されたり埋められたりした。
佐渡、富山、松本、苗木などの藩では寺院の廃止、併合が特に激しく、京都や奈良、伊勢などでは寺院が破壊され、仏像や仏具が破却されたり売り払われた。
「路傍の地蔵等の石像もこわし、一ヵ所に集めて石材として利用した。農村部では、小学校の新築に、付近の石地蔵を集めて土台石や便所の踏み台に用いた。児童が罰をおそれて便所を使用しないので、教師がみずから石地蔵の上で用を足してみせ、仏罰が当たらないことを実地教育したという」(村上重良『国家神道』)
葦津珍彦は廃仏毀釈に触れていませんが、まるで文化大革命かタリバンみたいなことをしたわけです。
「神道的第一級人士」による神道国教化政策が続いていれば、薩摩藩や苗木藩のように、日本中の寺院が破壊され、真宗門徒を中心にした抵抗運動が全国で起きたかもしれません。また、キリスト教への弾圧も続き、欧米諸国から抗議されたと思います。
岩倉具視たちはそうした状態に陥ることを危惧したのでしょう。
葦津珍彦『国家神道とは何だったか』に、「伊藤博文の憲法構想は、信教問題では自由主義に徹していた」とあります。
伊藤博文たちが神道国教化政策から政教分離へと舵を切ったのは、ヨーロッパの宗教事情を学ぶことで、近代国家として日本が認められるには神道国教化という時代錯誤の政策ではダメだと考えたからでしょう。
大貫恵美子『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』にこんなことが書かれています。
明治15年、ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年~1890年)は講義を受けた伊藤博文に、日本が採用すべき立憲体制としてプロシア式の憲法を勧めた。そして、近代日本における「宗教」の必要性を説いた。
日本にはキリスト教に匹敵する宗教が存在しないから、神代から皇室と親密な関係を持ってきた神道を「宗教の代用」にすべきである。
さらに、天皇に対する尊敬と崇拝の念を育てるため、あらゆる場合の皇室固有の儀式を創造し、国民をして気付かぬ間に新しい天皇制に帰依するようにすべきである。
フォン・シュタインのこうした助言を伊藤博文や井上毅たち明治の元勲は受け入れ、新しく構想される天皇の「全能性」を実体化させる方策として、キリスト教をモデルに、天皇を国「家」の父とし、天皇を頂く国家宗教を創立した。
そして、民間神道を国家神道に作り変えると同時に、仏教、キリスト教をはじめとする外来の宗教を排斥しようとした。
明治政府は信教の自由を無条件に認めたわけではありません。神道は宗教ではないとして、天皇を国の中心に位置づける国家神道を作り上げました。
しかし、国家神道は宗教ではないというのは間違いです。国家神道の本尊は天皇の御真影、教典は教育勅語、儀式は皇室祭祀であり、天皇への崇敬を説いています。
神道は教義がないと神職の人から聞いたことがあります。神道非宗教論は今も神道では影響があるのかもしれません。
6 戦後の国家神道
敗戦後、神道指令によって国家神道は解体したかというと、そうではない。日本はすでに国家神道が復活している。このように島薗進『国家神道と日本人』は主張します。
神道行事が国家的な行事として行われている。大嘗祭を国の行事とする。皇室の祭祀に国家公務員である侍従が手伝う。大祭のうちのいくつかは首相や大臣、国会議員、最高裁判事らに案内状が出されている。勲章は天皇からもらうから、国家神道とつながっている、など。
日本会議は学校教育に国家神道を取り入れようとしている。日本の歴史は天皇の歴史だと印象づけたい。そのために教育で国体(美しい国)を教える。
神社界を中心に結成された神道政治連盟の綱領に「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」「建国の精神を以て、無秩序なる社会的混乱の克服を期す」とあります。「建国の精神」とは「神武創業の始めに原つく」ということでしょうか。
「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」ことは政教分離に反するように思います。「神道の精神」とは神社本庁憲章のことかもしれません。
「第一条 神社本庁は、伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の彌栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する。
第二条 神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ、奉賛の誠を捧げる。
第三条 神社本庁は、敬神尊皇の教学を興し、その実践綱領を掲げて、神職の養成、研修、及び氏子・崇敬者の教化育成に当る。」
神宮とは伊勢神宮のことで、伊勢神宮をトップとした天皇崇拝の組織が神社本庁です。
『神社本庁憲章の解説』(1980年)
「究極的に目指すところは大御代の弥栄である」
「八百万の天神地祇のなかで、天照大御神が至尊の神であらせられ」
戦後の天皇論では、政治的な権力を行使せず、もっぱら祭祀によって人々の安寧を祈る存在という天皇像が描かれることが少なくなかった。
島薗進は中西輝政『皇室の本義』「序章 なぜ日本に天皇という存在が必要なのか」から次の文章を引用しています。
「日本ではつねに「正直できれいな心」「裏表のない心根」という、独特な心のあり方が求められる。(略)そしてこうした「日本のこころ」のあり方を、目に見えるかたちでもっともはっきり示すもの、それが「天皇」なのである」
「天皇の系譜をたどれば神話にまで行きつく。その天皇が、日本国の繁栄と国民の幸せを祈って日夜祭祀をなさっておられる」
「大きな意味での政治そのものであり、まさに国家を指導する営み(まつりごと)といわなければならない」
このように、現在も皇室祭祀が国家の行事として行われ、神社神道と結びついているわけですから、国家神道がなくなったわけではありません。
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