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真城 義麿さん「ヒトに生まれて人になる」 |
2000年6月13日 |
おはようございます。真城と申します。立派なご紹介をしていただきまして、そんな人がどこにいるんだろうと思ったら、というようなことでございます。先ほど案内文に現校長が元校長になっておりますと言っておられましたが、これはこれでいいのであります。私は元気な校長ということだろうと思っています。こういう調子でございまして、大谷中高等学校の校長といいますと、たいがいどこへ行っても、おじいさんが出てくるんだろうと思われておられる所へ、なんか運転手が代わりに来たかみたいな感じになるんです。これでももう四年目になりました。今、四十七才でございます。なった時は四十三才でした。
実は先ほどご紹介いただきましたように、瀬戸内海の小さい島の生まれでございます。愛媛県と広島県の県境になります愛媛県関前村です。愛媛県ではありますが、安芸門徒のような雰囲気の中でお育ていただきました。
生まれた所には小学校と中学校しかございません。高等学校はみんな下宿をするか村営の寮に入るかでございます。私が高校へ行く前の年に、京都の大谷高校に知進寮という寮ができたということで、どうやらお金があまりかからんらしいからそこへ行けと追いやられまして、それから二十四年、京都近辺におりました。
平成四年五月に住職であります父親が入院をいたしました。どうやら病院から帰ってこれそうもないということになりました。それで毎週土曜日曜に京都とお寺とを行ったり来たりする生活が続いておりました。ご門徒の方が、もう帰ってこい、何とかするから帰ってこい、とおっしゃいますので、そうかいなと思って、平成五年三月に退職しました。専任教員としては丸十五年勤めました。その前二年間講師をしておりました。それを入れると十七年間勤めました大谷中高校を突然に退職いたしまして、島へ帰りました。帰った五月に父親が亡くなりましたのでそのまま住職になったと、そのようなことでございます。
それまで十何年間、中学生や高校生を相手に宗教の話をしておったんです。島へ帰ってみますと、だいぶ勝手が違うわけですね。
私のとこの村は島一つでは村にもなれんくらいの小さいとこでありまして、島が三つ合わさって村。その関前村ですが、一番人口の多い時は四千人を超えておったんですけど、今は九百五十人程です。子供の数でも一番多い学年は百人はおったと言いますけど、今は平均三、四人じゃないですかね。小学校中学校もピッカピッカのに建て替えられまして、一階が小学校で二階が中学校です。一つなんです。それ全部合わせても生徒が五十人もいないです。人口の中で六十五才以上が何パーセントいるかという高齢者比率が、今はだんだん高くなっております。私が田舎へ帰った時は山口県の東和町に次いで全国で二番目でした。三千二百三十二ある市町村のうちの二番ですよ。この前の国勢調査で三重県の紀和町に抜かれて三番になりました。九百五十人ほどの人口のうち四百五十人ぐらいがお年寄りです。
そういう所へ帰ってまいりまして、いろんな方と出会いをして話をしておって、どうにも気になる言葉があるんですよ。みんな同じことをおっしゃるんです。どうおっしゃるかというと、
「ご院さん。わしらはのう、若い頃は元気だったけれど、年とってつまらんようになりましたわ」
こうおっしゃるんですね。
「何を言うんですか。七十年かかってやっと手に入った七十じゃないですか」
と言うんですけどね。なかなかそういうふうには思ってくれない。
「年をとってつまらんようになりました」
それは本気で思っておられるのか、あるいはそう言わなければいかんと思っておられるのか。いずれにしてもそう言わなければいかんと思っておられるのなら、それはそれで大変なことやなあと思ったんです。この島へ帰って住む限りは、なんとかこの島の人たちに長生きしてよかったなあと、そして人生の最後はもっと喜びながら生きていけるようなお手伝いができないかなあと、そんなことを思わずにはいられないようになりました。
それでいろんなことを島の中でしました。ボランティアの会は私が作ったんじゃありません。たまたま村の中でこういうものを作ろうという動きがあった時に、ちょうど私が帰ったのと重なったんです。どういう会ができたかというと、「人の世話になる練習をする会」です。人の世話をする会じゃないんです。我々は人の世話になることは練習を積まんとできんのです。人の世話をしてくれますかと言うと、いくらでも手が上がる。世話してもらうということは、世話してもらわにゃならん身だということを認めなければならんわけですからね。自分の弱さやできんことを認めないといかん。これがなかなかできんことだなあと思いましてね、そんなことをやりました。
あるいは、若い人がお年寄りを助けることをやろうとしても絶対できんと思いましたから、それはさておいて、お年寄りが若い人にいろんなことをするんですよ。たとえば共稼ぎの若夫婦がおる。(若夫婦いうても我々の所の若夫婦は大体五十代ですけれども。隣の島なんか消防団の平均年齢が七十なんぼですよ。)それで夫婦が外で働いている。そうすると近所のおばあちゃんが日が暮れるまでに洗濯物を取り込んでたたんで家の中に入れておいてあげます。ほとんどの家は鍵というものがありませんからね。出入り自由でございます。
あるいは早起きの苦手な若奥さんにモーニングコールサービスというのもあります。世話役が何人かおるんです。そこへ頼んどくと物わかりのいい早起きのおばあちゃんを誰か当てる。できるだけ今まで話もしたことのない人を当てる。五時に起こそうと思ったら、そのおばあちゃんは四時半から電話の前に座って待っている。五時になったら電話をかけてね、「誰々さん、朝よ」。一ぺんじゃ絶対にすまさないですね。十分か十五分待って、我慢できなくてまたかけますね。「ほんとに起きた」と電話するんです。
そうやってしてもらうと、若い方々もそのおじいちゃん、おばあちゃんが他人事でなくなっていくんです。私のとこは小さい島で、親戚関係が入りくんでおりまして、隣の家でも親戚じゃなかったら手が出せんというような、困っていても何となくためらわれるようなことがあります。でも、もうこれだけの人口しかおらんのだから、島中が一つの家族になりましょうやと、そんなことをやりつつあるんですけどね。
そうは言うても、うまいこといったりいかなかったりです。今は会員制にして、ボランティア保険のため三百円の会費を払ってやるわけです。それで世話しっぱなし、世話され放しに慣れましょうということをやっておるのが、「世代間交流のユニークな試み」として、よくマスコミで報道されたりしています。
アメリカで今さかんに行われている「タイム・ダラー」を私たちの島風にアレンジしまして、最近日本でもあちこちで始まっている地域通貨の先駆けとなったチップ制度でやっています。チップ制度というのは、プラスチックのおもちゃのお金を作りまして、ひらがなで「だんだん」と書いてあります。「だんだん」というのは我々のボランティアグループの名前なんです。「グループだんだん」といいます。「だんだん」というのは、重ね重ねありがとうという意味の方言です。このあたりでは使うか知りませんが。三十分何かしてもろうたら、プラスチックのお金を出して「だんだん」と言うて渡すんです。それでおしまい。次の日に道で会うて挨拶するのを忘れてもかまわん。我々はついつい世話をしてもろうてもいいんだけど、また次が面倒くさいから、それだったら自分でやろうかということになるんです。それで世話した方も、もうチップもらったんだからそれで終わり。こういうことで色々やってます。
やりとりをさかんにするために、チップ何枚か貯めたら表彰状を出しましたら、貯める人が出てきます。そりゃ困った。世話をしてもらう、世話をするのがねらいなんですからね。困ったなあというので、今はチップは一年間しか有効期限がないんです。毎年七月頃に総会をやって、持っているチップを全部没収する。そしてあらためてみんなに二十枚ずつ渡す。二十枚みな使うてなくなったらどうするかというと、事務局行って、「すみません、ないんです」と言ったら、「はい、なんぼでも出します」言うて、メインバンクはルーズでございます。
そうやって遊びながら二十代の人と八十代の人が話をするんです。話をしてみると今まで何年も一緒に島に住んでおりながら、私はこの人のことを何にも知らなかったなあということがいっぱいあります。おばあちゃんが「実は私は鹿児島の生まれでの」と話され始めるんです。「ああ、そうですか、えらい遠い所から来られたんですねえ」と言うと、「わしの亭主は浮気して」とかそんな話になるんですよ。
過疎地、過疎地と言いますけれど、過疎は何が過疎かというとやりとりが過疎なんです。今風の言葉で言うとコミュニケーションがなくなっていくのが過疎というんです。
先ほども組長さんが地獄ということをおっしゃっておられました。言葉が通じないのが地獄だと。その通りでございます。地獄の獄という字は何ヘンですか。けものヘンですね。右は犬という字です。けものと犬のなかを取り持つのが言うということでしょう。獄という字は左(けもの)と右(犬)とが言葉が通じないということです。それを何とかと思っても、なかなか思うようにならんのです。
そうこうしながら日が経ちました。高校一年から退職するまで二十四年間京都におりましたら、島に帰っても月に一回か二ヶ月に一回ぐらい京都へ行く用事があるんです。行く時に、つい京都へ帰ると言うてしまうんです。それが島の人には気にいらんわけです。それが二年経ち三年経ちするとだんだんそういう言葉が出なくなってきまして、四年経った平成九年一月の報恩講の御満座の時に、住職挨拶で、「私はついつい京都へ帰るなどという不埒なことを言っておりました。私の帰る所はもうここ以外にはございません」と皆さんにえらそうに宣言したんです。そしたらその三月に大谷高校の校長になれと。とてもじゃないけど私は門徒さんに約束したから引き受けられません、とお断りさせてもろうたんです。けれども、なんやかやとしなければならんようにしむけられてしまいました。そんなことでまた行ったり来たりしとるんです。
それで校長という考えたこともない立場に立つことになってしまいました。四十三才ですよ。四十七才の今でも京都の高等学校の校長の中では一番若いんです。若い方が人件費も安いし、そんなことかなあと思うんですけどね。考えたこともないものになったんです。青天の霹靂という字をその時初めて覚えました。
三月十七日に前の校長先生の辞表が出て、十八日に宗務総長から電話がかかってきました。そして四月二日に出てこいというわけです。それで受け継ぎがあって、四月八日が入学式です。入学式には校長先生は入学式辞というのを言わなければならん。ところが毎日毎日なんやかや色々あるんですよ。校長になって一番びっくりしたのは何かというたら、辞令をもらって最初に、実印と印鑑証明を持ってこいというわけです。ちょっとやばいなと思って行ったら、学校の借金の連帯保証人になれと言うんです。
そんな事務手続きがなんやかやとあって、瞬く間に四月八日が来るんです。入学式になる。私はちゃらんぽらんな人間でございます。当日の朝早めに学校へ行って式辞を考えようと思っておった。でも早めに行けんもんですから普通に行ったんですけど。入学式は九時半から始まるんですね。八時頃に行ったんですけど、なんやかやしとるうちに、来賓が来られるわけです。お年寄りの来賓はわりと早う来られるんです。来賓の接待は校長がするということも知らんかった。お茶出して話をしとる間にすぐ時間が来まして呼びに来られるわけです。「式場の準備ができましたのでどうぞ」ということで突然式場に上げられる。ぱっと見たらようけおられるわけでしょ。新入生とそのご両親やら大勢の人が。そして壇の上に上がって何を言おうかと。
そこでとっさに申し上げたことは何かというと、四年間島でお年寄りといろんなことをしながら、つくづくとそうだなあと思うことがありまして、どうしてもそのことを生徒たちと生徒の親御さん方に聞いてもらわなければならんと思った。それでこういうことを申し上げました。
「この大谷という学校は人材を養成する所ではございません」
考えてみれば、学校というのは人材養成が仕事だとずっとみんな思ってきておるんですね。人材を育てる所が学校であると思っているんです。今、日本中がこんなにややこしくなったことの根本の問題の一つは「人材」という言葉にあるんです。人材というのは人という材料です。それで、
「大谷という学校は創立以来百何十年、人材を育ててきた学校ではありません。ヒトと生まれた者が人間になっていく、そういう場であります」
ということを言わせてもらったんです。なんとか人間に生まれた者が人間として生きるように育ってもらわねばならん、ということが私の思いなんです。
人材というのはですね、ある意味では日本らしいんですが、戦後五十五年の歩みは皆さんが一番ご存じだと思いますけど、何もないところからみんなが一生懸命努力して頑張って、やっとみんな豊かになって、何でも手に入るようになりました。
日本は世界でも一番の優秀な工業製品を作る国なんです。優秀な工業製品とはどういうものかと言うと、品質が高くて、しかも当たりはずれがないということでしょ。昔はよくこのテレビは当たりが悪いでと言ったもんですが、今はそんなことはない。どこのメーカーの何買うてもはずれということはない。品質が高く、当たりはずれがない。しかも安く大量に作ることができる。これが日本の得意技です。いつの間にやら野菜や果物までそんなことになってしまいましたね。一定の高い品質のものをいかに安くて大量に供給するか。スーパーへ行ってイチゴ買おうと思うたら、同じ甘さ、同じ大きさのものが同じように並んどる。
ここからあちこちの島が見えます。山が青いと言います。しかし本当は山が青いんじゃない。はえとる木の葉っぱが青い。その葉っぱ一枚一枚はみな違うんですよ。私らは山といったら緑色に塗ったらしまいのように思うかもしれないけど、そうじゃないんです。一組として同じ葉っぱはないんです。
工業製品も立派に作るようになった。農産物もそうやって同じものが作れるようなった。そして人間育てるのもそのようになってしまったんです。レベルが高くて当たりはずれがなくて、日本中、同じものができていく。そして人間は役に立たねばならない、人材になっていかねばならんのです。
皆さん、年をとったら人材としての値打ちは下がる一方ですよ。そんなことないよと頑張る人もおられるかも知れん。けれど正直に振り返ってみれば、特に若い時に元気だった人ほど、つまり失礼な言い方をすれば、若い時に元気じゃない人、体の調子が悪かったり、体に不自由があったり、あるいは年とって動けんようになっとる人を馬鹿にしとった人ほど、自分がそうなった時に自分を納得させるところがない。それで苦々しげに「つまらんようになりました」と言って、自分を卑下してもの言わんとしょうがないようになった。これをなんとかせにゃならんと思うたですね。
人間には知恵が二種類あると思うんですよ。年とったらだんだんちびていく知恵があります。私らが嘆いているものです。だけどもう一つ、年をとるにつれて深まっていく智慧があるんですね。ところが私たちはちびていく方ばっかりが気になるわけです。
隣の隣の島、大下島にはうちのご門徒さんが六軒だけあるんです、そこもみんなおばあちゃんの一人暮らし、おじいちゃんの一人暮らしばっかりです。そこに毎年九月の終わりごろ報恩講まいりをさせてもらうんです。船で渡っていきますと、六人のじいちゃん、ばあちゃんが桟橋まで迎えに来てくれるんです。その六人と私の七人で六軒をまわるわけです。みんなで六回『正信偈』を唱和します。そして当番を決めてそのうちの一軒のお宅がお昼ごはんをごちそうするんです。様子を言いますと、私以外の六人のうち、そこの家の人は私のすぐ後ろにきちっと座って、一緒に『正信偈』をあげる。あとの五人は壁際にもたれておる。足をこうやって伸ばしてね。見んでもわかる。
暑かったんですよ。その年の九月の終わりごろの報恩講の日がね。私は汗かきなんです。汗が出るとすぐたもとから手ぬぐいを出して拭くわけです。それを見た後ろのもたれとる人たちがひそひそ話をするわけです。本人たちはひそひそのつもりですが、すべて聞こえます。「ご院さん、暑そうじゃないか」と言うとるわけです。「扇風機出したげようや」「わしが取ってくるわ」と、勝手知ったるなんとかで奥の方へ行く。「あった、あった」と扇風機持ってくる。私はお勤めしとるんです。「コンセントどこなら」「ここじゃ、ここじゃ」。昔の扇風機は0、1、2、3しか押す所がない。みやすいことです。首振らそう思うたら、首の上にあるボタンを押したらいい。今はそうはいかんでしょ。いろいろある。よそのだったらわかりません。持ち主は後ろで一生懸命お勤めしている。もうご想像の通りのことが起こるわけです。大騒動になります。「これじゃろう」「いや、それは違う」。首が横に振ったり縦に振ったりするわけです。そうこうしとる間に扇風機がめでたく動き始めるんです。ところがこのごろはお節介にもほどがありましてね、お休みなんとかというスイッチがある。そよそよと吹いているやつが、ぽとっと止まるんです。そしたらまた後ろで大騒動です。「止まったが」。私はお勤めどころじゃない。やめて手伝おうかと思うた。
そういうもんです。そういうのがちびていく知恵なんです。それは笑うとればいい。僕のおばあちゃんはテレビが消えん消えん言うて、違うリモコンのボタンを一生懸命押しとったです。そういうもんですよ。それはあきらめて下さい。
そやけどね、年をとって初めて分かってくることがあるんじゃないかと思うんです。四十七才の私がこれから三年間一睡もせずに必死に頑張ったところで、五十にしかなれん。頑張って五十になったからといって、七十才の人に見えることが五十の者に見えるかというと見えんのです。怪我して初めて気がつくことがあるし、大きな病気になって初めて目が覚めることがある。自分の連れ合いをなくして、「ああ、そうだったのか」ということがある。そうじゃないでしょうか。去年はここまで上がった手が、今年は上がらなくなった。そうなってみて初めて、「ああ、こういうことだったのか」ということがあるんじゃないですか。
それはそっちのけにして、「つまらんようになった」と減ったものばっかり数える。できんようになったことばかり探してね。少々できても、人に「あんたできてええのう」と言われると気に入らんのですね、これが。これはできるけど、あれはできんと一生懸命言う。病院に行ったら自分がどんなにひどいかと言い合うけど、そこまで言わんでもよかろうにと思いますね。この人に勝とうと思ったら死ぬしかしょうがない。そういうことになります。
みな病いになることは一緒でも、病いのなり方はみな違う。内科や外科があると思うとったけど、今ごろは内科もなんとか内科と細かく分かれています。そしてたとえば神経内科に行ったら、神経内科の患者さんはみな同じ病気かというとそういうことはない。一人一人みな違う。
年をとることは一緒ですが、年のとり方はみな違う。病いのいただき方もみな違う。命の終わり方もみな違う。違ってしか生きられんのですけれども、私らはきょろきょろ見てね、どうせ年をとるならこんなふうにとか、いろんなことを思うわけですよ。
人材という、役に立たんかったら生きとる意味がないという考え方にこっぽり固まっておりまして、そこをどうやったら私たちはほぐすことができるのだろうか。ほぐれることができるのだろうか。そんなことを思うわけです。
人材というものは必ず順番がつくんです。いい人材から悪い人材まで必ず順番がつく。これは人材の特徴です。平等な人材というのは絶対にないんです。高い人材にはようけ給料を渡すわけです。低い人材には安い。皆さんが会社の社長だったらどうするか。みんな一律にはせんでしょう。できることに応じて給料を渡す。そういうことになるわけです。
人材というのは簡単に言うたら、誰かや何かにとって都合のいい人という意味です。会社にとってのいい人材が、家庭の中でいい人材とは限りません。誰のどのモノサシで見て順番をつけるか、それを人材と言うんです。お金もうけということで言うたら、いい人材、悪い人材。地域の中で役に立つということで、いい人材、悪い人材。そうでしょう。学校の中のいい人材、悪い人材。つまり人材は差別の世界です。
ところが人間はみんな平等なんです。みな尊いんです。
人材のもう一つ大事なことは入れ替えがきくということです。会計係長さんの優秀なのが病気で会社を辞めてしもうた。次に会計係長として有能な人材を捜してそこにおく。入れ替えがきく。代行可能ということです。
いのちあるものは違うんです。さっき言いましたように葉っぱ一枚代わりはないんです。私らでも考えてみれば、冬の朝、目が覚める。布団の中で寒い。お手洗い行きたいなと思う。行きたいけど布団から出とうない。誰か代わりに行ってくれんかなと思うけど、無理なんですよ。朝ご飯食べるのも自分。口の中にある唾を飲み込む一つでも誰も代わってくれんのです。代わってあげとうても、代わってあげることはできん。「無有代者」といいますが、代わりが有るという考え方そのものが無いということです。
代行が可能か、可能でないかということです。代わりがきくか、きかんかということです。私ら一人一人はみんな誰とも代わってもらうことができなければ、代わってあげることもできん人生を送っとる。私は私の人生よりほかに生きる人生はない。ところが人材はそうではない。
子供にとって親が言う言葉で一番傷つくのは何かというと、たとえば、「あんたとお兄ちゃんと入れ替わっとったらいいのに」。これ人材なんです。校長してるとね、こういう場面にいっぱい出会います。
どうしてもケンカしたり、人に怪我させたりするような子がおりましてね。本人を何べんも呼ぶし、親とも会う。そこは京都の大きい旧家でね、立派でないといかんわけです。お母さんのプレッシャーはすごいんですよ。しきたりから何から伝統のある家ですから。最初の子が障害のある子で、二番目にできた男の子です。親戚中の期待がこの男の子にかかっとるんです。それがその男の子をずたずたにしていくわけです。それでお母さんがなんと言ったかというと、本人の前でですよ、
「先生、もう私、あの子いやなんです。言うことも聞きませんし」
こう言われたら、その子供はどこへ帰っていったらいいんですか。
あるいはこんな話も聞きました。うちの学校の話ではないんですが。ある中学三年生の女の子が一生懸命勉強しとったけれど、高校入試で第一志望に落ちた。順当なところはここかなあという高校も落ちた。仕方ないなと思って、その女の子は地元では三流とよばれる学校へ入った。毎日、学校の制服を着て元気に通うとった。ところがある日、学校の帰りしなに道路の向こう側をお母さんが歩いてくるのに出会った。子供はお母さんに気づいたから手を振った。お母さんは知らん顔をして通り過ぎた。お母さんは誰かと話していたから気がつかなかったのかなと思った。その日の晩にお母さんが娘さんに謝った。
「ごめんね、あなたが手を振ってくれたのは分かってたんだけど、誰々さんと一緒にいたから」
こうお母さんが言った。次の日からその女の子は学校へ行けなくなった。分かります? お母さんからすると、友達に自分の娘が三流校の制服を着ているのを知られたくなかった。だから手を振らなかった。娘からすると、お母さんは私がお母さんにとって都合のよい時は愛してくれるけれど、今の私のようにお母さんの思い通りになっていない私は愛してくれないんだなあ、と思ってしまった。というようなことが起こるんです。
親までが自分の子供を自分の都合に合うか合わんかということになってしまって、子供たちが追いつめられていく。そういうことがほんとにいっぱいあります。現代の十四才、十七才という問題が語られます。私たちは戦争責任と言いますけれど、戦後責任の方がどんなに重いかということを私は思います。二世代かかって我々があの子たちをあのように育てた。そういうことがありますね。
日本中、人間がいなくなってしまって人材ばかりになってしまった。私は校長の研修へ行くと大体言われるのは、「入った子供に付加価値をつける」、そういう言い方をされます。つまり、人材としての値打ちを高めるのがいい教育ですよ、と研修で言われる。
また学校という所は困ったもんでしてね、自分が学生の頃に学校でいい目にあった人、学校で居心地のよかった人ばっかりが先生になるんですよ。先生はみんな学校はいい所だと思っとる。だからそういう先生から見たら、学校へ来て当たり前、勉強して当たり前、さぼるのはけしからん。こういうとこにしか立つことができんのです。だけども、もう行かねばならんと頭では思うのだけれど、家の玄関の敷居がまたげられん。何とか学校の近所まで来るけれども、校門をくぐられん。そういう子供たちが日本にいっぱいいるんです。しかしその子供たちが私たちには見えない。私たちが人材として優秀なためにその子供を見る目がないんです。
私が教員になって二年目でしたかね、今でも覚えていますけど、ある私鉄の駅でのことです。すでに切符は自動販売機でした。私は切符を買うてホームに入った。電車が来るまで時間があったから何気なく駅を見ていた。小さい駅で駅員さん一人です。だから切符は自動販売機で買うようになっている。駅員さんが一生懸命帳簿をつけていました。そこへ六十くらいの女の人が来られ、料金表や自動販売機の前にたたずんでおられる。どうされるんかなあと何となく見ていた。そしたら決心をされたような感じで改札の所へ行かれて、どこどこまで行きたいんですが、と駅員さんに聞かれた。一生懸命仕事をしていた駅員さんは顔を上げて、「おばちゃん、ごめん。今ちょっと手が離せんのや。悪いけどあすこに張ってあるの見て買うてや」と言った。そこへ私の乗ろうとしていた電車が来たから乗った。あれはどういうことだったろうと考えた。次の日、そこの駅に行ってわかった。料金表も自動販売機も駅の名前は全部漢字で書いてある。漢字の読めん者は切符を買えんのですよ。今は違いますよ。日本中、私鉄だろうがJRだろうが全部の駅にはひらがなの料金表が張ってあります。
その駅員さんは漢字ぐらい当然読める。自分が読めると人も読めると思うてしまうんですね。世の中には勉強せにゃならん若い時にいろんな事情があって学校へ行くことのできんかった人がいる。そういう人と一緒に暮らしているということがわからんようになっています。
我々教師の仕事は下手をするとそういう人を育てているんです。きつい言い方をすると、勉強せんかったら差別されるぞ、勉強して差別する側に回れよ、こう言って教えとるんじゃないか。というようなことを私は思わせられるようなことがございました。
それでですね、「ヒトと生まれる」のヒトをカタカナで書いてもらったのは、確かな意味があるわけではないんですけど。うちの寺に猫が一匹おるんです。いつの間にか住みついた猫なんです。子猫の時に迷い込んできて、そのまま家の中で一番えらそうにしてます。何となく育ったんです。その猫は我々人間が育てたのに猫になった。不思議だと思いませんか。猫の子を人間が育てても猫になるんですよ。当たり前ですか。反対だったらどうなります、人間の子を猫が育てたら。人間の子をコンピューターが育てたら何になります。あるいは、育児書が育てたらどうなるか。そういうようなことが今起こっとるわけですよ。
子供をだっこして見てやらなあかんと言いますが、だっこして育てた子とおんぶされて育った子と全然違う育ち方するらしいですね。おんぶというのは子供は親の顔色が見えないわけです。逆に子供も親から見られてない。気が楽なんだそうですね。抱かれている子は意識があるのかないのかという頃から、親は自分が笑ろうたら喜んでくれると学習してしまうわけです。そうすると親が今イライラしているなと思うと、赤ん坊が親の機嫌をとるんですね。そんなことが現実にあるそうです。いつも親から見つめられていることはプレッシャーになるわけです。おんぶは親と子が同じ方向を向いて、親は親で何かしている。子はそれにつきそっとるわけです。どっちも大事なんですけど、だっこばかりだと子供が育っていくということでいえば難しいみたいです。
それはともかく、ヒトと生まれても誰がどう育てるか、どういう環境の中で育つか、ということで人間ぐらい変わるものはないでしょ。みんないわば同じ人として生まれた。ほんといえば命のかたまりとして生まれた者が、ヒトになり人間になっていくんだと思いますけれども、これはどういう環境で育つかにかかってきます。
仏教で「四食の教え」というのがあります。四つの食べ物です。元々は『倶舎論』に出てきて、違う意味なんですが、四食の教えをこういうふうに説明されている先生がおられます。ヒトと生まれた者が人間になっていくためには四種類の食べ物を食べなければ駄目ですよ、人間になれませんよ、と言われます。
一番目は段食といいまして、段とは一塊りという意味ですから、朝昼晩の食事のことを言います。生きている命をいただきますと言うていただく。栄養のあるものを食べんと人間は育つことができんわけです。
人間はエサだけやっとればいいかというと、そういうわけにはいかん。二番目は識食といいます。知識の識です。ほんとは知識という意味ではないんですが、その先生はこうおっしゃる。つまり人間は勉強せんと人間になれん。勉強というのは学校の勉強だけじゃない。ごはんの炊き方も勉強、外とのつき合い方も勉強。様々な学びを通して人間は人間になっていく。
三番目は触食です。これは触れ合いです。人間というのはいくらいい栄養を与えて、いい勉強させても駄目なんです。いい人間関係の中で育たなかったら人間になれないんですね。愛情のある触れ合いの中で育たなかったら、人間は人間になれない。
四番目は思食といいまして、思うと書きますが願いのことです。人間は願いがかけられることによって人間になっていくんです。私たちはみんな願いがかかっている。その願いに気がついて、人間は人間になっていく。こういうことをその先生は言われます。
そしてその願い、思食が一番大切で、その次が触食で、その次が識食で、一番最後が段食ですよと言われるんですが、今の私たちは反対になっとるんですね。どうも役に立つ時は大事にするけど、役に立たんようになったら、もういいですよということになっておる。
校長になって面白いもんだなあと思うことがあります。生徒に対する見え方が違うんです。自分でも不思議だと思いますね。担任している時は一種の親子関係だと思うわけです。この子を何とかしてやらねばいかんと思う。見ておって思うんですけれど、やんちゃくれがね、校長なってみるとかわいいんですよ。担任の時はあまりそういう思いはしなかった。きっとじいちゃん、ばあちゃんが孫がかわいいというのがこんなんかなあと思いますね。逆に先生方のことが我が子のようにハラハラするんです。私が高校生時代の担任の先生がまだ現職でおられるんですよ。わかります? そのやりにくさというものが。その人を校長室に呼んでですよ、「やっぱりこうしてもらわんと」と言わなあかんのですよ。その私の担任だった先生が、大変失礼なことですが、我が子のように思えるんです。生徒たちは本当の孫のようになる。
そうした時にふっと思うんですが、いま日本の子供が育っていく環境の中でじいちゃん、ばあちゃんが大事なんですよ。それをほんとにつくづく思いますね。まあ一緒に住んでないということもあって、なかなかだなあと思いますけどね。
たとえば、やっとよちよち歩くようになった子供が、よちよち歩いていてね、机の角に頭ぶつけて泣いた。親だったらどうしますか。「今度からもっとよく見て歩けよ」と言うんです。おばあちゃんはそうじゃないでしょ。「こんなとこに机があって。誰がこんな所に机を置いたんか。わしが怒っちゃるわい」と言ってね、おばあちゃんは孫を怒らずに机を怒っている。これは孫からすると助かるんです。自分で「ああ、しまった、よう見なかったからぶつかった」。そう自分で思うとる。それを親は責める。これはこれで大事なんです。親は親をしておればよい。おばあちゃんは「失敗するお前がまたかわいくてたまらんわい」と包み込んでいく。
そういうことが家庭の中で今なかなかないんです。子供たちはうまいこといったりいかなかったり、いっぱい抱えとる。ところが、「うちは若夫婦が共稼ぎをしとるから、私が子供の塾係ですよ」って言うおばあちゃんがいました。塾から帰ってきたら、おばあちゃんが点検しとるわけです。「算数、ここ違うとるでしょ」と。それも悪いとは言いませんが、ちょっと違った、おじいちゃん、おばあちゃんのしなければならんことがあるのではと思います。
お年寄りの方々とお話していて痛烈に思うことのもう一つは、迷惑かけちゃならんと強く思っておられることです。かけちゃならん迷惑とは何のことか。世話になったり、手間とらしたりすることは、迷惑とは全然違うんです。迷惑とは字の通りです。自分が迷うことで人を惑わすのを迷惑と言うんです。自ら迷い、人をも惑わす。もってのほかの次第なりです。自分がちゃんと聞いてきたお念仏の教えを子や孫に伝えんことが大迷惑なんですよ。少々小遣いやったり勉強教えてやる。そんなことよりはるかに大きな仕事が私たちにあるはずなんです。そんなことも少し考えていただきたいと思います。
(休憩)
私たち話をする者はすぐいい気になりまして、今日は反応がよかったと言って喜ぶわけであります。また聞かれる方々も今日の話はよかったとか、難しかったとか、色々あるわけです。そのすべてをひっくるめて何よりも大事なことは、明慶寺さんのご本堂に座らせていただいて、ご本尊さまの前で手を合わせる一時をたまわるということが、何よりも大事なことなんだなと思います。
私が住職しております寺でも年に何回か法座があって、お話をして下さる先生に来ていただきます。その時に、大変失礼なことを言うようですが、横からジーと観察をしておりまして、最近私は七五三の法則というのを発見したんです。どういうことかと言いますと、話というものは大体十しゃべると、聞いたとたんに三割が右から左に抜けて七ぐらい残るんです。それが行事が終わって履き物を履いたとたんに五ぐらいになるんです。これは本堂の力だなあと思うんですよ。本堂を出たとたんに七が五になる。また境内の力というものがありまして、山門をくぐると三になったりするんです。途中買い物して家に帰ったら一になる。ところが面白いもので、家でお夕事のお勤めをすると三に戻ったり五に戻ったりするんです。
せっかく講師が来るんだから、今日は一ついい話を聞いて帰らにゃならんと、もし思うておられるとしたら大間違いでありまして、私はお寺という所はいい話をもろうて帰る所ではないと思うんです。お寺へ行っていい話を聞いて賢くなって、まだ人の知らん話を私は知っとる、というようなことについついなるんです。私はそれは反対だと思うんです。
お寺というのは置いていく所ですね。つまり我々は自分なりのいろんな荷物を抱えているんです。荷物を抱えたり、あるいはよろいかぶとを身につけたり、人から傷をつけられないためのいろんなものがいっぱいあったりするんです。そういうものをたとえば明慶寺さんの本堂へ座らしてもろうて、本堂というとこは私たちの先輩方がここへ座ってお話を聞かれたり、ご本尊様を合掌されたりした場であります。そこに身を置いてご本尊様の前に座ってみると、「ああ、私は着んでもいいよろいを着とったな、背負わんでもいい荷物を背負うとったな」と気がついて、それを置いて軽々になって帰っていく。お寺は入る時よりも出る時の方が元気になるわけです。
そんなことでありますので、お寺に行って何かもろうて帰ろうというのは逆で、お寺は喜捨する所です。こういうものが家に余ってたらもめ事になると思うたら、みなお寺へ置いていくと。いかに私たちが持たなくてもいいものを持っているかと思いますね。背負わなくてもいい荷物をいっぱい背負い、必要のないよろいを着、かぶとをかぶっておるんではないのかなあということですね。
それはなぜかということです。お互い同士が本当に安心できないというか、本当は安心できるのに安心できないことにしてしまっている。そういう私たちが、心配しなくてもいいんだ、人間と人間はお互いに安心しながら共に生きていけばいいんだ、ということに気づかせてもらって、もう少し気軽に元気な笑顔で挨拶しあえるようになったらなと思いながら、住職をさせていただいてるようなことです。
私の村は大変貧しい所でしてね。どこへ行っても、この町は豊かな町だなと思うんです。そこでいま島では
「現金はなくとも元気があればいい」
ということを言うてるんです。
その元気ということについて、子供たち、たとえば中学生に宗教とはこういうもんやと説明する時に、私はこのごろは
「宗教とはいのちが元気になる教えのことや」
と言うてます。
先ほどのご挨拶の中に、二十一世紀は心の時代であるというお話がありました。心ということが最近よく言われます。文部省も心の教育なんて言うようになったんです。私はこれは危ないなと思うこともたくさんございます。心ということがよくわからんままに心の教育をしようとね。心の時代、心が大事ですよと言うんですけど、心というのがなかなかわからないんですね。
ある時、授業しながら黒板に字を書いていまして、何気なく「心の底から」と書いたんです。びっくりしましてね。自分がですよ。そうや、心にも底があったんや。変な言い方ですが、底の方の心と上澄みの心があるんですよ。心の底からうれしいことと、上澄みの心、私なりの言い方をすると私の心ですね。私の心というのはわがままな心です。わがままな心が喜ぶことと、心の底が喜ぶこととは、必ずしも一緒ではないなあと思いますね。
たとえばさっきの人材の話に戻りますけれども、営業マンが一生懸命走り回って注文を一つ取った。うれしいですよ。職場に帰って自分で祝杯をあげる。ところがですね。よかった、よかった、ということだけど、その注文を取るためにほかのライバル会社を出し抜いとるわけです。ほかのライバルを騙しとるかもしれん。裏切っとるかもしれん。あるいは汚い手を使ったかもしれん。
私が喜んどる同じ時に、私の心の底の方が泣いていることもあるんじゃないかしら。そんなことも思うんですね。うれしいという、その同じ瞬間に心の底の方は悲しい、寂しい、辛いっていうようなことがあるんじゃないか。その心の底の方はできるだけ見ないようにして、わがままな私が喜ぶことばっかり追いかけてきたのが、この何十年でなかったかしらと思います。
人間がいなくなって人材ばかりになったと申し上げましたけれども、実はもう一種類、私たちの社会を構成している人たちがおります。それはどういう人たちかと言うと、天人です。現代の日本には人間がいなくなってみんな天人になったということをこのごろ思いますね。昔、こんなことができたら天人のような生活だと思って、うらやましくてしようがなかったことが、みな実現しました。できすぎた。そんなことないですか。今から五十年前に、あんなのあったらいいなあと思ったことは、今それどころじゃないでしょ。今、三食、白いご飯を食べさせますから働いて下さいと言って、誰が来ますか。戦後すぐなら、一日三食でも二食でも白いご飯が食べられるならどんなことでもしたわ、とおっしゃる。いま人から物をもらったって、気に入る物ならうれしいけど、気に入らんもんなら次のバザーに出すだけの話でね。そういうことになっています。
物があふれ、速くなって、便利になりました。快適になりました。私らの学校でも八年前から全館冷暖房ですよ。どこかの中学校が冷房をつけたらしようがないです。そこから来た子は、「何や高校にもなって冷房もないんか、うちらの中学ではあったのに」。こうなります。よそと競争ということになるし、それで入れざるをえない。そうすると今度は冷房で冷えて保健室へ行く子が増える。訳の分からんことになっとる。そんなことばっかりしとるんです。食べ過ぎてはパンシロン飲むような生活ばっかりしとる。そうじゃないでしょうか。
五木寛之という方が、世の中を自動車にたとえると、経済がアクセルである、宗教がブレーキである、政治がハンドルである、戦後日本はハンドルもブレーキも壊れた車でひたすらアクセルをふんでいた、とおっしゃるんです。私たちはとにかくアクセルを踏み続けて、前へ前へ、便利に便利に、早く早く。
そうして私たちは、目指していたゴールを行き過ぎてしまった。人間らしい生活を通り越して、「天人」になってしまいました。天人というのは、衣食住に困らずそこそこ健康で長生きで、欲しいものはたいがい手に入る。環境も快適で便利です。それなら言うことないと思うかもしれませんが、仏教では「天人五衰」と言いまして、天人のように環境条件が整うと人間は五つのことが衰える、五つ失うと言われています。
その第一は、生活に張りがなくなる。実際、手ごたえがなくなる。疲れた顔というか、暗くすっきりしない。
二番目は健康不安になる。そこそこ健康なのに、何か足りない。栄養がないか、通信販売やテレビの健康番組を見ずにいられない。ちょっと考えていただきたいのですが、ここにおられる皆さん方が十才の時、今の皆さんの年齢の人がどう見えたか。今の皆さんとどちらが若く見えますか。私が十才の時、六十才の人はよぼよぼのおじいさんに見えましたよ。今どうですか。当時の人と比べて、皆さんは少なくとも十才は若く見えるでしょう。みんなうなずいておられますからそうでしょう。(ただし、若く見えるかどうかを気にすることが老化の証拠とも言われますが。)なのに健康不安。どこか悪いのではと、もっと健康にと健康へのモノを手に入れようと必死です。
三番目は気力が衰える。やりとげようという気力が続かない。まあ、いいや、適当でいいわ、と思う。また、やるべき目標も思いつかない。なりたいものも、食べたいものもなく、努力のしようがない。
四番目は何かというと誇り、プライド。譲れないもの、そういうものを失うというのです。僕らみたいな年の者でも、子供のころ友達の家へ遊びに行くと、
「真城君、うちは貧乏じゃけどね、うちの家の子はね、どんなに貧乏しても、人のものには手をつけんよう育てとるけんね」
と言うお母さんがいました。自分の家の中に譲れんものを持っておりました。みなそれぞれ譲れんものがありました。いま豊かになってどうですか。譲りっぱなしじゃないですか。ここだけは譲れんというものがないでしょう。それならしょうがない、みんなやっとるしと。「ボロは着てても心は錦」と言ってましたのにね。
五番目は何かというと、不楽本居と言いますが、どんなに幸せになっても、どんなに恵まれても、今おる場所がちっともうれしくも楽しくもない。五十五年かかってそのようになってしまったんです。「あのころは貧乏で食べ物もなかったし、なかなか大変やったけど」と、何となく昔の手応えが懐かしい感じがする。生きている実感があったわけです。生きているという実感の中には厭なことにいっぱいぶつからにゃならんことがあるわけです。そんなことを思いますね。人間というものは人間として生きるということです。
私の趣味は音楽です。自分で歌うのは苦手です。聞くのが好きです。たまにはお寺で音楽家に来てもらってコンサートをやったりもします。だけどそうばっかりもできませんので、ステレオで聞くわけです。それはまた一種の病気をともなって、少しでもいい音で聞きたいとなるわけです。そうするといい性能の機器がほしい、ちょっとでもいい性能のスピーカーを求めたい。高いものだったら一本何十万円するんですからね。とても買えません。それで暇があると新製品の発表会に行くんです。
私はその機械を誰が設計したかということが大事だと思うんです。つまり作った人の考えていること、実現したいということをできるだけ知りたい。それでメーカーの名前で買うのでなしに、誰がというところで買うんです。ある新製品の説明会で設計者が話をしました。
「私たち技術者というものは雑音が出ないようにすることをずうっと考えてきました」
と言うんです。雑音を出さないようにするにはどうしたらいいか。シャーと言うたら駄目、スーとも言うたらいかん。昔SPのころはシャーという音が聞こえとった。それがLPになってだいぶ静かになった。それでもまだ足らんのでCDになった。アナログからデジタルになった。それは何の戦いかというと、騒音とか雑音、ノイズをいかに出さないようにするかという戦いです。専門の言葉で言うとSN比と言うんですね。Sはシグナル、音。Nはノイズ、邪魔するもの。それが差が開いていれば開いているほど音だけがちゃんと伝わって雑音がない。技術者はそういうことを考えるんです。その設計者がこう言うんです。
「私たち技術者はそうやって雑音が出ないことを一生懸命やってきたけど、今回のこの製品はそれはほどほどにしてあります。それよりも鳴らすべき音の方、少々雑音が出てもそれを乗り越えていい音が鳴ることの方に主眼を置きました」
それで聞かしてもらった音ですけど、確かに雑音がないわけではないんだけれども、胸に迫る、演奏している人が何を願って演奏しているかわかるような、演奏者同士が目配せする気配が伝わるんですね。
説明会から帰りながら思ったんですね。考えてみたら私らの人生は雑音を減らすことばっかりやっていて、つまり生きることの妨げになるものを取ることばっかりに一生懸命なっていて、「生きる」というそのこと自体をやっておるんだろうか。「あなたは生きてますか」と聞かれた時に、「はい、生きております」というよりも、「死なんようにしとります」というような人生を送ってはいないか、極端に言えばね。生きとるかと言われた時に考えてみたら、病気にならんようにはしとるな、年とらんようには頑張っとるな、死なんようには心がけとるな。そういうことでマイナスを出さんようにしてはいるけれども、生きるということを積極的にしておるんだろうか。こういうふうに自分で問うてみるとですね、ウーンと思ってしまう。
生きるということは四苦八苦に出会うことです。つまり生老病死に出会う。怨憎会苦といって、イヤなものに出会っていかなくてはいけない。愛別離苦、大好きな人と別れなくてはいけない。求不得苦、求めるものがその通りには得られない。五蘊盛苦、外界のことが入ってくる。目が見え、耳が聞こえるばかりに苦しむ。そういうことに出会いながら生きるのです。その中の老苦一つを考えてみても、一日生きれば一日年をとるんです。七十になったら七十をお引き受けしていかなければならんのですけれども、なかなかそれができなくて、一生懸命抵抗して六十五に見せようとする。
ちょっと横の話になりますが、「誕生」という言葉は人間が生まれた時にしか使ったらいかん言葉です。今日はうちの犬の誕生日と言うたらいかん。人間だけ。これは中国人の智慧でございましてね。そういうことを聞きましたものですから、そうかと思って、『大漢和辞典』をひいてみました。そしたら「誕」という言葉は意味が十出てくる。一番最初、何と出てくると思います。ヒント、何ヘンですか。言ベンですね。つくりは? 延ばす。これだけ言うたらわかるでしょ。小さいことを大きく引き延ばすという意味です。「誕」の一番最初に「うそ、いつわり」とあります。二番目は「だます」とあります。謎が解けた。何で誕生て人間にしか使ったらいかんのか。嘘つきが生まれたということです。
横の話をもう一つ。皆さんはどうなったら老化が始まったことになるかご存じですか。精神分析の専門家の岸田秀という先生の説によると、実年齢より若く見られたいと思いだしたら、その時から老化だということです。いかがですか。
考えてみたら、私らは自分の年齢一つを引き受けてよう生ききることができんのです。
うちのお寺でこんな話をしたら、ある三十五才になろうとする、小学生のお母さんが、お会いした時にニコニコしながら、「こないだ話を聞いてから今とっても楽しみなことがあるんです」と言うんです。「何ですか」と聞くと、「もうすぐ誕生日が来るんです」と、こう言うんです。「何才になるの」と聞いたら、「三十五なんですよ」と。それで楽しみだと言うんです。「私はね三十才過ぎてから毎年毎年誕生日が来るのがイヤでイヤでたまりませんでした」。三十一才になった。もう人は二十代とは言ってくれんわけですからね。三十二になった。どんどん二十代から遠ざかっていくわけです。三十三になった、三十四になった。ついに三十五です。三十五を四捨五入したら四十ですからね。瀬戸際。「どうしようと思っていた。だけど、ふっと考えてみたら、私は今まで三十四年間生きてきたけど、三十五の自分というのは初めてですよね。三十五才の私には世の中がどのように見えるのか楽しみになってきました」とおっしゃる。
八十才の誕生日が今度来る。その時に、まあ七十九年も生きてきとるんじゃからその続きなのかな、と思うかもしれません。そんなことないんでしょう。手がここまで上がる自分と、手がここまでしか上がらん自分とは違うんですよ。違う自分には違うものの見え方があるんです。なんぼ七十九年生きても、八十才というのは今までかつていっぺんも経験したことのない初めてのことでしょう。
明日の朝が大体初めてです。明日の朝を見たという人がおられますか。みんな初めて。東井義雄という先生が「まっさらな朝」という詩を書いて教えて下さっています。大層に言えば、人類始まって以来、誰も見たことのない朝を、今朝我々は経験したんです。若い人も年とっとる人もみんな新鮮な同じ経験です。毎日毎日一瞬一瞬がそうです。
そういう新鮮な部分もあります。そしてまたもう一方では、私たちはいずれ最後の日が来る。
イヤなことを言いましょうか。ここに大きなカレンダーがある。一番左上に二〇〇〇年一月一日の日付から順に二日三日と印刷してある。右上に二〇〇〇年十二月三十一日の日付、つまりこの一年間の日付が全部印刷してある。二行目に二〇〇一年一月一日から十二月三十一日までの日付が印刷してある。百年くらい用意しときましょう。二〇九九年十二月三十一日までの日付が印刷されたカレンダーがここにあったら、その中のどこかに、ここにおられる一人一人のご命日があるんです。どっかありますよ。統計によると人間の死亡率は百パーセントらしいですから。間違いなくある。
ところが私らはそういうものは見ないように見ないようにしている。だけど生きるということの中にそれも入っとるんです。便利で、快適で、妨げが少なく生きるということも大事なことなんですけれど、生きるということはいろんなことに出遇うということですよね。
さっきこういうことが始まったら老化が始まったと言いました。困ったことになったと思った人がおられたらいけませんので、若さを取り戻すことを言っておかないとバランスがとれません。
八十を過ぎた先生で、まだ元気で矍鑠としておられる先生ですが、ある会へお話を聞きに行った時にこうおっしゃる。
「私はこのごろ青春まっただ中なんですよ」
その時は八十二才ぐらいでしたね。青春まっただ中のはずがないと皆さん思うでしょ。何が青春まっただ中なのかということなんですけれどもね。その先生のおっしゃられたことに、私なりの言葉を足して申し上げますと、たとえば子供たちの成長を見ておりますと、子供たちが少し言葉をしゃべれるようになって、そのうち質問をしはじめる。人間は生まれて最初にどういうことを問いとして持つか。どういうことを質問するか。最初は大概ものの名前を知りたがるんです。「これは何」と。それには、あれは消防自動車よ、あれは電車よ、あれは救急車よと言っておればいい。そのうち質問が難儀な質問に変わってきます。僕はどうして男なの。私にはどうしておちんちんがないの。どうしておばあちゃんの髪の毛が白いの。色々言われる。返事に困る。その質問は「なぜ」「どうして」ですね。
ところが、ふっと我に返ってみますと、成人式過ぎてそんなこと言っている人はめったにおりませんわ。自分で大人になったと思うたら、質問がどうなっているかというと、みな、「どうやったら」ということに変わるんです。「なぜ勉強をするんだろう」と子供が思った時に、親は「それよりもどうやったらいい成績がとれるか考えなさい」と答えてくる。問いを変えていくんですね。どうやったら儲かるか、どうやったら人からよく思われるか、どうやったら成績がよくなるか、どうやったら出世できるか。高齢者のカルチャーセンターへ行っても、いかに生きるか、どうやって若さを保つか、どうやって若く見せるか、どうやって八十才になっても歯を二十本残すか。そんなことばっかりじゃないですか。
ところがその先生がおっしゃるんです。
「どうやったらが通用せんようになってきました。どうやったら儲かるかわかっても、身が動きません。どうやったら人からよく言われるかわかってても、そのようには身体が動きません。そうなった時に、再びなぜが蘇ってきた」
なぜこんな身体の動かん私が生きていかなければならんのか。どうしてこの年とった私が生きていかなければならないのか。そういう青春時代の問いが戻ってきたと、こうおっしゃる。皆さんも聞法することで若くなる。まあ若さにこだわるということが年とった証拠ですけどね。
子供たちがせっかく、「なぜ」と思っている。それを全部「どのようにして」というふうにねじ変えてしまうんですね。そんなことも大事にしてほしいです。「どうやったら」というのは方法、手段ですからね。その方法によって天人のような生活を手に入れて、それで結局何がしたかったんやと言われた時に、「さあ」ということになります。便利になったし、早くもなったし、暑くも寒くもなくなったし、食うに困らんようになった。そうなってさて何をしますかという時に、何もないんです。これが困る。
うちの村の老人会長さんは、これ見よがしに玄関の入った所に黒板の予定表を置いている。それには村の行事やゲートボール地区大会とかがいっぱい書いてある。いかに自分が忙しいか、玄関入ったとたんに、「はあ、大変ですなあ」と言わんといかんようにしつらえてあるんです。どうなんでしょうね。せっかくですよ、せっかく役に立つことだけする人生から、つまり人材としての生活から解放されたのに、まだ人材を追いかけるのかということですね。
いつぞやNHK教育の「宗教の時間」を見ておりました。岡村美穂子さんという、鈴木大拙という先生の最晩年をそばでお世話された女性の方がおられまして、その方が鈴木大拙先生の思い出についてインタヴューを受けるという番組でした。こんなことを岡村さんがおっしゃってました。世界の大学者、鈴木大拙先生が九十六才の時の話のようでした。
「岡村さん、岡村さん。ちょっと来て下さい」
と言うて鈴木大拙先生が岡村さんを呼ばれた。岡村さんはまだ二十代の若いころです。
「何ですか、先生」
と言うて先生の所へ行く。すると鈴木大拙先生は、
「岡村さん、長生きというものはせにゃならんもんですね」
とおっしゃる。
「あら、先生。何かあったんですか」
こう岡村さんが聞きますと、
「うーん、私はね、九十六年生きてきたけど、九十六才にして初めてわかったことがありますよ」
こう言われたんです。あの世界的な大学者の先生にして、そういうことがあるということです。
私らはちびていく知恵の方を追いかけますから、ダメになっていく自分にとらわれてしまいます。世の中はね、毎日毎日新しく見えているはずなんです。さっき申し上げましたけど、大事な人をお見送りして、本当に初めて出遇うことがあるし、気がつくことがあるし、目を覚まされることがある。
私どものご門徒さんで、六十何才の時かな、ご主人を亡くされた方がおられて、その方は一周忌ぐらいまでは本当に泣いて過ごされました。ところが一周忌過ぎたらころっと変わって、とっても元気になられたんです。あんまり元気がいいので三回忌の時に話をうかがいました。
「住職さん。私ら夫婦は生きとる間じゅうケンカばっかりしとりました。だから死んでから後、ああすればよかった、ああしてあげればよかった、あんな時あんなこと言うんじゃなかった。もう悔やんでばかりおりました。そのたびに涙が出て止まりませんでした。ところがこのごろ私はね、本当に仲良う夫婦生活さしてもろうとります。朝、目が覚めると、お父さんおはようと言うて起きます。朝ご飯食べる時は、お父さんいただきますと言うてご飯食べます。大好きなパチンコへ行っても、お父ちゃん、今日は勝ったよ、今日は負けたわ、そう言いながら毎日仲良う暮らさしてもろうとります」
そのことが真宗としていいのか悪いのか分かりませんが、だけどそういうことがありますよね。大事な人と別れて初めて、その人の言いたかったことがよく分かる。あるいはその人の言葉をあれだけいっぱい聞いとったはずなのに、生きとる間は一言も思い出さんかった。それがお別れしてからはいっつもあの人の言葉が耳に聞こえてくる。そんなことがあるんではないですかね。
よくね、お浄土からの便りとか、お浄土からの呼びかけとか、亡き人からの声とか言うけれど、そんなもの聞こえたためしがない。お浄土からのはたらきなんかどこにあるんや、見せてみい、とおっしゃる人がおられるんです。
このごろ私は「携帯電話をお持ちですか」と聞くんです。ここに電波届いています。それはこのままの私には見えないのです。ところが受信機があったら受信できるんです。たとえばテレビ。ここにテレビを持ってきてアンテナつないで、コンセントにつないで電源スイッチ入れたら、放送局と直接つながってないけど映るでしょう。放送局から電波が出ている。電波は見えてません。けど届いている。アンテナがちゃんとそっちの方向を向いていたらですよ。アンテナが変なとこ向いとったらダメです。電源が入ってなかったらダメです。電源が入ってなかったらダメということは、生きていなければダメということです。
我々は言うてみたら受信機なんです、人間というものはね。お寺へ行ったり、お内仏の前での一時をたくさん持ったり、あるいは大事な人とお別れしたり、様々している間に受信精度が高まっていくんです。今までは何でもない音だったのに、雨だれのポツンポツン一つからいろんなことが聞こえてくる。ああ、今日は風が強いな。そのことからまたいろいろと思い出し教えてもらうことがある。そんなことがあるんでないかなあとも思うんです。
先生がいないとおっしゃる方もあります。私はやる気満々なのに教えてくれる人がいないと。これも聞いた話ですが、チベット仏教の言葉に
「弟子の準備ができると師が現れる」
というのがあります。こっちが聞きたいな、聞かせてもらいたいなと思い始めた時に、もう回りは先生だらけです。あれだけ私をいじめたはずの憎たらしいあの人が、実は一番よく教えて下さっておった、というようなことが、人間という受信機がはっきりすると聞こえてくるんでないかしらと思います。
島でお年寄りといろいろやっている時に、平等とは何だろうなと思うようになりました。ふっと気がついたことはどういうことかというと、もともと平等だったんですね、私たちは。私はがんばって平等を勝ち取らねばならんと思っていたんです。がんばって勉強して、いろんな差別の実態を知って、平等を勝ち取らねばならんと思っていた。ところがお年寄りと一緒に生活しておったら違っていた。もともと平等だったのに、私らが自分のはからいや思惑や知恵で差別にしとったんでなかったかと思います。
あらためてそういうことを思うたら、背が低いということだけで卑屈になったりすることでも、考えてみてください、背が高いというのは棚の上の物を取りやすいように生まれついたということです。身体が小さいということは机の下の物を取るのが便利に生まれついたということです。それだけなんですよ。そんなことは大したことでも何でもない。
何が平等か。一番はっきりしているのはいずれご命日が来るということが平等です。弱いということが平等です。本当のことが何もわかっとらんという、愚かだということが平等です。完全じゃないということが平等です。足りない者同士だということが平等です。それをちょっとでも頑張って、ちょっとでも足りるようにしようとやっているわけです。すればするほど、さっき言いましたように、漢字の勉強することができなかった人が見えなくなっていく世界になっていくんです。
生徒たちに「自転車、そんな乗り方するな、危ないじゃないか」と言いますと、「いや、前に人がおる時にはちゃんとチリンチリン鳴らしてます」「だけど前を歩いている人は耳、聞こえんかもしれんやろ」。そう言うて初めて生徒は「そういうこともありますね」。自分の耳が聞こえていたら、だれもがチリンチリンと鳴らしたら気がついてくれると思い込んでいる。クラクションをプップーと鳴らしたらよけない方が悪いということになるんです。けれど、いろんな人が共に生活しているのが私たちの世界です。
京都のような町でも、道路に物干しをおいて洗濯物を干している人がいます。目の不自由な人が杖で地面をさぐっていてもわからんわけです。地面には障害物がないわけですから。ところが突然、顔のところに物干し竿がある。
私たちはそのように、自分のできるところでしかものを見たことがないし、自分が見えるばっかりに差別にしてしまう。自分が勉強ができるばっかりに差別にしてしまうというふうになっているんじゃなかろうかと思うんですね。
去年の今ごろ徳島で、全国の私立の学校の校長先生ばかりの研修会があったんです。地元の人の話も聞こうというので、脇町の河野通郎さんという方が研修会の講師の一人でした。河野さんは徳島農業高校を卒業して以来ずっと蘭の栽培一筋にこられたんです。昭和二十二年生まれですから、五十才ちょっとですね。今では世界一の蘭栽培者です。プリンセスダイアナという新品種が世界中で爆発的に売れました。そうした品種を生み出した人です。この人が面白い人なんですよ。気楽な話をいろいろされて、その後質問が出る。どういうやりとりでそうなったのか途中を覚えてないのですが、ちょうどクリントン大統領の不倫騒動の後で、なんでクリントン大統領みたいなえらい人が不倫するんやという話になったわけです。それに対して河野さんはこういうふうに答えられました。
「宇宙には地球以外にもまだ人間みたいな知的生命体がいっぱいいます。その宇宙中の知的生命体の落第生が全部地球へ送り込まれる。お前はダメだからいっぺん地球へ生まれて人間としての一生を送って訓練してこい、と送り込まれるのが、この地球という所だと私は思っております。だから私の一生は訓練の一生だと思っております。私の一生涯は全部修行でございます。ですからアメリカの大統領というたところで、落第生の中から選ばれとるんですから、そのくらいのことはありますわ」
お念仏の教えというのは落第生向きにあるんです。私らが落第生だからこそ救われるんです。ところがね、自分で頑張れるだけ頑張って、品行方正に努力して頑張って、それで「後もうちょっと足らんかったら、阿弥陀さん、たのんまっせ」というのが私らのやっとる道なんです。
私、ビルマへ行ったことがあるんです。真宗の者がなんでそんな所へ行って修行してくるんやと言われるんです。私がビルマへどうしても行こうと思ったのは、ビルマのお坊さんに出会ったからです。日本でまず戒律を授けてもらって沙弥になったんです。そしてビルマで比丘になって頭そって、黄色い衣を着て托鉢にも行きました。それは突発的になったんですよ。「誰かなる者おらんか」と言うから、ハイと手を挙げたんです。パーリ語という言葉の研修会を、東大とか駒沢大学とか大正大学とかの大学でパーリ語の勉強しとる学生が集まって合宿みたいにするんです。真言宗のお坊さんで、お金はいろんな形で儲けるんですが、儲けたお金をみな若い仏教者を育てるのに使う坊さんがおるんです。私の大変尊敬している人です。その人が自分の寺に図書館を建てて、我々学生が買えんような高い本はみなそろえてくれる。勉強したい者がおったら、何日でもただで泊めて勉強させてくれる。その人が毎年夏に有名な大先生やビルマ人のウェプラーという長老をよんでパーリ語のセミナーをやってくれる。そのウェプラーさんという人はその当時日本に来て二十年以上になる、日本語ペラペラの人です。いい機会だから誰か沙弥にならないかというので、私が手を挙げました。沙弥に二人なったんです。その時、私、ウェプラー長老に言うたんです。
「私は仏教徒なんですけど、戒律を守るというようなことのない、戒律ということと全然縁のない宗派の者なんですよ」
そしたら、
「知ってるよ、真宗と言うんだろ」
とおっしゃる。我々は小乗仏教と言って馬鹿にしている。あんなものは、と切って捨てている南方上座部の長老からそう言われたんです。
「はい、そんな私みたいなもんがいいでしょうか」
「何の心配もいりませんよ」
次なんです。
「あなた方には信心というものがあるのでしょう」
「はい」とは言えないんですけどね。
「信心に則って生活するということは、戒律を全部守って生活することと同じことなんですよ」
そうおっしゃる。ビルマの長老たちがうれしいのは、二、三日前にお釈迦さんから直接教えてもろうたような口調で話をしてくれるんです。
「お釈迦様ご在世の時にもこういう人がいてね」
とね。
「自分は頭が悪くて(戒律を二百二十七覚えるわけですから)そんなもの覚えられない、だから弟子から除名して下さいと言う人がいたんです。その時にお釈迦様は、「何も心配することはいらない、たった一つのことだけ守りなさい」、こうおっしゃった。それは何かと言うと、「心を清浄にする、そのこと一つだけ考えなさい、そしたら二百二十七の戒律を全部守って生活したことになる」とお釈迦様はおっしゃっておられる。だから何も心配はいらない。信心に従って生活すればいいんだよ」
その信心がないのが大問題なんですけども。信心とはそういうことなんですよ。簡単に言うたら、それが私の浄土真宗との出遇いの原点なんです。
話がちょっと横へそれますが、ビルマのことは話をしたらきりがないんです。托鉢とかお布施とかね。ビルマの方々がどんなにうれしそうに自分が人間に生まれたということをおっしゃるか。我々「人身受け難し」という言葉は知っているから、そう言わなあかんものやと思っています。そんなんじゃないんですよ。輪廻というものが生活の中にあるんですから。人間に生まれるなんてことはまずないことだと本気で思っておられるわけです。人間に生まれた。その次があるんです。
「お釈迦様より後に生まれたんですよ、私は」
と喜ぶんです。お釈迦様がお生まれになった二千五百年前ぐらい、ビルマの人にとってはほんのちょっと前です。
「自分が生まれた時はお釈迦様より後だった、だから仏法に出遇えた」
ということを、若い女の子なんかでも同じようにおっしゃるんです。
ちょっと横に話がそれましたが、地球という所は落第生の集まりだということです。私たちは未熟なんです。ところが未熟に生まれたということは、一人では生きていけない者として生まれたということなんです。それはつまり一人では生きていけないのですから、助け合いながら生きていくように生まれたということです。私たちが未熟に生まれたから私たちは優しさとか思いやりとか共感する力とか、そういうものも同時に備わって生まれてきているんですね。そのことを大事にして、ということです。
さっき言いました河野さんは、
「ありがたいことに日本語は世界のどこに行っても通用しないんですよ。だから私みたいな勉強の嫌いな者が英語の勉強させてもらえるんです。なかなか世の中は思うようにいきませんからね。それで課題が与えられて、私みたいな者も勉強させてもらいます」
ニコニコしてこうおっしゃる。
私たちが、生きるということの邪魔になるものを取り除いて、取り除いて、我が子、我が孫なんかにそれこそ道を掃き清めて、砂の一粒まで拾うて歩かせている。こけるかこけんかわからん時からもうこけたら大変と支えている。さっき頭をぶつけると言いましたが、頭をぶつけるどころの話じゃない。頭をぶつけささんようにずうっとやってきた。けれども、それは死なんようにしとるだけ、怪我せんようにしとるだけ、病気せんようにしとるだけ、年とらんようにしとるだけ、でないのか。
活き活きと生きています、という、努力すればするほど元気が出るような、努力できるような、そんな生き方になかなかならないなあと思います。だけど私たちが自分は足りない者だと、不完全な者だと、変な言い方ですが未熟だということに気がついて、それを引き受けたら元気が出てくるんです。「さあご一緒に」という元気が出てくるんですよ。
さっきね、私もお弁当いただきました。今こうやって神妙な顔をしておりますけど、胃袋の中は大騒動しているんですね。だれも胃袋の中から返品された人はおらんでしょ。胃袋は黙って引き受けたですよ。申し訳ないことに、よう噛んどらんやつを。今、黙々と働いてますよ。そのために心臓は一生懸命血をおくってますよ。吸うぞ、吐くぞと思わんでも一生懸命身体の中を酸素と二酸化炭素が出たり入ったりしとるでしょ。私は今ここに立っていますけど、足の裏が、お前みたいな重たいもの支えるの嫌や言うたら立っとられん。
私を生かそう生かそうと身体中が働いている。私のお預かりしておりますおいのちはね、本当に身体中が生きるということを、一瞬も、生まれてから一ぺんも疑ったことがない。お酒飲みの人が時々休肝日と言いますけどね、ほんとに肝臓が休んだらえらいことですよ。週に一ぺんは休心日を与えてと、そういうわけにはいかんでしょ。嫌なことで辛うてたまらん時も、黙々と身体中が私を生かそうと支えています。今この現在もそうです。如来さまの願いにそうて身体中の細胞が他を生かしながら生きています。ところがそのおいのちの管理人さんであるこの私が全然わかっとらん。
お念仏は如来さまからのプレゼントだとおっしゃった人がおられます。皆さんが孫にプレゼントを買おうと思った時に、何を考えますか。まず考えるのは何が一番喜ぶかということでしょ。「おばあちゃん、ありがとう」という喜びの声、聞きたいためにやね、年金からけずってでも買うわけです。今日の帰りしなケーキ買うて帰ってね、孫が喜ぶかなと思うとったら、友達が遊びに来とって悩まなあかんね。今あげようか、友達帰ってからあげようか。
如来さまが人間はこれを一番喜んでくれるはずだと思ってお念仏を用意して下さった。ところが我々はもろうたプレゼントの値打ちが少しもわからん。意味がわからん。持て余しとるのではないでしょうか。
ご本尊さまがあそこに立っとって下さるのもそうですよ。お座りになったらお楽でしょうがね。誰が立たしとるか。私たちのことを座ってなど見ちゃおれんのです。立って救い出さずにはいられないお姿を私たちのためにして下さっておる。私たちは明慶寺さんのご本堂に座らせてもらって、手を合わさせてもらって、真向かいになって、本尊、本当に尊いことは何だろう、そういうご縁をいただくわけです。大事なことは本当皆さんがここで阿弥陀さまと真向かいになって手を合わす。そのことにあります。
私たちはほんとに支えてもらっておるんですよ。お互いに助け合う者として、支え合う者としてね。人という字そのものがそうでしょう。こっちがこけたら、そっちもこけるようになっとるんです。そういう者として、足りん者同士として生まれていることを、あらためて大事にした時に元気が出てくるんです。
最初に皆さんとともに「人身受け難し、いますでに受く」と唱和いたしました。あらゆる命とともに生きようと願い続ける「いのち」のはたらきと、如来さまの願いとが一つになる、そういう「人身」を他の誰でもないこの私が今たまわっている。そういう有り難いことが今私の身の上に起こっている。そのことが、「仏法聞き難し、いますでに聞く」ことによって明らかになるのです。この明慶寺さんの本堂のご本尊さまの前で、またご自宅のお内仏の前で、明らかになっていくのです。どうかお元気でご聴聞下さい。
あっち行ったりこっち行ったりで、この大事な仏教婦人会のお集まりに軽い話をしてしまいまして申し訳なく思います。一生懸命聞いていただきまして本当にありがとうございました。
(2000年6月13日に行われました安芸南組仏婦連大会でのお話をまとめたものです)
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