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  真城 義麿さん「信に死して ―真宗門徒として―」
 2008年6月7日

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 みなさん、おはようございます。ご紹介いただきました真城でございます。
 今日のみなさんとの出会いは、今日まで生きておったからこその出会いであります。面白くないことや思い通りにならない人生でありましょうけれど、生きておるとさまざまな出会いがあるんだなと思います。
 人生、何か意味があるのかなあ、こんなことばっかりしとったって生きている意味がないんじゃないかなと思ったりします。けれども、私たちはうれしいことや喜びに出会うと、いろいろあったけど、今日まで生きとったからこそ出会えたなということになります。そうすると、私たちは大きな喜びを得た時に、過去のさまざまなことがみんな意味を持ってくるわけであります。意味がわからなかったこの人生、あんなこと忘れてしまいたいと思ったこともある。だけど、そうしたこともあったからこそ今があるわけであります。

 「信に死して」という講題をいただきました。これは昭和36年に親鸞聖人七百回御遠忌が勤まりました時に、曽我量深、金子大栄、鈴木大拙という先生方が講演をされました。曽我量深先生がつけられた題名が「信に死して願に生きよ」です。曽我先生の話を聞いていた広瀬杲先生が感動されて、お話のあとに「信に死して願に生きよ」という言葉を書いてくださいとお願いされたそうです。その時、曽我先生は「願に生きん」と書かれたという逸話があります。

 「信に死して」ということは、私たちが信心をいただいてみると、私の中の何かが壊れていく。私が今まで「これを中心にして生きていくぞ」と思っていたものが崩れていく。ものの考え方、見方、生活の中で大事にしておること、そういうものが崩れ去ってしまう。通用しなくなってしまう。そういう意味で「信に死して」という言葉を使われたと思います。そして「本願に生きん」、如来の本願に生きていこうということであります。

 親鸞聖人の『愚禿鈔』に「本願を信受するは、前念命終なり」「即得往生は、後念即生なり」という言葉があります。私たちは聞法するたびに、今までの自分が崩れていくんです。それまで一番大事にしていたものが間違っておったと気づくことで、大事にするものの設定のし直しをしていくわけです。
 崩れる前の私は何を中心にして生きておるかというと、すみからすみまで「私が」ということです。

 最近はどうしてこんな事件が起こるんだろうかと感じることがあります。誰が悪いんだろうかと言うと、みなさんも悪い。念仏を忘れた世の中のあり方は、私がどうしたら気持ちよくなるか、どうやったら快適になるか、便利になるかということです。私が便利になるためには、私の住んどる地域がよくなってもらわんといかん。すべて「私が」です。私の都合が広がると、地域の都合になり、国の都合になったりするわけです。しかも、このことを一ぺんも疑ったことがない。

 エコとか環境とか言うけれど、本気で環境をよくしようというんであれば、一番間違いがなく、手っとり早い方法は人類が滅ろぶことですよ。人類がいるかぎり環境は悪くなるばかりです。
 環境がよくなってもらわんと困るのは、私が困るからです。環境が大事じゃないんです。環境がいいほうが私が気持ちいいからです。本音は環境なんかどうでもいい。私が快適になればいいと今までずっとやってきた。たとえばクーラーがそうでして、クーラーというものは中さえよかったらいいという機械です。外には熱風を出しながら、うちの中さえ涼しかったらいい。そうやってきて、ふと気がついたら環境がぼろぼろになっておった。

 この「私が」が死ぬとはどういうことか。崩れる、壊れるとはどういうことなのか。そんなことをお話ししたいと思うわけであります。

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 浄土真宗の「人間はどういうものなのか」という見方は、「私が」というところでどれだけ頑張ってもろくなことにはならんということを見抜かれたところからの人間観と言いますかね。よかれと思ってもがけばもがくほど罪を犯すことになってしまう。なんでかというと、私を中心にしか動くことができない、考えることができないからです。

 私たちはさまざまな苦悩を抱えておりますけど、苦悩ですら私中心の苦悩なんですね。「私はこのごろ苦しくてつろうございます」と誰かに打ち明け話をした時に、相手が「ようわかります」と言うてくれたらどうですか。どっちかというとうれしくない。「あんたなんかにこの私のつらさがわかってたまるか。わかるはずがないのに、気楽に「わかりました」なんて言わんでほしい」と思われませんか。
 つまり、私たちは苦悩さえも人に渡したくないんです。世の中に私ぐらい不幸な者はおらん。「いや、そんなことはない。あの人はもっと不幸だ」と言われると、「あなたは私の苦悩の深さを知らんからだ」と言うて、苦悩さえも私中心にしてしまうのが私たちなんです。どこまでいっても私以外に関心がない。「みんなが」と言いますけれど、みんながよくなることで、なおいっそう私がよくなるという意味での「みんな」です。

 しかも、この私はどういう私かというと、考える私です。つまり、私たちの知能とか理性とか、脳みそ。どういうことかというと、私たちがわかったと言うのは、私の考えに合うたということです。

 聞法を重ねていると、「ああ、そういうことでしたか。よくわかりました。今日は腑に落ちました」と言うんですけれど、それはたいがいの場合、「私の都合のいい話だった」ということです。
 だから、私にとって都合のいい話をしてくれる先生がいい先生です。私の都合を壊してしまう話をする先生は、「他人はいいと言うかもしれんけど、私にはちょっと」ということになります。そういうふうに聞く側のことを思いますと、私もみなさんの気に入る話をせんといかんなと、つい思ってしまいます。つらいところであります。

 今の世の中が大変なことになっているのは、みなさんのせいでもあると言いましたけれど、「私」がどうなったら幸せになるかということだけを考え、その方向に向かって世の中は進んできたわけです。

 たとえば、衣食住に困らないのが幸せに違いないと考える。今の私たちは衣食住に困ることがない。便利で快適で、不自由どころでないんです。みなさんの中でここ三日食べてない人がいますか。帰るところのない人がいますか。選ぶのに困るだけのものがあるわけですよ。
 みなさんの中で、今日は出かけなくてはいけないからというので、着るものに困った人が二種類おられます。一つは、着ていくものがないから誰に借りようか。こういう困り方をした人は一人もいらっしゃらないのではないかと思います。たいがいの人はもう一つの困り方です。ものすごくようけある中からどれを着ていくか。おばさんくさいのはいやだし、さりげなく品格のある身だしなみはどうだろうかと思って、ああでもない、こうでもないと、あれこれ悩んでいる間に時間が過ぎてしまう。今から十年ぐらい服を買わんでもひとつも困らんだけ持っておられるんじゃないですか。それでも買うでしょう。

 地球上で飢え死にする人は3秒に1人と言われています。そのほとんどが子供です。日本の餓死者は2005年に82人です。そんな中でたくさんのものが無駄にされています。日本の自給率は39パーセントといいながら、年間5800万トン輸入した食料のうち、その3分の1の1940万トンがゴミとして捨てられる。捨てた食料は3000万人分の年間食料に匹敵する量なんですね。

 船場吉兆の使い回しでも、みんながものの考え方を変えればいいと思うんですよ。使い回しするということは食べずに余らしたということです。余らしたものを捨てるのはもったいないじゃないですか。だから、事前に「どれだけ食べますか」と聞いて、手をつけないものは写真でも出しとけばいい。そしたら無駄に作ることも、無駄に捨てることもなくなるわけですよ。
 そして、「写真も含めて今日の料理は三万円でございます。あなた様は一万五千円ぶんを食べられました。あとの一万五千円は困っている人たちのために寄付いたします」というふうにすればいいと思うんですね。食べ切れんものを料理してしまうと捨てるしかない。食べたことにして、写真を見て「こういう料理なのか」とわかったらそれでいいじゃないですか。

 そういう考えは出てきません。なんでかというと、私にとって何の得にもならんからです。
 仏教を学ぶと、「私たちはみんな関係性の中で生きとる。お互い支え合い、おぎない合い、助け合って生きとる」と教えられます。特に真宗の聞法をしとると、「ただ生きとるんと違うぞ。生かされとるんだ。南無阿弥陀仏と受け取らにゃ」と言われます。生かされて生きておるということは間違いのないことです。

 だけど、それだったらお客さんのような気がしませんか。そうじゃない。みなさんは生かされて生きておると同時に、誰か、何かを生かして生きておるんですよ。みなさんは必要なんです。必要でない人は一人もおらんのです。私が今生きておるということは誰か、何かを支えておるんです。
 それが私の知恵ではなかなかわからないから、「私が」で生きようとする。お互い関係の中で生きておることがほんまに腹に入ったら、関係が気持ちよくならないと私は気持ちよく生きていけないことがわかります。

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 衣食住に困らず、便利で快適にということは、経済と科学技術、つまり人間の考えるということからできたことです。人間の作ったものは、こんなものがほしいと思ったからできとるんでしょ。こういうものを作ろうと思って、どうしたらいいかと考えてできたんですよ。知恵によって形にする。
 こういうものの基礎になるのが科学です。科学というのは再現性といって、同じものができないとあかんのです。だから、データがきちっととられる。あるいは、経済は数字そのものです。みなさんと私とどちらが豊かかというと、なかなか難しい。だけど、財布にどちらがたくさんお金が入っているかというたら、数えてみればすぐわかる。主観の入りようがない。

 数値目標と合理的説明の二つが私たちの日常での中心のものさしになっているんです。学校の世界でもそうです。改革という名前がついたとたん、今の世の中は数値目標を出さないといけなくなりました。校長はみんな教育委員会から数値目標を出せ、達成度を出せと言われてまして、数値目標という言葉を聞いただけで、どの校長もびくっとするんです。でも、学校の数値目標というと何なんだということになります。

 数字には困ったもんで、学校の先生には子供たちが数字に見えますからね。「あの子はどんな子?」と聞いたら、「偏差値がいくら」とかね、「席次が何番」とか答える。「あの人どういう人?」「年収がなんぼ」と、みんな数字です。
 「なんでも鑑定団」というテレビ番組がありますが、あれが悪い。何が悪いかというと、あらゆるものに値段をつけんと気がすまんということが悪い。

 おじいちゃんが大事にしとった湯呑みがある。この湯呑みを手にしただけでおじいちゃんを思い出す大事な湯呑みです。それが「125円」とか出ると、それだけのものかということになるわけです。
 子供が消しゴムをなくして悲しい顔をしている。お母さんが「同じものを買ってあげるよ」と言う。しかし、その消しゴムは特別な消しゴムなんです。ひそかに思いを寄せている女の子からもらった消しゴムです。同じものを買ってきても心は晴れない。数字では表せんものがそこにはあるわけです。

 それから、合理的説明、わかるように説明しなさいと言われています。説明責任とか言われて、納得のいくように説明しなければならない。しかし、説明なんかできんことのほうが多いんです。今日、私とみなさんが出会ったのだって不思議としかいいようがないでしょう。今日まで私たちが生きとったから出会えたんですよ。今朝、京都から来ました。ここに来るまで一度も事故に遭いませんでした。それで時間に間に合った。不思議じゃないですか。

 ところが、何でもかんでも合理的説明じゃないと気がすまないということになっている。たとえば子供を叱ることでもそうです。やみくもに叱っちゃいかん。子供が納得できるように、よくわかるように説明して叱らないといけないことになっとる。そうなりますと、説明のへたくそな者は叱ることもできんです。何とかとめなきゃいかんということを子供が目の前でやっとる。だけど、叱ってとめることができん。そういうことが時々あるんです。

 ある中学生がやってはいかんことをした。家族でよく話し合いしてもらわんと子供のためにならんからと、ご両親に話をしました。しばらくして、お父さんに「その後、家の中ではどうですか」と尋ねたんです。「お父さんが叱ったことへのお子さんの反応はどうですか」と聞いたら、「私はあの子がやったことがどのように悪いかをわかるように説明することができません。だから、まだ叱っていません」と言われるんです。「校長先生は宗教家だからいい言葉を知っておられると思って、どう叱ったらいいかをお聞きしようと思ってまいりました」とおっしゃる。
 私はちょっと腹が立ったもので、「何の説明もいりません。納得する必要もありません。「わしはお前の親だ。お前の成長に責任を持っとる。しかもわしは人生の先輩だ。だから黙って言うことを聞け。お前のやったことは悪い。二度とするな」、それだけでよろしい。屁理屈は言わんといてください。「納得したい」と子供が言ったら、「いずれわかる」と言ってください」

 ここで一番大事なことは「わかった」という言葉です。わかったということは、私が持っているごくわずかな知識や知恵の中のどこかにおさまったということです。自分の持っとるちっちゃい知識の中に当てはめてわかったつもりになったら、私はもうこれでいいんだということになってしまう。先へ進んでいくのにブレーキをかけることになるんです。

 どういう仕事につこうが、何をしようが、今やっとることを一生懸命やっていたら、その先にすごいものがあることに気づくんです。勉強にしてもそうです。「こんな勉強して何の役に立つのか」と、よく子供が言います。そう言われたら、親も先生も一生懸命ぐちゃぐちゃ説明するけれども、そんなことはわかったらあかんのです。勉強というものは一生懸命やったら、その先に今まで自分の知らなかったすごい世界があるということがわかるんです。

 そういうような中で私たちは生きておるんだけれども、いつの間にか経済とか科学技術に目を奪われてしまって、数字とか合理性が優先される。合理的とは私の都合に合えば合理的だと思うだけのことです。
 仏法の話でもそうです。わかったというのは、私の持ってるわずかの知識や知恵で理解できた時にわかった気になるわけです。理性で考えてわかったつもりになっている私ですが、本当にわかっているのかということです。

 「信に死す」というのは、そうした「私」を中心にしたあり方を考え直すということです。

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 29歳までの親鸞聖人と29歳以降の親鸞聖人とは大転換が起こります。その転換の時、「雑行を棄てて本願に帰す」とおっしゃった。
 雑行とは何かというと、「私が」というところから始まる一切のことです。私が悩み、私が苦しみ、私が解決しようと思って、私が求め、私が学び、私が修行し、私が祈る。「私が」というところから行う一切のことが雑行です。
 親鸞聖人はどれだけいいことをしていようとも、それはすべて雑行であると言われた。どうしても比べたり、上下を気にしたりして、「私が」から離れることができないからです。

 親鸞聖人は一生懸命に求められ、学ばれ、修行されたに違いない。だけどそれは、私の苦悩を私が解決しなければならないということだった。仏教を学び、仏さまの力をたのむといっても、「私が」というところからの動きだったわけです。私が苦悩から解放されるために、私が学び、私が修行し、私が悟っていかなければならない。私が、私が……。

 「私が」というところで行う修行は、自分で確かめていかないといけないんです。たとえば四国八十八ヵ所めぐりをして、何もせずに帰る人はほとんどいません。みな朱印をもらってくる。夏休みのラジオ体操でハンコをもらうのと一緒や。目に見える形でここまで行ったというのがわかるわけです。そうするとなんだかやった気になる。手応えがある気がする。目的に近づいている気がする。
 そして、はっきりとわかる順番、段階がほしいんです。だから、初級、中級、上級とあるし、ゲームでいえば一面クリア、二面クリアです。そうやって順番に段階をあがっていく。だから、修行は厳しいほうがいいと思うわけです。

 だけど、お釈迦さまの弟子は法臘といって、僧侶になってからの年数で序列が決まります。出家して20年たてば、自動的に長老です。修行の中身は一切問わないんですよ。

 比叡山には『山家学生式』と言いまして、最澄が考え抜いてできたカリキュラムがあります。それは人間の強さも弱さも見抜いた上でできています。ここまでできたら、次はこれをやりなさいと。
 あらゆる世界がそうですよ。修行の体系がちゃんとあるわけです。大工さんだって、落語家だって、ここまで行ったら次はここと、しなければいけないことが順番にあがっていきます。それを自力聖道門というわけです。

 親鸞聖人は法然上人に出会うまで、比叡山でそのカリキュラムに従って学問をされ、修行をされたと思われます。常行三昧堂に親鸞聖人はおられたんです。常行三昧というのは90日間歩き続ける修行です。お堂の真ん中に本尊がありまして、本尊のまわりを90日間ぐるぐる歩き続けるんですね。その間に横になって寝ることは許されない。どうやって寝るかというと、平行棒みたいなのがあって、そこに脇を置いて仮眠をとる。そうやって眠っていると地面に叩きつけられるでしょう。すると目が覚める。そしてまた歩き始めるわけです。そういう修行もなさったに違いない。

 親鸞聖人はさまざまな悩みを抱えながらも、学問を徹底的にやられ、一生懸命仏道修行にはげまれた。けれども、どこまでいっても自分の生きる道が明らかにならなかった。我執を離れることができなかった。

 法然上人に出会われて、それまでの自分の歩みのすべては捨て去らねばならない歩みであったことに、親鸞聖人は気づかれたんです。あらゆることが私中心であった。雑行だった。信心というものは私が信じることだと思っておったけれども、実は仏さまのほうからお届けいただいていた。私が仏さまを信じるのではなかった。如来さまからたまわった信心だった。私に先んじて仏さまのほうが私のことを案じてくださっておった。願いをかけてくださっておった。そこに身をゆだねようと、大転換が起こるわけです。

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 この「私」というのはどこまでいってもやっかいでございます。なかなか我執を捨てられないんですよ。仏教の入門書を読みますと、お釈迦さまの教えの一番最初に出てくるのは縁起ということです。あらゆるものはすべて関係し合っている。つながっている。私に関係ないものはひとつもない。それが縁起ということです。
 今日はいい天気でしょう。みなさんの中に「私が晴れ女だからだ」と思うている人がいるかもしれん。「私の精進がよかったからだ」と思うている人がいるかもしれん。そんなことはない。縁起、あらゆるものは関係し合っているわけですから、晴れる条件が整ったら、行いがよかろうが悪かろうが晴れる。降る条件が整ったら、なんぼ精進がよかろうが降る。

 それから中道。中道とは、極端を離れなさい、あるいは、物事を二つに分けてどっちかと考えるのはやめなさい、ということです。

 お釈迦さまが生まれた家は王家ですから、衣食住に困ることはなく、たいがいのものは手に入る。快適で苦痛が少ない中で暮らしてこられた。だけど、そこには人間にとって一番必要なものはない、本当の幸せは手に入らないということで、お釈迦さまは全部を捨てて家を出られたんです。
 ところが、私らはお釈迦さまが捨てたものを追い求めておるんです。おいしいものが食べたい。いいものが着たい。召使いにかしずかれたい。大きな家に住みたい。お釈迦さまはそこから出ていかれたんですよ。

 そうしてお釈迦さまは苦行をされるわけです。だけど、苦行からは真実は見えてこない。そこで、快楽と苦行の両極端を捨てて中道に立つということです。
 私たちは修行というたら厳しいほどいい修行だと思うわけです。あの人はあんな修行されたと聞くと、ほほうと感心するわけです。だけど、お釈迦さまは苦行を捨てられたんですからね。いたずらに身を苦しめる道は正しくないんです。

 仏教入門で次に出てくるのは四聖諦です。四つの尊い真理ということです。
 一つ目は苦諦、迷いの人生は苦である。本当のことを知らない人生は苦だということです。お釈迦さまも年をとり、病気になられ、死んでいかれた。しかし、お釈迦さまにとって老病死は苦ではないんです。

 二番目は集諦。苦の原因は本当のことを正しく知らない無知と自分中心の欲望です。世の中は私が思うとおりにはならんのですよ。現実を正しく受けとめることができなくて、現実と自分の都合との間で苦しむ。

 あらゆることが思い通りにならないというのが現実です。不如意と言います。だけど、私たちは自分の思い通りにしたいわけです。そうすると、私の思いと思い通りにならない現実にギャップが生じます。このギャップのことを苦と言うんです。

 たとえば、老を苦と感じておられる方があるかもしれません。私の思いはいつまでも若々しく健康でありたい。だけど、現実は刻々と衰えていく。で、苦しむんです。
 これを解決するにはどうすればいいか。理屈だけで言うならきわめて簡単です。心の底から「年をとって衰えたい」と思いさえすればいい。年々夢がかなっていくわけですから、老苦ではない。目が薄うなったらどんなによかろうか。耳が遠くなったらどんなに楽しかろうか。早く夜中にトイレに何べんも行くようになりたいな。そう思っておれば、夢が実現するんですから幸せじゃないですか。だけど、私たちの思いは反対なわけです。年はとりたくない。長生きはしたい。究極のわがままです。

 思い通りにならんで苦しいから、苦しみを何とか解決したいともがくわけです。思いを現実に合わせたらいいんだけれど、私たちは現実を思い通りにしようとします。ちょっとでも思い通りになったら幸せになるんじゃないかと思うわけです。そうすると、そこに罪というものが生まれてきます。
 お金をすべて我がものにしたいというので、日本中のお金を私が全部持っていたら、みなさんのところにいかないんですよ。誰かが社長になったら他の人は社長になれない。そうすると、「あいつを引きずり下ろして私が社長に」となるわけでしょう。

 今の状態は私の思い通りになっていない。それを私の思い通りにするならば、その時に罪が作られるわけです。私がうまいこといくようにして苦から逃れようとするから、自分ではよかれと思ってやっとることでも、一生懸命やればやるほど結果的には罪になっていき、また苦しむことになる。

 三番目は滅諦。自他が共に生きる世界があるということです。真宗では浄土と言います。こういう世界がある。あなたの目指す世界はここですよ、ということです。

 四番目は道諦。それを実現する生き方、道があります。その生き方を念仏の生活と言うんです。

 これは物事を考える時に大切なことです。私たちは問題が起こったら、すぐに解決するにはどうしたらいいかと考えが飛ぶんです。そうじゃない。まず問題はどこにあるのかをきちっと見る。その次に、なんでそんなことになったかという原因を押さえる。その上で、何を目指したらいいのかを考える。

 ここが大事なんです。今のこの苦しみから逃げさえすればいいんだというのでなしに、どういう世界を求めていくのか、願っていくのか、ということを考える。その上で、私の進む道はどこにあるのか。それを浄土真宗では念仏の世界というわけです。
 世の中はどうせ大したことはないと思うかもしれないけれども、そんなことはない。私を殺さず、私として生き、他のあらゆる命とともに生かし合い、生かされ合いながら生きていく世界がある。それをお浄土というんだ。その浄土へ行く道も用意されている。それがお念仏の道なんです。

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 親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」とおっしゃっています。道というのは、?に首という字です。大臣の中心は首相です。野球のバッターの中で一番よく打つ人を首位打者といいます。首とは一番中心になるものという意味です。?は進むということです。私たちの一番中心になるものが進んでいく場を「道」と言うわけです。

 みんな、自分は大したもんだと思っているんです。だけど、私たちは闇の中でもがいておる者としか言いようがない。本道とわき道との区別がなかなかつかないんですね。で、わき道から「おもしろいことがあるよ」と言われると、そうかいなと思って出られんようになって、どこへ行く途中だったのかわからなくなってしまう。無明と言いますけれどもね、今、自分がどこにおるのやら、どこに向かって行ったらいいのやら、そのことさえもわからない。
 何十年か生きてきて、みなさんは目的地へ近づいているのか、遠ざかっているのか、同じところをぐるぐる回っておるのか、と聞かれた時に、目的地がはっきりしなければ、そのことさえもわからない。行き先がはっきりしとると、間違えても途中でわかる。

 お釈迦さまはその道とは八正道だと教えられています。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。この八つの正しい道が中道ですよということです。

 正見とは、物事を正しく見る。私の都合に引きずられて見るのではなく、ありのままに見るということです。正見が一番基本です。
 これがなかなかできないんですね。我々は私の都合を抜いて見ることはできないですよ。同じ食べ物を見ても、お腹がすいとったらおいしそうに見える。お腹がいっぱいだったらそうでもない。そのように、ものの見方は私の都合でころころ変わります。
 私がこの目で見たんですから間違えるはずがないと思ってしまうけれども、それが間違いなんです。我々は思い込みで見ているんです。あそこは幽霊が出るぞと聞いとったら、干した手ぬぐいが揺れているのが幽霊に見えるんですから。それなのに、知恵のある私がこの目で見たんだから間違いないと思い込むわけです。

 正思惟、正しく考えようということも難しいことです。我々がものを考えるのは私の都合でです。私の都合に合わせてしか解釈ができない。あるいは私の都合に合わなければ疑う。どうしたら得だろうか。どうしたら勝つだろうか。どうしたらよく言われるだろうか。そんなことばかり考える。

 正語、正しい言葉。言葉のやりとりでもそうですね。私たちは関係性の中に生き、私と相手との関係をよくするために言葉があるんです。言葉で傷つき、言葉で救われる。言葉で笑い、言葉で泣く。相手も私もうまくいくような言葉はどういう言葉だろうかということが大切なんですね。でも、私の都合で言葉を使います。

 夫が遅くまで帰ってこん。「私はこれだけ苦労しているのに。今日はあの人に絶対言うぞ」と思ったりします。そんな時には、「この人はいずれ死ぬ人や」と考えたらケンカせずにすみます。お釈迦さまも言っておられます。『法句経』に「我は死すべき者であると、人間はなかなか覚ることができない。もし人がそれを覚るならば、争いはやむ」とあります。
 死ぬ者同士ということがわかったら生かし合うしかないじゃないですか。わざわざ殺さなくたって、殺された人も殺した人もはいずれは死んでいくんですよ。爆弾を落とす兵隊も爆弾で死ぬ人も、どっちもいつか死ぬ人です。私も死ぬ者。あなたも死ぬ者。だったらわざわざ殺すことはいらん。にもかかわらず、そのことが腹に入らないから、毎日事件が起こるわけですよ。死ぬ者と死ぬ者とが争ったり、殺し合ったりする、こんな情けない、悲しい姿はないですね。そういうことがわかっていない。

 正業、業は行いです。「よかれと思ってしたのに」ということがなんぼでもあります。私たちは何かしようとした時に、どうしても「私が」から出られない。「せっかくしてあげたのに」と言うでしょう。これを「のに」攻撃と言います。「あなたのためにと思って私がやってあげたのに」と言うじゃないですか。本音は自分が一番大事なんだけど。
 いいのは「の」です。人が悩みを打ち明けてくれた時に相手が喜んでくれる話の聞き方は、難しいことは何も言わないことです。相手が何か言うたら、それに「の」をつけてお返しする。「今日、腹が立ったんよ」と言われたら、「腹がたったの?」と聞き返すんです。「出がけにお母さんがこう言うた」と言われると、「出がけにお母さんが何か言ったの?」と答えればいい。
 「の」だけつけてお返しすると、言うたほうがだんだん考えるようになるんです。「私もこう言うたんじゃけどね」となって、本人が自分で気づくんです。それなのに、一言聞いただけで「そりゃ、あんたが何か言うたんじゃろう」と言うたら、もうこの人には二度と相談せんということになるわけです。
 まずは一ぺん受け取ってあげる。そうしている間に本人は考えるんです。「お母さんの言うことにも一理あるけど、私の立場も考えてもらわんと」となる。

 「した」というところに喜びがあるんですから、それより先を求めないことです。親切にすることができた。人に席を譲ることができた。食べ物を分けることができた。できたということを喜べるのが大事です。

 正命、命というのは生活です。関係性の中で生きているのだから、自分だけを考えるあり方を考え直してみませんかということです。

 正精進、精進は精一杯進むということです。努力ですね。共々よくなっていくような力の使い方があります。うちのためだったら力を惜しまんけど、人のためならちょっと、ということになりがちです。

 正念、念は心をくばる、関心を持つ。念仏とは仏さまに最大の関心を向けるということです。

 正定、定は心が静かに定まることです。

 「正」のところに「我」が入ってしまうのが私たちではありませんか。我見、我思惟、我語、我業、我命、我精進、我念、我定。「私が、私が」ということが死ぬのが「信に死して」ということです。

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 最近思うんですが、「いつか幸せになりたい」と言ってる人は絶対に幸せになれません。なぜか。そう言う人は幸せのど真ん中にいるのに、身近にある幸せを見ようとせず、どこにあるかわからない幸せばかりを探しているからです。

 オセロの石は片方が黒で、もう片方が白です。幸せと不幸とはオセロの石のように裏返しで、どちらか一方だけと思いがちです。たとえば不幸が黒だとして、不幸な私がいつか幸せの白に変って、一ぺん白になったら死ぬまでずっと白が続くかというと、そういうことは絶対にない。
 完全不幸、完全幸せというものは世の中にないんです。幸せは一瞬一瞬に気づくことができるかどうか、感じることができるかどうか、そういうことの中にあるんだと思うんです。

 食前の言葉は「み光のもと われいま幸いに この浄(きよ)き食を受く いただきます」ですね。ご飯が食べられる、幸せであります、というところに幸せがある。あるいは、「真宗宗歌」の「ふかきみ法(のり)に あいまつる 身の幸(さち)なにに たとうべき」という歌は、たとえようのないほどの幸せをいただきながら生きておるという喜びの歌であります。

 今、アメリカで一番人気のある心理学はポジティブ・サイコロジーと言いまして、幸せになるための心理学が人気があるんです。ハーバード大学では学生が教室に入りきれないので、インターネットで全世界にその授業を公開しているそうです。幸せというものを学問的に解明し、どうすれば幸せになれるかという講義なんです。
 その幸せの定義とは、喜びと意義です。ただうれしいというだけでは幸せに足りないのでありまして、私の人生に意味があるとわかった時に、そして生きる中に喜びが感じられる時が幸せなんだと言うんですね。もうちょっと足すならば、やりたいことがあって、それができておるというのがあれば、さらにいいわけですけれども。

 真宗門徒にとって昔から当たり前の話を今ごろになってやっとるんです。真宗では「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」とずっと言うてきました。私もみなさんも人間に生まれた意義が間違いなくある。そして、私たちの生活の中には、よく見れば喜びが満ちているはずなんです。だけど、私たちは今あるものを見るのが下手くそで、足りんものを探すクセがついとります。できることが山のようにあっても、ちょっとできなくなったことばかりが気になってね。

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 生徒にどういうふうに話したらわかりやすいかなと考えていて、ふっと思いついたたとえなんですけど、四種類の食事があるとします。そのうちどれを食べますか、という話です。

 一番目は、おいしい、けど身体によくない。合成甘味料がいっぱい入っとるとかね。
 二番目は、おいしくない、けど身体にはよい。
 身体にいいか悪いかというのは、未来のことを考えるから気になるんでしょ。今晩死ぬということが間違いない時に、これは身体に悪いから食べるのをやめとこうとはなりません。未来のことを考えるから、身体にいいものを食べておきたい。少々おいしくなくても我慢する。
 三番目は、おいしくないし、身体にもよくない。こんなもの誰が食べるかと思うけれど、飢えていて何も食べるものがない時には、何でもいいからとにかく手を出してしまいます。
 四番目は、おいしくて、身体にもよい。

 この話は私たちの幸せの求め方はどうなのかというたとえなんですね。おいしいかどうかとは、現在気持ちがいいかどうかという問題です。現在の喜びが一番目と四番目にあって、二番目と三番目にはない。身体にいいかどうかは未来です。今こうやっていると将来うまくいく。

 この四種類の食べ物があって、「お好きなものをどうぞ」と言われたら、間違いなく誰もが四番目を選ぶはずです。けれども、私らは一番目ばかりを食べとるんです。文明は今、気持ちがいいことばかりを求めてきたわけです。日本の社会は今さえよければいいという考えで進んできた。未来を考えずに今だけをよくしてきたんです。

 これは宗教の四種類でもあるんです。

 一番目は、今あなたの病気が治りますよ、今幸せになりますよ、今金持ちになれますよ、と誘う宗教です。そうかなあと思って入ると、将来がずたずたになるということがあります。たとえば現世利益の宗教です。

 二番目は、あらゆる欲望を抑えてこつこつやっていると、いつか悟りが開ける、という教えです。これは苦行型とか聖道門型という宗教です。

 三番目は、どうせ世の中ろくなことにはならないんだし、生きとっても大したことはないんだから、早く死んだほうがましだ、あるいは自分が死ぬ時には世の中全部が滅んでしまえばいい、という虚無型、破滅型の宗教です。

 念仏の宗教は四番目です。つまり、未来が確実に約束される。みなさんの中に、如来さまからの救いにもれている人は一人もいないんです。日ごろの行いがよかろうが悪かろうが、そんなことは問わない。どの人もみな摂取される。
 そこがはっきりすると、今現在に意味が出てくるわけです。思い通りにならないこと、つらいことも、すべて私がお浄土へ行く前の生前の修行なんです。浄土往生の修行中ですからね、そんな楽なわけないんですよ。思い通りにならないことから逃げなくていい、ごまかさなくていい、そのことが一つひとつあなたにとって大切なことなんだということですね。

 私が住職になって初めて葬式に行った時、素朴な疑問を持ちました。それは何かというと、「命日」という言葉です。何で亡くなった日のことを命日というのだろうなと思いました。命日というと命の日、誕生日ということです。亡日ならわかりますよ。何で死んだ日のことを命の日と呼ぶんだろう。
 葬式の後、遺族の代表が挨拶されます。その時にこうおっしゃいます。「亡き母の生前中はお世話になりました」。これもおもしろいですね。死ぬ前にお世話になったというのならわかりますが、生前、生まれる前ですからね。
 それを聞いて、そうだったんだと思いました。先ほど「信に死して願に生きよ」、前念命終、後念即生ということを言いました。私たちが死んだと思ったら、生まれとる。どこに。お浄土に。
 私たちの先輩は死ぬという言葉はあまり使わなかった。往生させていただいた日が誕生日です。お浄土の誕生日。その前が生前ですから、今の私たちは生前を生きているわけです。

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 七百五十回御遠忌テーマは「今、いのちがあなたを生きている」です。私が生きておるつもりだったが、そうではなかった。如来さまが私となって生きておってくださっていた。ご本願が私を支えておってくださっていた。主語が私から本願に大転換されるわけです。

 金子大栄先生が七百回御遠忌の時に「宗祖を憶ふ」という親鸞讃歌を作られています。その中に、
「本願を仰いでは身の善悪をかへりみず 念仏に親しんでは自から無碍の一道を知る」
とあります。

 「身の善悪」とは、私の都合のいいように物事が進んでいくことが善、そうならなかったら悪ということです。私はどういう目に遭うんだろうか。長生きするんだろうか。ケガをするんだろうか。いつ病気になるんだろうか。「身の善悪をかへりみず」ですから、そんなことは問題でなくなる。
 大事なことは本願だ。つまり、私の本当の願いは何なのか、ということですね。そのことが明らかになったことを「無碍の一道を知る」と、金子先生はおっしゃっておられます。『歎異抄』7章に「念仏者は無碍の一道なり」とあります。

 「無碍」の「碍」とは障碍、妨げる、邪魔するものです。あれがあるからこれができないというものを碍と言うんです。年をとったからとか、目が薄くなったからとか、私がしたいことを邪魔するもののことです。

 無碍というのは、その邪魔ものがなくなるというふうに思うかもしれませんけれども、そうではありません。今までそのことがあるからできないと思っていたことが、私の智慧を深くしてくださる大事なことであった。これがなければいいのにと思っておった邪魔ものが、私にとって大切なことだった。
 たとえば、年をとって、人のお世話になって、初めて気づかせてもらうことがあるんですね。年をとることが私の邪魔をすることだと思っておったけれども、年をとることで私がどれほどのことを教えてもらい、気づかせてもらい、考えさせてもらうか。私が私になっていくために、年をとることはとても大事なことだった。

 自分の身体一つが思い通りにならない現実を抱えてみて、今まであらゆることが自分の思い通りになれば幸せになると思い込んでおった。それはいかに間違いであったか。そのことでいかに人を傷つけておったか。いかに人にいやな思いをさせておったか。そんなことに気づかせてもらう。
 思い通りにならない経験をして初めて、今までさまざまな言葉に一喜一憂していたけれども、その言葉の後ろにある願いまで聞こえてくるようになった。ということはですね、順風満帆、あらゆることがスイスイといっている人には手に入れることのできない世界があるわけです。

 私たちは「私が」でないと気がすまないんですけども、「私に」「私を」という世界がある。私一人が生きるためにどれだけの支えがあるのか、どれだけの助けがあるのかということですよ。それは外からもあるし、内からもあります。

 今ここにこうしているということは、胃袋が食べたものを返品もせず、一生懸命に消化してくれているからです。みなさんの命は明日もあるとはかぎらないんですよ。それなのに何のために消化しているのですか。みなさんを生かすためです。心臓は身体中に血液を送っている。私の場合、1日に10万回も脈を打っています。1年間で3650万回ですよ。私は55歳ですから、20億回、心臓が脈を打ってくれておるんです。死のうかなあと思っている時でさえ、生きよう生きようと脈を打ってくれてるじゃないですか。

 人間の身体ってよくできてますね。東井義雄先生がのどちんこの話をされていました。気管と食道があって、飲み込む時に間違えるとややこしいことになりますね。空気は肺に行かなあかんのに、これが胃袋に入るとゲップになったりおならになるわけです。食べ物や飲み物は食道を通って胃袋に行くはずなのに、肺へ行ってしまうと誤嚥性肺炎になります。のどの奥でちゃんと仕分けしとるわけです。無意識にちゃんとね。そう考えると、この私を生かすはたらきがどれほどのものかということです。身体中が私が生きることをどれだけ支えているか。
 そして、どれほどの命が私に食べられているか。その食べてきた命と私の身体とは分けられない。このへんが一昨日食べた刺身だというわけにはいかんのです。摂取するとはそういうことです。一ぺん摂取すると分けられない。

 私の命となってくださった命を私は生かすのか殺すのか、大問題です。魚釣りの好きな人が「釣った魚は人間に食べられて初めて成仏するのだから、全部食べてあげなければあかん」と言ったりします。これはある意味、正しいんです。ただし、食べた私が浄土往生させていただいたら、私に食べられたことによってその魚もともに成仏する。食べたこの私が地獄へ行けば、私に食べられたばっかりにその魚は地獄へつき合わないかん。
 どれほどの命をいただいてきたかを考えたら、全部の命を引き連れて私はどこへ行くのかは大問題です。大きな責任ですよ。ものがあふれ、便利になり、そのことに目をとられてしまって、一番中心になる命を粗末にしておるんでないかと思います。

 1981年にマザー・テレサが日本に来られました。マザー・テレサは捨て子の赤ちゃんを育てたり、路上で死にそうになっている人の最期をみとる施設を作り、できるかぎりの治療をし、死んでいく時には手を握って見送られる。寂しく死んでいく、誰からも必要とされないと感じながら死んでいくことぐらい悲しいことはないということで、ずっと実践された方です。
 日本は豊かでお金持ちの国だからどれほどすばらしい国かなと思って、マザー・テレサは日本に来られた。ところが、大変ショックを受けて帰っていかれるわけです。次に来日された時に、「世界に救わなければならない貧しい国が二つある。物質的に貧しいアフリカと、そして世界がこれだけ貧困にあえいでいるのに無関心でいる日本」という話をされました。

 エリクソンという心理学者が「人間は豊かになればなるほど、人の悪いところばかりが目につくようになる」と言っています。貧しい時、苦しい時、お互いが助け合わないと生きていけない時は、いいところに目がいく。ところが、人の手助けを借りなくても生きていけるという錯覚をどこかでしてしまうんですね。

 我々は生かし合い、生かされ合う中でしか生きることができないにもかかわらず、自分さえよければ、自分のうちの中さえうまくいったらいいという思いでいる。ひきこもりと言うけれど、日本中が家族単位でひきこもりですよ。隣の家がどうしようが、うちの家だけはとりあえずうまくいきますように。
 小学生が作った川柳に「ひきこもり したくてもできない 部屋がない」というのがあります。それって根本的な問題です。ひきこもる部屋を用意して、ひきこもりしても困らないようにして、それで「うちの子はひきこもりで困った」と。笑い話じゃないですよ。

 マザー・テレサが一番ショックを受けたのは何かというと、妊娠中絶です。「日本は豊かというけれど、お腹の子を中絶している日本がはたして豊かな国ですか」と言われました。「育てられないんだったら私のところに連れてきなさい。私が育てますから」とおっしゃいました。国連世界女性会議の北京大会でも、妊娠中絶は女性の権利であると採択される時に、マザー・テレサが待ったをかけて、「どうして命を軽んずることを女性自身が決議するんですか」と訴えられました。

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 信心を持って生きるということは大変なことです。浄土真宗には戒律がないと言いますけれども、戒律よりもっと厳しいものがある。親鸞聖人はそれを慚愧と言われます。恥ずかしいと思う気持ちです。

 戒律はこれをしたらいけませんという決まりです。何で決めているのか。人間が弱いからです。いけないことに引きずられるからです。酒を飲んではいけないという戒律が何で必要かというと、飲酒から抜けられなくなるからです。
 シンナーを吸う子で、シンナー中毒になろうと思ってる子は一人もいませんよ。ちょっと試しにやってみるけど、いつでもやめられると思いながらやるんです。だけど、シンナーの恐ろしいところは、脳のやめようと考える部分を壊してしまう。ブレーキがきかなくなってやめれなくなってしまうんです。

 五戒という、仏教徒にとって一番基本的な戒があります。一番目が不殺生です。五殺といって、自殺、他殺、方便殺、歓喜殺、呪殺と五種類あります。

 自殺(じせつ)、自らを殺すということは、毒を飲んで死んだり、腹を切って死ぬだけではないんです。私を殺して人に合わせる生き方も自殺です。そういう生き方を続けていると、何十年か生きてきてふっと振り返った時に、私はどこにいたんだろうか、私は私の人生を生きてきたんだろうかと感じることがあります。

 「いい子」と言われている子供たちはいい子であることで傷ついています。いい子というのは人が期待していることを先に感じて、期待通りにふるまう子のことです。大らかな子が好きな人の前では大らかにふるまう。細やかな神経が好きな人の前では細やかにふるまう。活発な子の好きな人の前では活発に動く。そうしていたら、みんなから「いい子」と言われるんです。
 ところが、そうこうしているうちにくたくたになって、身も心もつぶれてしまう「いい子」はいっぱいおるんです。自分を殺しながら生きている、そういう子はみんな自分のことが嫌いになっていくんです。自分じゃないから。人の喜ぶような演技をし、作って見せて、そうして自分を嫌いになっていく子はいくらでもいるんですよ。

 叱ってはいかん、ほめて育てろと言われてほめるでしょ。ところが、ほめられたことがまたプレッシャーになることもある。気の小さな子がたまたま大らかに見えたんでしょう、みんなの前で「おばちゃんはあなたの大らかなところが大好きなのよ。いつまでも大らかでいてね」と言われる。その子は大らかではないのに、それからは大らかという服が脱げなくなるわけですよ。本当の自分でない自分で生きていかないといけない。それは子供にかぎりません。多かれ少なかれ、そういうところはみんなあるんです。

 逆に我々は、他人を自分で作ったイメージに合わせようとします。あの人はこういう人だというイメージで見とる。私なんかはよく言われます。「真城先生はもっとまじめな方だと思ってましたけど、しゃべる時はちゃらんぽらんなんですね」とか、妻にまで「こんな人とは思わんかった」と言われながら人生を歩んでおるわけであります。
 だけど、これが実物なんですから。勝手にイメージを作って、そのイメージからはずれたからといって文句をつけんでくださいと思う時がありませんか。

 あるいは他殺(たせつ)。他の人が生き生きと生きていこうとするのを水を差す、からかう、バカにする、のけ者にする、無視する、そういうことをしていないですか。不殺生とはそういうことをしないように生きていきましょうということです。

 ゴキブリだって何で殺すの。ゴキブリを叩こうとした時に、ゴキブリが「ちょっと待って。あなたはどうして私を殺すのですか」と聞いてきたら何て答えますか。不潔だから? ゴキブリはちょっと前までは不潔害虫だったんです。だけど、日本でゴキブリが介在する伝染病は一つもないんですよ。日本のゴキブリは今や清潔なゴキブリになったんです。ご飯の上をゴキブリが歩いたって何の心配もありません。じゃあ、ゴキブリを殺すのをやめますか。やっぱり殺すよね。私もそうです。何で殺すの。
 ゴキブリは害虫なんだけれど、分類が変わったんですよ。危険害虫とか農業害虫とかあるんですけど、ゴキブリは不快害虫です。このことは大問題です。つまり、私にとって気持ちの悪いもの、嫌いなものは殺してもいいんだということでしょ。何の害もないんですよ。だけど、知識でわかっておっても、あの色がいや、こそこそ動くところがいや、不快だからというので、害虫として駆除する。

 たとえば、孫がセミを捕ってきたとします。命の大切さを教えようと思って、「逃がしてやりなさい」と言っている横をゴキブリが走ったらどうしますか。孫は思いますよ。「おばあちゃんはセミの命は大切にと言うけれども、ゴキブリの命はなぜ大切にしないんだろうか」と。

 私の都合から出られないんですよ。私たちの都合でものの見方が変わってしまうというところから出られないんですね。この私が少々修行したからといって、どうしたって「私が」というところから抜けることはできない。出られない私であることを知らないといけません。

 どんなに一生懸命やっておっても、その全部は雑行であった。よかれと思ってやってることであっても、「私が」というところから出られませんから、人を傷つけ、自分をも傷つけてしまう。そういう私だということを徹底的に見抜かれた上で、この私がどう救われるかということを如来のほうが用意してくださったんです。

 お前がなんぼ頑張ったって、なんぼ勉強したって、「私が」というところから出られないことは承知の上で、そのお前をこそ救う世界、救うはたらきというものをちゃんと用意し、実行している、安心して頼ってこいよ。そういう世界が真宗の世界であります。
 信心をいただいてみると、そのすべては雑行だったと気づく。そうして、今までの私が壊れて、本願をあおぎながら生きていく、そういう歩みが始まっていく。それが真宗門徒の生活です。
(2008年6月7日に行われました安芸南組仏婦連大会でのお話をまとめたものです)