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悩みごとからの入信
新興宗教に熱心な人は何でもないことにも取り越し苦労する人が多いように思います。こうでなければならないという思い込みが強く、何か問題が生じると悪い方に考え、原因は何だろうか、何とか解決しなければと悩みます。真面目すぎるのかもしれません。
もちろん誰でも天災、病気、事故など突然の災難にあった時、何でこんな目に遭うんだろうかと嘆きます。私たちはいわれない苦悩を考えることはできません。なぜそんなことになったのか、その原因、理由を知ることで納得しようとします。苦悩の原因が発見されないかぎり不安や怒りは治まりません。名前がよくないとかエーテルがどうのといった馬鹿げたことが原因だと言われても、わからないよりましですから、つい信じてしまうのでしょう。
そして第三者から見てあまりにも安易でお手軽な解決法に飛びつきます。たとえば、健康食品を常用すれば病気にならない、お守りを一日中つけていれば災いを避けることができる、吉相のハンコを買えば運命が好転する、など。
このように新興宗教はすべての問題の原因と解決法を教えてくれるのです。たとえば、恵まれた人とそうでない人がいるのはなぜか、なぜ人間は平等ではないのか、という問には、それは前世の業(カルマ)による、だから功徳を積むことで業を清めなさい、というように、答と改善策がきちんと与えられます(これはオウム真理教の答ですが、もちろんこの答が正しいかどうかは別です。不幸の原因は先祖の因縁か前世での悪業の結果だと思っている人は結構多いんじゃないでしょうか。真宗ではこういうことは言いません)。
新興宗教が教えてくれる問題の原因は単純でわかりやすく、解決法は安易で簡単そうなものです。また我々はその解決法として自分が元々考えていた方向、願っていた方向での解決法を無意識に選んでしまいます。
たとえば、子供が難病にかかっているとします。この病気は現在の医学では治すことができないから、病気が治ることはあきらめる、というのも一つの解決です。しかしその事実を認めたら、今度は子供の死をどう受け入れるかという問題が生じます。それでは苦悩が続きます。それよりも、こうしたらあなたの子供の病気は治りますよ、と言ってもらいたいのです(たとえば、悪竜のたたりだから降伏すれば大丈夫)。それならばすぐに飛びつくでしょう。その言葉が正しいと思うからというよりも、本当であってほしいから正しいと思い込むのです。おかしいと思っても、ひょっとしたらと賭けてみたくなります。人間の弱さであり、迷いです。
しかしこうした話がいかに魅力的であろうと、あるいはどれほど慰めになろうとも、それが真実であるかどうかということとは全く別の問題です。こんなことで長年わずらった病気が簡単に治れば誰も苦労はしません。あくまでも夢を与えているだけなのですが、現実の厳しさよりも、とりあえずは夢の方がいいので、そんな話を信じます。しかし真の解決ではありませんから、問題は解決されずに残ったままです。
問題が解決しない時の常套句(言い訳)は、
①もっとひどくなっていたはずだが、この程度ですんでいるんだ。
②信心や行が足りない(つまりお金をもっとよこせということ)。
③(霊などが)手ごわいのでどうしても時間がかかる。ここでやめたら今までしてきたことがみんな無駄になるし、もっとひどくなる。
あるいはどっちに転んでもいいような論理を使います。ある新興宗教(手かざしで病気が治ると言っている宗教です)では、
・妊婦が手かざしを受けて安産なら「お浄めのおかげ」
・流産なら「災いをもたらすような子なので、神様の愛で流産させた」
・手かざしを受けずに流産したら「その家の家系を絶やそうとする霊の仕業」
と言うそうです。
こんな具合にまるめこまれると、最初はちょっと試してみるだけと思っていても、いつの間にかずるずると底なし沼にはまりこんでしまい、抜け出ることが難しくなります。楽しい夢がいつの間にか悪夢になってしまうのです。
健康食品や民間療法をいくら試みて効果がなくても、なかなか止められないのもこうしたことのためでしょう。自分は騙されている、間違っていると気づき認めることは難しいものです。 |
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