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三善 導行さん 「ある教師の挫折 ―新たな出発―」 |
2003年3月29日
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はじめまして。三善導行と申します。小学校の教師をしております。私が教員として十何年間かやってきた中で、私自身の転機になったことを、今日はお話ししようと思っています。私自身が体験し、自分自身が変わるきっかけとなったことを、少しでもお伝えできたらなと思っています。
先ほど皆さんのお話を聞いて、それぞれの方が抱えている悩みや問題というのは、それぞれの方の大切な部分だなと思ったんですが、根っこがみんなつながっているような感じもしたんです。私のつたない体験の中に、皆さんの問題と関連したことが出てくるかもしれません。
けれども、なんか処方箋みたいな話を聞いたら、人生がすぐに変わるということは、まずないと思うんですよ。悩みながらその問題をしっかり見て、そしてどうしていくかということを自分で考えていかなければ、何の解決にもならないと思います。私の話がそのための何かのきっかけになればということで、話を聞いていただけたらと思います。そして、一般論ではなくて、あくまでも私の経験だということを念頭に置いていただきたいと思います。
私が最初に教壇に立ったのは十八年前のことです。初任地は過疎地の小学校で、最初の教え子は四人、全校で五十人たらずの小さな学校だったんです。すごく自然の豊かなところで、問題行動的なものもないし、子どもたちも純朴だったです。『二十四の瞳』のような学校生活の中で、私もゆったりとした時間を過ごしながら、アットホームな雰囲気の中で、教師としての第一歩を踏み出すことができました。
三年後に都会の小学校に転勤になったんです。今まで四人とか八人、せいぜい多くて十人ぐらいの子どもしか見ていなかったんですけど、今度は四十人以上のクラスを受け持って、それなりに苦労はありました。ただ、その学校では子どもたちに恵まれたし、いい先輩にも恵まれたということがあって、いろいろ教わりながら教員生活を続けていくことができました。その小学校には通算で十年間在勤し、卒業生を三回出しました。
順風満帆の教師生活とは言えないまでも、自分なりに一生懸命仕事を覚え、何となく自分で納得できるような形で、一人前になってきたかなあ、教員という仕事ができるようになってきたかなあという、そういう時代でしたね。有頂天という言葉がありますが、まさにその当時の自分は、有頂天だったと思います。子どもたちからは慕われ、学校でも中堅として研究などを任されるようになり、研究発表を行ったり、学校の改革を進めるようなことを発言したりしてました。三十五歳ごろで、若さもあるし、やる気があったんで、多少強引にやってきたということもありました。
学校には転勤規定というのがあって、いろんな地区を回らなければいけないわけです。それで三回目の移動があり、ある市の学校に転勤になったんです。希望した地域ではなかったということもあり、多少の不安もあったんですけど、まあ、何とかなるだろうぐらいの軽い気持ちで転勤しました。しかし、夢と希望をもって新しい学校で活躍するはずだった自分に待ち構えていたのは、大きな試練だったわけです。
赴任先の校長先生からは、赴任前にどの学年を担当するかという話がなぜかなかったんです。おおよそ年度末には内示があるものなんですけど、その話がないので、どうしたんだろう、おかしいなとは思ってました。
その学校に赴任すると、いきなり校長室によばれて、「四年生をお願いします。しかし、実は」という話になったわけです。「実は、先生が受け持つクラスは、昨年度に担任された先生が途中でお休みされ、今回の異動で転勤されました」と。理由をなかなか言ってくれないんです。「どうしたんですか。何かあったんですか」と尋ねると、また「実は」という話なんです。「クラスが荒れて」、今は学級崩壊という言葉は使わないんですが、いわゆる崩壊状態というか、先生の言うことを聞かなくて授業にならない状態であると。校内では希望者がいないと。そして「先生はお若いし、実力もあると聞いていますから、ぜひ子どもたちのためにお願いします」ということを言われたんです。
何となく不安に思っていたことが当たったという実感はあったんですけど、この時も、「よし、これはチャンスかもしれない。自分が何とかしてやろう」、そんな甘い考えで受け持つことになったわけです。
多少覚悟しなければいけないかなとは思っていたんですけれど、実際には思っていた以上に複雑でした。初日、始業式がありますよね。何年何組誰々先生と言われて、教室へ帰ります。そして黒板に担任の名前を書くじゃないですか。私の名前を書いていたら、後ろから黒板消しがバーンととんできたんですよ。いきなりバーンと。何ごとかなと思ったんです。何があったんだろうという感じだったですね。そしたら、一番前に座ってた男の子が、「てめえ、殺してやる」といきなり始まったわけです。ああ、これなのかなと思ってたら、窓際で寝ている子がいるとか、机をけとばして「帰る」と言う子がいたり。なんでこんな状態になったのか全然わからないんですよ。なぜこうなっているのかがね。どうしてこうなのと。
大体普通は、初日というのはどんな先生が来るのかなと、みんな楽しみにしています。期待感を持ってね。ところがそういう状態でしょう。これは一体なんだろうと。その時はショックというよりも、驚き、どうしたのかなあというぐらいの感じだったんです。これが聞いてたことなのかなあ、ということぐらいだったんですけど、日が経つにつれて、何とかなるという考えが甘かったなと。現実を甘く見ていた自分に焦りが出てきました。授業が進められない状況が日に何度も起こったんです。
多動性障害という障害を持ったお子さんや家庭に問題がある子どもとかが何人かいて、そのせいかと納得した部分もあったんですけれど、それだけじゃないんですね。暴れる子は暴れる。では、暴れない子は不満がないかといえば、そうじゃない。授業をちゃんと受けたくても受けられないとか、楽しいクラスにしたいのにできないとか、そういういろんなごちゃごちゃが子どもたちの要求の中にあって、それを聞いてもらいたいと、子どもが私のところに来るわけです。でも、答えようがない。あちらを立てればこちらが立たずといった子どもたちの反応に、次第に追い詰められ、こっちはだんだんおかしくなってきたわけです。
一月ぐらい経ったら、なんて言いますかね、一生懸命やればやるほど、何とかしようと思えば思うほど、何もできず、しかし今まではできたはずで、前の学校ではすごく子どもたちに慕われていたし、ある意味でヒーローだった自分が、いきなり奈落の底にガーンと落とされた感じで、やることなすことうまくいかない。
そういう状態が何日も続いて、私もうつ病のようになりました。何にも手がつけられない状態といいますかね。まわりの人に助けてもらいたいんだけど、まわりの人もどうやって助けていいかわからない状態になっていまして、学校の中で孤独感を持つようになったんです。
六月半ばまでそういう状態が続きました。夜は寝られず、毎日、我が子の顔を見ては泣いていました。何とかしなきゃと思う気持ちと、どうにもならないという現実。夕方になると気分が悪くなってくるんですよ。朝が来るのが怖いような。寝てても、クラスの子どもたちが夢の中に出てくるんです。ハッとして起きるんですが、それから寝られない。
ある時、遠足の下見に行ったんです。同じ学年の先生が何人かいて、最近おかしいという話をしたら、しっかりしなさいよなんて言われたりしました。で、帰りに一人になってホームに立っていたら、電車が近づいてきて、身体が自然にすうっと電車に向かっていくんですよ。楽になれるという意識が先に立ったんですね。僕がそこでぽーんと飛び込まなかったのは、怖かったんでしょうね。死に対する恐怖心を頭の片隅に持っていたと思うんです。
最近、東京ですごく多いんですよ。そういう人身事故で電車が止まるというのが。中央線なんか、月に何回も止まりますからね。
その時はそこで踏みとどまったんですが、やっぱりしばらくすると、同じような状態が続きました。誰かに話したら何とかなるという問題じゃないんです。誰かが聞いてくれたらという気持になれないわけです。話しても、それが悪循環の中に入ってしまい、自分が受け入れられなくなる。で、頑張らなきゃいけないと思って、それで余計に悪くなってしまう。とにかく、どこから切り口を見つけてクラスの状態を変えたらいいのかということばっかり考えてました。
ナイフなんか置いていると振りまわしますから、教室には何も置けない状態。でっかいカゴ買ってきて、荷物はその中に全部入れて持って歩いていました。チョークからはさみ、道具など、みんな持ち歩いているという状態だったんです。子ども同士でケガをさせてはいけないというのがあったんですね。それはすごく思ってました。
そのころは、そういう状態になっているのを自分のせいにはしなかったですね。こうなったのは子どもが悪いからだとか、まわりの先生が助けてくれないとか、とにかく人のせいにする。そもそも自分がここに配属されたこと自体が問題だ、なんでこの学校に来たのかとかね。そういういろんな理由を考えて、自分を納得させようとしてました。とにかく人のせいにして、自分をなぐさめ、責任転嫁することで、バランスを保とうというところまで追い込まれていたんです。
こう言ってはいけないんですが、あの当時はとにかく子どもたちを早く家に帰すことしか考えていなかったですね。何か起きる前に早く子どもを家に帰したいと。教員としてはすごく恥ずかしいことですけれど、そういうことしか考えられない時期でした。
そのころ、浄土真宗の本を読んでいました。救いを求めるというか、自分を救ってくれるもの、そういうものを探していたんです。それは浄土真宗の救いじゃないんですが、すがりたいとか、光を与えてくださいみたいな、なんか希望の道筋になるものはないかと思って、そういう本を探してはいろいろ読んだんですよ。お経の本とかもね。よくわからなかったですが。
そんなつらい日々の中で私が出会ったのが、『歎異抄』の親鸞さんの言葉でした。私がそこまで追いつめられた、本当は私自身が自分を追い詰めていたんですが、そういう状況の中で、真っ暗闇の中に光がさすとでもいいますか、そのきっかけとなった言葉が『歎異抄』の次の言葉です。
「聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」
聖道の慈悲とは自分の力を頼みにして、他人を助けようと努力することです。自分の力でなんとかしよう、子どもたちを助けてやろうということは、人間にはできないんだと。困っている子ども、三十人いたら三十人を全部助けてやろうなんていうことはできないんだと。そう親鸞聖人は言っていると書いてあったんです。
これはどういうことなんだろうか、親鸞聖人は何を言ってるんだろうかと、最初は疑問だったんです。その意味がわからなかったから。そんなことはないだろうと。ところが、たまたまこんなことがありました。
そういう状態ですから、子どもたちとあんまり接点がないわけです。だけど、子どもたちが気になるんです。何かしてないかなあと。で、いつも校庭を見まわっていたんです。
そんなある日、僕の前にボールが転がってきたんですよ。男の子たちがサッカーボールで遊んでたんです。ボールを取ってくれと言ってましたから、ガーンと蹴ったんです。腹いせで蹴ったというのもあるんですけど。たまたまそのボールが子どもたちを超えて、遠くへとんだんですね。そしたら、その子たちが「すげえ」と言ったんです。あんまり僕を認めようという子どもたちではなかったんですけど、その時だけは「すげえなあ」と言ったんです。その一言に気をよくして、「じゃ、キーパーやるから蹴ってみな」と言ったら、「捕れるのかよ」とのってくるわけです。やってやろうじゃないかみたいな感じでね。それで何発かシュートしてきて、止めたり、二、三発入れられたりしましたが、そういうやりとりをしているうちに、今までの反応と違うぞみたいなのが、何となく子どもたちに感じられたらしいんですね。
それからですよ、本当に。それまで子どもたちと遊んだりしたことないし、早く帰そうと思ってたくらいですから、遊ぼうとも思わなかったんです。
このことだけじゃないと思うんですが、サッカーのことが六月にあってから、少しずつ私のまわりに近づく子供が増え、私に話をしてくれるようになってきたんです。こういう、ものが言える、通じる関係になったというのが変化の兆しでした。私もできるだけ子どもと一緒に遊んだり、声をかけたりするようにしました。以前のように、教師と生徒という杓子定規な関係でつき合うのではなく、遊びなどを通じて自然につき合えるようにしたんです。
その時に、さっきの『歎異抄』の言葉を思い出して、ああ、これなのかなと。自分はなんとかしよう、なんとかしよう、とにかく頑張らなきゃと思っていたから、肩に力が入っているわけです。そう思っていても、思いどおりにならなかったら、怒鳴るか、自分がしゅんとなってしまうかのどっちかなんです。私の言ってることが子どもに伝わらない。思いどおりにしたいと思ってるんだけど、思いどおりにはならない。しまいには黒板消しがとんだり、椅子がとんできたりして、こっちもカッとなってしまうわけです。するとそれが逆回転する。悪循環です。それか、無視されて、知らん顔になってというような状態しかなかったんですけど、そのことをきっかけにして、子どもたちと話ができるようになりました。
自分の都合で子どもたちを見ていたわがままな私から、子どもたちが何を求めているのか、何を感じているのかを、あるがままに受け止める自分に変わろうと思うようになったんです。
子どもたち自身も何かを求めているんですよね。障害を持っているとか、いろんな家庭状況があるという現実はあるんですが、それとは別に、日々の生活の中で、子どもたちは何かを求めているんです。そのことに気づいて、ここからスタートするしかないと、はっきり腹をくくるというか、私自身が子どもたちの受け止め方を変えなければ、何も変わらないと思うようになったわけです。
自分可愛さというのは誰でもあると思うんですよ。なんで自分だけがこんな目に遭わなきゃいけないのかとか、なんでこんなふうにならなきゃいけないのかとかあります。だけどそうじゃなくて、あるがままにそのものを受け止めていく覚悟ができた時に、それまでとは違う道が開かれていくんじゃないかなあということを、その時に感じました。
だからといって、クラスがすぐによくなったということではないんです。同じような状況が相変わらず続きました。けれども、少しずつ子どもたちとの距離に違いが出てきました。私自身が見方や受け止め方を変えることで、子どもたちを少しでも見直していこうと思うようになったことによって、子どもたちも少しずつ変わっていったんじゃないかなと思います。
卒業式の後に、段ボールをけとばしたりしてた子が、「先生ありがとうございました」と、面と向かっては言わなかったですが、遠くの方から「ありがとうございました」と言ってくれたんですよ。すぐにだあーっと逃げましたけどね。その子がやんちゃ坊主でダメな子だと見放して、あいつのせいで俺はこうなったと思っていたら、たぶん「ありがとう」なんて言わなかったと思います。あの一年間は自分にとっては転機だったなと思います。
先日、民間企業から小学校の校長先生になられた方が自殺されました。今、学校教育の現場では、民間の力を教育界に導入しようという動きが盛んにあります。教育の場に企業の競争原理を取り入れて、活性化させようということなんでしょうね。厳しさや効率化も必要ではあると思いますが、民間の企業からいきなり小学校のトップに抜擢された背景にはどんな意図があったのか。また、自殺という事態にまで追い詰めてしまったのは何だったのか。
遺書には「能力のない者が校長になり、たくさんの方に迷惑をかけた」とあったそうです。一体、能力って何なのかなあと、私は思ったんですね。そして、能力がないということは死ぬほどのことなのかなあ、能力で人を育てるということはどういうことなのかなあと思いました。答えは私には出せませんけど、自分の経験と照らし合わせた時に、私には他人事のようには思えませんでしたし、どの先生にも起こりうることだと思います。
この校長先生もたぶん一生懸命だったと思うんですね。それこそ死にものぐるいでやられたと思うんですけれど、あるがままに受け止めるということができず、最後こういう形を選んでしまったのかなあということは思います。
どういうふうに子どもたちを受け止めていくか。ただ迎合するとか、子どもの言いなりになるとか、そういうことと違いますよ。そういうことではなくて、どう受け止めて、どう子どもに返してやるかということが問われている時代なのかなということを、自分の経験から思います。
最近感じているのは、荒れとはまた違う面での、今の子どもたちが抱えている悩みです。いわゆる校内暴力だとか、いじめだとかいったことも続いてはいますが、一時期の、いわゆる荒れてた時期の荒れと、今の子どもたちの荒れとはちょっと質が違うなと見ているんです。
つい先日卒業した六年生が、私に詩を書いてくれました。最後のプレゼントだと言って、詩を書いてくれたんです。
先生のつらいこと
先生の仕事でつらいこと
それは生徒の心が分かってしまうことです
人の心が分かるというのは
いいことではありません
むしろ 知ってはいけないことなのかもしれない
授業中 生徒の思いが先生の心につきささります
先生ってつらい
受け止めようってことになって、子どもたちの心を察しよう、察しようとすると、逆にこっちはグサグサくるわけです。
こないだ卒業した六年生は受験する子が多かったんです。中学受験というのは半端じゃない勉強のさせ方というか、そういうところがあるみたいです。受験の時期になると、すごく心がすさんでくるんですね。高校受験と違って、みんなが受けるというものじゃないので、親御さんも一緒になって受験を成功させようというふうになってくるし。それで自分の思いと現実のギャップにすごくやりきれなくなる時期があるんです。
今までだったら、それをストレートに表に出していたんですが、今はそうじゃなくて、逆に内へ秘めてしまうんです。家ではすごく真面目で、受験勉強も一生懸命にやって、完璧な子どもを演出してるんだけど、学校は一息抜く場所みたいなところが、子どもたちにはあります。
できるだけ自分のやりたくないことはやらないというようになってきて、静かなんですよ、授業中が。普通だと、子どもがわあーと騒ぐじゃないですか。しーんとしてるんですよ。先生としてはこれも結構つらいですよ。暴れられるのも困りますけどもね。授業は成立してるんです、一応。教科書開いて勉強してるんですけど、しーんとしてるんです。「意見ありませんか」、しーん。これも怖いですよ。いじめてやろうとか何とか思ってるわけじゃないんだけど、そういう雰囲気なんです。
荒れたクラスを担任していた時、ある先輩の先生に、「目に見える形で出ているからまだいいんだよ」と言われたことがあります。一見まとまっているようなクラスでも、子どもたちは学校から帰ったとたんに全然違う生活になっている場合もある。だから学校でああやって出ている方がまだいい。そう言う先生もいるんですね。それは程度の問題だと思いますけど。
子どもたち自身もストレスをためています。夜遅くまで勉強して、学校に来ると疲れているんですね。塾じゃ先へどんどん進んでいますから、学校の授業もわかりきってるんです。なるべく休憩したいとか、休みたいとか、そういう意識になってくるのかと思います。
中には、引きこもる子もいれば、拒食症の子もいるんですけど、理由がわからない。今までだったら原因と結果がはっきりしてて、これこれだからこうなったというのが決めつけやすかったんです。しかし、最近はそうじゃなくて、何が原因かわからない。どうしてそうなったかわからないのに、子どもが何か変だな、となるんです。原因がないわけじゃないですよ。必ずどこかにあるんだけど、一つの原因がすぐ結果に結びついているということじゃなくて、いろんな要因が混在しているというか、すごくとらえどころが難しいんです。
お母さんからは、誰々さんからいじめられてるんじゃないですか、と具体的にくることがあります。それが事実だとしても、それが引き金になっているかというと、全然違っていたりということもあります。すごくとらえどころがないということで、我々の方も考えなきゃいけないと思ってます。
河合隼雄さんと柳田邦男さんとの対談集『心の深みへ』(講談社)にこんなことが書かれています。
「若者の直面している悩みが、非常に深くなっているという感じがします。簡単なことで言えば、いっぺん腹いっぱい食いたいなんて、それだけでも生きがいを感じたんです。ところが、いまの子どもはそんなの全部もらっています。極端に言うと、それぞれの青年はお釈迦さまとおんなじレベルぐらいで悩まされている。だからものすごく大変です。」
昔は独り立ちの基準が、働いて、仕事をして、飯が食えるようになることだったわけです。でも、今、飯が食えない子どもなんていないですよ。今の子どもたちには、飯が食えるようになったら一人前だと認められるという世界がなくなった。
以前、教育相談の研修会でカウンセラーの方に来ていただいたことがあるんです。その時に、「給食を残す子が多い。残すだけなら許すけど、まずいと言って残す」という話が出ました。実際、ふざけるなと言いたくなりますよ。私たちの世代でも食べるものがないということはなかったですけど、それにしても、そういうことをしたら親からガツンとやられたじゃないですか。「今の子どもたちは給食を食べ残すだけじゃなくて、まずいから食べないんですよ」という話が出て、私は「もったいないという気持ちが育っていないからではないですか」と意見を述べたんです。すると、そのカウンセラーの方にきっぱりと、「今の子どもたちにはもったいないなんて感覚はありません」と言われて、がっかりしたことがあります。
その時は、何を言ってるんだと思って、「うちのおやじはお米の粒には仏様が三人いらっしゃる、一粒も残すなと言ってました。そのことをちゃんと伝えていかなければいけないんです」と強く言って、半分口げんかのように反論しました。しかし、私の子も含めて子どもたちの様子をよく見てみると、確かにそういう面があるなと感じますね。
今の子どもたちには食べられないということがないんです。毎日、お腹一杯食べている。そういう子どもたちは、不充足感というんですか、もったいないという感覚がない。腹一杯食べられて、好きなものを買ってもらって、自由気ままにできて、幸せかというと、はっきり言って、全然幸せじゃないんです。
河合さんは、今の子どもたちの悩みはお釈迦さまと同じ悩みだと言われます。お釈迦さまは王子です。何不自由なく暮らして、好きなことやっていたわけですが、人の生きざまを見て、結局はすべてを捨てて出家し、そして覚りを開かれて仏陀になったんです。そのお釈迦さまと同じ悩みを今の子どもたちは持っていると。
物質的なものはすべてそろっている。家に帰ればご飯が食べられる。時間があればゲームができる。漫画が読める。何でも一切できる。じゃあ、幸せかというと、そうじゃない。満ち足りていると感じるのは、まさに我々大人の感覚であって、満ち足りていても、幸せであるとは限りません。
「今の若い者は」とよく言いますけど、若い者は若い者なりに悩んでいるんですね。どんな人にも若い時代があるわけですから。その悩みは昔の人よりも今の子どもたちの方が深いと、河合さんは言うわけです。刹那的に生きている子どもたちの日常の中で、確たる生きる力になるものが何なのかがはっきりしない。お釈迦さまの悩みと同じような悩みを抱えている。そう河合さんは言われます。うちの息子なんか悩んでいるようには見えないんですけどね。
中学受験をした女の子ですが、受験勉強に追い詰められていたんでしょうか、星座について次のような詩を書きました。
窓の外の星を見ている自分がいる
そして、あの星にあこがれている
もう一人の自分がいる
この子なんかは僕にものすごく反抗的で、絶対に口をきかない子だったんですよ。だけど詩を書いてごらんと話したら、こういう詩を書いてくれたんです。星を見ている自分と、星の美しさに感動しているもう一人の自分というのがあって、それが彼女としては自分が本当になりたい自分なのかなあと、私は感じました。
自分を出したいという気持はどの子にもあって、だけど、現実というものがあるじゃないですか。そうしてはいけない、そんな甘いことを言っては受験戦争に勝ち抜けないとかね。子どもたちもすごく葛藤しているわけですよ。
どんな子でもそういう気持は持っています。それを見抜いてやれるか、受け止めてやれるか。あるいは、あいつは悪いやつだからと投げ出すか。その違いであって、詩とか書かせると、子どもたちはすごく素直に自分を出すんですね。その子のどこを見てやるかということが大切じゃないでしょうか。私のサイドですべてを見ようとすると、「この子は俺のことを嫌っている」としか映らないんです。そうじゃなくて、この子も悩んでいるんだと気づいたら、受け止めることができるようになれるのかなと思います。
この詩を書いた子、すごく真面目な子なんです。
ああ、早く家に帰りたい
ビデオ見たい
漫画読みたい
ああ、もうすぐ卒業だ
中学大変そうだな
ああ、なんかいいことないかな
ああ、がんばんないと
最後は「ああ、がんばんないと」なんですよ。その子は漫画読みたいとか何とか言ってるんだけど、でも頭の片隅には中学に行って頑張らなきゃという意識があるんですね。これを、すごくふざけたやつだと思うか、この子なりにすごく悩みながら一生懸命やろうとしてるのかと受けとるかの違いで、子どもって全然違ってくるなあと思います。
最近、子どもたちが口癖のように言ってるのが、「ビミョー」とか「ウザイ」とか「カッタルイ」です。気になるのが「死ね」とか「殺す」とかですね。そんな言葉がすぐ出てきます。子どもたちが自分自身の気持ちを言葉でうまく表現できないでいるということをすごく感じています。
神戸の連続殺傷事件の犯人だった子どもが、「僕は透明な存在だ」と書いていましたけど、子どもが自分の色づけがうまくできなくて、透明な存在として、本当は透明じゃないんですけど、自分を表現できないでいるということを、こっちがうまく受け止めてあげないといけないと僕は思ってます。
荒れという経験は、私自身の生き方を見つめ直すきっかけになりました。だからといって、私自身の問題がすべて解決したかというと、もちろんそうじゃありません。自分自身の姿勢を問い直す歩みが始まったということだと思います。しかし、教師として子どもたちのあるがままを受け止め、自分自身の姿勢を問い続けられるようになったかというと、なかなかそうはいかないんですね。相変わらず、くり返しくり返し失敗しながら、誰それが何して、こうなったから云々と、他人のせいにして愚痴を言う自分がいるわけです。
自分自身を問い直す歩みは試行錯誤の連続で、これで終わりということはないんでしょうね。けれど、あの時のことを思い出しては、また自分の有り様を考える、そんな積み重ねが、子どもたちと共に歩むにはどうしたらいいのかということを考えることにつながっているように思います。
私が生死ということを考える大きなきっかけとなったのは、二人の死に出会ったことです。それはとなりのクラスのお子さんと、従兄弟の死です。
となりのクラスのお子さんは交通事故に遭って、何とか一命はとりとめたものの、二年後に体調を崩して亡くなりました。卒業式の二週間前だったんです。仮通夜の時に、自分の目の前にその子が寝ていて、当然悲しいということはあるんですけど、何でこういうことが起きてしまったのかということが受け止められませんでした。信じられないというかね。無常という言葉では片づけたくない、何て言うか、何でこの子がこういう形にならなきゃいけないのかと感じたんです。安らかに眠ったように見える彼女は、もう二度と立ち上がらない。あんなにひどい事故に遭っても死ななかった彼女が、ちょっとしたことで逝ってしまった。その死を受け入れることがどうしてもできませんでした。ましてお母さんだったら、そういう気持ちにはなかなかなれないと思います。
しかし、時間が経つにつれて、その子は短い一生だったけれど、交通事故に遭ってもまた元気になって、そして亡くなるまでの間、可能性を持って一生懸命生きてきたんだなということはすごく感じたし、それを我々に教えてくれたんじゃないかなということを感じました。瞬間を精一杯生きることの大切さと、誰にでもいつか来る死というものの無常さを、私たちに身をもって示してくれたと、今深く感じています。私はその子の死を無駄にしないという意味で、死ということを受け止めることの大切さをすごく感じます。
もう一人は、私の従兄弟です。去年の今ごろ、肺ガンのために四十九歳で逝ってしまいました。半年ぐらい前に具合が悪いということがわかって、何回かは話をする機会もあったんですけど、離れていて会うこともできず、結局は遺体にしか会えなかったんです。
すごくつらい顔しているんだろうなと思ってたんです。でも、すごく安らかな顔してるんですよ。火葬場で、「これで終わりです」とガチャンと閉めた時に、「ああ、これで終わりだな」というふうには思わなかったですね。「はい、おしまい」みたいなことではなくて、一人の人間が生ききった、人生としては短いですが、生ききった尊厳さというか、形としては残らないんだけれど、その意思とか気持というものは残された我々に何か呼びかけているような、これで終わりじゃなくて、言葉では表現できないですが、何か残されたものがあるなあと感じました。
その人の死が、残された者がどう生きていくかということに生かされなかったら、無駄になってしまうのかなと思う時があります。それで私は、ものを教えるということだけじゃなくて、そういったいろんな話を伝えていくことも、子どもたちには大切なんじゃないかなあと思っています。お寺さんと関係があって、お話をうかがう機会も増えたんですけど、そのことも子どもたちにわかる範囲で話してます。
僕がそういう話を始めると、子どもたちもしーんとなってしまうんですけど、でも子どもなりにわかるんですよ。子どもだからわからないと決めつけるんじゃなくて、わかろうが、わかるまいが、話していくことが大事なんです。常に子どもたちにそういう投げかけをしていくべきだと思います。
「どうだろう。今、お前たちは給食を食べてるけど、地球の裏側では鉄砲玉に当たって死んでる子どももいるんだよ」といった話をしながら、生きていくということはどういう意味があるのか、死というものはどういうことなんだろうかということを、いろんな話を交えながら子どもたちに伝えていこうと、常に考えるようになりましたね。子どもたちはお坊さんの説教みたいだねって言うんですけど。
心の教育が叫ばれていますが、教科書を読んで、道徳だ、挨拶をちゃんとしなさいって言って、鋳型にはめ込もうとしても、受け入れられない部分があります。今の子どもたちはすごく多様な価値観を持ってますから、そんなこと言ったって、「あのおじさんしないよ」って言われたら、伝わらないじゃないですか。
そんな杓子定規なことでなくて、「実際にこういうことがあったよ。みんなどう思う。先生はその時こう思ったよ」というふうに、伝えるというよりも話しかけて、お互いにキャッチボールすることで、子どもたちも自然とそういうものに目を向けていくようになっていく。それが僕の役目なのかなあってことを最近感じています。だからといって、算数や国語が適当でいいというわけにもいきませんけどね。
生きていく上で、何か人間的なつながりというものが大切なんだということを感じています。ですから、こういう集まりがあるということがすごく大切なことだと思うんですよ。この会が存在していることがお互いの支え合いにもなるし。いろんな意見があっていいと思うんですよ。みんな違っていても。そして、話を聞いたら、それを自分だけのものにするんじゃなくて、自分なりに解釈して人に伝えていくことも大事かなと。
そういうことで、いろいろ考えてやってきました。こんなえらそうなこと言いながらも、私は結構いい加減なところがあるんです。それはいろんなものがミックスされているのが私ですから、こうしようと思ってできなくてもいいし、こうしなければいけないということもないし、その通りになることがすべてじゃないと思います。自分とはいったい何者なのかを、自分自身で見つけて、自分自身で受け止め、生きていくしかないんじゃないかなと思ってます。
子どもたちに支えられて自分が成長していくということが、私としては学校の教師をしていて、すごくありがたいなと思っています。子どもたちに教わることの方が多いんじゃないかなあ。それを次の子どもたちに伝えていくということが、僕らの大事な仕事だと思うので、そんなことでやっています。
もっとためになる、まとまった話をすればよかったんでしょうが、つまらない話で申し訳ございませんでした。貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。
(2003年3月29日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです) |
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