真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

 中井 洋介さん
    
「重度障害者として地域の中で生きるということ」
                               

 2008年6月28日

  1、筋ジストロフィーとは

 呉市安浦町で暮らしている中井洋介といいます。26歳です。筋ジストロフィーという障害です。手足が動かせないため、日常の生活には身のまわりの介助が必要です。電動車椅子に乗り、数年前から人工呼吸器を使用しています。指が動かせるので、パソコンをしたり、車椅子を動かしたりできます。パソコンを使って「ちらくれん」の機関紙を編集しています。

 「ちらくれん」とは「芸南地域を楽しむ連絡協議会」の略称で、障害を持つ子どもの親や学校の教員、障害を持つ大人が集り、「障害がある人もそうでない人も地域の中で楽に暮していきたい」という気持ちから発足された会です。

 21歳の時にアパートを借りて自立生活を始め、今年で6年目を迎えました。自立生活を始めたきっかけについてお話しさせてもらおうと思うのですが、その前に筋ジストロフィーという病気について説明します。

 僕の障害は筋ジストロフィーといって、筋肉が壊れる病気です。普通、筋肉は壊れても再生して元に戻ろうとするのですが、壊れるスピードが速いので再生が追いつかず、病気が進行します。病気が進行すると手や足が動かせなくなり、そのうち歩けなくなって車椅子での生活になります。身体の内部にも影響があって、心臓が弱ってきたり、呼吸する力が衰えて、僕のように人工呼吸器を使う人もいます。
 筋ジスには今のところ治療法がありません。進行を遅らせるためにリハビリを受けています。病気の進行は人それぞれなのでが、僕の場合は簡単に説明すればこんなところです。

  2、自立生活をするまで

 小学校5年生までは親元で暮らして、地元の小学校に通っていました。小学校3年生まで普通に歩くことができていたのですが、4年生になったころから歩くことが難しくなってきて車椅子を使うようになり、学校の中で介助が必要になりました。自分1人だけが車椅子であることや、介助をされていることが他人と違っていて、まわりから特別に見られているような気がして嫌になってきました。

 僕と同じ障害を持っている一番上の兄(6歳上)が国立原病院に入院していて、よく行くことがあったのです。自分と同じ車椅子の人たちを見、兄がいたこともあって、原病院に入院したいと思うようになりました。そうして小学校6年生の始めに、地元から逃げるような形で僕は原病院に入院しました。
 病院では車椅子は僕1人だけではないし、まわりの人も同じように介助されているので、特別に見られることもなく、気持ちがすごく楽になれました。隣接する養護学校に通い、高等部を卒業するまで7年間を病院で過ごしました。

 最初は楽になれるという思いで入院したのですが、現実はそんなに甘くはなくて厳しいものでした。病院での暮らしは規則や時間に縛られていて、寝る時間、起きる時間、食事の時間、トイレの時間が決められていました。決められた時間以外にトイレに行くと文句を言われたりもしたのです。外出は家族が付き添わないとできないので、自由に外へ出ることもできません。だから、ほとんど病棟の中で過ごしていました。
 職員の人数が限られているので、自分のやりたいことがあっても我慢しなければいけません。できることといえば、本を読んだり、音楽を聞いたり、テレビを見たりすることくらいでした。

 そんな自由のない暮らしの中で、同じ病気の人が死んでいくのを何人も見てきました。病院では、気管切開して人工呼吸器をつけたら、死ぬまでベッドに寝かされたままでした。
 そのころ、僕の友人がこんなことを言っていたのです。「気管切開してベッドで寝たきりになるくらいなら、気管切開しないほうがいい。するくらいなら死んだほうがましだ。そこまでして長生きしたくない」と言っていました。彼は自分の将来に何の展望を持つことができなかったから、絶望してそんなことを言ったんだと思います。

 僕も彼と同じ気持ちでした。死んでいく人を見るたびに、自分もいつかこの病院の中で死んでいくんだという絶望を感じていました。変化のない毎日の暮らしは、なんかただ生かされているだけという感じで、生きているという実感が持てませんでした。生きている実感を持って暮らしたいと思って、病院を出ることを決めました。

 病院を出ることで不安に思うことが2つありました。1つは、それは兄が先に退院して親元に帰っていて、そこに僕が帰ると、介助するのは親なので、大丈夫かな、2人もみれるのかなという不安があったのです。だけど、両親は「帰ってきたいなら帰ってきんさい」と言ってくれました。
 もう1つは、僕は病院から出ることができるけど、残された人はどうなるんだろうか、僕だけが病院から出てもいいのかな、ということも考えたんです。

 僕は4人きょうだいの末っ子なのですが、2番目の兄が「病院から出ることができるのに病院に残ったら、そこにいる人は逆にいい気はしない。出れるんだったら出たほうがいい」と言ってくれました。それで高等部を卒業後、すぐに退院して親元で暮らすことになりました。

 だけど、身のまわりの介助をするのは親なので、寝る時間とか起きる時間などを親のペースに合わせて暮らしていくしかありません。親の体調が悪い時は介助を頼むのに気をつかうこともあったので、親に気をつかわずに自分のペースで生活したいという思いや、親が年をとって僕の介助ができなくなった時に再び病院に入るしかないという思いがあって、親以外の人の手を借りて地域で暮したいと思うようになりました。死んでも病院には帰らないつもりで出てきたので、自立生活を始めることにしました。

  3、人工呼吸器

 僕が人工呼吸器を使用するようになったのは、自立生活を始めて間もなくのころです。夜間に息苦しさを感じるようになってきて、そのころ受診していた原病院では、「呼吸器が必要になると入院するしかない」と主治医から言われました。

 自立生活は続けていきたいので、なんとか在宅で呼吸器を使えるようにできないかと思って情報を集めていたら、知人から四国の徳島病院の話を聞いたんです。徳島病院では在宅での呼吸器の使用を勧めていたので、それで知人に徳島病院の先生を紹介してもらいました。入院して検査を受け、呼吸器の訓練をしました。夜間の寝てる間は、鼻マスク式の呼吸器をつけることになったのです。そのおかげで退院後は夜によく眠れるようになり、体調もよくなりました。

 その後、一年半ぐらいは調子よくいっていたんですけど、そのころから夜間だけでなくて昼間にも息苦しさを感じるようになりました。それで徳島病院にまた入院したんです。検査の結果、状態は悪くて、いつ倒れてもおかしくないということでした。そのため昼間も呼吸器をつけることになりました。
 夜間のように鼻マスク式で一日中呼吸器をつけるのはうっとうしいので、昼間はマウスピース方式で呼吸器をつけるやり方にしました。一日中、呼吸器をつけるようになって息苦しさが解消されて楽になりました。退院後は調子もよくなって今に至っています。
 

  4、24時間の介助を求めて

 知り合いのアパートを借りて自立生活しています。最初は兄と共同生活でした。なぜかというと、きょうだいの仲が特によかったというわけではなくて、行政から受けられるヘルパーの時間数が1日に1人について7時間までしか受けることができなかったからです。24時間の介助がなければ生活できないので、7時間では到底自立生活は無理でした。
 それで、兄と2人で同じ借家に住むことにして、それぞれのヘルパーを入れる時間をずらし、どちらかに入ったヘルパーに1人で介助してもらう形をとりました。時間数が足りない夜間は学生ボランティアに入ってもらって、24時間の介助がとぎれない体制を作ったのです。

 きょうだい2人にヘルパーが1人なので、どこへ行くにしても一緒に行動するしかなく、自分の思うように行動できないし、嫌でも一日中顔をつき合わせないといけないので、ストレスがたまってきょうだい喧嘩ばかりしていました。それでもきょうだいで協力し合い、自立生活をなんとか続けていきました。
 そんな生活を続けていく中で、兄が体調を崩して入院したんです。その後、兄は肺炎を起こして気管切開をしました。退院してもすぐには入院前の生活に戻れないことや、今までのようにきょうだい2人にヘルパー1人の体制ではきょうだいが共倒れになってしまうので、兄には実家に帰ってもらい、僕はそのまま自立生活を続けていくことになりました。

 これまできょうだい2人の介助の時間数を合わせることで生活が成り立っていたので、1人になっても2人の時と同じ時間数を満たすように行政と交渉して、やっと認めさせました。その後も粘り強く交渉を重ね、2006年1月に24時間の介助保障が実現しました。

 24時間の介助保障を実現するまでは、僕にとってはまさに闘いの日々でした。呉市に合併する前の安浦町時代の行政に交渉に行くと、「なんで親に介護してもらわないのか」「我慢しなさい」とか嫌なことも言われ、腹が立ちました。時には、何度交渉に行ってもなかなか理解されなくて、どなったりもしました。その苦労のはてにようやく勝ち取った24時間でした。

 まわりに力を貸してくれる人たちがいたからこそ、こうして自立生活ができているので、僕だけではとてもできなかったと思います。支えてくれた、みなさんには感謝しています。
 施設や親元にいればこんなに苦労することはなかったと思うのですが、あえて自立生活を選んできたのは、「重度の障害を持って生まれてきたのだから、施設で暮すことが当たり前だ」という社会意識に対して意地があったからです。

 僕の友人たちは施設の中にいて、外の世界に対して夢を抱きながら、無念にも若くして、10代半ばから20代半ばまでの短い生を終えていきました。短い生を終えていった友人たちの夢を実現するためにも、僕はこの身体を張って呉市の中で生きています。

  5、福祉の問題点

 僕が自立生活を始めた翌年の2002年の4月に支援費制度が始まりました。それに合わせて介護の事業所を小河さんという人と一緒に立ち上げました。なぜ事業所を立ち上げたかというと、24時間という長時間の介助に対応できる事業所がなかったので、これからも生活を続けていくために必要だったからです。
 小河さんと出会ったのは兄が先です。兄が「ちらくれん」の活動に参加していて、そこで知り合ったそうです。兄が小河さんを連れて病院に面会に来てくれ、その時に初めて小河さんと出会いました。そうして僕も退院後、「ちらくれん」の活動に参加することになったわけです。

 現在は支援費制度から障害者自立支援法に改正されています。支援費制度とは、これまで障害を持つ人が施設やホームヘルプサービスなどの福祉サービスを利用する時、どの施設がよいか、どこのホームヘルパーがよいかということを行政が決めていた措置制度から、障害を持つ人自身が利用したい施設や福祉サービスを選んで、サービスを提供する事業所・施設と契約して、サービスを利用できるようになったのが支援費制度です。

 支援費制度から障害者自立支援法に改正される時、障害当事者からは「自立を支援する法律ではなく、自立を妨げる阻害法だ」という反対の声が上がり、全国規模で反対行動が起こりました。僕も東京で行われた反対行動に参加して、デモ行進に加わりました。その反対にも関わらず、国会で強行採決され改悪(改正)されてしまいました。

 障害者自立支援法は地域で暮らす障害者をはじめ、施設で暮らす障害者にとっても大きな負担を強いるものです。そのため、必要なサービスも十分に受けられない状況となっています。
 ヘルパーを派遣する事業所にも影響があります。それまではヘルパーを利用者宅へ1時間派遣すると、事業所に4000円が報酬単価として国・県・市から入ってきていました。改正後は1時間1600円と大幅に報酬単価が下げられています。スタッフに支払う賃金を引くとほとんど残らず、赤字が出てしまう事業所が相次ぎました。
 赤字になってしまうので、やむおえずスタッフの賃金を下げざるをえなくなり、賃金を下げらると生活が成り立たなくなってしまうので、仕事を辞めていく人が後を絶ちません。スタッフの人数が減ると利用者に対応できなくなって、利用を断る結果となってしまうんです。

 僕のように重度の障害を持っていて、毎日24時間という長時間介助を受けて生活をしている者は、事業所にとって大きな負担になってしまいます。長時間の介助を受けたら受けただけ事業所の採算がとれなくなるので、長時間介助を受けてくれる事業所が減り、重度障害者の地域での生活が危うくなっています。

 また、利用者に対し利用料の負担が課せられ、トイレをすることや食事を取るという生活するうえで必要な行為にお金を払わないといけません。普通の人なら空気を吸うのと同じような感覚でトイレや食事をすることができるんですけど、障害者はより困難な状況に追い込まれています。

 僕が関わっている事業所は「NPO法人 CILピアズ」といいます。ここは障害を持つ当事者主体の事業所で、理事は障害当事者や障害を持つ子どもの親で構成されています。スタッフの中にも当事者がいます。
 ピアズでは、利用者宅へ介助者を派遣しての「在宅支援」や利用者と一緒に出かける「外出支援」、障害を持つ子どもたちが学校の放課後を過ごす「子どもデイサービス」、大人の障害者が平日の日中を過ごす「すきっぷ」(生活介護、就労継続支援B)、土日・祝日などに障害を持つ子どもや大人が日中を過ごす「日中一時支援」などを行なっています。最重度の身体障害者や行動障害の厳しい人たちへのサポートを重点に置いたりと、当事者のニーズに沿ったサ―ビスを目的にしている事業所です。

 24時間の介助保証が実現したといっても、実際にはその介助をしてくれる人たちがいなかったら、僕の自立生活は成り立ちません。1週間で14~5人の人が僕の介助に関わっています。若い人から上は70すぎの人までいて、半分以上は学生アルバイトです。
 自立するためにはそれだけの介助者を確保するのが前提です。サポート体制ができてないと自立できません。今日、こちらに来るにしても、あらかじめローテーションを組んで、誰が行くのかを決めています。

 ピアズではヘルパーを募集しているんですけど、なかなか応募する人がいなくて、来ても長続きしません。他の事業所でも10人ぐらい面接を受けてなんとか1人雇えるぐらいです。
 お金をもうけようという気持ちでいたら介護の仕事はできないと思います。介助者も生活がかかっているから大変だとは思うんですけど、ピアズでは、本音を言えば生活は苦しいけど、何とかしてこの現状を乗り越えようという気持ちがある人が残ってくれているように思います。

  6、僕の夢

 僕の夢は自分の自立生活の経験を活かして、同じように自立生活をめざしている人のサポートをして、1人でも多くの自立生活をする障害者を増やしていくことです。どんなに障害が重くても、自分が生きたい場所で暮らしていけるようにしていきたいと思っています。誰でも十分なサポートを受けて、当たり前に暮らしていけるようになっていかないと、僕だけで終わったら今までやってきたことが意味がなくなってしまうからです。

 呉市では、他の障害を持っている人も含めて、24時間介助を受けて自立生活をしているのは今のところ僕しかいません。広島県では何十人かいます。行政に言わせれば、1人ぐらいなら自立生活させてやってもいいか、というぐらいの感じなんです。
 時間数が少ない障害者は、休日なんかは朝から夜まで介助者がいなくて、1人でいるということもあるんです。24時間の介助を受ける制度のことを知らない人がいるし、行政に交渉してもなかなか認めてもらえないんですね。

 お金のことですが、僕は生活保護を受けていますから個人負担はありません。だけど、生活保護を受けていない人や家族と一緒にいる人は一割負担とか負担がかかるんです。日本の福祉は自分の家にいて家族に介助してもらっていたら、行政の援助がなかなかもらえない仕組みになっています。

 だんだんと社会保障費が削られていって、障害者にとって厳しい状況になっています。障害者は働くことができません。仕事ができるかできないか、役に立つか立たないかで分けられています。できない人を助けるというふうにならないと、障害者が生きられない社会になるんじゃないかと思っています。本当に必要なところにお金を使って、どんな人でも暮していける社会にならないと豊かな社会とは言えません。

 自立生活を続け、こういう話をあちこちですることが社会を変えていくことにつながればと思っています。僕も行政と交渉してきて自立生活が実現できたので、これからもその気持ちを忘れないでやっていきたいと思います。

 僕の障害は生まれつきだから、障害を受けとめることが比較的容易にできたんですけど、中途で障害を持つ人はすごくショックだと思います。障害は直らないから、一生つき合っていかないといけないわけです。1人でいくら考えても苦しさは変わらないし、マイナスのほうばかり考えてしまうので、そこでまわりを見て、自分の気持ちを話せる人や場があれば、少しずつでも障害を受け入れることができるようになるんじゃないかと思います。
 いろんな人と関わるのは楽しいです。学生の人とかと一緒になってくだらないことを言ったりするんですけど、自立生活をしているからいろんな人が関わってくれているんだなと思います。施設に入ったり、家から外に出ないでいたら、人との関わりが限られてくるので、障害について悩むようになるかもしれません。

 僕も将来のことを悩んだりすることはあるんですけど、今をどう生きるかということを考えています。いつまで生きられるかわかりません。今できることをやりたいというのがあります。そして、一緒に人生を共有してくれるパートナーを見つけたいなと思っています。以上です。ありがとうございました。

  7、光市事件について

 光市事件について、最初はテレビとかからしか情報がないので、被告に対して一方的に許せない気持ちがありました。だけど、知り合いの人から、被告が虐待を受けていたことや母親が自殺したこと、事件そのものについても実際は報道されていることとは違っているなどといった、テレビが伝えようとしないことを聞いているうちに、被告とは年が変わらないということがあってか、考えが変わってきました。

 たしかに人を殺すことはいけないことです。でも、なぜああいった事件が起きたのか、その背景を知ることが大切だと思います。被告はすごく孤独というか、ひとりぼっちで誰からも愛されていなかったように感じます。被告が悩んでいても、そのことを話す相手がまわりにいなかった。誰でも同じことが起こりうる可能性があると思うんですね。

 僕が人を殺してしまったとしたら、死にたいと思います。つらい思いを持ってずっと生きるよりも、死んだほうが楽になると思うけど、でも被告は生きて償い、謝りながら生きていきたいと言っています。それは大変なことだと思います。

 それなのに被告を完全に否定した差し戻し審の判決を聞いて悲しくなりました。それだけ否定されたら、人間は生きようとは思えなくなります。いくら犯罪を犯したといっても、同じ人間であることに変わりはありません。人間としてそこまで言っていいのかな、裁判官は人間の気持ちをわかっていないと思います。被告のほうが人間らしいように感じます。

  8、ヘルパーさんの話

 大学4年の22歳です。学生アルバイトの1人です。大学2年の時に介護の2級を取りました。2級の資格を持ってたから、洋介さんの仕事もスムースにつけたと思います。

 施設でアルバイトさせてもらおうと思って面接を受けた時に洋介さんを紹介してもらい、「ちょっとやってみないか」と言われたのがきっかけです。洋介さんの手助けをしたくて来たわけではなかったんです。

 おこがましいですけれど、最初は助けてあげなくちゃという気持ちがあったと思います。一年ちょっと介助に入らしてもらって、助けるんでなくて一緒に生活すればいいんだというところに気づいて、そこから考え方が変わりましたね。
 今は、仕事が入る日は洋介さんちに遊びに行くという感じになってきたんです。話してて楽しいですし、話が合いますし、人生の先輩なんでいろいろアドバイスしてもらってます。

 介護の仕事をしようと思ったきっかけは、僕のじいちゃんが脳梗塞で倒れて右半身が麻痺したんですよ。それで何か手助けができないかなと思ったのと、すごく単純なんですけど、人の役に立つ仕事がしたかったんです。どんな仕事でも何らかの形で人の役に立っているんですけど、人の役に立ちたいと思ってまず頭に浮かんだのが介護の仕事だったんです。今年、大学卒業ですけど、できれば高齢者の施設に勤めたいと思ってます。

(2008年6月28日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)


2019年1月22日、中井洋介さんが亡くなられました。36歳でした。