真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

 中村 薫さん
     「出会い そして別離(わかれ)のいのち」
 2006年5月26日

  1、別れのいのち

 おはようございます。ただいまご紹介にあずかりました同朋大学の中村薫と申します。愛知県一宮市の養蓮寺の住職をしております。1948年生まれですので、58歳になります。
 今日は私の個人的なお話しを申しあげるつもりですけれども、それは決して個人的なことにとどまらないということを理解していただけたらと思っております。

 実は、2年前の2004年7月11日に、29歳になる私の長女が、夫と子ども一人をおいて、自らいのちを絶っていってしまったのです。人生には三つの坂があると、よく言われます。上り坂、下り坂、そして「まさか」という坂です。まさしく「まさか」の坂でした。そういう出来事に私は遭遇しました。

 毎年3万人以上、昨年はおよそ32500人の人が自死しているのが日本の現実です。一日に95人です。今年は百人に達するかもしれません。せっかく人間に生まれ、いのちをいただいているのに、自らいのちを絶ってしまう、そういう人が32500人を超えています。
 そして、300万人近い人が向精神薬の力を借り、精神を安定させて生活しています。あるいは、悩み苦しみはそこまでではないけれども、ぐっすり眠れないので安眠剤や睡眠薬を常用している人が1000万人を超えています。
 お日様とともに目を開け、お日様とともに寝るという生活ができなくなっている現代社会。そういう時代社会の中で躁鬱病に苦しんでいました私の娘は、29歳で自らいのちを絶ってしまいました。

 躁と鬱は波のように起こります。皆さんご承知の方で説明しますと、小説家の北杜夫さんです。本人が言っていることなのですが、彼は躁鬱の波が四年に一回やってくる。躁が出てくると、夜中だろうがなんだろうが、相手の迷惑も関係なく電話をかけまくる。株の取引をして大損するわ、奥さんが「駄目」と言ったら暴力をふるうわ、一日二日寝なくても平気。そうなったら、奥さんや娘さんは実家に帰って相手をしない。しばらくすると鬱になって、暗い部屋に黙って一人でいる。それが波打っているのですね。夏目漱石もそうです。誤解を恐れずに言えば、芸術家にはそういう人が特に多いそうです。
 程度が違うだけで、人間には誰でも躁と鬱の波があるのです。朝起きて、どうも気分がすぐれないけれども、夜には頭が冴えてくる人がいます。春先はいいけれども、秋口になると調子が悪い人もいます。若いころはよかったけれども、更年期を迎えたら体調が悪い。人それぞれでございます。躁鬱の波がひどくて日常生活に差し障るような方は治療を受けられたほうがよろしいでしょう。

  2、娘の死

 4年ほど前から、私の娘は躁鬱病に苦しんで治療を受けていました。そんな中、私たちは大変な失敗をしてしまったのです。

 自死する半年ほど前に、「お父さん、もう一人子どもがほしい」と娘から相談を受け、「ああ、それはいいね」と、私は答えました。
 私の子どもたちは六人兄弟です。娘としては、大勢の兄弟の一番上で育った自分には女の子が一人しかいないから、もう一人赤ちゃんがほしい。そう思ったわけですね。けれども、娘は向精神薬を常用しており、薬の副作用を心配していました。

 その当時、私は薬についてよくわかっていなかったので、薬は必ず副作用があるから、あまり好きではありませんでした。たとえば、ハルシオンという睡眠導入薬を飲むと、眠っている途中に起きあがり、ジュースを買いに出かける、ところが朝になって目が覚めてもその間のことを覚えていない、そういう副作用がハルシオンにはあります。
 しかし、副作用があるからといって、今まで飲んでた薬を突然やめたら大変です。ちゃんと医者の指示に従って服用しないといけないし、自分で勝手に飲む量を減らしたり増やしてはいけません。皆さん方でも薬を常用されている方は勝手にやめないようにしてください。お医者さんに相談されることをお勧めします。

 そして、最近は医療も進み、薬もよくなりましたが、鬱病になると自殺願望欲が出てくる場合があります。鬱病で特に恐いのは回復時です。自殺願望欲は鬱病が回復する時に起こりやすいと言われています。

 そういうことを私たちはまったく知らずにいました。あまりにも躁鬱病のことを知らなすぎたのです。娘が躁の時は騒いでいますからわかりますけれども、鬱の時は黙ってますので、具合が悪いとはわかりませんでした。むしろ治ったと思ってたぐらいです。そのうちによくなるんだろうと甘く考えていました。愚かでした。

 娘はその年の5月から、実家である私どものお寺で療養していました。鬱の時には、医者の指示に従って薬を飲み、静かに身体を休めることが一番いいのです。それなのに私たちは、心の病を頭では理解しているつもりでも、娘をつい励ましてしまったのです。「そんなにゴロゴロせず、掃除でもしたら」「しっかりやりなさいよ」「大したことはないよ」と言っては、庭掃除や、買い物の手伝いなどをさせていました。

 ところが、鬱病患者に対して励ましはいけない、休んでいるのが一番だということを、あとになって医者に知らされました。

 「がんばれ」とか「努力しなさい」とか、こういう言葉を常日ごろ私たちは使っております。しかし、自分で努力ができれば誰も悩む必要はないのです。努力しようといくらがんばっても、それができなくて悩むわけです。
 努力というのは、仏様の言葉で言えば他力ということです。我々は「自力でなければ」「もっと努力しなさい」と言うけれども、努力できたということは大きなはたらきによってのことなのです。

 皆さんがここにおられるというのは、おそらく自分の意志で、自分の足でここに来ておられると思います。あるいは、住職さんから「頼むから行ってくれ」と言われて来た人もあるかもしれません。しかし、動機はどうだっていいのです。来たということが実は大変なことなのです。朝起きたら、腹が痛くて七転八倒していれば、今ごろ病院のベッドに横たわっていても不思議ではない私たちです。
 その私が多くの人たちのおかげとはたらきによって、今ここにいる。自分の力で、自分の思いで、自分の都合でいると思っているけれども、それは間違いではないけれども、もっと言えば他力のはたらきなのです。それが私たちがここにいる事実です。

 それなのに、私たちは自分の力でどうとでもできると思っていますから、「もっと努力しなさい」「もっとがんばりなさい」と言ってしまう。鬱病の患者さんにとって、これは一番つらいことなのです。

 娘が亡くなってから、私のところへいろんな方が相談に来られます。皆さんは考えもつかないでしょうが、鬱病の方のお話によりますと、たとえばここにコップがあって、それを片づけるという、たったそれだけのことができないそうです。他人から見たらなまけているように見えるかもしれませんけれども、それができない。鬱病というのはそういう金縛りのような状態になってしまうのです。ところがまわりの人にはその苦しみがわからない。

 鬱病の人の多くは、私の知る範囲では非常に真面目な人です。生真面目。一生懸命にがんばる人なのです。たとえば、本人がいない時にはその人の悪口を言ってても、本人が来たとたん愛想を言うような人だったら大丈夫です。まず鬱にはならない。しかし、鬱病の人はそれができず、自分を責めてしまいます。

 私の娘も悩んでいたんでしょう。薬を飲んでいるために朝が起きれない。頭がどうもボーとしている。だから、夫を仕事に送り出し、子どもを保育園に連れて行くという、たったそれだけのことができない。それで自分を責めてしまう。
 娘にとって死ぬほどつらいことだったのですね。ところが、私たちは娘の苦しみを理解せず、「やる気がないな」という程度にしか感じてなかったのです。

  3、本当のカウセリング

 最近、杉浦昌子という人が、ひきこもりの男性を無理に連れ出して不法に監禁、死亡させたとして逮捕されました。その人のお姉さんが長田百合子という人です。この姉妹はお金を取って、ひきこもりを無理やり引っ張り出すことをしています。ところが、うまくいかない場合があり、損害賠償を請求されたりしていたのですが、とうとう人を殺してしまい、問題になったわけです。

 私の娘もその長田百合子に出会い、「向精神薬なんか飲んでたら廃人になってしまう。薬を飲むのをやめろ」と言われたのです。
 娘は子どもがほしいと思ってましたし、薬を飲むと頭がおさえられるような状態になります。それで、お医者さんに相談せずに勝手に、5月24日から7月6日まで薬を飲むのをやめてしまったのです。ところが薬をやめた反動で、7月7日に発作的に薬を多用し、中毒症で入院しました。薬を飲んでしまった自分を責めたのかもしれません。そして、娘は7月11日に自らいのちを絶ってしまいました。

 今から考えると愚かなことなのですけれども、薬をやめたら自殺するかも知れないということは知識では理解していても、まさか我が子が自死することはないと、私は思い込んでいたのです。躁鬱病には薬とカウンセリングが車の両輪のように必要なことが、娘のいのちと引き替えにようやくわかりました。娘にすまないという思いでいっぱいです。

 娘の死に当面して、私たちは本当に動転しました。気がついたら高史明先生のところに電話をしていました。高先生は在日朝鮮人の作家です。娘が生まれた年に、高先生の一人息子さんが12歳で自死されています。それで悩んで苦しんで、親鸞聖人の『歎異抄』に出会われました。今は、「死にたいんだ」と全国から相談してくる人たちに、「生きなきゃ駄目だよ。生きるんだよ」と説いておられます。

 高先生に「娘が亡くなってしまった」と電話をしましたところ、先生のおっしゃったことをよくは覚えていないのですが、「泣いて、泣いて、泣いてください。泣いて、泣いて、泣いて、お嬢さんのぶんまで生きてください」という言葉だけ私の脳裏に焼きついています。

  4、一人の死は家族の悲しみ

 娘は私たちに親という喜びを運んでくれました。子どもと親は同時誕生です。娘が生まれたことによって、私たちは夫婦から親にさせてもらった。その娘が自らいのちを絶ってしまう。死というものを突きつけていきました。
 お通夜と葬儀はお寺でさせてもらいました。その間、涙って乾かないなあ。泣いて、泣いて、泣きました。

 あとに残った家族がどれだけ落ち込むか、それは想像を絶するものです。家族の一人ひとりが自責の念に悶え苦しみました。あの時こうしていれば、ああしてたらと、家族のみんなが後悔の念を持ちましたね。そして、お互いがお互いを気づかう毎日でした。今でも娘の自死を引きずっています。

 おばあちゃんは、80歳になったから自分の人生はもう充分なのに、これからという孫が先に死んでしまうのはどういうことなのかと、一人になると泣いていました。
 妻は自分のおなかを痛めた我が子です。しばらくは買い物にも行けなかったですね。人と会っても、どういう話をしたらいいのかわからない。「お気の毒さまでしたね」とか「月日がたてば」という慰めでは、とても超えられない苦しみです。

 長男は娘と一歳半しか違いません。ケンカもする仲のいい二人でした。長男は特にお姉ちゃんに厳しかった。「お姉ちゃん、もっとしっかりしないと。そんなふうにフラフラしてたら駄目だ」と叱りつけたこともありました。
 ところが娘が自死すると、長男はそういうことを言った自分を責めてしまったわけです。お姉ちゃんのことをもっと理解すればよかった、病気のことをわかっていなかった。そういうふうに自分を責めた長男は一ヵ月ほど言葉を失ってしまい、しゃべれなくなってしまいました。今でも命日の11日には、お花を買って仏前に飾っております。

 長男だけではありません。次男も三男も、次女も三女も、どうしてお姉ちゃんは死んでしまったのか、何かできなかったのかと、繰り返し考えています。
 娘が自死した時、三女は不登校から非行に走っていました。12歳ほど年が違うお姉ちゃんにとってもかわいがってもらっていた三女ですけれど、どこかで挫折したんでしょう、中学校に行かなくなって、不登校になり、いろんな友達が集まってきては夜遊びしたり、プチ家出をしたりしてました。シンナーを吸い、暴走族に入ろうかというところまでいきました。お姉ちゃんは潔癖ですから、それは許せない。三女は「私は私だ」と、姉妹でにらみ合ってたみたいです。
 その三女もお姉ちゃんの自死にショックを受けます。お姉ちゃんは生きたいと言ってたのに死んでしまった。私は何もしたいことがない。私がいなかったらお父さんやお母さんが苦しまなくてもすむ。私が死んだほうがよかった。死んでしまいたい。

 地獄の底と言ったら大げさなようですけれども、家族全員が娘の自死という現実を突きつけられて、私たちはもう泣いて、泣いて、泣きあかしました。
 今でも毎日、目が覚めると娘の名前を呼んでおります。そして、朝夕のお勤めをする時、娘に「ごめんね」と謝りながらお勤めをしております。

 親鸞聖人が
「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」(お父さん、お母さんの親孝行のために念仏を申したことはない)
とおっしゃっておられることは充分わかっているつもりです。けれども、仏様の前に手を合わせると、やはり娘のことが頭に浮かんできます。
 亡くなった娘のために何かしてやりたいと思っていた私たちにとって、親鸞聖人の言葉は厳しかったですね。私にとって、朝夕のお勤めは懺悔のお勤めでもあるわけですから。娘を助けることができなかった無念さ、親のせめてもの罪滅ぼしの気持ちから出てくる供養も否定されたら、どうすればよいのか。そのころはいたたまれない気持ちになりました。

 しかし、亡き人に供養するよりも、私は亡き人から何を願われているか、そのことを聞いていくことが大切なんだと、今は教えられるようになりました。

  5、「有愛」「非有愛」

 娘は仏様の教えを聞き、育った子ですので、自らいのちを絶つことはいけないことだと、十分承知しておりました。いのちをこよなく愛しんでいた娘は、アメリカのイラク攻撃に対して、怒りをあらわにして反対していたほどです。

 たまたまなんですけど、娘が自死する半年前、27歳になる門徒さんが自らいのちを絶ってしまいました。その人のお父さんは蒸発し、お母さんは彼が幼稚園の時に農薬を飲んで亡くなっています。お兄さん夫婦と三人で暮らしていました。この人もとても真面目で、トラクターの運転をして一生懸命に働いていたのに、自死してしまった。
 七日勤めはお寺に来ていただいておりました。その時に、たまたま娘が来ていたのです。「今日は何があるの」と聞くから、「実はこういうことで」と話すと、娘は「ふうん」と言って帰っていきました。

 その時のことが日記に書かれてありました。
「仏様の教えはいっぺん聞いただけではわからない。でも、私のいのちは仏様の教えを聞くためにいただいてあるいのちだと聞いている。あの人は大丈夫だろうか。27歳で仏様の教えを聞かずに死んでいったあの人は、本当に仏様の国に生まれているだろうか。そんなことを考えると頭が痛くなってしまって、私は二階に上がって寝ました。寝ることが私の唯一の安らぎです」
 そして、そのあとにこう書いてありました。
「ふと思う。わたしは幸せだ。恵まれている。でも、何か空しい。どうしてなんだろう」

 虚脱感ですね。どんなに暖かい家庭であろうが、どんなにものが豊かであろうが、どんなに勉強ができようが、それでも空しさがおそってくるわけです。
 人間はいかなる貧しさ、苦しさにも耐えられる。したたかに耐えていけるのが人間なのです。しかし、人間は空しさには耐えられない。生きがいが見出せない。何のために生きているのか、心に大きな穴がぽっかり空いてしまう。そういう状況が人間にあります。

 それを仏様は有愛、非有愛と教えてくださいました。
 有愛というのは、死にたくないという生存欲です。有愛はみんな持っています。ですから、「あなたはガンですよ。あと半年のいのちですよ」と宣告されたら、「そうですか」とは受け止められません。ショックを受けるのが人間なのですね。聞いた瞬間から悩みが始まっていく。そういう人間の欲、執着を有愛と言います。
 非有愛というのは、生きていたくないということです。これも人間の持っている欲です。犬や猫は有愛、非有愛の感性がありませんので、犬や猫が自殺したという話は聞いたことがないでしょう。自らいのちを絶つのは人間だけです。80をすぎても、90になっても自死する人がいます。そのうち死ねるとわかっていても、死にたいという衝動は襲ってくるのです。
 有愛、非有愛、「死にたくない」「生きていたくない」という相反するものを私たちの心は抱えています。人間はガンを宣告されると、なかなか死を受け入れられず、有愛の煩悩に悩まされます。反対に、たとえ健康であっても、思い通りにならない事柄にぶつかると、非有愛の煩悩に執着します。
 「死にたくない」という有愛、「生きていたくない」という非有愛、この二つの間で揺れているのが私たちの日常の生活です。

 人間というのは勝手なんです。こんな川柳があります。
「死にたいと言いつつ赤で止まるオレ」
 年をとると、「もう死にたい。早くお迎えが来てくれないか」と口癖のように言う人がいますね。だけど、「赤で止まるオレ」、赤信号になったらちゃんと止まる。そんなに死にたければ、赤信号でも突っ込んでいけば、車にぶつかって死ねるのです。だけど、ちょいと待ちなさいという根性。口と思い、あるいは心と身体が一つにならない。

 娘は死んだらいけないということは十分承知していましたけれども、やはり病気には勝てなかった。まるで夢遊病者のように、抜け殻のように、自らいのちを絶ってしまいました。

  6、伊藤左千夫の娘の死

 私はきっと暗い顔をしてたんでしょうね、あるお同行が伊藤左千夫のこんな歌を紹介してくれました。

  み仏に救われありとおもひ得ば嘆きは消えむ消えずともよし

 伊藤左千夫はアララギ派の歌人です。13人の子宝に恵まれていますけれども、5人は生まれて間もなく亡くなっています。明治42年、七女の七枝ちゃんは数えの3歳、満の1歳10ヵ月で亡くなってしまいました。その時のことを、左千夫は『奈々子』という小説に書いています。

 左千夫が獣医のところに出かけていたら、長女と女中がやって来て、「お父さん大変です。七ちゃんが池へ落ちて」と知らせに来た。驚いた左千夫は飛んで帰ってみると、妻が台所の土間で火をたいて七ちゃんを温めようとしている。そのうちお医者さんが来たけれども手遅れだった。
 池にあおむけになって浮いていたと聞き、子どもが池に落ちたら危ないと思っていながら、どうして早く池を埋めてしまわなかったのか、と左千夫は悔います。
 近所の人や親類がやって来て、お葬式をどういうふうにするかと話し合っている。それを左千夫は不快に感じ、妻はたまらなくなって、「今夜はあなたと二人きりでこの子の番をしたい」と訴えます。
 左千夫は
「自分はもう泣くより外はない。自分の不注意を悔いて、自分の力なきを嘆いて泣くより外はない。美しい死顏も明日までは頼まれない、我が子を見守つて泣くより外に術はない」
と書いています。

 その時に左千夫の詠んだ歌が、「み仏に救われありとおもひ得ば嘆きは消えむ消えずともよし」という歌です。七ちゃんはお浄土へ帰っていったとは言うけれど、大丈夫だろうか、ちゃんと仏様の国に生まれているだろうか。仏様に救われたことがわかったならば、嘆きは消えるだろうか、安心できるだろうか。「消えずともよし」、嘆きが消えなくてもいい、私は生涯かけて七ちゃんのことを思い続けていくんだ。それが伊藤左千夫の歌です。「月日がたてば」というような話ではありません。

 私たち夫婦も一緒です。月日がたてば悲しみ、喪失感は薄れるだろうと思っていました。とんでもありません。もう2年がたちますけれども、まだ「どうして」「なぜ死んでしまったのか」という悔いが残ります。

 娘の苦しみがわからなかった私たちです。今でも、娘の苦しみを理解できなかったことに責任を感じています。私たちが娘の病をちゃんと知っていれば死なずにすんだのではないか。そう思うと、慚愧の念に耐えかねません。

  7、消えない嘆き

 娘が亡くなりましてお盆がすぎましたころ、私の教え子のお父さんが福井県からやって来てくださいました。実は、その方の次男さんが7年前に亡くなっているのです。次男さんの大学入学が決まり、やれやれと喜んでいた矢先に、交通事故で次男さんが亡くなってしまった。
 私の教え子である長男さんは、子どものころ、骨がうまく育たなくて曲がってしまう病気だったそうです。何度も手術をし、今でも注射を打ってまして、大変苦労しています。
 そのお兄ちゃんと友達との三人で夕食に出かけたんだそうです。そしたら、どうしてか車がひっくり返り、二人は怪我は一つもなかったのに、次男さんだけは車から放り出されて、電柱に頭をぶつけて死んでしまった。18歳でした。お父さんもお兄ちゃんも大変なショックです。

 お父さんは校長先生をしておられて忙しいはずですけれども、三重県にある池田勇諦という先生のお寺へ、7年間毎月、聴聞に来ておられます。忙しいとか距離が遠いからというのは言い訳でして、情熱さえあれば距離は超えていけるわけですね。

 事故から7年がたち、お父さんはこう言われます。
「今はもう事故のことは話しません。しかし、いまだに息子のことが忘れられません」
 そして、
「亡き息子から言われている気がします。お父さん、仏法を聞いてくださいよ、仏法聴聞してくださいよ、と」

 でも、その時の私はお話を聞きましても、そうとは思えませんでした。亡き娘を縁として聴聞させてもらう。それは大事なことはわかっている。けれども、寂しいやら悲しいやら無念さでいっぱいでした。

  8、父の死

 娘が亡くなった年の12月24日に、実家の父親が87歳で亡くなりました。私の生まれは三河、岡崎の近くです。私は一宮のお寺へ養子に来たのです。父は前々から心臓が悪くて、肺が真っ白になっていて、身体全体が弱っていました。
 20日に実家に寄った時、お正月に向けて、仏具のおみがきをお同行にしてもらっていました。普段、父は部屋からほとんど出なかったのですけれども、その時は機嫌がよかったのか、お同行といろんな話をしてました。

 ところが、24日の朝に電話がありまして、「今度はよくないみたいだ」というので、私はすぐ病院へかけつけました。父はモルヒネを打って寝ておりました。私ども素人では脈が測れない状態です。手や足がとっても冷たい。爪は白っぽくなっており、血が通っていない感じでした。それでもかすかな息をしておりましたので、私は父の手をずっと握っていました。そして、生まれて初めて臨終に立ち会いました。
 父の息がホッと止まり、ナースセンターで見ていたみたいで、看護師さんが走ってきました。そして、「伊奈さん、伊奈さん」と声をかけてくれたのですけれど、もう起きませんでした。
 医者が来るまでの15分ぐらいの間に、兄がこういうことを言いました。
「お父さんはね、あなたたち夫婦にどういう言葉をかけていいか、言葉が見つからないと言って苦しんでいたんだよ」

 8月に、私は父に娘の死を報告しに実家へ行ったのです。そしたら父は「どうしてかなあ。何で死んだのかなあ」という程度で、娘の死についてはあまり話しませんでした。娘の死よりも、10月に蓮如上人五百回会法要を勤める予定にしておりましたので、「私はこんな身体だから参れんけれど、しっかりやれよ」と言ってました。
 父は感性がなくなったのかなあ、もっと言えば、認知症気味なのかもしれないなと私は思っていたのですけれど、とんでもなかった。父は私たちと同じ苦しみをずっと抱き続けていたわけです。娘を亡くした私たちに対してどう声をかけていいのかわからないと、父は苦しんでいたのです。

 一般的には、「お気の毒さまですね」とか、「そのうちに時が来れば」とか、「残念だったね」とか、慰めの言葉はいくらでもあります。しかし、どう言葉をかけていいか言葉が見つからないと、自ら悩む。
 これを仏様は同悲同苦とおっしゃいました。同悲同苦が仏様の世界です。私たち人間が悲しみの中にいる人と一緒にいたら、自分も悲しみに沈んでしまいますので、どこかで「お気の毒さまでした」という言葉をかけて見捨てなきゃならない。しかし、仏様はどこまでも悲しみを共にし、苦しみを共にします。

 実を言いますと、私の姉二人が亡くなっているのです。一番上の姉は1943年(昭和18)1月、産まれて百日目に亡くなっています。そして、その年の12月に、産まれて30日目の次女が亡くなっている。私の父は立て続けに二人の娘を亡くしているわけです。
 母は今で言うとノイローゼでしょうね。実家へ帰り、オムツが干してあるのを見ただけで泣けてくる。近くが海なのですけれども、海辺へ行くと吸い込まれるような気がする。泣けて仕方がなかった。
 だけど、母は私にこう言いました。「でも、あなたたちがいてくれたおかげで私は生きてこれた」と。悲しみを超えられたのは、私たち兄弟、姉と兄と私の三人を育て上げてきたからだ、それで生きてこれた。こう言いました。

 もっとびっくりした話は、父の弟の伊奈教勝が24歳の時にハンセン病になったということです。このことはきちんと時間をかけて話さないと誤解を招きかねないのですけれども、ハンセン病はとっても嫌われた病気です。叔父は長島の愛生園へ強制隔離されました。叔父の存在を父は一切黙って生きてきたのです。私もまったく知りませんでした。
 叔父は最後にはふるさとに帰ってきました。その時に、父は弟に謝りました。「悪かった。親の葬式にも呼んでやれなくて。しかし、お前もつらかっただろうが、わしもつらかった」と。ケンカして別れているんじゃない。国の政策で法律の名の下に引き裂かれたわけです。
 そういうふうに、私の父はずっとこらえる人生を送ってきたんでしょう。深いところに悲しみを持っているんだけれども、表には出さない。悲しみや表情がうまく出せなかった。だから、私たち夫婦にどんな言葉をかけていいかわからないと苦しんでいても、そのことを黙っていた。

 兄から父の気持ちを聞き、私の悲しみはまわりの人すべてに波のように及ぼしていたことに初めて気がつきました。どれだけ多くの人が私と一緒に涙してくださっていたかということを教えられました。
 ところで私は、父が亡くなった時に手を合わせて、「87年の人生ご苦労様でした。私はあなたの子として、この世にいのちをいただいて幸せでした。私はあなたの子として、あなたと出会えてよかった」と、不思議なぐらい素直に父親に言えたのです。

 ところが、娘の死に対してはいまだに納得できない。娘、そして父との死別。共に同じ厳粛なる事実です。しかし納得の度合いが違うのです。娘の死を頭では理解できても、愛別離苦、老少不定のいのちなんだということはわかっていても、親鸞聖人の教えを30年、40年と聞いてきたはずですけれども、五臓六腑が承知しない。「なぜ」「どうして」という思いが今でもあります。

 亡くなった娘はどうしても帰ってきません。私は今、心の片隅では死が恐くない。私がいのち終われば、娘のいる、父親のいるお浄土へ私も生まれていくんだ、そんな感じが素朴にします。しかし、じゃあ、死んでもいいのかというと、やはり死にたくはない。生きたい。死の不安とか恐怖はあまりありませんけれども、やっぱり生きていたいし、死にたくない。
 そんなことを感じながら、「出会い、そして別離のいのち」ということを考えています。

  9、金に換算されるいのち

 個人的な話を申しあげましたが、そこから私はどう生きなきゃいけないのか、そのことを次にお話ししたいと思います。

 皆さん方は多くの人と出会い、また多くの人と別れてきておられることでしょう。養老孟司という人が、いのちの出会い、別れということに関しまして、脳の問題からいろいろ発言しておりまして、いのちをモノとして考える、こういうとらえ方があると言っています。生きているそのことがいのちなのに、いのちをモノとして考えている。ですから、ある検事総長が『人は死ねばゴミになる』という題名の本を出したりしています。

 そして、人のいのちが金ですり替えられている現実があります。たとえば、仮に私と90歳の方が事故で死んだ場合、私のほうが補償金が高いのです。あと何年生きられるか、どれだけの収入があるかで計算されますので、補償金が違ってくるわけですね。妙な話ですが、人のいのちがお金で換算されている。

 今、イラクへ自衛隊の人が行っておられますけれども、一日3万円の危険手当を支給されているそうです。ということは、大変危険だということです。小泉さんは「安全か安全でないか、行ってないところ、わかるわけないでしょう」と居直ってましたけれども、危険手当が出るということは危ないところなわけでしょう。もしものことがあれば、いのちがお金で解決されていきます。亡くなったら1億円でも出すよと。

 人のいのちが金額で解釈されていく、そういう現代社会です。ですから、保険金目当てに自分の家族を人に殺させるといったことが起きている。それが現代社会のいのちのとらえ方です。
 それから、他人の死と身内の死とでは考え方が全く違ってきます。どこかの知らない人が亡くなったとなると、「ああ、そうですか」で忘れていきます。しかし、身内の死となると、悲しいし、つらいし、寂しいし、苦しい。同じ死でも受け止め方が全然違ってくるわけです。

 五木寛之という作家のところへ、ある出版社の編集者が原稿を取りに来たけれども、約束の時間を遅れてしまった。その理由が飛び込み自殺に巻き込まれたからだというのです。
 地下鉄に乗っていたら、急に停車した。5分たっても10分たっても放送がない。通勤ラッシュの時ですから、みんなイライラしてたら、やっと「ただいま、事故がありました。人身事故です」という放送が入った。飛び込み自殺があったという放送です。ところが、車掌さんがどう言ったかというと、「上半身は発見されましたけど、下半身がまだ見つかりませんので、もうしばらくお待ちください」。
 身体が切断されてしまったわけです。その時に、出版社の人はとっさに時計を見たというのです。「上半身で15分だったら、下半身が見つかるのにまた15分かかったらどうしよう。この忙しいのに。誰だ、人に迷惑をかけるのは」というとらえ方なのです。
 自分の足の下では尊いいのちが失われているけれども、モノとしかとらえられていない。それが現代の常識的な考え方になっていないですか。

 私たちが子どものころは「人のいのちは地球よりも重い」と言われていました。地球よりも重いということは、いのちは比べものにならないほど大事なんだ。あなたは世界でたった一人なんだ。オンリー・ワンだ。たった一人の尊いいのちは地球よりも重いいのちなんだ。それが今は見えなくなってしまいました。

  10、念仏は心の慰めではありません

 私は娘の死を通して人間の悲しみ、人間の痛みというものを初めて教えてもらいました。それまで私は自死を他人事と考えていましたから、「自らいのちを絶つ人は弱い人だ。お寺に生まれて育ちながらどうしてそんなことをするのか」と思っていました。
 皆さんはこんなことを考えないですか。仏様の教えを聞いたら幸せになる。仏様の教えを聞いたら家族が和やかになる。それが仏様の教えなんだ。こう受け止めておられませんか。

 私もそう思っていました。よそで不幸があると、あの家庭は仏様に手を合わせないから駄目なんだ、と。
 ところが、娘から突きつけられたのはそうではない。反対でした。思い通りにならないと承知できない私たち、そして思い通りにならない身の事実。それが現実です。

 高史明先生の奥様である岡百合子さんとお話しさせてもらったことがあります。岡さんは息子さんが12歳で亡くなって、しばらくは外へ出ることができなかったそうです。同い年の子どもを見ると涙が出てきた。
 そうしているうちに、声なき声が聞こえてきた。「じゃあ、あなたは息子と同い年の子どもが全員死んだら納得できるのですか」と。そうではないことに気がついた。でも、どうしてあの子たちはあんなに元気なのに、うちの子どもが亡くなったのか。
 人間というのは思い通りにならないと、納得できないのです。しかし、思い通りにならないのが身の事実です。

 こんなことを言ったら何なのですけれども、私は家族が私の思い通りになってくれてる時に一番幸せを感じます。子どもたちも小学校4年ぐらいまではみんないい子でした。よその子どもはともかく、うちの子どもは六人ともとってもいい子でした。ところが中学生になると、みんなちょっとしか言葉を言いません。「わかった」「うるさい」「別に」「腹へった」「金くれ」「むかつく」等々。
 私はテレビを見てて、出演者がケラケラ笑っている番組ってのはよくわかりません。数年前、子どもたちとテレビを見てました。ところが、私がいるとうるさいらしい。「あれは誰だ」と聞くからね。家族にとっては「父ちゃん元気で留守がいい」というのがその雰囲気かもしれません。いつの間にか一人去り、二人去り、三人去りと、気がついたら私一人。で、隣の部屋で同じ番組をケラケラ笑って見ている。我が子であっても思い通りにならない身の事実です。

 お念仏で一緒になる。それはありがたいけれども、お念仏は心の操作ではないのです。大事なことは思い通りにならない身の事実を受け止められるかどうかです。思い通りにならない身の事実を知らされるのがお念仏の教えです。お念仏の教えは心のすり替えではありません。

 ですから、親鸞聖人の教えを聞いていなかったならば、私は現実逃避するか、慰めを求めてさまよっていたか、あるいは私自身がいのちを絶っていたかもしれません。それぐらい娘の自死に動転しました。
 でも、念仏の教えというのは心の操作ではなかった。身の事実に立ちなさいという教えでした。

  11、いたみを感受する心

 高先生が「泣いて、泣いて、泣いてください。泣いて、泣いて、泣いて、お嬢さんのぶんまで生きてください」とおっしゃってくださいました。ところが、民俗学者の柳田国男は、明治以降、日本人はあまり泣かなくなったということを書いています。
 軍国主義になって、「男のくせに泣くのか」「泣くのは恥ずかしい」と言われるようになった。でも、江戸時代までの日本人はよく泣いた。悲しい時には泣く。うれしい時には喜びをあらわにしていく。そういう人間性があった。それが現代では日本人全体に欠落していますね。

 テレビ、新聞を見ると、毎日、子どもたちが殺されています。毎年50人前後の子どもたちが親に虐待で殺されている。と同時に、小学生が誘拐されて殺されることもしばしばあります。とっても残酷なことが次から次へと起きてくる現代社会。

 日曜学校に来ている子どものお母さんが言ってました。小学校の先生が「家へ帰るまでは誰とも挨拶せずに、一目散に帰りなさい」と教えているっていうのです。学校も責任があるから、子どもが帰宅途中で事故に遭ったら大変です。
 私たちの子どものころは、「道で人と会ったら挨拶しましょう」と言われました。今は「下手に挨拶したらいけません。一目散に逃げなさい」と教える。どうしてこんなになっちゃったんでしょう。

 そして、人が死ぬのが見てみたかったというので、まったく知らない主婦を殺す。これは愛知県豊川市の17歳の少年です。そしたら、その事件を聞いた佐賀の17歳が「よくやった。おれもやりたかったけどできなかった」というので、バスジャックしてしまった。三人に切りつけ、一人が殺されました。そのバスに乗っていた小学生の子はいまだに恐怖におびえています。
 そして、いじめを受けていた高校3年生の少年が野球部の後輩四人をバットで殴り倒し、重軽傷を負わせた。殺人を犯したと思い込んだ少年は、母親に迷惑をかけたくないと思い、母親をバットで殴って殺した。そして、自転車で秋田まで逃げた。

 そういうことが続いたものですから、一時は「17歳は恐い」と言われました。しかし、とんでもありません。そんなのはマスコミが勝手に作っているだけのことです。子どもからお年寄りまで、やさしさ、あたたかさが欠落しています。17歳だけじゃありません。
 事業に失敗した50歳のお父さんが、家族を皆殺しにして自殺しています。あるいは、北海道で80のおじいちゃんが、おばあちゃんがお惣菜を作りすぎると怒って殺してしまう。キレるのは子どもだけでなくて、大人まで、老人までもキレてしまう現代社会。どうしてこうなっちゃったんでしょう。

 私の住んでいる村も、以前はほとんどの家にカギはなかったのです。けれども、今はどの家もカギをかけています。私の家でも、先日泥棒に入られて、カバンを盗まれてしまいました。ところが、カバンの中に予定を書いていた手帳が入っていたものですから、あちこちに迷惑をかけるようなことになってしまったわけです。

 人を見たら泥棒と思えという世の中は嫌ですね。でも、現実は恐ろしい社会でしょう。いつでも、どこでも、誰にでも起こりうるような恐ろしい事柄が当たり前のように起きている。そんな現代社会です。
 そこに、当たり前の人間のやさしさ、人の痛みを感じる心、一緒に涙を流す感性。これが失われてしまったように感じます。

  12、金子みすゞの世界

 金子みすゞに「大漁」という詩があります。

   朝焼小焼だ 大漁だ
   大羽鰮の 大漁だ

   浜は祭りの ようだけど 
   海のなかでは 何万の 
   鰮のとむらい するだろう

 この世に生きているのは人間だけではありません。お釈迦様は「蚊やハエは殺していいですか」と聞かれた時、「いけません」とおっしゃっています。すべてのいのちは平等であると。
 お坊さんの持っている払子という、棒の先に馬のしっぽみたいなのがついているものをご存じですか。あれは蚊やハエを追い払うものです。仏教の基本は不殺生、どんな生き物でも殺さない、ということです。

 ところが、人間はいのちを差別しています。東京の松崎さんという方は江戸川区にお住まいで、松葉杖で生活しておられます。散歩していると、電柱に「蝶々やトンボの戻ってくる町にしましょう」という張り紙がしてあった。東京の川沿いでは蝶々やトンボがいなくなったのでしょうか。松崎さん、もうしばらく歩いていくと、別の張り紙を見つけた。それには「蚊やハエのいない町にしましょう」と書いてあった。二つの張り紙を一つにしてみたら、どうもおかしい。つまり、蝶々やトンボはよろしい、蚊やハエはいないほうがいい。これが人間の感覚でしょう。

 芥川龍之介に『蜘蛛の糸』という童話があります。大泥棒のカン陀多という者がいた。火はつけるは、強盗はするは、人を殺すは、悪の限りを尽くした。そのカン陀多が地獄の血の池で苦しんでいるのを、お釈迦様は浄土の池からごらんになった。お釈迦様は、カン陀多が一つでもいいことをやっていたら救ってやりたいと考えました。そしたら、一回だけ悪いことをしていなかったことを思い出された。どういうことかというと、歩いていると蜘蛛がいた。踏み殺そうとしたが、「いのちのあるものに違いない。そのいのちを無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ」と思って助けた。
 それで、お釈迦様は蜘蛛の糸をたらした。その糸を見つけたカン陀多はしめたとばかり、糸をつかんで一生懸命に上っていったわけです。そこまではよかったのです。ところがふと下を見たら、地獄に堕ちていた罪人たちがぞろぞろと上ってきている。糸が切れたら大変と思って、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。下りろ。下りろ」と叫んだ。そしたら、糸は急にぷつりと切れてしまった。

 これは仏教で言う自利利他ということです。私さえよければいいのではない、私の隣にいる人、すべての人が幸せになって、私の幸せが成り立つんだ、という考え方です。それに対して人間は、自分さえ、今さえよければいい、という思いがあるのですね。

 そういう人間の根性がある中で、金子みすゞは目線を海の中におろしています。人間は「大漁だ、浜は祭りのようだ」と騒いでいる。しかし海の中では、人間によってたくさんの仲間を奪われたイワシが「何万の鰮のとむらい」をするだろう。
 金子みすゞのやさしさです。そして、痛みを感ずる心です。そのことを忘れないでいただきたいと思っています。

 こんなことを言いますと、「昔はよかった」って話になるわけですが、そうじゃありません。昔から伝えられてきた、親から子、子から孫へと伝えられてきた、その村、その家、その人たちのやさしさ、あたたかさ、人の痛みを感ずる心が今はなくなってしまったのです。
 そういう時代社会の中で、お念仏の教えを聞かしていただくということは、問題が解決して問題がなくなるということじゃありません。苦しいけれど、悲しいけれども、そこに立つ。逃げない。逃げることを許さない。そういう生きていく力をいただくのです。

 娘を亡くして、私は娘がかわいそうだと思っていました。それは私が娘を所有してたからです。つまり、娘は私よりあとに亡くなるんだという思いがある。ところが、娘が先に亡くなった。思い通りにならない。承知できない。だから悩み苦しみました。
 しかしそうではなくて、娘が自らの死を通して私に何を教えてくれたか。それは「生きる」ということです。つまり、亡き人を縁として、いのちをいただいていることを確かめさせていただく。そのことを娘は私に教えてくれたのです。

  13、いのちには長さと幅と高さがある

 いのちには長さと幅と高さがあると、金子大栄先生が教えてくださいました。長さというのは、私たちのいのちには限りがあるということです。蓮如上人の言葉を借りれば、「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」というはかないいのちです。

 皆さん、いくつまで生きたいですか。いくつまで生きたら満足ですか。私のところにお参りにこられたお年寄りがこんな話をしておられました。
「おみゃあさん、いくつになりゃぁた」
と、ばあちゃんがじいちゃんに聞いています。
「わしか。わしは88だがや」
「元気だなも。あんたさん、それなら100まで生きれるよ」
 そしたら、しばらくしてじいちゃんが笑いながら、
「なんでおみゃあさんが人のいのち、勝手に100で切る。わしは明日死ぬか、120まで生きるかわからんのに、人のいのち、勝手に切るな」
とおっしゃった。

 そのとおりです。そのとおりですけれども、みんな、この長さばかりを問題にする。そして、長いことがいいことだという思いでいる。みんな思いの中で生きているのです。

 こんな歌があります。
「お前百まで、わしゃ九十九まで。いつも三月花盛り。死なぬ子三人みな孝行。使っても減らない金十両。死んでもいのちがあるように」

 これが人間の根性でしょう。欲深くなった現代人はまめで長生きしたい。そしてコロリと死にたい。というので、ピンピンコロリがいいんだということがあちこちで言われてます。
 それとか、「ご院さん、年はとりたくないね。孫にまで馬鹿にされて。長生きはしたいけど、年はとりたくないよ」と、よく聞きます。しかし、長生きをしても年をとらないなんてお化けです。そんな矛盾ばっかり夢見ている。

 ところが、長さというのは一瞬なのです。『四十二章経』という短いお経の中にこういう話が出てきます。お釈迦様が三人の弟子と食事をしていた。その時に、お釈迦様が「汝の寿命はいくばくぞ」、あなたはあとどれくらい生きられると思うか、と聞かれた。最初のお弟子は「来年の寿命はわからないけれども、一週間ぐらいは大丈夫でしょう」と答えた。そしたら、お釈迦様は「汝、いまだ道を得てそうらわじ」、あなたはまだ本当のことがわかっていないよとおっしゃった。二番目のお弟子にも同じ質問をしましたら、「明日のいのちもわかりません。しかし今日一日は大丈夫でしょう」と答えた。するとお釈迦様は「あなたも本当のことがわかっていないよ」と言われた。
 そして三番目のお弟子に「あなたはあとどれくらい生きられると思うか」と尋ねると、「阿吽の呼吸の間でございます。吸った息が出なかったらそれでおしまいです」と答えた。阿というのは吐く息、吽は吸う息。吐く息、吸う息のどちらかがとぎれた時にいのちは終わるのです。お釈迦様はその答えをほめて、「そうだ。いのちの長さは吸った息が出るのを待たぬほどの長さでしかない」と言われたのです。

 余談ですけれども、仏教では脳死は死ではありません。仏教の死は呼吸死です。阿吽というのは一瞬ということです。刹那です。無意識の間にも、空気を吸って生きておる我々です。一瞬の長さしかないいのちなのに、自分の思いで、いつまでも生きて、何々して、どうのこうのと言っている。

 余談ついでに申しあげるのですけれども、皆さん、幽霊とは何かごぞんじですか。幽とはさまようという意味です。過去、未来、現在、いずれの場所においても身の置き所のない人間の有り様を幽霊と言います。難しいですか。
 簡単に言いますと、幽霊は足がないでしょ。ふわっとしている。そして、「うらめしや」と言いながら出てくる。「ありがとう」ではないですね。
 どういうことかというと、これは過去を愚痴っている人間の姿です。「昔はよかった」「わしらの若いころは」と、そんなことばっかり思って、過去の愚痴を言っている私たちのことです。そして、未来に対しては夢と希望が持てない。だから「うらめしや」。

 我々の時間は過去、現在、未来ですけれども、仏教は過去・未来、現在の順番です。つまり過去と未来はみんな思いです。あるのは今です。現在ただ今しかないのです。その現在に足がない。フラフラしている。それを幽霊と言うわけです。

 皆さんは今ここに身をおいとられます。じゃ、心はどうですか。ここにじっとしてますか。「今晩の夕食は何にしようか」「あの先生のヒゲは麻原彰晃に似ている」と、もういろんなことが思われてくるでしょう。
 そして、自分の都合いいことは耳に入るけれども、都合が悪くなったらピシャッでしょ。人間の根性というのはだいたいそんなところで、人の話がよかったか悪かったかというのは簡単なことです。都合のいい話を聞いたら、「今日の話はためになってよかった」。そんなのは煩悩が喜んでいるだけの話です。都合の悪い話を聞くと、「今日の話は難しい。あのヒゲ、何とかならんか」と文句まで出てくる。

  14、自身を知る

 そういう現実の中で、「自分自身を知れ」ということをお釈迦様は教えられました。それを難しい言葉で「汝自当知」と言います。「汝自らまさに知るべし」と仏様が言われた。
 私は娘の死を通じてつくづくそのことが思い知らされました。人のことはよくわかります。よそのことはよくわかったつもりになるのです。しかし自分のこととなると、とたんに見えなくなってしまう。だから、仏様は「汝自当知」とおっしゃっています。あなたはあなた自身を知りなさいよと。

 こうして仏法を聞くということは私を知るということなのです。もっといえば、私に気づかされるということです。知るには鏡がいります。それを善導大師という方は、「経教はこれをたとうるに、鏡のごとし」と言っておられます。教えとは鏡のようなものだということです。

 今日のこの会にしたって、自分一人のためにあるのです。ここに来た動機はどうだってかまいません。住職さんから言われたから仕方なく来たのでもいいんです。ところが、来てみたら大変だった、ということです。自分一人のためにこの会が開かれていたんだ。それが気づきなのです。そういう意味で「汝自らまさに知るべし」とは、私が知らされるということです。

 娘が亡くなって一年ほどたったころ、JR西日本の脱線事故がありました。私、テレビを見てて、涙が出て、涙が出てとまりませんでしたね。「お母さん、車で送っていこうか」「いいよ、今日は電車で行くから」と言ったお母さんは帰らぬ人でしょう。あるいは、娘さんが旅行に出かける途中に亡くなっている。まさに「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という現実です。

 その現実に対して恐れおののくんじゃなくて、現実を受け止めていくというのが「汝自当知」です。だから、私は生きる責任があるのです。生きていかなければならない私の課題があります。それは、病む人たちがいたら、その人たちと語っていかなきゃいけないということです。
 私自身、娘の自死で苦しんでおりますから、私は「死にたい」と言う人がいたら、「駄目だよ。死んだらいけないよ」ときっぱりと言います。「私なんかいなくたっていいんだ」と言う人に、「そうじゃない。あなたが死ぬことで、どれだけ多くの人たちを悲しませることになるか。あなた一人のいのちではないんだよ」と話しています。

 自らいのちを絶つことを私は賛美することはできません。娘は自死してよかった、幸せだったとは思えません。どうしても納得できません。しかし、娘を責めることもできません。死ぬよりもつらい何かがあったんでしょう。

 そのつらさはよそのこととか、他人事じゃありません。仏様の教えを聞くことによって同悲同苦の世界、同じく悲しみ、同じく苦しみを受け止めていける世界をたまわる。「一人でなかった」ということです。他に代わってもらうことのできないたった一つの私のいのち、「それを生きよ」というのが仏様の願いなのです。

  15、一人いて賑やか

 いのちの幅とは社会性です。人間は社会的動物です。人間の社会性というのは何かといえば、一人ではないということです。人間は一人で生きているんじゃありません。「おれは誰の世話にもならん」なんて言う人が多いでしょう。とんでもない。そんなの傲慢です。

 「生んでくれと頼んでないのに勝手に生んで」というのも大間違い。私は子どもからそんなことを言われたらこういうふうに答えようと答えを用意してました。「おれが作ることができたら、お前みたいなくだらん奴は作らんかった」と。
 子宝というのはお与えです。オギャアと産まれた時から、その人はその人のいのちを生きている。親の代わりに生きるんじゃありません。

 一人で生きているのではないということで、林竹二という先生は「人間の子は人間か」という問いを出されています。オタマジャクシは誰がどこで育てても、やがて手が出て足が出てカエルになる。ところが、人間は人間に育てられて初めて人間になるのです。

 私は8年間英語を勉強しましたけれども、しゃべれないのですよ。しかしその私も、アメリカに生まれ育っていれば英語がペラペラです。つまり、習慣なわけですね。広島に生まれた人は広島弁が上手にしゃべれます。民族としての習慣もありますし、その家々でもあるでしょう。つまり、人間は人との関わりの中で生きているということです。

 年をとってくると、人間は孤独を感じていきます。ひとりぼっち。言うに言われない寂しさ、不安。
 ところが曽我量深先生は、
   仏を信ずれば独りでも賑やか。
   多くの人の中にいても静か。
とおっしゃいました。一般常識では反対じゃないですか。一人でいると寂しくて、大勢いるとやかましい。だから、時には一人になりたいと思うことがあるでしょう。だけど、一人になったら寂しいですよね。

 お浄土の世界は違います。一人でいてにぎやか。つまり、一人一人が独立しているのです。そういう生き方です。なぜなら私のそばに仏様がいつでもいてくださる。仏様は、「あなたは一人ではない。私はいつもあなたのそばにいるよ」といつも呼びかけてくださっている。

 人間が人間を救うのには限界があります。人間の世界には、救ってあげたくても救えないことがいくらでもあります。ところが、仏様はどこまでもあなたのそばにいる。悲しんでたら悲しみの中に、喜びがあれば喜びの中に、仏様はいつでもいる。その仏様が、私にとっては娘という形で私に呼びかけているのです。

 朝晩、お勤めをしていて、「ごめんね。どうして気づいてあげられなかったのか。どうして救えなかったのか。人にあれこれえらそうなことを言いながら、我が娘一人を救えなかった。なんという情けない親なのか。ごめんね」と、私としてはそう思わずにおれません。
 しかし、そんな心配は一つもいりません。娘は私の愚痴のところにはいないのです。私に先立ってお浄土へ帰っていった娘は「お父さん、しっかりしなさいよ」と声をかけてるんでしょう。「お父さん、どうか仏様の教えを聞いてください」と願いをかけているんでしょう。その願いの中で私と娘とが出会えるのです。

  16、宥し合う世界

 余談ですけれども、出会うということでちょっとだけ説明させていただきます。私の生まれたお寺のご門徒に、大河内祥晴さんという方がおられます。12年前、息子さんの大河内清輝君がイジメを苦に自らいのちを絶ってしまいました。イジメの中心だった四人は少年院に送られています。
 学校側はイジメはなかったと言っていたにもかかわらず、清輝君の遺書が見つかって、イジメによる自死だということがわかりました。新聞記者から「暴露したら大変です。静かにしてはおれません。どうしますか」と言われたのですが、祥晴さんは新聞に遺書を発表しました。
 すると親たちからは、「騒いだことで地域に泥を塗った」「受験で不利になった」といった、大河内さんを非難する声があがったそうです。また、「いつまで学校に文句を言っているんだ」という電話が大河内さん宅にかかってきたりしたとも聞いています。

 大河内さんは寺の総代をされていました。みんな言いました。「総代の家で何で自殺なんかするのか」と。とんでもない。仏法を聞こうが聞くまいが、死ぬ時には死ぬわけです。大事なことは残された人がその後どう生きるかです。死んだ人がかわいそう、どうのこうのでなく、残された人がどう生きるかということが大きな問題です。

 みんな落ち込んでいくんですよ。罪の意識と後悔ばかりです。それが自死の取り囲んでいる現実です。
 そして、殺された親は必ず怒りです。憎しみです。ところが日本の法制は、加害者と被害者が出会えないようになっている。ここに被害者の救い、加害者の償いの問題があるわけです。

 ところが、大河内さんのところへは毎月27日の命日に、いじめた四人と彼らのお父さん、お母さんがお参りに来ているのです。私の兄が住職ですから、一緒にお勤めをして、みんなと話をすることを12年間毎月続けています。
 私は大河内さんに聞きました。「あなたは四人の子どもたちが憎くなかったですか」と。そしたら、こうおっしゃいました。
「憎かった。この四人さえいなければ息子は自死しなかった。だから憎かった。しかし、憎しみでは出会えないことに気がついたのです。人とは憎しみの中では出会えないのです」

 宥すということがどこかにないと、人とは出会えないのですね。憎しみの心では亡くなられた方とも出会えません。
 四人はもう25、6歳になります。大河内さんは12年間、彼らと話をした。毎月出会って、謝り宥す世界が12年間。その中で大河内さんは、「わかった」と言われたのです。「四人の子どもたちも寂しい、悲しい思いがあったんだ」と。大河内さんはいじめた四人とこうして出会う中で、亡くなった清輝君とも出会っていかれたのでしょう。

 法然上人が9歳の時にお父さんが殺されました。お父さんは最期にこう言ったと伝えられています。
「恨みを持って仇を返せば、恨みしか残らない。だから、仇を討つな。恨みを捨てよ。それよりも出家して、私の菩提をとぶらい、自分自身の解脱を求めてほしい」
 法然上人は比叡山に入って僧侶になります。親鸞聖人はその法然上人の教えを聞き、本願念仏の教えを明らかにされました。
 法然上人のお父さんが遺言されたように、恨みを捨てたところに救いの道があるのです。ところが、恨みを捨てられないのが私たちの執着心です。

 ブッシュ大統領の考え方では問題は解決できないのです。テロは絶対にいけません。テロを許してはなりません。けれども、テロに対して武力で抑えようとしたって、それは無理です。対話が大事です。
 ブッシュ大統領のお父さんも湾岸戦争では神の名のもとに正義の戦争をしました。フセイン大統領もアラーの神のお告げによって聖戦を持ち出しました。正義と正義のぶつかり合い。人間の考える正義というのは、それくらいいい加減です。

  17、いのちは真理そのものを求めている

 そして、いのちの高さとは、より真実を求めたいという心です。今日は暇だからここへ来たという人はいないと思います。時間を作ってここに来ておられるのです。その尊いひとときは何のためか。私が私自身を知る、よりよき生き方をしたいという深い願いがあるからです。その願いが私をここに座らせていただいているわけです。

 私自身を知る教えというのは、真理の前に座れ、道理の前に座りなさいということです。真理とはたとえば四苦八苦です。生老病死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦、これを四苦八苦というでしょう。愛する者とどうしても別れなければならない苦しみを人間は背負うているのです。憎しみ合う者とも縁があれば一緒に暮らさなきゃならんのが人間の苦しみなのです。
 そんなことは誰かが作って考えたことじゃなくして、我々の生活そのものでしょう。人間であるかぎり誰ものがれることができない。その事実を知りなさい。このようにお釈迦様は教えてくださったのです。

 だから、年をとったから生きている間に仏法でもちょっと聞いておこうかなんて言う人がいますけれども、そんなのちょぼちょぼ満足です。仏法を聞くために与えられているいのちです。百八十度ひっくり返るわけですよ。そこから自分の歩みが始まっていくのです。
 こんなややこしい話を聞くよりも、趣味として文化教室で仏教の話を聞いたほうがよっぽどためになります。だけども、人間というのは深い心の奥底ではさまよってはおれない。だから、どこかに足をつけたいという欲求があるのです。それが皆さんがここにおられる事実です。それが信頼できるのです。人間の心の問題なんて当てになりません。妄念妄想。人は都合のいいようにしか考えないのですから。しかし、ここに座っておることだけは事実です。

 ですから、今日話を聞いたから今晩あたり救われるだろう、という寝ぼけた話ではないのです。そうじゃありません。今、ここにいて仏法を聞けることが喜びであり、救いです。これ以上の救いが何なんですか。みんな無い物ねだりでしょ。
 中には、今日聞いた話を誰かに話してやろうと思っていらっしゃる方がおられるかもしれませんね。そういうのをスケベ根性と言います。聞いたままでいいのです。聞くのは我が身一人です。

 私は父の死と娘の死と同時に出会いました。そして、多くの人たちと出会い、多くの仲間の死と出会いました。出会って、そして別れていく。そんな中で私は、生かされてあるいのち、いのちの尊厳を知らせていただいております。

 今日、皆さんのおかげでこうして出会わさせていただいたことを心より御礼申し上げます。仏法を聞くために与えられたいのちである。どうかそのことを忘れず、これからも聴聞の場に足を運んでいただけたらありがたく思います。
 これで終わらせていただきます。長時間ありがとうございました。

(2006年5月26日に、善福寺で行われました山陽教区安芸南組仏婦連大会でのお話をまとめたものです)