|
なぜやめないのか
入信したのはいいが問題点がいくらでもある、だったらやめればいいじゃないかと思うのですが、教団に留まる人がいるし、教団から離れてもその教えを信じ続ける人がいます。
ただ、私にとっても日蓮正宗の教えそれ自体、また、御宗門はすばらしいものだとの思いはいまも昔も変わりません。 湯野重『池田学会 イニシエーションの恐怖』
私は霊友会員でしたが、久保騒動の時に嫌気がさして脱会しました。でも霊友会で教えてもらった先祖供養の効果や意義は今でも信じています。そこであなたにお聞きしたいのですが、組織に属さずとも、たった一人で先祖供養をしても、真心さえあれば、霊友会に属していた時と同じような効用はあると思いますか?
霊友会の場合、九字を切ったりいろいろ霊能の効果もあったこともあったからよりその組織としての教団を否定できないのかなあ。 (インターネットより)
なぜ今のままでいようとするのか、変わろうとしないのでしょうか。
①自分の考えや行動が間違っていたと認めたくない
②他の人よりも自分は優れていると思っていたい
③やめた後どうしたらいいかわからない
④責任や面倒なことを背負いたくない
ということがあると思います。
①自分の考えや行動が間違っていたと認めたくない
自分のしていることは意味があるんだと我々は思っています。だから苦しいことでも我慢してやり抜きます。
ところが、正しいと信じていることが実は間違いだったということになれば、それまで自分が一生懸命したことは意味がなかった、無駄だったということになります。つまり、これこそが自分の生きる道だと信じ続けてきたことを否定しなければなりません。となると、必死で努力したこと、命がけで修行してきたのは何のためだったのかということになります。これはつらいですね。また、自分は愚かだったからだまされたんだと認めなければいけません。
こうした心理は詐欺にあった人の場合でも同じです。多くの人は自分が詐欺にあってだまされたとなかなか認めないものだそうです。
内容に見合わぬ過大な価格の商品を買わされた消費者は、むしろその商品の擁護につとめるものだという結果が出ている。学会の女性たちは、末端においても幹部クラスにおいても“池田先生”という商品を買い取るために、それぞれ多大な犠牲を払ってしまった。いまさら、それを否定すれば、彼女はまた、元通り、家庭内権力闘争に敗れた家政婦がわりの人間になってしまう。 井田真木子『池田大作 欲望と被虐の中で』
ですから間違いだと認めることは難しいことです。それでいろんな理屈をつけて間違っていない、正しいんだと思いこみます。
事件はポアで、グルの深いお考えがあってやったことに違いないって自分を納得させていたんです。具体的な事実を突き付けられても、信はゆるがなかったんです。 カナリアの会『オウムをやめた私たち』
戦争についてもそうです。正義の戦いだと信じていたのに、侵略戦争だった、我々は間違っていたんだ、と言われても、はい、そうですか、とはいきません。だったら今まで命がけでしてきたことは一体なんだったんだ、多くの人が死んだのは何のためだったんだ、と反論したくなるでしょう。
その気持ちはもっともです。しかし他国の大勢の人が傷ついたのは事実です。仕方なかったとか、正しいと思っていたんだとか、日本も大きな犠牲を払ったんだという言い訳を言ったり、ましてよその国だって同じことをやっているじゃないかとか、植民地が独立したのは日本のおかげだ、などという開き直りをしていいものでしょうか。
同じように、それは教団作りのための方便だったとか、教祖(あるいは神)には我々にわからない深いお考えがあるんだなどと、自分自身をごまかし、教団や教主の間違いを認めようとしないのでは、さらに深い迷いの中に陥ることになります。
全ては神の御心です。神は優しいだけではありません、時に厳しくもあるのです。厳しくされるのも全て神の御心です。児童虐待や飢餓、虐殺等…人道的に非道い行いも全て神の御仕組みの一つであり、全ては世の中をきれいにするための一環です。 (インターネットより)
こういうふうに「すべては神の摂理であり、我々には想像も及ばない深いお考えがあるんだ」と考えるようになると、目の前の事実を見なくなります。どんな悲惨な現実があろうとも何とも感じなくなります。こういう考えをさせるのは愚民化です。それで満足するのは奴隷の幸福です。
満足した豚よりは不満足な人間のほうがいい。満足した馬鹿であるよりは不満足なソクラテスのほうがいい。 ジョン・S・ミル『功利主義』
②他の人よりも自分は優れていると思っていたい
村上春樹がサリン事件の実行犯の裁判を傍聴した感想をこう言っています。
この人たちはなんのかんの言っても、自分たちが<一般の方々>よりは高い精神レベルにあるという選良意識をいまだに抱き続けているのだなという印象を受けないわけにはいかなかった。(略)たしかに出てきた結果は悪かった。反省はしています。でもオウム真理教というあり方の方向性そのものは間違っていないし、その部分までを全否定する必要は認められないのです」と。 『約束された場所で』」
統一協会内部にいるかぎり安泰な生活を送れます。幹部は、内部で部下を絶対服従させることができ、末端信者から尊敬と信望を集め、ふつうでは味わえない支配欲と満足感を手に入れられます。あたかも自分がミニ文教祖になったように。こうして文教祖の心が信者に伝染していくのです。
こういった人が、今さらまちがいだから社会に戻ろうとしても、大変勇気がいります。職もない社会不適応者になり、それまでの自分を全否定しなくてはならないからです。
だから上層部のウソやまちがい、反対派の正しい批判にも目をつぶり、ただ上の命令に言いなりの人間に堕落していくのです。 南哲史『マインド・コントロールされていた私』
③やめた後どうしたらいいかわからない
教団の中ではちやほやされていても、外に出ると単なる一人の人間に過ぎなくなります。教団を離れ、教えを捨て、仲間と別れ、これからどのように生きたらいいのか。心のよりどころがなくなり、教団という守ってくれるものがなくなり、一人で生きていかなくてはいけません。孤独です。
すべて一から出直しです。まずは生活の手段を考えなくてはいけません。ところが、やまぎし会のような所だと、そこで育った人は中卒という学歴しかなく、資格も持っていません。外でどのような仕事を見つけることができるでしょうか。まして家族がヤマギシ会にとどまっていたら他に頼る人もいません。しかし組織にとどまっていると生活は保障されているし、組織内での地位が上昇して安楽な生活ができます。
教団を離れることから生じる不安、とまどい、おびえ、恐れを抱え、どうしていいかわからないのは当然です。ですから教団という組織の中の地位、生活をなかなか捨てられません。
もちろん、僕もこわかったよ。自分が何年も信じてきた教えを捨てるわけだし、それをやめてスタート地点に戻る、その空虚感、虚脱感といったらねえ…。
私自身、オウムの中にずっといたわけだから他のことは何も知らないわけだし、いったいオウムのどこが間違っているのか、それを超える正しい教えはあるのか。あるいは社会の中でどういうふうに生きていけばいいのか、わからないわけです。また、オウムでは、現世というのは非常に無常で無意味なもの。そう教え込まれているわけですから、泥沼に入っていかなければならない苦しみもある。 カナリアの会『オウムをやめた私たち』
④責任や面倒なことを背負いたくない
支配したがる人、命令したがる人がいます。でもそんな人にかぎって自分より強い上の権威には弱いものですから、下には厳しくても上の人には従順です。
逆に自分の考えで行動することをせず、人の命令に従うことに抵抗感を持たない人がいます。なぜか人の言いなりになるのです。詐欺商法に何度もひっかかる人や、人から言われなければ何もしない指示待ち人間もそうしたタイプの人です。自分は人の言いなりになりがちだとは気づいていないかもしれませんが。
どちらにしろ自分のすべきことを自分で選ぶことをせず、他人の命令に従う方を選ぶ人が多いと思います。
ぶつくさ言いながらでも命令に従うのは、権威に依存することによって自分が責任を負わずにすむし、何も考えないことで不安を逃れることができるからです。もっとも気楽な生き方は、自由を捨てて他に責任をゆだねる生き方なのです。
大衆は目的のはっきりした主張の容赦ない力と押しの強さを目の前に見て、結局それに屈従するものなのだ。
ヒットラー『我が闘争』
すべてを人に任せ、依存することで安心したがるという傾向が、誰にでもあることは否定できないと思います。
出家したすぐの時期には「功徳を積む」と言うんですが、主にこういう奉仕作業をやります。少しは修行もしますが、ほとんど作業です。でも教員のときとは違って、人間関係のしがらみなんて何も考えなくていいし、責任みたいなものもありません。いちばん下について、普通の会社の新入社員のように、上からやれと言われたことをひとつひとつやっていればいいだけです。精神的にほんとに楽だったです。
指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。こういうの楽だなあって思いました。自分で何も考えなくていいわけですからね。言われたことをそのままやっていればいい。自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。 村上春樹『約束された場所で』
これらはすべて創価学会が行っている「指導」第一主義が、何から何まで自分のことを決めないで、幹部に判断を任せるように仕向けているせいだといえます。日々の生活から仕事にいたるまですべて幹部の指導によって決められていくのです。例えば学会に入ると自ずと情報は遮断されますが、それも学会独特の「指導」第一主義があるからです。
平成三年に学会と宗門が絶縁状態になった頃、宗門への批判記事が聖教新聞や創価新報などに出ることに疑問を持つ学会員は、当初はたくさんいました。ところが、自分ではその善し悪しが判断できないため、幹部のもとへ行って指導を受けることになります。そして、「それはあなたの信心が曲がっているから、疑問を抱くのだ」と言われて、学会員たちはいつの間にか納得していくのです。
「信心が悪い」と言われて、学会員たちはつい自分で考えることなく、幹部の言うことを鵜呑みにしてしまうのです。学会では、一般の週刊誌や新聞などは「全部学会を倒そうとしているんだから、まともに読むな、買って読むな」と言われているくらいです。銀行などに置いてある週刊誌に学会を批判する記事が載っていると、そのページを破って捨てるということも学会員は平気でやるのです。それが学会の中で功徳ということになるわけです。
学会員たちはこのように純粋ですから、いつの間にか決められた通りに動くことになんの疑問も抱かなくなります。とにかく池田大作に対して自分の純粋性、忠誠心を証明することが自分たちの使命だと考えているのです。私たちは学会幹部の意向によって明らかにマインドコントロールされていました。 湯野重『池田学会 イニシエーションの恐怖』
自分の道を自分の責任で見出し、選び、行動し、その結果に責任を持つのが、独立した自由な人間と言えるのですが、それはしんどいことでもあります。だから自分で考えることをやめて、人の言いなりになるという楽な道を選ぶのでしょう。
|
|