真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

 延塚 知道さん
  「世間の幸せに死んで、本願の真実に生きよう」
2005年9月8日 
 
  1

 皆さん、こんにちは。大谷大学教授の延塚です。今日は大谷大学の同窓会ということで、しばらくお話をさせていただきます。どうぞ楽にしてください。

 台風はどうでしたか。僕の家は福岡なんですが、大変でした。避難勧告が出されまして、避難所に避難してました。

 今日は「世間の幸せに死んで、本願の真実に生きよう」という題を出しました。これは、曽我量深という先生がおられまして、「信に死して願に生きる」とおっしゃったんです。信心によって、世間を生きる者から如来の本願を生きる者になろう、というはげましの言葉をいただいたわけです。
 それを今の言葉に直したらどんな言葉になるかなあと思い、「世間の幸せに死んで、本願の真実に生きよう」という題にしたわけです。

 私たち、日ごろ世間を生きているわけですけれども、普通どんなことを願って生きているでしょうか。皆さん、どうですか。何が大事ですか。

 最近、金が大事と言う人はあんまりおらんようになった。裕福になったんでしょうね。たいがい健康とか長生きです。みなさんもそうですか。
 今年の長者番付一位の人は健康食品の会社の社長さんですからね。今は健康ブームやから。
 皆さんは健康食品をとってませんか。大学にクロレラ飲む先生がいて、僕は「クロレラなんか効かんでしょう」と言ったら、「いや、だまされたと思って三ヵ月ほど飲め」と言われて、僕の名前でクロレラを注文してくれたんです。それで三ヵ月飲んでみたんです、だまされたと思うて。
 ああいうのはどこかがよくなったという感じじゃないんですね。ただ、やめるとどっかが悪くなりそうな気がするんですよ。それでやめられん。二年以上ずっと飲んどる。

 健康と長生きが一番大事というのは、今の人、みんなそうかもしれんですね。昔、僕らが子供だったころ、もう少し豊かになったらと、みんな思ってたんだけど、今は健康と長生き。

 僕は京都の鴨川のほとりに住んどるんですけど、朝、みんな走ってます。女の人が多いよ。ドタドタ走っとるわ。
 僕らが子供のころは、還暦の人いうたらものすごい年だったですね。歯が抜けて、腰が曲がって、還暦の人はほんとにおじいちゃん、おばあちゃんでしたけど、今は六十歳いうたら、まだ再婚しようかという勢いやもんね。若こうなっとるんや。
 女性の平均寿命は八十五歳、男性は七十八歳でしょう。僕は八十五年も生きる元気ないなあ。

 きんさん、ぎんさんがおられたでしょう。テレビで見たけど、百歳の時に名古屋の市長さんがお祝い持って行ったんや。百万円をお祝いに差し上げた。
 「この百万円、何に使われますか」と市長が聞いたら、一人の方が「今までお世話になった人に半分差し上げたい」と言われて、えらいなあ、さすがやなあと思ったんです。「あと半分は何に使いますか」と市長が聞いたら、「老後のためにとっときます」
 百歳でまだ老後がある言うんやから。長生きしたいのは本能ですね。

  2

 親鸞聖人が一番大事にされた経典は何か知っていますか。『大無量寿経』です。親鸞聖人は「大」という字を「大乗」とか「大信」と使われるんだけど、その時には「大きい」という意味と「仏さま」という意味があります。

 「無量」というのは、「はかることができない」という意味です。私たちの頭、分別でははかることができない。
 「寿」は「いのち」という意味ですね。

 ですから、『大無量寿経』という経典は、「仏さまの、私たちの分別でははかることができない本当のいのちの教え」ということになります。

 ところが、親鸞聖人は『大無量寿経』という言葉を使われるんですけど、『大無量寿経』という名前の経典はないんです。『仏説無量寿経』というのが本当の名前です。『大無量寿経』は親鸞聖人がこのような意味合いにいただかれた名前だということです。

 仏教というのは本当のいのち、というか、どう言うたらいいのかなあ、まあ「本当のいのち」ということにしときましょう。本当のいのちとは何かを私たちに教えて、そして生死を超える、堂々と生きていける者にまでしてくれる教え、それが親鸞聖人の仏教というふうに考えることもできます。

 ところが、私たちが「いのち」と言う時には、きんさん、ぎんさんじゃないけど、百歳まで生きたというような「いのち」を考えますね。動物的ないのちというか、生物的ないのちというか、それしか考えません。そして、そういういのちは、百年生きたとか、平均寿命が八十五歳だとか、はかることができるわけです。

 ところが、仏教で教える本当のいのちというのは、僕らの分別でははかることができない、無量だと言われています。
 では、はかることができない無量のいのちというのはどんないのちなのか、ということになります。それがわかれば、親鸞聖人が教えてくださっていることは何かがわかることになります。

  3

 ところで、私の父親は十二、三年前になくなりました。七十七歳でした。「危篤だから帰れ」と電話がかかってきましてね、すぐに帰らんと間に合わんと思ったんですけど、東京に話をしに行かなくてはならない。代わりがいないもんですから、仕方なく東京へ行ったんです。

 その時に僕は、父親にはもう会えんでもいいかなと思ったんです。というのは、父親とはもうすでに出会えたと思っていたからなんです。

 父親と子供、あるいは夫と妻といっても、なかなか本当に出会えるということはないでしょう。いつもすれ違っとるような気がしませんか。
 夫婦ゲンカの最後の言葉は、「そういう人とは思わんかった」というのが捨てぜりふですよ。そんなこと言われても、「昔からこんなんや」と言いたいけどね。
 「そんな人とは思わなかった」というのは、結局は自分の思いの中でしか相手を見ていないということでしょ。本当に人と人とが出会えるということはなかなかない。

 僕は不思議なことに、仏教の教えに遇うた時に、父親と出会えたなあという感動を持ったんです。だから、もう死に目に会えんでもいいと思ったわけなんです。

 というのは、先ほど台風が来たという話をしましたけど、どっどっと雨が降ってね、うちはボロ家なもんだから、雨が漏りだした。家中の洗面器を集めて、雨漏りしているところに置いたら、カンコン音がした。洗面器をなんべん取り替えにいったか。情けのうなったわ。それくらいのボロ家なんや。

 父親は坊さんになって初代なんです。もともとは百姓だったのに、何を思うたんか、坊さんになったんですよ。僕が生まれたのが昭和二十三年ですから、戦争前に坊さんになったんかな。
 坊さんになったんはええけど、ご門徒さんがないんです。寺もない。だから、「おれは坊さんじゃ」と言うたら、まわりの人が「あっそう」と言うとるだけ。何もない。
 住むとこないから、どこに住んだかいうと、村に消防団のポンプを納める倉庫、ポンプ小屋の隣に消防団が集まったり、一杯飲む部屋がついとるじゃないですか。そこに住んどったんです。だから、僕が生まれた時、うちの表札は「第十三分団」です。

 昭和二十三年いうたら、どこも焼け野原で何にもない。裸一貫で坊さんになって、消防ポンプの倉庫に住んどるんやから、ものすごく貧しかった。食べるものも何にもない。
 そのころはみんな貧しかったでしょ。破れた服を着てない人はいなかった。みんな太陽が昇るころ、朝早くから田んぼに出て、一日中働いて、泥だらけになって、日が暮れたら帰る。そういう生活をしている人ばっかりでした。

 だから、旅行へ行くとか、そういうこともない。たまに温泉へ行ったとかいうと、近所中の土産を買うてきて、十年ぐらいその話をしとったね。「温泉、行った」言うて。それぐらい貧しかったです。

 うちも貧しかったです。食べるものは何もない。食べるものがないというのはほんとイヤでしたね。僕は、うちがあんまり貧しかったからね、「坊さんていややなあ」と思ってた。

 だけど、じいちゃんやばあちゃんたちはみんな優しかったですね。日に焼けてシワだらけの顔してたけど、南無阿弥陀仏と念仏する顔はものすごくいい顔してました。
 食べ物がないので、畑に盗みに入られて荒らされるぐらいですから、自分のところにも食べるものがない。だけど、じいちゃんやばあちゃんたちが田んぼから帰る時に寄ってくれて、父親と話をし、そうして大根の一本置いてったり、白菜一個置いていってくれたりしたんです。
 そうやってじいちゃんやばあちゃんたちが育ててくれたんです。そして、「ぼんちゃんは大きくなったら親鸞聖人の教えを話してくれる人やから」というので大事にしてくれました。乞食みたいな坊さんでしたけど。

 元気な人がまだ何人かおるんですよ。一番上が九十八歳。ご門徒さんではないけど、お盆には必ずお参りするんです。
 その九十八のおばあちゃんが出てきて、「ぼんちゃん、えらかったね」て言うんや。「お母さんの具合が悪いので帰ってきて、暑いのにまわってくれて、えらかった、えらかった」と、子供みたいにしてほめてくれる。

 報恩講にはお話しします。九十以上のおばあちゃんたちが五人ぐらい座って、うれしそうに話を聞いてくれる。僕が出ただけで、みんな涙を流して泣きながら聞いてくれるんですよ。
 「おばあちゃん、そんなに話がよかったか」と聞いたら、「ええ、耳は全然聞こえません」
 人の話なんか聞いてない。だけど、「ぼんちゃんが話をしてくれるのがうれしい」言うて、涙を流してくれるんやで。そりゃ、僕にしたら何とも言えないありがたい、うれしい気持ちになります。

 血がつながっているわけでもないし、門徒でもない。それなのに、自分とこに食べるものがないのにもかかわらず、僕を育ててくれた。

 食べるものがない時に、食べさせてもろうたというのは、これは理屈抜きで、身体の中にしみこむような優しさというものを田舎のおじいさん、おばあさんたちに感じました。

 この別院はあまり大きくないけど、僕とこの寺はもっと小さいよ。その本堂をじいちゃん、ばあちゃんたちが建ててくれたんです。みんなでわあーと山へ木を切りに行って、左官屋さんや大工さんもおる、ちいちゃい寺を建ててくれた。

 だから僕は、じいちゃん、ばあちゃんに対して単なる人間の優しさというよりも、仏さまの優しさ、如来の大悲に匹敵するような優しさを感じます。
 そうやって僕を育ててくれたんやなあ、ありがたかったなあということが、今ようやくわかります。今から考えたら、いいとこに生まれたんやなあと。

 だけど、当時はうれしくはなかった。なにしろ消防ポンプやから、普通の貧しさとは違うからね。
 母親が「米がない」言う。父親が「米がなかったら芋を食っとけ」と言ったら、母親が「イモもない」「イモがなかったら野菜ぐらいあるやろ」と父親が言うたら、「そんなこと言うとるんとちゃうんや。こんなことしとって、この子どうやって育てるんや」と、いっつもケンカしとりました。
 父親は面倒くさいんかしらんけど、最後には「バカ。食うもんがなくなったら、仏さんにまかせとったらええ」と、無責任なこと言うて逃げていきました。

 けどね、自分の父親のことを言うわけではないんですけど、今から考えたらえらかったなあと思う。本当に食えんかったんですよ。でも「食うものがなかったら、仏さんにまかせとったらええ」言うて生きていけますか。

 父親は学校の先生になるとかいろんな話があったけど、結局兼職しないまま。だからちっちゃなお寺の住職で、生涯貧しかった。

 テレビの出はじめのころ、テレビがほしかったんや。力道山のプロレス見たかった。「父ちゃん、テレビ買うてくれ」言うたら、「バカ。うちは買わん」「なんでや」「うちは寺やから」「なんで寺だったら買わんのや」
 そしたら、「寺はな、みんなからいただいたもんで生活しとる。だから、村の者がみんなテレビ買うまでは、うちでは買わん」
 「冷蔵庫、買うてくれ」言うても、「冷蔵庫は買わん。あそこのばあさん、まだ買うとらん」
 ばあちゃんが死ぬまで冷蔵庫が買えそうもない。たぶん金がなかったんですけど。

 くそったれと思った。なんで坊さんなんかになったんかと、父親をどんだけ恨みましたか。
 僕はテレビも冷蔵庫も買えんような坊さんになるのはイヤで、坊さんには絶対ならんとこうと思ってました。

 大谷大学へ行ったら坊さんならないかんので、違う大学へ行って、寺からすっと抜けようと考えたんです。そしたら落ちたんです。
 その時はショックでした。一つしか受けてなかったから、貧しいのに浪人せなならんことになったんです。

 そのころから、勉強するというのはどういうことなのかなあと考え出して、大学受験のために勉強するのがいやになり、あんまり勉強しなくなった。そしたら、案の定、次の年も落ちました。

 すると、気性の激しい父親が涙流しながら手をついて、「頼むから大谷大学へ行って仏教を勉強してくれ」と頼んでくるんです。
「仏教がわかったら、どんな生き方しとっても、お前の人生なんやけど、仏教がわからんかったら、人からどんなにほめられるような人生でも、それは自分の人生にはならん。だから、仏教だけわかったらええ。他のことはなんもわからんでもええ。だから頼むから、大谷大学へ行ってくれ」
と、涙を流して言われたんです。父親がそう言うんならしようがない。一年浪人した弱みがありますから、大谷大学へ行きました。

  4

 だけど、勉強しても仏教がわからんのです。いや、あんまり勉強しなかったけどね。

 大学へ行ったら、大きな寺の坊ちゃんばっかり。僕の家は消防ポンプなんて言えん。ずっと黙ってました。消防ポンプで産まれたなんて言い出したのは最近のことです。

 こないだ九州で話をしたら、同級生が来てて、「初めて聞いた。お前、そうやったん」と言ってましたけど、僕はずうっと言わなんだ。

 当時、大学へ行くのは食える者になるためなんです。立派な大学へ行って、いいところへ就職してと。だから、僕の友達、みんな国立大学を出て、たいがいゼネコンにいます。出世してえらい人になってるよ。
 東京へ行ったら、僕を接待してくれて、高い店へ連れてってくれる。貧乏が身に染みついてるから、高そうと思うだけでまずうなるけど。

 僕もそんなんになりたかった。だけど、大谷大学へ行ったら、坊さんなって消防ポンプに帰らんといけん。家に帰ったら、田んぼで草とらないかん。一生懸命勉強して食える者になるために大学へ行ったのに、食えない者にならないといけない。たまらんかったね。

 つまり、「死ね」ということですよ。父親みたいに「食えんかったら仏さんにまかせとったらええ」と、そんなこと言えんからね。
 一生懸命勉強して死んでいく者になれ、いうのはどういうことかわからなんだ。僕だけなんでこういう目に遭わにゃいけんのやと思って、それが大変だった。しんどかった。だから、勉強しませんでした。学校へは行ってない。

 全部いやだった。父親が坊さんになったのもいや。うちが消防ポンプなのもいや。大谷大学もいや。今は素晴らしい大学と思うとるよ。だけど、そのころはいやだった。

 小学校、中学校、高校では、仏教なんて教えないでしょ。だから、仏教とか宗教ということがどういうことかわからなかったんです。
 高校へ行って何が身についたかというと、世間の価値観しか身につかなかった。要するに、能力はないよりあったほうがいいし、金はないよりあったほうがいい、消防ポンプより立派な家に住んだほうがいい。そういうモノサシしかできませんでした。

 それで、なおさらしんどくなってきました。どうしていいかわからなくなって、もう死んでしまおうと、長いこと思ってました。ふてくされて、朝から酒ばっかり飲んで荒れとった。それで身体中全部パンクしました。肝臓は悪くなったし、膵臓はおかしいし、十二指腸潰瘍、みなやりました。

 大谷大学というところはすごい大学でね、偉い先生がおるんです。単なる学者じゃなくて、仏教を身体全体で生きてる先生がおられるんです。何人かね。ようけはおりませんが。
 でも、何人かおったらすごいよ。一人おったらええ。だけど、何人もおるんやで。これはすごいことや。

 僕の先生は松原祐善いう人で、いつも堂々としてました。どんな人にも堂々と対していたし、僕らのような目下の者が行っても、敬語でしゃべってくれました。
 学校のまわりの人はみんな「あの先生が一番偉かった」言うてます。なんでか言うたら、学生が二回挨拶するんです。「先生、こんちは」と挨拶したら、先生は相手の顔を見て、それからおもむろにゆっくりと帽子を手に取って、「やあ、こんにちは」と深々と頭を下げる。僕らが頭を上げたら、まだ先生は頭を下げている。それであわててまた頭を下げる。学生は必ず二回頭を下げる。それで、「あの先生は偉かった」と、まわりの人が言うてます。そういう先生でした。

 僕は自分の気に入ったことだったら喜んでやるけど、気に入らんことは本当にいやなんです。父親は気に入らんし、生まれたところは気に入らんし、行った大学も気に入らんし、自分自身も気に入らん。

 どうにもならなくなって、しまいには死んでしまおうと思ってたら、松原祐善先生にこう言われました。
「延塚さん、あんた、いいところも悪いところも、気に入ったところも気に入らんところも、丸ごとあんた自身じゃないですか。自分自身を丸ごと大切にできなかったら、どうしてまわりの人を大事にできるんですか」と。

 人間というのは不思議なもので、なんかいやなことがあると、外ばっかり見るんやね。僕も、父親だとか、生まれたところだとか、大谷大学とか、自分の外のことばっかり文句を言っとった。自分のモノサシが自然とできとって、それが問題だったのに、それには目がいかかった。

 ところが、「あんた、いいところも悪いところも丸ごとあんた自身ではないですか。丸ごと自分のことを大事にできなかったら、どうして人を愛せるんですか」と言われましてね、「ええっ」と思ったんです。外へ向いていた目が、バーンと光が当たって、初めて内側を向いたというか。
 つまり、いいとか悪いとか言ってるのは、自分のモノサシで言ってるだけであって、そのモノサシ自体に問題があるんじゃないですか、と言われた気がしました。

 しかし、よう考えてみたら、小学校、中学校、高校と「ちゃんとした自分のモノサシを持って、自分の意見を堂々と言える人になりなさい」と育てられたんですよ。だから僕は、人間だったら、いいところ・悪いところ、好きなところ・嫌いなところ、気に入ったところ・気に入らんところがあって当然だと思ってたわけです。

 その当然だと思っていたことが、本当に当然なのか、自分のことを丸ごと愛せないのは自分のモノサシに問題があるんじゃないか、僕の中に大きな問題が隠れているんじゃないか。そういうことを言われた気がしたわけです。「この先生、えらい人やなあ」と思うと同時に、「仏教というのは恐ろしいなあ」と感じましたね。

 自分の外のことを自分のモノサシではかって善し悪しを言うんじゃなくて、自分のモノサシのほうに光があたる、そういうのが仏教で教えていることなんかと、初めて少しわかったような気がしました。

 その時に、自分のいいところも悪いところも、与えられたものをほんとに全部ちゃんと引き受けられる者になること、自分のモノサシを超えてちゃんと引き受けられる者になること、つまり、自分が本当の意味で自分になっていけばいいんだ、とわかったわけです。

 世間の教えというのは違うじゃないですか。もうちょっと立派な者になりなさいとか、えらい者になりなさい、向上しなさい、成長しなさい、と言うんだけど、仏教は自分が自分になったらいい。
 ああ、そういうことを仏教は教えているのか、南無阿弥陀仏とはそういうことかと思って、そこで仏教を勉強したいなあと、初めて思いました。

  5

 南無阿弥陀仏というのは本当のいのちの名前なんです。皆さん一人一人の中に、いいところも悪いところもちゃんと引き受けて生きているものがあるでしょう。

 困っている時でも、頭だけは困らないんですよ。僕は本当に長いこと病気で、死んでしまおうと思ってたんです。精神病院にも行ってました。

 ある時、バカみたいな話なんですけど、朝起きた時、晩飯は何を食おうかと考えたんです。その時に恥ずかしい話やけど、おんおん泣いたわ。
 つまり、頭では「死んでしまいたい」「いやだ」と思ってるんやけど、いのちは「生きていけ」と言ってる。そしたらなんかしらん、自分のいのちに手を合わして泣いたことがあります。

 自分のモノサシよりももっと深いところにあって、「いいところも悪いところもちゃんと引き受けて生きていけ」と応援しているものが僕の中にある。そういうことを仏教は教えようとしているのか。そう思った時に、ああ、そうか、父親がなんで坊さんになったかがわかったんです。   

 きっと父親も、世間のモノサシで間に合わんようになって、自分の足で歩けなくなって、生きていけんようになり、そして自分が自分になったらええという教えは仏教しかない、だからわかってもわからんでも坊さんになるんだ。それで坊さんになったんだ、と思ったんです。
 そう思ったら、父親のことを「えらいな」と初めて思いました。それまで憎たらしかったんですよ。クソ馬鹿野郎、あんな人間には絶対ならんと思ってました。

 その父親が自分の先輩として、一人の人間として、貧しい中を生き、そして何とか仏教がわかる者になってほしいと願って、僕を育ててくれた。
 父親はそんな思いで生きてきたんだということがわかった時に、初めて父親と出会えたというか、父親の本当の思いが伝わった。そして、父親に手を合わす気持ちになったんです。

 それから、わかってもわからんでもええ、仏教を勉強しよう、自分が自分になる道を勉強しよう、と思ったんです。だけど、仏教を勉強しても、頭ではわかった気がするけど、なかなか身でわかったということにならん。

 みなさん、仏教の話を聞いとったら、「そうそう」と思うでしょう。「仲良くしないといかん」と思って家に帰るけど、嫁さんの顔を見たら、かーっと頭に来て、仏教なんか忘れてしまう。そんなふうに、身体でわかるということが難しかった。そこで本当に苦労しました。

 父親が泣いたのが二回あるんです。一回目は僕が大学を落ちた時。それともう一回、泣かしたんです。

 大学院に行きまして、ちょっと頭でわかってきたころです。家に帰ったら父親と一緒に酒を飲むんですよ。すると、どうしても親鸞聖人の話になる。
 ある時、大学で習うたことと違うことを父親が言うからね、言わにゃよかったんですけど、えらそうに「もっと勉強せい」と言うたんです。そしたら、父親が声を出して泣き出した。父親はどう言うたと思いますか。
「おれは百姓から坊さんになった男やから、ほんまに勉強したかった。勉強しようと思うたらお前が産まれたんやないか。だから、おれに代わりに勉強してくれ。頼む」
 そう言うて泣かれた。自分の命を捨ててでも僕に勉強してほしいと育ててくれたんです。すまんこと言うた思いました。
 それからは絶対に父親にはさかろうたらいかん思うて、父親とはケンカせんようになりました。手を合わせて拝むような気持ちになりました。

 不思議なもんで、こっちが変わると父親も変わるんやね。酒を飲んで話していても穏やかになる。
 僕がしゃべると、父親が手帳に何か書いとる。「何しとん」と聞いたら、「お前が帰ってから勉強するんや」言うてました。その手帳はまだ残ってます。
 僕は仏教の教えに遇うた時に、初めて父親の本当の思いというか、本当の願いというか、そういうものに触れたんです。

  6

 そうやって生きてきた父親に、遇えたという気持ちがあったもんですから、危篤の知らせを受けても、この世では会えんでもいいと思ったんです。

 それで、東京から帰ってきたら、父親は酸素吸入して、点滴やらいっぱいつけて生かしてもろうていました。僕はお医者さんに、「父親の死に目に会えんと思うとったのにありがとうございました」と、丁寧にお礼を言いました。
 本当に生きたと言えることは何なのか。本当に死んでいけるとはどういうことなのか。こういう一番大事な問題が抜きになって、健康で長生きが大事ということになっている。

 そりゃ、健康で長生きしたらいいよ。けど、健康は長いこと続かない。身体は必ず悪くなるし、長生きを願ったとしても、いつかは必ず死ぬ。人間の願いはそんなことにしかならんのです。

 本当に死んでいけるものに出会わないと、人は生きていけないし、死んでいけない。それが人間の一番大事な本当の問題だと思います。

 今の日本の現状を見てて、政治、経済にしても、医療にしても、どんな分野でも、人間が生きたと言えることは何なのか。本当に死んでいけるものが見つからなければ、人間の人生は全うしないんです。
 そういう大事な問題が抜きになっていると思います。そのことを僕らに教えようとされたのが、お釈迦さまの仕事だと思います。

 一番わかりやすいことから言えば、お釈迦さまは出家されたでしょ。お釈迦さまは出家という形をとって、私たちに何を教えようとされたのか。
 お釈迦さまは王子でした。だから、健康もお金、地位や名誉も全部持っていたんです。ところが、それをすべて捨てたわけです。そして、出世間というものを求めようとされたんですね。

 どんな人でも、世間を生きる時には世間のものしか見えませんから、世間のものを求めていきます。けれども、どんな人も世間のものでは絶対に満足できない心を持っているんです。どうですか。

 昔、あれだけ貧しかったから、金があったら幸せになると思って、みんなが努力してきた。皆さんでもそうでしょう。何とかして子どもたちには苦労させないようにと働いてきた。日本全体が努力してきました。それは実現しましたよ。豊かになりました。しかし、それでは死んでいけるかというと、そうはならんでしょう。

 僕ら、貧しさを知っています。だけど、今の子どもたちは貧しさを知らないですよ、全然。だから、どうなっているかというと、ボーッとしてます。「しっかりしてくれ」と言いたい。
 髪をキンキラキンに染めたり、耳にいっぱい穴をあけてみたりして、「何でそんなことするんや」と聞いたら、「別に」。「痛くないのか」と聞いても「別に」。
 何を聞いても「別に」しか言いません。これからの日本どうなるのかと思うわ。全部が全部そうだとは言いませんが、だいたいそんな風潮です。

 以前は授業中、盛んにおしゃべりしとったんや。最近はしゃべりません。静かですよ。その代わり、電気消したらホタルになります。メールをやってて、全然聞いてません。

 「自分の人生だからもっとしっかりせい」と必死になっても、「このおっさん、何を熱うなっとるんや」いうもんです。
 豊かになったらそうなります。夢も希望もなくなる。だから、かわいそうだと思います。夢や希望がないからね。

 彼らの責任じゃありません。それは僕らの後ろ姿を見て育ったからです。僕らは金があると幸せになれると思って頑張ってきたわけです。

 ところが、お釈迦さまはそんなものを捨てたんです。本当に生きるということはどういうことか。そして、本当に死んでいけるか。そのことを問題にされたんです。

 生死の問題がはっきりしないまま、死んでいけるものが見つからないまま豊かになっても、豊かになったことが人間をダメにする。
 世間のものでは絶対に満足できない心を人間は持っているから、どれほど豊かになったにしても満足できない。

 破れたもんぺをはいたばあちゃんに比べると、皆さんの格好は女優さんですよ。格好だけですが。それでも、あの当時の貧しかったじいちゃん、ばあちゃんたちのほうがひょっとしたらいい顔をしていたかもしれない。
 それは何か大事なことがわかっていたんでしょうね。それをお釈迦さまは教えようとされていたんでしょう。

 金はないよりあったほうがいい。世間を生きていく時には有効ですから。だけど、ないよりあったほうがええというものでは人は救われない。どうしてもなくてはならないものに会わなければ、本当に死んでいける者になれないんです。

 だから、お釈迦さまが世間を捨てて出家という形をとって教えてくださったのは、人間は世間の中にあるものでは絶対に死んでいけないということです。金があろうが、地位や名誉があろうが、そんなもので、「ああ、これで死んでいける」という者にはなれないということです。そういうことを出家という形で教えてくださった。

 わかりにくいですか。世間以外のものが何かあるかというと、見えるものは世間のものしかないからね。

 僕たち、いつも不満なんやけど、その不満な心に世間のものを持ってきて埋めようとするわけです。ところが、もともと世間のものでは満足できないんだから、どれだけ世間のものを持ってきても満足しません。
 だから、いつも欲求不満で生きていくしかない。いつも「これでいいんだろうか」とか、不安だったりして、慢性欲求不満症になります。そうして、ほっとけば慢性欲求不満症で死にます。そういう構造になっとる。

 私たちは慢性欲求不満症の原因を、たいがいまわりの人に押しつけます。旦那がもうちょっとしっかりしてくれたらとか、子どもがもうちょっと出来がよかったらとかね。

 そういうことをお釈迦さまは教えていると、僕は思います。では、何がわかれば本当に死んでいくことができるのか。お釈迦さまはそれを出世間と言われた。それをわからせるための方法として、生老病死ということを言われたんです。
 老病死というのは、年をとって、病気になって死ぬ、ということだけを言っているのではありません。世間を生きている時に、どうしても世間のモノサシじゃ間に合わんようになって、どうしていいかわからんということも全部含めて、老病死と言うんです。

 自分のモノサシで間に合わなくなった時が、仏さまの教えがわかるためのチャンスです。本当に死んでいけるような者にならなければ、生きるということが必ず苦になります。
 今は元気だからいいかもしれんが、だんだん年がいって、「こんなになってまで生きていかなあかんのか」と言っている人がいます。「もう死んでしまいたい」と言うから、「死んだらあかん」言うたら、
「首つろうかと思う」
「そらあかん。死にたいんやったら、病気になっても、じっと我慢して、病院に行くな」
「そんなこと言うて、痛いのを我慢したら死ぬ」

 つまり、生きるということが苦になっとる。お釈迦さまは、生老病死の苦をどう超えるかということから、何がわかったら本当に死んでいける者になれるのかを教えようとされたわけです。

 普通、僕らの頭で考える場合、年をとらないように、死なないようにと努力するしかないわけです。年がいかないように努力して、平均寿命が延びた。病気しないように、クロレラを飲んで頑張るわけです。死んでも命があるように、臓器移植をするわけです。
 僕らは老病死の苦を超えるためには、そういうことしか考えられません。そういう考え方を外道と言います。

 ところが、臓器移植をしても死にます。そりゃ少し延びるかもしれませんよ。でも、必ず死にます。こういう方法では老病死から自由になることができない、とお釈迦さまは考えたんです。

 ところで、老人になって、病気になって、死んでいくということをいやがるのは人間だけです。犬がいやがってますか。犬が「年とってあかんようになった」と自殺したことはない。
 自殺者は年に三万三千人を超えたんですよ。厚生省は「自殺者を三万人に抑えたい」と、馬鹿なことを平気で言ってますけど。
 自殺するのは人間だけやからね。戦争するのも人間だけ。戦争と自殺は一緒です。人間だけなんです。

 自分のモノサシがあって、それに合わない人はいやな人。嫌いな人おらんですか。僕はおるよ。大学にようけおる。「あいつ死んだらええのにな」と思って、一晩中ムカムカして寝られんことがある。けど、その人はたぶんグウグウ寝ていると思います。そう思うとなおさら腹が立ってね。苦しんでいるのは自分だけやから。

 つまり、自分のモノサシに合わん人はたくさんおる。僕と関係ないところで、みんな元気に生きとる。それをいちいち腹立てていたら、結局殺してしまうことになる。
 それが国家的規模になると戦争になります。反対にそのモノサシが内に向かってくると、自分がいやになって死んでしまいたくなる。自殺も戦争も人間だけです。

 老病死をいやがるのも人間だけです。なんで人間だけがいやがるのか。いやがる自分の心に目を向けましょう、と考えたのがお釈迦さまです。

 自分の都合に合わして、年がいかないように、病気にならないように、死なないように、というんじゃなくて、人間のほうに焦点を当てましょうというのが、お釈迦さまの考え方です。仏教の考え方です。これを内観道と言います。

 だから、「今日の先生はアホなことばかり言ってたなあ」と思うようでは、仏教を聞いたことにはなりません。「ひょっとしたら私のことを言ってるんじゃないか」と、自分のほうに目が向かないと、仏教の勉強になりません。「おもろなかったなあ」と言うんだったら、吉本へ行ってください。

  6

 ところが、問題があります。人間のほうに焦点を当てて、「人間とは何か」と問われても、私たちにはわからないということです。自分の目は世界中が見えるけれど、自分だけは見えないようにできている。

 「人間とは何か」「自分とは何か」ということをいくら聞かれても、それはわかりません。不可能です。無理です。

 自分のことを真剣に考えてごらん。ウツ病になるから。だから、目は外に向くんや。内に向かないようになっています。

 昔の説教にあるでしょう。自分の家の障子の破れた穴から隣の家をのぞいて、隣の家の障子が破れているのを笑っているというのが。自分のことはよくわからん。ほんとそうや。

 バスを待ってたら、行儀の悪い人がおって、みんなが並んどるのに、すっと横から入ったんや。すると、僕の後ろで待ってたおばちゃんが怒って、「ちょっと、あんた待ち」言うたのに、この人は「なんやこのおばさん」という顔して、すっとバスに乗った。そしたら、おばちゃんもバスに乗って、その人に怒っとるんや。「みんな並んどるのに、なんで並ばんのや」と、バスの中で怒っとる。
 でも、そのおばちゃん、僕の後ろにおったのに、僕より先に乗っとるんやで。それなのに「あんた、なんで順番ぬかししたんや」と怒っとる。自分のことはわからんようになっとるんや。

 だから、『大無量寿経』というお経が説かれたわけです。他の経典は、人間のほうから努力して仏さんになっていく。全部そうなっています。

 ところが、『大無量寿経』を読んでごらん。不思議な経典です。ようわからん経典なんですよ。僕らの頭には合わんからね。
 本願の教えというのを聞いたことがありますか。法蔵菩薩という人が本願をたてて、極楽浄土を建立し、そして阿弥陀さんになった。

 その本願とは何かと言うと、「念仏を称えたら皆さん救われますよ」という願いで、仏さんのほうから念仏をくれとる。全部仏さんのほうから与えてくださっています。
 「人間とは何か」「あなたは何者か」ということが人間にはわからないから、お釈迦さまがさとりの智慧によって教えようとされたわけです。

 お釈迦さまのさとりは言葉にはできません。ところが、人間には言葉しかない。しかし、一切の衆生を救わなければ仏とは言えない。だから、お釈迦さまは苦しんでいる人間のために、何とかして教えを説かなきゃならない。それで、言葉を超えているさとりの内容を、何とかして言葉にされたわけです。それが本願の教えです。

 一番最初の願いは無三悪趣願といいます。地獄、餓鬼、畜生が三悪趣です。「もし私が仏となったとしても、浄土に地獄、餓鬼、畜生があったら、自分は仏にはならない」という願いです。

 何のことがようわからんでしょう。仏教には仏教の勉強の仕方があります。学習会や研修会をたくさんしても、一人も人間が生まれきません。それは勉強の仕方が間違っているからです。
 小学校から学んできたことは、知らないことを知るという勉強の仕方です。知らないことを知るという勉強は仏教の勉強ではありません。
 そういう勉強の仕方で本願を読むと、何のことかよくわかりません。知らないことを知るということなら、「へえー、浄土いうのはええとこやな」という話になる。

 島田紳助が言ってました。島田紳助は大谷高校の出身なんです。勉強はしなかったけど、宗教の時間が好きやったんやて。一番後ろで聞いてて、先生が「浄土いうのはなあ、地獄、餓鬼、畜生のないところや」と話してたら、「へえ、そんなええとこやったら修学旅行で行こうやないけ」とひやかした。そしたら先生が「お前のような奴は大谷高校のゴミじゃ」と怒った。
 こないだ久しぶりに大谷高校へ行ったら、その先生に会うた。そしたら先生、「紳助、お前は大谷高校の誇りじゃ」と言うた。「ゴミからホコリになってしもうた」と、わけのわからんことを言ってました。

 知らないことを知るという勉強の仕方ではそんなふうになるんです。本願の教えはそんなことを言っとるんじゃないんです。

 親鸞聖人は本願の教えをどういうふうに読まれているかというと、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」
と言うておられる。つまり、私のために本願が誓われたんだ、私とは何かを教えようとして本願がたてられたと、読んでおられるわけです。

 そう考えると、阿弥陀のさとりの世界には地獄、餓鬼、畜生がないのは当たり前のことなのに、なぜわざわざそんなことを説いているかがわかる。仏さまは「地獄、餓鬼、畜生を作っているのはあなたなんですよ」と言おうとされているわけです。

 地獄、餓鬼、畜生を作っとるのはブッシュとフセインだ、というところまではわかります。だけど、私はそんなもの作ってないと思うのが普通です。「いやあ、私にもちょっとは良いところがあるから、そんなことはない」と。

 ところが、お前が苦しんでいるのは、自分自身が地獄、餓鬼、畜生を作っているからなんだよと、仏さまはちゃんと見抜いておられるわけです。それを教えようとされたのが本願の教えです。

 二番目の願はこう説かれてあります。
「浄土に生まれた人は二度と地獄、餓鬼、畜生の世界に帰らないように。もし帰ることがあるならば、自分は仏にはならない」

 これもよく考えてみたらわけがわからんですよ。浄土に生まれた人が生まれ変わり死に変わりをするわけはありませんから。生まれ変わり死に変わりするなら、浄土は迷いの世界です。
 どうして仏さまがそんなことをわざわざ誓っているのか。それは、人間はいつまでたっても殺し合ってきているじゃないかと、仏さまの智慧は見抜いているわけです。

 その次の悉皆金色願という願は面白い願です。浄土に生まれたらみんな金色になる。仏像みたいな色になる。
 仏さまと同じ色になるということは、人間は肌の色の違い、民族の違い、国家の違いでお互いに殺し合ってるではないかと教えるために、本願に説かれてあるわけです。二千五百年前に、お釈迦さまはそのことをちゃんと見抜いていたわけです。

 四十八の本願はそういうふうに「人間とは何か」ということを教えているんです。

 そして、第十八願ではよくご存じのように、「我が名、すなわち南無阿弥陀仏を称えて、阿弥陀のさとりの世界に帰ってください」と願われています。

 自分のモノサシでいつまで頑張っているんですか。結局、それは人を殺すか、自分を殺すかしかならないんです。そんな自分のモノサシは愚かだとよく知り、そして念仏を称え、仏さまに頭を下げる者になりなさい。そしたら必ず救われますよ。こう説かれてある。

 南無阿弥陀仏というのは本当のいのちの名前なんだと最初に言いました。「いのち」といっても生物的ないのちではありません。宗教心と言ってもいい。私たちのモノサシが破れた時、分別が初めて破れた時に、仏さまから南無阿弥陀仏といういのちを与えられているんだと。

 今は破れてませんよ。自分のモノサシで何とかなると思ってるんだから。だけど、どうにもならなくてあかんという時に、仏さまは「そのモノサシが問題なんだ」と言われているわけです。

 さっき、世間のものでは満足できない心を人間は誰もが持ってる、それをほっとけば、慢性欲求不満症で死にます、と言いました。
 ところが、仏教を学ぶことによって、この不満は実は出世間を求めている心なんですよ、ということが教えられるんです。そして、『大無量寿経』という経典は、実はそうした出世間を求める心こそ南無阿弥陀仏なんですよと説いています。

 永遠に殺し合い、地獄、餓鬼、畜生を作ってきたけれども、どんな人間の中にもある、自由と平等と平和を願ってきた、自我よりももっと深いところにある人間の本当の願いこそ、南無阿弥陀仏のいのちなんですよ、と。浄土から来たいのちなんですよ、と。

 僕らの分別はいつも自分中心に考える。ところが、南無阿弥陀仏のいのちを仏さまからいただいているんです。そのいのちに本当に頭を下げることができた時に、生物的ないのちも仏さまからいただいたものと考えても間違いではありません。

 自分で生まれたいと思って生まれてきた者は誰もいません。いのちがいただいたものということは、生まれた環境も、与えられた人も、出来の悪い嫁さんも、旦那さんも、みんな仏さまからもらったんです。
 今日帰って、そういう目で旦那さんを見てください。旦那さんを思わず合掌したくなりますよ。仏さまからいただいているんです。旦那さんももろうたんですよ。
「私は恋愛結婚したんだから、私が選んだんだ」と言うかもしれんけど、何で好きになったかわかりますか。わからんやろ。ようけ男がおったはずなのに、何であんな人を好きになったのかと思いませんか。

 僕は三十年前に結婚したんですよ。妻は富山の生まれだから、父親が反対してね。「九州にも女性がいっぱいおるのに、わざわざ遠いところからもらわんでもええ」と言われたんやけど、「そんなことはない。女性はこの人一人じゃ。俺はこの人と一緒にならんかったら死ぬ」言うて脅かして、一緒になったんです。
 でも、今から考えると、あれは何だったんだろう、何か悪いものでもついとったんじゃないかと。

 わからんですよ。何で結婚したんか。何で好きになったんか。つまり、仏さまからもらったとしか言いようがないんです。

 本当のことは人間の分別ではわからない。全部仏さまからいただいたいのちであり、仏さまからいただいた関係であり、子供も嫁さんも孫もみんな仏さまからいただいているのに、人間は自分中心でしか考えられない。
 全部いただいているのに、人間は必ず自分中心に、自分の都合でしか考えません。自分を中心にして一生懸命考えて、いいとか悪いとか言っているわけです。

 この世のことを娑婆と言いますけど、娑婆とは堪忍土という意味です。人間にとってはこの世は耐え忍ばなければ仕方のない世界です。それは全部自分中心に考えるからです。

 そういうところに大きな問題があるということを、お釈迦さまは教えてくださっています。そして、仏さまの智慧によって生きなさいというのが、お釈迦さまの教えです。

 生きることも死ぬこともいただきものなんだから、仏さまの願いの中で十分に生き切りなさい。そして、いのち終わる時には喜んで帰っていきなさい。そういう仏さまを信じるという智慧によってだけ、本当に生き、本当に死ぬことができる者になれるんですよ。
 こういうことを何とかして教えようとされたのが、お釈迦さまのお仕事であり、『大無量寿経』の教えであるというふうに思います。
 余計なことばかり言ってすみませんでした。またご縁がありましたらお会いしましょう。ありがとうございました。

(2005年9月8日に広島別院で行われました大谷大学同窓会でのお話をまとめたものです)