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小武正教さん「今、僧侶門徒の果たすべき責任」 |
2021年8月9日 |
1.自己紹介
どなたもようお参りでございます。大雨が降り、地域によっては浸水があったりして、大変な状況が起こっていることであります。私が住職をしとります西善寺は三次市にありますけど、避難所になっております。一昨日の夜、もしかしたら避難する人があるかもしれないということで、地域の防災の責任者から連絡がありました。そういう時は枕元に携帯電話を置いて寝るんですね。去年は夜中の2時頃に電話がかかってきて、「これからお願いします」ということがありました。今回は幸いにも避難するようなことはございませんでした。
今日は戦歿者追悼法要です。「今、僧侶門徒の果たすべき責任」というテーマで話をいたします。皆さんと一緒にご縁を結ばせていただけたらなと思っております。
自己紹介しますと、私は本願寺派の備後教区三次組の西善寺住職です。2005年から念仏者九条の会の事務局長兼代表です。といいましても、代表は5人ほどいますけど。大谷派九条の会と一緒に活動をしております。
名前は小武正教と申します。「武」は武器とか武力などと人を傷つけるイメージがありますけど、もともとは矛を止めるという意味なんです。武道は人を傷つけるものではなくて、止めるという意味があるようですね。ですから、私の名前は、小さくとも正しい教えを聴きながら、争いを止めるという意味なんだと説明してます。
2.「戦争法」が成立した今、自衛隊員のお母さんの問い
2016年の10月、連研という、ただ話をするだけじゃなくて、皆さんに意見や思いを語ってもらう座談会を中心にした法座があるんですけど、呉の知人のお寺で話をさせてもらいました。その時、平和というテーマで問題提起をさせてもらいました。
最後にこういう質問が出ました。苦悩するお母さんの言葉です。
「私の息子は自衛隊に入っています。息子にどう言ってやればいいでしょうか」
その2016年はどういう年なのか。その前の年2015年9月19日に大きな曲がり角があったんです。平和安全法制、別名「戦争法」とも言われる法律が衆議院で強行採決されたんです。自衛隊は専守防衛ですから、外国で戦うことを想定されてはいないんですね。ところが、自衛隊が海外に行って戦うことができるようになったんです。改正された国際平和協力法によって、駆けつけ警護の業務が認められました。武装勢力などに襲われた国連やNGOなどの要員や関係者を武器を持って助けに行く任務です。場合によっては戦うことになりますね。
このように、戦闘行為が伴う活動を認める法律が戦争法です。その戦争法が国会で通って、2016年に自衛隊は南スーダンに派遣されました。幸いにも命を落とした自衛隊員はいませんでした。戦後76年、戦闘行為で自衛隊員が死ぬことがありませんでした。しかしながら、これからは自衛隊の人が戦闘によって命を落とすことがいつあってもおかしくないことになりました。
その年に、連研で「息子は自衛隊に入っています。もし息子がどこどこに行けと命令されたら、息子にどう言ってやったらいいんでしょうか」と問われたわけです。76年前、夫や息子を戦地に送り出した。その時、「お国のためだからしっかり頑張ってきなさい」としか言えなかった。「それは76年前の話だ」というわけにはいかなくなったんですね。
自衛隊にいたら、出動命令が出たのに「行かん」と言えば辞めざるを得ない。戦地に行くとしたら、銃を発射するという状況が想定される。このお母さんの言葉に、会場から「そりゃ言われたら仕方がないよね」という言葉が聞こえてきました。
3.「お国のためだから、しっかり頑張ってきなさい」と言った戦前の住職の言葉
私自身もどう言おうかなと考えさせられました。その時、頭に浮かんだのが、1991年、湾岸戦争が終わった後、自衛隊がペルシャ湾に派遣された時のことです。ペルシャ湾で何をしたのか。海上にある機雷を撤去したんですね。それは後方支援という名の戦争行為と一般的には見られるものです。
呉は海上自衛隊の基地があります。ペルシャ湾への掃海艇の派遣に反対するため、私も衣を着て行きました。掃海艇がちょうど帰ってきた時だったですね。そのころは海部総理大臣でした。
その時、「あんたはお坊さんか」と私に声をかける年配の方がありました。「そうです」と答えると、「わしは倉橋のもんじゃ」と言って、こういう話をされました。
「赤紙が来た時、お寺に行ったんだ。お寺では、人を殺せば地獄に落ちると教えられてきた。戦争に行けば、殺すか殺されるかだ。ご住職さんに「どうすればいいでしょうか」と聞いた。
住職さんはどう答えたか。
「お国のためだから地獄に堕ちることはありません。しっかり頑張ってきなさい」
こう言われて送り出された。幸いにもその方は命が助かって無事に帰られたわけです。そして、こう言われたんです。
「私は二度とお寺に足を運んでいません。親鸞さんが嫌いなわけではありません。でも、足がお寺に向かないんです」
これは私にとって非常に大きな問いでしたね。この言葉を今も忘れることができないんです。私なりに仲間の住職やご門徒さんと一緒に学んできました。声も上げてきました。だけど、どう答えていくか。
同じ質問を私が受けるかもしれないということは、仮定の話ではなくて、今や現実の話になっているんです。
「自分の息子は自衛隊に入ってます。海外派遣の命令はまだ来ていませんが、命令が出た時に私はどう言ってやればいいんでしょうか」
この問いに、もしも「しっかり頑張ってきなさい。お国のためだから」と言えば、戦前のご住職さんと同じことになるでしょう。このことが頭にあったものですから、私は「お母さんしか言えないことがあると思います。死んではいけない。人を殺してはいけない。どんなことがあっても。お母さんにはそう言ってほしい」と答えました。
私の言葉がお母さんに届いたかはわかりません。私の今までの学びの中で、戦前は住職が戦争に行くことを勧める時代ではあったけれども、同じことを言いたくないという思いがしたことであります。どういうふうに答えたらいいか、一人ひとりに問われていると思います。
私は19歳の時に父が交通事故で亡くなってから、住職を45年間してます。もうほとんど亡くなりましたが、戦地に行って、たまたま命を拾って帰ってきた方たちがお聴聞されていたんだなと、今にして思います。そのころとは世代がだいぶ変わって、今は戦争経験のない人がほとんどです。
じゃあ、同じことを繰り返さないためには私たちは何を何をすればいいのか。どういうバトンを亡くなった方たちから受け継ぐのか。戦争で亡くなった人たちの願い、そして、戦争へ行かざるを得なかった人たちの願いを聞いていく場に、戦没者追悼法会がなればと思います。
4.本願寺教団・寺院の戦争協力
戦前、教団やお寺が何をしてきたかが明らかになってきています。私が「間違っていたんではないでしょうか」と言うと、「前の住職さん、そがなこと言うちゃなかった」と、ずっと言われてきました。
本願寺派の門主が1938年(昭和13年)に出された消息、お手紙にこんなことが書かれています。
「凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候」
門主の消息は個人に宛てたものではなく、全門徒に向けて発せられた手紙です。この消息は、天皇のために命を捧げることが仏法にかなうことだと説いているわけです。いかにいっても間違いですよね。
2008年までは、門首の消息は親鸞聖人の書かれたものと同じ扱いだったので、門主の消息に大きな過ちがあっても、手をつけることができなかったんですね。それで、改めることをせずにそのままにしてきたということであります。
1938年の12月13日、日本軍によって南京が陥落した時に、西本願寺の屋根から「皇国万歳忠君報国」というお祝いの垂れ幕が下げられました。16日には軍人門主ということで南京に軍服で入って、戦死した日本軍兵士の慰霊祭をされたと、「本山録事」という機関誌に載っています。
また、肉弾三勇士は西本願寺の門徒だったので、西本願寺で本葬が行われ、軍人の鑑、門徒の誉れとしてたたえています。
親鸞聖人の『教行信証』の後序に、「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」とあります。天皇やその家臣が仏法に背き、法然上人の教団を弾圧し、兄弟子たちを死罪にし、法然上人や私(親鸞)を流罪にしたと非難した文章です。1939年(昭和14年)に、これは天皇に対して不敬にあたるというので、この個所を墨塗りをしています。
もともと法然上人たちが流罪になったのは、仏法を一番大切にされて生きたため、王法とぶつかったからです。ところが、戦前には仏法が王法、つまり国の法よりも下だとされ、王法に都合の悪いところは自己検閲して削ったんです。
さらに、西本願寺では一戸当たり1円20銭を割り当て、本願寺号という飛行機を献納するとか、そういうことがされていた時代であります。梵鐘など金属品の仏具の供出が1941(昭和16)年から翌年になされました。今私が住職をしているお寺でも梵鐘を供出した時の記念写真があります。梵鐘や輪灯などは鉄砲の弾になるか大砲になるか、要するに人の命を奪う武器になったわけです。
5 戦前の住職の法話
私の祖父が住職をしてました時、法要での法話の原稿を大学ノートに書いたものが二冊残っています。ご門徒さんにお寺の住職が何を語ってたかという動かぬ証拠というか、そういうものが私の手元にあります。非常に筆まめであります。当時はだいたいそうだったみたいですが、法話をするのに一言一句まで全部原稿を書いたんだそうです。えへんと咳をするのも「えへん」と書く。そこまで丁寧に書くんですね。
1933(昭和8)年10月14日河内村招魂祭講演原稿があります。たぶん祖父の招魂祭での最初の法話だと思います。37歳の時です。この法話の原稿は長いので、少しだけ読んでみます。
「エー」、これも実際に書いてあります。
「エー今日は御案内の通り日清日露の戦役従軍せられて君国のため華々しく戦死せら れた人々の慰霊追悼式であります その遺族の方々や皆さまに一場のお話をせよと の事でありますので思いつきのままお話して皆様と共に味わってみたいと思います
ただいま皆様方が戦死せられた人々の御位牌の前に合掌して故人の面影を偲び そ の恩に感謝して沁みじみと御焼香なさいましたと、その姿を眺めた時 何だか知ら ん奥床しい日本独特の人情味を感じました(略)
世の中に大事業といはれるものは沢山ありますが身命を捨てて国家を護るという事 程大きな社会事業はないのであります 宣戦の詔勅一度下るや親を捨て子を捨て断ち難い恩愛の絆を断ち 捨て難い故郷を後に見て砲煙渦巻く満蒙の天地へ 昨日は 野戦 今日は攻撃 転戦転戦 零下何十度という寒さと闘い 飢えをしのぎ あら ゆる艱難をなめつくして 八千万同朋の生命の護りとして戦場の勇士 実に立派な 大事業であります
そしてその大事業に紅一点の魂を入れるものは実に所謂 松崎大尉の歌った
【春は○○に入りて弾雨斜なり 危難なめ尽くして寒愈加わる 屍の山を南无と越 え 漲る血の川阿弥陀仏 進み渡るは念仏の道場 天に轟く硫酸弾 地上にくぶ くる砲 火榴 砲火硫弾色すごく 一死生死のその中にも 聞きますぞや弥陀の 喚声 あ~ 愉快 浄土の使い敵の弾】」
なんか講談調になってますね。この「浄土の使い敵の弾」というのは、戦争に行った方で、私が28年間、平和の問題、靖国の問題を教えてもらったご門徒さんが、「浄土の使い敵の弾」と実際に言ってたと語っておられました。飛んでくる敵の弾は浄土の使いなんだ、そう思えということであります。今の言葉で言えば、マインドコントロール、洗脳、そういうことかなと思いますね。
お国のために命を捧げる。さらにダメ押しして、そこに南無阿弥陀仏のみ教えがあるんだと説いてる。この後は、天皇陛下は私たちを日夜ずっと見守ってくださってるんですよという法話になってます。
こういう法話をして、ご門徒さんを戦地に送っていった。そして多くの人が戦死されたわけです。戦場から帰ってきた人の中には、「もうお寺には行かない」と言う人もいました。しかしそれを抱えながらまた熱心にお聴聞をされたご門徒さんもおられました。
私たちは何を引き継いでいくか。同じことを繰り返してもいいのか。同じことを繰り返さないためには何をすればいいのか。そんなことを問われているように思います。
6.祖父の二つの遺言
祖父は1927(昭和2)年に入隊して、翌年に退役。そして1943(昭和18)年、36歳の時、ついに赤紙が来るわけです。古いものを整理してましたら、たまたま『帝国在郷軍人会 正会員手簿』というものを見つけたんですね。「僧侶 小武憲正 歩兵」とあります。それにはさんであったのが遺言書です。1943(昭和18)年6月に書いたものです。浜田の連隊に入隊して、今の朝鮮民主主義人民共和国と中国の国境付近に派遣されるんですね。読んで見ます。
母ガオ前ニ対スル献身的努力ヲ忘ルナ
地位、名誉、財産ヲ得ルコトヲ以テ成功ト思フナカレ
信念アル僧侶トナリテ国ノタメ、世ノタメニナル人トナルコトヲ心ガケヨ
朝夕仏前ニ給仕ヲ怠ルナ
父より
孝文ヘ
孝文は私の父です。国のため、世のための人となることを心がけよと、息子へ遺言したわけであります。
祖父は4月に入隊して6月には結核になりました。中国のハルピンや大連の病院に送られても治らないから、1944(昭和19)年に戦地から送り返されました。大阪に移され、最後にはお寺に帰ってきました。命は助かったけど、結局その結核で1950(昭和30)年に48歳で亡くなるわけです。
結核を患っていますので、門徒の皆さんの前で法話は出来ません。そこで1950(昭和25)年から月に一回、寺報を作り、門徒さんに送り始めたんです。A4版・ガリ版刷りで、4ページのものもあれば8ページの時もあるし、多い時には12ページでした。祖父が亡くなってからは父が出し、そして今は私が続けています。ただ、祖父や父は月に一回出していましたけど、私はお盆参りの時と報恩講参りの時との年に2回ですから、何をしよるんだと、いつか祖父や父に言われると思いますけども。
1954(昭和29)年7月の寺報にこういう文章があります。祖父はもう寝たきりです。
「戦争はどうすることもできない 業だから平和運動などする必要がないという者があれば、それは骨のない運命論者であって仏教徒では断じてありません。人類滅亡の危機に直面しながら平気で自然に任せておれるものではない。結果はどうなろう
と双手をあげて、その暴挙をくいとめねばならないのであります」
そのころは水爆も開発されているという状況でした。この半年後の1955(昭和30)年1月に祖父は亡くなっています。寺報を読んだご門徒さんから、「住職、戦前に言うたのとえらい真逆じゃないか」と言われたかもしれません。
なぜこういうことを書いたのかと祖父の胸の内を問うてきました。結核の薬、今なら抗生剤を使えばいいんでしょうけれど、お金がないし、田舎の住職にそういう薬はとても手に入らない。そこで乾布摩擦で体の免疫力を上げて治そうとした。でも、とてもじゃないけどタオルで体をこすったぐらいじゃ治らない。
そんな中で、祖父がいつも祖母に話していたのは、「自分が朝鮮や中国で見たのはまさに地獄だった」ということです。戦地にいたわけです。そして、陸軍病院に入っていました。殺し殺される状況を見聞し、「まさに地獄だった」と祖父は言っていた。このことを祖母から聞きました。
戦後を迎え、社会は大きく変わっていった。平和憲法が制定され、戦争に対する考えも変化した。そして、米ソ冷戦構造の中でいつ第三次世界大戦が起こって世界が滅ぶかわからない。そんな時に、「平和運動などする必要がないという者があれば、それは骨のない運命論者であって仏教徒では断じてありません」と、このように祖父は断言したわけです。
祖父は最初の遺言を自分で「遺言」と書いた。そして戦後、亡くなる半年前、自分でも長くないと思って寺報に書いたものを、私は二度目の遺言だと受け止めています。
どんな人も言葉を遺しています。今を生きる私たちが亡くなった人たちの言葉をどのように受け止めいくか、どういうふうに引き受けていくのかということが、戦争で命を失った、あるいは戦争によって病気になった人たちの願いを聞いていくことだと思います。
8月は原爆の投下の日、そして敗戦の日があります。8月15日は韓国の人たちにとっては光復節、解放の日です。そうしたことを考えていく大切な時期だと思います。
7.戦死者へ向ける、「すいません」と「ありがとう」の声のその先
2003年11月、イラクで復興支援活動などの職務を遂行していた奥克彦参事官と井ノ上正盛三等書記官がゲリラに襲われて命を失いました。日本が自衛隊をイラクに派遣した中での死でした。遺体が日本に着いた時、棺には日の丸の旗がかけてありました。
お二人は軍人ではないんですけど、準戦死みたいな扱いとされたんです。戦前には、戦死すれば二階級上がったわけですね。今も自衛隊員が海外に派遣されて命を落とせば二階級特進になります。奥克彦さんは大使に、井ノ上正盛さんは一等書記官に特進しています。
井ノ上正盛さんは本願寺派の門徒でした。国はお国のために亡くなったと讃えます。自衛隊員でしたら、靖国神社にお祀りをするということが問題になってくるわけですね。井ノ上さんは文官ですから、靖国神社への合祀という問題は起きませんでした。
じゃあ、本願寺派は井上さんを戦前のように英霊としてほめたたえたのか。これが問題になった。戦地で命を落としたことをどういうふうに考えるか。結論から言えば、本願寺派はイラクへの自衛隊派遣に反対しますという声明を出していました。ですから、国の方針でイラクに行って、そこで命を落としたことは痛ましいことではあり、申し訳ないことではあるけれども、よくやったとほめることはしませんでした。
「よくやった」とほめることはどういうことなのか。それは「また次も行ってね」ということになるんです。湾岸戦争後に自衛隊の掃海艇が派遣されましたけど、帰国に際しての海部首相の挨拶は「私は、あらためて心から感謝の意を表したいと思います」、そして「今後とも、士気高く堂々たる自衛隊員として、国民の負託に応え、その信頼をかち取るよう、地道な訓練に励み、一層の研鑽と努力を重ねられることを臨んでやみません」でした。簡単に言えば、「ありがとう。また頼むよ」、そういうことです。
自衛隊の海外派遣はこれでおしまいじゃなくて、これからも出て行くわけです。命を落とした人があったとして、「ごめんなさい。もう二度とあなたのように死んでいく人を出しません」ということではない。そうだったら次の行動は変わってくるはずです。そうじゃなくて、「ご苦労さん。ようやってくれた」だと、「次の人もまたお国のために戦争に行ってくださいね」ということになるんです。決定的に違いが分かれていくと思います。
8.靖国思想
仏教でも亡くなった人を追悼します。戦死した人ももちろん追悼します。神道でも追悼します。靖国神社でも追悼します。追悼ではなく、慰霊という言葉が使われるかもしれません。
戦争で命を落とした人のまわりには悲しんでいる人が大勢います。悲しむ人を生み出さないために私たちはどうすればいいのか。「悲しいことだが仕方がない。それも必要だ」と戦死を認めるなら、それは国家による死者の追悼につながってくるんですね。
仏教による追悼と、靖国神社での追悼と何が違うのか。お国のために命を捧げるということと、その後に続いてほしいということがサイクルになっていくのが靖国思想です。
靖国神社の場合は、国の戦争は「正しい戦争でした」「立派に戦いました」ということになります。「戦争は正しいことだった。命を落とした兵隊さんは英霊となられた」とほめたたえます。ほめたたえるのは、あとに続く人を生み出すためなんです。次の人へのメッセージになっている。
しかし、戦いの中で他人の土地や財産を奪ったりすれば、正義ではない。そうすると、戦死者は正しくない戦いに動員されたたことになります。英霊としてほめたたえるのではなく、二度とやっちゃいけんということになる。
難しい話じゃないんですよ。本当に心の底から「ごめんなさい。もう二度とあなたのような人を生み出しません」というところから出発するか、あるいは「正しいことをやったんだからほめてやらにゃかわいそうだ」と思い、次の人に戦争に行ってもらう、準備になるのかです。
9.「人を殺してほしくない 殺されてほしくない」
平和安全法制が成立して、「じゃあ住職、戦場に行くことをどう思うんか」と問われてもおかしくない状況になっております。もし今の憲法が変えられれば、全面的に問われるようになりますよ。アメリカと一緒に戦争することになってもおかしくないわけですから。
その時に、「よくやりました。ありがとう」と言って次々と送り出すのか、それとも「もう二度と殺し殺されることがあってはならない」ということが亡くなった人たちからのメッセージ、願いだと受け止めるのか。どっちを選ぶかによって行動に大きな違いが出てくることであります。
二年ほど前ですかね、京都で念仏者9条の会のの集会がありました。集会が終わってみんなと別れたら、大きな声で話しかけてくる人がいました。息子さんが自衛隊員だという方です。小一時間でも話しましたかね。
そのお父さんに一つだけ届いたなと思ったことは、「私はあなたの息子さんに死んでほしくないし、人を殺してほしくない。お国のためにどれほど意義があり、やらないといけないとしても、人を殺してほしくないし、殺されてほしくない」ということです。
人が死ぬことがいかに痛ましいか。なんぼ年を取られていても、いざ亡くなると悲しいですよね。まして戦場で殺されて死ぬ。私は想像するしかありませんけども、決してそういう形で死んでほしくない。そうしたことを、そのお父さんに話しました。「違う」とは言われませんでしたね。非常に印象に残っております。
10.「憲法9条に自衛隊を明記する」その先にあるもの
憲法9条では「戦力の不保持」、「交戦権の否認」が掲げられています。だから、本当は戦力を持ってはいけないし、もちろん戦争をしてもいけません。ところが、2012年の自民党新憲法草案には「9条に自衛隊を明記する」とされています。なぜでしょうか。
今自衛隊は専守防衛だ、こちらから攻撃するためじゃないということになってるんですね。だけど、戦争をするときはどの国でも自衛のためだと言うわけです。イラクが大量破壊兵器を持っているから自衛のためにと言って、アメリカやイギリスはイラクに攻撃しました。仮にイラクがミサイルを持っていたとしても、アメリカやイギリスまでは届きません。だけど、自衛だからと、イラクを攻撃しました。そうなっていけば、どんな戦争も自衛のためということになって、結局はあらゆる戦争を認めることになるんです。
集団的自衛権とは、同盟国が攻められたら、自国が攻撃されていなくても、一緒に戦う権利があるということです。集団的自衛権の行使は今は部分的にですが、「憲法で認められている」と政府与党が数の力で通しました。違憲とされない限り、今後はアメリカと一緒に戦争していくことになります。
じゃあ、戦力の不保持、交戦権の否認はどうなるのか。法律の先生に聞いたら、みなこうおっしゃいます。法律というのは後から書いたものが先のものより優先されると。規約は後に決まったほうが有効なんです。だから、自衛隊を憲法に明記すれば、自衛権のほうが戦力の不保持や交戦権の否認よりも優先されることになります。
憲法9条をめぐる状況は今非常に厳しいです。日本がいつ正々堂々と戦争する国になるかわからないというのが今の状況です。
11,どんな社会を子や孫に手渡しますか
戦前、本願寺教団はご門徒を守ろうとしたのか。守るということの意味は2つあります。1つは肉体の命を守るということ。そして、殺したくない、殺されたくないという人間の精神を守ること。教団や住職は徴兵される青年の、また家族の心や命を守ろうとしたのか。もしかすると国家に差し出したんではないか。
もちろん、反対すれば教団や寺院がつぶされたかもしれないということがあります。「お国のために行ってこい」と言えば、教団や寺院は自分の立場や組織が守れたわけです。でも、自分を守るために他の命を差し出す状況が、戦前にあったのではないかと思うんですね。
今もそういう状況に向かって進んでいる。国民投票法改正案が6月17日に可決されました。これからは国民投票をしやすくなります。投票の結果、過半数を超えれば憲法は変えられる。改憲を主張している人たちが狙っている本丸は「九条改憲」です。国民投票によって九条が変えられれば、戦死する人が出てくる可能性がはるかに高くなります。そして、戦死をほめたたえ、再生産していく、次の人、また次の人というふうになっていく。それは私や皆さんの世代ではなく、私たちの子供や孫の代です。皆さんはそういう社会を子どもたちに手渡したいですか。
12.響き合う日本国憲法前文と『無量寿経』の第一願
日本国憲法の前文にはこうあります。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
この非常に崇高な理念は真宗の根本聖典である『無量寿経』に説かれてある阿弥陀仏の第一願「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と通じるものがあります。尾畑文正先生は「地獄は戦争。餓鬼は貧困。畜生は差別」と見抜かれました。
地獄・餓鬼・畜生は死んでから行く世界じゃなくて、今、殺し殺される世界、奪い奪われる世界、差別し差別される世界です。そんな世界があれば、私は仏にならないという阿弥陀仏の第一願です。「仏にならない」ということを平易にいえば、「私は幸せにならない」と言えると思うんです。
そして、第三願は「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ」です。みんなが金色だということは、一人ひとりが平等に尊いという意味です。そうでなければ私は本当に幸せとは言えないと誓われた。
浄土とは戦争と飢えと差別がない社会だと宣言した『無量寿経』と憲法の前文とはまさに深く響き合っていますね。『無量寿経』はお釈迦様の言葉。日本国憲法は第二次世界大戦での人間の苦悩の中から生み出された言葉。深く響き合っているのは当たり前だと思います。殺し殺される社会はお釈迦様の時代もあったわけです。それは現在も続いているからこそ、憲法の理念として阿弥陀仏の願いが私たちの前に現れてきたと思います。
親鸞聖人の教えやお釈迦様の言葉を聞くのは、自分が何もしない言い訳を探すためではなく、自分が気づかなかったことに目を開かせてもらう、そして教えに生きた先人にならって私も生きるために背中を押してもらい、そして同じ過ちを犯さないためだと思います。
一緒に学ぶ友達が「真宗は過ちから出発する宗教かもしれない」と話してたことが心に残っています。私たちは常に間違う。だけど、間違えていたことに気がつくことによって、過ちを繰り返さないためにどうするかいうことを学んでいくんです。
13,阿弥陀様のお働きに参加するご利益
『歎異抄』第一条に、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とあります。阿満利麿さんといって、NHKのディレクターから明治学院大学の教授を勤めた先生がいます。念仏者9条の会の講演会に来てもらいました。その時、「摂取不捨の利益にあずけしめたもう」ということを話されたんです。
「あずく」というのは親鸞聖人が生きられた鎌倉時代の言葉です。今でも「お招きに与(あずか)る」とか「ごちそうに与る」とかと言いますよね。辞書的には「物事の一部に自分も加わって関係を持つ。責任を分散する」という意味だそうです。クイズ番組で「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱る場面がありますけど、ボーっと見とるんじゃない、招かれたんだったら参加しろということですね。今の言葉で言えば参画ということです。加わっていく。
「摂取不捨の利益にあずく」とは、阿弥陀様の摂取不捨の利益をいただくということを受身的に理解すると、自分がただいただくだけになります。もちろん、阿弥陀仏のはたらきによってお育てにあずかるわけですけども、そこにとどまらず、阿弥陀仏のお仕事に自分も加わる、それがお育てにあずかることです。
お育てにあずかることは、阿弥陀様の事業に凡夫である私が参加していくことです。もちろん私ができることは限られています。それでも、ご縁があった方から願いのバトンを受け取り、そして自分がやらにゃいけんなという思いに背中を押される。自分の中から念仏申さんと思い立つ心が湧き上がってくる。
私の住む地域にハウス栽培が9棟あります。今アスパラの収穫を手伝っています。今は一番大きく育つ時期です。お育てにあずかったら伸びていくんです。
私たちは正しいことばっかりするわけじゃない。間違いもいっぱい起こすわけです。絶えず正されながら、凡夫である私が阿弥陀様のお仕事の一端を担わしていただく。そのように阿満先生に教えていただきました。これは非常に目が覚める思いがいたしました。
14. バトンを受け取って
先立つ人たちからバトンを受け取って、また次の人に願いのバトンを渡す生活をしていく。バトンをいただいた人の中には、戦争で無念な思いで命を落とした人もいます。祖父のように戦後を生き、最後の最後に遺言という形でバトンを渡してくれた人もいます。いろんな人が私のまわりにいます。そのバトンを私が受け継ぎ、そして二度と殺したり殺されたりということのない社会にしていく。
「微力ではあっても無力ではない」と言うじゃないですか。人はそれぞれ生きてる場が違いますから、同じことをしろと言うわけではありません。そんなことはできるわけがありません。また、する必要もない。でも、願いの根っこは一つですよ。それは阿弥陀様の願いを私たちが生きるということです。
阿弥陀仏の願いが人間の過ちや苦悩の中で響き合って日本国憲法の前文や9条になった。この前文はただの言葉ではなくて、大きなる人間の過ちの中から生み出されたと思います。お釈迦様の言葉も大きなる過ちの中から私たちに残してくださったものだとも思っています。
くり返しますけど、亡き人の願いを私たちがいただき、そして阿弥陀様のお育ての中から、自分自身も願いに参加させていただく。生きてる限りその願いを尽くしていく。恩徳讃の「身を粉にしても」という言葉はそういうことだと受け止めております。
日本の社会は阿弥陀様の願いとまるで逆の方向に行こうとしている。「人を殺してはいけない。奪ってはいけない。差別してはいけない」、それとは逆のほうに進もうとしているように感じます。それに対して、同じ過ちを繰り返さないために声をあげることで、受けたバトンを次の人に渡していきたいなと思って、今日はお話をいたしました。どうもありがとうございました。
(2021年7月9日にありました戦歿者追悼法会でのお話をまとめました) |
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