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  小河 努さん 「障害者と家族、そして地域」
                              

 
 2007年5月26日

1,二歳上の姉と

 小河と申します。よろしくお願いいたします。高校の教員になり、その後はろう学校に20年間勤め、養護学校に転任し、2003年退職しました。そして、NPO法人「CILピアズ」を障害当事者や家族会、市民と設立して、障害者や高齢者の支援、介護などを行っております。
 今日は「障害者と家族、そして地域」ということでお話しさせていただきます。
 四年ほど前、父親の肺気腫がひどくなり、母親は心臓が悪かったもんですから、私が病院に付き添うという形で看病しました。三ヵ月ほど介護休暇をとりまして、父親の介護をしたわけです。家族介護がいかに難しいものかということを痛感しました。普段あまり話をする親子でなかったもんですからなおさらです。問題は孤立感です。
 障害を持った人たちや家族の人たちから時に、「誰かに助けてほしいとは言いたくない。どうせ変わりはしない。泣ける相手もいない」と聞かされていましたが、私自身もそのとき改めて感じました。家族に対しても、例えば兄に対して「一日、泊まりを代わってくれんか」と頼んだら、「忙しいから泊まれん」と言われ、「もう頼むまい」と思いましたからね。より孤絶感を持ちました。
 それから結果として一ヵ月ほどで父はなくなりました。自分が殺したような感覚を持って、ちょっとしんどかったですね。その時、私は50歳前だったんですけど、自律神経失調症がひどくなりました。寝ている時でも心臓が波打って寝汗をかいて眠れない。イライラして仕事が手につかない。鬱にもなりました。

 二歳上の姉は知的障害、テンカン、そして目もいわゆる「ひがら、ロンパリ」とからかわれる対象でした。姉は23歳で亡くなりましたけど、姉がいたことがマイナスなのか、プラスなのか、よく今でもわかない時がありますが、小さいころはマイナスに思っていました。
 いつもではないですけど、「お前の姉ちゃん、きちがい、ひがら」と、時々いじめられます。あるいは、一緒に汽車に乗ると、年配の方が「かわいそうにねえ」と声をかけてくる。今だったら、声をかけてくれれば、そこからいくらかでもつながりを持てると思うんですが、子どものころは「かわいそう」という言葉が一番いやでした。
 今こういう仕事をさせてもらっていて思うのは、障害の受け止めについて変わらないところと変わっている部分があるということです。私は53歳になりますが、私の親の世代は、障害を持った子どもが生まれたら、次の子を生まないですね。だけど、私の親より若い世代は生んでいます。ひょっとしたら私は生まれていなかったかもしれないわけです。
 私の母親は九州の生まれで、広島にいわゆる「嫁」として来ました。姉のことで姑や親戚から、やはり「血筋」のことを言われるわけです。
 母親は何とか治らないものか、目だけでも治せないものかと、とにかく姉を病院やら訓練機関に連れて行きました。これはどうしてかというと、一言で言えば障害者として生きる展望がないからです。先が見えない。それがプレッシャーになっている。

 たとえば、小学校2年生の自閉症の子どもさんなんですけど、見た目には何の障害もないんです。だけど、デパートに連れて行くと、あるものにこだわったり、大きい声を出したりするわけです。「お父さん、もうデパートには連れて行けないね」というような話をして半年ほどして、お父さんが自死されました。理由は他にあったとお母さんは言われますけど、残されたメモの中に「この子の将来が見えない」ということが書かれていたそうです。

 私の一番下の娘も知的障害です。私は一人ぐらい障害者が生まれてくれないかと本当に願ったんですが、ありがたいことに三番目に生まれてくれました。妻はよく泣いていました。ちょっとしたことがしんどいというか。一番上の子は辛い思いをしたことがあるようです。
 私が障害を持った子どもが生まれてほしいと思ったのは、一つは私と姉の関係です。とにかく子どもの頃は姉のことを隠して生きてきましたから、姉に対する贖罪ということもあると思いますね。
 もう一つは、姉と私とのようではない関係を作ってみたいということがありました。そうではない人生が作れるはずだ、やり直したい、という気持ちがありました。だけど実際、娘との間がどうかというと、やっぱりどなったり、怒ったり、いろんなことをしてきたんですね。
 それと、「持っとらん者にはわからん」という母親の言葉がこびりついているんです。私の母親は今82歳です。今でも姉のことで母親と話をするんですが、いまだに「障害のある子を持っとらん者にはわからん」という言い方をしますね。
 たしかに、人の痛みは、経験することはできないわけです。「産んだ者にしかわからん」ということは一面の事実としてあるけれども、じゃ、生まれにゃわからんのかというと、そういうことはないわけです。人には想像力があります。「持っとらん者」にいくらかずつでもわかってもらったからこそ、この40年の間にいくらかずつでも変わってきたじゃないかと、母とはいまだに話をします。

 母親が「お前の血が悪い」と言われて追い込まれたように、障害はマイナスだと受け取られ、プラスだということがなかなか言えない。そうして、障害者を隠そうとする。これは差別の問題ともつながってくることです。
 基本的に健常者指向がありますから、障害を持つことは恥だという社会意識の中で、障害者を隠すという考え方があります。軽い障害であっても隠すことが今でも行われているんです。私の姉にしても、よその家でテンカンの発作を起こして倒れたこともあったりして、外に出さないようにしていました。じゃ、隠されて生きる当事者はどうなのか。隠されて当たり前なのか。
 障害者はどこに行けばいいのか。障害者手帳を持ち、福祉サービスを受けているから、それで暮らせるかというと、必ずしもそうはいきません。障害2級の人の年金は月に6万6千円ぐらい、一級はその1.25倍で、8万3千円ぐらいです。授産施設で働いても、平均工賃は8千円ぐらいですし、利用者負担はそれ以上かかりますから暮らせないんです。
 グループホームは私たち健常者の発想です。「何で人と一緒におらにゃいけんのか」とか「一人で生活したい」と言われることがあります。それに、グループホームの報酬単価では世話人を一人しかつけられないですから、グループホームさえなかなか成立しないんですね。

 半年間で4回、措置入院で病院に入れられたという人がいるんです。お母さんと二人暮らしです。彼の場合、こだわり強いんですね。車が好きですから横断歩道で身体を揺らしてみたり、マークが好きなんで車が止まると車のマークを見る。車検証をのぞくために車に顔を近づけたり。それだけのことなんですけど、運転している人はギョッとしますよね。危ないものですから、運転手に怒られる。
 買い物に行けば、バーコードをのぞきこんだりするもんですから、気持ち悪がられる。それから、亡くなったおばあさんが白髪だったもので、白髪の人が好きなんです。寄っていって頭を近づける。寄っていくだけなんです。だけど、それで通報されるんですね。
 車の前に飛び出すのは自傷行為になる。精神保健福祉法によると、「精神障害(知的障害、発達障害含む)のために自身を傷つけまたは他人に害を及ぼすおそれがあると認められる者」は条件によっては措置入院させることができるんですね。
 その場合、原則家族を立ち会わせないといけないんですが、母親を呼ばずにやっていたということで、措置入院させないですむようになったわけです。最後は入院した病院の主治医が、「自分ならしない」という発言もあって、最近は措置入院はなくなったんです。
 入院が続くと病院のほうがいいということになるんです。病院から出ても行くところがないですから。これは刑務所でもそうなんです。

 統計上は身体障害者は約350万人、精神障害者は260万人ですが、知的障害者は45万人と、他の障害者に比べると桁違いに少ない。しかし、私らのまわりの知的障害者を見ても、そんなに少なくはないですね。知的障害者は200~300万人はいるだろうと言われています。つまり、多くの知的障害者が療育手帳を持っていないことになります。
 国会議員だった山本譲司が自分の刑務所体験から、累犯障害者の問題を取り上げています。2004年、新受刑者が約3万2000人いるうち、知能指数が69以下の人は約7400人です。22%、つまり約4分の1が知的障害者ということになるんです。ところが、刑務官から見て「知的障害だな」と思われる受刑者400人ちょっとに、療育手帳を持っているかどうかを調べたら、所持率は6%だったそうです。
 彼らの多くは実社会では生活できないから、無銭飲食などで刑務所に入ってくる。出所しても、行くところはないし、福祉の制度を知らないので、また微罪を犯して戻ってくるということの繰り返しをしているんですね。一年以内に7割が戻っているそうです。

 今、問題になっているのがアスペルガー症候群とか、広義の自閉症といった、いわゆる広汎性発達障害と言われる障害です。アスペルガー症候群の定義は実ははっきりしていません。一般的には「知的障害がない自閉症」とされています。
 極端に言えば、不登校とかひきこもりとかいった人たちが全部入れられる可能性がある。犯罪者にもアスペルガー症候群という病名がついている人が多いですね。西鉄バスジャック事件の少年もそうです。
 そういう人たちにとってみれば、そういう病名、ラベリングによって救われるという面もあるんですが、しかし、犯罪キャンペーンと結びついてくると事情は違ってきます。親の間でも最近はアスペルガー症候群という診断をつけないでほしいという動きもあるように聞いています。
 犯罪で言えば、問題は背景が問われないことです。どうしてこういう事件を起こしたのか、そこまで追い込まれている背景は必ずあるんです。
 ところが、レッテルを貼って片づけようとする。こういう発達障害があるから、落ち着ける環境を作ってやればいいんだとかいうふうに、安易に持っていきがちなんです。少年院でも発達障害のプログラム、構造化がはやっています。確かに構造化によって当面落ち着くという面もあると思いますが、本人に転化することで問題が片付くのか。

 基本的には五体満足でという健常者思想はいまだに生きています。この間もダウン症の親の会の人が言われてましたが、子どもが産まれた時に医者から、「残念ですがダウン症です。600人に1人です」と言われたそうです。そして、その方は「それを言うんだったら、続きを言ってほしいよね。600人に1人だったら、同じ障害児を持った家族を紹介してちょうだい」と。
 実際、親がつながりの中でいろんな出会いをし、思いが変わっていくことがあるんです。ダウン症の親の会でアンケートによると、8割が「産んでよかった」というふうに変わっていくわけですね。
 当事者がどんなに元気に生きているか。それなりに楽しい生活があるか。そういうメッセージを伝えていくということが一番大切なことなんです。ところが、それが伝わらない。医者もそういうつながり知らない。

 もう一つ例をあげますと、安定剤や睡眠薬を飲んでいる親は結構多いです。特にお母さんです。先が見えないというしんどさが結構ありますから。当面薬で救われるということもありますが、問題はそれこそとりまく「構造」の中にあります。


2,就職して天地がひっくり返る

 私がどこで変わったかというと、一つは就職して変わりました。荒れた高校に就職したんですね。私は高校時代、高校の教員というのは授業をしたら、あとは時間があるから、本を読んで適当にやっていけばいいと思ってました。
 ところが、教員になって最初に勤めた高校は荒れていました。私立にも入れない子どもらが来てました。バイクを乗りまわす。シンナーを吸う。授業が成立しない。修学旅行でよその高校の生徒にバカにされ、ケンカになって逮捕される、ということもありました。
 子どもたちの家庭も問題を抱えている場合が多くて、お母さんが男と蒸発したとか、お父さんが病気で働けないという子どももいました。自分で家のことをしないといけないわけです。
 「お前の言うことは絶対に聞かない」と言う。だけど、学校には来るんです。どうしてかというと、学校には「連れ」がいるんです。
 「わしらのことがわかるわけない」と言われ、姉のことを話したら、「お前は姉ちゃんか」と言われて返事のしようがなかったことがありました。その時、ああ加害者だったんだと気づいたんです。
 後になってみるといい経験でした。若いから必死でした。生徒たちの中には、「ここに来てよかった。初めて話を聞いてもらえた」と言う子もいましたし、退学した生徒でも、三年ぐらいしてから「保険証もろうたで」と話しに来る子もいました。「消耗品」扱されて生きてきた子どもらが生き直していくわけです。どこからでも生き直すことができる。だけど、生き直すことはしんどいです。

 そのころ、重度の障害者の自立支援をということで、寝たきりの人を交代で24時間介助するということをしました。しかし、介助者の予定に穴があき、その人は飲まず食わずの状態で脱水症状になったということがあったんです。
 生きるだけなら施設の方がいいかも知れない。しかし、生きる意味の問題なんだと、教えられました。

 障害を持つ子どもの親には「この子より一日だけ長く生きたい」と言う人が多いですが、危ないですね。それは子殺しにつながりかねませんから。「自分が死んだらこの子は誰も面倒を見てくれない。自分で始末をつけよう」と、プレッシャーにつながります。
 青い芝の会といって、1957年に発足した脳性まひのある人を中心とする当事者組織があるんです。障害者差別の撤廃、自立生活獲得のための社会運動を展開しています。
 1970年に横浜で、母親が障害を持つ子を殺す事件が起きたんです。近所の人や障害児をもつ親、市民が減刑嘆願運動をしました。これに対し青い芝の会は、減刑反対の運動を起こすんです。殺される子どもの側はどうなんだ。福祉政策が不十分だからといって、それが子殺しの正当化にはならない。減刑嘆願運動に対する告発を当事者団体として初めてやったんです。

 そして、優生保護法改正時にも青い芝の会は反対しました。「胎児が重度心身障害を持つ可能性がある場合」は中絶してもいいというふうに改正されようとしたわけです。結局、障害者団体の反対で改正はされませんでした。
 そのあと、女性の産む、産まないという権利と、産まない理由に障害者が含まれることについて、論争が起きたことがあります。

 スコットランドの調査があるんです。二分脊椎症児という、生まれてから数日、長くても数年で死亡する障害があります。1950年代半ば、手術によって二分脊椎症の子どもを助けることができるようになりました。
 ところが、1978年から出生前検査がスコットランド全域に普及すると、検査が行われる以前には、毎年500人の二分脊椎症の新生児が生まれていたのが、1996年にはわずか2人にまで減ってしまったんですね。
 圧倒的にマイナスの情報が多いですから、産むか産まないかを親が判断を選択できることになると、障害者が生まれなくなる。

 なぜ親が一日でも長く生きたいかというと、それは社会の支援がないからなんですね。たとえばこういう例があります。おじいさんが障害のある孫を「家の恥だ」「おとなしくさせとけ」とお母さんに言うわけです。その子は朝早くに起きて外に出たがるもんですから、お母さんは朝の5時ごろから公園に連れて行って、学校が始まるまで遊んでいるとかしているわけです。
 家族の負担をカバーできるシステムがあればいい。しかし、ない。じゃ、施設に入れるか。施設も順番待ちです。今、国は施設から退所させるという方向になっています。精神障害者24万人のうち、7万人を退所させると。だけども、国がやっていることは退所支援施設を他の病院の敷地内に作るということなんですね。
 支援をしようという受け入れ態勢の社会的基盤がない。精神障害者に対する偏見もある。受け皿がないということもあるし、受け皿作りをしようにも金をかけない。介護でもそうです。介護の社会化といいながら、在宅で介護ができるだけの態勢を作らない。かといって、施設や病院にいても年金だけでは生活できない。


3,障害はプラスかマイナスか

 障害はプラスかマイナスかということですが、ろう者にはろう者独自の社会、デフ・コミュニティがあります。デフというのは聞こえないという意味ですが、ろう者の社会ということです。聴覚障害というと障害のイメージが強いじゃないですか。デフとか「ろう」とあえて平仮名で書くことによって、マイノリティとしてのポジティブな意味合いを強く出す意味があると思います。
 ろう者は自分たちの世界を持っています。手話という固有の言語を持っていることに対する誇りがあるんです。ですから、両親がろうであると、「ろうの子が生まれてほしい」と言います。
 スウェーデンではろう者の第一言語が手話なんです。法律でスウェーデン語よりも先に手話を入れています。ろうの8割は健常の親から産まれますから、産まれるとネイティブスピーカーを国が派遣する。そして、デフ・コミュニティーを紹介する。親に手話のプログラムを入れる。そういうふうに法律でなっています。
 ろう者が車を運転しての事故率は警察庁の調査でも健常者の10分の1なんです。こういうことはあまり知られていませんよね。マイナスの情報ばかりが流されているというのが現状なわけです。
1980年ごろ、ある病院の副院長がろう学校に来て講演をしたんですね。その時に、「耳が聞こえない人はしゃべらないから、生産ラインにつければ生産性が向上する」というような話をされたんです。しかし、就職した生徒は辞めていった。
 副院長の話は当時の常識で、学校自体がそうでした。とにかく口の動きを訓練して読みとれという時代ですから、民間企業がそう思うのは無理はない。だけど、こういう誤解は今でもあるんじゃないでしょうか。

 もう一つ、障害はプラスかマイナスかということについて、5年前に私は筋ジストロフィーのきょうだい二人が自立生活を自立生活を始めるということで、NPOを立ち上げました。
 彼らはデュシェンヌ型という、進行が一番早い筋ジストロフィーです。かつてはデュシェンヌ型の筋ジストロフィーは20歳で死んでいくとされたものです。だけど、兄のほうは30歳を超えています。
 デュシェンヌ型は遺伝病だと言われています。劣性遺伝です。女性は保因者にはなるけど、女性が発病する確率は少ない。染色体は23対あって、23対目が性染色体です。女性はXX、男性はXY。筋ジストロフィーの遺伝子はXにのりますから、男性だとほとんどが筋ジストロフィーで生まれてきます。まさに血の中に障害があるんです。
 このきょうだいの間に妹がいて、健常者です。だけど、調べると筋ジストロフィーの遺伝子があった。兄のほうが自立する時に言いました。「妹も子どもを産んでほしい。そういう社会にしたい。僕は病院から出たいんだ」と。じゃあ、何とかしようということです。きょうだいが楽しく生活するようになることが、妹が子どもを産めるようになることつながる。運営に苦しみながらも続けています。
 彼は気管切開をしています。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、中高年になって筋ジストロフィーと同じような症状になる病気だと、気管切開を拒否する人が6割から7割です。今さら気管切開してまで生きたくないと、本人も家族も拒否するんですね。ところが、筋ジストロフィーの世界では、「気管切開はピアスと同じだ」と当事者間では言われています。
 気管切開するとしゃべれなくなると思われていますけど、誤飲なんかのリスクがあるからしゃべれないようにするだけのことなんですね。食べる時だけバルーンをふくらませて、気管をふさげば、肺に入らないようにすることができます。
 彼が入っていた病院では、気管切開するとベッドにつなぎます。そうして気管切開してからの生存率は短いです。だけど、彼の場合は気管切開してから3年になります。二人とも雑菌の中で暮らしているわけです。
 何が違うかというと、生きる意欲の問題だと私は思うんです。娑婆の中で生き、死んでいくほうが自然なのかなと。病院を否定するわけではないですけども。 
 ろう者は手話の世界がある。だったら、車イスの文化があるんじゃないか、作らにゃいけんと、きょうだいで言っています。プラスかマイナスかということより、プラスにしたいという希望ですね。ろう者はプラスの世界を確実に持っています。筋ジストロフィーの世界はあるか、自閉症の世界はあるか、ということがこれからの課題です。

 原田正純という医師が講演で話していたのが、「宝子」という言葉です。上村智子さんは胎児性水俣病で、21歳でなくなっています。智子さんがお母さんの身体の水銀を吸い取って生まれてくれたおかげで、下の子どもたちは健康な身体で生まれたことから、智子ちゃんは「宝子」として大事に育てられたそうです。
 この子がおったから、きょうだいが智子ちゃんの面倒を見てくれ、みんな優しい子に育った。こうやっていろんな支援の人たちも来てくれる。この子がいなかったら人の優しさとか、世の中、捨てたものじゃないなと感じることはできなかった。こういうことをお父さんが言っているそうです。
 私らが若いころ、近江学園の糸賀一雄が「この子らに世の光を」ということを言っています。障害のある子たちは光なんだ、宝なんだ、という言い方は、「かわいそう」という言い方と同じように、現実を知らない者が何を言うのかという反発心がずっとあったんです。だけど、原田正純さんの話にはものすごく説得力があったですね。


4,三つのスローガン

 自分たちができることを何とかしていきたいということで、安浦で活動しています。「CILピアズ」では「弱さをきずなに」「地域での24時間のスローライフの実現」「地域とのコラボレーション(協働化)の実現」をスローガンにしています。競争や効率とは違うオルタナティブなもう1つの、スローに生きられる地域社会。それを、地域と協働してやっていこうということです。団塊の世代の人たちも退職していきます。そういう人たちとも何かできないかなと。

 「弱さをきずなに」というのはどこからパクったかというと、べてるの家のスローガンなんです。北海道浦河町にある日赤浦河病院にべてるの家という精神障害者の施設があります。最初は住民とのトラブルもあったんですけど、彼らは町を再生したんですね。同じ土俵の上で競争するのでなく、逆に辺境性を逆手にとったり、障害を逆手にとって生きていく。そうして、結果として地域を再生していく。
 たとえば、妄想弁論大会をするんです。これも逆手にとったやり方ですね。誰の妄想が一番かを選ぶわけです。サタンが出てきたらどうやって撃退するか。そういうことをしゃべれるコミュニティがあるということですね。しゃべれるかしゃべれないかが大きな違いだと思うんです。
 弱くてもいい、がんばらなくていい、だけどあきらめない、というのは長野の鎌田實医師の言葉ですけど、通じるものがあるように思います。

 「CILピアズ」は社会福祉法人でないですから、何の援助も受けられません。建物も無理をして建てました。24時間のサービスはできていません。コミュニティ・レストランとか、コラボレーションもまだまだうまくいっていません。
 NPOは今ふるいにかけられています。NPOは変なシステムですよね。何の税金のメリットもないですし、運転資金も自前で用意しなくちゃいけない。未払い金は一ヵ月先までしか経費として認められていません。二ヵ月先までの未収金が資産になりますから大抵「もうけ」が出てくる。それにかかる税金は払わないといけない。二ヵ月間の運転資金もいる。しかし、現金はないんです。
 介護系のNPOに将来があるのかないのかということでいえば、NPOに限りませんがよく分かりません。つぶれているのが現実です。介護保険でも、国のやり方は最初はいくらか報酬単価を高くして、業者を呼び込んでおいて、あとでふるいにかけていきます。その上、大手の介護サービス業者が不正をすれば、報酬単価は次の年には必ず下げられます。大手はつぶれないですけど、中小はつぶれていきますからね。具体的にいえば、平均して1時間あたりの報酬単価は2千円以下です。
 介護保険が2000年に始まりました。障害者の支援費支給制度は2003年4月ですから、3年遅れて始まったんです。障害者の支援制度は介護保険よりいい制度になりました。それは障害者の長い運動があったからです。
 だけど、2006年、障害者自立支援法が施行されまして、障害者にとって悪い制度になりました。所得保障がないのに、1割自己負担やサービス利用の上限設定という定率負担を導入したり。あまりにもひどすぎたということで、たった半年で国は上限額を、所得によっては四分の一にしたりとか変えてます。
 今のところ福祉に将来はない。若い人たちが展望を持って働けないという状況ですね。だけど、何とか生きつづけていかないといけないとは思っています。「弱さをきずな」、どれだけきずなができていくか。あんまり大きくすると、理想は風化していきますから、大きくできないんですが、ある程度大きくしておかないと維持ができないというジレンマの中でやっているのが現状です。

(2007年5月26日(土)に行われたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)