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 佐賀枝 夏文さん
   「人生ものがたり
       ―悲しみやつらい体験から見えてくるもの―」

                                    
 2011年5月19日

  1

 みなさん、こんにちは、ぼくは名前を佐賀枝といいます。学生さんは「サガエさん」と呼んでくれます。「じぶん」紹介をしてみます。ぼくは、とても「じぶん」に自信がないのです。そして、どちらかというと引っ込み思案で、子どもたちの言葉ではヒッキーということになります。今日、これからみなさんとご一緒して、時間を過ごそうと思いますので、こんなぼくですがよろしくおつき合い願いたいと思います。

 ぼくのテーマソングは「パッヘルベルのカノン」という曲です。カノンというのは音楽事典で調べましたら輪唱でした。小学校の時に輪唱をされたことがあるでしょう。先頭のグループをあとのグループが追いかけて、離れつかずに歌っていくのが輪唱ですよね。不即不離というのは、きっとこんな感じなのでしょうね。
 カノンを聴きながら、ぼくはいつも不即不離で見守ってくれる人がほしかったんだと思うんです。真横におられたらしんどいし、真うしろにおられても見えないし、ななめ後ろぐらいで見守ってくれる・・・、そうなのです。母親がいたらいいなといつも考えていたのです。

 ぼくは少年時代、幸せに育っていないんです。つらい少年時代を送ったんです。ほんと悲しかったんです。誰かに見守られたかったんでしょうね。「いま」連れ合いがいますけど、「ぼくを見守ってください」と言うと、「勝手に、一人でいなさい」愛想なく言われます。ぼくの性格は、天気がよくても、部屋でお掃除をしているのが好きなたちです。連れ合いは、丈夫で元気いっぱいで、天気がいいと遊びに行きたくてしかたがないので、ぼくがじっとしているとお尻をたたかれます。

 ぼくは心理カウンセラーをしています、役割は、子どもたちとか、つらい人をななめ後ろから、そっと追っかけていくのが仕事かなと思うんです。邪魔にならないようにして、寂しい時には「あなたの側にいるから」とそっと見守っているのです。私たちは180度視野がありますから、いつも側にいてくれることがわかるところにいるのがいいのかなと思うのです。あゆみが遅いからといって、後ろから押さないように、また前から引っ張らないように、このような仕事がカウンセラーのぼくの仕事だと思います。
 しかしですね、こんなに引っ込み思案なぼくですが、カウンセリングで話を聞いてて、だいたい話がわかってくると、「こうすればいいのに」と言ってしまって、その人がつらくなることがあるんです。それはよくないので、ぼくはそのことを忘れないように思い出しては、相談していきたいと思っているのです、この曲をぼくのテーマソングにした理由なのです。

 みなさんは、ご自分のテーマソングをお持ちですか。自分の応援歌とか、人生のテーマソングを探して見つかるといいですね。なにかでつまずいたりしたときに聞くといいじゃないですか。


  2 原風景を尋ねて

 みなさんはどのような原風景をお持ちですか。原点でもいいと思います。どなたでも原風景をお持ちだと思うんですね。原風景とか原点は、元気いっぱいで、状態がいい時には出てきません。つらい時に帰りたい風景です。つらくてへとへとになった時に、帰りたいなと思うのが原風景なんだろうと思うんです。

 ある人は、匂いで出てくる人もいます。ぼくは父親が結核だったこともあって保育所に預けられていたんですね。ぼくが保育室からいなくなって、保母さんが探したら、非常階段の下の苔を触っていたそうです。苔の匂いをかいでいる男の子でした。なんとまぁ、サガエさんはやっかいな人だったんですね。

 ぼくの原風景は、また、よく風邪をひいて寝ていたので、天井の節穴だったり、雲を眺めるのが好きだったので、青い空に雲の風景であると思います。それから小学校に入った時、家の近所に路地があって、我慢ができなくて失敗しました、その時のおしっこの臭いと路地の臭いですね。今も、その路地を歩くと、いっぺんにフラッシュバックするんですね。みなさんもご自分の原風景がどんなものかを味わってみられたらどうですか。

 ぼくは原風景を思い出すか、どうかは二の次でいいと思うんですけど、原風景を捨ててしまうとか、原風景はどうでもよくなった時に、人は危うくなると体験したことがあります。
 結論だけ言いますと、扇子の「かなめ」がありますね。ぼくは「かなめ」が原風景だろうと思うんです。「かなめ」がはずれると、扇子はばらばらになりますよね。おそらく原風景を消してしまうと、その人の人生をはじめとすることがばらばらになるんじゃないかなと思います。
 そのばらばらになった体験をお話しししましょう。お聞きいただけますか。では、これからサガエさんの原風景をお話しします。


  3 「人生の暦」

 ぼくは頭がはげています、小学校から円形脱毛症ではげているんですよ。今、ようやく自分のはげていることが言えるようになりました。ぼくは、長い間自分が円形脱毛症でハゲていることを隠していました。大学の教員になった時も、黒板に字を書く時はハゲが見えないように頭に手を当てて書いてましたね。
 自分の痛手とかつらさを隠していた時期はむしろしんどくて、少し楽になったのはバリカンを買ってすっきりハゲをさらしてからですかね。自分で髪を刈ると、とても楽になりました。
 人は誰でもつらいことを隠せば隠すほどつらくなるということは何となくわかりますね。ぼくは人生の大半を隠して生きてきました。母子家庭で育ったとか、いろんなことを失ったことを、ひた隠しに隠してきたので、言葉を持てなくなってしんどくなった体験があります。今日はハゲていることを話したので、ちょっと楽になりました。

 ここに「人生の暦」というのがあるんです。ぼくは手帳とか日記をつけるのが苦手だったんですよ。手帳がはやった時に先輩や友達が持ってたので、ぼくは人が持っているとうらやましくなる質なんですよ。いつも置いてけぼりだったんです。みんなが持っているものを持たしてもらえなかったんです。いつも、ぼくだけなんでと思っている子どもだったのです。
 みんなが手帳を持っているのでほしいなと思ったら、値段が高かったんです。たしか一万円でした。高いなあと思って、年明けに行ったら5千円になってて、手帳を買ったんですね。
 この手帳をずっとつけたいと思ったので、粗末にしないために、秘密を書いていると粗末にしないで使えると思って、最後のページに「人生の暦」をつけてみたんです。一年に一つだけ大事な出来事を書いているんです。

 1ページ30年、見開き60年。手帳の片面に30行ですから、1年に1行としたら、見開きで60年、還暦です。片手に人生60年が乗るのかなと思いました。
 ぼくは1948年(昭和23年)生まれです。一番最初に書かなければいけなかったのは、1952年(昭和27年)4歳の時に父親と死別したことです。肺結核で亡くなりました。その後が1956年(昭和31年)8歳、小学校2年生の時に、裏の家から出火して、富山県魚津市にあるぼくのお寺が焼けて、母親が働きに行かないといけないので、お寺から出たんです。それからは住職の祖父と坊守の祖母とぼくと三人での生活でした。それからぼくのつらい少年時代が始まったような気がするんですね。

 ぼくの原風景に帰りますと、富山には立山連峰があって、日本海があって、魚津市は猫の額みたいなところなんです。これがぼくの原風景なんですね。日本海から見た立山連峰と魚津市というのは実際には見たことがないんですけど、イメージを継ぎ足しているんですね。

 ぼくにしてみたら、4歳の時に父親が結核でなくなって、小学校2年生の時に家が焼けて母親が働きに出てしまったので、この風景の中で育ったんですけど、好きじゃないんです。扇の「かなめ」を自分の中で消したかったんです。この風景さえなければもっと幸せだったと思ってたんです。
 消すということは、父親と死に別れしないし、母親が一緒にいてくれるという生活を自分の中に妄想していたんでしょうね。寂しかったんですよ。枕をぬらす生活でした。今、少しつらいことを思い出しましたけど。なかなか消えませんね。何かあると、すっと出てくるみたいですね。

 ぼくはこの風景を消そうと思って、高校を卒業して京都に出たんです。その時に誓ったんですよ。この風景には絶対に帰らんぞと・・・。いやだったので、この風景を消しゴムで消そうと考えたわけです。でも、人生を消す消しゴムはありません。
 ぼくは人生の中で原風景を消そうと思って逃げまわってたんですね。どうなったかというと、不安に襲われました。不安といらいらです、自分の中にあるやっかいなものが全部出てきたような感じがするんです。

 ぼくは大学を出て、福祉関係などを転々として今に至るんですけど、40歳に近くなった時に、そろそろ家を持ちたいなと思って、家を買ったんですね。そこは琵琶湖があって、比良山があって、その間なんですよ。だから、自分が逃げ出したところに舞い戻ったということになるのです。そっくり同じじゃありませんけど、立山連峰が比良山に変わって、前に日本海があったのが琵琶湖になっているんです。

 人生を考えてみる機縁になったのは、自分が原風景に舞い戻ったことなんです。人生って、自分ではなんともしがたい大きなところで生きているのかなと思って。それからは「生きていることは何なのかな」と、ぼくも問わざるを得なかったです。
 ぼくは、捨て子のような気がしてたんですよ。早く両親と別れたりした体験をした子どもは「捨て子」体験を持つと言われるんです。ぼくもそうだった気がするんです。

 ぼくは「生まれてきてよかったのか」と問わざるを得なくて、誕生の承認がとくに問題になりました。「あなたは誕生してきてよかったよ」という承認をぼくは得られていないと思ってたんですね。ぼくの性格形成はそういうところにあるんだろうと思うんです。誕生の承認を得られた人は、なぜかすごく自信があって、どこでも前に出れる人は誕生の承認を得られている人だと思うんです。あなたはここにいていいし、生きてよかったねと思えるんでしょうね。
 ぼくは実際に問いを発したことがあるんです。母親に別れて、母親が月に一ぺん来てくれてたんですけど、その時に尋ねたんです。「ぼくが生まれきてよかった?」と聞いたら、「あんたがいなかったら、私、再婚できたのに」という答えだったのですね。

 母親が若かったこともあって、月に一回戻ってきてたのが、だんだん戻ってこなくなって、男を作って来なくなりました。ぼくが一番嫌だったのは、母親がお化粧をする時でした。ぼくのためにはお化粧はしませんもんね。お化粧をしている母親は男性に向けてお化粧するので、ぼくは資生堂の匂いが大嫌いでした。
 でもね、母が鏡台に座って口紅を引いたあと、口を鼻紙で押さえますよね。ゴミ箱からその鼻紙をひらって、ポケットに入れて、次に母親が来るまで匂いをかいで過ごしたのがぼくです。恥ずかしいことはいっぱいありますけど。

 そういうふうに承認を得られていないぼくが、母親がだんだん来なくなって、いろんな精神的な症状が出てきました。ぼくは寂しかったので、小学校に入ってからも人形を抱いて寝るのが習慣だったんですね。ところが祖父が「大きくなったから」と、人形を取り上げてから、円形脱毛症ではげだしたみたいですね。

 円形脱毛症の人はつらい思いをしてますので、お華の剣山みたいに刺しちゃいけないんです。大事にしてあげないといけないのが、つらい思いをしてしまって、円形脱毛症になったり、さまざま症状が出るんです。今の仕事をするきっかけとして、そういうところにご縁をいただいた気がします。


  4 人生の物語

 ぼくは自分の人生を考えてみたいなと思ったんですね。みなさんも自分の人生を読み解いてみたいと思いませんか。ぼくは人生を読み解くとしたら、物語だったら読み解けると思ったんですね。人生を物語みたいにして、人生という物語を読み解こうと思ったんです。

 人生の物語だったらタイトルがある気がしたんです。みなさん、人生のタイトルとかテーマとか考えたことありますか、ドラマには必ずタイトルがあるでしょう。自分の人生のタイトルをつけるとほっとしますよ。
 ぼくは、ある時、自分のタイトルを決めたんです。「喪失」です。つけるには勇気がいったんですよ。

 今日、ゴミの日の人がいますか。ゴミは捨てますよね。ゴミが置いてかれたら困りませんか。ゴミ収集車を追いかけませんか。あれは自分の意志で捨てるからです。意図的に捨てるのは処分したいからです。でも、喪失とは理不尽に奪い取られることです。母親と一緒にいたかったし、父親がいたら幸せだったかもしれないなあと考えたのです。ぼくが自分のタイトルを「喪失」とつけた時、ほっとしました。病名がわからずにうろうろしているのと似ているかもしれません。でも、告知されると大変ですけど。ぼくにとったら自分の人生のタイトルを「喪失」と決めた時に、それまではないものねだりで、あったらどんなにいいのにと思ってたんですけど、タイトルを決めてみたらほっとしたんです。

 タイトルを決めると、人生の中身を考えてみたらこんなことかなと思ったんです。起承転結というのがありますよね。起の物語を当てはめると、子ども時代、少年時代だと思うんです。承が青年期で、結が高齢者で、振り返る時期かと思うんです。転は青年と高齢者の間ですから、中年でいいかなと思います。

 こういうふうに見ると、人生には起の物語があって、青年期の承の物語があって、転の中年期があって、結びの時期がある。自分の人生の流れみたいなものがわかってくるんですね。

 思春期という言葉がありますね。子どもから大人に体型も変わっていく、不安定な時期です。思秋期もあります。思秋期はあまり一般的ではないですけど、人生には春と秋があって、子どもが大人になる時には春で、一斉に芽吹く時期です。
 ぼくはもともとはげてたんですけど、全体に髪の毛が薄くなって、自分で認めざるを得なくなって、若作りをしていても思秋期に入ってくんだなと自覚したときがありました。人生には節目があって展開するのかなと思ってるんです。

① 起の物語

 起の物語にもテーマがあるんじゃないかと思うんですね。親からいただいたものとか、環境でできあがったものがあります。性分、性格といってもいいんだろうと思うんですけど、性分の形成がおそらく起の物語の決定的なテーマなんだろうなと思います。

 子ども時代は人生を生きていく心と身体を養う。変遷はあるんでしょうけど、変わらないものは子ども時代にできるんだろうと思うんです。それをぼくの中で実証しているような気がします。どれだけ変わろうと思っても変われなかった。
 起の物語でいただいた自分を生涯たずさえていく土台みたいなものが子ども時代だとしたら、みなさんもいただいた心と身体は子ども時代にできたんじゃないですか。それはあまり変わらない。一部変わるかもしれません。全部が変わらないとは言い切れませんけど、基本的にはいただいた身体と心でそれぞれの人生を歩んでいく。

 ぼくがお手伝いしているのは、変わりたいし、変われない人たちです。うまくいかない子どもたちは性分を変えようと思って、サガエさんのところを相談室をノックします。でも、ぼく自身も変わりたいものを持っていて、変わりたいけれども変われないですよね。
 ある子どもは変えられなくて、大きいバイクを買って暴走してどこかへ行って、また戻ってきますし、自分を変えようと試みて薬を飲んだり。でも、さまざまなことをしても根本的には変わらない。だからといって、相談に来る子どもに、最初から「変われない」と突き離すわけにはいかないですね。

 テーマを起の物語でもらうんじゃないかなと思うんです。ぼくにとっては喪失というのはあとから探したテーマですけど、起の物語でいただいてしまっている。ぼくは「人生かけて喪失を考えなさい」と言われたように感じるんです。

 ぼくは起の物語で性分ができて、あまり自信のない、そして人がうらやましくて、まわりの人はみな幸せで、ぼくだけが不幸で、何でぼくはこんなに不幸なんだと思うような性格形成になりました。そういうことをたずさえながら、自分は起の物語を通過したのかなと思うんです。
 みなさんも、自分の人生のテーマを子ども時代にもらったとしたら、何が私のテーマで、私のテーマソングは何で、タイトルをつけるとしたら何がいいかを考えてみませんか。

② 転の物語

 今日お話してみたいのは転ということです。どんな字を当てはめてみたらぴったりくるかなと考えたことがあるんです。「転身」かなと一時思ったんですけど、今は「転換」じゃないかなと考えるようになりました。中年期は転換の時期になるのかなと思っています。
 ぼくは自分がなぜ生まれて、なぜこんなに喪失のテーマを持って生きているのかを調べてみたいと思ったんです。人はどんなふうにして生きて、一生を終えるのかなという関心を持ったので、いろんな先人の生き方を調べてみました。

 ア、九条武子さん

 一番最初に出会ったのは九条武子さん(明治20年~昭和3年)です。歌人として有名な方です。お兄さんは西本願寺の大谷光瑞さんです。なぜ九条武子さんを調べたかというと、九条武子さんがしていた福祉の仕事が残っていて、この人はどんな人生を歩まれたのかなと興味を持ったからなんです。

 九条武子さんは41歳で亡くなられます。人生には中間のところに大きな出来事があるんです。九条武子さんは35歳の時です。35歳は転機になる人が多くて、お釈迦様も悟りを開かれたのは35歳です。

 九条武子さんは35歳の時に関東大震災で被災するんですね。全部焼けて、築地本願寺の跡にテント二張りを建て、一つは救護テント、もう一つは震災で焼け出された子どもたちのテントです。救援活動をして、過労がもとで敗血症で41歳で亡くなるんです。

 それまでは、いうならばお姫様の生活です。夫の九条良致(よしむね)という人は九条家のお坊ちゃまで、イギリスに留学して帰ってこない。武子さんは歌をたくさん作るんですが、その歌は「いとしいいとしいあなたが今年も帰ってきません」というような歌なんです。みんな、すばらしいとほめるんですけど、与謝野晶子さんに叩かれます。「あなたみたいな甘っちょろい人がいるから、女性の地位が低いのよ」と叩かれてしまうんです。
 35歳までお姫様が歌を歌って夫の帰国を待ち続け、一安心したところで関東大震災に遭って、命からがら逃げて、三度死ぬような思いをされます。

 残っている三通の手紙を調べましたら、一通の中にこんなことが書かれてあるんです。「私はすべてのものを失いました。私はこれから甦って生きてみたい」。「甦」の字を書かれるんです。甦生の誓いです。
 九条武子さんは和服のよく似合う人で、麗人と言われた人ですけど、甦生の誓いを立ててから、借り着の誓いを立てて、お姉さんから借りた一枚の着物を洗い張りして着て生涯をとおされました。

 中年期の転換ですべてが変わる、その変わり方は、今まで大事だと思っていたものが転換する。武子さんの言葉を探してみると、こんな言葉があるんです。
 築地本願寺が焼け落ちるんですけど、お付きの人と「もう一度見に行きましょう」と言って、「悠久の甍」、大きな本堂ですから、それが火の勢いで垂木が天に舞って、音もなく落ちました。その時に、「満天の星が輝いてございました」。それでその文章は終わるんです。
 それまで見えなかったりしたことが、揺さぶられて初めて見えてくる。そこに真実があるみたいな、そういうふうに武子さんが気づいていかれるのです。

 それから、震災のあと、10月ごろに救援活動で歩いている時に、「真っ黒の焼け跡に萩の花と芙蓉が咲いてございました」という、それも「真っ黒な焼け跡に時を忘れずに芙蓉の花が咲いてくれた」と書いているんです。それが武子さんが少しずつ甦って生きてみたいと思うこととつながっていくような気がするんです。
 武子さんの中で見えてきたのは何かというと、子どもたちに命をつないでいくことが大事じゃないかということが武子さんの文章の中に読み取れるんです。私が生きていることも大事だけど、命をつないでくれている子どもたちの大事さ。だから、子どもの施設を作るんです。このように喪失を機縁に転換した武子さんです。

 イ、中村久子さん

 中村久子さんは大谷派でよくご法話で話をされる方です。ぼくは福祉がテーマなので、障害者の支援をやってたんですけど、ぼくの中でどうしても障害を受けたことが超えられなかった時に、中村久子さんを調べてみたんです。

 中村久子さんは岐阜高山の生まれです。2歳の時に凍傷にかかって、3歳の時に雑菌が入って脱疽になり、「切断しなければいけない」とお医者さんから宣告されるんです。切ったら脱疽がとまるから。でも、両親は不憫だからそのままにしようと決断されたんですけど、それがもとで3歳の時に四肢の切断をすることになりました。
 見せ物小屋に身売りされて、「だるま娘」という芸名で、生計を立てて生きていかれました。三度、結婚されて、中村姓は最後の結婚です。

 中村久子さんの本を読んでると、両親が早く決断をして手を切断してたら、四肢切断して「だるま娘」にならずにすんだと、中村久子さんは思ったんじゃないかなと感じるんです。それから、母親が、久子さんは一人で生きていかないといけないからというので、厳しく仕込んだので、針仕事もできるようになったんです。親を恨んだと思うんですよ。「何でこんなになったの。手と足があったら、自分はこんな身売りをして恥ずかしい思いをしなくて」と思っていた久子さんの気持ちはよくわかるんですね。

 中村久子さんの晩年の「こころの手足」というエッセイを読んで、転換の時期があったような気がしました。「私がここまで来れたのはたくさんの支援者があったり、先生に導いてもらったからです」。そこまではいいんですけど、「本当の先生は私のなくなった手足でした」と書かれています。そこですよね。

 ものの見方が転換していって、久子さんは甦って生きていかれたのですね。人生にはそういう転換の時期があって、その転換は地震のように大地が揺さぶられないとわからなかったり、中村久子さんは手足が脱疽を切断して、それを引きずりながら生きてこられた。そのことを見たくて、高山に行きました。国分寺に中村久子さんが建立した慈母観音があるんで行ってみたんです。慈母観音を建立されたのは晩年で、「お母さんに産んでもらったことがありがたい」というふうに転換があったことが、慈母観音の建立につながったとわかったんですね。

 ウ ケネス・タナカ『真宗入門』

 人というのは喪失というとんでもないことに出会うことによって、人生のものの見方が変わって見えてくるんじゃないか。ぼくは転換してませんけど、先輩の中には、とんでもないことに出会って、ほんとのものが見えたり、今までのものの見方が百八十度変わっていく人がいるんです。

 ケネス・タナカ先生の『真宗入門』という本に「海で漂流した船乗り」のたとえ話が載っているんです。
「一艘の船が、ある熱帯の島から出航しました。陸を遠く離れて何時間も航海した頃、一人の船員が誤って海に落ちてしまいました。他の乗組員は誰もそのことに気づかず、船はそのまま航行してしまいました。水は冷たく、波は荒く、真っ暗闇でした。大海の真っ只中で、その男は沈まないように死に物狂いで足をばたつかせます」
 その時の船乗りの心境としたら、「何でこんなところに落ちたんだ。海が憎らしい」ということでしょう。
「手も足もすぐに疲れ果てて、胸も苦しくなって喘いでいました。大海の中で迷い完全に孤独になってしまった男は、もうこれでおしまいかと思いました。絶望の中、男のエネルギーは砂時計の砂のように消耗していきました。顔を打つ海水を飲み込んで息ができなくなり、体が海の底に引きずり込まれるような気がし始めています。
 その時、海の深淵から声が聞こえてきたのです。「力を抜きなさい。力むのを止めなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏」
 その声を聞いた船乗りは、自分の力だけでむやみに泳ぐことを止めてみました。夏の昼下がりに裏庭のハンモックの上でのんびりするように、くるりと仰向けになって足を伸ばしてみました。すると、力まなくても海が自分を支え浮かせてくれることを知り、大喜びしたのでした」
 転換したら、苦海と思っていた海が私を支えていてくれていた。
「海はまったく変わっていないのに彼の考え方が変わったので、この船乗りと海との関係も変わったのでした。海は危険で恐ろしい敵から、彼を支え守ってくれる友となったのです」

 中村久子さんも「私に手足があったら人生が洋々としていたのに」ということが、気がついてみたら、手足がないことが私のお師匠さんで、私を導いてくれたのが切断した手足だったというんでしょう。そういう受け止め方をされるんです。

 人生の中には甦って生きるということがあることを教えてもらったと思います。人って、何もなく幸せに生きていると、なかなかそういうことに気づかないので、みなさんが恨みつらみに思ってる人がいるというのはいいことじゃないでしょうか。

 それから、ああだったらいい、こうだったらと苦悩することがなければ転換はないんじゃないですか。私はとっても幸せだという人はそれはいいんですが、とっても苦しいという人は転換の機会がきっとあります。


  5 こころの形

① しなやかなゴムのよう

 心って、とっても身近ですよね。どこにあるんでしょう。ぼくは脳波室で脳波をとっていたことがあるんです。でも、心が脳にあるとは思えませんでした。心はどこにあるんでしょうね。

 心は、何ともなくて、のんびりしてる時はあまり出てきませんよね。やっかいな時に心が出てくると思いませんか。一日に一度ならず心は一瞬に出てきませんか。はっと突然出てきませんか。

 心はどんな形でしょうね。みなさんは心の形を絵で描いたことがありますか。サガエさんの心を描いてみますね。氷嚢みたいな形です。熱が出た時に水や氷を入れて額を冷やす氷嚢です。氷嚢を昔は使ってましたけど、今は冷えピタですよね。今の学生さんには氷嚢と言っても通じないです。
 耳で聞いたり、目で見たりしますと、入ってくると反応しますから、心にも出入り口があったほうがいいかなと思ったんですね。
 氷嚢はゴムでできていて、水や氷を入れると大きくなります。心も大きくなったり、小さくなったりします。叱られると、きゅーんとなりませんか。ぼくは連れ合いによく叱られるんです。滅多にないですけれど、ほめてもらったりすると、心がちょっと大きくなったような気がするんです。

 ぼくはやっかいな几帳面なんです。玄関で靴を脱ぐ時はちゃんとそろえて上がります。あした着ていく服はローテーションで順番に着ます。ところが、連れ合いは玄関の靴はハの字型です。玄関を上がると和室があるんですけど、そこでズボンを脱いで、それから順番に脱いでいくので、どういうふうに脱いだかわかります。見るに見かねて、「子どももいるので何とかして」と言ったら、ガーンと怒られました。
 一番困ったことは、ぼくはタオルとかをたたむのが好きなんですね。白いタオルは白いの、色のついたタオルは色のついたのというふうに、きちんと分けてしまいます。連れ合いはお布巾も雑巾も一緒にするんですよ。あまりにも見かねて、「せめてお布巾とタオルを分けて洗濯してください」と言ったら、があっと怒られました。「干したら一緒でしょ」。その時もぼくは心がきゅーんと小さくなりました。

 ぼくは心理カウンセリングをしているので、カウンセリングが終わったら、後ろ姿を見ることにしているんですね。問題を解決していない人の後ろ姿はだいたい小さいです。少しほっとして帰られる時はふっと大きくなってる感じがしますね。
 ですから、心もそういう意味では大きくなったり小さくなったりするのかなと思います。だから、心は材質はゴムのようなものかなあと。

② うすいガラスのよう

 それから、心はガラスのように壊れやすいですね。言葉が弓の矢のように刺さることはありませんか。ぼくの体験ですけど、石が飛んでくるとします。それは言葉だったり、まなざしだとか、ひそひそ、「あの人、ダメねえ」と時々飛んできますよね。

 ぼくが一番ダメージがきつかったのは、先ほども話しましたけど、母親に「ぼくが生まれてよかった」と聞いた時のことです。「あんたがいなかったら、私、再婚できたのに」って。あの時はシュンとなりましたね。
 最近は、連れ合いに「ぼくと結婚して幸せでしたか」「いや、あなたと結婚しなかったら私はもっと幸せだったのに・・・」。昔も今も変わりませんね。そういうひと言で人の心は簡単に壊れます。

 突き刺さった矢を自分で抜こうとすると、矢尻が入ってしまっているので、絶対に抜けませんね。抜こうとすれば抜こうとするだけ、血が出たり、痛みが伴うのはそういうことじゃないでしょうか。ですから、誰かの言葉がひと言、心に入って刺さったとして、取ろうとすると大変なことになる。


  6 こころの体力

 でも、矢が飛んできても跳ね返せる時があると思いませんか。こんな気の小さなぼくでも、いつも矢が刺さるわけじゃないんですね。

 連れ合いに「ぼくと結婚してよかったですか」って、何回も実験してるんですよ。何でも心理学の実験ですから。今日は大丈夫かなと思って聞くと、たいていは同じ返事なんですよ。「あなたと結婚しなかったら、私はもっと幸せだ」。でも、その時に「まあ、そう言わないで」と返せる時があるんですね。心が大きくなったり小さくなったりして、矢を跳ね返せるのは健康な状態です。

 それから、ぼくは大谷大学で教員しているんですけど、こんな性格ですから、学生さんより先に頭を下げるんです。「こんにちは」と、なかには無視されることがあるんです。そういう時はものすごく傷つくんですよ。目の前から消えてやろうかと真剣に思うこともあるんです。人がしんどいと「消えたい」と思うのは、そういうことなんでしょうね。

 心の体力というのがあると思うんですね。心の力、心力(しんりょく)というのが理にかなっていると思うんですけど、しっくりこないので、心であっても体力でいいわと思ったんです。
 みなさんは、疲れた時って休みませんか。栄養ドリンクを飲もうか、温泉に行こうか、ちょっと座ろうかとか考えますよね。でも、心が疲れている時はがんばってしまうんです。解決すれば疲れがとれると思って、逆に走りまわってしまいます。ぼくのところに訪ねてこられる人は、しんどいので逆に動きまわって考えすぎて、へとへとになって来られる方が多いですね。

 ひと言が矢となって心に突き刺さって抜けなかった時は、心の体力が落ちているからです。身体が疲れた時と同じように、一服する習慣をつけたらどうですか。何がいいですかね。ぼくはバス旅行の広告をポケットに入れておいて、ここに行ったらちょっとほっとできるんじゃないかみたいな。バス旅行に行くとかえって疲れるんですけどね。おいしいケーキを食べるとか、自分がほっとできることを探してみたらどうですかね。

 体力が十分あったら、「あの人はああ言ったけど、いつもあんなことを言うわけじゃない」というように考えられるのです。そういう時は体力がある時です。逆に、しんどくて、ひと言が抜けない。その時は体力が落ちているんですよ。走りまわってヘトヘトになって倒れ込んでしまう。体力が落ちている時は決して走りまわらない。言いふらさない。あれこれ言うと、あとで消してまわらないといけなくなって、もっとしんどいことになります。

 心の体力が落ちると、出てくるのが不安です。不安と恐怖の違い、わかりますか。ちょっと違うんですよ。不安というのは実態のないものを不安と言います。恐怖というのは、自動車にひかれそうになったりする恐怖体験です。
 不安は先々の不安です。「年金が入らなかったらどうしよう」と思いませんか。先々の不安が出てくると、手につかないといいますかね。心の体力がある時は「何とかなるわ。年金がなくても物価が下がるかもしれない」とか、いろいろ考えることができるんですけど、体力が落ちていると、不安で不安で仕方なくなって、そのために走りまわるけど、それは対処療法でなくて、違ったエネルギーの使い方です。エネルギーを出せば出すほど体力が消耗していまうので、そこは十分考えてください。


  7 承認されていること

 ぼくのたわいもない体験を話しますと、きっかけはだいたい連れ合いとの関係なんですね。ぼくは連れ合いに認められたくて仕方ないんです。「ぼくでよかった」と言ってもらいたいんですよ。

 ぼくはお魚が好物で、腹身のほうが好きなんですね、尻尾よりも。晩ご飯の時に、あろうことか尻尾のほうだったんです。そこで言葉に出せたらよかったんですけど、ヘトヘトになって帰ってきたので体力がなくて、それ見た瞬間にぼくは「食べたくない」と言って、家出しました。プチ家出で、自動車の中にいました。連れ合いに「どこに行ったの」って探してほしかったんです。ところが、連れ合いには「帰ってこなくていい」と言われてしまいました。
 その時のぼくの心はすごく小さくなったんです。私が消えたほうがいいみたいな。「そんなにぼくが不要だったら消えてやろうか。そしたら連れ合いは泣くだろう」と、すごい期待しているんですけどね。そういう子どもっぽいところがあるんです。人って、でも、このようなことは、実は切実な問題なんですね。

 もっと言いましょうか。同僚とお茶を飲むじゃないですか。「お土産がありますからお茶を飲みませんか」と声がかかるとします。たいがいぼくははずされるんですよ。一個足りなくて、「サガエさん、これで我慢してください」とか。そういう運の悪いところがあるんです。
 この年ですから泣くわけにもいかないし、文句も言えないので、心の中で泣いている自分がいるのです。人って、そういうことでも傷つくと思いませんか。お菓子一個でも傷のつき方は一緒ですよ。心はそういうもんじゃないですかね。

 子どもたちがぼくのところに駆け込んでくるのは、一番は仲間はずれですね。仲間はずれになる子は学校にあまり行きたくない子で、そのことを感づかれて意地悪される。靴を隠されたり、ノートに「死ね」と書かれたり。悪さされた時、「私なんか生まれてこなかったらよかったんじゃないの」と思うんです。自分で自分を認めることができない。

 ですから今日をスタートに、人を大事にしませんか。自分を大事にしてもらうことのお返しは、人を大事にすることでしか返せないと思うんですよ。

 ぼくは背中をトントンしながら「よしよし」と言ってもらいたいんですよ。連れ合いに「背中トントンして」と言うんですけど、してくれないんです。背中に手を置いてもらうだけでも、暖かい感じもするし。
 連れ合いが新しい服を買ったり、髪をカットしに行った時に、「きれいだね」と言わないと、ものすごく機嫌が悪くて。その時に、「今日はカットに行って素敵ですね」と言うと、その日は幸せです。

 ぼくたちは一人では自分を幸せにできない存在なんだと思うんですね。人に返していく中でまわりの人や自分が開かれていったりするのかなと思います。

 人は快適になりすぎると、お互いの距離が遠くなって、人との間が悪くなるような気がするんです。昔だったら、狭いところで肩寄せ合っていたのが、今は距離を取って楽ちんになればなるほどしんどくなっているような気がします。人って、だんだんと距離が縮まっていって、人との関係がよくなっていくんじゃないですかね。

 たとえば「どうですか」と声をかけてみてください。人は、しんどい時は返事が遅れます。そして、たいがい「大丈夫」と言います。大丈夫には二つあります。OKサインで「大丈夫ですよ」というのと、「大丈夫だから近づかないで」という意味とがあります。この時の「大丈夫」は「それ以上、声をかけないで。そっとしておいて」ということなんでしょうね。

 この時に心はどんなふうかというと、不安やイライラが同じところでくるくる回って循環してます。不安だから行動ができなくて、おっくうになる。おっくうだとどういうふうに見られているのかと思って、また、不安になる。イライラして仕事がとどこおることになります。イライラすると仕事がおっくうになって引っ込んでしまう。引っ込んでしまうと、人が私をどう見ているか不安になる。このようなことを抑うつ状態と言います。うつ病じゃないですよ。抑うつ状態だとどうなるかというと、食欲がない、イライラ、おっくうになる。

 みなさんは大丈夫ですよ。一緒に生きてる感じしますもん。心がかたまり、フリーズして動かない人は体温が冷えている感じがします。心にも体温があって、温もりのある人のそばにいると居心地がいいということがあります。フリーズしている人のそばに行くと、ソワソワして居心地が悪いんですね。温もりがある人になりたいですね。


  8 こころの回復のプロセス

 ものごとは語らないで、ためておくとだんだんと重たくなるので、語ることは大事です。聞いてもらえるとうれしいですね。ぼくは今日、一番得をしているんですね。とっても、いい感じです。

 ぼくのように消えたほうがいいと思っていた子どもが、半世紀ほどたつと、「生きていてよかったかな」と思えるようになることも事実です。すぐにはよくはなりません。時間がかかるものです。人はすぐに何とかしようと思いますけど、一ぺん失われたものはすぐには何ともならないと思うんです。

 大震災の後、日本は大車輪で元に戻ろうとしていますけれど、見えない心の傷とか重たさとかはじっくり時間をかけなければならないと思います。状態をもとに戻すためには時間がかかるでしょうし、まわりが「戻りましょう」と言ったことでしんどい思いをする人がいるんじゃないかなと心配になったりします。

 心について、少しはわかっていただけたでしょうか。どのようにもとに戻っていくかという話をしましょうか。
 ぼく自身がすごくダメージを受けて、戻れるんだろうかと自問自答してたので、心が回復していくプロセスと出会った時にすごくうれしかったんですよ。こんなふうにして心って戻っていくんだと思いました。

① ショック期

 何かあった時にはまずショック期があります。大変な出来事に遭うと、心と身体を守る仕組みが働いて、他人事にように距離を置いてくれるのがショック期です。交通事故に遭った人に、事故に遭ってすぐインタビューをすると、これがこうあってと、あたかも他人事のように説明するのは、ショック期だからだと言われます。

 大切な人が病院で亡くなられて、親戚の人に電話をかけて、これからどうしようという話をしますね。あとになって「あの時、私どうだった」と聞くと、「ちゃんと電話で説明してたよ」と言われるのは、ショックなことが直撃してダメージを受けると、動けないはずなんですけど、あたかも金魚鉢の中から外を見ているみたいな距離が置かれる。いいとか悪いとかではなく、それで心と身体が守られます。

 ショック期は大変短いと言われます。連れ合いに何か言われたくらいではショック期はないと思うんですけどね。

② 否認期

 そのあとに否認期。事実なんだけど、認めることができない。「そうでなかったらいいのに。嘘だ」みたいな感覚にとらわれることをいいます。

 脳卒中でリハビリをしている方のカウンセリングをしたことがあるんです。こう言われてました。「とにかく寝るんや。起きたらウソだったらいいな。起きたら手が動いてるはずや」ということを聞いたことがあります。
 手が動かない、足が動かない、口がもつれてしまうという状態だったので、とにかく布団をかぶってやり過ごしたというのです。その人の否認期はそういう形だったと言われました。

 打ち消す。でも、打ち消しても、手が動かない、痛みがはしる。事実として受け入れていかないといけないカベに直面することになります。打ち消すのは有効じゃないので、これも長い間続かないみたいです。

③ かけひきの期

 次がかけひきの期。私の持っている一番の宝ものを貢ぎますから治してください。障害児の親からそういうことをいっぱい聞きました。「私の命を縮めてもらいいから何とかしてください」。そういう形でかけひきする。必死の思いでかけひきされるのもわかる気がします。
 でも、かけひきも長続きしないんです。事実として我が子に障害があることが歴然としていますし、失ったものは取り戻せないことがわかってくるうちに、かけひきも自然に消えていってしまう。

④ 混乱期

 心の中であれこれとチャレンジするんですけど、あれもダメ、これもダメ、万策尽きて混乱、どうしていいかわからない。立ち上がれないくらいの人もいるかもしれません。
 この時期に出やすいのは食欲不振みたいなことです。生きるということは食べることとくっついているので、本当に好きなものが出てもおいしくいただけないし、生きていこうという意欲が出てこない。子どもたちであれば、やり場がなくて、ものにぶつかったりするのかなあと思います。

⑤ 悲嘆期

 大変な出来事に出遭っていろんなものを失ったら、ショック期から始まって、否認期、かけひきの期、混乱期を一つの流れとして体験したり、あるいは逆転しながら行く人もいます。
 行き着くところは悲嘆期で、悲しみにたたき込まれてしまう時期。亡くなった事実と直面して、その方がいないことを味わって、しみじみ、さめざめと泣けるのが悲嘆期です。長い長い悲嘆期に入っていきます。ぼくは一番の勝負所は悲嘆期だと思います。

 連れあいを亡くしたAさんとBさんがいます。Aさんは気丈夫で、七日七日の中陰、四十九日をきちんと勤めあげられました。Bさんのほうはまわりの人が病気になるのかと思うくらい泣き暮らして、まわりの人は「あの人、大丈夫かしら」と思ったとします。
 どちらが心配かというと、Aさんのほうです。Aさんはダイレクトに受け止めなかったわけですから。いろんなことをしないといけないというので気丈にふるまわれたんですけど、悲しい時には涙を流して、実際につらいことを表に出したBさんのほうが、「喪の作業」を成したということになります。

 この悲嘆期の意味なんですけど、こんなふうに考えたことがあるんです。ケネス・タナカさんというお坊さんの話をしました。タナカさんの話の中で、船乗りさんがもうダメっていう時が悲嘆期のような気がするんですね。最後、万策尽きた時に手を離す瞬間が大事なのかなと思うんです。
 自分で解決していかないといけないということでなくて、もう万策尽きたのでお手上げという時が、自分を苦しめていたものが自分を支えてくれていたのかと転換していく時です。人は万策尽きるまで手放さないんでしょうね。

 こんな絵を見たことがあります。サルが落ちないように必死で枝につかんでいるんですね。死に物狂いです。でも、大地まで十センチなんです。手を放したらすぐに大地に着地できるんですけど、サルは大地を見ないもんですから、放したらダメだと思ってるんです。
 ぼくたち、放したらいいんです。でも、何かにすがって放さない。そのサルは枝を放せばダメと思ってしがみついているんですけど、放したら、その瞬間に救われてるんです。そこに大地があるわけですから。
 このサルの話、いろんなことに当てはまると思いませんか。ぼくたちはがんばって、がんばって、しんどい思いをしている感じがします。でも、力を抜いてまかせたらいいんじゃないかなと思います。
 まかせることに関しては、住職さんがいつも真宗の教えの一番大切なところとしてお話しされるところなので、住職さんにお聞きください。


  9 バウムテスト

 ぼくが心理学を始めた動機は心理テストなんです。バウムテストというテストがあります。ドイツで生まれたテストです。バウムはドイツ語で木という意味ですから、バウムテストは樹木のテストなんですね。樹木画テストと言われています。
 画用紙に鉛筆があったらバウムテストができるんです。「一本の木を描いてください」というだけなんです。そうすると、根っ子を描く人もいますし、枝や葉っぱを細かく描く人もいます。それを判定するわけです。
 根っ子は執着や過去とかトラウマが解決していない人だと言われてるんです。柵を描く人がいます。柵は孤立している人です。

 でも、ぼくはそういう解釈を大事に考えているわけではないんです。
 バウムテストは信じられるなと思ったのは、ある相談の時に、いじめに散々遭ってる不登校の子が、紙の上のほうに小さく樹木を描いたんです。これだけで判断するわけではなくて、話を聞いているうちに特定できたのは、不安が入るとふわーと上にあがってどっしりしない。小さく揺れ動いているみたいな。そういうふうに樹木って出るんだなと。逆に、下に小さく描いている子は、外の圧力を受けてる子なんですね。なるほど、そうか、と思いました。
 ある子に樹木画を描いてもらうと、横にずれていた樹木だったんですね。何かなと思ったら、すごく過保護のお母さんが入ってました。居場所がないぐらいに圧力をかけていたというんです。

 樹木はその人が生きている、生きる場所だというわけです。友だちから仲間はずれにされた子どもはこういうふうに樹木を描くことがあります。親から叱責を受けた子どもはこういうふうに描くこともあります。心の傷をこういうふうに表現するんだと思いました。


  10 仏教と樹木

 ぼくはバウムテストから入ったんですけど、いつの間にか樹木そのものに関心を持つようになって、樹木そのものを見るようになったんです。
 バウムテストのいわれを調べたら、ドイツでは「樹木から人生を習う」と言うんですね。人生を樹木は教えてくれるんです。

 郷里のお寺の近くにリンデンバウムという洋菓子屋さんができて、そこで何気なく「リンデンバウムは何からとったの」と聞いたら、「菩提樹からとったんですよ」と返事がありました。
 お釈迦さまは35歳の時に菩提樹の下で悟りを開かれたんです。

 無憂樹ってごぞんじですか。インドの古い言葉でアショカとかアソカと言います。お釈迦さまが誕生されたのはルンビニー園で、お母さんの摩耶夫人が無憂樹の花を取ろうとして誕生されたというエピソードが残っているので、誕生の樹木が無憂樹ということになります。

 次が菩提樹ですね。お釈迦さまが悟りを開かれた樹木です。それから、亡くなられた時の木が沙羅です。沙羅双樹というのは一対の樹とも言われていますが、沙羅の木の下で亡くなられました。誕生、悟り、命終と、木がくっついているのを知った時はうれしかったです。

 沙羅、菩提はインドの言葉を漢字に当てはめただけで、意味はないんですけど、無憂樹だけは違うんです。「憂いなし」なんですね。無憂樹は言葉の意味を漢字に移しているんです。

 人が誕生して、生きることに憂いがないということなのです。ぼくがずっと探してきた、自分が誕生してよかったのかどうかを無憂樹が教えてくれたのは、問答無用に憂いなしでした。ぼくは憂いて、連れ合いや母親に「ぼくでよかった」と聞いてたけど、誕生してくるというのは憂いなしなんですね。そういうことをずっと先人は教えてくれたのかと思うんです。
 お釈迦さまが無憂樹の下で誕生したことは、生きることは憂いなしだよと言ってくれてるとしたら、ぼくらはしがみついているものを放したらいいんじゃないですか。放したら大地が待ってるんじゃないでしょうか。一生懸命、放しちゃいけないとしがみついてて、気がついたら十センチもないところだった。そういうところで生きているんじゃないかと思うんですね。


  11 樹からの学び

① 菩提樹のこぶこぶ

 ぼくは、あまりよいカウンセラーではなかったと思うのです。それは、悩みについて、ずっと勘違いしてて、傷は早く治ったほうがいいに決まってると思ってたんです。そう思いながら長いことカウンセラーをしてました。傷を受けた子どもたちがどうしたら早く傷が治るかをさかんに試みていたわけです。

 ぼくがずっと関心を持っていたのは、樹木の切り株です。折れた枝や切り株が心の傷の表現だという定説があるので、ぼくはこれをずっと調べていたんです。
 大谷大学の門のところに一本の菩提樹があるんです。大きくなりすぎて、庭師さんが枝を切ってたんですね。ぼくは菩提樹に「人生を教えてください」と触るんですけど、菩提樹は何も言ってはくれません。それで眺めてたんですね。菩提樹を見ては職場に行ってたんですけど、ある日、気がついたら、切ったところがコブになって、そのコブが隆起して立派なコブになってたんです。

 樹が折れたりして痛々しいので、早く治ったらいいのにと思いますけど、すぐには治りませんね。でも、木は切ると樹液がいっぱい出ます。あれは涙ですね。懸命に修復しようとしています。それが年輪が増えるとともにコブになっていく。傷を自分の中に取り込んでいくんですね。

 ぼくがその菩提樹から教えてもらったのは、人はいっぱい傷を受けるけど、その傷がコブになったらいいんだ。庭師が切らなかったら台風で折れることもあるし、いろんなことで折れるわけですけど、その傷が時間がたってコブになればいいと思ったんです。
 ですから、人は傷つくけれど、コブになったらいいかなと思うようになりました。それには時間もかかるし、涙もたくさん必要だし、その中で生きていけたらいいんじゃないかなと思います。

② イチョウと大きな石

 大谷大学にイチョウの樹があるんです。大谷大学は鴨川の近くにあって、川が氾濫したことがあったんだと思うんですけど、グラウンドに石がいっぱいあるんです。ぼくがちょっと落ち込んで下を向いて歩いていると、大きな石を根っ子が抱えていたイチョウの樹があったんですね。

 あれを見た時、自分と重ね合わせましたよ。根っ子が子ども時代だとすると、ぼくの人生に石があったみたいに感じたんです。根っ子が石にぶつかった時に独り言を言うたやろうなと思ったわけです。「何でこんなところに石があるんや。ぼくが生きようと思ったところに何でや」と言ったと思うんですけど、根っ子は石を抱えて成長しているんですね。
 嵐みたいな天気の次の日に見に行ったんです。葉っぱが全部落ちてました。これはぼくが思ったことで割り引いて聞いてもらいたいんですけど、微動だにしなかったのは石を抱えていたからだと思ったのです。やっかいな石であっても、抱えさえすれば、その人を支えるものになるんだと考えたのです。そういうことを樹は教えてくれているような気がするんです。

 いろんなことが人生にあるんですけど、苦しいことも抱えてさえいれば、それが支えてくれるようになる。枝が切れてもこぶにさえなればいいのではないですか。


  12 『ぼくはここにいる』

 ぼくは絵本を東本願寺から出してもらったんです。『ぼくはここにいる』という本なんですけど、無憂樹のお話です。ぼくは童話とか絵本とかいいなとずっと思ってたんですね。
 バウムが主人公です。とっても平和なところから始まります。

 木が 立っています。
 無憂樹の バウムです。
 すべての 枝を
 いっぱいに のばして、
 大きな 葉っぱを
 大空に 広げて、
 風に まかせて
 バウムは つぶやきます。
 「生きてるって
 なんて すてきなんだろう。
 風さん、鳥さん、虫さん、
 みんな 生きているんだ。
 そして、わたしも生きている」

 話は誕生のところに戻ります。

 バウムは
 急な 斜面で
 石ころが 多く、
 ころげおちそうな
 ところに
 ひとりぼっちで
 うまれました。

 ぼくは、自分が生まれたところは肥沃なところじゃなくて、石ころだらけで、やっかいなところに生まれたと思っていました。

 バウムが
 双葉のころ、
 その年は
 雨が すくなく
 日照りが つづき、
 まわりの 木々は
 心配しました。
 「ちいさな バウムが
 育つだろうか・・・」

 まわりはこの子はちゃんと育つのだろうかと心配したということですね。

 大地は 毎日
 夜も 昼も
 いっしょうけんめいに
 願いました。
 ちいさな バウムの
 「いのち」を・・・。

 大地とは何なんでしょうね。まわりの人たちだったり、さまざまな縁だったり。

 バウムが
 生きていくためには、
 太い根っこを しっかりと
 はらなければ
 なりませんでした。

 聞いてみると、「大変なところに実生する樹は根っ子が張らないので、そのぶん苦労するですよ」と教えていただきました。

 バウムは つらくて
 ときどき
 なきました。

 「なんで こんなところが
 ぼくんちなんだ。
 かたむいているし
 上から 石ころが 落ちてくるし、
 こんなおうち イヤだ」

 これはぼくの常套句です。「いやだ、いやだ」
 バウムは思春期になります。

 「ぼくなんか 枯れてしまえ。
 なんで ぼくは
 生まれてきたんだ」

 これがリストカットしたり、自分をいじめたりする青年期初期の気持ちです。
 バウムはだいぶ大きくなります。

 大地と まわりの 木々は
 しずかに 願いつづけました。
 「バウムに
 つめたい風が
 あたらないように。
 たっぷり 栄養が
 取れますように」

 霧は バウムの 涙を
 そっと ふきとり、
 やさしく バウムを
 包みこみました。

 鳥は
 バウムに 歌います。
 「みんなの『いのち』は
 たいせつなもの。
 いらない『いのち』なんて
 ないんだよ」

 このことはなかなかわかりませんでしたね。今でもわかってるかどうかわかりませんけど。

 大地は
 バウムに 語りかけます。
 「君が 生きようとしたぶんだけ、
 根が しっかり はったんだよ。
 泣きながら 大空に
 むかったぶんだけ、
 大きく育ったんだよ」

 だいぶ時間がたちます。

 「むだなことなんて
 なにひとつ
 なかったんだよ」

 あとになってみないとわかりませんけど、今、ぼくたちが出会うことって無駄なことは一つもないと思うのです。いっぱい厄介なことはありますけど、それは無駄じゃないと思うことにしませんか。

 鳥は ある日、
 バウムに 聞きました。
 「バウムは 自分の
 おうちが いやだと
 いってたよね・・・」

 「いいえ、とんでもない
 私は ここが 好きです。
 ここで 生まれたし
 ここで これからも
 生きていたいのです。
 わたしのことを、
 みんなが
 たいせつに たいせつに
 思ってくれたことが、
 とても うれしいのです」

 最後です。先ほどと同じようにのんびりとした風景です。

 急な 斜面に
 木が 立っています。
 無憂樹の バウムです。
 すべての 枝を いっぱいに のばして、
 大きな 葉っぱを 大空に 広げて、
 風に まかせて
 バウムは つぶやきます。

 「生きてるって
 なんてすてきなんだろう。
 風さん、鳥さん、虫さん、
 みんな
 生きていいるんだ」

 ありがとう

 これで終わりです。
 帯にはこんなふうに書いていただきました。

 「きっと君も誰かに支えられ、そして君は誰かを支えている。」

 支えるばっかりの人もいませんし、必ず支えてもらってると言いますか。願い続けられているというのはぼくの中ではこういうことかなあ。その声が届くまでには時間もかかりますし、変遷もあると思うんですけど、そんなふうに思いました。
 あとがきを読んでみます。

 樹がそっとおしえてくれた「ものがたり」 佐賀枝夏文
 ぼくの「人生のものがたり」は、うしなうことではじまりました。それは、父との死別、そしてそのあとの母と別れての暮らしでした。その間に、お寺が「魚津大火」で焼けてしまいました。このことが子ども時代の思い出にあります。ぼくは、自分の境遇をうらみましたし、まわりの友だちをうらやましく思いながら大きくなりました。いつのまにか「なんで、ぼくが生まれてきたのか」「なんで、ぼくはこんなつらいのか」と考え、あっちこっちにぶつかり、そして、つまずきながら生きてきました。
 その後、カウンセリングの道にすすむことになります。カウンセラーへの入り口で、バウムテストに出会いました。このテストはドイツで生まれた心理テストです。このテストは、一枚の画用紙に「樹木」をイメージして、鉛筆で描くというものです。とくに関心を寄せてきたのは、「こころの傷」の表現についてです。カウンセリングで出会った方は、つらいことや悲しいことを経験した方ですから、描画に投影される「木」にも表現されることもあります。
 あるときまで「こころの傷」の表現の有無を探していましたが、樹木の「生きる姿」そのものに関心を寄せはじめるようになりました。そのきっかけは、ドイツ語のリンデンバウムが菩提樹であることを知ってからです。菩提樹はお釈迦さまがさとりをひらかれた木です。また、お釈迦さまの誕生に由来する無憂樹、お釈迦さまの命終に由来する沙羅の木があります。また、親鸞聖人が著された『教行信証』の化身土巻に「樹心」が説かれてあります。仏教が樹木になぞらえて大切な教えを説いてきたということがわかります。
 この絵本の「ものがたり」のもとになったのは、実生から間もないおさない木を見たことがきっかけです。そのおさない木はコンクリートのわずかなすき間に実生していました。さらにその木は日陰の中庭だったのです。この木を見て、自分と重ねあわせました。またあるとき、悩みを抱えて悶々として歩いていてふと見ると、急な斜面にすくっと天空に向かって立つ大樹に出会いました。この大樹は黙して語りませんでしたが、「なにがあっても、わたしは、ここで生きる」とそっとささやきが聞こえたように思いました。このことが、いつまでもこころから消えませんでした。


 13 『君はそのままでいいじゃないか』

 もう一冊を紹介します。「同朋新聞」の「わかってたまるか!ウチらの言い分」という記事を担当させてもらってるんですけど、あまりにもつらい子どもたちが多くて、来るメールが死にたいメールだったりしたので、何か方法がないかなと相談を受けたらできたのが、『君はそのままでいいじゃないか』という絵本なんですね。これは人生の道をずっと歩いていく絵本なんです。文章が長いので、一番最後のところを読みます。
 いろんなことがあってここに来ます。ぼくたちが生きているとは、ぶつかるし、落ちるし、いっぱいあります。

 きみはそのままでいいんじゃないか
 ぼくたちはぶつかってグチャグチャに傷つくときもある。
 負けるときもあるし、とんでもないことに出会うかもしれない。
 君に伝えたいことがある。
 こころの傷は、だれでもない君であるあかしなんだ。言い負かされることだって、君の生きている足あとじゃないか。よいこともわるいことも、すべて君が生きているあかし。
 なにひとつかくしたり、消すことはない。すべて君の大切なあゆみなんだ。
 胸をはっていつもの道をいつものように歩いたらいい。
 君はそのままでいいんじゃないか


  14 おわりに

 傷ついたことさえその人の歩みですし、それを隠すことはないし、隠すことによって道が見えなくなったりします。ぼくは子どもたちや悩んでいる人にメッセージを送りたいと思います。傷ついたそのことがその人の生きている証なんだと伝えられたらいいなと思うんです。
 いっぱい話をさせていただいて、聞いていただいて、いい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

(2011年5月19日に行われました安芸南組仏婦連大会でのお話をまとめたものです)