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  櫻部 建さん「修行の道、念仏の道」
2007年4月12日 

  1

 初めてみなさんにお目にかかります。櫻部と申します。私は大学に長くおりまして、学問の仕事を一生やってきた人間です。ただ、お寺や今日のような同朋大会の席で、特別学問の話をしようとは思いません。私が一個の人間として、仏教者として、平生思っておることをそのまま申しあげようと思います。
 とかく仏教の話は難しいように思われる人が多いですけれども、私はそんなふうには思いません。仏さんの教えというものはそんなに難解で、近寄れないもんじゃないと思いますから。

 まず最初に、私が平生、真宗門徒の方々にお話しする機会があると、いつも申しますことを話して、そのあと、今日の講題にいたしました「修行の道、念仏の道」ということを詳しく申そうと考えております。

 私がいつも申しますこととは、「みなさん、お念仏申しなさいや」ということなんです。親鸞聖人が我々に懇切に教えてくださった浄土真宗の教えは、一口に言って「念仏の教え」と言ったらいいと思います。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをこうぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
というのは、『歎異抄』という本に伝えられておる聖人のお言葉です。
 ただ念仏して阿弥陀さんに助けていただくんだと、よき人である師匠の法然上人から聞いて、そのままいただいておるだけだ、と言っておられますからね。

 じゃ、念仏というのはどういうことか。一般の方に「念仏とは何か」と尋ねたら、真宗の教え、あるいは浄土門のお念仏の教えにこころざしや気持ちがある人であっても、仏教のことなどあまり関心のない人であっても、「それは南無阿弥陀仏と称えることだ」と、八、九割の人はおっしゃると思うんですね。

 その通りなんです「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さんのお名前をよぶんだと、親鸞聖人は言ってらっしゃる。
「無碍光如来の名を称するなり」
というのが、そのお言葉です。無碍光如来とは、阿弥陀如来と同じことです。阿弥陀さんのお名前をよぶんだと、親鸞聖人は言っていらっしゃる。お名前をよぶということが始まりで、そしてゴールでもあるんですよ。

 お名前をよぶんですから、声を出してお名前をよばねばお念仏を申したことになりません。もちろん大きな声を出す必要はない。大きな声で称えなきゃ値打ちがないとか、功徳がないとか、そんなことは全くないんですから。
 人に聞かすための念仏でないから、むしろそうっと小さい声で称えたほうがいいと思います。大きな声でお念仏を申す人がありますけれども、それはどんなもんかなあと思います。大きな声を出しちゃだめだということではありませんけどな、大きい声を出せばいいというもんではないと思います。

 じゃ、念仏を称えたらどうなるのか。「わが名をよべ」という仏のお言葉のままに「南無阿弥陀仏」と口にしたら、それでどうなるのか。南無阿弥陀仏というのはおまじないでもないし、お祈りの文句でもない。ですから、「南無阿弥陀仏」と称えたら、何かお金が儲かるとか、福運がめぐってくるとか、病気が治るとか、そんなことはありますまい。

 それじゃ、「南無阿弥陀仏」と称えたらどうなるのか。簡単に結論だけ申します。それは「はっと気がつくことになるんだ」と言ったらいいと思いますな。お念仏を申しておると、今まで思いもしなかったが「なるほどなあ」と気がつくとことがあるんですよ。

 もちろんいっぺんだけ「南無阿弥陀仏」と称えたらどうなるという、そんなもんじゃありません。お念仏というのは日々の生活の中で、生活にともなって申されるものなんですわ。
 ですから、いつ、どこで、何をしておっても、お念仏申して悪いということはない。仕事しておろうと、道を歩いておろうと、自動車を運転しておろうと、風呂に入っておろうと、寝床に横になっておろうと、便所でしゃがんでおろうと、念仏申してならん時は全くないし、申せるのですなあ。

 いつ、どこで申してもいいという「時処所縁をきらわず」という言葉が、蓮如上人の『御文』にたびたび出てきますね。時と所を嫌わないんですから、何かをしながらお念仏申して悪いことはない。
 時と所を嫌わないということは、朝から晩まで申しづめに申しておれという意味ではありません。そういうことはできるわけがない。我々は社会で暮らしを送っておる。この世の中の一員として生きておるのでありますから、朝から晩までただお念仏を申しておることなんてできるはずがない。みなそれぞれ仕事があり、忙しく暮らしておるんですわな。その間に、いつ、どこで称えてもいいというんですよ。
 一日の日暮らしの中で、時々、いつでも、どこにおっても、何をしとってもいいんだが、ふっと思いがそこへいったら、その時、その場で、そうっと「南無阿弥陀仏」と口に出す。どんな小さい声でもいい。人に聞こえない声でいいけれども、自分の耳には聞こえるくらいの声で、そうっと称えたらいいと思いますな。

 もう一つ念を入れて申しあげておきたいのは、念仏申すというのは自分一人で申すんです。大勢一緒におって、たとえばお寺の本堂で膝を並べて座っておるような時、みんな一緒にお念仏を称えるじゃないかと思われるかもしれませんけども、そうじゃないですな。みんな一緒に仏さんの前に座っておる時でも、お念仏申すのはそれぞれそうっと自分のお念仏を申すんです。そういうもんだと思います。

 これは浄土真宗の者に親鸞聖人がことに教えてくださったんだと思います。同じお念仏の宗旨でも、浄土宗の方々には声をそろえてお念仏を申す風があります。木魚を叩いて、その音に合わせて、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とみんなが声をそろえて申しますな。
 ああいう風(ふう)が浄土宗の方々にあるのは、法然様が数多くお念仏申すことを大事になさって、「数多く申せよ」と教えられたことが、そういう風を作ったんだと思います。親鸞聖人はそれをあんまり強調していらっしゃらない。一人ひとりが一人ひとりの口でお念仏申すんだということを教えていらっしゃると思います。

 南無阿弥陀仏と声を出すのはいつ、どこでということはない、いつでもいいんだと申しました。何も仏さんのお姿があるところでなくたってもちろんいいのであります。仕事をしておろうと、道を歩いておろうと、寝床の中に横になっておろうと、お念仏は申していい。そんな申し方では価値が低いということはまったくない。

 ただ考えておかなければならんのは、仏さんのお姿、仏像の前に出た時です。みなさんがお寺の本堂にまいったとか、うちのお内仏の前に座ったとか、そういう時はね、日常生活の中で仕事をしながら申す念仏とちょっと違う。仏のお姿の前に出た時の念仏は仏さんへのご挨拶をも意味しておりますから、きちんと座って手を合わせ、その手に数珠をかけて南無阿弥陀仏と申すべきだと思います。

 しかし、それは仏さんのお姿の前に出た時のことであって、そうでない日常生活の中では、数珠をかけようがかけまいが、手を合わせようが、合わせまいが、仏のお名前をよぶということがあれば、それで十分なんですね。自動車を運転しながら手を合わすわけにいかないし、畑の草を取りながら数珠をかける必要もない。
 数珠をかけて、手を合わすという、きちんとした形は、仏のお姿の前に出た時のご挨拶の形。日常生活の中での念仏は、ただそうっとお名前をよぶということに尽きる。こう言っていいと思います。

 ふっとその思いがわいたら、その時、その場で南無阿弥陀仏と申せばいいんですな。それがだんだん積み重なる。すなわち一日に何度かお念仏が口から出てくる、そういう日がだんだん積み重なる。そのうちに必ずはっと気がつくことがある。こう申しあげたい。私自身もそうでありました。

 私自身がそのような体験を得ましたのは、恥ずかしいですが、かなり年をとってからです。若いころはそういうことは気がつきませんでした。念仏の環境の中に私は育ちましたから、子供のころから「念仏申せよ」ということはおばあさんや親から聞いて、人まねに「南無阿弥陀仏」と口にしておりました。

 けれども、さっき言ったように、はっと気がつく体験を得たのは五十すぎて六十近くなってからであります。その時、「ああ、これだな」と思いましたな。それがうれしかったことを今も忘れません。
 自分の口からふっとお念仏が出る時、実は仏さんのお心と自分の心がつながるんですな。はっと気がつくという体験があるとはっきりわかりますし、疑えなくなります。

 はっと気がつくとは、何に気がつくのか。それはいろいろ言いようがあると思うんですけれどね。わかりやすく言えば、「仏さんが見ていらっしゃるということに気がつく」と、こう言ったらいいと思います。
 なるほどなあ、今までそうも思わなかったが、仏さんが見ていらっしゃるというのは本当だなあ。ちゃんと見とってくださるんだなあ。案じておってくださるんだなあ。そう気がつく。

 気がつくよりしようがないんですな。他に方法はない。だって、仏さんが見ていらっしゃると言われても、どこで見ていらっしゃるか。あそこにおいでるじゃないか、と指さして示すわけにはいきませんからな。気がついてみれば、なるほど仏さんは見ていらっしゃる、案じて見守っておってくださるんだなと、自分の心にそう思い知るよりほかに確かめようがない。

 そしたら、どうして気がつくかというと、それは時々お念仏申すということが積み重なっていくうちに、いつかはわからないし、どのくらい経ったらどうなるとは言えないけれども、いつかはっと気がつく時が必ずあると申しあげたいのであります。
 仏さんは見ていらっしゃるんだなと気がつくと、不思議なことにもう一つ同時に気がつくことがあるんですね。何に気がつくかというと、「仏さんは見守っていらっしゃるのに俺はまた欲を出したな」「またつまらんことで人と争ったなあ」「また言わんでもいい嘘を言ってしまったなあ」というように気がつくんですな。

 これも自らで気がつくということが基本です。人から「お前は欲の深い奴だなあ」と言われて気がつくということは少ない。そう言われたら、逆に「何を言うか。お前のほうが欲が深いじゃないか」と反発したくなるのが人間でありますから。
 人から言われて、わが煩悩を、わが浅ましい思いを気づくというもんではないようですな。気がつくのは自ら気がつくより仕方ない。それはお念仏申すことが積み重なっておる日常の日暮らしの中で、ある時、ふっとわが浅ましさに気がつくことになるんですな。必ずそうなる。そうなると、それから目が開けるというか、心が開けるというか、世の中を見る見方が変わってくるんですな。そういうことだと思います。

  2

 それから、そのお念仏が修行なんですよ。ただ「行」という一字だけで言うこともあります。念仏の行と言います。行というのは「行い」という字を書くように、実行、実践なんですね。一人ひとりがやる行い、それが行です。「南無阿弥陀仏」とわが唇を動かし、わが声を出すことが、わが行なんですね。そのことを真宗の門徒は思わにゃいかんと思います。

 というのはね、長らく真宗の中では、「自分の力で修行して仏になるんじゃない。仏さんのお慈悲で救ってくださるんだ」という言い方だけされてきました。そのことを少し考えてみなきゃいけないと思います。「仏さんのお慈悲で救われるのだから、我らの宗旨には行はない」と言う人が多かったし、現在も多くの人がそういうふうに理解しておるように思います。

 しかし、念仏が行だということは親鸞聖人が、
「大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」
と言っていらっしゃる。

 「それは大行で、仏さんの行だ。凡夫の行ではない。凡夫が行うことではない」というふうに言う人が多いように思います。しかし、お念仏というのは阿弥陀さんの名をよぶんだということなら、その阿弥陀さんのお名前をよぶのは誰ですか。如来さまの行だったら、仏さんが声を出して自らのを名をおよびになるんですか。そんなことはありますまい。

 我々がこの唇を動かし、声を出して南無阿弥陀仏と称える。しかし、それが凡夫の行じゃなくて、本願力回向の行だという、その回向の解釈、理解がしばしばあまりに無造作に言われてきておると思いますね。それは如来さまの回向の行には違いない。そうおっしゃってあるんだから、それは違いないが、回向の行ということを、我々が何もしないのに仏さんのほうから何か念仏というものがふりそそいでくるというように考えたら、それはよほどおかしいですわな。

  3

 ここまで申しておきまして、今度は念仏の教えだけでなく、仏教の教え一般に話を拡げて考えてみます。
 仏教と言います。これは今日、普通の言葉遣いです。けれども、実は仏教という言い方はそんなに古くない。前から使われなかったわけではないが、今日のような意味に使われることはなかった。仏教という言葉が普通に使われて、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教などと並べて、仏教も一つの宗教だというふうに日本人が考えるようになったのは、明治以後だと思います。
 明治以前に「仏教」という言葉が仏教関係の書物にまったく出てこないではありませんけども、めったに出てこなかったし、出てきても意味が違っていました。

 今日、仏教という言葉で言われるものをさして、明治中期以前の仏教徒は、仏教ではなくて仏法というよび方をしました。あるいは、仏道という言い方をしました。仏教という言い方は一般的でなかったんです。

 そして、そのよび方が仏教の性格をよく示しています。我々が今日仏教と言っているのは仏法なんだ。仏の法、仏の示しなさった法なんだ。法というのはまことの道理と言ったらいいと思いますね。ことわり、すじみち、道理が法です。
 仏教はまことの道理を教える。それは、まことの道理、すなわち仏法を我々がわが身に実践する時、初めて力を持つ。その実践の歩みが道ですな。だから、仏法はまた仏道と言われる。仏の道です。

 道というのは、足を一歩一歩運んで歩くところです。仏教を学ぶというのは、自らその道を歩むということなんですな。その道を歩むということが、修行なんですね。修行、あるいは行。
 行という字は「行く」という字でしょう。歩んで行くんです。実践という言葉がよく当たると思います。践という字は、足で踏んで歩いていくという意味なんです。仏道を実践するということが、すなわち「行」なんですわな。

 何よりも、お釈迦さまは出家して修行して悟りを開いて仏におなりになった、というじゃありませんか。出家して修行して仏になられた。お釈迦さまは、自分が修行をしたあとの者は何もせんでもいいと言われたかというと、そんなことはない。
 お釈迦さまは「私は新しい教えを発明したのでも何でもない。古い道を見つけ出したんだ」と言われた。そこがインドの話でね、いつの間にか人が通らんようになってしまった道がジャングルにうずもれて、わからなくなってしまった。誰も都へ行く道はこれだということを忘れてしまった。「ジャングルの木の下に久しくうずもれていた道を私は発見したんだ」と、お釈迦さまは言ってらっしゃる。
 そして、「その道をみんなに示したんだ。みんなはそれぞれその道を歩んで悟りの都に達しなきゃいけない」とおっしゃっている。「私は教える者だけれど、救う者ではない」とはっきり言っておいでになります。古いお経にそういう言葉がちゃんと残ってあります。
 それで仏さんのお弟子は教えを聞いて、悟りに到ろうと、それぞれが修行の道を歩んではげんだんですな。

 仏教というのは本来、道を歩む教えなんですよ。ところが、真宗の教え、念仏の教えをそそっかしく聞いた人は、我々は凡夫でとても難しい修行はできないが、仏様がそれを憐れんで念仏の道を教えてくださったんだ。それで、仏さんのほうからのご回向があって、我々のような何の修行もできない者の上に道が成就するんだ、そこに我々が救われる、仏になるという道が開けるんだ、ということだけ強調するんですな。

 それはもちろん間違いではないけれども、無造作に強調することによって大きい取り違え、誤りが起こると思うんですわ。
 浄土真宗の行は「無碍光如来の名を称するなり」とご開山親鸞聖人がおっしゃっているんだから、仏さんのお名前をよぶことだ。すなわち南無阿弥陀仏と称えることだ。そこまではまったく疑問はありません。

 では、お念仏は誰が称えるか。南無阿弥陀仏を称えるという実践は誰がするのか。本願力の回向だから、阿弥陀さんが念仏を称えなさると考えるのはよほどおかしいので、阿弥陀さんは我々の申すお念仏に無量の徳を回向してくださるんですな。回向というのは、回し向けるということで、阿弥陀さんにある徳を凡夫である我々のほうへ回し向けてくださるということが回向であります。
 だから、本願力回向の念仏ということは、我々がお念仏申す時、無量の徳が阿弥陀さんのほうから我々の上に回し向けられておるんだと、こういうことに他ならないんですな。

 念仏は難行でない、易行だ、という言い方、これも古くから浄土門の教えの中で言われておりますね。難行易行という言葉は『正信偈』にもご和讃にも出てきます。
 難行は難しい行、易行はたやすい行。我々には難しい行はできないから、やさしい行として、お念仏の道を教えてくださったんだと言う。

 仏さんが行じなさるなら、難しいもやさしいもない。そうではなくて、我々が実践する道だから、力弱い我々にできるような道でないと無理だから、そこで易行、やさしい行を与えてくださったんだ。こういうことをしきりに言いながらですね、「この行は阿弥陀さんの行だから、我々がするんじゃない」と言うのは、まことに奇妙な話です。

 お念仏はやはり我々が口を動かして、み名をよぶんです。そのみ名をよぶということは、単に我々がそういうふうにしろと言われて、その気になって「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と言うだけかと思ったら、そうではない。

 南無阿弥陀仏を名号と言いますが、「(名号は)無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」と『御文』にありますな。仏さんほうから無量の徳が回し向けられておるんです。その徳に気がつくのは、わが唇を動かして、わが声を出して、念仏申すことなしにあり得ない。たとえ念仏申すことなしにそれに気がついたと思っても、それはただ観念だけでありましょう。

 しかし、お念仏は修行であり、修行は一人ひとりが道を歩むことでありますから、我々が我々の唇を動かしてお念仏申すという行いですわな。我々の行いの中に無限の徳が回し向けられておるということ、それは体験によって気がつくよりしようがないことで、それを言葉で説明することはできない。自分自分がわが心にはっと気がつくということがどうしても必要です。

 そのはっと気がつくというのは、ただぼうっとして気がつくかというと、そんなことはないので、日常生活の中で時々仏のお名前をよぶということがあって初めて、「ああ、そうか」と気がつくはたらきが起こるんですな。だから、気がつくと言うけれど、自分が気がつくようでいながら、それもやっぱり本願力の回向なんですなあ。そして、「ありがたいな、尊いな」という気持ちが自然に起こる。その「ありがたい、尊い」という気持ちが信です。

 信とは信仰ということで、何か頭から思い込んで疑わんこと。そんなふうに思いやすいけれども、仏教の信というのはそういうものでないですな。ご開山親鸞聖人の言葉だと、信心というのは「うやまいよろこぶ」ことだとはっきり言ってらっしゃる。
「他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば」
とか、
「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう」
とかいうご和讃もありますね。信心というのはよろこぶということなんです。よろこぶということは、「ありがたいな」「幸せだな」と思うことです。それと同時に、「尊いな」とうやまう心が起こる。「うやまい」と「よろこぶ」が信の内容なんですね。

 信ということの受け取り方も、近代の人々は受け止めそこねておると思います。これは簡単に「うやまいよろこぶ」という言葉でいただいたらいいと思うんですね。うやまいよろこぶ心がなければ、信心でも信仰でもない。何をうやまいよろこぶか。それは、仏さんはいつも見ていらっしゃる、案じて見守っておってくださる、そういう力が、はたらきがこの身の上にかかっておるんだな、と気がついて、うやまいよろこぶ。そういうことですわな。
 それは、はっと気がつくという体験をよそにしてはあり得ない。そのはっと気がつくという体験は、日常生活の中で、いつでも、どこにおっても、何をしておってもいいんだが、時々ふっと心がそこへいったら、その場で、そのまま、そうっと「南無阿弥陀仏」と仏のみ名をよぶということの中で得られるものなのですな。

 さっきも言ったように、いっぺんよべばパッと世界が変わるというような、そんな魔術のようなことはありません。お念仏は日常生活の中で、時々お名前をよぶということが重ならんとあかんですな。重なることが必要なんです。重なっていくと、不思議にいつとはなしに心が熟するということでないかと思うんですな。

 はっと思い当たることがあるんですよ。必ずあるんですね。それがことに戦後、念仏の教えを聞いておる人たち、真宗の門徒、その他の人たちがそのことを忘れすぎているように思いますね。あるいは、少し勘違い、思い誤りをして、お念仏というものが実践でなくて観念になってしまったせいかもしれんと思います。念仏というのは実践なんですよ。

 実践とは道を踏み行くことで、身体を動かさねばあかんのんですね。お念仏の場合は手足を動かすのではないけれども、自分の声を出して、自分の唇を動かして、お名前をよぶのですから、やはり身体をもってする実践なんです。身体をもってする実践で、心が養われると言ったらいいか、熟すると言ったらいいですかなあ、そういうことがあるんですよ。

 そのことを戦後の我々は忘れすぎたように思います。私は今、八十一歳、もうすぐ八十二歳になりますが、私の子供時分ですから、七十年ほど前の真宗門徒は声を出して念仏申すことの重要さをもう少し心得ておったと思いますね。
 さっき言ったように、大きな声を出すのがいいわけでない。一人ひとりがそっと称えるんだけども一人ひとりなんですね。合唱ということではないんですよ。

 私は昭和十七年に大谷大学に入学しました。その年の東本願寺の報恩講におまいりをした。戦争中でしたけれども、ずいぶんたくさんの門徒同行が全国からまいっておられて、かなり本堂いっぱいでしたなあ。お勤めが終わったら、みんなお念仏を申す。念仏の声というのがね、大きな声を出す人はほとんどなかった。みなつぶやくような低い声でありましたが、口々に称えるんですな。だから、それがほんとに潮騒のような響きでした。
 私は愛知県の海岸の生まれでありますから、子供のころから海を見慣れておりますけれど、海の潮騒の音というのは、他に比べるもののない、独特なものがありますな。
 あの潮騒と門徒同行のお念仏というものはよく似てるなあと思いましたね。合唱でないから、みんながそろって「南無阿弥陀仏」と言ってるわけじゃない。口々に称えているけれど、それ全体が大きな潮のざわめきのように聞こえるのですな。

 それから数十年経って、今日そういうお念仏を聞くことがほとんどできなくなりました。小さい声で口々に言う。それは一人ひとりの心が、その時、仏さんの心に通じているんですね。

  4

 修行ということをもうちょっと広くというか、お念仏の教えの場だけでなしに、仏教全部に通じて修行ということがどういう意味かということについて、もうちょっと申しあげたほうがいいと思いますから、前に言いかけたことを、もう少し詳しく申しましょう。

 まず、修行というのは心の修行だと心得ねばなりません。仏教の場合は、修行といったら、心の修行であります。身体の修行ではないですな。もっとも、心の深い、高い境地に到るために、身体をよい状態に保つようにするということはあると思いますがね。
 たとえば、断食だとか、あるいは水垢離といって、水を浴びて身体を清めるということは、インドの古い時代に多くの人がやっておって、お釈迦さまは自分で試みて、そういうことはあまり意味がないとお捨てになったんだ、ということが言い伝えられていますね。

 心が散り乱れないように身体をもってする生活を整えていくということは、仏教において教えられてありますけれども、目的とするところは心の修行ですね。心が静かで安らかになり、心が道理に明らかになり、そして執着のないさらりとした心になる。仏教の修行はそれを目指すのだ。そういうふうに言ったらいいと思います。

 仏教の目指すところ、ゴールは三つの言葉で言われております。涅槃という言葉と解脱という言葉と、それから菩提という言葉です。仏教にはいろいろ難しい言葉が多いと言われていますけど、そうでもないんですな。どれも漢字で書くと、あんまり見なれない字ばかりだし、何だか難しい言葉のように聞こえるかもしれませんけれども。

 涅槃というのはね、心の静けさ、安らかさの極みだと言ってもいいと思います。人間の心は時々静かになったり安らかになったりしますけど、また乱されて、騒ぎ立てたりするのが、普通の人間の心です。本当にどこどこまでも静かに、安らかになった心、それが涅槃だと言っていいですね。仏教はそういう安らかで静かな心の状態を目指すわけですね。

 それから、菩提という言葉は道理にあきらかな心、その極みだと言ったらいいと思うんですね。心に道理があきらかになった、その極みが菩提だと言ったらいいと思います。

 解脱というのは、こだわりがない、執着しない、さらりとしたさわやかな心の極みを解脱というのですね。

 三つをひっくるめて言えば、安らかで静かな心の極み、そして道理にあきらかな心の極み、そしてさわやかでこだわりのない、執着のない心の極み。それが仏教の目指すところだと、こう言うたらいいと思うんですな。
 そのために修行をするわけです。修行は目的とするところは心の修行でありますが、そのためには身体の状態も整えないといけない。身体が騒ぎ立てると、心は騒ぎ立てないでおれないのが人間でありますから、身体の状態も静かで、安らかで、そして道理に従った、そしてさわやかな状態に導くように努力すべきで、それが修行の第一歩です。

 それから進んでいくと、どこどこまでも安らかで静か、何があっても騒ぎ立てない、どこどこまでも道理にあきらかで、自分の欲やら感情に曇らされない、そしてどこどこまでも心がさわやかで、執着して苦しむということがない。そういうことになるのが修行のゴールですわな。そのためにさまざまな修行が仏教の中に説かれておるわけであります。

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 ところがね、修行ということを言いましたらな、仏教でどうしても考えなきゃならんのは、出家と在家ということです。出家というのはお坊さんで、在家というのは一般の社会人、普通の人間。そういうふうにご了解だろうと思うし、その通りでありますけれどもね。

 ただ、ほんとの意味の出家というのは、今日の日本にほとんど存在しないと言ってもいいと思います。出家というのは、まず異性と接触しない、家庭を持たない、職業を持たない、ひたすらまことの道理を追求する、そういう特別な人間であります。

 そういう形を社会が許容しなければ、出家は存在できないですね。出家者は働かないからお金は入らないし、衣食の費えをどこから得るのかといったら、何も道がないですわね。もっぱら出家一筋でいこうとすれば、命を保つこともできかねる。
 このような出家の生活というものが成立したのは、やはり古代インドの社会に特別な事情があったからだと思います。というのは、古代インドの社会では本当の道を求めて、修行する人を敬う気風があったと、そう言ったらいいと思うんですね。
 いくら修行者でも食わんでおるわけにはいかない。命を保っていくために最低のものは必要なんだが、それを得る方法がない。それに対して一般社会のほうに、自己の欲望をすっかり捨てて、ひたすら道を追い求める出家者を尊敬する気風があって、出家者には食事をあげる、着るものをあげるということが、それほど珍しいことでなかった。出家者の生活がそれによって保たれておったということがあるんですな。

 しかし、仏教がだんだんインドの外へ広がって、やがてこの日本にまで伝わってきます。インド以外の民族の社会では、古代インド人のように出家のやり方を認め、助けて、修行を完成させようという気風があんまりなかった。だから、出家社会というものがインドと同じようには成り立たなかったという事情がありますね。

 それにもう一つ、土地の気候風土や何かもおおきに影響があるわけです。インドはああいう暑い国ですから、着るものといってそんなに必要としない。木の下に寝ることもそんなに困難でない。家がなくても修行生活を続けるということは可能であります。

 そういうインドの特殊な気候風土と、出家の修行を応援する一般社会の気風があってですね、独特な出家修行者の暮らしが成り立っておったんだと思います。

 ところが、仏教がアジアの各地へ伝わっていく間にだいぶん変わってきた。そして、今日の日本でも出家とよばれる人はいないではないけど、真の意味で出家的な生活を厳しくおくっておる人はまことにまれでありますね。そういう事情が背景にあります。

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 仏教の修行は、真剣に考えれば考えるほどいろいろな問題を乗り越えていかなきゃならない。我々が厳しい出家の修行に耐えられない凡夫だという考え方は、これは当然生まれてこなければならなかったわけです。そこで、一般社会の人が仏教の教える心の修行をわがものにするために、古い時代の出家僧団の出家者の生き方とは別な生き方をとって、高い境地に達するように努力する人々があちこちに出てきたわけですね。ですから、修行ということもおおきに形が異なってきたと言えると思います。

 ところで、我々浄土真宗というものは、仏教の社会の中でまったく独特な形がある。独特なというのは、開祖の親鸞聖人以来、誰一人として本当の意味での出家者がいない。念仏の教えは純在家生活の者の教えなんですね。家庭を持って生活しておる。衣を着ている人、お寺におる人はありますけれど、お寺が家庭であります。
 これは当たり前ぐらいにお思いになるかもしれないが、お寺が家庭であるというのは、仏教ではおかしいことです。よその仏教国へ行けば、なんちゅうことだとあきれる人が多いと思うんですね。アジアのあらゆる仏教国、現在行われておる仏教的生活の中では、浄土真宗はまったく独特だと思いますね。

 今や日本では、真宗以外のお寺も真宗のお寺と似たり寄ったりみたいなことになってしまって、お寺がそのまま家庭になっているということが珍しくないどころか、当たり前みたいになりました。本来、寺とは出家の修行の場ですから、本来の出家、本来の寺という考えからいえば、おおきにおかしいわけです。
 まったくなっとらんじゃないかと、他の国の仏教者から言われても、それには文句が言えないというところがあるですな。それなのに、あえて全員が在家止住の身になる在家の宗門という形をすすんでとって、その道を探究したのは浄土真宗だけであります。

 そこで修行と言ってもね、浄土真宗の念仏の修行は、出家の修行者こそがむしろ通常である仏教世界一般とは違うところが当然あるわけであります。

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 真宗は純在家宗だと言いましたけれども、一つ注意しておかなければならないのは、親鸞聖人が自ら妻をお持ちになって、出家的生活をお捨てになったにもかかわらず、生涯、出家した僧の形、頭を剃って衣をつけていらっしゃる僧形を捨てられなかったということですね。この意味を我々は考えてみなけりゃならないと思います。
 それはね、親鸞聖人の『教行信証』という書物の中に、直接触れてあるわけではないが、そのことを理解するために大きな参考になる言葉があります。それは『末法燈明記』という書物を引いて述べてあるところです。

 『末法燈明記』というのは、天台宗の開祖伝教大師最澄がお書きになったと言い伝えられております。親鸞聖人もそういうふうに理解して、伝教大師のお書きになったものとして『教行信証』の中にそれを引いていらっしゃる。ところが、現代の学者の研究によると、『末法燈明記』は伝教大師ご自身の著述ではないそうです。けれども、伝教大師の書物として伝えられてきて、親鸞聖人自身もそういうふうに了解していらっしゃる。

 その『末法燈明記』を長々と『教行信証』の中に引いておられるその中で、こういうことが言われてあります。現代の世の中には真の意味の僧はいないんだ。本当の意味で出家としての修行をしているものはいないんだ。けれども、僧形の者がいることは間違いじゃなくて、ちゃんとした意味がある。釈尊のお弟子たちの僧団がそうであったように出家の修行を厳然とやっておるのでなく、形だけの僧、実質を備えていないうわべだけの出家者と言うべきだけれども、そのようなうわべだけの出家者でも、その存在が仏法を伝えていく上に大事で、必要なんだ。
 こういうことが『末法燈明記』の中に書いてあって、その部分を長々と親鸞聖人は『教行信証』の中に引いていらっしゃいます。ここを読むと、親鸞聖人が考えていらっしゃった僧のあり方がよくわかるように思えます。

 親鸞聖人はあえて自ら妻帯して、出家の修行者たるべき僧としての実質を捨てられたわけでありますけれども、それにもかかわらず、一生涯僧形を捨てられず、衣を着た生活をしていらっしゃった。
 このことは深い意味があると思うんですね。奥さんや子供もあって、出家どころでない、まったくの在家者なのに、何で衣を着、髪を剃るという坊さんの形は捨てられなかったのか。それはただ上っ面だけの飾り、欺瞞的な態度ではないかというふうに言われても仕方がないように思うんですけれども、あえて自ら僧形は捨てられなかったんですね。

 これはたまたまそうであったとか、惰性的にそうなったとかいうのではなくて、親鸞聖人が自覚的にそうするのが正しいんだというお考えでしておられたに違いないと思います。あちこちで念仏の教えを伝える活動をしながら、お寺は一生涯お作りにならなかった。にもかかわらず、僧の形はお捨てにならなかった。そこに大きな意味があると思うのですな。

 僧の形をとる人々が宗門人としているということはありますけれども、真宗が在家的な宗門であることは明らかです。在家的宗門の修行といったらどういうことがあるかを考えてみなけりゃならない。それを私なりに考えたことの結論だけを申します。

 それはね、念仏というものが修行の道であることは明らかでありますが、それは在家者のための修行の道だ、と親鸞聖人が見極められたと思いますね。在家者の修行の道としての念仏を奉ずる我々はまったく在家集団だ。しかし、その念仏は出家の修行の道と同じように、仏道なのだ。人々が仏の修行の道を踏むことにおいて、お寺も必要だし、うわべだけ衣を着ておる人間も必要だ。そういうことになるんじゃないかと思うんですね。
 そうあからさまにご開山さまはおっしゃっておるのではありませんけれども、『末法燈明記』を長々とお引きになったり、一生涯衣をお捨てにならなかったり、それにもかかわらず、奥さんや何人もの子供があって、家庭的にいろいろ苦労をしていらっしゃる。そういうご一生を見ますと、今言ったような意味を聖人が考えていらっしゃったのは確かなように私は思います。

 そして、仏教は修行の教えなんだから、念仏の教えにおいてももちろん修行の道がなくちゃならない。しかし、念仏の教えにおける修行の道は、出家者の修行の道とは違うはずだ。念仏の教えを聞く我々はみな出家者でない在家者で、厳しい出家者の修行の道には従い得ない。その在家者のために在家者的な修行の道が開かれておらなければ、我々は本当の意味で仏の教えに遇うことができない。
 そういう考え方が基礎にあってですね、師の法然さまの導きによって念仏の道こそ在家者の修行の道だというふうに見極めなさったんだと思うんですな。

 そこで、我々がお念仏を申すのはやっぱり修行なんですよ。行なんです。「念仏行者」とか「信心の行人」だとかいう語が、親鸞聖人のお書きになったものにも、蓮如上人のお書きになったものにも見えますね。「行者」「行人」という言葉はよく出てきます。
 我々は行者、行人なんです。修行する人間なんです。お念仏という修行の道を我々のような凡夫、在家止住の者に仏さんは与えてくださったんです。

 その修行は出家者の修行と違う。我々としては、仏のお名前をよぶ称名念仏という一行にかかるということになるわけです。称名念仏、仏のお名前をよぶということが出家の修行でない、在家者のための修行である、と親鸞さまは教えてくださった。

 一足一足修行して悟りに近づいていくのが、出家の行、実践でありますけれども、我々在家者はお念仏申して、一足一足悟りに近づく、成仏に近づくということではない。ただ我々が口に「南無阿弥陀仏」と仏のお名前をよぶ時に、仏さんのほうから我々に呼び掛けていらっしゃる声が、我々の耳に響くんです。仏のほうから我々のほうへ送っていらっしゃる光明が我々を照らすんだ。

 我々が仏のお名前を「南無阿弥陀仏」とおよびするということは、仏のお名前が宇宙全体に響き渡っていることに、「名声超十方」ということに、我々が気がつくことなんだ。仏さんのお名前をよぶことが日常生活の中で行われて、ある時、我々をふっと気づかせる。仏さんは見ていらっしゃる。仏さんが呼んでいらっしゃる。そのことに気づかせられる。仏さんのほうからお名前をもって我々に呼びかけていらっしゃるんです。宇宙のどんなすみずみにまでも届いておる仏の光がちゃんと我々にも到り届いていることをお念仏が知らせてくれるんです。

 そういうはたらきがお念仏にあって、我々のほうにあるのでないから、それはたしかに他力の念仏だけれども、我々が声を出してみ名をよぶという実践がなければ、つまり我々凡夫の修行としての実践がなければ、仏のお慈悲のはたらきがこの身に到り届いておることに気がつくことはできない。そういうふうに言ったらいいと思うんですね。

 みなさん、多くの方が念仏の教えに縁のある家にお生まれになったか、念仏の教えに縁のある方々と接触されてきたか、そういうことがあって念仏の教えに触れておられるわけです。しかし、教えのごとくみ名をよぶという実践がなければ、教えに触れたようで、実は触れていないんじゃないでしょうか。
 我々の実践は出家の悟りへ到るべき実践と違い、凡夫の実践にすぎない。けれども、その実践によって仏の法のはたらきが、仏の名号を通じて我々によびかけ、我々のもとに到り届いていらっしゃるんだという筋道を理解すればですね、ごくごく当然なこととして教えに触れ、それを受け取ることができるんじゃないかと思います。

 これで話は終わります。みなさん、せっかく念仏の教えに縁のあるところにいらっしゃって、念仏の教えに触れられたのでありますから、単に観念的に触れるんじゃなくて、実践として触れなければ意味がない。
 実践は本当は心の修行だけれども、心の修行は身体を動かすことによって修行の形をまっとうするので、唇を動かし、声を出してお名前をよぶということは身体の場で行われることです。その身体の場で行われることが、心の上に響き、我々に仏の本願のはたらきを知らしめるということになると言えばいいじゃありませんか。

 そういうふうに言えばね、私は念仏の教えというのは大変きちんとした、論理的な根拠に立ったものであり、釈尊以来の出家の修行をよくできない、出家の修行に縁の絶えた我々が、なお仏の悟りの本意に接することができる道なんだと、こう言えるんじゃないかと思います。このへんでご無礼しようと思います。ありがとうございました。

(2007年4月12日に行われました安芸南組同朋大会でのお話をまとめたものです)