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佐野 千代さん「死別の悲しみと共に」
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2018年11月24日 |
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ご紹介いただきました佐野でございます。こんなたくさんの人の前で、皆さんのお心にかなう話ができるのだろうかと心配しております。
今日は皆さんに私が過ごしてきた30年のあれこれをお話しさせていただこうと思っています。すっかり気の狂ったような年月を過ごしてまいりました。そのような話をさせていただきます。
先週の土曜日の17日、今でもすぐに泣いちゃうんですけど、娘が亡くなって30年を迎えました。私たち夫婦が何か悪いことをしたのかなと思いますけど、その日は20回目の結婚記念日でございました。
ここのところ、命日が来てもそれほど心が波立ことはなかったんです。だけど、今月は11月に入ってから、あれを見ては泣き、これを見ては泣きという日を過ごしています。
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私には子供が3人います。長男、長女、次女です。長女の奈比が高校3年生の時に交通事故で亡くなりました。娘はYFU日本協会という団体の交換留学生として、アメリカのミネソタ州にある、本当に小さな田舎町のイーデンバレーに留学をして、3か月と10日目でございました。
近隣の留学生の2泊3日の交歓会に行くために、車でホストマザーに送ってもらった時、凍っていた道路でスピンをして反対車線に入り、向こうから来た大型トラックに追突をされて、私の娘と、それからドイツからいらしていたティナの2人が亡くなりました。即死だそうです。
その時に出していたスピードが60マイルといいますから、90キロです。「凍った道路で90キロも出しませんよ」と言われました。
助手席にいた4歳のホストシスターは胸椎を折り、それからは歩くことはできず、今でも車いすの生活をしております。けれども、結婚もされて幸せに過ごしていらっしゃいます。ホストマザーはおなかの中に5か月の双子の赤ちゃんがいて、その赤ちゃんは亡くなりました。ご自分も鎖骨を折って重傷でした。
日本時間で言うと、午前2時半に事故が起き、私の自宅に連絡があったのは10時半でございました。すぐにでも現地に行こうと思いましたが、アメリカに行くのにビザが必要な時代でしたので、外務省に行き、アメリカ大使館に行き、ビザをいただき、次の日に娘を迎えに行きました。
15時間のフライトでしたけれども、そのフライトで不思議な経験を二ついたしました。一つは、YFU日本協会から、対外的な交渉をしてくださる方と、私たち夫婦をケアしてくださる方との2人の同行者が来てくださったんですね。私たちをケアする方が、こともあろうに私にお嬢さんの結婚式のスナップ写真を見せてくれたんです。
その時、私は身も心も凍って、無感情、無反応という状態でした。「こんな写真を私に見せて」と、ちらりと思ったんですけど、腹が立たないし、怒らない。「この人は私を何とかしなきゃいけないと思ってこんなことをしてしまったのかな」ということがよくわかりました。
いろいろしていただいたりしましたけれども、言葉や行為などの表面的なことではなく、「この人を何とかしたい」「何とかしてあげたい」という、心の底から湧き上がる思いやりが伝わったし、その後もその思いはよくわかりました。極限状態の時は、神経が研ぎ澄まされ、核心部分がわかるのかなと思っています。
もう一つは、「お母さん、恨まないでね。責めないでね。アメリカを嫌いにならないでね。お母さん、ジルを助けてあげて」という娘の声が聞こえました。ジルというのは4歳のお嬢さんです。
この声がどうして聞こえてきたのか、科学的にはわかりませんが、でもこの時の娘の声がそれからの私のあり方の指針になったように思います。これからの私の生き方をどうするか、その生き方によっては娘の短かった人生に汚点を残すことになると考えました。
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お嬢さんのジルが入院している病院とお母さんが入院している病院と自宅とが離れていました。「これから病院に行こうと思う」と言われたんですけど、私は「娘に会いたい」と言いました。
だけど、ホストマザーが入院している病院から娘のいるところまで1時間かかるそうで、この順番で行けば意外と簡単に着くということなので、「じゃあ、お母さんの病院に行きます」ということで行きました。
そこに私たちを待ってくれていたボランティアの方が、「私の息子を目の前でスクールバスにひかれて亡くしました」とおっしゃって、私を抱きしめてくれました。
その時の私は心も体もガチンガチンに凍りついていたんですけど、かじかんでいた身も心もふわーっと溶けたように思いました。「ああ、この人は私の気持ちがわかってくれる」と思ったんです。
それから、高校や町の人たちが葬儀をしてくださいました。その葬儀の中で、弔辞でヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の詩を引用された人がいたんです。
帰ってから本を読むと、そこに、70時間で70年に劣らぬほどの豊富な人生を生きることは不可能ではないとの文章がありました。では娘は、ただ無為に生きた80年より、はるかに豊かで大きなものを18年間の人生でつかんでくれたのだろうかと考えたりしました。
その時の私は、必死になって娘の人生の意味を探し、私のもとに生まれて幸せだったんだろうか、たったの18年であっても、生まれてきた甲斐があったのだろうか、もうそんなことばかり必死に考えました。
この年は、検事総長でいらした伊藤栄樹さんが書かれた『人は死んだらゴミになる』という本が出版されて話題になったこともあって、人が死んだら消えてしまうだけでなく、跡形もなく消えてしまう、忘れられてしまうということが何よりもつらく悲しかったんです。
ですから、「忘れないで。奈比ちゃんを忘れないで」と、会う人、会う人に言い続けました。歩いていてすれ違う全く知らない方にも、「こうやって奈比ちゃん死んだのよ」と言いたい気持ちがいっぱいありました。
18歳はあまりにも未熟で、こんなすてきなとか、こんな立派なとか、こんな素晴らしいとか、そんなことを取り立てて言うこともない普通の女の子でした。
以前、高校のPTAのバス旅行の時、たまたま生活指導の先生に「奈比ちゃんの自慢はどこですか」と尋ねられ、「これが自慢です」なんてところはないので、言葉に詰まっていろいろ考えて考えた挙句、「私のことをお母さんって言ってくれることだ」と思いました。「お母さん」と言ってもらえることほどありがたいことはないと思ったんです。「お母さん」と言ってくれるだけで十分良い子だと思いました。
お子さんを亡くされた方は聞かれたことがあるかもしれませんけれども、「親に先立つことほどの親不幸はない」とよく言います。私も面と向かって言われたことがあります。「なんてむごいことを言うんだろう」と思いました。
それで、この「親不孝」ということも考えました。子供が生まれてから大人になるまで、親が子供の面倒を見て、子供が大人になったら今度は子供が親孝行するのでしょうか。そうではなく、おぎゃーと生まれたその時から、日々の生活の中で子供は親孝行をしてくれているように思います。
赤ちゃんの存在そのものが幸せでした。存在の恩恵は計り知れないものがあります。笑顔、泣き顔、すねるのも、困った時もあるけれど、思わず笑っちゃうほどかわいい時もありました。「お母さん」と言って抱きついてくれること、寝顔、くしゃみ……。ほかにもいっぱいいっぱいあります。そういうしぐさの1つ1つが楽しかったし、うれしかった。幸せでした。
親孝行は親子の関係の中にあって、生まれたことですでに親孝行をしているのだと思います。私は娘に十分親孝行をしてもらったと思います。
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娘は家族には30通あまり、友人や先生方を含めると100通近い手紙を残してくれました。その手紙には人としての成長の芽が感じられました。親バカなので、私が勝手に感じたのかもしれないんですけど、それを皆さんに知ってもらいたくて冊子を作りました。
第一部は娘の手紙と家族からの往復書簡。第二部は幼いころからのお絵かき。広告の裏に描いた絵とか、私、全部取っておいてたんですよね。第三部は亡くなってからいただいた弔慰の手紙などで作りました。
一周忌にお渡ししたかったので、亡くなって半年過ぎてから始めたのですが、来る日も来る日も娘の残したものを見直し、読み直しているうちに、手紙も全部暗記してしまいましたし、幼いころからの娘の一生に向き合うことができました。
元気な時は気づかなかったこともたくさんあって、短かったかもしれないけれども、娘が一生懸命に生きたということがわかって、この冊子を作れたのはよかったと考えています。一周忌に皆さんに差し上げました。
着物に娘の名前である「奈比」を染めました。一周忌に黒い喪服を着るのは忍びなくて、色物を着たかったんです。知り合いに染色家がいましたので、娘の名前を彫って型紙を取って、着物に染めていただきました。
一周忌とか三周忌とか、「忌」という字は「忌まわしい」という意味です。私は娘が亡くなった日は忌まわしい日じゃないので、「忌」という字を「祈る」という字にして、「一周祈」という言葉を使っています。
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たくさんのお悔やみをいただきましたけれども、中でも一番ありがたかったのは、娘が救急車で運ばれた救急医療センターのスタッフが3か月たってから送ってくだすった「神様より授かりし子」という詩です。
3か月が経とうしていたある日、娘を担当した5人のスタッフが、仕事の合間に、「このままではいけないのではないか」という話になったそうです。日本のどこかであの事故のことで嘆き悲しんでいる家族がいる。ぜひ連絡をとり、この救急医療センターの人たちは日本の家族が感じている痛みを理解しているということを知らせたい。そのように考えたスタッフの一人が「すてきな詩を持っているわよ」って送ってくださった詩がございます。
私がなぜありがたかったかというと、「私が連れ戻すときは嘆いてくれるように」と書いてあったんです。皆さんもそうかもしれないですけど、「いつも泣いていると亡くなった人が成仏できない」とか、「夫や2人の子供のために早く元気になって」と言われることがつらかったんです。
ですから、この詩に「嘆いてくれるように」と書いてあったので、「泣いていいんだ」とほっとしたんです。私は娘が私たちのことをいつも見ていると思っているので、泣くのはいいと思っているんですね。娘は甘えん坊さんだったので、私が泣いていると、「あ、母さん、私のこと思って泣いている」と思って喜ぶかなあと。
ただし、不幸になってはいけない。あの子が死んだことで私たちが不幸になったら、それは申し訳ないので、「歯ぎしりしても不幸にはならない」ということを考えていました。
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娘が亡くなって半年を過ぎようとしている時、「そろそろ外に行こうか」と、鎌倉の紫陽花を見に行こうと誘ってくれた友人がいたんです。ちょうど梅雨時でもあり、折り畳みの傘が壊れていたので、傘を買いに行きました。
私がほしかったのは5800円の地味な傘でした。ところが、お店の方は「これがいい」と、ものすごく派手な傘を私に勧めるので、「今まではね、こういうきれいな色が好きだったんだけど、今はとてもとてもこんな傘、さす勇気はありません」と申し上げたんです。だけど、「絶対、こっちがいいから」と。そちらは3800円だから2000円安いんですよね。私も根負けしてそれを買いました。
次の日、鎌倉の駅で雨が降ってきたんで、その傘を広げましたら、誘ってくれた友人が泣いたんですよね。ぽろぽろって。「あなたは白と黒しか着ないのかなって思っていたけど、こんなきれいな色の傘を買って、とってもうれしい」と泣いてくれました。
これには後日談がありまして、次の年の3月は葬儀がとても多くあったんです。私は赤い傘が好きですから、色物の傘ばっかりなので、黒い傘を買いに行ったんですね。そしたら、鎌倉に行く時に派手な傘をすすめてくれた店員さんがいらしたので、「去年、私が折り畳みを買ったの覚えていますか」と尋ねたら、覚えていらっしゃらなくて、「私が選んだのは5800円で、あなたのおすすめは3800円で、私のほうが高いのに、あなたはカラフルな傘を買いなさい、買いなさいって言うので、根負けして買ったのよ」と申し上げたんです。
そしたら、彼女の26歳になる息子さんが、「行ってきます」と言って会社に出勤する途中、交通事故で亡くなったんだそうです。私が傘を買ったのは、息子さんが亡くなってからお店に出た初めての日だったようです。
なんか不思議なご縁でしたけれども、その方は「お母さんは太陽じゃなくちゃいけない。家で笑顔でいてほしい、きれいでいてほしいという息子の気持ちがあなたに伝わったのね」とおっしゃっていました。
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その当時、私は「死にたい。死にたい」とずっと思っていました。ガンになる人が多いし、交通事故で亡くなる人も多いのに、どうして私のところにガンが来ないのかなと思うほどでした。
そんな時に出会った本が、正岡子規の『病牀六尺』です。その中に、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」という言葉がありました。初めて、私も生きなくちゃいけないのかなと思いました。
お悔やみに来てくださった方が高級なメロンをくださることがあって、だけど娘はメロンが大好きだったので、あの子が食べられないのに私たちが食べるわけにはいかなくて、いくつ腐らせたかわからないくらい腐らせました。
私が「こんなお高いメロンをこうやって腐らせてもったいないわね」と言ったら、その時16歳だった次女が「お母さん、奈比ちゃんはメロンの魂を食べてるんだよ。だから大丈夫」と言ったんですね。
知人に「レナちゃんがこんなことを言ったんだけど」と話したら、「うん、下がり物はまずいと言うわよ。だから奈比ちゃん、食べてるんじゃない」と言ったんです。それからは仏壇に供えたいろいろなものを食べられるようになりました。
娘の洋服などは、次女が着られるものは着て、衣替えの時は奈比ちゃんのものをちゃんと一緒に風通しをしてたんです。その時に娘のにおいを嗅ぐんですよね。そしたら、亡くなって3年目に、においを嗅いだら押し入れの匂いがして、娘の匂いはしなくなってた。本当に悲しかったです。
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結婚記念日が命日ですから、娘が亡くなって5年目が銀婚式でした。その時、次女は山形の大学におりまして、電話がかかってきて、「お母さん、銀婚式の日、ご飯食べに行こ。帰るからね」と言ってきたんです。だけど、私はとてもとてもお祝いをする気にはなれませんでした。それまで私は、留守電に話をすることはできなかったんですけど、次女のいない時間に電話をして、「やっぱり銀婚式はやりたくない」と留守電を入れました。
13歳の時からの親友がいるんですけど、次女が彼女に電話をして、「お母さんがやりたくないって言ってるんだけど、私はやりたい」と言ったら、その友人は「やんなさい。やんなさい」と言ってくれたそうです。私も根負けして、銀座の富貴洞という、お肉もあるしお魚もあるという店を予約しました。
有楽町の駅で、夫婦と子供2人の4人で待ち合わせをしてお店に行き、お部屋に入ったんです。4人分のセットしかできておりませんでした。この4人分で私はまた泣くわけですよね。60歳を過ぎた仲居さんが「今日は何のお祝いですか」と聞いて、娘が「両親の銀婚式なんです」と答えたんです。ところが、私は泣いているので、「お母さま、どうしたの」とおっしゃったんです。「今日は娘の命日で」と答えたら、仲居さんがすぐいなくなって、お皿と小皿とコップとお箸とを持ってきて、「お嬢さんの席、作りましょうね」と言って、1人前の支度をしてくださったんです。
お店では若い女性の店員さんがもてはやされますけど、この仲居さんの心づかいは本当にありがたかった。あの年齢だからできたのかなって思っています。とてもうれしい思い出です。
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「悲しみの時に読む言葉」というのをどなたかがくだすって、その中に聖書の「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」という言葉があったんです。私はその言葉を、「慰め」というのは他の人が慰めてくれるものだと、誤解して受け取っていたんです。娘の死と引き換えに人から慰めてもらって何が幸いなのかと、本当に腹立たしく思いました。悪魔に魂を売ってあの子が帰るなら、魂を売りたいという母親の話を聞いたこともありますし、私が地獄に落ちて娘が戻るならそちらを選択したい。娘の死と引き換えにもらう慰めに何の価値があるのかと傷つく思いでした。
「生と死を考える会」の前の理事長をされた田畑邦治という先生がいらっしゃるんです。この方は白百合女子大で宗教と西洋哲学を教えている先生で、「聖書って人を傷つけること書かれてます」と私が申しましたら、こんなふうに教えてくださったんですね。
「なぜ聖書に、悲しんでいる人たちは幸いだと説かれているかというと、そこには人間からではない、もっと深い慰めがあるからではないかと思います。深く悲しむ人の心の底には、何かはかりしれないような潤いや、誰からも奪われることのない個人との絆とか清冽な泉があって、それらが悲しむことによって、慰めとして経験されるのではないでしょうか。だから、悲しむを途中でやめないで、悲しみを深く味わうことが必要だと思います。
宗教的な言葉で言うと、私たちはみな神仏の大きな力によって包まれているのであって、たとえ死が関係を隔てても、その関係は誰も奪うことができない。亡くなった人のあの笑顔をなかったことにはできない。こうした追憶の力の中に、悲しむ人の幸いがあるのだと思います」
こういうふうに言っていただいて、なんかほっとした覚えがあります。
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「生と死を考える会」の分かち合いでも時々話に出ますけど、兄弟の中の1人が亡くなった時に、いろいろな問題が起きることがあります。私の家でも大きな問題があって。もう46歳になる次女ですけど、私に心を閉ざしています。
先ほど申し上げた、13歳の時からの親友のご主人が亡くなった時のことなんです。私、年賀状は写真なんですね。それで次女が「お母さん、今年の写真のテーマ決まった?」と聞きに来たので、「カズオさんが亡くなったので、今年は年賀状だしたくないのよ」と言ったら、「お母さん、お料理作って、それ写真に撮ればいいじゃないの」と言ったので、「あ、奈比ちゃんのメニューね」と思わず言っちゃったんですよね。
それは、娘からの手紙に「留学先から帰ってきた日の私が食べたい料理」がざっと書いてあったんです。いつかのチャンスに作りたいと私は思っていたので、そのメニューを冷蔵庫に貼っていました。それを「奈比ちゃんのメニュー」と言ったんです。あとから思えば、その時、次女の顔色が変わりました。
ニラともやしのおひたし、お刺身、天ぷら、茶わん蒸し、あさりの煮つけ、納豆、里芋の白煮、ナスとピーマンのみそ炒め、お煮しめ、唐揚げ。もう一品、ナマコの酢の物があったんですね。でも、3軒行ったんだけど、どこもナマコの酢の物は売ってなくて、1つだけ足りません。
料理を作って、その日、娘のうちにお客様があったので、「食べて」ってワンセット持って行ったら、「もう作ったからいらない」と。もうその日から私のものはリンゴ1つ受け取りません。
でも、次女は悪い子ではありません。会報に投稿してくれたことがありまして、それを読ませていただきます。
「私の2歳違いの姉奈比が留学先のアメリカ・ミネソタ州で車の事故で亡くなったのはもう15年も前になります。姉が亡くなったという事実はもう冷静に受け止めることはできますし、その15年の間には私は大学生活を送り、就職をして結婚もして、今では2人の子供も生まれ、他人から見れば普通の社会生活を送っているように見えるのだろうと思います。
しかし、いまだに姉が亡くなった当時を思い出すことは私にとって非常に苦痛なことであり、またその当時のことを思い出すのがあまりにもつらいので、自分でそうしてしまったかもしれませんが、ずいぶん記憶があいまいな部分があります。
その中で一番よく覚えていることは、周りの人の私に対するケアの気持ちです。ケアという言葉を辞書で調べると、心配・心配事・用心・世話など、味気ない訳が並んでいます。感情を表す言葉を訳すのは難しいし、英語圏の国の人と日本人の性格、文化などは全く異なるので、仕方ないと思いますが、会話としての生きた英語では、もう少し何か心の底から湧いてくる、誰かを思う気持ちというような意味で使われているのだと思います。
姉を亡くした当時、家族はみなそれぞれ姉を失った悲しみで普通の精神状態ではなかったし、特に両親の嘆き悲しみようは、私のそれとはまったく種類の違ったものなのだろうと理解しました。自分でも変に私がしっかりしなくてはなどと考えたりしました。
しかし、その時、私はまだ16歳の子供で、私は私なりに姉を失った悲しみもあり、周りから見ると少し無理をしているように見えたのでしょうか。そんな私をケアしてくれたのは友人や学校の先生方でした。何か一大事があると物事の本質がよく見えるといいますが、その時も今までは大勢の友人の1人だった人から丁寧な手紙をもらったり、特別親しかったわけでもない先生からその後何年も気づかいの言葉をかけてもらったり、逆に結構親しくしていた人でもそのことにあまり関心がないようにされたりしたのを覚えています。
その中で私が一番心に残ったケアは、姉の留学先であり、姉の2年後、私も同じアメリカ・ミネソタ州の小さな町に留学した時に、彼の地の人々から受けたケアだと思います。
私はなぜそんな気持ちになったのか今では全く覚えていませんが、自ら希望して姉と同じ留学先に旅立ちました。その時はぐちゃぐちゃだった家から逃げ出したかったとか、姉は最後にどんな生活をしていたのか感じてみたいなど、いろいろな思いが重なった末の決断だったように思います。しかし私はその留学先で、日本では考えられない様々な体験をしました。
私のホストファミリーは、姉のホストファミリーの実家でした。姉のホストファーザーは姉の事故の時に車を運転していた奥さんの妊娠中の双子の赤ちゃんを失い、同乗していた娘(当時4歳)は胸から下が一生動かない重い障害を負ってしまうという悲劇に見舞われていたのです。
私たち家族が姉を失って悲しかったように、彼らには彼らの悲しみがありました。しかし、私のホストペアレンツは、息子や孫がそんな悲劇に見舞われたにもかかわらず、私を1年間留学生として受け入れてくれました。
ホストブラザー・シスターは、姉のホストファーザーを含め全部で8人いましたが、ホストファミリー全員誰1人として、あなたの姉さんがここに来たおかげでこんなことになった、と私を責めた人はいませんでした。会えば優しい言葉をかけてもらい、本当の家族のように接してくれました。
人口千人にも満たない小さな町でしたが、すべての人から姉を失った悲しみの慰めを受けました。留学先で姉が仲良くしていた友人や学校の先生は、わざわざ私を訪ね、姉との思い出を語り、悲しみを分かち合ってくれました。
ホストファミリーや町の人々、姉の友人、ホストファミリーに関係のあるすべての人々が、私が留学していた1年を通して、「奈比が過ごしたアメリカの3か月は本当に幸せだったんだよ」と私に教えてくれたような気がします。
そして私にとって、アメリカの人々のケアは姉を失った悲しみを癒してくれる大きな救いでした。家族や友人を失うという体験は、人間が誰でも経験しなければならない避けることのできない運命です。残された人に少しでも多くのケアがあるように願います。自分も他の人をケアできればいいと思います。それが姉を失った私の15年目の今の気持ちです」
これ読んだだけでもいい子だなと思うのに、もう8年も私と絶交状態なんです。
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今年の6月、13歳の時からの親友が亡くなりました。その親友が去年の2月に大腸ガンだということがわかったんです。医者から「腸の手術はするけれども、転移している肝臓と卵巣とリンパ節の手術はできない。抗ガン剤治療をするが、抗ガン剤が画期的に効いたとしても2年だ」と私と彼女の息子2人が聞いたんです。
本人は聞いていないんですね。彼女は「ガン告知というのは、あなたの余命はこのくらいですよ、それまでしっかり頑張って生きましょうということでしょ。私はそんなこと聞いたらしっかりできないから、ガン告知は聞きたくない」と常々言っていたので、息子さんも「あのお袋には知らせない。だめっていうことは」と言ってました。抗ガン剤治療をするので、本人にはガンだということはわかってたでしょうけど。
去年の2月にそのことがわかった時、私はその時はたまらなくて、娘のところに行って、「とくちゃんがガンになったのよ」と言って思わず泣いたら、娘は抱きしめてくれたんです。
今年の5月、「生と死を考える会」の分かち合い当日のことでした。私は電話を切って分かち合いの会にのぞんでいるので、5時20分ぐらいになって電話の電源を入れたら、同じ番号から何回も電話がかかってたんですね。親友の息子から「いつでも電話とれるようにしててね」と言われてたなと思って、電話をかけてみたら、病室の人が出て、「すぐに来て、って言ってます」とのことでした。すぐに飛んでいきました。
そしたら、親友は開口一番、「一番会いたい人が来てくれた」と言ったんです。そして、「さっき、孫に洋服や着物、全部あげてねって言ったから、あとはあなたが始末してちょうだい。奈比ちゃんに会ったら、今までのこと全部話すね」と言ったので、「ああ、死ぬのがわかったんだな」と思ったんです。
私は明日からどういう顔をして彼女のそばにいたらいいんだろうと思って、暗澹たる気分で家に帰って、娘のところに行きました。「とくちゃん、わかったのよ。こんなこと言われた」と話したら、その時も私を抱きしめて、「お母さん、今までのお母さんそのままでいいのよ。何にも変わる必要はない。今のままでいいから。大丈夫」と言ってくれたんですね。
次女は私とこんなに大きな葛藤があって、私のことを拒否しているけれども、心の深いところでは私の娘でいてくれているんだなとわかって、今も相変わらずの関係ですけれども、よかったなと思っています。
家族の1人が亡くなると、1人が抜けた後の関係を家族が構築するまでのハードさは本当に大変です。皆さんのお話をうかがうと、兄弟が亡くなった場合は、「もしかしたら僕が死んだらよかったの?」と思う。それから亡くなった配偶者のお父さんやお母さんの場合は、「自分がいないほうがいいのか」とか、それぞれ葛藤があるようです。そうしたことをさんざん聞いていたのに、私は娘に対する配慮が足りなかったのだと思います。
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これは死別体験の話とは違うかもしれないんですけど、私の親友は13歳から全然疎遠になったことのない関係で、私にとっては本当に大事な友だちでした。
1か月弱、滅茶苦茶な時間にお見舞いに行ったりするので、看護師さんに「どういうご関係ですか」とよく聞かれて、「友だちです」と答えると、「なに?」って顔されるんですね。
「生と死を考える会」の分かち合いでも、身内の関係は濃いものだという思い込みがたぶんあると思います。だけど、身内じゃなくても濃い関係はあるんだと、私は身に染みて感じました。これからは分かち合いの時には気をつけなきゃと思っています。
娘が亡くなるということは想像したこともなく、これほどにつらく苦しいことだとは思ってもみませんでした。私はこの胸の中にある思いをブラックホールだと思っています。ブラックホールの意味を詳しく知っているわけではないんですけれども、果てしのない暗闇、それが時々姿を現します。
今でも私が一番苦しいのは、娘が死んでしまったのに私はおめおめと生きて、時々は、時々じゃないかもしれないけれど、おいしいものを食べたら「ああ、おいしい」と思い、お風呂の浴槽につかったら「ああ、いい気持ち」と思うんです。けれども、そう思った後に、「奈比ちゃんがいないのに幸せでいいの? おいしくていいの? 楽しくていいの?」という言葉が冷や水のように私に浴びせられて、それはつらいです。
「命の尊厳」とよく言われますが、たった1つの命は取り返すことのできないものです。命は自分のもののように私も思っていましたが、決してそうではなく、自分の周りの人とともに命はありました。亡くなって初めて、どんな大切でかけがえのないものであったかがわかったんです。どうか自分の命が自分1人だけのものだと思わないでいただきたいと思います。
そして今、私が心がけていることは、日々の暮らしの中で幸せの芽を見つけて、それなりに一生懸命生きることです。もし私が死んでも、好きなことやって、おいしいものを食べて、楽しく過ごして、「お母さん、よかったね」と思ってほしい。「かわいそうなお母さんだった」とは絶対思われたくない。そのためには一生懸命生きていこうと思っています。
私が準備いたしました話はこれでおしまいです。つたない話を聞いていただいてありがとうございました。
座談会 矢吹さん 座談会を始めたいと思います。座談会に参加くださる方は、先ほどお話ししていただきました佐野千代さん。それからひろの会に参加してくださっている当事者の安部信行さん。同じく当事者の東ひろみさん。そして、ひろの会のスタッフで臨床心理士の林俊美さんです。この4人の方で座談会を進めてまいりたいと思います。
進行は林さんにお願いしております。どうか形式ばらず、気楽に話を進めていただければと思います。それでは林さん、お願いいたします。
林さん 頭の中にすごくたくさんのことが浮かんで、それを皆さんに投げかけて話し合おうと思ったんですけど、佐野さんのお話を聞いてて、そのことがきれいさっぱり飛んでしまいました。
臨床心理士は人を変えようと思って変えるのではなくて、相手の方とただ共に歩むだけだと思っています。この場に来てくださってる誰か一人でも「生きてていいんだ。このままでいいんだ」と思える一助に少しでもなればと考えています。
何かお役に立ちたいとか、そういうことを思うこともありますけど、そうではなく、一緒に歩んでいくことがすごく大事なんだなと、佐野さんのお話を聞かせていただき、あらためて確認しました。ありがとうございます。
ひろの会は自助グループです。なんとか9年目を迎えます。会をこれからどういうふうに進めていけばいいのか、いつも模索しています。
大きな宣伝はしていません。中国新聞の「けんこう掲示板」に案内を載せてもらうことと、ホームページを作っていることぐらいなので、どこでこの会を知られたのか、どうやってひろの会にたどり着かれたか、どういうふうに参加されているのかが、まずは気になります。
そんなことをうかがってみようかなと思いますので、遠慮なくお気持ちをおっしゃってください。他にもお話いただけることがあったら、何でもお願いします。
最初に私のことをお話ししますと、私は2001年のひろの会の立ち上げの時に誘われました。ほんとに軽い気持ちで、あまり深く考えていなかったですね。
犯罪被害者支援をやっていたもので、大切な方が亡くなられたり、犯罪の被害に遭われたりしたら、何年たってもすごくしんどいんだということは感じておりました。
妹が4年前の11月22日に亡くなりました。ひろの会が始まったころにガンをわずらい、闘病生活を送ってたんです。死んで4年たったんだなとふと思いました。もう母のことを相談することもできないし、話を聞いてくれる人は誰もいなくなりました。
母はちょっとボケてるので、母の中ではまだ妹は生きているんです。冬になると、「牡蠣を送らにゃいけん」と言い始める。「もう送れんのんよ」と言ってもどうしようもありません。 妹はガンで亡くなったんですけど、もっと早く妹に「祖母は卵巣ガンで死んだんだよ」と話していれば、妹は助かったんじゃないのかとか、そういう後悔があるんです。
妹は最後まで「生きたい」と言ってました。見舞いも拒否してて、「見舞いに来られて、姉ちゃんの前で死ぬわけはいかんのよ。息子の前で死にたい。でも、息子には痛む姿を見せたくない。死ぬ直前になったら、意識をなくすようにモルヒネ打つから。それなら来てもいいよ」という話をしたのが亡くなる三週間前です。
私はその話を聞いてすぐにどうしても会いたくなって、「今から行くね」とラインしたら、妹は「そういうのわがままって言うんだよ。来なくていいよ」と言ったんです。
そういうことばっかりが頭に浮かぶわけです。何度も何度も同じ話をするんで、娘からは「そんなに仲が良かったように見えなかった」とか、「そんなに悲しんでいるのはおかしいんじゃないの」と言われたりするので、話す場はないんだなと思いました。
この思いを話して受けとめてくださる場所はたぶんここしかないので、ひろの会があってよかったな、少しでも多くの方につながれるといいなと思っています。
安部さん 安部と申します。家内が亡くなって6年になります。11月2日が命日なんですが、先日七回忌をすませました。
ひろの会は家内が亡くなってすぐの早い時期に来させていただいて、それ以来ずっとお世話になっております。その間、卒業といいますかね、来られなくなった方もいっぱいおられますけれど、私はまだ今でも来させていただいております。
東さん 私が最初にひろの会を知ったのは、私が娘を亡くして、どうやって生きていったらいいかわからない。佐野さんが先ほど「気が狂っている」という言い方をされましたけれど、本当に何をしていいのかわからない。
そんな時に、何か探そうとしてネットを見ていて、そこで「ひろの会」という言葉を見つけたんです。そしたら、ある日、新聞を読んでいたら、「ひろの会」という言葉が目に入りました。
私は福山なものですから、なかなか参加できなかったんですけれど、意を決して行きました。初めての日は何もしゃべれなくて、まわりの人の言葉が何かかたまりのように頭の上を過ぎていって、ただただ座っているだけ。
たまたま東京からいらしていた松瀬さんという、生と死を考える会に参加されている方にお会いすることができまして、「子供を亡くした親の会があるから来てみたら」と誘われて行ったんです。そこで佐野さんのお話を聞いて。
最初は、こういう会に参加したら、何か特効薬をもらえるんじゃないかと思ってたんです。いい言葉、いいものをもらって気持ちが変わるような。
でも、そんなことは何もなくて、30年も前に娘さんを亡くされた佐野さんが、昨日のことのようにただ泣かれる姿を見て、私、泣いてもいいんだ、悲しんでもいいんだなって。それだけのために毎月、東京に行かせていただきました。
(2018年11月24日の講演会でのお話をまとめたものです)
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