真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  佐藤 恵子さん 「死産した娘への想い」
2003年4月26日

 こんにちは。初めまして。佐藤と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私という人間はごくありふれた普通の人間ですけど、そういう私にもたくさんの死との出会いがあるんだなあと感じています。

 私は看護婦として十五年間働いてきました。産婦人科から始まりまして、内科、救急外来、そしてターミナルケアと、いろんな現場を見てきました。一番最後に勤めたところは人工透析室でした。シビアな現場が多く、仕事の上では死は当たり前だったんです。とはいっても、慣れているわけではなく、私は「よく泣く看護婦だ」と、婦長や先生によく怒鳴られていました。

 子どものころから、近所の高齢の方が亡くなったりした時には、身近に死を感じていましたが、一番強烈だったのは、十二年間の病の末に眠るように逝った母の死です。それから子どもを死産したこと、そして父の死です。母が死んでからもう六年になります。子どもを死産して一年半が経ちました。今日はそのことについてお話ししたいと思います。

 私は三十五歳をすぎて主人と一緒になりました。そしてすぐ妊娠したんです。切迫流産で一ヵ月入院したり、つわりがひどかったりと大変でした。「年だねえ」と平気で言うお医者さんがいて、「そうかもしれませんけど」と答えたりして、なんとか不安定な時期を乗り切り、ほんとに落ち着いていたんです。胎動を感じるようになってからは、毎日、痛いくらいにお腹を蹴る子でした。
 だけども、七ヵ月に入って、ある日突然、その日が来ました。なんとなくお腹が張ってるような気がして、いつも通っていた医院に行きましたら、すぐ入院設備のあるところへ行きなさいと言われたんです。雨の降る日で、もう夕方に近かったんですが、なんとかタクシーを拾って、紹介先の病院へ行きました。よく知っている先生でしたから、特に不安はありませんでした。世間話をして、それから診察を始めてすぐに、先生が厳しい顔になるのがわかりました。
 「もう子宮が開いてます」、「お産が始まってます」と言われて、えっという感じで、そして「もう破水してから時間が経っていて、子宮内感染を起こしている。なんとか子どもを助けることはできるかもしれないけど、その後の命は保証できない」と言われました。なんでこんなことになったんだろうと考える時間もないうちに、どんどん陣痛がきまして、夜の十時をすぎたころ、私はちっちゃな女の子を産んだんです。

 すごくお産がきつくて、胎盤が出なかったんです。胎盤が出ない時は、機械みたいなものを子宮の中にいれて、引っぱって胎盤をはがしながら取るんですけど、胎盤を出すのに二時間近くかかりました。すごいきつい分娩でした。

 夜中をすぎてやっと落ち着いたころに、助産婦さんと先生にお願いして、子どもとお別れをさせてもらいました。身長25㎝のちっちゃい子だったんですけど、いつも元気に蹴っていた足がこんなにちっちゃくて、ちゃんと爪がついていて、その子を見た時に、それこそ抱いてもいない子どもに対して、なんでこんなに愛情を感じるんだろうと、すごく不思議に思ったのを覚えています。つらかったというより、夢を見ているような感じでした。死産という実感は、正直持てなかったように思います。

 私はお産の後、十日ぐらい入院してました。出血がひどくて貧血になり、血圧が五十とか六十ぐらいしかなく、そして、熱もなかなか下がらずにいたので、退院許可が出なかったんです。看護婦さんが来る時間はわかっていますから、その時はよく笑っていましたけど、一人になると涙があふれてくるんです。悲しいとか、つらいとか、そういう感覚はあまり浮かんではこなかったですね。ただ涙が流れてきました。

 私はずっと個室に入っていたんですけど、面会時間になるとたくさんの人の声が聞こえてくるんです。お産をした方や、家族の方たちの明るいおしゃべりの声とか、小さな子どもさんのはしゃぐ声、それから赤ちゃんの泣き声が、離れた個室にいてもたくさん聞こえるんですね。特別嫌な気持ちはしませんでしたけど、それは何も感じる力がなかったからかもしれません。ただ、たくさんの明るい声が聞こえてくると、時々ひどく頭痛がしました。そういう時は病室から出て、外来のロビーに座ったり、ベッドで布団をかぶってじっとしていたりして、なんとか早く静かにならないかなあとだけ考えていたような気がします。
 やっと静かになったと思っても、夜中には赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。そのたびに私は、自分の小さくなったお腹を触っていたように思います。夜中に聞こえてくる泣き声の中には私の子どもはいなくて、このお腹の中にもいないんだなと、日が経つにつれて死産したという実感がわいてきました。早く退院して、一人になりたいと思ったりしてました。
 そしてやっと、退院の許可が出たんです。身体はきつかったんですけど、病院から家に戻ってきた時は本当にほっとしました。

 入院中から母乳が出ないように、胸の張りを抑える薬を飲んでたんですが、家に帰ってからもずっと胸が張って、母乳がぽたぽたと出てくるんです。産後の身体って、子どもを育てながら回復していくものですよね。おっぱいあげて、それで子宮が収縮して元に戻っていく、そういうふうにできています。こんなにお乳が出るのに、なんで私の子どもはここにいないのかと思いました。
 ふさぎ込んではいませんでしたけど、主人は「もうきっぱり忘れたい」という、そういうはっきりした宣言をしましたので、主人の前では子どものことは何も話せなくて、私も考えないふりをして、忘れたふりをするのに一生懸命でした。それで、主人がいない時はいつも胸を冷やしながら、ぼうっとしてました。

 看護婦としていろんな方を看取ってきましたし、そして両親ももうこの世にはいないわけなんですけど、私は、特に母が死んでからは、どんなに高齢の方が亡くなっても、歳だからとか、充分生きたからよかったじゃないって、そんな慰めを人に言えなくなってしまったんです。長生きしたからよかったじゃないとか、そんな病気だったんだからとか、看病できたからいいじゃないとか、そんな言葉も実際はすごく残酷なことなんだなあって、そう思います。そのことは死産した後にも感じたことです。

 産後の一ヵ月検診を受けるころには、身体も楽になってきて、知り合いや友人に死産のことを少しずつ話してみました。しかし、返ってくる言葉は大体同じだったですね。

「女はみんな流産も経験するし、死産するのもあなただけじゃないでしょ」
「また子どもはできる。四十すぎて子どもを産む人がざらにいるんだから、そんなに落ち込まないで、また頑張ったらいいじゃない」
「七ヵ月だったんでしょう。育てた子どもを亡くす人もいるんだから、大したことないじゃない。水子なのよ、その子はね」

 そんなふうに、あきらめなさいよとか、慰めやはげましで言ってくれる言葉がとっても残酷に聞こえて、どうして皆あきらめろと言うのかなあ、なんで泣くなと言うのかなあ、なぜ悲しんではいけないのかなあ、と考えて、いろんなはげましの言葉がトゲのように心に突き刺さって、それで私は誰にも娘のことを話さなくなりました。

 今まで泣けなかったんです。一人で思い出して、震えながら毛布を抱えることはあっても、こうやって人に話して泣くということが全然できなかったように思います。
 まわりの人はみんな、本当に元気になったねとか、強いねと言うんですけど、それは話して傷つきたくないだけのことなんです。言えば反応があるし、ちょっと話しただけで刺さってしまったトゲが大きかったもんですから、私はもう何もしゃべらないでおこうと思いまして、それでただ黙って元気なふりをしていただけということがあります。
 仮面をかぶっているんです。人前に出る時はかぶっているんですよ、元気な仮面を。主人が出かけて、誰もいない時には、この仮面がポロッと落ちるんです。仮面が落ちた時に、父の表情だとか、母のことだとか、助けられなかった娘の顔とか、いろんなことがその時にぱっと戻ってくるんです。そんな自分が昔は嫌だったんですが、最近はそれが自然なのかなあって思っています。

 悲しむなとか、早く前向きに歩きなさいとか、そんなことをよく言われますけど、泣いたり、悲しんだり、思い出したり、過去に戻ってしまったりすることも、それも生きていることだし、決して不自然なことなんかじゃないって、やっと今年になってそう思えるようになりました。両親の死も、そして子どもの死に対しても、いっぱい思い出して、いっぱい泣いて、それで一日一日生きていければいいじゃないかって、やっとそう思えるようになったのかもしれません。
 時間の経過が悲しみを簡単にやわらげるとは必ずしも思えませんが、時を経ることで、私だったら亡くなった両親と子どもですけど、もうこの世にはいない存在に心の中で言葉をかける中で、自分の命に向き合い、生きていけるのかなあ、こうやって生きている自分をはげましていけるのかなあと思います。

 私というありふれた人間の中にも、たくさんの死という事実があり、悲しむ自分がいます。死産した後からですけど、お子さんを亡くされた方たちとの交流がありまして、その方たちといろいろ話をしていく中で、私は自分が悲しい思い、死別を経験してなければ、何もわからなかっただろうなって思うんです。それに気づかせてくれたのは、日常の中にあるたくさんの死だったんですね。

 両親が先に逝くことも、子どもを死産することも、世間では珍しいことではないでしょうが、残された者の日常は決して楽なものではないと感じます。それで私は今、同じ悲しみを持っている方たちに寄り添っていきたいということを、一番強く感じています。

 誰かを亡くしてしばらくの間は、周囲の人たちも悲しむことを不自然だとは思いませんよね。けれど、初七日が終わり、四十九日が終わり、そういう節目が終わると、逆に悲しむことを許されなくなるような、そんな気がします。ただ悲しみたいだけ、思い出して泣きたいだけなのに、「いつまでもくよくよしてる」とか、「そんなに泣いたら、死んだ人が成仏しない」とか、そういう言葉を自分のことではなくてもよく耳にしました。ですけど、人間ってそんなに強いものでしょうか。節目節目の法事を終わらせれば立ち直れるものなんでしょうか。

 まわりの人たちは、時間が経つほどに悲しみを忘れてゆくものだと思っていて、だから少しでも悲しい顔を見せたりすると、言葉が途切れてしまうことがあります。そうでなければ、元気を出しなさいとか、死んだ人が浮かばれないという言葉を返されたりします。ある意味、仕方のないことかもしれませんが、そのことで、私の悲しみはもう過去のことにしなければいけないと思ってしまうんですね。
 母が死んだ後に、私はそういう現実を敏感に感じるようになりました。自分にとってみれば、ほんの少し時間が経っただけなのに、もう悲しみを吐き出せる場所はないんだなあと、そう感じたんです。朝から晩までところ構わずに泣いて暮すわけではないのに、残された中で必死で生きようともがきながら頑張っているだけなのに、ほんの少し悲しむことも許されないのかと、そう思ったんです。
 私がほしかったのは、ただ悲しむことを許してくれる人でした。そして、その時間だったように思います。ですから、せめて私は悲しんでいる方のお話をじっと聞く人間になりたいなあと思うんです。悲しむ人を責めずに、その言葉をさえぎらずに、ただ手をとって、一緒に泣ける人間でいたいなあと思うんですね。悲しむことは当たり前のことだと思いますし、当然の感情だと思うんです。

 私は娘に対して、あの子がお腹にいる間、母親でしたから、その時に感じられたたくさんの幸せ、それを感じられたことを本当に感謝しています。と同時に、思い出がないのがつらいですね。なぜ助けられなかったんだろう。なぜ私はあの子を元気に産んであげられなかったんだろう。そういう自分を責めている気持ちがあります。せめて一日でも息をして生きてほしかった。そういうことを思います。思い出がほしかったなあというのが正直な思いです。

 けれど、最近思うのは、思い出がたくさんある方は、もっとつらいんだということです。お腹が大きいころ私は、散歩しながらあるデパートの子ども服売場で、赤ちゃん用の小さな靴下を毎日手にとってながめていました。子どもが産まれたらかわいい靴下をはかせてあげよう、そう思いながら毎日ながめていたんですね。ですけど、私の娘は靴下をはくことはありませんでした。
 死産してから一年くらいは、そのデパートにも行けませんでしたね。最近は行くことはありますが、その子ども服売場は避けるように早足で歩きます。あの靴下を思い出すだけで、歩きながらボロボロ泣きそうな自分がいるんです。
 そういう自分の姿を考える時に、ご縁があって知り合った、子どもさんを亡くされた方たちのお気持ちを思うと、もっともっと悲しくてつらくて、どうしようもないんだと、そう思うんです。もちろん、その方たちの苦しみがわかりますとか、そんな傲慢なことは言えません。けれど、自分の悲しみを思い起こして、その方たちの言葉を受け止めたいと思うんです。私にできることなど何もないかもしれないけれど、せめて「悲しい」という言葉をそっと聞く人間でいたいなと思うんですね。そうやって、寄り添っていきたいなと思っています。

 一年半経って、こうして私が娘のことを考えているなんて、多分主人も知らないでしょうね。死産したことに毎日こころをとらわれているわけではありませんが、だからといって私は娘のことを忘れることはできません。あの子の死から始まった私の人生があるということなのかもしれません。悲しみが生き続けること、そしてその悲しみと自分が生きてゆくこと、それから、自分の悲しみをもって他の方の痛みを知ること、これは小さな娘の死が私に教えてくれたことなんだなって、そう思うんです。そしてそのことは両親の死からも感じたことです。

 そんなことを考えながらも、心の中に眠る悲しみが、どうしようもなくあふれる時があります。
 今年、桜が咲き始めたのを見た時に、ああ、何年ぶりに桜を見たんだろうと思いました。毎年きれいに咲いて、いろんな人の関心となって、心を慰めている花なのに、母が亡くなってから私は、この花を見上げる余裕すらなかったのかなあと思いました。母の死、小さな娘の死、そして父の死と、何年ぶりかで見上げる桜の下で、自分の胸の中に沈んでいるたくさんの悲しみを思いました。
 今住んでいるところは小さな川沿いなんですが、桜の名所で、たくさんの人で賑わっていました。車いすに乗っている年輩の方を見ると、母みたいだなあと思ったり、背格好の似ている人を見ると、父みたいだなあと思ったり。子どもさんを連れている方を見ると、私の娘が無事に生まれていたら、この桜の下ではしゃいでいたのかなあって思って、可愛いお子さんたちについ見入ってしまいました。

 もし「あの世」があるなら、
 もし「浄土」があるなら、
 そしてもし「天国」があるなら。
 そんな言葉では表現できない、
 死者に会える場所があるのなら―

 もうこの世にはいない
 父と母に会いたい。

 もっと長生きしてほしかった。
 けして仲のいい親子ではなかったけれど、
 父さんや母さんがいなくなって、
 とっても、とっても寂しいよって、
 すがって抱きしめて、ただ泣きたい―

 そして、
 小さな、小さな、娘に会いたい。

 お乳を含ませて、育ててあげたかった。
 助けられなくて、私が殺しちゃったねと、
 母として詫びたい。

 この世は苦しいことが多いけれど、
 綺麗なお花がたくさん咲くのよ。
 小さなあなたに、たんぽぽや、わたぼうしや、
 大きなひまわりの花を見せてあげたかった。

 晴れた日には帽子をかぶって、
 雨の日には傘をさして、
 あなたとたくさんの景色を見たかった。
 生きるために産んであげられなくて、
 あなたに未来をあげられなくて―
 
 小さな小さな娘を抱きしめて、
 ただ、ただ、泣いて詫びたい―

 まとまりのない話になってしまいましたが、この時間と、悲しむ場所を与えていただけたことを感謝しています。今日は本当に有難うございました。

(2003年4月26日に行われましたひろの会でのお話をまとめたものです)