筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性から依頼を受け、薬物を投与して殺害したとして医師2人が2020年7月23日に嘱託殺人の疑いで逮捕されました。医師の行為を肯定する意見を見かけます。釈尊は安楽死についてどのように考えていたでしょうか。
仏教には律蔵があります。律蔵は2つに分けられます。
・犍度(けんど) サンガの運営に係わる規定
・経分別 出家者の個人に係わる生活規定
律とは、サンガの秩序を維持するための罰則規定で、200~300あります。
一番重い罰則がサンガから追放される波羅夷罪で、4つあります。その1つが殺人戒(せつにんかい)です。律蔵は6種類が伝えられており、その一つ『僧祇律』の殺人戒は病苦による自殺を問題にしています。
律蔵にはその規定が定められた因縁が書かれています。『僧祇律』です。
「世尊は毘舎離(ヴァイシャーリー)に住された。そのとき1人の病比丘があり、病者も看病する者も疲れ果てた。そこで病者が自分を殺してくれと願い、看病する比丘がこれを殺した。
世尊は毘舎離に住された。病者が持刀者を求めよと頼んだ。鹿杖外道(ミガランディカ)に衣鉢を与えるといって命を奪わせた。
世尊は毘舎離に住された。看病比丘が病比丘に自ら刀を用いて自殺するように勧めた。彼は自殺した。
世尊は毘舎離に住された。鹿杖外道は頼まれて比丘を殺したことを憂悩していた。天魔波旬が、「あなたは人の苦しみを開放し、未だ度せざる者を度せしめた」と唆した。そこで彼はさらに多くの人を殺した。
そのとき世尊は月の15日の布薩をなそうとされた。僧衆の少ないことを疑問に思われて阿難に質問されると、阿難は「世尊は先に不浄観を説き、不浄観を修習する功徳を説かれたので、比丘の中に自殺する者、鹿杖外道に殺させる者などが出て、多くが死にました。余法を説いて身を厭って自殺せしめず、久しく存して天人をして利益せしめたまえ」と答えた。世尊は阿那般那念(瞑想の一種)を説かれ、「比丘にして手ずから人命を奪い、刀を持して殺を与える者を求め、死を讃歎して死せしめる者は波羅夷にして共住すべからず」と定められた」(森章司「サンガと律蔵諸規定の形成過程」)
病気に苦しむ比丘が自殺すること、自殺を勧めること(自殺教唆)、自殺を手伝うこと(自殺幇助)、頼んで殺してもらう(嘱託殺人)を禁じています。
天魔波旬とは仏道修行を妨げている魔のこと。医者がALSの患者を嘱託殺人したことについて、「死ぬ権利」を認めるべきだと擁護する人たちは、殺したことに憂悩する鹿杖外道に、「あなたは人の苦しみを開放し」たと言った天魔波旬の同類です。
では、釈尊は病気の比丘にどのように対応すべきだと説いたのでしょうか。小池清廉「臨死問答と重病人看護」「初期仏典における痛悩者への対応」から紹介します。
小池清廉さんは医師で、1960年代以来、知的障害者、身体障害者、精神障害者及びこれらの重複障害者や終末期患者等のための施設現場で従事すると同時に、仏典を学ぴながら医療倫理・生命倫理問題を考究しているそうです。
小池清廉さんはこのように問題提起しています。
「本論は、目前に死が迫った重病人に、ブッダとそのサンガはいかなる対応をしたかを検証して、現代に通ずる思想があるとすればそれを明らかにし、現代人の死の受容や医療倫理に提示できるかどうかを確かめようとするものである。
今日の欧米では、自己決定権に基づく「死ぬ権利」が主張され、オランダ等では安楽死の法制化がなされ、またそのための運動が先進国で見られる。日本でも、一部で同様な主張がされているが、この思想の受容には抵抗する考えがかなりつよいといえよう。「死ぬ権利」の主張を中心とする生命倫理運動に対して、日本文化の一底流をなすと考えられる仏教思想は、批判的な問題提起ができるのではないかと筆者は考えている」
死が近づいた重病の比丘や優婆塞(在俗信者)への対応は次の通りである。
重病の比丘や優婆塞は釈尊か仏弟子を招く。釈尊や仏弟子は病床に赴いて見舞い、病状を尋ねて、もはや助からないことを知る。最後の教えがなされ、病人は問いに答える。そこで、その病人の輪廻がないことが告げられ命終する。
優婆塞にも真摯な臨死問答が行なわれた。祇園精舎を寄付した給孤独は重患に陥ったので、舎利弗を招いた。舎利弗は給孤独が病状回復の見込みのないことを知って、六根、六識、五蘊、両世等への執着がないかどうか教誡する。これは比丘に対する説法であり、初めて聞いたことに給孤独は感泣した。
釈尊は、重病人の看護は出家者の大切なつとめとし、サンガの責任において比丘が病気の比丘の看護を担当することを定めた。そして、終末期でも看護を続けるべきだと説き、看護放棄を禁止した。律は、医薬、住居、食養、身体の清潔保持、大小便の世話などについて、かなり丁寧に指示している。
とはいえ、病人に対する看病比丘の不適切な行為や看病放棄、あるいは病比丘の身勝手な療養態度が少なくなかった。律には、不適切な看護者とは、薬を作れない、病状を理解できない、欲のために看護して慈悲の心がない、汚物を除くのを嫌がる、法を説いて病人を喜ばせることができないとある。また、利己的で、苦痛に耐えられない病人がいるとも記されている。
看護放棄の例
・腹病を患って看病されることなく、自身の大小便の中に浸かって臥していた比丘がいた。釈尊は重病比丘を助け起こし、阿難とともに病者の身を拭い、身の回りの世話をされた。比丘たちに「なぜ看護しないのか」と問うと、「この病比丘は他の比丘の看護などをしなかったからだ」と答えた。そこで釈尊は比丘たちに「君たちには看護してくれる父も母もいない。お互いに看護しなければ誰が看護してくれるのか。私に奉仕しようとする者は病人に奉仕しなさい。命が終わるまで看護して回復を待ちなさい」とさとした。
・長らく病んでいる比丘の看病人は「長い間看病して来たが、病比丘は死ぬことも治ることもなさそうだ、今は看護できないから、置き去りにして死ぬようにしよう」と思った。それから間もなく、病比丘は命終した。
嘱託殺人の例
・我慢できないほどの苦痛を長く患っている病比丘の看病を担当する比丘は、疲れと嫌気を感じ、「私は長い間あなたを看病しているので、和上や阿闍梨に奉仕することも、誦経や思念や行道にはげむこともできないのです。あなたの病気は長引いており、治らないのではないでしょうか。私は疲れ切っています」と言うと、病比丘は「あなたの言う通りです。どうしたらよいのか。私も病気のために苦痛がひどく、我慢できないほどです。あなたが私を殺してくれればよいと思います」と答えた。すると看病比丘は病比丘を殺してしまった。
自殺幇助の例
・重病を患っていた多くの比丘に、見舞いの比丘たちが病状を尋ねると、病比丘たちは「病状は進み、苦痛を我慢できない。私たちに刀、縄、毒薬、病気が悪化する食べ物を渡してくれ。断崖に連れ出してくれ」と言った。そこで見舞いの比丘たちは病比丘たちに言われたとおりにすると、病比丘たちは自殺してしまった。
・看病比丘が病比丘に「長期の看病のために修行もできず、食や薬を求めに行けば嫌われる。看病に疲れ果てた」と語った。病比丘は「自分も長患いのために苦痛に耐えられないので殺してほしい」と言った。看病比丘は「人を殺してはならないという釈尊の制戒があるからそれはできない」と答えると、病比丘は「刀を持った人を呼んでくれ」と言う。看病比丘は「釈尊の制戒があるのでそれもできない」と答え、自殺の方法をいくつか教えて席を立った。その後、病比丘は自殺した。
こうしたことがあったため、律は重病人への自殺幇助や嘱託殺人、自殺教唆などの事例を挙げて禁止した。
小池清廉さんは「綺麗事でないサンガの現実を垣間見る思いもする」と書いています。
苦しくても自殺はしないのが律の立場であり、仏教修行者の生き方を示すものである。精進や七覚支などの修行により、疼痛と病気が克服されると説かれている。
自殺を勧められて断った在家信者の例
・賊のために重傷を負って苦しんでいる在家たちに、比丘が自殺を勧めた。ところが、「現世において苦を引き受けてこそ、修行が完成できると知っている。衆生に慈悲を行うべき比丘が、自殺を勧めるとは何事か。自殺を勧めることと、人を殺すこととは違いがないではないか」と、在家たちは比丘を戒めた。
自殺を勧められて断った比丘の例
・重病比丘を見舞った比丘たちが「君たちは戒律を守り、修行を完成しているから、天の福を得るに違いない。自殺しても必ず天に生まれるだろう。どうして長い間、このような苦を我慢しているのか」と言った。病比丘は「このような苦があっても、自殺はできない。自殺は偸蘭遮の罪になる。また、自殺すれば広く梵行を修することができなくなるではないか。自分の手で人を殺すのと、人に教えて自殺させることとどこが違うのか」と答えた。
偸蘭遮罪とは、波羅夷と僧残(サンガに残ることはできるものの、一定期間、僧としての資格を奪われる)の未遂罪、ならびに禁則されていなくとも常軌を逸した異常行為。
とはいえ、自殺した比丘もいます。
・チャンナは激痛を伴う重病のために自殺を決意した。見舞いに訪れた舎利弗は「刀を手に取らないでくれ。食べ物や薬がなければ探してこよう。看護者がいなければ私が看護しよう。どうか生き存えてくれ」と語りかけた。チャンナは「それらは足りているが、苦痛には耐えられない」と答える。チャンナの死が近いことを知った舎利弗は、修行の完成についてチャンナに問い、確認し、教誡して、チャンナの答えを得てから立ち去った。間もなくチャンナは、他人の手を借りずに自殺した。釈尊の元へ赴いたサーリプッタがこのことを報告すると、釈尊はチャンナは仏道を修め非難が無い者として刃を執ったのだと指摘する。
・重患困苦のヴァッカリは釈尊を招いた。釈尊は病者を見舞って病状を問い、無常、無我についてくわしく教誡した。問いに答えたヴァッカリは、結果として授記された。ヴァッカリは、問答が終わって一人になってから、予告した通りに自殺した。
律は自殺を企てた者を罪としたが、自殺した者の罪は問わない。律は生存者に適用されるからである。自殺しても、授記(弟子が覚ることを仏が予言する)が取り消されたわけではないらしい。解脱したかどうかは、重病、事故、自殺など死の原因と直接の関係はない。臨終での問答、説法の答えにより解脱が認められた。
佐々木閑「仏教からみた持続的組織論」は、どんな形であっても人の命を奪うことを仏教は禁じているとあります。
「仏教のお坊さんは、たとえ安楽死であろうが他人の命を絶つことに関わると僧団から追放です。
いまの日本では、脳死がどうだ、安楽死がどうだと、死に理屈をつけて考えようとします。しかし、法治主義の仏教は、どんな理屈があろうと人の命を絶つ行為に関われば、殺人者として排除します。戦争は、場合によっては殺人を正当化します。死刑も殺人を正当化します。社会的な状況が変えるのですが、仏教は社会的な状況とは無縁の法律に基づいていますから、人の死に関われば殺人になります。お坊さんを裁判員にして殺人事件を扱わせたら、お坊さんはどんな事件であろうが死刑判決に賛成しません。賛成した瞬間に僧団から永久追放になるからです。
仏教のお坊さんは、この律があるおかげで、どんなことがあっても殺人に加担しません。「人に手を上げてはいけない」とも書いてあって、いっさいの暴力が法律違反なのです」
仏教は安楽死だけでなく、戦争や死刑に関わることも禁じているわけです。 |