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死別について 1
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死はまわりの人に大なり小なり心の傷を与えます。「死ぬことは死ぬ本人の問題であるよりも、むしろあとにのこる人々の問題である」とトーマス・マンが言っていますが、本当にそのとおりだと思います。
私の妻がガンになったことがあります。ガンの診断を聞いた時にまず思ったのは、「まさかこんなことになるとは」ということですし、「何でこんな目に遭うんだろう」ということでした。それまでいろんな先生のお話を聞いたり、本を読んだりして、私なりに考えていたこともあったんですが、そんなものはすべて吹っ飛んで愚痴しか出なかったわけです。
そして思ったのは、ご家族を亡くされた門徒さんのお気持ちを私は今まで全くわかっていなかったということです。
それであらためて門徒さんのお話をうかがう中で、皆さん何でもないような顔をしておられますが、実は孤独や不安、悲痛、そうした様々なものを抱えながら生きておられるということに、初めて気づかされました。これは本当に驚きでした。そして、私は今まで何をやってきたんだろうかと恥ずかしくなりました。
いつぞやタクシーに乗って運転手さんと話していたら、どうしてだか運転手さんの奥さんが胃ガンで亡くなられたという話になりました。奥さんが入院しておられるころからウツになり、亡くなられてから4年間はもう何もする気が起こらず、家にこもっていたそうです。
それまで商売を手広くやっていたけどやめてしまった。それでも2年ぐらい前から少し元気が出てきたので、タクシーの運転手を始めたが、こうやってお客さんと話をするのが楽しみです。そう言われました。そして、今は息子さん一家と一緒に住んでいるそうで、寂しさはさほど感じないけれど、やはり夜一人で部屋にいると、何とも言えず寂しい気持ちがわいてくると話されてました。
妻が生きている時は、一人になったら気楽になってええのに、と友達と冗談交じりにしゃべっていましたが、とんでもないことですね、というようなことも話されてました。
あるいは、20年以上前に大学生だった息子さんを白血病で亡くされた方ですが、お孫さんが東京の大学に行くことになったことがきっかけで、息子さんが発病し、入院し、そして亡くなったことをありありと思い出し、不安でたまらなくなったそうです。
このように身近な人の死による心の傷は人によってさまざまです。かすり傷ですぐに治る人もいれば、いつまでたっても血を流している人もいます。あるいは、心の傷がかさぶたとなって、一見何ともないように本人も思っているけれども、何かの拍子にかさぶたがはがれて血を流す人もたくさんおられます。
そうした心の傷は非常につらいものですが、しかしまた亡くなられた方からの大切な贈り物じゃないかと思います。どういうことかと言いますと、悲しみや苦しみを通してでないと、私たちは仏さまの願いをいただくことができないからです。
南無阿弥陀仏には阿弥陀如来の願いがこめられています。どういう願いかと言いますと、すべての人を救わなければ私は仏にならないという願いです。すべての人ということですから、一人でも苦しむ人や悲しむ人がいたら、決して見捨てず、共に苦しみ、共に悲しむんだということです。そして私たちが南無阿弥陀仏とお念仏を称えるということは、そうした阿弥陀如来の願いを聞いて、阿弥陀如来の願いを私の願いとして生きるんだと名のることです。
とはいっても、共に苦しみ、共に悲しむということはなかなかできることではありません。人の痛み、悲しみがわからないからですし、面倒だからです。自分がわかっていないことをもわからないありさまです。つまり、なんだかんだ言っても、結局は他人事なんですね。
ですから、慰めや励ましの言葉を言って、逆に相手を傷つけてしまうことがあるし、しかもそのことに気づかないままでいます。
たとえば「いつまでも悲しんでいてはいけないからあきらめなさい」とか「元気そうになったね。よかった」、あるいは「がんばってね」などと言って慰めようとします。それは悪意なんか何もない善意の気持ちからの言葉です。しかしそれを聞いた人には、そうした励ましの言葉がトゲのように心に突き刺さって傷ついていかれることもあります。
ところが、身近な人を亡くしたという自分自身の痛みを通して、初めて見えてくる世界があります。たとえば、葬儀をすまされた方がよくおっしゃるのが「なんだか最近お葬式が多いようですね」ということです。どうしてそういうことを言われるかというと、霊柩車が目につくとか、○○家葬儀式場という立て看板が目に入るということがあるからです。
毎日多くの方が亡くなっていますし、毎日お葬式があります。霊柩車も葬儀式場という立て看板もあちこちで見ることができます。しかし、普段はそうしたことに関心がないものですから気づかないままでいるし、死に関係することは見たくないものですから、無意識に目をつぶって見ないようにしています。
ところが、身近な人が亡くなることで、それらが目に突き刺さってくるようになるわけです。ああ、ここにも亡くなった人がいるんだな、自分と同じように悲しんでいる人がいるんだな、ということに気づく。そして、気休めの慰めなど言おうとは思わないで、ただ相手の話を聞いていく。そういうふうに変わっていくわけです。
つまり、大切な方が亡くなられたことを通して、知らず知らずのうちにすべての人と共にという阿弥陀如来の願いを生きることになるわけです。身近な人が亡くなってみて初めて、阿弥陀如来の願いがいただかれるということは、亡くなられた方が自分の身をもって阿弥陀如来の願いを私に教えてくださったからです。亡くなられた方のおかげです。
19歳の息子さんを亡くされたお母さん(医療ミスとのことです)が、「私と同じ経験をされた方の話を聞いてあげたい」と言われました。この方は息子さんを亡くされて、何もしたくないし、やっと生きているような状態だ、毎日思い出しては泣いている、このようにおっしゃっています。そういう状況は変わっていないにもかかわらず、しかし自分のように苦しんでいる人の話を聞きたいと言われるということは、苦しんでいる人と一緒に涙したいという願いが生まれてきたということです。ご本人はそのつもりはなくとも、息子さんの死を通して、すべての人と共に生きるんだという仏さまの願いを自分の願いとされたわけです。仏さまの願いにうなずくことよって、亡くなられた方を私にとっての仏としていただくようになると思います。
自らの身をもって亡くなられた方が示された教えを、どのように私たちが聞いていくか、そのことを考えていくことが大切だと思うことです。
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