|
死について
|
生涯に百回病気をしても99回は必ず治る。しかし最後の1回は必ず治らない。 佐々木蓮麿
死ぬということは重い責任を果たしたという意味がある。
死別の苦しみを相談したいと思っても「だれかに話すには重すぎる内容だ」と考え、遠慮の気持から相談をひかえる方は少なくありません。 しかし、死別を体験された方は意外に身のまわりにたくさんいるものです。また、体験がなくても「力になりたい」と思ってくれている人が、かならずいます。実際には、迷惑に思われるケースのほうがまれなのです。
垣添忠生『悲しみの中にいる、あなたへの処方箋』
大切な誰かの死ほど、人を言葉に対して敏感にさせる出来事はない。誰もが、耳に入る言葉の中に、自分の哀しみを紛らわせてくれる何かを探し、また、深めてくれる何かを探す。 道尾秀介『シャドウ』
死はたしかに人生の最終の目的なので、数年来私は、人間の最良の友である死に親しむことを、自分の務めだと思っています。そのためか、私はこの友のことを思い出しても、別にこわくなく、むしろ大きな慰めとやすらぎを覚えているのです。 『モーツァルトの手紙』
死者老いず 生者老いゆく恨みかな 菊池寛
「たかが骨のために、なして、ひとは高いゼニ出して墓を建てるんじゃろうのう……」
「忘れられたくないからだよ、たぶん」
「人間いうんは弱いもんじゃのう」 重松清『流星ワゴン』
ぼくにもわかってきたことというのは、生者に対するのとまったく同じ心づかいと敬意をもって死者を扱えということです。死んだからといって気にかけなくなり、埋めて忘れ去ってしまうわけにはいきません。生きていたころに教わった教訓はぼくらとともに残っている。故人がぼくらに対して、あるいはぼくらのためにやったいろいろなことは、ぼくらの心の中にあって相変わらずぼくらを形成し変化させている。故人がぼくらにどれだけ影響を与えたかを考えれば、ぼくらも自分が死んでからずっと後まで生きる者に対して何らかの影響を残すことになる。だからある意味で、死者は本当には死なない。ずっとずっと生きつづけている。 ディーン・R・クーンツ『ウィスパーズ』
独り住む母を支えている亡父 宮本佳則
亡き夫の書きし仏語を部屋に掛け見ているうちに日のかげりきぬ 吉村光枝
季節毎に帰りし息子今は亡く墓の回りに彼岸花咲く 喜久力
父母逝きて何年目かと聞かれたり つかの間の間に過ぎし二十年なり 高橋智静
誰かが死ぬと、いつもそこに穴が一つできた。穴はいつも人々の真ん中にあった。 レベッカ・ブラウン『体の贈り物』
人は、いつかはかならず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。 ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』
人が死ぬということは、周囲の人に何らかの傷を与えます。たとえそれが老衰による死のように仕方ないものであってもです。 A・デーケン『伴侶に先立たれた時』
死はなつかしい人との別れである。けれども別れは終わりではない。遺された人は故人の光芒に包まれている。私たちは光芒の中で人間はどう生きるべきかを教えられ、人生の深さを学んでゆこうとしている。 重兼芳子『伴侶に先立たれた時』
失うことなくしては、生きていく真実に触れることのできない。 重兼芳子『伴侶に先立たれた時』
何も知らない (生まれて半日で死んだ子の母)
あなたの笑顔 知らない
あなたの笑い顔 知らない
あなたの好きな遊び 知らない
あなたの好きな食べ物 知らない
なぜ なぜ知らないの
母なのに
若林一美『死別の悲しみを超えて』
死は何ら恐ろしいものではない。むしろ死は恐ろしいという死についての考え、それが恐ろしいものなのだ。 『人生談義』
死について考えたことがないというのは、生きることについて真剣に考えたことがないというのと同じです。 千葉敦子『よく死ぬことは、よく生きることだ』
人生がたった一年しか残されていないんなら、おれは本当に妥協なく生きてみたい。本当に会いたい人に会いたい。本当に話したい人と話したい。本当にやりたいことをやりたい。本当に行きたいと思うところへ行きたい。本当に見たいと思うものを見たい。
一体、自分はこれまで何をしていただろう。 井上靖『化石』
死は、人間の一生にしめ括りをつけ、その生涯を完成させるものだ。消滅ではなく完成だ。 山本周五郎『虚空遍歴』
死者がその存在を失っても、死者との関わりは消えることはない。 田辺元
人生に別離なかりせば、誰か恩愛の重きを知らんや。 蘇軾
どんな老人だって世間の役に立つことはできます。だって、死んでみせるっていうこと、大切じゃないですか。 永六輔『無名人名語録』
本当に生きてこなかった今までの一生のことを考えた。まだ生きたことはないのに、どうして死ぬことができようか。 カーソン・マッカラーズ『針のない時計』
死はすべての人が人生でめぐりあう唯一の真実。 高田明和『死を見つめる心の科学』
太陽と死とはいずれもじっと見つめることができない。 ラ・ロシュフーコー『格言集』
われわれは死すべき者として万事を恐怖しながら、まるで不死の者であるかのように思って、どんなものでもほしがる。 ラ・ロシュフーコー『格言集』
他人から見れば何でもない葬儀 平田寂光
長生きをするほど別れ多くなる 斉藤佐多雄
それでもま生きているから悩めるの 岡田温子
百年後ほとんど死んでる今の人 加藤信子
死刑印押す人死刑に立ちあわず 大畑教作
父母がいる当たり前だと思ってた ドド子
父だけは母まだ治ると信じてる かえで
体調の良い時だけ言う死の覚悟 永田ゆみ
「喪の仕事」とは同じような不幸や悲しみを抱く身の上の人物に、自分と同じ苦悩を見いだし、それに同情し共感し、相手の不幸や悲しみの解決を助ける営みを通して、自分自身の同じ苦悩を昇華していく心理過程である。 小此木啓吾『対象喪失』
失った対象を心から断念できる。それは失った対象を取り戻すことでも、忘れることでもない。悲しみや思慕の情を自然な心で、いつも体験し、悲しむことである。小此木啓吾『対象喪失』
自分の子どもが死ぬという体験をしたことによって、なんかものごとがよく見えるようになったという感じがするんですね。人間がよく見えるようになった。 柳田邦男『心の深みへ』
彼は私の心の中で生きているし、いつまでも生きていくだろう。となると、死というのは、単に消滅するとか、関係が切れるということではなくて、いつまでも心の中で精神的に共生していくことなんだ「死=共生」というふうに、彼女なりに気づいて答えを出していく。 柳田邦男『心の深みへ』
(娘を亡くして)人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だ
けは思い出してやりたいというのが親の誠である。(略)折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。 西田幾多郎「藤岡作太郎著『国文学史講話』序」
あらゆることは、すでにほとんど人によって考えつくされている。しかし大事なことは、それを自分で考えてみることである(ゲーテ)。死については、すでにもう人によって考えつくされている。しかし私なりにやはり考えてみよう。 高見順『闘病日記』
死ぬことは死ぬ本人の問題であるよりも、むしろ、あとにのこる人々の問題である。 トーマス・マン『魔の山』
ガンで亡くなった夫への手紙
辛い転移より
残す私を案じてくれた
あなた、ありがとう
風呂で泣きました 『日本一短い家族への手紙』
「先生、死ぬのって怖いですか」
「何を言うとるか。お前はその前に生きとるか? 生きとるか死んどるかわからん顔して!」 田原由紀雄『傑僧訓覇信雄』
悟りという事はいかなる場合でも平気で死ぬる事かと思って居たのはまちがいで、如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。 正岡子規
皆さんへ扨いろいろとお世話さまお先へまいる灰さやうなら 為永春水
来山はうまれた咎で死ぬる也 それでうらみも何もかもなし 小西来山
老いたるも若きも死ぬる習いぞと しりかほにしてしらぬ身ぞうき 多聞院英俊
ついにゆく道とはかねてききしかど きのふけふとはおもわざりしを 在原業平
今までは他人(ひと)のことかと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん 太田蜀山人
今まではさまざまの事してみたが 死んでみるのはこれが初めて 淡島椿岳
死に近づくときの三つのおそれ
1,肉体的苦痛
2,見捨てられたことの怖れ
3,能力がなくなることの怖れ エリザベス・S. カラーリ『おだやかな死』
|
|