真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

信じる者は救われるか

 信心とはどういうことでしょうか。「イワシの頭も信心から」ということわざを手がかりにして信心ということを考えてみましょう。

 「イワシの頭も信心から」とは、「イワシの頭のようなつまらないものでも、信心の対象となればありがたく思われる」という意味です。また、頑迷に信じ込んでいる人を揶揄したり、新興宗教などに対する皮肉の意味でも使われます。

 もともとは節分の風習に由来するそうです。近世以降より、節分にはイワシの頭を柊の小枝に刺して、戸口に挿す風習が行われるようになりました。これは鬼の嫌いな柊のトゲと、イワシの臭気で鬼を退散させようとしたのだそうです。
 ここから、つまらない信仰の代表としてイワシが使われ、さらに値打ちのない頭でつまらない意味を強調したとのことです。

 奈良県にはこういう昔話があります。
 昔、大和の山稜村に清九郎という勤勉な若者がいた。ある日、畑をたがやしていると木の切り株がクワにあたった。清九郎はその木の切り株を掘り出して家に持ち帰り、神様とも仏様ともつかない木像を作った。そして祠に祀り、毎朝かかさず手を合わせてから、日が暮れるまで働いた。
 そうするうちに清九郎の一家に幸運が訪れるようになった。働き者のお嫁さんが来て、仲良く働き、豊作に恵まれ、見る間に金持ちになった。
 ところが、隣に住んでいた怠け者の次平はそれをねたみ、
「ここんとこ清九郎とこだけ、えらい景気がええやないか。あの貧乏くさい祠にご利益のある神さんをまつっておるかもしれん」
と、その木像を盗み出し、代わりに竹串に刺したイワシの頭を入れおいた。
 そうとは知らない清九郎は相変わらず毎日イワシの頭を拝んでいた。怠け者の次平は盗んだ木像を自分の庭に作った祠にまつったが、拝みもせずに欲深いことばっかり夢見て、イワシの頭にお参りする清九郎をあざ笑っていた。
 ところが次平の家は貧乏のままだったが、イワシの頭と知らずにお参りする清九郎の家はさらに金がたまり、ますます大金持ちになった。
 清九郎の神さんの評判は村中に伝わった。拝ませてくれとやって来た人たちが見たのは一本の竹串だった。

 「イワシの頭も信心から」の昔話をどう思われますか。
 次平は清九郎の作った神さまの像を信じていなかったわけではありません。信じていたからこそ木像を盗んできたわけです。では、次平のどこが悪かったのでしょうか。
 清九郎は毎朝毎晩熱心に拝んでいました。まわりの人が感心するほどの量だったわけです。逆に次平は何もしませんでした。量としてはダメだったことになります。だったら、次平も一生懸命に拝めばよかったのでしょうか。
 しかし、次平はご利益を期待する下心がありました。すなわち信仰が純粋でないことがまずかったとも考えられます。
 清九郎がどういう気持ちで拝んでいたかはわかりませんが、無心にひたすら拝んでいたようです。だから金持ちになれたということでしょうか
 となると、この昔話の教訓は「あれこれ考えずにとにかく一生懸命に信心することが大切だ。必ずいいことがある」ということのように思われます。

 しかし、私はこの教訓には賛成できません。
「何を信じているのか」
「どのように信じているのか」
「なぜ信じるのか」
といったことが明らかにならないといけないと思うからです。

 ということで、信心ということを
1,ありがたければいいのか
2,一生懸命だったらいいのか
3,信じていたらいいことがあるのか
の三点から考えてみたいと思います。


 1,ありがたければいいのか

「何ごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
 西行が伊勢神宮に参った時の歌です。この歌は日本人の宗教観を典型的に表していると言われています。
 たしかに、人間のはからいを超えたものに対して敬虔な気持ちになり、自然と頭が下がってくるという宗教感情は大切です。しかし、わけもわからずとにかくありがたいというのでは困ります。

惚れた人はたから見ればただの人(万能川柳)

 こんなことを言いますと、「本人がそれでいいと思っているのならいいじゃないか。人に迷惑をかけているわけではない。その人の自由だ。細かいことに目くじらを立てなくても」などと言われます。はたしてそうでしょうか。

ご迷惑おかけしますとかけている 松田一進

 私の心は気分次第でころころ変わりますから、信心といっても、一体何を信じ込むやらわかったものではありません。
 麻原彰晃に対して「とにかくありがたくて涙がこぼれる」と言う人がいたら、どう思いますか。どうしてだろうかと不思議に思うでしょう。

仏像を見に来た人と祈る人 佐藤良水

 有名な仏像を見た時、どのように感じますか。ありがたくて思わず手を合わすこともあるでしょう。あるいは美術品として鑑賞するだけかもしれません。有名だから大したものなんだろうと、私なら思います。何とも感じない時や、馬鹿らしいと思う時だってあるでしょう。

 その時の気分で感じ方は変わってきます。ありがたいという気持ちが起きたのも、その場の雰囲気からそう思っただけかもしれません。
 豪華な神殿、荘厳な儀式、大勢の熱心な信者たち。そういう雰囲気はいかにもありがたい気持ちを盛り上げます。
 新興宗教の得意技ですが、既成教団でもよく行うことで、こけおどしにすぎないかもしれません。問題は中身です。
 蓮如上人も「一宗の繁昌とは、人が多く集まり、威勢の大きなことではない」と言われています。

 その中身についてですが、イワシの頭そのものをありがたがる人はたぶんいないと思います。神社のご神体といっても石や鏡ですから、単なるモノという意味ではイワシの頭とさほど変わりません。モノそれ自体がありがたいのではなく、イワシの頭やご神体、仏像といった形を通して、その向こうにあるものを拝むわけです。
 しかし、向こうにあるものとは一体何なのか、なぜありがたいのか、どうしてありがたく感じるのか、そうしたことを考えず、ただやみくもにありがたがるのでは、麻原彰晃をありがたがるのと変わりません。

ヘンなのにこんなの普通と言う異常(万能川柳)

 「なぜありがたいのだろうか」という疑問は、イワシの頭や伊勢神宮、あるいは麻原彰晃ばかりではなく、阿弥陀如来についても持つべきです。
 蓮如上人はくり返し、「ただ念仏を称えたらいいというものではない。南無阿弥陀仏のいわれを聞きなさい」と言われています。道理にうなずくということがなければならないわけです。
 ありがたいという気持ちをインチキ宗教はいろんな形で利用しますから、用心しましょう。


 2,一生懸命だったらいいのか

信念があって他人を困らせる(万能川柳)

 私たちは、一生懸命になることでかたくなになることがしばしばあります。まわりが見えなくなり、人の言うことに耳を傾けないわけです。
 こうしたことから「イワシの頭も信心から」という言葉を、何かを頑迷に信じ込んでいる人を揶揄する意味でも使います。

「熱心に信仰してる人は「自分たちは正しい、やらない人は間違ってる」ってホントに思ってるから、その辺は他の宗教と全然変わらない」

 ある新興宗教の信者の言葉ですが、どの宗教でもそういう傾向があるようです。自分の信じていることに疑いを持たず、自分は正しいんだと思い込むだけならまだしも、考えが違う人を一方的に非難するのでは世間を狭くするだけなんですが。

 こうなると、イワシの頭だろうと、伊勢神宮だろうと、ありがたいものはありがたいんだ、とにかく信じてればいいんだという信心と、盲信、狂信とはどう違うのかということになります。

 これは健康法や健康食品も同じことだと思います。

「健康法の本は新興宗教の本に似ている。現代科学や物質文明を批判し、このままではあなたは助からないと脅す一方、美辞麗句を並べ立てて、この素晴らしい○○を信じなさいと読者に呼びかける。本の後半に「○○のおかげでこんなに元気になりました」という読者の喜びの声が載っているのも、共通のフォーマットだ。
 健康法を信じる心理と、宗教を信じる心理は、基本的に同じものなのではないか―どうもそんな気がする。「私は○○のおかげで救われた」と信じる人たちが、世界中の人たちを救ってあげたいという善意と義務感で行動するのだ。その強い熱意は、時として暴走する」
(と学会「トンデモ本の世界T」)


信心が人に迷惑かけている(万能川柳)

 人の悪口を言うだけならまだしも、ヨーロッパ中世では異端者を火あぶりにしたり、宗教改革の時代にカトリックとプロテスタントが争って殺し合いを行っていました。
 最近でも、『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラディシュという小説家は、マホメットを冒とくしたというのでホメイニから死刑の宣告を受け、この小説を翻訳した五十嵐一さんは殺されました。

「盲信は一切を正当化できる。もし人が別の神を信じているなら、いや、もし人が同じ神をあがめるのに別の儀式を用いるなら、たったそれだけのことで、盲信は彼に死刑を宣告できるのだ」(R・ドーキンス「利己的な遺伝子」)

 自爆テロでもそうです。文字通り命がけですから、一生懸命なわけです。だからといって、その行為を認めるわけにはいきません。死んでいく人は自分の行為がどういう結果を生むか考えているのでしょうか。
 憎しみは憎しみしか生みません。


「信仰で山を動かすことはできない。しかし信仰は人々をそのような危険な愚行に駆り立てることができる」(R・ドーキンス利己的な遺伝子」)

 こういう例を挙げたらきりがありません。ということで、一生懸命でひたむきだからいいというものでもありません。自分を見る目を失ってしまってはダメだということです。

人はみな信じすぎると見失う 川本千鶴子

 一生懸命さは量によって測られます。
 「貧者の一灯」という言葉があります。真心の尊さをいうたとえで、貧しい人の誠意のこもったわずかなささげ物は、金持ちの世間体を飾った多くのささげ物よりまさっているという意味です。お経の中にこういう話があります。

 阿闍世王がお釈迦様を招いて供養をした際に、宮殿から祇園精舎へのお釈迦様の帰り道に万灯をともした。その時、貧乏な一老女も灯明をかかげようと思い、わずかの銭を都合して一灯をともしたところ、王のあげた灯明は風で消えたり油が尽きたりしたが、老女の灯明は終夜消えなかった。

 信仰は量よりも質(中身)が大切というたとえです。ところが、量が多いことが一生懸命さの表れだとされがちです。たとえば、多くの神社仏閣に参ったから信心深いとか、念仏はたくさん称えた方がいいなど、信仰のあるなしが量の多少で言われます。つまり、量が多ければ信心があるというわけです。

 天理教では信心とは献金と伝道だと言います。創価学会は広宣(布教)と寄付です。親鸞会は法施(布教活動)と財施を説きます。一人でも多くの人を勧誘し、一円でも多くのお金を寄付しなさい、それが信心のあらわれですよ、ということです。

「学会の中では、いかに多くの財務をするか否かで信心の強弱がはかられます。学会員たちの座談会の中では常にそんな話が交わされているのです。
 まるで競争心を煽られるように、「誰々が一千万円出した」と言われ、暗に「あなたもそのくらいは出しなさい」と要求されるわけです。
 私たち学会員はなんでも活動における苦労は信心だと信じさせられていて、いまに報われるんだ、我慢できないのは信心が足りないからだと指導を受けます。」
(湯野重『池田学会 イニシエーションの恐怖』)

「(統一教会では)教理的には「公式七年路程」といわれる伝統と経済活動を三年半ずつ計七年行い、実績を残したものがその救済に与れるということになっていた。様々な手段を用いて多くの人に伝道することや、霊感商法と批判されるようなやり方を用いても一般市民から資金調達を行うことは、目的において神が認める行為とみなされた」
(櫻井義秀『統一教会』)

信仰が厚くお金が底をつく(万能川柳)


 3,信じていたらいいことがあるのか

 しかも、一生懸命だからということだけでは、信心があるとはみなされません。ご利益という結果に結びつくかどうかで判断されます。清九郎が金持ちになったのは毎朝熱心に拝んだからだ、次平は怠けていたから貧乏のままなんだ、というように。

 つまり、ご利益(いいこと)のあるなしが、信心の証拠になるわけです。ご利益があれば信心がある、なければ信心がない、いくら信心してもご利益がなかったら、信心が足りない、こういうことです。おかしな話ですが。

 熱心に信仰しているつもりでも、何らかの結果が出なければ、自分の信心はこれでいいのかと不安になります。
 インターネットからの引用です。霊友会の元信者です。

「先祖の因縁を解決し、供養するためには他人を導かねばならない(つまり勧誘せよということ)。自分を見つめ、自分を磨くためにも、他人に積極的に関って導くように働きかけねばならない。そういうふうに言ってました。そして導きするほど、自分の持っている因縁とやらがなくなるとも。
 でも、それってやっぱり会員を増やすための常套手段なわけだけど、それを信じちゃってる人はなんか良いこと、例えば病気が良くなってきたりしただけで「ああやっぱりそうなんだ」と思ってしまうんですよね」


 何らかの結果とはご利益です。ご利益(得なこと)があれば、自分の信心は間違いなかったんだと安心するわけです。

見返りをあてにせずカネ出すかいな(万能川柳)

 そもそも私たちは、損か得かを目安としてものごとを決めます。中野翠さんが書いています。雑誌の編集者が男の場合の価値基準のポイントは、正しいか間違っているか、女の場合は好きか嫌いか、共通しているのは損か得か、だそうです。

 信仰についても同じです。損か得か、つまりご利益があるかないかがまず問題となるのです。ですから、なぜ私たちは信じるのか、どうしてありがたいと感じるのかというと、それは率直に言いますと、ご利益があるからでしょう。つまり得だから信じようとするわけです。
 「どこそこの神社は霊験あらたかだからお参りしてきました」と言います。「霊験があらたか」というのは、ご利益があるという意味でしょう。ご利益がなければお参りするだけ損だと言っているようなものです。

 信じる気持ちが先か、ご利益を求める気持ちが先か、これは一概には言えませんが、信心とご利益を求める気持ちが深く結びついていることはたしかです。
 つまり、私の信心とは結局はご利益信仰です。ご利益と無関係な信心はあり得ません。いくら立派なことを言っていても、人間が起こす信心なんて結局のところ不純なものです。

この件は神様いくら要りますか(万能川柳)

 以前、公園で子供を連れた二人のお母さんの会話が耳に入り、それが新興宗教の勧誘だったものですから、つい耳をそばだてて聞いたことがあります。片方がその宗教の新聞を片手にこんなことを言ってました。

「主人と、とにかくやってみよう、ダメでもともとじゃない、いいことがあればそれでいいし、ダメならいつでもやめよう、そう話し合って入ることに決めたんよ」

 これを「ダメもと主義」と言います。このお母さんも、やはり「損か得か」ということで勧めているわけです。入信して得だったからこそ、こうしてあなたに勧めている、だまされたと思ってやってみたら、ということです。そうは言っても、やめるとなると一苦労なんですけどね。

 このお母さんが持っていた新聞を読んだことがあります。病気が治った、仕事が見つかったなど、願い事がかなった話がたくさん出ていました。大したものです。
 けれども、病気が治らない人、願いがかなわなかった人は信心が足りなかったということになるのでしょうか。

 当たり前のことですが、治らない病気がありますし、病気が治ったところで必ず死にます。老病死のようにどうにもならないことがあります。そんなどうにもならないことに対して、その新興宗教ではどのように教えているのでしょうか。

 ある真宗寺院のホームページにこういうことが書いてありました。

「神社も寺も「お参り」という言葉を使いますね。けど内容はまったく逆だと考えてください。
神社(神)に参る=私の願いを神さまに頼むこと
寺(仏)に参る=仏さまの願いを私が聴くこと
合格祈願や病気治癒、家内安全や商売繁盛は神社の方へお願いします。もしも、仏さんに頼むと、
合格祈願=勉強したら受かる、遊んでたら落ちる。ご勝手に!
病気治癒=酒とタバコやめて、医者に相談して!
家内安全=アンタのとこだけ? 他の家どうするの?
商売繁盛=損して得とれ、取れんかったらあきらめろ!
と言うでしょう。
さあ、神様と仏様、どっちにします」


うまくいくだって受験日大安よ(万能川柳)


 4,信心とは

 親鸞聖人は、信心のことを信知と言われました。「知」とは知識として知ったということではありません。我が身の事実を否応なしに思い知らされたという意味です。

 普通、「信じる」ということと「知る」ということは、違った意味で使われます。たとえば、誰かが行方不明になった時、家族の方は「生きていると信じています」と言いますね。「生きていることを知っています」と言ったら、「えっ」と思うでしょう。知っていたら「信じる」という言葉は使いません。
 「生きていることを信じています」ということを言い換えれば、「生きていることを願っています」ということになります。

 つまり、普通使っている「信じる」ということの意味は、「どうなのかよく知らない」が、「こうなるように願っている」、だから「そうなると信じたい」ということになると思います。
 これは「信じたら願いがかなうだろうということを信じる」ということですから、こういう信心だと、神仏を自分の願いをかなえるための手段にしているわけです。手段ですから、もしも願いがかなわなければ、この神さんはダメだとなるわけで、そうなると信じる対象はいつでも他のものに変わっていきます。

 私たちの信心とはこんなものでしょう。信じたいことだけ、都合のよいところだけ信じます。そして思うようにならなければ裏切られたと腹を立てます。
 神仏ばかりではなく、人間に対しても同様です。私の期待通りにしなければ、「この人は信用できない」とか「こんな人とは思わなかった」と言うわけです。

 子供が小さいころ、「ハガキを出してきて」と頼み、ちゃんとポストに入れたかどうかを確かめるため、こっそりとその後をつけたことがあります。
 「お願い」と頼みながら半信半疑な気持ちでいるわけですから、子供を信じているわけではありません。私の頼んだ通りにするかどうかが気になるのです。そして言った通りにすればほめますし、そうならなければ叱ります。私たちの信じるというのはこういう信じ方でしょう。

「てるてるぼうず てるぼうず
 あしたてんきにしておくれ
 いつかの夢のそらのよに
 晴れたら金の鈴あげよ
 私の願いを聞いたなら
 甘いお酒をたんと飲ましょ
 それでも曇って泣いたらな
 そなたの首をちょんと切るぞ」

 この「てるてるぼうず」の歌詞はそんな私たちの信心というものを歌っています。

 いつも自分中心でしか考えられない、そういう私の姿というものを仏さまの教えを通して思い知らされる。そして、さまざまなはたらきの中で生かされている身であったと気づかされる。それが仏さまからいただいた信心(信知)です。