1 戦争と昭和天皇
米国立公文書館に眠っていた東京裁判の国際検事局の機密文書が公開され、文書の中には、A級戦犯だけでなく、政治家、軍人、財界人、皇族など証人たちの多量の尋問調書がありました。近衛文麿、吉田茂、鳩山一郎たちも検察に大量の書類を提出しています。これらの資料を基にして書かれたのが粟屋憲太郎『東京裁判への道』です。
粟屋憲太郎氏はこれらの資料によって、「これまでの東京裁判史の「通説」が、伝聞や推定による不正確なものが少なくないことを知った」と書いています。
たとえば、「ソ連は天皇不訴追の立場だったのである。これはスターリンの決定によるものだった」ということです。
検察や日本側が一番頭を悩ましたのが天皇の訴追です。天皇に戦争責任がないことを「論証」するためには、「戦争を終わらせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争開始の許可を下したのか」という批判に対処しなければなりません。
粟屋憲太郎氏によると、昭和天皇の開戦容認が不可避で、天皇の戦争責任はないとする主張は2点あります。立憲君主論と内乱危機論です。
① 立憲君主であったから政府決定を承認せざるをえなかったという立憲君主論
昭和天皇は、憲法に忠実に従い、憲法の条規によって行動する立憲君主の立場を貫いたとされます。
1928年(昭和3年)、田中義一首相が張作霖爆死事件の責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、田中首相は処罰しなかったので、昭和天皇は辞表を出すよう言った。
「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」
これ以降、昭和天皇は立憲君主の枠を超えて活動することを自ら禁じたとされる。
「己の好むところは裁可し、好まざるところは裁可しないとすれば、専制君主と異なるところがない」
しかし、二・二六事件と終戦の時だけは積極的に自分の考えを実行させたが、開戦に際しては、憲法を尊重したために自分が望まなかった開戦を阻止できなかったことになっています。
1941年(昭和16年)12月1日の御前会議について、昭和天皇は『独白録』で、「反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた」と述べています。
日中戦争中の1937年から1941年に、天皇の侍従武官を務めた清水規矩の発言は大きい意味を持つように思います。
陛下のお考えとしては、〝国務については、補弼の大臣があるので、これを重んずるが、しかし、その結果については、みずから責任を取る〟とのお覚悟がおありであったように拝された。一方、純統帥については、おんみずからが最高の責任であるとのお考えであらせられたものと拝察申しあげるのである。(美山要蔵編『天皇親率の実相』)
吉田裕『日本軍兵士』によると、統帥権とは、陸海軍を指揮し統御する権限のことで、統帥権は大元帥としての天皇に属し、内閣や議会の関与を許さないとされた。
各軍の司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し、天皇が発する最高統帥命令にしたがって作戦を実施した。
参謀総長や軍令部総長は大元帥としての天皇を補佐する最高幕僚長であり、天皇からあらかじめ委任を受けない限り、基本的には自ら命令を発することができなかった。
昭和天皇は、自分は軍を指揮しているから責任があると意識していたと思われます。
② 開戦を拒否したら国民的憤慨・興奮を背景にクーデターが起きたという内乱危機論
開戦の決定に対して拒否したら、国内は大内乱になり、周囲の者は殺され、天皇の生命も保証できない。
「私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」
『昭和天皇独白録』英語版では「私は囚人同然で無力だった。私が開戦に反対しても、それが宮城外の人々に知られることは決してなかっただろう。ついには困難な戦争が展開され、私が何をしようと、その戦いを止めさせることは全くできないという始末になったであろう」となっています。
しかし、粟屋憲太郎氏は事実と異なっていると書いています。他の本を読んでもそのように思います。
① 昭和天皇は立憲君主制を守ろうとしたということ
昭和天皇は立憲君主であると意識し、自分の意見を言うことはなかったとされますが、天皇になると、かなり露骨に政治に対する関心を表明し、必要な場面では国政や軍の作戦計画に深く関与しています。
木戸幸一は東京裁判に関する聴き取りにこう答えています。
「国政を総攬されるに当たって、天皇がその内閣の上奏事項に対して意見を異にされることは当然あり得ることであり、立前としては天皇は国務大臣の補弼によって国政をなさるのではあるが、ときには強い御意見を述べられることもある」
「陛下から御意見があった場合においても内閣が考え直すか、さもない場合でも何とか調整がつくのが通例であった」
上海事件は1932年(昭和7年)3月3日に停戦した。
「私が特に白川(上海派遣軍司令官)に事件の不拡大を命じて置いたからである」
1939年(昭和14年)、阿部内閣の陸軍大臣を誰にしたいか命令している。
「私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据ゑる事を阿部に命じた」
吉田裕『日本軍兵士』によりますと、1940年(昭和15年)10月、昭和天皇は「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり。それが今日、各方面に響いて来ている」(「小倉倉次侍従日記」)と語っています。
戦況については、日本軍の被害状況についてもほぼ正確な報告を受けています。
木戸幸一の回想。
「統帥部としては戦況は仮令最悪なものでも包まず又遅滞なく天皇には御報告申上て居ったので、ミッドウェイ海戦に於て我方が航空母艦四隻を失ったことも統帥部は直ちに之を奏上した(略)。ガダルカナル島の場合も米軍の反攻上陸の成功、之に対する我軍の三回に亙る総攻撃の失敗、最後に転進の成功と云ふ戦況も其都度陛下には奏上せられて居り、陛下は総て戦況は御承知であった」(『木戸幸一関係文書』)
状況をきちんと把握しているわけで、軍部のロボットだったわけではないことがわかります。
昭和天皇は戦史をよく学んでいるおり、戦果報告を聞き、作戦に介入、指示をした。
山田朗氏は「天皇に情報を伝え、裁可を得るというルートを経なければ歯車が動かないシステムであった」と書いています。
しかし、言うことを聞かない軍人や政治家もいます。石原莞爾参謀本部作戦部長の支那事変(昭和12年)不拡大方針に昭和天皇は反対だったそうです。
「当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つてゐたのだ。湯浅内大臣から聞いた所に依ると、石原は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ」
1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟に昭和天皇は反対していた。
「この問題に付ては私は陸軍大臣とも衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云つた処、彼はそれでは辞表を出すと云ふ、彼がゐなくなると益〻陸軍の統制がとれなくなるので遂にその儘となつた」
1941年(昭和16年)8月、永野軍令部総長が戦争の計画書を持参した。
「私は之を見て驚いて之はいかんと思ひ、その后及川に対し軍令部総長を取替へる事を要求したが及川はそれは永野の説明の言葉が足らぬ為だから替へぬ方が良いと云ふのでその儘にした」
9月5日、近衛が御前会議の案を見せます。
「之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかった」
1943年(昭和18年)、アッツ島の守備隊が玉砕した。蓮沼侍従武官長にこのように言っている。
「こんな戦をしては「ガダルカナル」同様敵の志気を昂げ、中立、第三国は動揺して支那は調子に乗り、大東亜圏内の諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかして何所かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか」(『戦史叢書 大本営陸軍部〈6〉』)
昭和天皇の言葉は蓮沼から真田穰一郎作戦課長、そして杉山元参謀総長に伝えられた。
『杉山メモ』から。
6月9日
「何ントカシテ米ヲ叩キツケネハラナヌ」
8月5日
杉山元は各方面の状況を「率直に」天皇に告げた。 「御上 いずれの方面も良くない。米軍をピシャリと叩くことは出来ないのか。
杉山 両方面とも時間の問題ではないかと考えます(つまりダメだという意味―引用者)。第一線としてはあらゆる手段を尽くしていますが誠に恐縮に堪えません。
御上 それはそうとして、そうじりじり押されては敵だけではない、第三国に与える影響も大きい。一体何処でしっかりやるのか。今までの様にじりじり押されることを繰り返していることは出来ないのではないか」
8月6日
「何処カテ攻勢ヲトルコトハ出来ヌカ」
1944年(昭和19年)6月、高松宮は軍令部の作戦会議の席上、次のようなと発言をしている。
「既に絶対国防線たるニューギニアからサイパン、小笠原を結ぶ線が破れたる以上、従来の様な東亜共栄圏建設の理想を捨て、戦争目的を、極端に云つて、如何にしてよく敗けるか、と云ふ点に置くべきものだと思ふ」(『細川日記』)
ところが昭和天皇は1945年(昭和20年)に入っても、米軍を叩いて有利な条件で戦争を終結させるという一撃講和論に固執し続けます。
1945年4月3日、沖縄戦について、梅津美治郎参謀総長に「此戦(沖縄戦)ガ不利ニナレバ陸海軍ハ国民ノ信頼ヲ失ヒ今後ノ戦局憂フベキモノアリ 現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ 兵力足ラザレバ逆上陸モヤッテハドウカ」と言っている。
戦争を止めようとする気配は感じられないと、原武史氏は言っています。
1945年2月14日の近衛上奏の段階で「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」と言っていた天皇は、5月上旬に無条件降伏もやむなしと考えを転換した。
秦郁彦氏は、昭和天皇は立憲君主制に従っていたという神話を戦後の研究者が作ったと言っています。さらに、『昭和天皇独白録』は昭和21年に昭和天皇が側近に語った談話をまとめたもので、英語版の発見で、作成目的は東京裁判対策のためだということが確実視されているそうです。
そして、昭和天皇の「命令」について、秦郁彦氏は「いままでの解釈では、立憲君主制の本筋に従って天皇は決めない、ただ判こを押すだけである、例外はあったけれどもそれをずっと守ってきた、ということでしたね。しかし昭和天皇の精神構造はじつはそうなっていなかったのではないでしょうか。つまり自分が裁く、自分が命令する。問題は、命令しても裁いても、軍部が強いときには通らないことです。ことごとくそれが押し返されて命令が徹底しない。それに対する猛烈なイラ立ちがあった」と語っています。
太平洋戦争は昭和天皇の「意に反した戦争」だという意見について、豊下楢彦氏はこういう指摘をしています。
「天皇は平和主義者であったと主張する立場と、あの戦争は「自存自衛の戦争」であり、そこで倒れた「英霊」のために首相は靖国神社に公式参拝すべきであると主張する立場とが、何ら自己矛盾を惹き起こすこともなく〝共存〟するという、まことに奇妙な〝ねじれ〟現象が長く続いてきたのである」
② 昭和天皇が開戦に反対したら内乱が起きたかもしれないということ
昭和天皇に従順だった東条首相が陸相と内相を兼務しており、たとえクーデターが起きたとしても、軍と警察の手で鎮圧できたと思われます。
『昭和天皇独白録』によると、昭和天皇は東条英機に好意的です。
「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧政家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた」
「又彼が大東亜各地を飛んで廻つた事も、彼自身の宣伝の様に云はれて評判が悪いが、これも私の許可を得てやつた事である」
「私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明らかにして置き度いから、之丈云つて置く」
ちなみに他の政治家の人物評です。
1941年(昭和16年)11月の重臣会議で、対米開戦もやむなしという重臣の一人が広田弘毅であり、昭和天皇は「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と冷評しています。
政治学者の猪木正道は「駐日ドイツ大使に条件を示して和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では、真っ先に条件のつり上げを主張するなど、あきれるほど無定見、無責任である。城山三郎氏の『落日燃ゆ』には、広田のよい点が強調されているが、一九三六年のはじめころから、広田は決断力を失ったのではないかと思う」と批判しています。(服部龍二『広田弘毅』)
猪木正道の本を読んだらしい昭和天皇は首相だった中曽根康弘に「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」(岩見隆夫『陛下のご質問』)と語っているそうです。
1956年(昭和31年)に首相に指名された石橋湛山が閣僚名簿を昭和天皇に内奏すると、天皇は「どうして岸を外務大臣にしたか。彼は先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東条以上であると自分は思う」と発言しています。(増田弘『石橋湛山』)
なぜ昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったかというと、「富田メモ」によるとA級戦犯が合祀されたからであり、自らの意思です。
「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」
2 終戦と昭和天皇
昭和天皇にとって、ポツダム宣言受諾の条件として国体護持が絶対でした。 1945年8月12日、皇室を集めた会で昭和天皇はポツダム宣言受諾の決意とその理由を語った。
「皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた」
昭和天皇にとって、国民よりも国体のほうが大切だったのです。
では、国体護持とは何か?
『昭和天皇独白録』に、終戦の「聖断」に踏み切るにあたって決心を左右した要件として、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない。これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた」と昭和天皇は述べています。
三種の神器がなければ国体が護持できないと、昭和天皇は考えていたわけです。
東京裁判によって、開戦に天皇の責任はないが、終戦は「陛下の御仁慈」によるものだという神話が作られたわけです。昭和天皇は東京裁判を肯定、賛美しました。
3 敗戦の責任
梯久美子『百年の手紙』に、昭和天皇、皇后が皇太子に出した手紙が引用されています。
昭和天皇の手紙(昭和20年9月9日)
「戦争をつづければ 三種の神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」
「三種の神器を守る」=国体護持です。
マッカーサーには「戦争に関する一切の責任はこの私にあります」と言ったとされますが、皇太子には敗因を軍人のせいにしています。
「敗因について一言いわしてくれ(略)軍人がバツコして大局を考えず 進むを知つて 退くことを知らなかったからです」
昭和天皇は「こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ」(徳川義寛『侍従長の遺言』)と言っています。
「我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、(略)将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う」(木下道雄『側近日誌』)
4 GHQと昭和天皇
① マッカーサーの狙い
『マッカーサー回想記』に、昭和天皇がマッカーサーと会見した際に、「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と言ったので、マッカーサーが感激したことが書かれてあります。
豊下楢彦氏によると、昭和天皇は「この戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたい」と言ったと、マッカーサーが東京裁判の主席検察官キーナンに語ったと、田中隆吉元陸軍少将は書いています。ヴァイニング夫人や重光葵もマッカーサーから、昭和天皇が「責任はすべて自分にある。全責任を負う」と語ったと聞かされています。
ただし、『マッカーサー回想記』には、数々の「誇張」「思い違い」「まったく逆」があるそうで、昭和天皇が本当にこのように発言したかは疑わしいそうです。
通訳をした奥村勝蔵の手記した会見記録によると、天皇の戦争責任にかかわる発言は
「コノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」とあり、「全責任を負う」という発言は見られません。
マッカーサーの意図は何か、豊下楢彦氏はこのように説明しています。
「極東諮問委員会の代表団や『ライフ』誌、NHKなど〝表舞台〟においては、自分は戦争に反対であったが軍閥や国民の意思に抗することはできなかったとの「天皇発言」が活用され、だからこそ天皇に戦争責任はなく免訴されるのが至当である、とのアピールが展開された。他方〝裏舞台〟においては、戦争が自らの命令によって行われた以上は全責任を負うとの「天皇発言」がキーナンや田中隆吉に〝内々〟に伝えられることによって、天皇を絶対に出廷させてはならないという両者の決意と覚悟が固められ、〝法廷対策〟におちて見事な成果がもたらされたのである」
「戦争に反対だった」と「戦争の全責任を負う」という相反する「天皇発言」を、マッカーサーは「東京裁判対策」として駆使しました。つまりマッカーサーは、昭和天皇の戦争責任の回避と日本の占領統治のための天皇の政治利用を意図したのです。
② 昭和天皇の狙い
昭和天皇がマッカーサーと何度も会見した狙いは、自らの戦争責任の回避と日米安保体制の確立であり、マッカーサーと利害が共通していました。
戦争責任については、自らの意図に反する形で宣戦の詔勅を利用したと東条や軍部を非難し、自分は平和主義者だと強調した。そして、東条らに全責任を負わせ、昭和天皇を不訴追にした東京裁判を肯定、賛美した昭和天皇は、マッカーサーに「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と謝意を述べています。
日本国憲法はアメリカの押し付けだと否定する人がいます。しかし、憲法がマッカーサーによって「押し付け」られなければ、憲法改正作業は英米中ソを含む連合諸国11カ国で構成される極東委員会が担うことになり、天皇制が廃止された可能性もあると豊下楢彦氏は指摘します。
「この会見の歴史的な意義は、天皇によるマッカーサーの「占領勢力」への全面協力とマッカーサーによる天皇の「権威」の利用という、両者の波長が見事に一致し、相互確認が交わされたところに求められるべきであろう」
5 日米安保と昭和天皇
日本の安全保障について、昭和天皇は米軍による防衛の保障をマッカーサーに求めています。
昭和天皇は第四回会見で「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と発言した。
それに対して、マッカーサーは次のように答えた。
「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である。自分はこの為に日本がなるべく速やかに国際連合の一員となることを望んでいる。日本が国際連合において平和の声をあげ世界の平和に対する心を導いて行くべきである」
マッカーサーのほうがまともなことを言っているように思います。
「天皇メッセージ」という文書があります。1947年(昭和22年)9月、アメリカによる沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。
https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
「メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています」と、沖縄県公文書館のHPにあります。
米軍が沖縄の軍事占領を25年ないし50年ないし、それ以上にわたって継続してくれることが、アメリカの利益になり、また日本を守ることにもつながるという提案を昭和天皇が申し出ているのです。
昭和天皇は新憲法施行後も能動的君主として政治に介入しています。
1951年(昭和26年)9月にサンフランシスコ講和条約・安保条約が調印されて10日後に行われたリッジウェイとの第三回目の会見で、昭和天皇は「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約(講和条約)が締結された」と喜ぶとともに、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」と述べた。
この講和条約は、第三条でアメリカによる事実上の沖縄支配が規定され、第六条で二国間の駐留協定の締結を認めることによって安保条約が根拠づけられ、十一条で東京裁判の結果を日本が受諾したことを明記している。
旧安保条約の内容は、日本には米軍に基地を提供する義務があるが、米軍の日本駐留はあくまで権利であって、米軍には日本防衛が義務づけられていない一方で、米軍には日本の内乱に介入する権利がある。
さらに、米軍は日本の基地を利用することができるが、基地については提供地域が特定されない「全土基地化」の権利が米軍に与えられている。
また、米軍には事実上の「治外法権」が保証されている。
そして、この条約には有効期限が設定されておらず、失効には米政府の承認を必要とする。
しかも、米軍の駐留はあくまでも「日本側の要請」に応えるアメリカが施す「恩恵」とされた。
アメリカとしては、占領期と同じように米軍が日本に駐留し、基地や国土を自由に使用できる権利を確保することが目標だったが、昭和天皇はダレス国務長官に「衷心からの同意」を表明している。
これだけの不平等条約である安保条約を、昭和天皇は吉田茂に圧力をかけて「自発的なオファ」による米軍への無条件的な基地提供という方向にさせている。
「独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである」と豊下楢彦氏は説明しています。
「松平康昌が「一番協力されたのは陛下ですよ」と述懐したように、占領協力に徹することによって、戦犯としての訴追を免れ、皇室を守り抜くことに成功したのであった。戦後直後の危機を切り抜けた昭和天皇にとって、次に直面した最大の危機は、天皇制の打倒を掲げる内外の共産主義の脅威であった。この脅威に対処するために昭和天皇が踏み切った道は、「外国軍」によって天皇制を防衛するという安全保障の枠組みを構築することであった」
戦前においても、田中義一首相に、小選挙区制が導入されることによって無産政党が議会に進出できないような体制になると、逆に直接の行動をとるなどかえって不安定になる、合法的に議会に進出させておくほうがかえって安心ではないかと問うています。
「内乱への恐怖」を持ちつづけた昭和天皇は、ソ連や共産主義を恐れ、天皇制を守るためにアメリカの庇護をアメリカ側に訴えたのである。
「要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである」と豊下楢彦氏はまとめています。
国体護持のために終戦の決断をしたように、安保という国体を維持するためにさまざまな働きかけを昭和天皇はしている。
朝鮮戦争の時、マーフィー駐日アメリカ大使に次のように訴えた。
「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日本人の世論にどのような影響をもたらすのかを憂慮している。(略)
日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している」
1955年(昭和30年)8月、重光葵が訪米する前の発言。
「陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」(『重光葵手記』)
1958年(昭和33年)10月、マケルロイ国防長官に。
「強力なソ連の軍事力に鑑みて、北海道の脆弱性に懸念をもっている」
キューバ危機が終息した1962年(昭和37年)10月、スマート在日米軍司令官に。
「世界平和のためにアメリカが力を使い続けることへの希望を表明した」
内外の共産主義が天皇制の打倒を目指して侵略してくるであろうという恐怖感、こうした脅威を阻む最大の防波堤が、昭和天皇にとっては米軍の駐留だった。
「天皇にとっては、東京裁判と安保体制は、「三種の神器」に象徴される天皇制を防衛するという歴史的な使命を果たすうえで、不可分離の関係にたつものであった」
6 戦後政治と昭和天皇
昭和天皇は日本の政治家にも自分の考えをきちんと伝えており、「政治的行為」をしています。
天皇は「人間宣言」の修正案に対して、「天皇を以て神の裔なりとし」と訂正されたことに不満を漏らしており、現人神であることは否定しても、神の子孫であることまでは否定していない。
大日本帝国憲法の改正にあたり、松本試案に対し、松本烝治に意見を述べている。
「万世一系」に信念を持っていた昭和天皇は、大日本帝国憲法を根本的に変える必要性を認めておらず、天皇の憲法認識は日本国憲法とはほど遠かった。また天皇は、木下道雄に自らの信条(「物事を改革するに当たっては反動が起きないよう緩やかに改革すべきこと」「宮内府改革の一環である人員削減については緩やかに行う方が良い」)を片山哲首相に伝えるよう依頼をしている。
首相や閣僚が天皇に対して国政の報告を行う内奏は、戦後も続き、芦田均外相は、新憲法になり、天皇が政治に立ち入るような印象を与えるのはよくないと書いているhどです。
警察官が射殺された白鳥事件に共産党が関与していると疑われた事件に対しては、国家地方警察本部長官に進講させています。昭和天皇は革命を恐れていたのです。
半藤一利「昭和天皇という方は、お気の毒なくらい、自分の地位がおびやかされるんじゃないかと、いつも不安に思っておられました」
7 昭和天皇の退位
敗戦後、皇族が積極的に昭和天皇の退位について発言をし、皇太后も退位すべきだと考えていました。もしも退位したら、皇太后が摂政になるかもしれないことに、昭和天皇は恐れを抱いたそうです。
御厨「兄弟や皇族との関係も含めて、昭和天皇は何度もそういう修羅場をくぐってきた。しかもそのたびに勝ち残っているんだから、そのサバイバルな強さって、なまはんかはものではないですよ。なかなかの策士です」
戦後、ブラジルの日本人社会では、日本は戦争に負けたことを認める負組と、日本の敗戦を信じない勝組に分かれ、両者は争い続けました。
高木俊朗『狂信』にこんなことが書かれています。
高木氏が負組の指導者に「そこまで、たくさんの日本人が、日本の戦勝を信じ、その上、長い間、その信念を変えなかったというのは、原因はなんでしょうか」と尋ねると、このような返事が返ってきました。
「その根本は、天皇崇拝、皇室中心主義のためでしょう。戦争後の天皇陛下の地位が変わったことや、母国民の陛下に対する考え方の変わったことは、勝組の人たちには、まったく理解できなかったのです。神様天皇が人間天皇になられたといっても、本気にできないわけです。これが、日本の実情を理解できない一番大きな障害でしたな」
勝組の人たちはやはり日本は負けていないと断言する。
「天皇がいる限り、日本は負けない、というのだ。敗戦ならば、天皇は責任をとり、生きているはずがない、と信じていた」
たしかにそのとおりです。
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