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  平良 均さん教育がおかしくなっている
          ゆとり教育から「教育基本法」改正へ」

                          

 2007年3月24日

 平良と申します。小学校の教師をしています。昨日、担任していた六年生を卒業させて、一区切りついたところです。子どもたちのいろんな様子を見ていて、社会の中で教育がどうなっているのかなあと強く感じることがあります。私が勤めている学校だけでなく、もうちょっと広い視野で考えていくと、いろんな問題がからみ合い、つながっていると感じています。
 たとえば、教育のいろんな話題がニュースなどでも取り上げられています。今朝のニュースを見ていたら、「国民投票法」に関係して公務員に対する罰則規定を設けよう、ということが自民党の案として出されていると言っていました。公務員が政治活動したら罰則を与えるといったことを法案に盛り込もうということです。なぜかというと、公務員、たとえば学校の教員は子どもに対する影響が非常に大きいので、歯止めをかけようということだと、ニュースでは説明してました。だけど、ちょっと違うんじゃないかなという印象を私は受けたんです。今日はそうしたことを話させてもらえたらと思っております。

  1,受験

 私の娘も私立中学の受験をしまして、何とか合格したんですけれど、東京では今年、私立中学の受験者数が増えて、うちの学校でも約半数が私立を受験しました。ここ数年は三分の一ぐらい受験しています。その中でも今年は私立への受験が過熱化してるなあと。
 東京では二月一日から私立の受験が始まるんです。早い子は一週間前から学校を休んじゃうんですよ。二、三日前から休む子は普通ですね。ひどい子は一ヵ月前から受験のために休むんです。そうやって準備しますから、二月一日にはクラスの半分がいない状態になります。

 今年はみんながいいところを狙って受験したので、失敗する子も多かったんですね。受験も地域差があるんです。全国では6.7%しか私立中学に行ってないそうですけれど、都市部では受験の過熱化が激しくなっていて、東京では約25%、大阪で約10%です。

 受験の準備は小学校四年生から始める子が多いですね。五年生だと「遅い」と言われるんですよ。早い子だと一年生や二年生からやってます。でも、一年生に「中学校はどこに行きますか」なんて酷な話だと思うんですけどね。

 私立に行くことがいい悪いではなくて、進学に対する見方、考え方が複雑化してるなと感じています。以前はどちらかというと、大体は公立に入って、私立は滑り止めということだったでしょう。
 私が子どものころも、頭のいい子が麻布中学へ行って東大を狙うということはありましたよ。ところが最近は、力があって受ける子だけではなくて、受験する子のすそ野が広がっているというのですか、東京は私立の学校が幅広くあるので、無理しなければどこかには入れるんですよ。

 私立と公立のどこが違うかと言うと、私立は子どもが等質なんです。試験を受けて同じレベルの子が集まっています。だから、どの子に対しても同じ対応すればいいので指導しやすいんだけど、公立の場合はいろんな子が入ってきます。家庭環境が違う。性格が違う。親の経済面が違う。荒れてる子がいれば、真面目な子もいる。できる子がいれば、できない子がいる。いろんな条件を抱えた子が集まってきている。一人一人の問題が複雑になってきているということがあると思うんですね。だから、一人一人にあたる労力は私立よりもたくさんいるんですね。

 どうして受験が過熱しているかを考えますと、公立に対する信頼というですか、保護者の間で公立に対する見方が変わってきたということがあります。公立中学に行くとイジメがあるだろうとか、学力が低下しているんじゃないかという不安を親も子どもたちも持っている。公立に行くのは心配だから私立へ、という不安感から受験する風潮が広がっているんです。

 塾の影響も大きいですね。小学校が進学指導することはほとんどありませんから、お母さんたちが塾の話で子どもの進学を考える。
 進学塾の保護者会に行くと「公立中学に行くと高校や大学の受験で苦労しますよ」とか、「最初から高いところに行って、もっと上を目指すことを早めにしたほうがいいですよ」という言い方で、受験のシステムに乗せていこうとするわけです。ある意味、親の不安感を煽り立てることで受験産業や教育産業が栄えているわけです。

 春先になると塾の広告が来ますよね。どこの中学に何人入ったとかチラシに書いてあるでしょう。広告に学校の名前をたくさん載せたいから、塾としてはとにかく「偏差値の高いところを受けてください」と指導するんです。志望校に合格して受験が終わってる子にも、宣伝効果をあげるために、塾が「あと三日あるので、こことここを受けてください」と言うんですよ。塾も競争してますから、子どもを獲得するために一生懸命です。

 それと、社会が格差を広げて、勝ち組、負け組になってる中で、もろにその影響を受けているのが教育だろうと思うんです。お父さんお母さんの仕事もリストラなどで先が不透明で、将来設計ができないという不安がある。そんな中で、子どもにお金をかけることが一つのステータスになってます。とにかく小さいうちからお金をかけて、親が考える路線に乗せてしまう。そうやって子どもに投資することで親も将来的に自分に何かが返ってくる、という考え方があるんですね。

 親の経済力が子どもの成績に影響しているんですよ。少子化と言われていますけれど、一人っ子とか二人とかいった兄弟が少ない子のほうが受験する率は高いですね。四、五人子どもがいたら、私立に行かせるといってもお金がかかりますから、全員行かせるわけにはいかない。教育にどれだけお金をかけられるかということが、受験と関わっています。
 教育にかけるお金は公立と私立とではどれくらい違うのかというと、公立の中学校で一年間に46万8773円、私立だと127万4768円、約三倍かかるらしいです。
 子どもを私立にやりたいと思っても、塾などの受験にかけるお金プラス私立の学費を払える経済力がないと、よっぽど頭がよくて、特待生で入って授業料免除にならないかぎりは厳しいというところがあるんですね。

 東京都は都立の中高一貫校を作っているんです。日比谷中高とか十校ぐらいあるのかな。少しでも安くあげようと思うと、そういう公立の一貫校を狙うんですけど、倍率が30倍とかだからとにかく難しい。国立はもっと倍率が高いですから厳しい。ほとんどくじで当たるようなものです。

 ところが、それだけお金を使って、じゃ何のために私立を受験するのかというと、親も子どももわかっていない。どこを見ているのかというと、学校の名前とか偏差値や大学の進学率といったところで学校を選んでいるんですよ。何か目的を持って受験する子はほとんどいないです。

 私の娘は小学校三年生から少年野球をやってて、公立中学にはソフトボール部がないし、野球部に女の子は入れませんから、ソフトボール部のある中学を受験させてくれと言ってたんです。私の娘みたいに、やりたいことがあって受験するという子ももちろんいますよ。サッカーの強い学校に行って活躍したいとかいう子はいますけど、珍しいパターンです。そういう子は少ないですね。
 公立に行きたくないから受験する。大学進学に有利だから私立を受ける。そういう損か得かというところで学校選びをするという風潮があるんですね。では、それが子どものためになっているのかということが、今日一番お話したいところなんです。

  2,学力

 最近、私が気になるのが学力の二極化現象です。何を学力とするかということも問題なんですけど。
 今までだと「大変よくできる」「ふつう」「もう少し」の三段階だったら、できる子が少なくて、できない子も少なくて、中間の子が多いという形で、グラフにするとひとこぶラクダというか、山形になってたんです。

 ところが、最近は違うんです。勉強がものすごくできるか、わからないかのどっちかという子がほとんどで、中間層があまりいません。90点以上の子がたくさんいるかと思うと、20点とか30点という子も大勢いて、その間があまりいない。Uの字みたいなグラフになるんです。家庭環境の違いだとか、教育にどれだけお金をかけるかといういろんな条件が重なっているとは思うんですけど、学力の格差が非常に大きくなっています。

 できる子は学校で教わることは全部頭に入っているわけです。そうすると、その子たちは教科書なんてほとんどわかってますからね、学校がだんだん面白くなくなってくるわけです。じゃ何をするかというと、授業とは別のことを始めたり、先生をバカにしたりということになるわけです。
 それならというので、できる子に合わせると、わからない子は置き去り状態になる。だから、そのへんを何とかしようと、算数は習熟度別と言って、早く進む子とゆっくり・じっくりコースとか、いろいろやっているんですけど、それですら追いつかない状態なんです。二極化が子どもの様子にもかなり表れているということがあります。

 小学校では二極化現象はまだそんなに目立たないかもしれないけれど、中学高校になってくると、かなり顕著になってきているんですね。クラスの中で学力の違いが出てくるのは小中学校までで、高校は偏差値で行く学校が決まってきますから、学校単位で学力の差がついています。ある程度偏差値の高い学校は学校として授業が成り立つけれど、定員割れしている学校だと授業が成立しない場合もあるんですね。

 定員割れになっている高校では、試験を受けて不合格になっても繰り上げ合格で入ってくる子がいるんです。真面目に勉強しようという子もいるんですよ。だけど、何となく入った子が授業を聞こうとしないで勝手なことをやっちゃうと、学校自体が成り立たなくなってくるという現象があるんです。
 先生の話なんか誰も聞いていないというんですよ。ケイタイはやっている。女の子は化粧してる。おしゃべりしてる。とにかく先生たちは一時間の授業を過ごすのが針のむしろみたいなものです。精神的な病気にかかる先生もたくさんいます。

 東京都は学校間により格差をつけようとしているんですよ。いわゆる進学コースの学校と中間クラスの学校とそれ以下の学校と。それはなぜかというと、私立に負けないように都立高校に優秀な子を集めて、エリート養成学校を作ろうとしているんです。逆に学力のない子が集まる学校でも、設備だけは整える。工業高校なら一流の設備で手に職をつけさせようと学校づくりをしている。
 そうすると、授業が成立しない学校、何となく成立しているけど進学は危うい学校、エリートコースで東大を狙う学校、という格差ができてくる。そういう格差をわざとつけようとしているわけです。格差が広がることは教育の本来の目的からいうとおかしいはずなんですけど、それを個性に応じた教育といっているんです。

 できる子とできない子という分け方をして、格差をつけようとしている。これは非常に問題だなあと思ってます。

  3,子どもたち

 子どもたちに自己肯定感があまりないんですね。自分に自信が持てないという子が結構多くなっています。これは偏差値の影響も大きいと思います。四年生から受験するんだという感じになって、友達同士で同じ塾に行ってますから、五年、六年となると偏差値がどうだとかいう話になるんです。

 まずいなと思うのが、塾の席順が成績順になっているということなんですね。塾は完璧に成績主義で、びっくりしたのがクラスの中の座席が成績順になってるそうなんですよ。まずテストでクラス分けされ、クラスの席も決まる。自分がどこに座っているかで、あいつより下か上かがわかっちゃう。非常にシビアな世界になってます。
 ですから、塾の席順がそのまま学校での上下関係になるんですね。ある子は「おれは天才だ」と自分で言ってるんですけど、人を見下すみたいな風潮がすごくあって、友達に対して序列化をする。自分はあいつより上、こいつより下みたいなね。「お前、こんなものもわからないのか。バカじゃないか」というふうに決めつけてかかっている子どもが出てきて。イジメもそういうところが原因の一つになっているのかなと感じるんですね。

 自信がないということとつながると思うんですけど、今の子どもは友達とのやりとりはほとんどケイタイのメールです。学校に来ている時はあまり話をしなくても、家に帰ってからのメールのやりとりがすごくあるようなんですね。会って話せばいいと思うんですけどね。
 メールではつまらないやりとりしていると思うんですよ。情報交換なんでしょうけど、中にはイジメにつながるものもあるんですね。全部が全部というわけではないんですけど、メールで中傷したりすることがあるんですよ。仲間内の秘密がメールのやりとりの中でまわっていくんです。誰が出したかわからないメールが入ってきて、本人は知らないことがその子の名前で出回ったりとか。だから、イジメが学校で見えないんです。指導してるけど、学校だけでは手がつけられないというか。

  4,親

 価値観が多様化してきて、学校に頼らない親が増えています。自分の子どもはこういうふうに育てたい、という教育観を持っているお母さんたちがかなり多くなっているんです。学校に対する不信感もあるんでしょうけど、このままでは子どもが、ということなんでしょうね。

 たとえば、小学校は義務教育だから楽しく行ってくれればいい、勉強は塾でやればいい、公立ではなく私立の中学へ、というように路線が決まっている。
 保育の段階からそうなんですよ。自主保育というのがすごくはやってるんですね。自分の子は自分たちで、ということです。お母さんたちがグループを作って、子どもを幼稚園に入れずに、公園に連れて行ったりとか、日本語を使わないで生活するとかして、お母さんの考えで子どもを育てようとするんですよ。それはそれでいい面はあるとは思うんですけどね。

 授業崩壊になった時でも、親としては「みんなで何とかしましょう」というのではなく、「先生を代えろ」となるんですよ。だから、先生が板挟みになって悩むわけです。校長はどっちかというと保護者の意見を聞かざるを得ない。

 親と先生とは価値観や教育観がどうしても違うから、ギャップは必ずあるんですよ。ぶつかる時はぶつかるし。
 だけどそういう時に、教師は教師としての考えをしっかりアピールしておかないといけない。教師としての魅力があるかどうかも大切ですけど、「こういうことで指導しています」とはっきり言えるか言えないかですね。
 そのへんが曖昧で、こっちから言われると「そうですね」、あっちから言われると「それもありますね」とやってしまうと、もうクラスの中がおかしくなってしまう。

 保護者には「嘘でもいいから先生の悪口を子どもに言わないでください」と頼んでいるんですよ。「言いたいことがあったら、直接言ってください」と。よくしようと思ってお互いが努力すればいいんだけど、子どもに先生の悪口を言うと、子どもが先生の言うことを聞かなくなる。先生の言うことを聞かないと、絶対によくはならないですから。「学校でそうなったら、家庭に返ってきて、家でも同じことになりますよ」と言っているんです。

 三年生ぐらいまでは保護者会に親御さんが集まるんだけど、四年生から五年生になると急に減るんです。塾とかにお金がかかるようになると、お母さん方がパートに出たりして、みんな働きに出るんですね。
 そうなると、子どもが学校から帰ると、お弁当が作ってあって、それを食べて塾に行く。ほとんど親と子供とが顔を合わさないなんてこともあるんですよ。

 それは家族だけの問題ではなくて、地域の持つ力も弱っているんですね。地域のつながりというか、共同体の持つ力がなくなっているように感じます。たとえば、よその子どもに声をかけられない状況があるんです。子どもたちに声をかけると、「おはようございます」と言ってくれるんですよ。だけど、不審者とか思われますから遠慮するとかね。
 安全のことに学校も地域もおびえて、過剰反応しているところはありますね。人を信用するということがなくなっている。学校でも五秒ごとに画面が変わる監視ビデオをつけていますし、子どもの学校への送り迎えでも神経質になりすぎていると思うんですよ。

 様々な情報が飛びかう中、親も不安を抱えてどうしたらいいのかわからないと悩んでいるのが今の状態です。

  5,教師

 教師の中途退職者が多いです。特に若い人。先生になりたくて新卒で先生になった人が、一年保たないんですよ。いろんなことが忙しすぎるし、学級の掌握ができなくなるんですね。
 任用制度というのがあって、一年間は任用期間なんですけど、一年間のうちで欠勤をすると退職です。ある程度やって力がないとなると、途中でやめちゃう。今まで新卒で退職することはあんまりなかったんですけれど、今は新卒の先生のほうが危ないんです。

 精神疾患にかかっているとか、カウンセリングにかかっている先生も非常に多いですよ。力のない先生じゃないんです。力のある先生なんですよ。「えっ、何で」という先生が突然ウツ病になったり、自殺したりとかいう例があるんですね。
 自信がある先生ほどだめなんですよ。状況に対応できないんですね。実績があって、生徒から慕われていた先生ほど、子どもがみんなそっぽ向いたら、今まで自分がやってきたことが何だったのかと悩んで、ウツ病になったりするんです。

 おまけに、職場の中で相談する人がいない。みんな忙しくてあっぷあっぷしてるから、悩みを聞いてあげることができないんですね。

 学校の先生が忙しくなった原因の一つとして、「数値目標を上げろ」とよく言われるんですね。たとえば、東京都では学力一斉テストが行われています。これはあとでお話ししますが、学校間の格差とも関係しているんです。

 とにかく報告書の類が多いんですよ。たとえば、今は外部評価というのがあって、地域の人が学校をどう見ているか、アンケート用紙を配って、学校のここがいいとか悪いとかを書いてもらうんです。
 校長としては自分の勤める学校を人気校にするためにとにかく目立つこと、話題性のあること、教育委員会のお眼鏡にかなうことをやろうとします。英語に日本語、福祉教育(老人ホームの慰問など)、キャリア教育(子どもに働かせる体験をさせる)、パレード(商店街のお祭りにも休日参加)、地域ともちつき会、盆踊りなど。地域住民や保護者からよく見られればいいということなんですね。
 アンケート用紙を集めて、結果を集計して、説明する。若い人なんかいつも遅くまで書類を作ってます。5時に退勤になってすぐ帰る人はまずいません。要領のいい人は7時ごろで帰れますけど、若い人は毎日9時すぎですよ。パソコンをカチャカチャやってます。

 本来だったら教材研究とかするところを報告書作りしないといけない。これじゃ、いつ授業の準備をするのか。こんなことに時間を取られていたんじゃ、若い先生が勉強したり、一人一人の子どもと関わっていく時間がなくなってしまうので気の毒な気がします。

  6,「教育基本法」改正

 何で学校がそんなふうになったのかということなんですけれど、昭和44年に学習指導要領が改訂になりました。高度経済成長だったので、学習指導要領にしっかりたくさんのものを増やしたんですね。教育の現代化といって、それこそ詰め込み教育。この時期の学習指導要領で勉強した子どもたち、今の親の世代が受験戦争といって、詰め込み教育で「受験、受験」と言われた世代ですね。

 「受験、受験」じゃまずいのではないかということで、ゆとり教育を昭和52年に始めたんです。その時に、一、二年生の社会科と理科をなくして生活科というのができました。覚えるよりも自分で見つけたり気づいていくことを大事にしようということですね。

 で、平成10年にまた変わったんです。これもゆとり教育といって、生きる力、自己教育力を育てようということです。この時に週五日制になったんです。総合的な学習というので、時間数が減って、教育内容が三割削減になりました。
 その影響が一番顕著に出たのが理科です。カリキュラムというのは系統がありますね。理科なら生物とか地学とか。それを三割減らすというので、理科が骨抜き状態に削減されて、カリキュラムのつながりがなくなったんです。おまけに実験がかなり減らされて、理科の授業が面白くないというので、理科嫌いが増えたんですよ。そうして、学力の国際比較調査で理科ががた落ちしたんです。

 もっとも、学力が下がったとよく言われていますけれど、あの調査自体かなり問題があって、そんなに学力が下がったわけではないんですよ。数学は変わっていないですしね。ところが、あの調査がもとで、日本は学力不振だ、ゆとり教育のせいだと言われているんですね。

 学力不振が問題だから教育改革をしなければ、と言ってるわけですけれど、じゃ教育改革の中身はと言えば、私たちの考えからすればどうもずれているんでないかなと思います。

 覚えるとか計算とかが実力としてついていないから学力が低下した。それはゆとり教育が悪い。だから「教育基本法」を変えなければ。そういう論理なんですね。
 だけど、学力の低下がなぜ「教育基本法」の改正につながるのか、そこに整合性があまりない。「教育基本法」が悪いから、それを変えることですべてがよくなるんですよ、という理屈にすり替わっているところがあるんですね。

 子どもたちは受験だとかイジメだとか、マスコミで騒がれているような不安定な状態にあることも事実です。ですけど、去年イジメによる自殺が続いて、イジメがワイドショー的に取り上げられました。クラスでイジメがあったから自殺したとか、学校がイジメを隠蔽したといったことが報道されましたね。その時、何でイジメが増えたのか、自殺したのかというと、公立の学校が悪いからだ、というすり替え報道がかなりありました。
 それとか、文部科学大臣に「僕は自殺します」という手紙が届いたということがありましたよね。私の町でも自殺予告の手紙が投函されたので、警察から小学校に「心当たりはないか」という電話があったんです。それで、文部大臣から各小学校に指導しなさいと言う文書が出たんですよ。これは異例ですよ。

 そして、ちょうど同じころに「教育基本法」改正も並行して言われていたんです。何とか教育を立て直さないといけない。そのためには何が必要か。それは「教育基本法」を改正することだ。改正すればイジメはなくなる。そういう流れがありました。
 ところが、「教育基本法」の改正が12月にあって、そのとたんですよ、イジメのニュースが減ったのが。マスコミはイジメ問題で騒いでたのに、「教育基本法}が改正されたとたんにぱたっと違うニュースに変わったんです。それは意図的なものなのかどうかはわかりませんけど、私なんかは怖いなと思ったんですね。

  7,新旧「教育基本法」の違い

 「教育基本法」が改正されましたが、どこが変わったのか、みんなあまりわかっていないと思うんです。新しい「教育基本法」は児童の学力を何とかしようとか、イジメをなくそうというところに主眼があるのかというと、内容的に見ていくと、そういうことはあまり書いてない。「教育基本法」には学力とかイジメのことは出てこないんですね。
 なぜなら「基本法」ですから、あくまでも外枠というか、教育のあるべき姿はこれだということを示すのであって、憲法に近いものです。これをしなさいというものではなくて、理念なんですね。

 今回の「教育基本法」は、公的なものにもっと教育の中心を持ってこないといけない、お国のために自分はあるんだというような、公とか伝統とかがクローズアップされているのが特徴だと思います。

 たとえば、今までの「教育基本法」の前文は、
「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」
となっています。改定されたほうは、
「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」
と変わっています。

 今までの「教育基本法」では「教育は、人格の完成をめざす」とあって、一人一人の個人を人間として大切にしていかなければならない、ということがうたわれていました。改正された「教育基本法」でも「人格の完成」ということは言われていますが、個人よりも「公」的なものに対する意識、国民としての「資質」という言葉がたくさん出てくるんですね。もちろん「個人の尊厳」とか「個人の価値」などの今まであった言葉も出てきますけど、その中に「必要な資質」とか「公の」という言葉がかなり出てきます。

 聞いていると当たり前のことだと思われるでしょうし、当然大事なことでないかと私も思うんです。これは最近の若者を見ているとわからないでもないんですよ。悪しき個人主義というかね、クラスでも自分さえよければいいのかという状況があって、集団としての規律というか、規範意識が希薄になっていると言われたら、たしかにそういう面もあるんですね。だから、何とかしなければいけないという気持ちはあります。
 だけど、それが文章化されて、「公」のために何かをする「資質」を身につけさせることが教育の目的であるとなっている。じゃ、その裏側に何があるかをよく見ていかないと怖いなとも思うんですね。

 一つ一つのことがらをたどっていくと、戦前に復古的な内容だし、戦争ができる国に戻そうというしている動きがあるんじゃないか、そうしたことを真剣に考えている人がいるんだろうと感じるんですね。

 ある区では来年度から日本語という教科が始まるそうです。「美しい日本語を○○区から」がフレーズなんです。国語とは違うんです。日本語と国語とどう違うのか、教科書を見たことがないから、我々もまだわからないんですが。
 言葉を美しくするための指導なのかなと思ったら、そうじゃなくてさっき言った伝統とか文化の強調なんですよ。二年生が「子曰わく」と『論語』の勉強をしていました。日本語が乱れているから何とかしようということならわかりますが、それが何で『論語』なのか、『平家物語』なのか。江戸時代の武士がたしなみとして小さい時から『論語』の素読をするということがあったじゃないですか。古典に親しむことで伝統と文化を大切にということなんでしょうね。
 音楽の授業でも、最近は琴を弾いたり和太鼓を叩く、尺八を吹くとかいうのが増えたんですよ。悪いことではないとは思うんですけど、今どうしてかなと。

 安倍さんが『美しい国』という本を書きましたよね。「美しい」とはそういうことを言うのかなあと。違うと思うんです。それより宗教的情操を養う物語を読むほうがいいと思うんですけどね。

  8,教育改革

 イギリスやアメリカもサッチャーさんとレーガンさんの時に新自由主義といって、教育改革をやりました。安倍首相はイギリスやアメリカの教育改革にならって、日本でも教育を改革しようと考えているわけですね。

 イギリスは日本のシステムと違って、教育委員会はないし、学校単位で教科書を決めたりして、学校間の格差がひどかったんです。それを日本の学習指導要領みたいに、これを教えなさいというものを作って、教育改革をやろうとしたのがサッチャーさんの教育改革です。どういうことをやったかというと、全国学力テストや、テストの成績に応じて予算配分する、学校の選択制といったことなんですね。

 アメリカはどうかというと、アメリカは識字率がかなり低いんです。貧富の差が激しく、字が書けない、読めないという人が多い。このままでは国の教育として成り立たないから教育改革をしなければいけないということで始まったんです。

 じゃ、新自由主義という教育改革は何かというと、個性を伸ばすという名目で、格差はあってもいい、伸ばせる子は伸ばす。できる子とできない子を階層化する。そういう教育改革なんですよ。

 教育再生会議が行っている提案もイギリスやアメリカと同じような内容なんです。全国学力テストが4月からに行われます。これは以前にやっていたんですけど、いろんな問題が出てきて、結局中止になったんです。

 ベネッセの教育情報サイトにこんなことが書いてありました。
「小・中・高校生を対象に「全国学力調査」(1956~1966年)が行われたことがあります。この時、都道府県別の平均点などが報道されてしまったため、各地で点数競争が過熱しました。テスト対策のための勉強が行われたのはもとより、なかには成績のふるわない子どもを欠席させたり、試験会場で答えを見せたりした学校さえあったといいます。そのため激しい「学力テスト(学テ)反対闘争」が起こり、社会的にも大きな混乱をもたらしました」
 それを再びやろうとしているわけです。今回の全国学力テストは、「学校間の序列化や過度な競争等につながらないよう十分な配慮」がなされるらしいですけど、無理ですよね。

 教育再生会議は学校にも競争原理を導入して学区制を撤廃し、生徒数の多い学校に多くの予算を分配するといった提案をしています。そうした文部科学省や教育再生会議がやりたがっていることを、実は東京都では先取りしてやっているんですよ。

 東京都のすべての公立小中学校が同じ学力テストを行い、このテストによって○○中学は平均点何点、××中学は何点と新聞に出ますからね、公立小中学校の序列がつくわけです。さらには、平均点によって予算の配分が違ってくるんです。いい学校には予算をたくさんつける。テストの成績がよければ子どものこづかいを増やすけど、悪い点数だったらおこづかいはなし、なんてことを東京都がしているわけです。
 おまけに区によっては進学する中学を選べるんです。世田谷区では自分が住んでいる学区の中学に行くんですけど、品川区や杉並区では中学を選択できるんです。そうなると、中学校の平均点がわかるわけですから、いい学校にみんな行かせようとするわけです。特定の中学に集中してしまう。品川区は中学校を選択制にしたら、生徒が十人ぐらいしかいない学校と、百何十人いる学校ができたんです。
 だから、校長を初めとして先生方は必死になってやらざるを得ない。点数を上げていかないといけないという厳しい状況に追い込まれていますから、授業も詰め込みになってきた。とにかく結果を出せということになっているわけです。テストの点数をいかに取らせるかになってくると、本来の教育はいかにあるべきかというところから離れていくばかりですね。
 そういうことを考えると、東京がやっていることが全国的に広がるだろうという危惧はありますね。

 じゃ、イギリスやアメリカの教育改革は成功したかというと、学力は向上せず、教育機会格差は拡大し、放校、退学処分者が続出、彼らによる犯罪も増加しているんです。そうして、イギリスの公教育は崩壊したと言われています。

 日本も同じです。中教審の会長だった三浦朱門という人が「できん者はできんままで結構」と言ってるんですよ。「非才無才にはせめて実直な精神だけ養っておいてもらえばいいんです」と平気で言ってしまうということが恐ろしいところですよね。

 さらに教育再生会議では、いじめる子や暴れる子を出席停止にして、学校に来させないようにすべきだ、と提案しています。アメリカでは実際に出席停止が行われたんですけど、学校に行けなくなった子どもたちの行き場がなくなるわけですよ。かえって非行に走ってしまうということになったんですね。そもそも教育の機会均等ということを考えれば、出席停止ということは憲法に反するわけです。
 ぼくらも本当に困ってる時は、出席停止にしたいと思うことも事実ありますし、そのほうが簡単だけど、その子を除外すればすむということをしたら、教育でなくなってしまうでしょう。

 イギリスやアメリカですでに失敗していることをなぜ日本でもやろうとしているのか、そこにどういう狙いがあるのかと思うんですね。突き詰めて行くと恐ろしいことだと思います。
 まとまりのない話になりました。どうもありがとうございます。


2007年3月24日(土)に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)