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高橋 紳吾さん
「なぜ生きているのか?
― 若者がカルトに入信する理由 ―」
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2004年4月8日 |
1、生い立ち
こんにちは。東邦大学の高橋でございます。今朝早く東京を出てきて、四時間もしないうちにこちらに着いてしまいました。非常に便利な時代になりまして、感無量でございます。
私の生い立ちのようなものを簡単に言いますと、呉に生まれまして、父親は公務員、母親はピアノの教師をしておりました。それに母方の祖母が同居しておりました。
祖母は安芸門徒というか、西本願寺の熱心な門徒だったんです。戦後すぐに夫を亡くしまして、女手一つで五人の娘を育てるという、非常に過酷な状況で生活してました。まあ、戦後すぐのころはいろいろあって、みんなが大変な時代だったんですけど。
祖母は念仏者でございまして、そんな中で聞法をし、生活をしてきたわけでございます。
ところが、お西の「そのまんまのお助けだから、念仏していればいいんだ」という教えに飽き足りず、ひょんなことから呉にあります東本願寺の分教会に足を向けたんです。そこで藤原正遠先生の話を聞くにつれて、清沢満之だとか暁烏敏だとかという方の話を、一生懸命真剣に聞くようになったんですね。
祖母がよく言っていたんですけれども、「していは身を知れ。していは世を知れ」と。「してい」というのは、広島の方言で一日という意味ですね。「世を知れ」というのは、世の中のことをよく知れ、つまりちゃんと仕事をしなさいということです。「身を知れ」というのは、教えをちゃんと受けなさいということで、聞法しなさい、念仏を称えなさいと。そして、自分というのは一体何者なのかということをよく知りなさいというふうなことで、そういう生活をしていた祖母でした。
私はおばあちゃん子でして、祖母には非常に影響を受けたということがあります。そんなこんなで私自身、小学校の高学年ごろから高校まで、無理矢理お寺に連れて行かれて、聞法をしたという記憶がございます。
18歳になって将来の進路をどうしようかという時に、一時は医学部に行こうと思って志すんですけれど、挫折しましてね。で、京都の大谷大学の仏教学科に入学して、二年ほど通っていました。
そこで何をしていたのか。勉強してたのかどうかはともかく、仏教にご縁をいただきました。清沢満之先生のお孫さんに当たる暁烏哲夫という先生の哲学の講義を聴いたり、当時学長だった山口益先生の空の理論を勉強したりしてました。
ところが、私の家は寺院ではないから、大谷大学にいても今後どうなるかわからないし、将来の生活のこともある。
また、暁烏哲夫先生が哲学者であり精神科医であるヤスパースの精神病理学の講義をなさってたんです。その講義を聴いて、精神病理学というのは非常に面白い学問だということに気づかされたということもあって、21歳の時に東邦大学に移りました。以後三十年間、ずっとそこにいます。現在は東邦大学で精神科医として働いています。
2、憑霊現象
皆さんはご存じでしょうか。キツネ憑きっていうものがあるんです。憑き物ともいいます。キツネ憑きというのはこのへんではあまりありません。山陰地方に行くと時々ありますけど。
キツネが人を化かすという話、タヌキが化かすとかいう話はよく聞かれると思うんですけれども、関東あたりのお稲荷信仰が盛んなところでは、キツネ信仰というのがあるんですね。それで、悪いことが起こると、あれはキツネが憑いたからだというふうなことを言ったりします。これは江戸時代からあるものなんです。
まさかキツネが本当に悪いことをするわけではありません。真宗の教えの強いところではこういう信仰はないんですけれども、そうではないところでは現代でも憑き物が憑くという迷信がございます。
現代ではキツネが憑くというようなことはなくて、というのはキツネがいなくなったですからね。そのかわり、死んだおばあちゃんが乗り移ってしまうとかいった、これは憑依現象というんですけれども、そういうものが結構あるんです。
こういうことを私が精神科医になって、大学院生の時に研究テーマにしたんです。
ある若い女性が受験に失敗して落ち込んでいる時に、亡くなったおばあちゃんの霊が乗り移って、しかも乗り移ったらどうなるかというと、おばあちゃんの口調を借りて語りはじめるということをしだしたんです。それで病院に運ばれてきたんです、精神科にね。
調べてみると、こういう憑霊現象は昔から日本の風土の中にあったと言われているんです。この霊というのは何かというと、死んだ人の霊ということになるわけで、不思議なことです。
精神科医はこういう症例に対して、霊魂があるとかないとかということでなく、ある種の病として治療することになります。
この憑霊現象は、昔は田舎の教養のない女性がしばしばわずらうものだとされていました。たとえば島根のあたりでは、キツネが憑くといって、嫁姑の問題が起こった時に、嫁にキツネが憑いて「コーン」と鳴いちゃう。そして強い姑さんに向かって「わあー」と文句を言う、ということがあったんです。
こうしたものは一種のヒステリーのような現象だとされていて、文明が進歩すれば憑霊現象というか、憑依現象、キツネ憑きというのはだんだん減ってくると信じられていたわけです。
ところが、このキツネが憑くという現象は江戸時代から延々とつながっているもので、それが現代都市においても実は廃れていないんだということが、我々の研究から明らかになってきました。
そういう都市における憑霊現象、憑依現象を私は研究して、大学院で学位をもらったんです。これが私の宗教病理という学問の始まりでした。
宗教精神病理とも言いますけれど、宗教病理は非常に難しい問題です。宗教というものは日常世界を扱うわけじゃないし、実生活に関係するものを扱っているわけではない。それから聖と俗とか、彼岸と此岸というように、きちんと分けることができるものでもない。異常と正常とを見きわめるのは、実はものすごく難しいことだと言われています。
ところが、もともと精神の病がある人が「自分はイエス・キリストである」とか「自分は阿弥陀如来だ」とか言ってみたり、あるいはある宗教に異常なまでに熱心になって、仏さんの声が聞こえてきたりというようなことが起こるわけです。
こういうものを研究するのが宗教病理です。その中の一つとして憑霊現象、憑依現象を研究したのが、私の研究の始まりということになります。
それで1984年に大学院を出て、88年から89年まで西ドイツのハイデルベルクという、これはドイツでも一番古い大学で、そこで比較文化といいましてですね、ドイツでの憑依現象というものがどういうふうになっているのか、日本のものと比較してみようという研究で、一年間ハイデルベルクにまいりました。
向こうでも、悪魔が憑く、悪魔憑きなんてのがあることはあるんだけれども、先祖の霊が憑くなんてことはないんですね。それから神様が憑くということもないんです。これは不思議なことです。
しかも、憑霊現象を呈する患者さんたちというのは、必ずしも精神分裂病のような精神病ばかりとは限らない。いわゆる慢性ストレスを持った、虐げられた人たちにこういう霊魂が憑いて、その人を救ってあげるみたいなこともあるわけです。
ドイツでは、もっぱら悪魔が憑くということが言われています。これはどうしてかというと、キリスト教はわりと単純な一神教の世界でして、神と悪魔とを対峙して教えますので、自分に何か精神的に不安定なことがあると、悪魔が憑くというふうに解釈するわけです。
ところが、キリスト教では神と人との間に圧倒的な隔たりがあるんです。断絶しています。絶対的に断絶しているものだから、人に神さまは憑かない。神さまが乗り移って、自分が神さまのようになってふるまうということは一切ないんです。その代わりに悪魔が憑く。
悪魔というのはもともと何かというと、キリスト教では天使が転んだものだという教えになっているんです。天使というのは神と人間とを仲立ちするものです。ですから、悪魔は人間に近い。それで人に悪魔が憑くというわけです。
「エクソシスト」という映画がありまして、悪魔に乗り移られた少女を神父さんがお祓いをして清めるなんてことをしてました。
ところが日本の場合はそうではないんです。特に仏教では、キリスト教の神のように、超越者を人間と断絶したものとしてとらえない。仏でも神でも、あるいは先祖の霊であったりするんですけども、人間と並列関係にあって断絶していない。人が仏になることもあれば、神になることもある。死んで祖先の霊になることもある。ということで、その人に困ったことがあったり、トラブルがあったりすると、霊魂が乗り移ってしまう。
そういう違いがあるんではないかということを、ドイツに行って調べてきたんです。
3、カルト問題
これが宗教病理の研究だったんですけど、そのころ心を悩ます問題がありまして、それがカルトの問題です。宗教病理ではカルト問題も扱っているんです。
カルトということ、わかりますか。宗教の仮面をかぶって、詐欺、霊感商法、集団自殺、無差別テロ、児童虐待、家庭崩壊などの問題を引き起こす宗教団体のことです。
統一教会だとかオウム真理教だとか、こういう非常に困った宗教に若い人がからめ取られていって、抜けられなくなってしまうという、そういう問題があります。
西ドイツに行って宗教病理の研究をしているうちに、牧師さんたちが統一教会に入った若者たちをやめさせるというカウンセリングをしていることを知りました。これを脱会カウンセリング、もしくは救出カウンセリングと言ってます。
カルトに入る若者はなかなかやめないんですね。そして、自分の主義主張は正しいと信じこんでしまい、結局は親子の縁が切れて家から出ていってしまう。そういう悲惨な事態が起こっています。
まあ統一教会なんかは自分たちはキリスト教だと言っているもんだから、キリスト教の牧師さんに家族が相談に行く。その相談例がいくつも集まって、どうにかしなきゃならないということから、こういう救出カウンセリングとか脱会カウンセリングを細々とやるようになったんです。
当初は統一教会とか、サイエントロジーというグループがあるんですけど、そういうカルトに入った子供を、強制的にある場所に連れ込んで、懇々と説得する。これがいかに間違っているかということを説得するわけです。
これを逆洗脳と言います。洗脳というのは中国の言葉です。中国共産党が共産主義を教え込むために、ある人の考えてることを全部取り去って、つまり脳を洗ってしまって、共産主義こそ正しいんだと教え込んだのが、洗脳ということです。
それが戦後すぐにアメリカに渡って、ブレイン・ウオッシング、脳を洗う。そして日本に入ってきて、洗脳という言葉が定着したわけです。
洗脳という言葉で思い出しますけど、一昨年の十月に北朝鮮に拉致されてた日本人五人が帰ってきましたね。彼らは北朝鮮で思想改造というのをやられたんです。今まで体験したことのないような体験をさせられて、金日成こそ正しいんだと、日本は帝国主義で、北朝鮮にずいぶんひどいことをしたんだというような教え込みをされる。こういうのを思想改造といいます。
そういうふうに、その人の自尊心を徹底的に奪って、新しい教えを埋め込んでいく、こういう手法を洗脳と言ったり、思想改造と言ったりします。
洗脳とカルトがやっているマインド・コントロールとはちょっと違うんです。カルトのマインド・コントロールというのは、そういうラジカルな方法は使わないで、こっそりとわからないように若い人たちの心をつかまえていくという方法をとります。
今月からは新年度ですが、大学のキャンパスで新入生がいろんなカルト団体から誘われる、非常に危ない時期でもあるんです。そういう意味で、予防しなければいけないということです。
カルトの話をする前に、宗教の問題を宗教病理学のほうから話しますと、戦後すぐに新宗教というものがはやります。新興宗教と言ってもいいんですけど、新興宗教というと、なんか差別用語みたいな感じがあるんで、新宗教と言ったりします。
これは戦後、非常に貧しく苦しい時代に生まれたもので、代表的なものとしては創価学会なんかがそうですね。
これらの新宗教は病貧争をなくすことを目標にしました。病とは病気治療、貧とは貧しさからの脱却、争とは家族のもめごとの解消ということです。
お祈りすれば、病気が治ったり、貧困をなくして豊かになったり、争いごと、嫁姑の問題がなくなったりするんだと教えたわけです。
こういう現世利益を説いて、田舎から都会に出てきた若者を引っぱり込んでいった、そんな新宗教がはやったんです。
この当時も大変な問題があったことは事実です。これまで家にあった仏壇を焼き払ったり、折伏と称して、たくさんの人を強引に連れ込んだりしてお布施をさせるとかいうことがありました。
ところが1980年ごろから次第に新々宗教というのが出てきます。新々宗教は病貧争ではなくて、若者をターゲットにしたんです。
「何で生きているのか」
「何のために一生懸命しなくてはいけないのか」
そういうことを若者は考えるものなんですけど、その答えがつかまえられない。もっとも、こういう問いには本来答えがありません。それを、いかにも答えがあるかのような幻想を与えて引き込んでいき、そして全人生を捧げさせるという、オウムとか統一教会のような危ない宗教が出てきたわけです。
4、宗教病理
そういう新々宗教の背景にあるのが、これからお話しする宗教病理です。カルトの問題の前に、宗教病理の基本を少しお話ししたいと思います。
宗教病理の基本には八つの大きな型があります。まず第一にさっきお話しした憑依。これは二つの型に分かれます。
一つは悪霊が憑くということです。悪霊が憑くもののうち、最も多いのが詐欺のタイプです。
テレビを見てると、時々霊能者という人が出てきますね。霊能者が霊視というようなことをして、あなたには自縛霊が憑いているとか、悪霊が憑いているとか言う。
たとえば、「水子霊が憑いているから落とさなければいけない」と言われたら、不安になりますから、つい信じてしまって、お祓いをするわけです。そうことが日本の低劣なマスメディアでは起こります。
これがカルト問題になってくると、霊感商法とか霊視商法というものにつながっていきます。
霊感商法というのを聞かれたことがありますか。先祖が苦しんでいるから、お布施をしないと幸せになりませんよ、というふうなことを統一教会が言うんです。
先祖はあくまでも子孫の幸せを願っているわけでして、祟ったり、悪霊となって憑いたりするわけがないんだけれども、そういうふうに脅されると、宗教に無知な人は「そうかなあ」と思ってしまうわけです。
1994年、福岡地裁で統一教会問題における画期的な判決が出ました。これは、統一教会の信者たちが福岡市内の高齢の女性二人に「献金しないと先祖の祟りがある」と言って、計三七〇〇万円献金をさせたという事件です。
この事件の判決がおりて、「三七〇〇万円返せ」と、福岡地裁が命令を出したわけです。
こういうのが霊感商法と言います。これに似たのが霊視商法です。
妙覚寺という教団がありまして、名古屋にある末寺の満願寺というお寺の僧二人が詐欺で逮捕されました。
悩みごと相談ということを一回三千円でやってたわけです。一見よさそうですね、お寺で悩みごとを相談してということであれば。
ところが大体どういうふうになるかというと、霊視をして「あなたの身体の中には悪い霊がいる」ということになる。これは詐欺だからそうなっちゃうんです。
最初は一回三千円の相談料だけど、それだけじゃすまなくて、結局悪霊が憑いているからお祓いをしなくちゃいけないということで、一億円も取り上げたわけです。
名古屋地裁は二人の自称僧侶に懲役一年二ヵ月と一年の判決を下しました。悩みごと相談というのを、教団ぐるみの組織的、継続的に行われた詐欺行為と認定したということです。
これと似たような事件として、福永法源の法の華というのがありました。足裏診断といって、足の裏を見るだけで病気がわかると言って、それで何千万円も出させた。これも詐欺として告発されました。これが宗教病理の第一型です
こういう詐欺はよくあるんです。霊感商法の被害者弁連という、霊感商法によって被害を受けた人を救済する弁護士さんたちがいるんですけれど、それによると今でも全国で五百件、七百億円の被害申し立てがあります。
ただこれは悩ましい問題でして、仕掛けたほうが詐欺だと告白しなければ、詐欺罪は成立しないというのをご存じでしょうか。
詐欺を仕掛けたほうが、これは本当に悪霊が憑いていると信じ切っている場合には詐欺にならないという、非常に複雑な問題がありまして、詐欺と認定されたのは足裏診断と満願寺の霊視商法だけなんです。
統一教会のほうは霊感商法と言いながらも、詐欺だとは認めていません。ですけど、不法行為だということで、統一教会側が賠償したわけです。
そして第二型として、悪霊憑依の憑き物殺人というのがあります。何でこんなことが起こるのかということですけど、祖先霊とか神が憑いたからといって、犯罪に結びつくということはないんです。そして、悪魔に取り憑かれた者が犯罪を行うわけでもありません。
問題は悪魔が憑いていると判断した者が、憑かれた者に危害を加える。つまり、こいつには悪魔が憑いているぞと霊能者が言ったとします。そして、憑かれていると思われている人に危害を加えるというのが、憑き物殺人です。
憑き物を落とす方法としては、叩くとか煙でいぶすといった乱暴なものから、調伏するとか、祈祷をするとか、それから人形を作って、それを燃やすというものまで、いろんなものがありました。
現代でも時々憑き物殺人が発生します。95年に福島県で、女性祈祷師の家で六人の遺体が警察の家宅捜索によって発見された事件がありました。信者やその子供たちは死者の復活を信じて日常生活を送っていたんです。祈祷師とその娘を含めた六人が逮捕され、殺人罪として起訴されたということです。
以前からこの女性祈祷師は、魂を浄化する方法として、まわりを信者が取りまく中で目を閉じるように依頼者に指示し、だんだん足が動かなくなるとか、手も動かなくなると暗示を加えて、そのうち生き返らせると言って活を入れるとかしていた。そして汚れた肉体を殺して魂を浄化するとか、悪霊を身体から追い出すと言って、こん棒のようなもので殴ることもあって、怪我をして逃げ出した信者もいたということです。
悪霊というものを利用することによって、相手を怖れさせて支配する。そういうことに悪霊が使われているわけです。
悪霊という概念そのものは仏教にはありません。特に浄土真宗では、この悪霊が憑くということは迷信として言わないわけですね。浄土真宗が素晴らしいのはそういうところもあります。
さて、親鸞聖人が比叡山を下りられたのは修行が嫌いだったからではなくて、激しい修行というものは意味がないということを悟られたからです。宗教病理の第三型は極限修行型と言います。
修行そのものは悪いことではないですね。しかし、極限的な、究極的な激しい修行をするということは、カルトに通ずるものがあります。
カルトの修行では、非日常的な激しい修行を信者に課するものがあります。たとえばライフスペースという団体がありました。成田でミイラ事件を起こした高橋弘二というヒゲのおじさんを覚えていらっしゃいますか。信者を熱中症で殺してしまったんです。修行のために熱い湯に何時間もつけることをさせ、大学生が死んでしまいました。
その大学生は一週間で五十万円のセミナーの一環として温熱修行というのをしていて、身体の異常を訴えて倒れた。ライフスペースは放っておいた。ホテルの従業員があわてて救急車を呼んだけど手遅れだったということがございました。
オウム真理教でも同じように、水中クンバカといって、いきなり初心者を水の中に何時間も入れて窒息死させた。これがオウムの最初の殺人です。
こういうふうに極限修行をすることによって事故を起こしてしまう。これも宗教病理の一つの型です。
千日回峰行とかのような激しい修行は既成仏教でもあります。ありますけど、あれはある一定のレベルを順次踏んでいって、体力とか精神力とか胆力がついて初めて、千日修行をするんだけれど、カルトの場合はいきなり初心者にやらせるから、死亡事故になってしまうということが起こります。
それから四番目として、反現代医療型というのがあります。これは医学を否定する宗教です。
古くは宗教と医療とは決して無縁ではございませんでした。というか、多くの宗教は医療を含んだ形で発達してきたんです。
たとえばキリスト教でもそうです。福音書、いわゆる聖書の中に、イエス自身が96件、病気を治したとあります。目の見えない人を見えるようにするとか、歩けない人を歩かせるとか、そういう話がたくさん出てきます。
現代でも医療を拒否する団体があります。どうしてかと言いますと、現代の医療は難病だとか慢性疾患だとかを治すことができません。特にガンがそうです。
そこで福永法源の法の華三法行なんていうのは、国立がんセンターの前に出ばって行って、足裏診断をすると病気が治ると言っては、患者さんを引っぱっていく。そして、現代医療に頼っていてはあんたの病気は治らないんだぞ、と教え込んでしまうわけです。そうやって信者にしては金を取るなんてことをしていたわけです。
それから慢性疾患といって、リューマチだとか喘息だとか、治りにくい、でも死ぬような病気じゃないものがあります。
病は気からといって、かなり神経的な部分が病気に影響していますので、手かざししてお祈りすることによって、すっと治ってしまうという錯覚に陥ることがあります。
こういうことで自信を持ってしまった教祖が、病院に行っちゃダメだ、自分のところに来て、シャクティパット、頭をポンポン叩いたり、手かざしをすれば治るとか言って、これがやがてカルトにつながるということになります。
さらには、薬害があるとか、病院が親切にしてくれないということがあるので、そういう宗教に走っていくことがあります。
輸血をしちゃいけないというエホバの証人も、反現代医療型に入ります。本人の自覚のもとに輸血をしないで死ぬのなら、まだしようがないけれども、子供にまで適用して、子供が交通事故で大量出血しているのに、輸血をさせないで死んでしまったことがありました。こういうのはカルトと考えざるを得ません。
さらには闘争的教説型というタイプがあります。これは要するに排他的な宗教です。他の宗教は全部間違っている、自分のところだけが正しいと主張するわけです。一時の創価学会のようなものです。キリスト教などの一神教の世界ではそういうことがまま行われています。
特に宗教と政治が密接に結びついた中世では、宗教が政治に関与していました。一人でも多くの人の幸福を願って、宗教が政治と関わることはよくあります。ところが、宗教と政治が結びつくことで教えがどうしても闘争的になってしまう。
これを一番体現していたのが日蓮でした。鎌倉時代に、国家の安寧のためにお題目を唱えて蒙古軍をやっつけた、と主張したことから始まり、それがずうっと延々と続いていって、創価学会の流れになっていくわけです。
こういう闘争的教説型の中では、しばしばいろんな犯罪が起きたり、それからテロ事件が起こったりすると言われています。オウム真理教も、参議院選挙に出たあたりからおかしくなってきたことが知られています。
それから終末論型です。終末思想と言って、やがてこの世は天地がひっくり返ってなくなっちゃう、しかもこの世の終わりはすぐに来るんだと説く教えです。それが社会との関係の中で強烈でリアルな感覚を持つ時に、病理的になります。
そうした教えでは、終末が来ると言うだけではなくて、その後にユートピアが来るんだと必ず説きます。そのユートピア、天国がどういう人たちに来るかといえば、自分たちの教えを信じてる人たちだけになんだ、このユートピアに行けるのはその教団のメンバーだけだと教えることで、メンバーは優越感を持つわけです。
たとえば、アメリカのヘブンズ・ゲート(天国の門)という教団は、睡眠薬とアルコールで集団自殺をしました。これは、地球がリサイクル期に入っているから、地球に接近していたヘール・ボップ彗星の陰に隠れているUFOに魂となって乗り込んで、地球が破滅する前に飛び出そうという教えでした。これはカルトの持っている不条理性を表しています。
5、カルトの特徴
カルトとは何かということですが、フランスの国民会議、日本の国会に当たるものでは、カルトをこのように定義しています。
・相手を不安に陥れて、法外な金銭的要求をする。
・今まで住んでいた生活の場から離れさせて出家生活をさせる。
・肉体的損傷、相手を傷つける。
・子供を囲い込んでしまう。
それとか、社会はとんでもない方向に行ってるから、自分たちが社会をよくするんだといった説教をする。それから裁判沙汰が多い。私もカルト団体から何件か民事訴訟で訴えられていて、大変なんです。
こういう裁判沙汰を起こすのもカルトの特徴です。そして、不当に信者をただ働きさせたりします。さらにはカルトのメンバーが公権力、政治団体の職員とか公務員になったりします。
こういうのは宗教病理を背景にして発生しているというわけです。
ここで話を別の面から考えていきますと、若い人っていうのは自尊心が持ちづらいんです。自尊心というのは大事なものです。自尊心はプライドと似ていて、プライドと違います。
「天上天下唯我独尊」とお釈迦さんは言われたというけれども、あれはまさに自尊心です。「唯我独尊」とは、かけがえのない自分というものがあるんだという意味ですね。
自尊心というのは自己評価ともいいます。
自尊心=達成÷願望
というふうに数式で表すことができます。分母が願望、達成が分子です。
つまり、願望というか欲望が大きければ大きいほど、自尊心は下がってくる。逆に、なしたことが大きければ大きいほど、自分はこんなことをやり遂げたんだという自己評価が高くなるわけです。
プライドというのはどこにあるかというと、願望、これがプライドなんですね。矜持が高いとか、プライドが高いというのは、実は自尊心が高いのではなくて、願望ばっかりが高く、自分の達成したものが低い。それで自尊心が低くなってくる。
年をとってくると、だんだん願望が少なくなり、自分を知るということになってきて、自分というのはかけがえのない存在だと思えるようになってくると言われています。
若い人というのはどうしても自尊心が傷つけられやすく、自分はダメなんだと思いこみやすいんです。自分がかけがえのない存在とは思えない。
なぜなら、ずっと受験勉強ばかりして、偏差値ではかられ、点数が良ければほめられるけれども、そうでなかったら相手にされない。学校でも、優秀な人やスポーツができる子だけが大事にされ、そうじゃない子はその他大勢になってしまう。
そういうことを感じているものだから、自分は変わらなきゃいけないと思っている。本当はそうじゃないんですけれどね。
こういうふうに、若い人というのは自尊心を持ちにくいから、自分が変わんなきゃいけないという欲求、自己変革欲求を持ちやすいわけです。そういうのをコンプレックスと言ったり、劣等感と言ったりします。
カルト側は新しく入ってくるメンバーのそうした個人的な欠点や弱点を標的にして、具体的な心の支えを提供すると説きます。治療的なメッセージを与えるんですね。
たとえば、「我々のところで勉強したら悩みが解決できますよ」とか、「あなたのコンプレックスを解決したければ、我々のところで学びなさい」と教える。
それで何か救済、救いがあると思ってカルトに入ろうとするわけです。救いのエサとも言います。これは自己変革欲求につけ込んでいるわけです。
さらには、自分を高めたいという、若い人特有の自己高揚欲求があります。若いうちはそういうことがありますね。人生における有能感、自分は人生において有能でありたいと願う。
そこで、社会の役に立っているという感覚を与えるために、生きがいとか、社会貢献といった人生の目的や意義を説明して、生きていく上での見習うべきモデル、こういうふうに生きていけば社会の役に立ちますよというモデルを提供する。すなわち自己実現メッセージを提供するわけです。
もう少しわかりやすく言うと、あなたが持っている潜在能力を引き出してあげるという形で、あなたを高めてあげようと言いまず。
さらには、若者は現在置かれている状態をよく認識できないということがあります。そこで、認識欲求をも満たしてくれる。
自分とは何か、世界とは何かとか、あるいは宇宙とは、霊魂とは、超自然とは何かという、理解に対する動機付けを高めます。それとか、理想的な家庭とはなんだろうか、理想的であるべき世界はなんだろうというふうな、認識欲求を高めるようにします。特に若い人は超能力とかオカルトなんてのが大好きですから、そういうものを理解したいという動機付けを高める。
こういうものは、実は答えはないんですけれども、「科学で解明されていない驚異の世界がありますよ」、「あなたが謎に思っていることはすべてわかるんですよ。知りたいと思いませんか」なんていうふうに言われて、引き込まれてしまう。
さらには、オウムのエリートの信者たちのような真面目で勉強ばっかりしてきた人は、本当の友達、真面目な友達がなかなか見つからないということがあって、悩んでいるのは自分だけじゃないかという悩みを持っているんですね。
暴走族に入るような子はカルトに入らないんです。それは自分が悪だとわかっていて、こんなもんだというふうに身体性を持っていますから。
それで、ある程度年をとって暴走族を卒業すると、俺も悪いことしたなあと思うけれど、真面目な子ほどそうはいかなくて、自分だけがおかしいんじゃないかと思ってしまう。
そういう中で、親密な仲間集団を求める欲求、すなわち親和欲求というものが満たされていない状態、つまり孤独ですね、孤独な若者がいて、ほんとに心を開いて語り合う場所だとかいうものがない。そういう人にカルトは場を提供するということなんです。
たとえば、「同じような仲間がいるから一緒に考えましょう」とか「真面目に真剣に人生を生きてる素晴らしい人たちがあなたの友達になってくれます」というふうに言う。
こういう救済という名のエサがばらまかれて、若者たちはカルトに入っていくことになるわけです。
6、マインド・コントロールとは
統一教会にしてもオウムにしても、自分から進んで入信するんだと思われがちですけど、そうじゃなくて、そこにはカルト側からの強烈な引っぱり、引きつけというものがあります。これをいわゆるマインド・コントロールと言います。マインド・コントロールというとわかりづらいけれども、心理操作、操られるということですね。
マインド・コントロールという言葉は、1992年夏の統一教会の合同結婚式のころから、日本でも有名になりました。それから95年春のオウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件以降、マスメディアがこぞって取り上げて、流行語になりました。
マインド・コントロールというのは、催眠術のような特殊な技術で、それを仕掛けられると、誰もがまたたく間に、かけた人の言いなりになってしまう、というような誤解があるんでしょうけれども、実はカルトのマインド・コントロールとはそんな単一の技術ではないんです。催眠術のようなものではない。
いくつかの心理的な技法を効果的に積み重ねて、相手をこちらの都合どおりにあやつり、説得する技術です。
洗脳と似ているんですけれど、洗脳の場合は、自分が洗脳されているとか、無理矢理に何かさせられているということがあるもんだから、抵抗するんだけれど、マインド・コントロールの場合には、自分が洗脳されている意識のないままになされるということがあります。
抵抗感が少ないままにされる洗脳のテクニックということで、受ける側はむしろ自発的に修行とか学習、訓練を受けているというふうに錯覚するように仕組まれています。
マインド・コントロールには四つの段階があります。
一番目がアプローチです。新人を勧誘するのをアプローチと言います。家族や知人などを誘う場合と、路上で未知の人にイベントのビラとか本などを配ったり、アンケート調査や手相、占いなどを使って接触する場合とがあります。
家族や知人の場合、いやがる人にも「とにかく集会に出てみないか」とか、「ビデオを見てみないか」と言って誘います。「いいか悪いかは試してから判断すればいい」と言うんですね。
これはセールスマンが「ともかく商品を見てください」と言うのと同じで、話を聞いているうちに、いつの間にかその商品を買わされていたということがあります。
人間というのは、小さなOKを出すと、大きなOKにうなずいちゃう。小さな承諾を一度してしまうと、大きな承諾を次々してしまうという、一貫性の原理というのを持っていますから、一度OKしちゃうと、その次は断れないということがあります。人はささいな承諾から大きな承諾へと向かうということですね。
それから知り合いの場合だったら、その個人にまつわる情報をすでに教団が入手して、まるで見すかされているかのように利用されたりすることがあります。
カルト側は勧誘する相手をカルトのメンバーにしようとすることが目的なんだけれども、このアプローチの時には、そのことを隠します。
本来の目的である教団への勧誘ということは隠蔽されていて、語学教室だとか、自己啓発セミナーとか、ヨガのサークルのようなダミーに姿を変えて勧誘するわけです。
ターゲットになる人が「これは宗教じゃないですか」と聞いても、「そうだ」とは答えない。つまりインフォームドコンセント(知らされた上での同意)がないから、対策弁護団はこの点をとらえて、勧誘方法が違法だと主張します。
さっき言いましたように、「本当の自分さがし」とか、「潜在能力の徹底開発をする」といったキャッチコピーで若者の実存不安に直接訴えかけます。
駅前や大学で声をかけられた若者たちは、近くにあるセンターとか道場に連れてこられるわけです。そこで多くの信者たちから非常にほめられるんですね。持ち上げられる。「好青年ですね」「すてきですね」とか「タレントの○○さんに似てますね」とか言われる。また「あなたの手相は何万人に一人しかいない。エリートだ」というふうに言われる。これを統一教会では「讃美のシャワー」と言います。ほめたたえるということですね。
人は自分に好意を持ってくれる者に対して親近感を抱くという条件付けをねらったものです。ほめられると人間はついおだてに乗ることがよくあって、ほめてくれる人のことを好きになってしまうわけです。
一方、さっき宗教病理のところでいろいろ説明しましたように、いろんな悪いことを言って恐怖感を植え付けるということもします。
世界は破滅に向かっている。イスラエル、パレスチナとかイラクでは戦争が起こっているし、地球は温暖化現象でひどいことになっているし、自殺者は年間3万人もいるし、だんだんひどいほうに向かっている。それとか、あなたの家族には不幸が起こるというふうに。
ほめられるという讃美のシャワーと、恐怖感の植え付けが対照となって、新しく入った人はびっくりするわけです。
しかも、「これは偶然じゃなくて神の摂理だ」みたいなことや、「こういうチャンスはめったにないから、今すぐ決断して、我々の仲間になりませんか」ということを強調する。
これを希少性の論理といいまして、少ないチャンスだから、今こそ大事にしなければいけないと教え、無理矢理引き込んでしまうわけです。
それから二番目として、動機付け(モチベーション)と記憶です。動機付けることは非常に重要でして、人間は何か動機がないと、そういう集団に入っていこうとしないんです。
統一教会の場合はビデオを見せます。それから擬似的な至上体験をさせます。オウム真理教の場合だと、ヨーガによく似た呼吸法をするとか、瞑想をするとかさせます。
記憶というのは、ただただ教義の埋め込みが行われ、記憶させます。この段階では参加者のほとんどは理解できません。教義は無茶苦茶で難解ですから。だけど、断片的な知識だけが次々頭の中に埋められてくるわけです。
「疑問は勉強していくうちにわかってくる」とかですね、「理解できないうちは親にも誰にも言っちゃダメだよ」と言ったりします。秘密保持を約束されるわけです。こうして自分が獲得しつつある信念を吟味する機会を奪われます。
そういうことによって、次の第三ステップの合宿へと向かわせるわけです。そのために動機付けとか記憶の埋め込みということを行うんですね。
こうしてより本格的な合宿へと誘い込んでいくわけです。これを解体と凍結と言います。ここからは洗脳と同じことが起こってきます。
マインド・コントロールによってアプローチから動機付けと記憶までが行われ、動機付けを高めて、三番目の合宿、つまり離れたところに連れ込んでいって、教え込みが始まることになります。
基本的には宿泊施設に数日間連れて行かれて、集中講義を受けるとか、瞑想や集団的に祈祷することなどによって、狭い意味での洗脳状態へと導くわけです。
修行のため断食するとか、睡眠を短くするとかいうことが勧められて、飢餓状態に陥ってしまうんですね。生理的剥奪状況と言いますけれども、そうなると暗示性が非常に高まります。
食べないとか眠らないとかいうことを何日も続けていくと、精神的におかしくなっちゃうことがあるわけです。これが修行の基本です。
マインド・コントロールの場合は、自分で選んで修行してるから、平気で眠らない、食事もとらない。それによって暗示性が高まるわけです。
オウム真理教では五体投地といって、地べたに伏せって起きあがってという礼拝の方法を、一日三回、一回八時間、つまり二十四時間ずっと行って、それを一週間続けさせます。
それでどうなるかというと、離人感、自分が自分でないという感覚や、自分が誰かに操られている感覚が出てくる。あるいは、まるで法悦体験のような、麻原がすぐそばに来て話しているような感覚がしたり、光り輝くものが見えたりする。こういうのを神秘体験といいます。
人間の脳は飢餓状態に陥ると、しばしばそういう幻覚とか錯覚を見るもんですから、それを利用しているんですね。そういう神秘体験を得てしまうと、これこそが我々の求めていたものだと思い込んで、若者たちは簡単にはまってしまう。
しかも、今まで教えられて記憶していた、世界は破滅に向かっているとか、日本の政治は間違っているんだとか、世界は汚れている、ところが自分の教団だけは正しいんだという教え込みが、ここでさらに強烈になされます。
断片的な記憶だったものが、教祖の言ってることだけが正しくて、他が自分たちに対して弾圧を加えているんだというふうに思い込むようになる。
こうしてかちっとしたカルト人格ができあがってしまうんです。ここまで来ちゃうと完璧に洗脳されたということです。
ところが、こういう脳内の不思議な出来事というのは、その場から離れると、次第に夢から覚めていくように、だんだん軽くなっていくということがあります。そこで、それだけでは駄目なんで、第四段階として、維持、強化ということをします。
この維持、強化とは、それで終わりではなくて、与えられた使命を維持させることが必要となるので、一度カルトのメンバーにカチンとはまってしまった人に、数日間の合宿から帰ったあと、何か行動を起こさせるんです。
たとえば霊感商法をやらせる。本当は数千円の価値しかない壺を、これは何十万円もの値打ちがあるんですよと売り込む。メンバーは何千円の価値しかないものだとは知りませんけども、そういうものを売り込むことによって、実は統一教会というのは素晴らしいんだという思いを新たにする。
人間というのは行動することによって、信念が強固になるということがあって、そういう活動をさせるわけです。
さらには多額のお布施をさせる。多額のお布施をさせるといろんなことが起こってきますけど、たとえばビニールのバッグを例にすると、三千円で買ったバッグと、三十万円で買ったバッグ、どっちを大事にするかというと、三十万円で買ったバッグのほうを大事にしますよね。素材は大して変わんないんですよ。ブランドものといいながら。
同じように、お布施をたくさんするほど値打ちがあるように思ってしまう。そして、多額の献金をするために家を売ったりするもんだから、帰るところがなくなる。多額の経済活動をすることによって、戻るところをなくしてしまうわけです。
さらには、新しい人を誘うという新規勧誘の義務があります。自分の信念が不確かであっても、人を勧誘することで、ますますその信念を強めていってしまうわけです。
そういう活動をすることによって、無限連鎖講(ネズミ講)的に信者がどうしても増えてくるという形になってきます。
こういうことを知っていれば、アプローチの段階で断れるんですよ。路上で「手相を見てあげましょう」とか、「こういうアンケート調査をしているんですが」ということに答えなければ追ってきません。けれども、真面目な人はそういうのを断れなくて、ついはまってしまい、後々まで追いかけられるわけです。
7、カルトと現代
カルトの教祖は何を考えているのかということですが、結局は人を支配したい。ライフスペースの高橋弘二にしても、法の華の福永法源にしても、麻原彰晃にしても、支配欲が非常に強い人なんです。しかも、自分は霊能力が高いとか言って、見てきたような嘘をつく。これはある種の人格障害といってもいいんですけど、信者はこういう人の虜になってしまっているということです。
ほんとの宗教とは何かというと、それは信者のためにあるものです。それに対して、カルトというのは教祖のためにあって、いつも教祖の支配のもとに信者は置かれている。これを我々はスピリチュアル・アブユース(霊的な虐待)と言います。
虐待というのは、何も親が子供にやるような児童虐待だけとは限らないんです。というか、児童虐待にある根っこは何かというと、子供を意のままに操ろうとするがゆえに、子供が親の言うことを聞かない。それで子供を支配しようとして、さらに自分の意のままに操ろうとするから、虐待が起こってくるんです。
カルトの問題というのは、教祖が支配欲が強くて、空想虚言、嘘ばっかりつくような人で、そうして信者を縛ってしまうことがあるんです。
「お前の修行が足りないからステージが上がらないんだ」とか、「悪魔が乗り移っているからお祓いをしなければいけない」と言ったり、「お前のトレーニングが足りないから教団がうまくいかないんだ」と言ったりする。
ところがこういう教祖の問題は、なかなか語るのが難しいんです。というのは、じゃ教祖が病気だったら、その宗教は全部おかしいのかというと、そうとも限らないということがあるわけです。
ある新宗教の女性教祖は精神病だったんですけど、立派な発展を遂げて、信者のために尽くす教団になっている。そういう団体もあります。
したがって、そうとは限らないんだけれども、少なくともマインド・コントロールとか、カルト問題を通じてわかることは、信者たちは自分の頭で考えないという状態になってしまうということなんですね。
自分の頭で考えるというのはとても難しい。支配されて、相手の言うとおりになっていれば、幸福になれるんだということは、もしかしたら楽かもしれない。
だけど親鸞は「弟子一人ももたずそうろう」と言われた。私には弟子がいないんだと言われたのは、支配しようとはしない、あなたの頭で考えなさいということです。
浄土真宗は絶対他力ということを言いますけれども、私はカルト問題というのは、自力の問題だというふうに思っています。
こういうふうに努力すれば世界が救済できるとかいうことを説くわけですよ。しかも努力といっても、他の信者と競争するような努力です。まるで会社社会にいて、業績を上げるような努力をお互いが切磋琢磨してやってるんですけど、そういうことによって自分の魂が輪廻転生しながらだんだんと完成し、死後の世界で救われるというふうなことを言うわけです。
そもそも輪廻転生ということが仏教の基本的な考えであるわけがなくて、お釈迦様は死後の世界について無記、よく分からないと教えられています。ですから、現在の今を生き生きと生きる、これこそが仏教の神髄なんです。
カルト教団すべてそうだけれども、どうも人生を一回きりと考えないんですね。死後の世界があって、死後の世界は現世の行いによって決められるんだと。これは仏教以前の教えにもつながります。しかもこの教えでは、教祖の言うとおりにしておけば死後の世界、天国に生まれることができるというわけです。
ところがさっき言ったように、教祖というのは支配欲が強くて、嘘つきなんで、困ったことが起こるわけなんですね。
たとえば、なぜ霊感商法によってお金を集めるかというと、お金とは非常に汚れたものだから、お金を持っていては救われないという教えがあって、だからお金を出した人は救われるという発想なんです。
ところが霊感商法によって集められたお金はどこに行っているか。汚れたはずのお金がどうやら韓国に渡って、文鮮明教祖のもとに行っちゃうという変な仕組みになっているわけですね。つまり、これは嘘なわけですよ。
そういう教祖によって人生をからめ取られてしまう若者があとを断たないわけです。
このカルト問題は先進国にしかありません。発展途上国のようなところでは生きていくのに精一杯だし、経済的ゆとりもない、一様にものがない。
戦後のものがない時代は、ものさえ手に入れられれば幸せになれるだろうとがんばってきた。それから政治状況も非常に単純でして、たとえば一九七〇年代全学連なんてはやったわけですけれども、これは政治問題に対して若者たちが意思表示をして、今の体制を倒して政治を変えれば、我々は幸せになれるというふうに思っていた。
こういう社会がシンプルな時代はカルト問題は起こんないんだけれど、今はそうではない。現代の若者たちは身体は健康だし、ほしいものは何でも手に入るわけです。生活苦とは無縁です。
現代日本はものの貧困は解決したんだけれども、しかし新たな貧困が生じている。これを私は心の貧困とよんでもいいと思うんです。
お釈迦様は大したもんで、生まれた時に「天上天下唯我独尊」と言われました。つまり、「そのまんまで私はかけがえがないんだ」と言われた。このかけがえのなさ、何者も代わることができない私であるということですね。
ところが、人間の価値というのが、効率優先、経済優先の社会なもんだから、子供のころから受験受験で、かけがえのない子供というのは、いい成績を取る、いい子でいる、親の言いなりになる、そういう子供だったりする。その反面、それ以外の子供はダメだというふうになっている。
だもんで、子供たちは自分がかけがえのない存在であると思えなくなってくるんです。親もうちの子はダメなんだと突き放してしまう。さらには、言うことを聞かないから虐待して殺しちゃうなんてことが起こってくる。そして今の社会では、誰か他の人が自分のポジションを占めてもいいわけです。のけ者にされかねない。ところが若者たちは、不安になっても心から本当に話せる友達がいない。それは自分に自信がないからです。
この自信のなさはどこから来ているかというと、どうやら戦後の日本の教育のあり方がどっかで狂っちゃったのかもしれない。
このかけがえのない自分ということが現代の日本から消えているゆえに、心の貧困というのがあって、したがって少年たちが犯罪を犯すのも、「どうせ俺はダメだから、せめてワルでもして有名になってやろう」ということで、酒鬼薔薇事件とか、西鉄のハイジャック事件なんかが起こったわけですね。
1970年代には、多くの若者は全学連を通して反対運動に身を投じ、そこに埋没できた。そもそも若者が反体制的であるというのは、自分が克服しなければならない心の問題を社会に投影して、社会が悪いから自分がダメなんだと思って反体制運動をするんです。本当は心の問題なんです。自分の発達していく課題を社会に投影するためで、これは一つの通過儀礼です。
そういう通過儀礼が現代社会にはなくなってしまった。乗り越えるべきものがなくなった。お父さんも家ではえらくなくなっちゃった。いい学校に行っていれば誰も文句は言わない。
けれども、カルトに入る若者たちは反体制的ではないんです。没体制的なんですね。これはもっと恐いことです。
若者の未来へのイメージは決して明るくはありません。確実に地球がむしばまれているという世界的な問題意識もありますし、政治とか経済にも希望が持てないということもありますし、個人的レベルでも決してバラ色とは言えない。
お父さんたちがリストラされて自殺していく。若者たちはそういうのを見ていて、自分も大した人生にはならないと思っている。社会的な運動をしてもどうにもならない。そういう中で、結局自分は歯車の一つでしかないと思ってしまう。
どうしてそんなことが起こったかというと、自由の獲得ということがあると思います。いろんなことが自由になりすぎて、よく言えば価値観の多様化ですけども、単なる悪しき個人主義になってしまった。
家族が崩れてしまっているわけです。家族というものがだんだん崩壊していって、核家族から単家族になった。子供が引きこもって、パソコンやコンピューターゲームばっかりやってる。おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞かない。僕たちの子供のころ、おじいちゃん、おばあちゃんに連れられてお寺に行ったもんですが、そういうこともなくなった。
そうすると、命のつながりというものがなくなります。命のつながりがなくなってくると、自分しか目に入らない。他者が視線に入らない。ですから没体制的なんです。これは非常に深刻な問題です。
たしかに今の若い人たちはボランティア活動とか、そういう社会活動に参加することによって、やっとかろうじて自分が社会に役に立つことを目指そうとしています。けれども、そういう人たちは大多数ではないんですね。多くは何となくその日暮らしを送っている。そして、自分とは何者なんだろう、かけがえのない自分とはなんだろう、そういうことを教えてくれる人がいない。
これはおじいちゃん、おばあちゃんがいたら、簡単に言ってあげることができる。「あんたは仏さんの子だから」という言い方でいいんです。
ある仏教国では、「あなたは誰の子」と聞かれたら、「仏さんの子だ」という言い方をするそうです。それはどういうことかと言うと、「かけがえないからそのままでいいんだ」ということです。
今のような、価値のある人間だけが生きていていいという日本の社会。これはおかしなわけで、病気であっても、年をとっても、障害を持っていても、そのまま生きる価値があるんだ。本来、そういうものであるべきなのに、どこかおかしくなってしまった。その一つの表れが実はカルト問題ということです。
今日の私の話は「なぜ生きているのか」ということに始まって、カルトに入信する理由を述べたわけですけども、「天上天下唯我独尊」、「あなたは仏の子だから大切なんだ」と言ってくれるおじいちゃん、おばあちゃんがそばにいてくれれば、生きていけるんだということです。
長々と雑駁な話をしましたけれど、終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
8、質疑応答
(問い)
友達に誘われて、真光に入ったりしました。そうした宗教に惹きつけられるものが自分の中にあるように思うのですが。
(答え)
真光というのは手かざしによって病気が治るとか説いているわけです。一見まともなようなんだけれども、いろんな点でカルト性の高いグループだと思います。
短期間の研修で真光のわざというのを学んで、そのわざを手にすることで普通の人が霊能力を得てしまうわけです。
昔は、霊能者と一般の治療を受ける人は別だったんですよ。それは聖と俗というか、お坊さんと在家の人が違うように、霊能者と癒される人を区別していたんです。
ところが真光あたりから始まったのは、一般人が霊能者になるということなんです。一般の者が真光のわざを学ぶことによって霊能者になるというシステムができたんです。ところが、きちんとした訓練を受けていないために、精神的な病気になってしまったりする例がたくさんあります。
そもそも霊能力なんて、あるのかどうかということが問題で、病気が暗示作用によって治った気がするだけなのに、教団の持っている霊能力で治ったんだという錯覚にとらわれて、そこで縛られてしまうことがあるわけです。
だけども、手かざしなんてことをやっていると、自分がとてもいいことをしているような、熱い気持ちになれるんですね。自分は価値のない人間だけど、真光のわざによって人のお役に立てるという気持ちになって、自分の存在が認められて、とても生き生きとしてくる。
それでどんどんはまってしまって、他の人を誘い込んでしまったりして、まわりから顰蹙を買うことになります。さらにのめり込んでいくと、最終的には金銭の問題がからんできたりします。
カルトに入っている間は熱くなっていって、それである種の快感を得ているわけです。人を救うとか、仲間と一体化するとかいうのは、ちょうど恋愛でもしたようないい気持ちになっていくものですから、そこを取り去られると、心が全く空虚になって、生きていく現実がなくなったりしてしまいます。
そしてもう一つ、カルトに入る時には、何かを求めてカルトに入るんだけれども、やめる時にその問題が解決しないまま残っているんです。
これをカルトのマインド・コントロール後遺症といいます。これが治るにはものすごい時間がかかるんです。マインド・コントロール後遺症を癒すには、真光をやめた人と連絡を取り合って、実はどこがおかしかったか、ほんとのところがわかってくれば、理知的には納得できます。
それと同時に、あなたが真光に入ってしまったことに対して、反対をしていた家族がいるはずなんですけど、そういう人と心底語り合うことによって、時間はかかるけれども、マインド・コントロール後遺症とよんでいるものがいずれは癒されていくはずです。
最近、こうしたカルトのやり口はいろんな教団で真似されています。人の役に立ちたい、何かしたげたい、その気持ちは正しいんだと思うんですよ。でもそれはある種の傲慢でもあるということをわきまえとかないと、今後いろんなものに渡り鳥してしまうことになります。
せっかく浄土真宗に縁がありながらも、いろんな宗教に渡り鳥してしまうというのはもったいない話で、今与えられている教えを大切にしていかないといけないと思います。
(問い)
いろんな宗教にひかれる人が多いですが、どうしたら真宗の教えに出会うことができるでしょうか。
(答え)
釈尊の教えは、この世はすべて苦しみだということから始まっております。祈れば、加持祈祷すれば現世利益がかなうというのは、これはみんな幻だということを釈尊は教えたんでしょう。
ところが日本では、鎮護国家といって仏教によって国家を護るということで、仏教が政治的に利用されてきました。特権階級の仏教だったわけです。それを鎌倉期において、あらためて仏教の本質にかえって、念仏に遇いなさいと教えたのが親鸞です。
あらゆる苦悩をそのままいただいていくということしか本当の救いはありません。加持祈祷によって苦から一見逃げれたように見えても、それは誤解でして、病気は病気、死は死、不幸は不幸。
四苦八苦と言いますけど、それを南無阿弥陀仏と引き受けていくのが真宗の本当の教えで、これは現代の若者にも語り継げるものだと思います。
オウム真理教に入った石川公一という、東大の医学部を出た内科医がいます。ひょんなことでオウムに入ってしまって、サリンをまいたり、東京都庁に爆弾を仕掛けたりしたんだけど、彼は中学高校のころは仏教に関心があったんです。
修学旅行で行った京都の名刹で、「修行を一生懸命していると仏さんの姿が見えてくる」とお坊さんが言ったというんですね。面白いことに石川公一は、こんなことは脳内麻薬で説明できるんだと。睡眠時間を短くしたり、食事を取らないで断食を何日もしていたらそういうことがあるんだと。こういうふうに意外と醒めた目で見ているんです。
仏教というのは苦しみを逃れるための教えでなくて、それをいただいていくための教えだと、石川公一はわかっていた。だけど、オウムに入っちゃったんです。
若い人がお寺に来ないのは寺院の怠慢だったりするわけだけど、本質的なものは決して失われるものではないし、こうして脈々と法統が続いているわけです。そういう意味であながち捨てたものではないというのが私の考えです。
(問い)
エホバの証人はどういう宗教でしょうか。
(答え)
エホバの証人は正式には「ものみの塔聖書冊子協会」と言います。冊子を配っておりまして、日曜ごとに各家庭を訪問して終末論を説いているという団体です。今から百年ほど前にアメリカで発生した新宗教なんです。現在、日本には約二十万人の信者がいて、王国教会というのが各都市にあります。
彼らがカルトかどうかですけど、やはり勧誘の義務がきついんですね。人を勧誘してきて、何人か集まると位が上がっていく。
たいていの新興宗教がそうなんですけど、最初のうちは金銭の支出は大したことがないんです。だけど、長いこといるうちにだんだん寄付したくなってしまう心理状態にされてしまって、結局自分たちは質素な生活をして、余った分を王国会館のために捧げるというふうなことで、やはり経済被害も出ています。
勧誘などの活動は奥さんがやってることが多いんですね。旦那さんが勤めているにもかかわらず、家事をほったらかし、子供を連れてそういう宗教活動をやるもんだから、結構夫婦げんかが多くて、離婚もある。そして子供の教育についても、社会通念上、間違ったものの考えをしています。
さらに、非常に排他的な、自分たちだけが救われるんだ、他の宗教ではダメだという、闘争的な教説を持っています。そういうことで、ヨーロッパではカルトとみなされています。
(問い)
カルト問題についてマスコミの罪は重いと思うんですが。
(答え)
おっしゃるように、麻原彰晃や福永法源はコメンテーターとしてテレビに出たり、雑誌に寄稿してました。こういうメディアに出ることは広告になるし、宣伝になるんです。
ところが、テレビで霊能者が「あなたには○○が憑いている」と言ったりするのは、日本のメディアだけです。
ヨーロッパではカルト問題がきちんとおさえられていて、政府がカルト問題に対して研究費をつけたりしています。たとえばフランスでは、創価学会の池田大作がテレビに出ると、これはカルトの教祖だとテロップが流れるくらい厳しいんです。
そういう意味では、まともな宗教者といわゆる霊能者は画然と差が開いていて、向こうにも魔女とかがいるんですけど、そういうのがテレビでコメントするなんてことは一切あり得ない。
それに対して日本のメディアの問題点は、視聴率さえ上がればそういうのも使おうという、視聴率競争というのがあるんですね。
オウム真理教の事件が起きた後、しばらくは霊能者たちはテレビに出ませんでした。ところがこの数年間、時々出るようになってきて、夏になると必ずお祓いする祈祷師が出たり、霊能者が出てきたりしてます。これは日本だけのことで、マスメディアに大いに責任があると思います。
ただこれは、テレビ会社の子会社、孫請けみたいなところが視聴率を上げるためにプレッシャーをかけられて、つい霊能者の番組を作ると。若い人はそういうのが好きですから見てしまう。見ると視聴率が上がる。という悪循環で、こういうのを放送してしまうわけです。
だから、こういう番組は見ている我々にも実は問題があるという相関関係にあるんです。
(2004年4月8日に広島市東区民文化センターで行われました安芸南組同朋大会でのお話をまとめたものです)
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