真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  髙坂朝人さん
 「償いの意味を考えながら生きたい
  11年間、罪を犯してきた僕の過去・現在・未来」
 
2014年3月6日・7日

  自己紹介

 こんにちは。ご紹介していただきました髙坂朝人と申します。僕自身が犯罪をしてきて、そのことの償いの意味を考えながら償っていきたいということでお話しさせていただきます。自己紹介からさせてもらいます。昭和58年生まれで、30歳です。妻と2人の娘がいます。もともとは生まれも育ちも広島ですけど、24歳のときから愛知県で生活しています。知的障害がある人たちが生活しているケアホームで仕事をさせてもらっています。

 所属しているのは「セカンドチャンス!」「愛知県BBS連盟」「東海・「非行」と向き合う親たちの会」です。「セカンドチャンス!」というのは、まっとうに生きたいと願っている少年院出院者の自助グループです。まっとうに生きるという同じ方向を目指し、みんなで支え合ったり、合宿したりとかしながら活動している全国ネットワークの団体です。

 BBSは「Big Brothers and Sisters Movement」の略で、昭和22年からある全国組織です。非行少年とよい友だちになることを目的とした更生保護ボランティア団体です。基本的には18歳から30歳未満の人が入会していて、非行少年と年が近いので、お兄さん、お姉さんという役割で少年たちと友だちになっていこうという「ともだち活動」をしています。

 「非行と向き合う親たちの会」は、我が子の非行で悩んでいる親御さんたちが集まって、それぞれの思いを共感して分かち合っている団体です。これも全国組織です。


  今までどのような犯罪を行なってきたか?

 僕がいつからいつまでどういう犯罪をしてきたかということをお話ししたいと思います。僕が非行を始めたのは中学1年生の13歳からです。小学校のころは犯罪とかは全然していませんでした。中学に入ってから少しずつ悪いことをするようになり、万引きとか自転車を盗んだりするようになったんです。大変申し訳ない話なんですけど、ずるずると再犯をくり返し、24歳までの11年間、ずっと犯罪を続けてきました。

 本当に情けないことですけど、僕は少年院に2回入っています。1回目は窃盗です。2回目の時は共同危険行為、窃盗(主に金庫破り)、公務執行妨害(パトカー破損、警察官への暴行)、強盗傷害(盗みの最中に取り締まりにきた警察を車ではねて逃走)で9回逮捕されています。2回目の出院後は車の窃盗、薬物の売買、コピーブランド売買などで生活し、成人してからは暴力団の準構成員になりました。21歳のときに犯人隠避で、22歳のときには無免許運転で妊婦の方をはね、逮捕されました。それなのに、留置場から出た日から車に乗ってました。その1か月か2か月後ぐらいに白昼に白バイとパトカーに追われて、車を捨てて民家に隠れていたところを逮捕され、執行猶予になってしまいました。車は中学3年生から乗っていますけど、免許を取ったのは27歳のときです。

 僕はケンカが弱かったので、ケンカは全然やってないんですけど、バイクだけは大好きになって、路上に置いてある他人のバイクを盗んで、自分の好きなように改造したりしていました。やることもどんどんエスカレートしていき、14歳のときに集団暴走で捕まって保護観察がつきました。

 集団暴走に初めて出たのは中学2年生のときです。みんなが集まる場所に自転車で行って、先輩の400ccのバイクの後ろに乗せてもらったんです。大げさな言い方かもしれませんけど、初めて集団暴走に出たときは、「14年間生きてきてこんなに楽しいことがあるんだ。なんで知らんかったんだ」とすごく思いました。いつもは注意する大人が車で後ろを走っていても、何も気にすることなく大きな音を出してゆっくり走り、信号も全部無視して、警察が来ても逃げることなく、逆に挑発して、最終的にはうまく逃げて。怖いというのもあったんですけど、すごく気持ちがいいというか、ほんと楽しかったです。

 16歳で、バイクの窃盗で逮捕されて少年院に入りました。愛媛県の松山学園です。少年院に入っているときに母が子宮ガンになったんです。子宮ガンになったという手紙をもらって、僕はガンは治らない病気ですぐに死ぬんだなと思っていたので、少年院を出たら母親は死んでるからもう二度と会うことはできないんだなと思ったときに、少年院でも僕は馬鹿だったので、他の子たちにかっこつけてたりしてたんですけど、手紙を読んだときは涙がとまらなくなって、ずっと泣いていました。母親には生きてほしいと思ったし、会いたいと思いました。母が何とか生きてくれたら、どんな細かいことを言われても怒鳴ったりせずにいようと思ったんです。それでも、真面目になる気はありませんでした。

 親は僕に一生懸命ぶつかってくれていましたし、家庭裁判所の調査官とか少年院の先生たちとか、いろんな人たちが関わってくださっていたんですけど、自分の中で真面目になろうと思う気持ちが全然湧いてこなくて、むしろ悪い方向でとことん走っていきたい気持ちが強くなるばかりで、捕まっても捕まっても悪いことばかりを重ねていました。

 17歳のときに先輩が刺青を入れるので、それについて行ったんですけど、見ててかっこいいなと思ったのと、同年代で刺青を入れている友だちはいなかったので、刺青があれば箔がつくというか、強く見てもらえるかなと思って、両胸から腕にかけて刺青を入れました。30万円ちょっとかかりましたけど、そのお金も盗んだものです。

 17歳と18歳のときが一番犯罪をやっていまして、そのころ特にやったのが金庫破りといわれるものです。夜中にガソリンスタンドとかのお店にドアを壊して侵入して、金庫を丸ごと盗んで車に積み、山で金庫を壊してお金を盗るということをしていました。

 他にも強盗や集団暴走などで何度も逮捕されて、18歳の時に2回目の少年院に入りました。大分少年院です。長期だと1年ぐらいなんですけど、僕は事件が多すぎて18か月間入ることになりました。少年院では職業訓練を受けたりしたんですけど、自分でもなんでかよくわからないんですけど、真面目になろうと思うことがなくて、少年院を出た日から犯罪をしていました。

 14歳から20歳まで保護観察がついていて、その間に2年半は塀の中にいたので、3年半ぐらいは社会にいたんですけど、情けない話ばっかりなんですけども、3年半の間に保護司さんの家にはほとんど行ってなくて、10回も行っていないぐらいです。保護司さんの家に行くときは無免許でノーヘルで、大きなバイクで大きな音を出しながら保護司さんちのちょっと離れたスーパーの駐車場にとめて歩いていき、保護司さんの話を聞きながら、「ちゃんとやっています。暴走族とはつき合いしていません」と言って、それからまたバイクに乗って帰るということをしてました。

 今、過去と向き合う旅ということをしていて、お世話になった弁護士さんとか少年院の先生とかに会ってるんです。当時は何もかもでたらめにしすぎていたので、今の姿を見てもらってお礼を言いたいと思って。2年ぐらい前に保護司さんの家を訪ねたら、亡くなられていて、奥さんにお礼を言って、手紙を仏壇に置いていただきました。お会いできなかったのが心残りで、ちゃんとお礼を言いたかったなと思っています。

 広島では暴走族は18歳で引退なので、僕も引退したんです。でも、真面目になったわけではなくて、21歳のときから暴力団と関係が深くなってきました。暴走族をやっていたときにも暴力団との関わりはあったんですけど、先輩とかの話を聞いていると、暴力団に入ったら大変なことになるんだなということは感じていたので、さすがに組員になることだけはやめておこうとか、暴力団の人とはある程度の距離を置こうと思ってたんです。

 ところが、一緒に暴走族をやってきた二つ上の先輩が暴力団の組員になっていて、その先輩に「兄貴分はすごくいい人だから紹介するよ」と言われて、僕も先輩から言われたので、会ってご飯を食べるだけだったらいいかなと思って、本当に軽い気持ちで会ったんです。その兄貴分は30歳ぐらいで、今は若頭、ナンバー2なんですけども、その人からブランド物、ヴィトンとかシャネルとかのコピーの仕入れ先を教えてもらって、売り方まで教えてもらいました。

 教えてもらったことを教えてもらったようにやると、これは犯罪なんですけど、すごくもうかりました。10代の子たちはブランド物がほしいと思ってても、本物だと6万円とか7万円もするので手が出ないんですけど、コピー商品だと7千円とか8千円で販売するので、どんどん注文が入りました。仕入れ値が3千円ぐらいなので、一つ売ったら5千円とか6千円もうかりました。

 僕は暴力団の人からやり方を教えてもらったので、利益の一部を渡しに行ったんですけど、「金はいらんわ。金がほしくて教えたわけじゃない。全部自分でもうけたらいいから」と言われて、「晩飯でも行こうや」と、またご飯に連れてってくれたんです。
 それまでは暴力団の人にあこがれとかはあっても、舎弟みたいな深いつき合いになったらいけないと、自分の中にブレーキはあったんですけど、たった1回の出来事によって、僕はその人のことを本当に信頼してしまいました。今考えると単純すぎると思うんですけど、この人はいい人だ、暴力団の人でもこんないい人がいるんだなと思ってしまって、この人について行こうと思ってしまいました。それから毎日のようにその人のところに出入りするようになって、24歳まで3年間ずっとついてまわったんです。


  僕が薬物をやらなかった理由

 一緒に悪いことをやってきた友だちの7~8割ぐらいは薬物をやっていたと思います。僕らのころはシンナーだったんですけど、2割ぐらいが薬物をやっていない感じで、暴走族の中でも「薬物やる派」と「絶対にやらない派」に完全に分かれていました。

 13歳のころは薬物を見たことも聞いたこともなかったぐらいだったんですけど、中学2年生で暴走族に入ったとき、先輩の家に行ったら、みんなビニール袋にシンナーを入れて吸ってました。たまり場に行くとシンナーしてて、原付に乗っててもシンナー吸ってたり、女の子が服の袖の中にシンナーを入れて歩いていたりとか、シンナーが当たり前のようにありました。

 20歳ぐらいになると、シンナーをやっていた先輩や友だちが「俺は大麻がすべてなんだ」みたいな感じで、ひたすら大麻のよさを延々と僕に説いてくるんです。MDMAという錠剤があって、「これを女の子と飲んでセックスすると最高なんだ」と言ってる友だちもいたし。いつも大量に覚醒剤を仕入れてくる友だちがいたんですけど、暴走族をやっていた友だちに覚醒剤を広めていって、覚醒剤をやっている友だちや後輩も増えていきました。

 でも僕は、シンナーとか大麻、MDMA、覚醒剤が目の前にずっとあったのに全然やっていないです。なんでやらなかったのかということを考えたんですけど、二つ思いついたことがあります。

 一つは、1歳上の先輩でめちゃくちゃ尊敬していた人がいました。その先輩がセブンスターを吸っていたので、僕も先輩みたいになりたくて、先輩を真似てセブンスターを吸ってたぐらいです。その先輩もずっとシンナーばっかりやってました。

 その先輩の家に行くと、先輩はシンナーを吸いながら僕に「お前だけは絶対シンナーやるなよ」と言ってたんです。すごく尊敬している人がシンナーを吸いながら「シンナーやってもいいことないから吸うなよ」と言ってくれることが、僕には説得力がありました。これはほんとによくないんだなと。先輩がやるなと言っていることなので、やらないようにしようということがありました。

 もう一つは、僕は中学1年から不良にあこがれていたんですけど、どうやって不良をやったらいいかわからないときは、不良のマンガ、僕たちが読んでいたのは『ろくでなしブルース』とか『特攻(ぶっこみ)の拓』とか『湘南純愛組』とかで、それを不良の教科書にして、どうやってしゃべったらいいかとか、ケンカの仕方とかを勉強していました。

 不良マンガにも薬物が時々出てくるんですけど、暴走族の頭になっている人とか主人公は必ず薬物をやっていなくて、後輩とかが薬物をやっていると、とめているシーンが多かったので、不良は薬物をやらないことがかっこいいのかなと思っていたということがあります。この二つが薬物をやらなかった理由として大きいと思ってます。

 でも、僕はガスをやったことが2回あるんです。高校に入ったんですけど、暴走族に入っているという理由で1か月もしないうちに自主退学になって、毎日が暇というか、昼と夜が逆転して、夜は暴走族をやって、昼はゴロゴロ寝てという生活をしていたんです。ある日、暇だなあと思ってて、ライターのガスがありますね、僕は薬物をやらない派という誇りを持っていて、みんなの前では「やっちゃいけない」とか言ってたんですけど、先輩が歯にガスをシューとやっているのを見てたので、そのときはすごく暇だったし、一人だったので誰も見ていないから、どんな感じなのかなと思ってシューとやったんです。でも、何にも感じなかったです。先輩たちがラリるというのが全然ないな、おかしいなと思いました。

 それからまた、全然暇なときがあって、みんなはシンナーするときにはミスター・パックというポリ袋にシンナーを入れて吸ったり吐いたりしているから、ガスをポリ袋の中に入れて吸ったり吐いたりしたら効果があるのかなと思ってやってみました。そしたら心臓がパクパクしてきて、すごく怖くなって、家からとび出たんです。そのときはほんとに怖かったんですよ。

 ガスをちょっと体験しただけですけど、ひょっとしたら自分には薬物は向いていないかもしれない、やらんほうがいいなと思って、それからはいくら暇だったとしてもやりませんでした。


  なぜ薬物を販売したか?

 僕は薬物自体はやっていなかったんですけど、20歳ぐらいからシンナーを売るようになって、覚醒剤とか大麻やMDMAも友だちがほしいと言ってきたら、人から買ったものに金額を上乗せして売るようになっていきました。

 薬物が大嫌いだっていうキャラクターでいたんですけど、20歳になると、ヤクザでもないのにかっこつけて「しのぎ」って言ってたんですけど、「なんかいいしのぎないかなあ」と友だち同士で話すようになって、捕まるリスクが低くて楽にお金がもうかることはないかということばかり考えていました。

 10代のころはシンナーの一斗缶を工事現場とか塗装会社から盗んでたんですけど、20歳になったとき、友だちが何かの資格があったらシンナーの一斗缶を3千円ぐらいで買えると言い出して、「大量にシンナーを買って、500mlのペットボトルに入れて売ったら、3千円の一斗缶がとんでもない額になる。500のペットボトルを1本千円で分けたげるよ」と言ってきたんです。そうかと思ってたら、知り合いが「3千円だったら買う」と言って、いきなり3本注文してくれたんです。1本売ったら2千円もうかるので、「6千円ももうかったわ」と思って、それまでは薬物に関わることがかっこ悪いと思っていたんですけど、そういう気持ちが薄れていって、シンナーを売るようになっていきました。何も考えず、ただ「1本売ったら2千円もうかるな。ラッキーだな」というぐらいの簡単な気持ちでいました。

 その他にブランド物のコピーとか、ニコイチといって盗難車のナンバーを付け替えて売るのがはやっていたんです。そういうのを売っていると、「大麻ないん?」とか「シャブ入らんのん?」と言う友だちや先輩も出てくるようになって、そう言われたら「ないです」と答えるのがかっこ悪くて、入るツテがなくても「すぐ入りますよ。どれだけいるんですか」と尋ねて、これくらいほしいと言われたら、「わかりました。なんぼで買うんですか」と量と金額を聞いてから、友だちに「それより安く分けてや」と頼むと、「いいよ」と言ってくれるので、その友だちから相手が言う金額よりも安く仕入れて届けに行くという中継地点みたいなことをしていました。そしたら、買ってくれた人は時々電話で注文してくれるようになったんです。

 それとか、先輩が「関東からMDMAを百個13万円で買ってくる。1個3千円で売ると17万円もうかるぞ」と言ってきて、「お金半分出してもうけないか」と誘われたので、「やりましょう」と話に乗ったこともあります。

 友だちの話だと「女の子は薬物やると感度がよくなる」とか「すぐできる」とか言っていたので、正直な気持ち、下心もあって、かわいい女の子からの注文だと、何かいいことがあればいいなと思いながら、友だちから買ってすぐに届けに行ったりしてました。

 こういう下心の気持ちと、自分が遊ぶお金が手に入るということだけ考えて、それ以外のこと、相手の人のリスクとかは考えることなく、自分の目先のメリットだけ考えて販売をしていました。


  僕はなぜ非行少年になったのか?

 話は戻って、僕がなぜ非行少年になったのかということを考えてみると、はっきりわからないのが正直な気持ちです。僕の家はテレビドラマに出てくる非行少年のような、家にお金がなくて電気が止まり、食べるものもないという家ではないし、僕は父や母から殴られたりとか、虐待をされたこともなく育ちました。

 父親は建築現場で働いていて、職場には刑務所に入っていた人もいたみたいです。僕が不良っぽくなっても、そんなに細かいことは言わず、「人のものは盗むなということと、高校へは行くという二つだけは守れ」と言われてました。

 でも、もしかしたらこういう理由があったのかもしれないということがあります。今思うと、こんな家はどこにでもあるし、大したことはないとは思うんですけども、小学校時代にいやだったことは、父親と母親がよく夫婦ゲンカをしていたことです。ケンカの原因は、父親がパチンコとフィリピンパブにはまっていて、母親に内緒でサラ金でカードを作って借金してたんです。そういうことで両親がよくケンカをしていました。

 もう一つは、2DKのアパート住まいだったことです。小学校の3年か4年ぐらいまでは何とも思わなかったんですけど、だんだん家がアパートということがつらくなっていきました。それは、友だちの家に行くようになると、自分だけの部屋とか兄弟の部屋があるのがほとんどだったんです。僕んちは一つの部屋が物置みたいになっていて、もう一部屋に家族4人でご飯を食べて、そこに寝ていたんです。勉強机もその部屋にあったので、自分だけの部屋とか兄弟だけの部屋がなくて、なんで自分ちだけこうなのかなと思って、だんだん不満になっていって、その気持ちが大きくなりました。

 今でこそ何でもないことだと思っているんですけど、自分の中では家がアパートだということと、両親がケンカしていることがかなり大きくて、でもそのことを友だちや親には言わず、自分一人でいやだなと思い続けていたところがあります。こういうことが土台になったのかなという気がします。犯罪をやったのは僕自身なので、何かのせいにするのはいやなんですけど、そういう影響があるのかなと思っています。

 中学で野球部に入ったのに、全然うまくいかなかったということも理由の一つです。といっても1学期のことで、ちょっとしか練習していないのに、試合に出れなかったので自分はだめだみたいな、今思うと甘ちゃんというか、情けない話ですけど、どんなに練習しても全然だめだなと思ってしまったんです。それと、勉強についても俺は馬鹿だなと、1年の1学期で思ってしまいました。家も、貧乏ではないかもしれないんですけど、自分んちは学校で一番貧乏だと思っていて、何をやってもだめだなと思っていました。

 最初に悪いことをしたのが、学校にお菓子を持って行ったらいけないのに、お菓子を持って行って、先生に見えないところで食べたりとかしたんです。非行を始めるきっかけとなったことは、これも単純なことなんですけど、ゲーム機も持って行ったらいけないのに、ゲーム機を持って行ってやっていたら、先生から注意をされたことです。

 僕はその先生がすごく怖かったのに、友だちが見てたので、強がって反抗したんです。そしたら、僕は「タッカン」と呼ばれてたんですけど、友だちが寄ってきて「タッカン、すごいね」と言ってくれました。みんなも怖いと思っている先生に悪いことをやって注意されたのに、口答えして反抗したということで、友だちが「すごい」と言ってくれたんです。言ってくれた友だちというのは一部の友だちだけなんですけど、「すごい」と言ってもらえたことが自分の中ではすごく衝撃的でした。

 それまでは勉強とか部活で、友だちから「すごい」と言われるようなことがなかったですし、友だちから認めてもらえるような、自分に秀でているものがあるとは感じなかったんですけど、友だちに「すごい」と言ってもらえたことが、そもそも悪いことをしたのにそのことは頭になくて、すごくうれしかったんです。

 もっと「すごい」と言ってもらいたくて、少しずつ悪いことがエスカレートしていきました。タバコなんておいしくないのに吸ってみたりとか、学校にナイフを持って行ったり、髪を染めたりすると、またそれで一部の友だちが「すごい」と言ってくれました。僕は、このやり方だったら友だちから認めてもらえて、自分の存在感を示していけると思って、不良と呼ばれるようなキャラクターで生きていこうと選択しました。

 それからはどんどんエスカレートしていって、悪いこととはわかっていても、被害者のことを全然考えることができなくて、犯罪をひたすら重ねていく一方でした。いろんな人が関わってくれてたので、立ち直るチャンスはあったと思うんですけど、自分の中では真面目になろうとは全然思えなかったのが本音です。

 なんで真面目になろうと思えなかったのかというと、悪いこと以外では自分はだめなんだと自分で決めつけて、最初から勝負することから逃げていたことがあります。もし犯罪をやめて真面目になれば、誰からも相手にされなくなり、馬鹿にされてみじめな思いをするだけだと思っていました。実際に馬鹿にされたわけではなくて、勝手に自分でそう決めつけていただけなんですけど。それと、自分から不良になると選択したのに、「俺は真面目になるよ」と言うためのちゃんとした言い訳が、自分に対しても、まわりの人に対してもなかったのかなというふうに思っています。


  なぜ犯罪をやめたのか?

 24歳から6年間、犯罪をしていません。犯罪を続けていたのに、なんで犯罪をやめて、家族で暮らし、仕事もさせてもらって生活できているのかということなんですけども、24歳のときに初めてちゃんとやっていこう、真面目に生きていこうと思いました。それは妻が妊娠したことがきっかけです。

 もっとも、妊娠してすぐに立ち直ろうと思ったわけじゃないんです。暴力団の仕事をしているときに、そのときはまだ結婚していなかったんですけど、妻から妊娠したという電話がかかってきました。妻はテレビドラマであるような、「妊娠したよ」と言うと、僕がすごく感動させる言葉を言うだろうと期待してたと思うんですけど、僕は忙しかったので、「忙しいけ、あとからかけ直すわ」と言って切ったんです。今でも妻はそのことをかなり根に持って怒っています。

 妊娠したと聞いても、ちゃんとやらなきゃいけないなと思うこともなく、子供がいるのに悪いことをしている人がいるからか、僕はずるずると暴力団の仕事を続け、妻が妊娠しても真面目になろうとは思わなかったんです。

 5か月したら子どもが産まれるというときに、ゴールデンウィークだったんですけど、ドライブに行こうということで妻と神戸に行きました。山口組の本家を一回見てみたいなと思ってたので、妻とぐるっと歩いて回ったら監視カメラがいっぱいあったので、こういうでかい組織だと監視カメラもたくさんあるんだなと思いながら見てて、そのあと六甲山に行ったんです。夜景を見てたら、兄貴分から電話がかかってきました。僕が組の仕事を忘れていたのですごく怒られ、すぐに広島に帰らないといけなくなってしまったんです。その時に初めて、子供が産まれたらどういう生活になるのか、真剣に考えました。

 そのころの生活は、朝の9時になったら兄貴分の家の目の前にセブンイレブンがあるので、そこで「お~いお茶」とパーラメントというタバコを買わなきゃいけないので、それを買って、車で待ってたら、兄貴分がやってくるので、僕は運転をして兄貴分を親分の家まで送るということを毎日のようにやっていました。日曜日も祝日も、お盆休みや正月休みも関係なく、ひたすら3年間続いていました。最初の2年ぐらいは正月にも休みがなかったんですけど、その後の1年は、正月や日曜日などは休みをもらえる日もちらほらとあるようになりました。

 突然電話がかかってきてすぐ行かないといけないこともありました。夜中の3時に電話があって、すぐに兄貴分のところにかけつけたこともありますし、彼女と映画を見てたりしてても、兄貴分から電話がかかってきたら彼女を置いてすぐに行ったりして、何よりも兄貴分の指令が人生の第一優先になっていました。というのも、僕がミスをしたときには、兄貴分が十何発か顔をひたすら殴ってくるんですけど、目が切れて、顔が腫れて。3年間に5回以上は思いっきり殴られていたので、そういう恐怖もあったので、兄貴分の言うことを絶対に守っていたんです。

 せっかく六甲山で夜景を見てたのに、すぐに帰らなくてはいけなくなったので、これでは子供が産まれても子供との時間は全然作れないなと考えました。子供と一緒に旅行とかには行けないだろうし、子供の参観日とか運動会とか、そういうのでも仮に時間を作って出かけたとしても、電話がかかってきたらすぐに行かないといけないんだろうなとか、初めてそういうことを真剣に想像しました。さらに、そのときは執行猶予がついていたのに組のことで犯罪していたので、いつ捕まって刑務所に行くかわからない生活でした。

 24歳になるまで何も罪のない人たちに迷惑をかけたり、母親を何回も泣かせてきてるんですけど、そのことを悪いとは思わなかったし、真面目になろうとは全然思ったことがなかったんです。でも、自分の子供を幸せにできるか、不幸にしてしまうかということを考えると、幸せにするどころか不幸にさせてしまうことは確実だと思いました。もっと早く考えていればよかったんですけど、全然考えたことがなくて、その時に初めて真剣に考えてわかったんです。産まれてくる国とか親を選べない子供が、たまたま僕の子供として産まれてきてくれるのに、産まれる前から不幸になることが決まっているというのは、さすがにそれだけはいやだなと思って、これは自分が変わらないといけない、生き直していこうと初めて思いました。

 僕は意志が弱いので、広島にいたままだったらずるずる流されていくので、人生を変えていくんだったら広島にいたらだめだと思って、誰も知り合いのいない県外でゼロからスタートしていこうと、六甲山の夜景を見たときに決めました。そのときに、暴力団と縁を切らないといけないということが一番に頭に浮かんだんです。

 ヤクザ映画とかだと、足を洗いたいと思った若い人が親分に「足を洗わせてください」と頼んだら、親分が「二度とこういう世界に来るなよ」と言って、温かく出してくれるようなシーンを見たんですけど、実際はそういうもんじゃないんです。

 僕を紹介してくれた先輩は僕より先にその組をやめようとして逃げたんですけど、結局は捕まって暴力団の事務所に連れて行かれて、そこでされたことは、頭から灯油をかけられ、組の人がライターをカチカチやりながら、「燃えて死ぬか、組に戻るか、この二つの選択肢しかお前にはない」と迫って、1時間以上そのやりとりをしたそうです。暴走族時代は根性があってかっこいいなと思ってた先輩だったんですけど、そのときは怖がって、最終的には「やめていい。その代わり百万円、手切れ金として持ってこい」と言われて、先輩はお金がなかったので盗みに入って、お金を払って組をやめました。そのあと、窃盗が発覚して逮捕され、刑務所に入ったんです。せっかくやめたのに、刑務所の中で他の暴力団の人と仲良くなって、出所したらまた暴力団と関係を持っています。関係者の間では、指を落とされたりとか、会長の名前を刺青で入れてたところに熱した中華鍋を押し当てたという事件もあったんです。

 僕は強がっていたんですけど、もともと不良の中でも根性がないほうだし、ケンカも弱いし、すごくびびりなので、暴力団の人に会いに行って「縁を切らしてください」と頼むのは怖くて、何回も頭の中でシミュレーションしたんですけど、僕は何回も殴られていたので、とんでもない目に遭って、結局はかなりの大金を払わないといけなくなるのかなと思うと恐怖しかなかったので、自分から入っていった道なのに、逃げることを決めました。東京や大阪に逃げることも考えたんですけど、親戚や知り合いが住んでいたので、誰も知った人のいない名古屋にしました。

 妻は広島で仕事をしていたし、妻のお母さんとお姉ちゃんも広島だし、友だちも広島にいるんです。「県外に逃げる」と相談したら、広島を逃げることに彼女も抵抗があって、「突然そんなことを言われても困る」と言ってたんですけど、いろいろと話し合った結果、「ついて行く」と言ってくれました。名古屋に伝手があるわけではないし、お金も仕事もない、家もない状況なのに、妻がついて来てくれるので、逃げることを決意しました。

 僕は思ったらすぐに行動しないといけないタイプなのか、それまでは暴力団の人と縁を切ろうとか一切思ったことがなかったんですけど、逃げることに決めると、今日逃げようと思ってすぐに広島に帰り、荷物を車に積めれるだけ積んで、兄貴分に別れの手紙を書いて、兄貴分のセルシオのワイパーにはさんで逃げました。そして愛知県を目指したんです。それから6年経って、今ここにいさせてもらっています。

 ずっと犯罪をやってて、真面目にやろうとは少しも思ったことがなかった僕が、父親になることを真剣に考えたことがきっかけで、ちゃんとやっていこうと初めて思えるようになるに至るまでを振り返ってみると、僕の両親や弟は、僕がどんなに犯罪をくり返しても、何回も裏切っても、少年院に手紙を書いてくれり面会に来てくれたし、引受人になって迎えに来てくれてました。あきらめることなく、僕が立ち直ることをずっと願ってくれました。僕は家族から愛されていると思っています。親から大事にしてもらっていたということがあったからこそ、自分が父親になったら自分がしてもらってきたように子供を大切にしないといけないと思えたと思っています。


  名古屋に来てから

 名古屋に行ってどういうふうに生活し、今に至るかということですけど、それまで何の我慢もせずに好き放題にやってて、他人様のものを盗んだりして生活していた僕が、真面目になりたいと思って知らない土地でいきなりスタートしても、すぐにうまくいくはずがありません。

 家もお金もなかったので、しばらくは車の中で生活していました。VOXYというワンボックスカーの後ろのシートを倒して、車の中で寝てたんです。そこからしわくちゃのスーツを着て、いろんな会社の面接に行ったんですけど、中卒で、24歳という年なのに経歴もなく、住所も広島のままだったので、面接にはひたすら落ちました。車の中で生活していたのは10日か2週間ぐらいです。いろんなところに面接に行っても受からなかったので、愛知県に住所があったほうがいいと思いまして、車を売って、そのお金で敷金、礼金を払ってアパートを借りました。

 そこから面接に行って、最初に受かったのは、電話でアポを取って学習教材を売るという仕事です。フルコミッションといって、基本給はなくて、売った分の何%かが僕の収入になるけど、売れなければ給料はゼロで、交通費とかは自腹なんです。それだったら雇ってもいいと言われて、何も仕事がないとまずかったので、その仕事をやったんですけど、まったく売れなくて、交通費だけかかるので、1か月もしないうちにその仕事は辞めました。そのあと、宝石の営業を始めたんです。恋愛商法とかデート商法と言うんですけど、電話やメールでやりとりして、相手に恋愛感情を持たせて買わせるというやり方で、詐欺のようでした。それもなかなか売れませんでした。

 僕は金づかいの荒さが全然直らなくて、給料が少ないのに収入以上に高い服を買ったり、高いものを食べたりして、おかしな生活を続けていました。足りないお金はどうしていたかというと、消費者金融でカードを作って、それで払っていました。カードで借金して買い物をしているのに、自分にお金があるものと錯覚していたので、当然のごとく借金はどんどんふくらんでいって借金を返せなくなり、とうとう自己破産することになりました。そもそもは家族を大切にしたいと思って広島を出たのに、根本的なものが何も変わっていなかったんです。

 妻が一大決心して名古屋に来てくれて、車で生活していたころは、妊婦だった妻は風呂に入らずにいたし、お金がなかったから弁当屋さんで白米だけ買って公園で食べたり、ガスコンロを使ってインスタントラーメンを作ったりしてたのに、妻のことは何も考えず、感謝の気持ちを言わなかったり、自分の好きなことをして子育ては妻に全部まかせっぱなしにしたりとかした結果、愛想を尽かされて、妻は子供を連れて広島に帰ってしまい、離婚することになりました。

 それからは、1か月に一度は妻と子供に会いに広島へ行って、「何とか変わるからチャンスがほしい」と頼んだんです。2年間それを続けたら、妻がチャンスをくれて名古屋に戻ってきてくれたので、また妻と再婚し、2人目の子供が産まれました。僕が犯罪をやめれたこととか、こうやって生活できているのは、僕の親や弟、妻や子供の力のおかげで、自分一人だったら根性がないので難しかったと思って、家族に感謝しています。

 仕事のことなんですけど、宝石の営業をしたあと、特別養護老人ホームで介護の仕事を始めました。そこは1年しか続かなくて、そのあと今の仕事の知的障がい者の住まいであるケアホームに転職して、生まれて初めて仕事が5年間続いているんです。

 最初の面接では自分は中卒だということとかを正直に話したんですけど、身体に刺青があるとか犯罪歴があるということは会社には隠していました。働き出して2年経ったころ、僕はBBSで非行少年と関わる活動をしたり、「非行と向き合う親たちの会」で講演をしたりしていたので、そのことで朝日新聞から取材のお話をいただいたんです。いろいろ考えた結果、ここで名前が出たとしても、小さい記事だから会社にはばれないだろうと思って、新聞に掲載してもらいました。

 ところが、社長や事務員さんがその記事を見てて、翌日には刺青があることや犯罪歴があることが発覚してしまいました。僕は会社をクビになるなと思ったんですけども、上司が「社長が事務員に、高坂は過去にいろいろあったとしても、今は一生懸命働いてくれているから、そんなのでクビにはしない。もしかしたら新聞記事を利用者の親御さんが見て、自分の子供を預けている福祉の会社に犯罪歴のある職員がいるのかとクレームがあれば、会社としてちゃんと「高坂はこういう人間だから大丈夫です」と説明して守ってやるから、と言ってたみたいだよ」と、社長の思いを伝えてくれました。それがすごくありがたくて、この会社で仕事を続けさせてもらいたいと思いました。この6年間もいろんな失敗ばっかりなんですけど、再犯をすることなく、何とかこうやって生活できているのは会社の社長や同僚のおかげだと思っています。

 福祉の現場で3年間働いたら、介護福祉士という国家試験の受験資格がいただけるということで、3年働いたあとに介護福祉士の試験を受けて、何とか合格さしてもらいました。

 それと、日本福祉大学の通信制に通っているんです。僕は高校も出てないですし、大検で高校卒業資格も取っていないんですけども、日本福祉大学の通信制には特修生という入り口があって、中卒の人でも18歳以上で中学を卒業していたら、願書を出せば必ず特修生で入れます。1年間で大学から定められた科目を履修し、定められた単位数を取得すれば、次の年から正科生ということで大学1年生として認めてくれるんです。大学を卒業したら大学院にも行けるし、留学もできます。僕は特修生という方法で日本福祉大学に入って、3年生まで勉強したところで、下の子供が産まれて学費が払えなくなって休学し、今年の4月から再入学します。何とか大学を卒業して、社会福祉士の資格を取りたいと考えています。

 特修生で大学に入る制度があることを誰も知っていなくて、インターネットでいろいろ調べていったら発見して、これはすごいということで大学に行って説明を聞いて、入ったんです。今はできるだけ自分のブログでだとか、親御さんに伝えるようにして、情報発信をしています。みんな必ず「そんなこと知らなかった」と言われます。

 今日、ここに来る前に岡山少年院に面会に行ったんですけど、そういうやり方があるよと話したら、目をきらきらさせて喜んでいました。悪いことをやったことは消えないし、とんでもないことですけども、少年院に入ってもいろんな道があって、可能性があることを少年たちに伝えていきたいと思っています。


  暴力団との関わり

 僕は逃げっぱなしでいたんで、暴力団の兄貴分との関係が解決していなかったんです。妻が離婚して広島に帰ってから、1か月に一度は妻や子供に会いに広島に帰っていたんですけど、ほんとかどうかはわからないですけど、暴力団の人が僕の先輩に「広島に帰ってきて何かやっていたら、面子があるから殺さないといけない」と言っていたというのを聞いていたので、いつ、どこで、いきなり見つかって車に乗せられるかわからないと思ってて、広島に帰っているときは常に気が気でないというか、何されるかわからないという気持ちでいました。もし暴力団の人に見つかったら、組事務所に連れて行かれてぶっ殺されるような目に遭うかもしれないという恐怖があって、自分の身を守るために、広島に帰るときにはいつも包丁を隠し持ったまま歩いていました。3年ぐらいしたら包丁を持つことはしなくなったんですけど、でもずっと怖かったんです。

 名古屋で非行少年と関わる活動を始めて2年ぐらいして、広島でも非行少年と関わる活動をやっていきたいと思うようになり、弁護士さんとかと相談して活動を始めました。怖いというのはあったんですけど、広島に帰っても暴力団の人に捕まらないように気をつけながらやっていました。

 いつか解決したいと思っていたんですけど、でもお金を払って解決するのはいやだし、その人よりもっと悪い暴力団の人にお願いして縁を切らしてもらうということもいやだったので、ちゃんと直接話して、お金も払わずに解決できたらいいなと願っていました。

 今年の元旦に、かなり悩んだんですけど、勇気を振り絞って暴力団の人に電話して、「広島に帰っているので会ってほしい」と頼んだら、僕が思ってたより怒ってない感じで「ええよ」と言ってくれました。「もしよかったら明日でも会ってもらえないですか」と頼むと、1月2日にファミリーレストランで待ち合わせして、1対1で話をすることになったんです。1時間半から2時間ぐらい話をしました。それまでに何回もぶん殴られていたのですごく怖かったし、お金の話になるんじゃないかと不安はあったんですけど、自分にはお金はないから1円もお金は払えないということを伝え、他の暴力団の世話になっているとかして中途半端に悪いことをしているわけじゃなくて、介護の仕事をしながら少年と関わる活動をしているということを正直に全部話したら、許してくれないかと思ってたんですけど、「それだったら別にええよ。広島にいつでも帰ってきてええで」と言われたんです。お金を払うことなく、暴力を振るわれることもなく話は終わって、それからは広島に帰ることには問題がなくなっています。


  非行をやめたいと思っている人へ

 正直なところ、どうやったら非行をやめられるか、どうやったら予防になるか、全然わからないです。「セカンドチャンス!」でも、クスリで捕まったという子が来ても、どういう言葉をかけていいかわからないし、自分がやめさせられるはずがないと思っているので、一緒に釣りに行ったり、ご飯を食べたりして、一緒に遊ぶことをやっているんです。

 どうにもならないときは一人で立ち向かうよりも、逃げることが大切なんじゃないかなと思っています。僕自身、広島から名古屋に逃げたことが人生が劇的に変わったポイントです。逃げようと思った時に一つ心にひっかかったのは、11年間、暴走族をやったり、暴力団の人についたりしたし、誕生日になると友だちや後輩とかが「誕生パーティーやりましょう」と集まってくれてたので、自分は不良の中で上がってきていると思ってたから、不良グループから逃げることは一番の恥だと考えていました。

 ちゃんとした生活をしたくて逃げることは、今まで不良の中で積み上げてきたものを全部捨てないといけないから、友だちとか後輩から「あいつ逃げやがった」とか「根性なかったな」みたいな感じに思われることが、正直すごくひっかかっていて、結構つらいところがあったんです。今はちっぽけなものだと思ってますけど、その時はすごくひっかかっていました。

 立ち直るには自分とまわりに対してある程度説明できる言い訳が必要だと思っていて、たとえば「刑務所に入りたくないから俺は真面目になる」とは、自分から不良の世界に入っているので口が裂けても言えないというか。「先輩のリンチが耐えきれずやめたい」というのも、自分に対してもまわりに対しても言い訳がつかんというのがあったんです。

 六甲山で夜景を見るまでは暴力団と縁を切ろうなんて考えたこともなかったんですけど、もしかしたら本能的にいつかこういう生活から抜けたいと思ってて、子供ができて父親になるということが、これだったら説明のつく言い訳になるかなという、子供をだしにするようですけど、そういうのがあったのかなと。

 それと、僕は中卒で、入れ墨も入っているし、お金も家もないんですけど、でも県外に行ったらなんとかなると思ってたんです。それは、21歳のときまでは犯罪でお金を得て生活してて、建築現場とかで働いても全然続かなかったんですけど、暴力団の人についてからは株式会社を作ってもらい、中古車販売とパチンコ屋さんに派遣する人材派遣の、合法の会社の代表取締役をやらしてもらって、初めて法律を犯さずにお金を得ることができてたんです。実際は暴力団から元手の資金が出ていて、実質のオーナーは暴力団の人という企業ですからよくないことなんですけど、自分でもちゃんと稼いでいけるんだということがあったから、県外に出てもなんとか犯罪をやらずに食べていけるかなという自信というか、背中の後押しになったのかなと思っています。

 現在なんとかやれているのは、僕一人の力ではなくて、いろんな人に支えてもらい、たくさんの人を紹介していただいたということがあります。ですから、誰でも言うことかもしれないですけど、自分一人で悩むことはやめたらいいのかなと思っています。自立しろとか、依存したらいかんとかと聞くんですけど、僕の考えでは一人じゃ生きていけないと思うので、信頼できる人というか、依存先を一つに集中するのではなく、選択肢を増やし、どうしたらいいのか相談できる人がいることが大切だと思います。

 不良のプライドを捨てて逃げようと思ったときに助けを求めたのは、18歳で逮捕されたときに付添人になってくれた秋田さんという女性弁護士さんです。付添人というのは、家庭裁判所の少年審判を受ける少年と事件の原因を考えたり、立ち直る援助をしたりする人のことです。

 僕の父がお金を出して私選でついてくれたんですけど、そのときはひたすら僕に説教ばっかりしていたんで、僕としたら私選の弁護士さんは「私がこういうふうに質問したら、こういうふうに答えてくださいね」とか言って、いかにして僕の罪を軽くするかというのが弁護士だと思っていたのに、そういう打ち合わせは一切なく、説教ばかりだったので、「こんな口やかましいおばさんにどうしてお金を払ったのかな。だまされた」と思ってました。でも、少年院に入ってから手紙をもらったし、出たら挨拶をしに行ったりして、半年に1回電話でしゃべるぐらいの薄い関係がずっと続いていました。いつもつき合いをしている友だちとは違う世界を見せてくれる不思議な人というか、だから相談できたというか。

 逃げるときに誰に相談したかというと、秋田さんなんです。心配して電話をくれた友だちはいっぱいいたんですけど、みんな暴力団となにかしらつながっていたり、そういう関係しかなかったけど、秋田さんだったら暴力団の味方をすることは100%ないなと思ったので、「逃げようと思ってる」と弱音を吐いたら、「ヤクザになんか1円も払う必要はないよ」といろいろと言ってくれて、すごく救われました。


  僕の夢とミッション

 僕が非行少年の再非行防止活動を始めようと思ったきっかけは、名古屋市の特別養護老人ホームで介護職として働きだして自分の価値観が大きく変化したからです。僕の価値観がどのように変化したかと言うと、特別養護老人ホームで働く前までは、世の中はお金がすべてだと思っていて、人を踏み台にして自分が成り上がることばかり考えていたんです。特養で働こうと思ったのも、高齢者が増えると聞くから、ビジネスで儲けるならこれからは高齢者介護だと思い、介護現場で働く選択をしたんです。最初は将来の金儲けのためでした。だけど、老人ホームで働きだしてからは、お金がすべてではなく、お金よりも大切なものがあると、心の底から思うようになりました。そういうふうに思うようになった出来事はいくつかあります。

 会社経営をされていてお金もある方だけど、常時介護が必要なおじいちゃんがいました。ネガティブな言動が多かったり、さまざまなことに対して覇気が感じられなかったりしましたけど、2日に1回、必ず奥さんが老人ホームに来られていました。奥さんが来られると、毎回満面の笑みとなり、すごく元気になって、時には奥さんを困らせてみたりと、本当に生き生きとされていました。奥様に愛されながら亡くなっていかれました。

 認知症のおばあちゃんもいました。昨日、今日の出来事はほとんど覚えていないんですけど、戦後、厳しい経済状況の中、仕事と育児に追われながら生活していたときのことをよく話してくださいました。聞いている僕にも、その情景が浮かんでくるぐらいにはっきりと話をしてくれました。少女のような澄んだ瞳だったです。

 おじいちゃん、おばあちゃんたちは新人である僕を一人の人間として向き合ってくれて、泣きながら話をしてくださったり、おむつ交換などをさせてもらったりしていると、申し訳なさそうにお礼を言ってくれたり、選挙の投票をしたいとか、お寺に行きたいという希望のお手伝いをさせてもらったら、心から喜んでくださり、何度も何度も「ありがとう」と言ってもらえました。

 他にもまだまだいろいろな体験をさせていただく中で、お金よりも大切なものがあるということと、僕でも必要としてもらえることがあるんだなと思いました。そう思えたら、自分の時間やお金を使ってでも人に喜んでもらえることをやらせてもらいたいという気持ちがふつふつと湧いてきて、自分の体験を生かして非行少年の再非行防止に関わるボランティア活動を行うようになったんです。

 BBSの会員になったのが最初です。インターネットで非行少年と関わるボランティアを探していたら、BBSを発見し、名古屋保護観察所に話を聞きに行って、保護観察所職員からBBSにつないでもらいました。

 それと、杉原美津子さんという方との出会いが大きいです。杉原さんは1980年の新宿西口バス放火事件で、全身に80%の大火傷を負った被害者です。杉原さんがいなかったら、僕は「セカンドチャンス!」のメンバーになっていなかったと思います。

 杉原さんを僕に紹介してくれたのは、当時、少年院の院長をされていた村尾さんという方で、村尾さんとの出会いは、僕が「東海・「非行」と向き合う親たちの会」の講座で講演させてもらったときに、参加者として話を聞いてくれていて、講演が終わったあとに、村尾さんから話しかけてくださり、つき合いが始まりました。

 杉原さんには「セカンドチャンス!」の創設者である津富さんを紹介してもらいました。杉原さんが「セカンドチャンス!」を知ったのは、ご本人に確認したことがないので正確なことはわからないんですけど、村尾さんから聞いて、自ら津富さんに会いに行かれたんだと思います。杉原さんから「津富さんは信頼できる人だよ。一度、会ってみるといいよ」と紹介されました。「津富さんの話を聞いてみて、よかったら「セカンドチャンス!」に入ったらいいんじゃない」と杉原さんから言ってもらえたことが、僕と「セカンドチャンス!」のつながりのもとになっています。

 今は福祉の仕事をやりながら、保護観察所から依頼を受けて休みの日とか合間の時間で保護観察中の少年と関わったり、逮捕された少年の付添人として家庭裁判所の審判に立ち会ったり、少年院に入った少年の面会に行ったりという活動をやっているんです。付添人には弁護士がなることが多いんですけど、弁護士でなくてもよくて、僕も今まで10件ほど付添人になりました。

 昨日も少年院の先生とか保護観察官の人と食事をしながらいろんな話をして、犯罪をやった人たちと専門職として関わっている方たちに僕の意見を言わしてもらったら、お世辞かもしれないんですけど、「そんなことは考えもしなかった」とか、「プログラムを受けている側の人はそういうことを思っているんだな」と言ってくださって、それを現場に伝えて、お互いよりよい方向にしていきたいと言ってくださったんです。

 そういうことを考えると、当事者にしか見えない視点というか、その人にしかわからない悩みとか考えがあると思うので、以前は悪いことをやってきて、でも今は犯罪をしていない僕のような人間が社会に発信することで、同じような事件が起きないようにするお手伝いができるかもしれないと考えています。

 いろんな人と連携して、犯罪をしている少年が少しでも再犯しないように、そして我が子の非行で悩んでいる親御さんたちや被害者の方たちに何ができるのかということを考えていきながら、自分のできることをやらしていただくことを人生の目的にしようと思っています。そして、高齢者の方とか障がい者の人とか、あるいは児童養護施設で生活している子供たちが、安心して心から笑顔になれる家や昼間の日中先や居場所を、非行少年と一緒になって作っていくのが僕の夢です。

 でも、今は仕事をしながら空いた時間でやっているので、家にいる時間がなくなって家族と一緒に過ごす時間がかなり少なくなってますし、なおかつ給料が少ないのに家のお金を持ち出しています。仕事中に少年や親御さんから相談の電話がかかってくることもあって、会社には感謝しているし、仕事は大好きなんですけども、これでは仕事にしても、家庭のことや活動とかにしても、全部が中途半端になっている状態なんです。

 自分の夢とミッションを考えていく中で、自分は何をやりたいのかと自問自答したときに、何かやるのなら何かを捨てないといけないということで、考えた結果、福祉の仕事は好きだけど、過去の自分のような少年たちと関わりながら、みんな力を持っているから僕が関わるようなお節介はいらないかもしれないんですけど、少年たちと関わっていきながら一緒に幸せになっていくことが一番やりたいことだなと思ってきて、妻に相談したら、妻も「ぜひともそうしてちょうだい」と言ってくれたので、そのために「NPO法人再非行防止サポートセンター愛知」を立ち上げることになりました。3月30日にNPOの設立総会をして、11月1日から事業を始めることが決まっているんです。再非行防止は難しいと思うんですけど、まずは一回犯罪を犯して捕まった少年と関わらしてもらって再非行を減らすということと、親御さんたちの安心と笑顔を増やすために必要なことを全力でやっていこうと思っています。

 仕事をいきなり辞めてNPOでご飯を食べていけるかというと、さすがにそれはできないので、愛知県の委託事業などが取れるまでは仕事をしながら活動をしていき、NPOのめどがついてきたときに今の仕事を辞めて、少年の再非行を減らすなどの活動を自分の本業にして、一生懸命やらしてもらおうと思っています。


  僕の償いとは?

 僕は30歳になってるのに、償いは全然できていません。事件の被害弁償も被害者への謝罪もできていません。28歳のときに、盗みに入ったお店に謝りに行こうと真剣に考えました。でも、悩んだ結果、また今度でいいかなとか、10年前のことだから忘れているんじゃないかと、自分の中で言い訳を並べて、結局引き返しました。謝罪の手紙を書こうとも考えたんですけど、いまだにできていません。

 加害者がこう言うのは不適切かもしれないですけど、被害者の方に会うのは怖いというのがあります。僕自身、いろんな犯罪をやってきたんですけど、誰かに無理矢理やらされたりしたことはなく、全部自分でやってきました。非行少年の親が悪いとか報道で見たりするんですけど、僕の親は一生懸命向き合ってくれてたし、親のせいで悪くなったと思ってないです。教師とか社会のせいでもなくて、自分で判断し、自分がやってきたことなので、当たり前ですけど、自分が悪かったと思っています。

 でも、償いということを考えると、何が償いなのか、自分がやってきたことなのに30歳になってもわからなくて、償いを考えていると怖いというか、難しすぎて、考えたくなくて放っておきたいというのが正直な気持ちです。でも、加害者の自分が逃げたままではいけないと思っているので、一生かけてでも償いを考えて、死ぬときには償いができたと、何とか思えるようにしていきたいと考えています。

 僕は自分がやってきた犯罪の被害者の人たちに対して償いをするということから逃げているし、償いをすることは難しいんですけど、再非行を減らして笑顔を増やすことで、間接的なことかもしれないですけど、償いにつなげていけるようにしていきたいと思っています。

 再非行を防ぐ活動をしていると、「今の活動が償いの一つなんだ」と言ってくださる方がおられるんですけど、自分の中ではそう思ってはいけないみたいなのがあります。活動することが償いなんだと加害者だった僕が思ってはいけないし、言ってはいけないのかなと思っています。事件の被害者の人たちは、加害者である僕にそもそも会いたくないと思うんですけども、こういう活動をしながら、いつかは直接償いさせてもらわなければいけないと思っています。


  母のこと


 僕の母は福岡の生まれで、父と知り合って結婚して、僕と弟との二児の母になりました。僕が13歳になってどんどん悪くなってからは、母の人生が大きく変わっていきました。中学校のころは母親に「髪を染めるな」とか「夜、家を出ていくな」と言われることがすごくいやでした。母親は一つひとつのことにすごく厳しくて、僕が髪を染めたりタバコを吸ったりすると、ヒステリックな感じで大きな声で怒ることがあって、僕は親に手を出したことはないですけど、中学校のときは口ゲンカをずっとしてました。

 僕が夜遅くまで家に帰らないと、母はゲームセンターとかカラオケボックスとかを探してくれました。結局見つからなくて、僕が朝の3時くらいに家に帰ったら、いつも母が起きて待っていてくれてたんです。目を真っ赤にしていたこともありました。タバコを吸ったりとか、同級生に暴力を振るったりして、親が学校に呼ばれると、いつも母がとんで来てくれて、先生や相手の人にひたすら頭を下げて謝ってくれました。でも僕は、母親が先生に謝っている姿がすごくいやでした。ほっといてくれ、真面目になる気もないからと思ってたんです。

 1回目の少年院に入ったときに母が子宮ガンになってから、母への見方ががらっと変わりました。それまでは母は強い存在だったんです。母親は死ぬんだと思ったときに、真面目になろうという気持ちはなかったんですけど、でも中学校のころみたいにあからさまに「今から暴走いってくるわ」と言ったりせず、「暴走族はやめたよ。今は落ち着いているよ」みたいな感じで、真面目にはならないにしても、できるだけ母親に心配させないようにしようと決めて、少年院を出てからは母親への接し方が変わっていったと思います。

 僕が17歳のときに、父がフィリピンパブの女性とつき合って借金をし、それで母は我慢の限界になったのか、母は父と離婚して生まれ育った福岡に帰ったんです。母が子宮ガンになったのは、僕が心配をかけていたので、それで子宮ガンになったのかなと思っていますし、父がフィリピンパブの女性とつき合って家にいなくなったというのも、父にも迷惑ばかりかけていたので、父もいろんなことがいやになって、他の女の人に行ってしまうようなことを僕がしてしまったのかなと。それで結果的に両親が離婚するようになったのかと思います。

 母はずっと一人で福岡で生活してるんです。福岡に帰ってから母のお父さんが亡くなり、遺産相続のことで義理の母親や兄弟ともめたみたいで、それで兄弟の縁が切れたと言っていました。ずっと同じバイトをしているんですけど、それは病院での皿洗いの仕事です。九州で講演をさせてもらうことがあると、必ず母の家に泊まらしてもらいます。びっくりしたんですけども、冬だったのにお湯が出ないアパートに住んでて。

 妻から「あなたはマザコンだ」とよく言われてて、自分でもマザコンだと思ってるんですけど、母さんが大好きです。母の家に泊まると、10代のころにたくさん迷惑をかけて母を泣かせてきたことに対して本当に申し訳ないと思っているので、遅いとは思うんですけど、謝りたいという気持ちがあります。だけど、「今までごめんね」ということを、それだけのことを言いたいんですけど、何か逃げているのか恥ずかしいのか、のど元まで出るんですけど、そういう言葉が言えなくて、「身体、大丈夫なん?」とか「生活は大丈夫?」ということは言えるんですけど、「今まで迷惑をかけてごめんなさい」ということが言えず、「元気でね」と言って母さんの家から出たら、母の前では泣かないんですけど、母と別れたあとに「なんで母さんに迷惑をかけてきたのかな。俺はバカだったな」と思って、涙がとまらなくなって泣いたりします。

 電話でも母とよく話すんですけど、「母さんは一人だから、僕が仕事を頑張って大きい家に引っ越せたら一緒に住もうや」と僕が母に言うと、母は「私のことはいいから、家族のことを大切にしてあげなさい」と必ず言ってくれます。

 いろんな事件を起こしたので、被害者の人たちにちゃんとしないといけないと思っているんですけど、母には全然親孝行ができてないし、今まで迷惑をかけてきた分、何とか母に幸せになってもらえるように、いろんな人に教えてもらいながらやっていきたいと思っています。これで僕の話は終わらせてもらいます。
(2014年3月6日に行われましたひろしまDネットでのお話と、7日に行われました真宗大谷派山陽教区教誨師会でのお話をまとめたものです)