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  瀧 義範さん
    「いのちのやさしさ ―共感できる世界を求めて―」
                             
 2003年5月31日
 瀧さんが主宰している歎異会のHP

 こんにちは。名古屋から来ました瀧と申します。私のような者が来たせいか、台風も一緒にやって来まして、申し訳なかったと思います。よろしくお願いします。

 かれこれ二十年前に、バイクの事故で友だちを亡くしました。
 私は寺の生まれですから、しぶしぶ京都の大谷大学へ行ったのですが、その友だちは立命館大学に合格しまして、同じ京都ということで時々会っていました。ところが、バイクの事故で亡くなったことを、春休みに名古屋に帰った時に知ったのです。同乗者と一緒に即死だったということでした。
 友だちの家にお悔やみに行きますと、お母さんが涙ながらに、「瀧君を見てると息子が帰ってきたようで、涙が出てきてごめんね」と言っておられた姿が、非常に印象的でした。

 私は大学では伝道部というクラブに入っていまして、そのクラブでは巡回伝道ということをします。お寺を貸していただいて、お説教の勉強をするわけです。
 その春休みには富山へ巡回伝道に行き、友だちが事故で亡くなったことを話しました。友だちの家に行ってお勤めをしたことで、お経を読む意味が自分の中でわかったような気がします、というような話をしました。

 そのような話をした後、勉強のために富山の別院で、あるお坊さんの法話を聞いたのです。その方は三十ぐらいの方だったのですが、赤ちゃんを病気で亡くしたという体験談の法話をされました。そのお坊さんは自分の子どもさんを亡くされたわけですから、本当に悲しそうな感じで話しておられました。
 その話を聞きながら、いくら親しい友だちが亡くなったといっても、私にとってはやはり赤の他人ですし、私が友だちの死を話すことはおこがましいのではないかと感じ、自分が恥ずかしくなってきまして、涙が出てきて止まらなくなったという経験をしました。

 それからまた次のお寺に行った時に、再び友だちが死んだという話をしたのです。話をしながら、友だちの死を説教の材料にしているのではないかという罪悪感のようなものが芽ばえてきたのです。
 友だちの家にお悔やみに行った時に涙を流されたお母さんの悲しみは、私の悲しみとは比べようもないほど深いはずです。私は友の死を悼むと言いながら、のほほんと話をしている。私が悲しんでいるのは単なる気まぐれのようなものではないか。
 そのようなことに対する罪悪感、罪深さというものが見えてきて、話をしている最中に号泣してしまったのです。すると、私が涙を流しながら話していることが聞いている人に伝わったのか、いっしょに涙を流してくださった方もおられました。

 その後、座談会がありまして、「私は友だちの死をあまり悲しんでもいないのに、そのことを材料にして話してしまいました。そんな恥ずかしい私のような者に同情して涙を流さないでください」と言いました。
 それに対してあるおばあさんが、「私はあなたに同情して涙を流しているのではありません。私は自分自身を恥じて涙を流しているのです」と、そう言ってくださったのです。そして、「どうかこれをご縁に、あなたもいいお坊さんになってください」と励ましのお言葉までいただきました。

 仏さまから自分自身の愚かな姿を照らし出されることによって、醜い自分の姿など見たくもない私に、自分の至らない点というものも包み隠さずに深く見つめ直す眼をいただく、そのような不思議な世界が開かれてきたわけで、尊いことだと思いました。それと同時に、素直に自分をさらけ出していける世界があるということを、初めて知りました。

 このような経験を通して、人と人とが共感していくことが大切だと感じるようになりました。では、共感するとはどういうことなのでしょうか。

 高史明という方が「いのちのやさしさ」ということを言われています。「いのちのやさしさ」とはどういうことなのでしょうか。たとえば自分の子どもが亡くなってしまったら、そのようなやさしさをはたして感じとることができるかと考えますと、いのちの悲惨さしか感じることができないのではないかと思います。
 ところが高さんは、中学一年生のお子さんを自死で亡くされているのです。高さんはそれがご縁となって、『歎異抄』を通して真宗の教えに触れていかれ、そして、お子さんを亡くされた悲しみの中で、「いのちのやさしさ」を深めていかれたわけです。
 そのような方が、「いのちのやさしさ」ということをどのような意味で言われているのか、「いのちのやさしさ」とは何なのかを問うていきたいと思います。

 そして、もう一つ身近な問題を提起したいのですけど、「人間としてのやさしさ」ということは一体何なのかということを考えていく必要があると思うのです。
 このことを考えていく時に、いい本がありまして、花崎皋平という人の書いた『生きる場の哲学』という本です。この本には高さんのことも書かれています。
 花崎さんは外国に旅をして、このようなことを考えられました。

 そういう人びとと思いをかよわし、理解しあうには、その根本において共感がなければならないことをさとることができた。相手といっしょに楽しみ、いっしょに怒り、いっしょに悲しむことが土台になって、おたがいがわかるようになる。それ以外のわかりかたでは、おたがい靴をへだててかゆいところをかくようなもどかしさがある。
 
 このように言っておられます。
 私は、「相手といっしょに楽しみ、いっしょに怒り、いっしょに悲しむ」ことが共感するということだと思います。

 共感できない人ばかりのつき合いではストレスがたまりますから、自分の悲しみ、苦しみに心から共感して下さる友だちに出遇うということが、大切ではないかと思います。
 皆さんは、悲しみや苦しみに心から共感できる友だち、いろいろ話を聞いてもらって、「そうだね」とお互いが共感できる場を求めて、「ひろの会」に来られているのではないかと思います。
 悲しみとか、つらいこととか、そのようなことを共感できる場があることは、尊いことではないかと感じます。いろいろな方と生身の自分をさらけ出し合いながら、話ができるということは素晴らしいことです。

 けれども、現実には共感できる人と出会うことは難しいことです。相性の善し悪しということもありますから。

 たとえば、皆さんはこげ目がついた固めのトーストが好きですか、それとも少しだけこげ目のついた柔らかめのトーストが好きですか。どちらがが好きですか。
 これは好き嫌いの問題かもしれませんが、共感ということを考える糸口として考えていきたいと思います。

 私は少しだけこげ目のついた柔らかめのが好きなのです。家で固いトーストが出てきたら、あまりいい感じはしません。それで妻に、「もう少し柔らかめに焼いてくれ」と言ったとします。この場合、好みがいっしょなら問題にならないのですが、そうではなかったら、「この人はうるさいことを言う人だな」とか、「細かい人だな」となるのです。
 そのようなことが合わないと、いっしょに生活していても、だんだん歯車が狂っていくことがあるのではないかと思うのです。好みとか価値観がいっしょだったら、文句を言わなくてもいいわけなのに、違っていたら微妙なずれが生じてくるわけです。なにげない好みの違いというものは、生活をしていく上で結構大きな問題になってくるのではないかと思うのです。

 好きな食べ物が合う、好きな音楽が合う、趣味が合う、考え方が合う。たくさん合うものがあればあるほど、会話がはずむだろうし、共感できるのです。

 ところが夫婦というのはおかしなもので、最初はこの人とだったら共感できるだろうなと思っていっしょになったとしても、生活していくうちに微妙なずれが出てきて、この人といっしょになったのは間違いではないかと思う場合も、たくさんあります。

 それともう一つ、考え方が全く違うことに惹かれていっしょになるということもあるように思います。自分と全く考え方が違うと、新鮮に思って何となく惹かれるということがあります。その時は性格が合わないことが気にならない。この人といっしょにいるだけで幸せだと錯覚します。しかし、二十四時間いっしょに生活していますと、性格が合わないと疲れてくるのです。相性が合うパートナーに恵まれた人は幸せだと思います。
 夫婦でいっしょに生活していても、所詮、他人ですからわかり合えないということも多いのではないかということが、身近な問いとなります。

 仲の悪い夫婦は、なるべく話をせずに関わりを少なくしているのではないですか。なぜかというと、「相手といっしょに楽しみ、いっしょに怒り、いっしょに悲しむ」ということができればいいのですけど、考え方が違いすぎるので、共感できないからなのです。話をしだすと食い違いが多くなるだけですから、話をしない方がお互いのためにいいのではないかと思えてくるわけです。
 この場合、お互いが共に向き合おうとせず、逃げているだけと思われるかもしれませんが、向き合おうとすればするほど食い違いがさらに大きくなって、悪循環に陥ってしまうということもあります。

 「いっしょに楽しみ、いっしょに怒り、いっしょに悲しむ」ということができれば、素晴らしいことです。けれども、楽しいと思っていても、相手は楽しいと思っていない場合があります。相手が怒っていても、なぜ怒っているのかわからない場合もあります。
 「いっしょに悲しむ」ということも、人によって悲しみの度合いがいろいろと違いますから、その人が悲しんでいても、こちらが大したことではないと思っている場合、「あなたは私の気持ちを全然わかってくれない」ということになります。

 言うは易しでして、いっしょに楽しんだり、いっしょに怒ったりと、お互い共感できればいいのですけど、感性が合うとか合わないということが問題になってきます。

 共感することは大切だといっても、このように共感できない場合も多いわけです。そのような難しい問題があると思うのです。共感するということは難しいと言わざるを得ません。

 なぜ共感できないのかということを考えていって、私の本音を探っていくと、自分の気持ちをわかってくれて、自分の思いどおりにやってくれる人がいい人であって、自分の思いどおりのことをしてくれない人は悪い人で、この人とはわかり合えないと思ってしまう、そのような心があります。私の言ったようにやってくれないと困るとか、不平不満を言っているわけです。
 自分が共感してもらいたいことを押しつけたり、自分は共感しているのにと恩着せがましくなることもあると思います。
 そのような自分中心の思いが、「いっしょに楽しみ、いっしょに怒り、いっしょに悲しむ」ということをさせなくするのでしょう。

 もしも本当に共感できたら、戦争なんて起きません。アメリカとイラクの問題でも、お互いの思い、お互いの利害がぶつかって、共に歩めなくなってしまっているわけです。共に歩むことができないから戦争が起きるのです。皆、平和を求めているはずなのに、平和を求めていながら戦争になってしまう。

 はたして人の苦しみ、悲しみに心から共感することは可能なのでしょうか。私は共感しているつもりでも、相手が合わせてくれているだけかもしれないし、相手と共感しているつもりで自己満足しているだけかもしれません。そのような問いかけを持つことが必要になってくると思います。

 共感するといっても限度があります。すべてを共感することはできないと思います。相手のことを真剣に考えれば考えるほど、心から共感できないつらさが感じられてくるのではないでしょうか。他人にはなれませんから、他人の苦しみ、悲しみを自分が代わってあげることはできません。人のために何かできるというのは傲慢なのではないでしょうか。

 これは逆に言いますと、他人にも完全には私の苦しみ、悲しみをわかってもらえないということになります。結局、人間はもともと孤独な存在であり、自分一人でどうにかしていかなくてはいけないと感じることもあります。共感しようと思いながらなかなか共感できずに、逆に孤独感を強めることもあります。しかし、孤独感を強めれば強めるほど、わかりあえた時の喜びもさらに大きいといえます。本来は孤独な人間だからこそ、わかりあえた時の喜びも大きいのです。

 共感できたとして、今の私はたまたま共感できただけであり、相手の悲しみ、苦しみをそのままいただいていくことができないという自覚を持ち続けていく中に、「人間としてのやさしさ」が芽ばえてくるのではないのかと思います。

 しかし、人間は「やさしさ」を求めながら、私たちは共感できない人とは相性も合わないし、いっしょにやっていけないと、つい排除してしまうことがあります。共感できる人、同じ悲しみ、苦しみを持っている人だけにしか、やさしくなれないのも悲しいことではないでしょうか。
 このようなことを思うことがあります。「あなたには私のような経験をしたことがないからわからない」と。同じ苦しみ悲しみを持っている人だと、この人はわかってくれると思うのですけど、同じ経験をしていない人が心配してくれると、つい、「あなたはこんなつらい目にあってないから、私の苦しみなどわからない」と思って、他人を受け入れることができず、孤立してしまうことがあります。
 単なる経験主義みたいなところに陥ってしまうことを危惧していくことも、大切なのではないかと思うのです。

 悲しみを癒していくことは大切なことなのです。しかし、悲しみが癒されていく中で外の世界にも目を向けていくことがないと、その場はいい雰囲気なので捨てがたい気持ちになるのもわかりますが、お互いが傷のなめ合いをしているだけになってしまって、閉塞的な世界にだけとどまり、成長していけない危険性があります。

 私も同じような道を歩んできました。先ほどお話ししましたように、友だちの死を通して仏の教えに出遇えたことによって、私なりに真宗の教えがわかってきたように思いました。ところが、ほかのお坊さんを見ていると、そのような経験がないように感じたものですから、「お前にはそういう経験がないからわかっていないだろう。そのような経験がないまま、ただ学問として勉強しているだけではだめだ」というように、他人を批判してしまいました。
 私もいつの間にか経験主義的な閉塞的世界に陥ってしまったわけです。

 経験というのは素晴らしいことですけど、それに執着してしまうと、経験のない人といっしょに歩めなくなってしまう複雑な問題が、人間関係の中で生じてくることがあるわけです。
 共感できる人とだけ歩んでしまって、殻を作ってしまい、それ以外は受け入れないということが、いろいろな争いごとを起こしている根本的な原因でしょう。派閥ということもこのようなところから生じてきます。

 そこで何が大切になってくるかというと、人と人とが共感できてから何ができるかということです。たまたま共感できた後、それをどう深めていくかということが、人生を生きる上で大切なことです。
 それは、いっしょに悲しむことができない相手、いっしょに楽しむことができない相手、いっしょに怒ることができない相手と出くわした時にどうするかということまで深く問いかけ、共感できない人とも歩みたいと願うことです。
 共感できたことで満足することなく、共感できない人とも共感したいと願い、共感していける世界を求め続けていくことが大切なことではないかと思います。それができたなら、共感できた経験がその人を生涯育てていくのではないかと思うのです。しかし、言葉では簡単に言えますが、これは至難の業です。

 人と人との共感には限界があります。共感できたとしても、共感できない部分もあるわけですし、必ず食い違いも生じてくるでしょう。さらに、共感できない人とも共に歩んでゆける世界を求めていこうとしても、それは不可能なことなのかもしれません。
 けれども、共感できたことで満足することなく、共感できない人とも共感できる世界を求めていく中に、本当のやさしさが生まれてくるのではないでしょうか。

 共感できる人に出会うことは難しいことですし、まして共感できない人とどう歩むのかということはさらに難しいことです。このことは生きていく上での大きな課題です。
 そのような課題をどうやって背負っていくかということが、今の私の課題でもあるのです。「いっしょに楽しみ、いっしょに怒り、いっしょに悲しむこと」ができない人もいるわけでして、それをどう克服して生活していくかということが、私に与えられた課題なのです。
 「言うは易く、行うは難し」ということで、非常に難しいことなのですが、もう少し深く掘り下げて考えていきたいと、常に私は思っています。
 
どうしたら共感できない相手と共感し合えるようになるかということですが、まずこだわっている私がいるということを知ることだと思います。それは自分自身を問うていくことになるのでしょう。そうなってくれば、違う人の立場も見えてくるのではないでしょうか。
 私はこういうものが好きだけど、あなたは私とは違うものが好きなのだなあという、ゆったりとして気持ちで見られるようになる。自分のやり方を人に押し付けようとしているわが身を知るといいますか、我が身の事実に気づくことが大切なことではないかと思います。
 生活の中から、相手はどういうものにこだわり、どういうところに食い違いが生じて、どうして共感できないか気づく中から、わかりあえる道が開かれてくるように思います。決して別の道を歩んでいるわけではないのだということを、日々の生活で確認しながら、また自分自身を問うていくことができたら幸いだと思います。

 人と共感するということはなかなか難しいし、共感できる人と歩むことも非常に大切なことです。しかし、共感できない人ともどのようにして歩んでいくかという課題が常に私に与えられ、それをどうやって解決していこうか、悩みながら生きています。
 皆さんとそのような問いを一緒に考えていければと思います。あらゆる人と共感できる世界に触れることができれば、「いのちのやさしさ」ということが身近に感じられてくるのではないかと思います。
 これで私の話は終わらさせていただきます。


(2003年5月31日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです)