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近松 誉さん 「真宗の仏事」
第5回 「仏前荘厳の成り立ちとお内仏」
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2022年12月17 |
1 お内仏と仏壇
皆さん、こんにちは。今日はお寺の本堂、そして皆さん方の家にあるお内仏は私たちにとってどんな意味を持っているのか。また、おかざりにはどんな意味があるのか。そういった話をしようと考えています。
お内仏のおかざりを仏前荘厳、尊前荘厳と言います。お内仏を一般的には仏壇と言っていますね。どう違うのか。辞書的な意味では同じことなんです。
古代インドでは、尊いものを祀るために、土を盛って一段高くした壇を作りました。目線よりも少し上のところに安置するわけです。うがって考えると、壇を作ることで、自分に都合のいいものを呼び寄せようとする、そういうニュアンスが壇にはなきにしもあらずです。
真宗の本尊は、この仏さんは私に都合がいいとか、理解力の優れている私がいいと思う仏さんに来てもらうといったような、私が選んだものではないんです。阿弥陀仏から私たちをみそなわして来てくださった。仏から歩み出してくださることが大事であって「私たちは仏のはたらきをお迎えする」という風にいただくんです。
仏壇では、自分が壇を飾るというニュアンスが感じられます。ですので、自分で設けた壇だという言い方ではなくて、お内仏、すなわち私たちの内なるところにはたらきかけてくださる仏さまをお迎えする場所だという意味を大切にしたいと思います。
2 公の空間と内の空間
お内仏という言葉の意味はもう一つあって、公的な空間に対して内の空間という考えがあります。公の空間はどこかと言いますと、お寺の本堂ですね。いろんな方が集うのがお寺の本堂です。そして、お寺を預かっている住職一家が生活している家、庫裏があります。庫裏にはお内仏があるんです。
御本尊が本堂だけでなくて庫裏にもいらっしゃる。どういうことかというと、本堂は公の空間ですので、寺の者だけでなく門徒全員の本堂です。それとは別に、内の空間である住職家でも御本尊をお迎えします。だから、本堂とお内仏は明確に区別されているわけです。
本堂では住職と門徒とでは役割が違うんですね。住職は勤行をしたり法要を主催したりする。つまり、お給仕をしながら法を説く仕事をします。本堂に集う門徒さんたちは聴聞する役を担っています。どちらかが欠けても公の空間は成立しません。
住職が本堂から離れて衣や装束を脱げば衆生の一人です。ですから、門徒と同じ同朋になる。その時に、自分の内なるところにはたらきかける仏を大事にしていく空間として、庫裡にお内仏があるわけです。お寺の本堂と庫裡、それぞれお迎えする御本尊にはそういう二つの意味があると思うわけです。
そうなりますと、本堂は公的な空間としての要素が強いから、余計なものを置かないんです。外陣や参詣席にもあんまり余計なものは置かないほうがいいですね。あるお寺に用事があって本堂に上がらせていただくと、こたつが置いてあったんです。門徒さんがこたつでほっこりするにはいいかなとも思いますけど、そこにいろいろなものが置いてあって、本堂が散らかっているのは住職が私物化していることですから、決していいことではないですね。
ただし、小さい時から仏さんのいる空間に親しむことはいい側面もあります。私も小さい時に本堂で走り回ってたですからね。そのおかげで仏さんを身近にいただいてきたんです。悪いことじゃないですね。ただし、来客や集いがあって公的な場となる時に片付いているかどうか。私(わたくし)の時間と空間だから、本堂で好き勝手に遊んでもいいという考えには少し問題があるような気もします。
本堂に門徒さんが入った時に、「汚いな」と思われないように整理整頓し、余計なものをできるだけ置かない。これはお内仏にもつながることです。本堂としての本来の役割を考えたうえで、必要なものだけがかざられていることが必要だと思うわけです。
3 仏前荘厳
お寺の本堂は内陣、そして外陣、そして一段下がって参詣席があります。段があるのは僧侶と門徒との差別を表しているわけではありません。門徒さんが座られたところから御本尊を少し振り仰ぐ角度が大事です。ここから先が仏の世界だと仰ぐために、この段差が設けられているわけですね。
(1)御本尊
内陣の中央の一番高いところに御本尊がおられます。御本尊の台座が高くなっているも浄土真宗の特徴です。敦煌の莫高窟の写真を見ると、中国の隋、唐の時代、つまり6世紀から7世紀ごろには、仏さんは台座に座っておられますね。
仏教徒は仏のいらっしゃるところを大事にして、そこに敷物を敷いたり、説教をしていただく時には、仏の声がより聞こえ、尊いお姿が多くの方の目に映るようにということで仏の座る台座を高くしました。それで高い台座に御本尊がいらっしゃるんです。
そして、台座の上に蓮台という台があって、阿弥陀仏は蓮の花の上に立っていらっしゃいます。蓮の花から光があらゆる方向に放たれています。それが後光で表現されているんです。
真宗の御本尊は統一されていて、本山も別院も普通寺院も門徒さんのお内仏も同じです。それは右向け右と、人々の動きを規制し強制するためじゃないんですね。私たちはどこにいても仏の尊いはたらきに気づかせていただくことができます。たとえば今日は広島別院におじゃましていますけど、難波別院、札幌別院に行っても、同じお姿、同じ形の仏に出遇うことができる。そして、そこに集う人たちを御同朋とお互いが敬い合う。それは同じ仏が色々な場に現れてくださるからなんですね。
もしも自分の好きなものをお内仏の中に並べるなら、私は薬師如来がいいとか、私は大日如来にしますというふうになって、御本尊が全然意味をなさなくなります。だから、定まった形をとっていく。これが荘厳ということです。ですから、仏前荘厳や儀式の形を整えていくことが大事になります。
(2)儀式の意味
儀式というと、「あんな会議も儀式やからな」とか、「あんなつまらんのは儀式だ」と、マイナスの意味で使われることがあるでしょう。決まり切ったもの、退屈なもの、儀式にはそんな揶揄した意味が込められているように感じるわけです。だけど、仏法における儀式はそんな形骸化したものではないんですね。ですから、私たちは一所懸命に形を作っているんです。
儀式によって何が示されているかわからず、儀式をするために儀式をしていては、それは形骸化だと思います。目的を見失って儀式のために儀式をしていると、儀式の力がだんだんと失われていくかもしれません。
なので、僧侶が何のために儀式をするのか、門徒が何のために儀式の場に参列するのか、それをきちっと明らかにしていくことが大事になるんですね。全員が同じように理解する必要はないんです。そこで同じ空気を味わって、大切なことが行われているという感覚を共有していく。そのために提供されるのが儀式であり、勤行です。このことを僧分が月忌参りとかご法事、お墓の前などでご門徒さんに説き明かしていかなければならないと思うわけです。
(3)須弥壇(しゅみだん)
真宗大谷派の基本的なお荘厳は、仏の世界を形どっているので、本堂の荘厳とご家庭のお内仏は基本的な構成は同じなんです。
御本尊の台座の下には須弥壇があります。この須弥壇とその周辺、内陣が仏の世界になります。内陣は浄土三部経、特に『仏説無量寿経』、『仏説阿弥陀経』に説かれる浄土、仏の願いが成就した世界である浄土のありさまが表現されているんです。ご家庭のお内仏も同じです。
古代インドには須弥山思想といって、須弥山に尊い存在がいらっしゃるという神仙思想がありました。尊いものは我々の上にいらっしゃるということです。須弥壇は仏教のオリジナルではないわけですね。
自力修行の宗派ですと、自力で仏の世界に行こうとするので、行者は護摩壇にあがって供物を置き、火を焚き、仏などに供養するという儀式を行うんです。
浄土真宗の須弥壇は護摩壇と同じ形ですけど、須弥壇の上にあがることはないですね。須弥壇の手前にある礼盤(らいはん、登高座作法)までなんです。如来の代理人として儀式を執行する者でも、仏の世界を表す須弥壇にあがってはいけない。どこまでも仰ぐという形の儀式しか浄土真宗はないんですね。仏の世界と人の世界がはっきり分かれているのが浄土真宗の本堂のあり方です。
(4)宮殿(くうでん)
真宗大谷派のお内仏では、御本尊を屋根付きの建物が囲んでいます。これを宮殿と言います。広島別院は宮殿ではなく羅網(らもう)です。宮殿の略式の形なんです。天蓋みたいなものですね。本山の飛地境内である大谷祖廟、親鸞聖人の廟所の本堂も羅網なんです。尊い存在を羅網で上からおかざりしているわけです。
本尊の向かって右側に親鸞聖人の御影がありますが、あの御影の上にかかっている屋根の部分を厨子と呼びます。厨子と宮殿の違いは何かというと、扉があるかないかです。宮殿や羅網には扉がありません。柱、もしくは天蓋だけです。
扉がないのは、阿弥陀仏のすべての衆生を救ってやまないという本願のはたらきは、24時間365日絶えることはないからなんです。なので、時間の観念を超えて、常に私たちのところに届けられていることを表すために、宮殿には扉がないわけです。
御影堂の親鸞聖人の御真影はお厨子に入っています。厨子には扉がついていて、朝晩、開け閉めする。つまり、親鸞聖人は人間ですから、人間の生活と同じようにするわけです。御影堂はお住まい、阿弥陀堂は仏の世界を表しているということですね。そういったことが象徴的に表されているわけです。
(5)障子
阿弥陀堂の内陣と外陣の間に障子があります。折障子(金障子)です。障子は外陣のほうから閉めます。御給仕する者が、今日は帰らせてもらいますという挨拶ですね。御影堂は障子の貼り方が内側から閉める形なんです。御影堂は親鸞聖人のお部屋なので、部屋の内側から閉めます。ところが、いつのころからか阿弥陀堂も内側から閉めるようになっているんです。いつの時かの修理もしくは再建時に、間違えて取り付けられたのではないか、と思っています。
(6)上卓(うわじょく)と前卓(まえじょく)
御本尊の前には上卓があります。真ん中に火舎香炉(かしゃごうろ)が置かれています。『大経』に「その香、普く十方世界に薫ぜん」、浄土はかぐわしい香りで常に満たされているとあります。香炉で香をたくのは浄土の姿を表すためなんですね。
火舎香炉の両脇には華瓶(けびょう)があります。水が入れられ、樒(しきみ)を挿します。樒は香りが強い植物ですね。そして長持ちします。なかなか枯れない。水が腐りにくい。清浄な世界を表します。湯飲みやコップで水を備えることはしません。
そして、須弥壇の前には前卓が置かれています。前卓の上には鶴亀の燭台、香をたく土香炉、花瓶(かひん)があります。これを三具足(みつぐそく)と言います。須弥壇から上は仏の世界、前卓から手前は阿弥陀仏をたたえる諸仏、菩薩の世界だというのが仏前荘厳の基本形です。
輪灯、菊灯、鶴亀の燭台という灯明があります。仏の世界の荘厳が照らされるわけです。灯明はそれぞれの存在がお互い照らし合う世界である浄土を表しているんです。花瓶の花は、浄土は花のごとき尊い世界のことです。ですから、造花は使いません。仏のはたらきを象徴する生花(せいか)が備えられます。
4 備えると供える
浄土真宗では、「そなえる」は「備える」という字を使います。「供える」を使わないですね。「供える」だと自力で仏さんを飾ろうとすることになるんです。
荘厳とは仏の世界に備わったものなんです。備わったものを私たちが給仕、サービスしていく。お手伝いしているだけで、仏さんに何かいいことをしようと思うと「供える」になります。
自分が供えるんだったら、仏花は仏さんのほうを向かないといけないでしょ。ところが、花も仏のお仕事を表しているので、仏から私たち衆生に手向けられたものです。それでこちらに向いているわけです。
東本願寺では儀式にたずさわる私たち式務員は40人ほどいます。3つの部屋があって、毎日それぞれの部屋で墨をすって和紙の帳面に「御堂日記」を書いています。一番古いものは慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いがあった年のものなんです。本願寺が東西に分かれる前の約420年前からずっと書いていて、ほぼ欠けていない。東本願寺では今も保管しています。その「御堂日記」にも、「おそなえする」ことを「お備え」、あるいは「奉る」と書いてあります。徹底してるんです。
お仏供、供物という言い方はします。それは名詞だからです。でも、お仏供も「お備え」とか「奉備(ほうび)」と書いてある。仏さんから私たちにという方向性がきちんとしているわけです。これは真宗の尊前荘厳の基本です。
5 荘厳の基本形
阿弥陀堂とお寺の本堂やお内仏の形、大きさは異なりますけど、仏さんがいらっしゃって、その前に上卓を置いて、一段下がったところに前卓がある。さらにその手前に私たちが座る。それぞれが段になっていますね。そういう基本的な形はお内仏の形でもあります。
長い年月をかけてこの形が成立したわけです。中国からの伝統的な仏前荘厳の形を浄土真宗で用いているんです。他宗のまねということではなくて、お釈迦さまの説法を弟子が聞く仏法聴聞の会座とするために、尊前のお飾りの仕方が定まっているわけです。浄土真宗でいえば、この会座には仏が上座にいて、その周りに阿弥陀仏をたたえる諸仏がおり、その姿を衆生が拝見し、お話を聞いていく。こうした仏前荘厳の基本形は浄土真宗に限らず、各宗派共通のものなんですね。
報恩講の際、式導師は登高座に座って儀式を始める時に、法要に参列した者を代表してまず三帰依、「自ら仏に帰依したてまつる。自ら法に帰依したてまつる。自ら僧に帰依したてまつる」と言いながら、蹲踞礼という最上の敬意を表す礼拝を3回します。そして、三拝が終わったら、今度は「如来妙色身 世間無与等 一切法常住 是故我帰依」(※儀式上はこの四句しか読まないです)と、如来をたたえる言葉を述べるんですね。「如来の妙なる色身」、色身とは肉体をそなえた仏です。仏は世間に等しいものがないほどすぐれた存在である。一切の法、真理は常に存在する。このゆえに我は帰依する。このように、儀式の所作はすべからく如来をたたえる姿です。
また、『仏説阿弥陀経』にある六方段がそうですね。東西南北上下の六方の世界にさまざまな仏がおられ、阿弥陀仏の徳をたたえていらっしゃいますよと説かれています。そのように、諸仏が阿弥陀仏をたたえるというのが浄土真宗の法要の姿なんです。これは仏から私たちが教えをいただくという形なわけです。
法要の場で内陣に座る者は菩薩衆、あるいは仏弟子や諸仏の役を演じているんですね。ですから、定まった袈裟と衣に身を包んでいるわけです。中身よりも袈裟と衣を着用していることが大事です。
衆生の側に座っているなら、定まった服装はありません。法要の時、一般の人が内陣に座っているのは見たことがないですよね。それは浄土の荘厳ではないからなんです。なぜかというと、この場が仏の世界だから、定まったものを身にまとっていないと役を演じることにならないですね。法要が終わって本堂の後ろにある後堂(ごうどう)から下がり、袈裟や衣を取ったらただの人です。御同朋御同行なわけです。
これは大谷派の門首であっても同じですね。お役が尊いのであって、門首であっても衣を脱いだらみんなと同じ衆生なわけです。それなのに、衣を脱いだ後も、住職だからえらいとか、門首がえらいということになると、大きな勘違いが発生する。袈裟と衣を取ったら同じ凡夫なんだということを大事にしないといけないと思います。(※第1回でも同じようなこと言ってますので、削除してもいいかと思います)
本堂の内陣は余計なものを置かないということも、そこが仏の世界だからなんです。私たちが阿弥陀仏のはたらきをいつでも、どこでもいただけるように、同じ配置にしなければなりません。住職の好みで荘厳するなら、阿弥陀仏の世界が荘厳として伝わらないんですね。お内仏も御本尊をお迎えしたご家族がお給仕することが大事ではないかと思うわけです。
6 法要と勤行
(1)打敷(うちしき)
法要では、お内仏でも前卓に三角形の打敷というものをかけます。本堂では打敷の下に水引をかけまわします。打敷や水引は金襴とかの刺繍がしてある美しいものです。
もともとお釈迦さまの説法の場は屋外のこともありました。その時にはお釈迦さまを招いた信者が自分の衣服を床に敷いたんです。そのいわれに基づいて、尊い方をお迎えする時には敷物を敷くわけです。昔は貴人が来られると御褥(おしとね)という敷物を用意したんですね。
本堂やお内仏での法要では、仏をお迎えする丁寧な形をとるという意味で、きれいな布を前卓に巻いて仏が現れたという形にするわけです。打敷にはそういう意味があります。
また、輪灯には瓔珞をつけるんです。瓔珞は羅網と同じような形のものです。『大経』に、無量寿仏がましますところに「宝の瓔珞を垂れたり」とあります。法要の時に、より丁寧な形で仏をお迎えしているということを表すために瓔珞をおかざりをするわけです。仏の姿や世界を荘厳する時に、打敷や瓔珞で丁寧に整えていくのが仏事の形でもあるんですね。
(2)勤行
真宗門徒は朝夕の勤行を毎日します。正信偈、念仏、和讃が基本です。『正信偈』は親鸞聖人の著作『教行信証』の中にあります。『正信偈』の前半は依経段といって、『大経』に依って念仏の教えが説明されています。後半は依釈段、インド、中国、日本の七高僧、浄土の教えを私たちに届けてくださった七人の高僧のお徳をたたえ、どういう解釈を述べられたかが書かれています。そして、高僧たちの説を信じなさいという言葉で終わります。
お聖教に説かれていることを日本語の歌にされたのが和讃です。浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃の3つを三帖和讃と言います。浄土和讃では『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の内容を「和(やわ)らげほめ讃(たた)える」言葉で作ったものなんです。そして、七高僧をたたえたのが高僧和讃です。正像末和讃とは、正法、像法、末法といって、仏教の教えが正しく伝わる正法の時代、仏法の形だけが残る像法、それから形もなくなってしまう末法の世になるという歴史観が仏教にはあるんですけど、末法の世にこそ阿弥陀仏の教えはいよいよ盛んになるんだとお勧めくださるのが正像末和讃です。
親鸞聖人の著作を学ぶのが勤行の場です。なので、お勤めが日々行われることが大切なんです。
(3)法要
勤行とは別に法要があります。『観無量寿経』に「此法之要(これ法の要)」という言葉があるように、法要は法の要を示す場なんですね。浄土真宗の教え(法)の要は何かというと、浄土三部経です。そして、『無量寿経』を解説した『浄土論』という書物。この三経一論を中心にするのが浄土真宗における法の要なわけです。
法要では、浄土真宗の要である三経と一論をお勤めします。三部経全部でなくても、いずれかのお経を必ず勤めます。本山の法要では、何日間もわたる一昼夜以上の法要になると、三偈といって、『正信偈』『文類偈』『願生偈』の3つを勤めるんです。『正信偈』は『教行信証』、『文類偈』は『浄土文類聚抄』、『願生偈』は『浄土論』の中にある偈なんですね。
『文類偈』は『正信偈』とよく似ていて、双子のような偈です。『教行信証』が広本と言うのに対し、『浄土文類聚抄』は略本と言われます。『教行信証』に書かれている内容のエッセンスを抽出して作ったものが『浄土文類聚抄』なので、略本と言われるわけです。
法要の基本的な構成としては、三経をひもとき、そして三経に添えるという形で三偈のどれかをお逮夜、晨朝、日中という一昼夜でお勤めします。そこから『観無量寿経』を抜いたり、『阿弥陀経』を抜いたりしています。そういうふうに組み合わせるわけです。そこらへんは専門的な話になるんですが、参考までに申し上げたことです。
(4)報恩講
報恩講はお講なので、勤行と法話、そして信心談義が中心となるので、お経は勤まりません。本願寺派のお寺はわりと報恩講法要とおっしゃる。私はちょっと気になります。というのは、勤行と法要は違うからなんですね。お経が勤まらないのに報恩講法要という言い方をするのは間違いです。本山では報恩講法要という言い方は一切使いません。なんでもかんでも法要と言うのはおかしいです。法要だったら必ずお経をひもとかないといけないですから。
日々のお勤めの集大成である報恩講では、お経はあがらないんですね。「法要」ではなく「お講」だからです。正信偈、念仏、和讃のお勤めをして、式導師が『報恩講式』『嘆徳文』を読み、「お講」のあり方として、みんなで信心談義をして、親鸞聖人の教えとお徳をたたえるんです。ここは大事なことだと思います。つまり、お内仏の日々のお勤めはこの「お講」につながっていく勤行だということです。親鸞聖人のお言葉に触れていくことが、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』に触れていくことになるわけです。
もっと言うと、お勤めも荘厳なんですね。勤行の音声(おんじょう)も大事な荘厳です。浄土には仏をたたえる音声が響き渡っている。ですから、大きな法要になると雅楽が奏でられるんです。素晴らしい響きも浄土の荘厳なんです。浄土真宗のお勤めは仏の徳をたたえる音声が響き渡っている。これは法要であっても勤行であっても同じです。ですから、毎日のお勤めをしていくことも、仏の徳を表現するお手伝いをしていることになるわけです。
お内仏と本堂は大きさの違いがあるんですけど、すべてお荘厳である。仏のはたらきが表現され、願いが成就した世界、お互いがたたえ合っている素晴らしい世界のありさまが広がっている。お給仕する者はそのお手伝いをしている。このようにいただかれたらと思っています。
(2022年12月17日に広島別院で行われた法座でのお話をまとめました)
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