真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  海 法龍さん 「新しい生き方のはじまり~親鸞聖人の教え」
                            2018年2月27日

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 今日は推進員研修会にご縁をいただきました。推進員養成講座を受講して推進員になるんですけど、推進員って何だろう、特別に何かしなくちゃいけないんじゃないかとお思いの方もいらっしゃると思います。皆さんには願いがかけられているのです。推進して欲しいという願いです。じゃあ、推進員は何を推進していくのか。

 私たちのお寺は浄土真宗のお寺です。皆さんの所属されるお寺にはそれぞれ歴史があります。私の住む横須賀は鎌倉が近くて、古いお寺が多いんです。天台宗から真宗に変わったお寺が何か寺かあるんです。

 関東におられた親鸞聖人が60歳過ぎ頃に京都に帰られました。その時にこのあたりを歩いていらっしゃるんです。茨城にいたときにも、相模のほうに来ていらっしゃったという言い伝えがあります。

 そのころ、親鸞聖人の教えに天台宗のお坊さんが触れたんでしょう。お釈迦さまの本当のお心がここにあるんじゃないかという思いで、真宗に転宗していったということなんでしょう。

 あるいは、親鸞聖人の教えを聞いた方が多くおられて、この教えを大切にしていく場を設けようと、その地域に道場を建てたんです。真宗のお寺は元は道場です。寺院化したのは後です。それも出家したり、修行したりするんじゃなくて、普段の生活をしながら教えを聞いていく場です。ほとんどがお百姓さん、漁師の方々じゃないでしょうか。あるいは商人。そういう方々がご縁をいただいて、それぞれの地域に道場が設けられたんですね。みんなで土地を求め、労力やお金を出し合って道場を作ったのです。そして、そこに集った方々のことを門徒と言ったのです。

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 皆さんは「門徒」とおっしゃいますか、それとも「檀家」とおっしゃいますか。門徒です。なぜ門徒なのか、檀家と言わなかったのかには理由がある。

 檀家は、インドの言葉の「ダーナパティ」、布施をする人という意味の言葉を漢字に当てはめた音写語です。「ダーナ」は布施という意味で、中国では「檀那」「旦那」と翻訳されました。

 インドで起こった仏教の思想は、漢民族にはありませんでした。ないものは言葉化できないんです。インドのその思想が中国にないから、音を漢字に当てはめた。それを音写語といいます。「南無阿弥陀仏」とか、仏教の言葉は音写語が多いんですね。日本語でもアメリカにないものは、そのまま英語になってるでしょ。たとえばソバです。アメリカにはない。だから「soba」なんです。「寿司」は「sushi」です。

 檀家は直接的にお釈迦さまの教えに触れることはないんです。お坊さんに儀式をしてもらう。儀式の中味は亡くなった方の菩提を弔う、つまり追善供養ということです。修行している僧侶には特別な力がある。死者が良いところに行くよう、成仏するように、お坊さんにお勤めしてもらう。そういうのが追善供養です。

 追善供養してもらったお礼がお布施です。お布施する人が檀家ですから、そのお寺で供養してもらう人が檀家ということになるわけです。真宗のお布施はご法礼です。どんな場合でも法に対する御礼、教えに対する御礼です。

 先祖の供養をしてもらうお寺のことを菩提寺と言います。「あなたの菩提寺はどちらですか」という言い方をします。菩提寺のメンバーが檀家なんです。真宗以外の宗派はみなそうです。お経を読んでもらってご利益をいただく。そのご利益というのは、死んだ人が迷わないようにとか、商売繁盛、家内安全、無病息災といったことです。それと浄土真宗は訣別したんです。

 親鸞聖人の流れだけは檀家とは言わなかった。真宗門徒は菩提寺という言い方はしなかった。先程申し上げたように、門徒です。

 門徒という言葉には大事な意味がある。「門」は、たとえば貴乃花一門とか言うじゃないですか。踊りでも落語でも系統があるでしょ。浄土真宗は浄土門です。「徒」は「仲間・ともがら」という意味です。教えを聞いていく仲間。

 皆さんのお寺には名前がありますよね。私のところは長願寺だから長願寺門徒とか、隣のお寺さんは浄榮寺だから、浄榮寺門徒という言い方するじゃないですか。それは正しい使い方じゃないんです。長願寺に縁がある真宗門徒です。「真宗門徒」、つまり真宗という教えを学んでいく生徒です。もっと言えば、真宗という教えによって自分の生き方が推し進められていく。私が教えによって推進されていくことが一番の根本です。推し進められてきた人たちのことを「門徒」というんです。

 ですから、同じ仏教でも、宗派によって根幹が違ってるんです。檀家ではなくて門徒だということは、それまでの仏教から新しい仏教だということです。だけど、新しい仏教といっても、実は本来の仏教だと言っていいと思います。親鸞聖人を通してお釈迦さまの教えに出遇う。お釈迦さまの本来の教えに自分の生き方を教えられたんです。その教えを真宗というんです。

 ところが長い年月の中で、真宗の言葉が消えていってるんです。私の住む地域は「門徒」という表現が「檀家」になってしまっている。お寺さん自身が「うちの檀家は」と言っているんですね。

 真宗のお寺は、菩提寺じゃなく、手次ぎ寺です。お寺は私がお釈迦さまの教えに触れるための場所です。だから、「あなたの菩提寺はどこですか」じゃなくて、「あなたのお手次ぎはどちらですか」という言い方をするんです。

 南無阿弥陀仏の心に、私たちが遇わせていただくためにお寺があるのです。私たちはお寺という形を通してお念仏の心に触れ、親鸞聖人につながっていく。つないでいくから、手次ぎ寺です。「つなぐ」には継続していくという意味もあります。教えは継続していかなきゃいけないです。ですから手継ぎとも書きます。

 私たちが南無阿弥陀仏の教えに触れるには、お勤めをして声に出し、お念仏の心を法話という形で聞く。それには場所がなければならない。教えを形にした荘厳でもって教えを示していく場所を道場と言います。聞法の道場です。

 法は教え。仏さまの教えだから仏法です。仏法は仏の教えだから仏教です。それを聞く。教えに触れるには聞くしかないんです。聞く場所が聞法の道場、真宗のお寺なんです。

 他宗のお寺は聞法の道場じゃない。坊さんが修行するための道場。修行の道場が菩提寺。だから、他宗のお寺は真宗寺院みたいに、みなさんが座るところがあまり広くない。真宗寺院は座る場所が広いんです。門徒が話を聞くための場所だからです。

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 菩提は「ボーディ」、「さとり」という意味です。「さとり」を「覚り」とか「悟り」と書きます。修行することで得られるのは「悟り」です。迷いがなくなるということです。迷いがなくなるのはどういう時ですか。死んだ時ですね。死ぬと迷いや心配事がなくなる。痛みもなくなる。わずらわしさから解放される。だったら、生きている時に悟れないことになる。死んでから悟る。そうすると、亡くなった人を弔う菩提寺となるわけです。

 私たちは修行では悟ることができないですね。そこに修行できる人、できない人の区別が出てくる。すべての人が教えに触れることはできないことになる。

 仏陀とは「覚者」「目覚めた人」です。ですから「覚り」です。「覚り」は目覚め。気づかなかったことが気づかされていく。日が昇る前は暗い。暗いということは見えていない。日が昇れば目が覚める。その日とは何かというと教え。教えに照らされたら、見えなかったものが見えてくる。目覚める。自分の力じゃない。何に目覚めたか。人間とは何か、私とは何かに目覚めた。真実を失っていた私の姿が見えてくる。真実に目覚めた。

 菩薩とは「ボーディ・サットヴァ」を音写した「菩提薩埵」を短くした言葉です。「薩埵」は「衆生」「有情」で、心のあるものという意味です。覚りを求める衆生が菩薩です。

 素晴らしい国を作ろうと思いながら、最後は反目して傷つけ合ってて、国が壊れていく。そのくり返しが人類の歴史です。なぜなのかということに目を開いていかなければならないということです。みんな目覚めようとして生きている。だから、私たちは菩薩的人間です。必ず目覚めていく存在なんです。この人にはちょっと無理だなと思ったら、お釈迦さまは語らないでよ。どんな人にも平等に可能性がある。

 聖徳太子は仏の教えによって国作りをしていかなければならないと思い、「十七条の憲法」を作りました。第一条に「和を以て貴しとなす」とある。第二条は「篤く三宝を敬へ」、仏さまと教えと僧伽を大事にしましょうということです。「三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん」、仏さまのお心によらないと人間の曲がっているものがただされないとおっしゃっている。

 私たちが道を求めることは、仏さまの教えを聞いていきたいということが始まりです。そもそも自分は教えを聞きたいと思っているかどうか。難しくてわからんけど、でも何か魅力があって聞いていきたいな、はっきりはせんけど、なんか感ずるものがあるなと。

 みなさん、聞いてたらわかるようになるだろうと思って聞いてるんじゃないですか。聞いてわかると思ったら野心。たった一時間ちょっと聞いてわかるような私じゃないです。聞法は勉強じゃない。私の生き方を学ぶ。私という存在はどうあるべきなのか。大きく言えば存在の問題。それは知るんじゃなく、感ずることです。感覚です。頭でなく身体で感ずる。ああ、そうかというのは頭じゃなくて、身体で感ずる。

 あなたの命も私の命も同じ命なんだ、というのは理屈じゃないです。感覚です。私という存在、あなたという存在は、人類始まって以来の私であり、あなたなんだ。お互いがかけがえがないということは感覚ですね。それを常識というんです。

 宮城先生から教えていただきました。福沢諭吉がコモンセンスを常識と訳したんです。意味は普遍的感覚。私たちは世間の常識で生きているんです。だけど、この常識は世間が作った価値観です。そうじゃない。どんな時代でも、どこの国であろうと、永遠に流れる常識。みんなが共有できる感覚。これをコモンセンスというんですね。お釈迦さまの時代もみんなが実感できた。親鸞聖人の時代も実感できる。現代においても実感できる。国が違ってもみんなが実感できる。これから生まれてくる人も実感できる。そんな常識です。

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 聞法の道場が手次ぎ寺で、門徒。修行の道場が菩提寺で、檀家と言われているんです。菩提ということは死んでからじゃないんですね。だけど、それがいつの間にか亡くなった人の魂を弔うという意味で、菩提を弔うという言葉が使われてきたわけです。

 じゃあ、家にある仏さまを私たちは何と言うか。檀家が言う呼び名と、門徒さんの言う言葉は違う。普通は「仏壇」と言います。しかし、門徒は「お内仏」です。仏壇は先祖をお祀りするところ。真宗のお内仏は先祖壇じゃない。私たちが仏さまの教えに触れるための場所なんです。

 私が入寺したお寺は、前の住職さんが門徒さんに何も言ってこなかった。他宗が地盤の地域だから、他の宗旨と同じことをしてました。位牌があるし、古くなったご本尊が巻いてある。だから、本尊は本山にお願いするんですと、門徒さんに何度も言いました。

 真宗は位牌を作らない。位牌は、もともとは中国で官吏の位を表す札なんです。それを死んだ時に用いるようになったんです。戒名は長いのや短いのがあります。だけど、真宗では等しく「釈○○」、女性は「釈尼○○」です。位ではないんです。人間に位という価値をつけない。生まれてきた命はかけがえがないんだから、位をつける必要はないということです。

 死んだ時に位をつけないから、真宗では位牌は用いない。法名軸にする。死んだ人は霊魂じゃない。諸仏です。私たちに念仏を称えてくれと勧めてくださる仏さまです。家にご本尊を安置して、毎日の生活の中で亡くなった方を縁としてお内仏にお参りし、本当に真実が尊いという世界に触れることができる。亡き人が私に仏縁を開いてくださったんです。もっと言えば、人生には限りがあることを教えてくださった。そして、限られた命をどう生きるか、どんな人生にしていくのかが、亡き人から問いかけられているんです。

 お墓になんて刻みますか。一般的には「何々家之墓」です。しかし、私たちは「南無阿弥陀仏」とか「倶会一処」。「何々家」だったら死者を拝んでいることになる。南無阿弥陀仏だったら死者を拝んでいるわけじゃない。仏になられた死者を通して教えをいただいているんです。限られた命です、どう生きるんですかということがお墓の意味としてあるんです。

 昔は村の墓があって、そこに「倶会一処」と書いてあった。ご縁がある方はみな一緒に入りましょうねということです。○○姓しか入れませんということではない。だから、姓が違ってもいい。ほかの宗派は姓が違うとだめな場合が多いですね。

 蓮如さんの『白骨の御文』に、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」とあります。朝には赤い顔をして元気でも、夕方になったら命を終えているかもしれない。私たち人間はどんな姿で生きてるんですか。「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに」と書いてある。「浮生」、身体が浮いている。地に足がついていない。そういう生き方をしているということです。

 私たち一人ひとりの存在がかけがえがないんです、亡くなった人もそうです、命はみんな同じなんです、ということをお墓で示している。海や山にお骨をまくのもいいかもしれない。だけど、そこに教えがない。死んだ人の姿やお骨が私たちに大切なものを残してくださっているのです。それを通して南無阿弥陀仏に出遇っていかなければならないというのがお墓の持つ意義です。亡くなった人がそこに眠るためにお墓を作ることと全然意味が違う。お内仏と仏壇では意味が違う。お寺の意味も他宗とは意味が違うんです。

 今の時代は亡くなった方に対する思いが薄れてきました。死んだ人よりも自分たちのほうが大事になっている。通夜や葬儀がものすごく簡素化しています。簡素化するのはいいと思う。簡素じゃなくて、面倒臭いの方、楽な方へ流れる。二日も勤めない、一日で良い。火葬場でお参りすれば良いと。さらには、それもいらない。お内仏もいらない。お墓もいらない。死者という存在が薄れていくんです。もっと言えば、死を分かち合うことがなくなる。

 私たちは死ということを通して自分の生き方が問われるんです。僕の父は26年前に72歳で亡くなり、兄が5年前に64歳で亡くなりました。そこに突きつけられました。ああ、自分も死んでいくんだなと。死をとても意識しました。同時に、死にたくないという気持ちも出てきました。

 父が死んだときは、私は30代でした。一周忌だったかな、法事のあとのお斎の席で兄に「親父が死んでから、健康診断行ったんだよね」と話した。そしたら兄貴もね、「お前もそうか。俺もそうだ」って言うわけです。やっぱり不安になる。不安になるということは、まだ死にたくはないのです。でも、命は終えていかなければいけない。

 兄貴は64歳。私は去年60歳になったから、64歳まで4年ないです。昔は感じなかったですね。このごろは感じるんです。あと3年ちょっとか、みたいに。でも3年という保証はない。限られているのです。そうすると、限られた人生をこれからどう生きるんだろうということが出てくるんです。もう少し言うなら、どう生きてきたのか、どう生きていくのかということが問いかけとしてある。

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 浄土真宗は宗派の名前じゃない。教えを表しているんです。どんな教えかというと、南無阿弥陀仏の教えです。教えの内容が「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という『正信偈』の冒頭の二句です。その次の「法蔵菩薩因位時」からは阿弥陀の物語です。

 『正信偈』の前半は南無阿弥陀仏の心を示した『大無量寿経』のエッセンスです。親鸞聖人は「浄土三部経」といって、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つのお経を大切にされました。「浄土三部経」の中心が『無量寿経』です。

 この『大無量寿経』が真実の経だと親鸞聖人はおっしゃる。ここに示されていることが真実ですと。真実を宗とする教えだから、真宗。「宗」はよりどころ、私がよって立つところ、中心、要です。「よりどころ」を英語で言うと「grand」。大地、足場。もう一つ、「foundation」という意味があります。基礎、土台ということです。

 土台がしっかりしていないと、家はどうなるんですか。ちょっとした揺れで倒れてしまいます。皆さんの人生は何を土台としているかということです。ここでこの経典の世界が真実だと言っているのです。

 南無阿弥陀仏という言葉を形にしたのが、お寺やお内仏のお荘厳、お飾りです。お荘厳に私たちが向き合っているということは、教えに向き合っているということです。お釈迦様の説かれた南無阿弥陀仏の心を示した教えをいただいていることになります。そのことを親鸞聖人が『正信偈』で示してくださっているんです。

 親鸞聖人は法然さまとの出遇いによって、南無阿弥陀仏がお釈迦さまの本当の教えだと目を開いていかれました。お釈迦さまからインド・中国・日本と伝えられてきた南無阿弥陀仏の教えに触れ、親鸞聖人自身が推し進められたんです。お釈迦さまも出会った世界に人生が推し進められたんです。ということは、お釈迦さまも推進員です。親鸞聖人も推進員。みんな推進員なんです。そういう意味が推進員という言葉の中にある。真宗門徒や仏教徒にはそういう意味があるんです。

 教えによって推し進められてきた人たちが集まって場を作り、お荘厳をして教えに触れてきた。まずはお勤め、勤行をする。みんなで声に出してお経を読む。お念仏を申して「南無阿弥陀仏」と声にする。それを「称名念仏」といいます。「十声一声聞く人」と親鸞聖人はおっしゃっています。私の声が私に聞こえてくる。そして、私の声が他の人に聞こえる。家の中で称えれば、家の人たちに聞こえるのです。

 誰に聞いてほしいのか。人間に聞いてほしい。その人はどんな人間かというと、凡夫という人。煩悩を持つ存在を凡夫といいます。凡夫は自分の価値観でしかものが見えないから、隣の人の気持ちは見えない。私たちは凡夫という資質を持って生きているんです。「一切善悪凡夫人」、みんな凡夫として生きている。私も凡夫だし、親鸞聖人も凡夫。お釈迦様も人として生まれてきたということですから、凡夫。トランプ大統領も凡夫に変わりはない。生まれたところ、育った環境によっていろんな考え方になる。私たちも戦前戦中に生まれたら、戦前戦中のものの考え方で生きてしまう可能性は持っている。親が「今だけ、金だけ、自分だけ」と三だけ主義だったら、そう生きてしまう。環境って大事だし、またどんな人間でも作れる、だから恐ろしい一面がある。

 お経も『正信偈』もご和讃も、何を私たちに伝えようとしているのか。それは南無阿弥陀仏なんです。南無阿弥陀仏のことを何て言いますか。名号と言います。名前です。何文字ありますか。六字名号です。本尊の阿弥陀さまは元は言葉です。「浄土三部経」には南無阿弥陀仏の心、世界が表現してある。それを形に示したのが本尊であり、荘厳です。言葉が形として表現される。お経というお釈迦さまの教え、言葉です。

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 本願寺は、もともとは親鸞聖人のお墓です。京都の東山にあるお墓に関東の門弟たち集って、親鸞聖人からこういうこと聞いた、ああいうこと聞いたと語り合ったんです。

 親鸞聖人の九十年の生涯は、南無阿弥陀仏に出遇い、南無阿弥陀仏に生きて、南無阿弥陀仏を伝えてくださった人生だった。私たちはそのことを忘れず、記憶にとどめておかなければならない。次の世代へ、その次の世代へと記憶が相続されていかなければならない。そうでないと、記憶が途絶え、忘却してしまう。

 忘却しないためにお墓という形を作った。それが後に本願寺になり、室町時代になると、蓮如さんの時に爆発的に日本中に聞法の道場が生まれていったです。

 関東の門弟もみんな門徒。親鸞聖人も門徒。親鸞聖人はご自分のことを「門徒」とおっしゃる。『教行信証』の後序の中に一か所、ご和讃の中に一か所、門徒という言葉を使われておられる。誰を指して門徒と言っているかというと、親鸞聖人自身のことなんです。

 私も衣を着ているけれども、門徒です。親鸞聖人の末娘である覚信尼さんは、親鸞聖人のお墓を預かってほしいと、関東の門弟にまかされた。留守職といいます。私もご門徒の皆さんからお寺をお預かりしているわけです。私もお寺の留守職だから、親鸞聖人のお心が失われないようにしていかなければいけない。親鸞聖人のお心を住持、保持する職だから、住職。だから、お寺はそこに住んでいる寺族の私有財産ではない。公のものです。東本願寺の土地も建物も皆んなの共有の財産です。それを仏法領と言います。

 自分が門徒としてお釈迦さまのお心を聞いて、その心を学び、自分の生き方として生きていく人が真宗門徒。イコール、教えによって推進された人を推進員という。だから推進員っていうのはね、真宗門徒ということです。

 ところが、真宗門徒が真宗門徒になっていない。衣を着ている私たちが、自分は真宗門徒であるという精神がどこか失って存在している。特権階級になって、どこか偉くなっちゃっている。そういうことでは親鸞聖人のお寺が親鸞聖人のお寺でなくなってしまう。そういう反省の中から、改めて真宗門徒に帰ろうという中で生まれてきたものが推進員養成講座なんです。私たちが親鸞聖人のお心に帰って、私たちの生き方として親鸞聖人の教えをいただいていかなければならない。

 親鸞聖人の教えが記憶され、相続されてきた。だから、親鸞聖人の教えは記憶の中にしかないんです。親鸞聖人の記憶が皆さんの中になければ、形だけのお寺です。形に意味を見出せないと、私の生き方とか人生とか関係ないじゃないですか。そんなのいらないのです。

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 お釈迦さまはどこでも、誰にでも等しく話をされたんです。そこには身分とか貧富とか、出家しているかどうかは関係ない。平等に教えに触れてほしいということです。日本人も朝鮮の人も中国の人もインドの人も、国を超えて、民族を超えて、言葉も価値観も違うけど、皆んなが教えに触れて感動した。うなずいていった。だから、仏教は民族宗教じゃない。すべての人の届いていかなきゃいけない教えなんですよ。

 時代や地域が変わっても、もう少し広く言うと、肌の色や言葉や習慣、風俗、そういうのが全然違ったとしても、人間として生まれてきたら必ず持つ根源的な問い、それは「生まれてきて、どう生きていくのか。どう生きたいのか」ということです。やっぱり「生まれてきてよかったな」と言って死んでいきたいのです。笑顔とまではいかなくても、笑みの中で死んでいきたい。暗い顔して、眉間にしわ寄せて、生まれてこなければよかったみたいな形で死んでいくのは悲しいですね。虚しいわけです。

 私たちは心の底では本当に生きたいんです。本当に出会うべき人に出会いたい。政治家でも、この人は本物だなと感じたらまかせられるんです。お医者さんでも、この先生は患者さんの気持ちを汲んでくださる、いいなあと思ったら、本当のお医者さんだなって思えるじゃないですか。学校の先生でもそうですね。本当ということを私たちは求めているんです。本当ということを感じて生きていきたいんです。

 阿弥陀さんのことを何と言いますか。ご本尊ですね。本尊とは本当に尊い。本当ということを違う言葉で言うと何か。真実。真実が尊い。お釈迦さまは真実に出会ってほしいとおっしゃっています。真実に出会うことによって、私という存在が知らされてくるし、つながりで生きている意味も知らされてくる。

 本物の反対は? 偽物。イミテーションは好きですか。嫌いですよね。それは理屈じゃない。本物に出会いたい。本当ということに触れながら生きていきたい。私の中に本当はないけれども、でも本当に触れながら生きる世界がありますとおっしゃったのが親鸞聖人。南無阿弥陀仏を通して本当の世界に触れる。ということは、本当でないものを本当にしてる私がいるということです。本当が何かわからない。

 『正信偈』に「即証真如法性身」とあります。平たく言うと真如という身をもって私たちは生きている。真如を正確に言うと、真如一実。仏教でいう真実はこれ。真如を一如とも言います。

 その真如の世界に私たちを触れさせるために、如(真実)が願いとなり、言葉となり、形となって、私たちに届いているから如来という。如来さんがどこかに実体としているではない。はたらきです。

 これまで、生まれ死んでいった一人一人、そしてこれから生まれてくる一人一人が、すべてかけがえのない存在なのです。お父さんとお母さんにいただいたこの命は、他と比べることができないんです。かけがえのないあなたなんです。すごいですね。50数億年の地球の歴史の中で、たまたま命をいただいて生まれてきた。だからそれを真如一実という。

 それを違う言葉では「寿」です。量ることのできない命だから、無量寿。つまり南無阿弥陀仏。阿弥陀とは、アミータ、無量という意味です。はかりしれない命です。

 私たちの存在はかけがえのない存在です。それに気づかずに、自分の善し悪しをよりどころとして生きている。そのことに私たちは目を開いていかなければいけない。自分の善し悪しと分別する心は死ぬまで消えません。だから、いつも私のものの見方、考え方が、真実によって問いかけられる。自分がどういうふうに生きているか。手を合わせて仏さまの前に座り、お話を聞いて確かめていく。そのことによって人生が推進されていくんです。

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 今の時代は「三だけ主義」です。私たちが依りどころにしているものは「今だけ、金だけ、自分だけ」。

 今さえよければ。これまでのことはリセット、未来志向で行きましょう。憲法も新しく変えましょう。原爆ドームも形だけになって、その形の意味するものが薄れてしまっている。深い深い人間の悲しみと愚かさ、そのことに鈍感になってしまって、目先のことだけが大切にされている。これまでを省みない。今だけ。未来の人にどういう影響を与えていくか、あまり考えない。

 そして、金だけ。裁量労働制について国会で話し合われていますけど、企業の経営者にとっては都合がいいかもしれない。働く人は大変です。残業が増えまくるんだから。働いている人が大事にされていくことよりも、いかに儲かるか、いかに経済活性化するかだけのようになってしまっている。

 一億総活躍という言葉がある。活躍の内容は経済に貢献することです。死ぬまで活躍しなければいけない。経済に貢献する間は役に立っている。貢献しなかったらどうなるか。役に立たないという烙印を押されます。人間を役に立つ、役に立たないで見てしまうことが当たり前になって、大事なことが抜け落ちてしまう。

 その次は自分だけ。自分さえよければいい。家族さえよければいい。人のことはどうなってもかまわない。

 三だけ主義はいけないと、みんな思ってる。だけど、三だけ主義が私の中にあるんです。そのことに気づかせてくださるのが、親鸞聖人の教えです。

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 南無阿弥陀仏を声にして聞く。それが称名念仏です。お念仏の声が十方に聞こえ、すべての人に南無阿弥陀仏にこめられた願いが届いていく。それを「重誓名声聞十方」と言います。だから、皆さんも声に出してお念仏申してください。無言では伝わらないから、皆さんのお子さんやお孫さんに届かない。私が称えることで、その声を聞いた人たちが念仏を称えていく。念仏を称えるという形で身に覚えていく。ですから、わかるわからないではなく、わかるわからないを超えてお念仏申してください。

 「いただきます」「ごちそうさま」と親が手を合わせるお家は、子どもも「いただきます」「ごちそうさま」ができるのです。なぜ「いただきます」と手を合わせるのか。お魚も野菜もみんな命ですから、食べるということはその命を奪うことです。他のものの命を奪わなければ生きていけない。そういう人間の姿がある。罪という感覚です。それを感じられるのは人間だけ。他の動物は一切感じない。

 人間が人間たる所以は、誰かの犠牲の上に私の今が成り立っているんだという感覚を持っているということです。その感覚がなくなって、うまいかまずいかだけだったら、人間でありながら人間ではなくなっている。

 食事のときに「いただきます」「ごちそうさま」と声に出さなかったら、子どもたちは命をいただくんだという意識を持つことはできません。教えに触れないと消えるんです。私がお参りしなきゃ、次の世代はお参りしない。お内仏はいらない、お墓もいらないということになりかねないのです。

 あるお宅にお通夜のお参りに行ったんです。目の前にビール、ウーロン茶、ジュースが置いてあったんです。みな瓶です。そこに栓抜きが置いてあるわけです。中学生のお孫さんが「お姉ちゃん、これ何?」と聞くんです。この子は栓抜き知らないのかって思ったら、お姉ちゃんが「何だろうね」って言ったんです。これね、腰がぬけるほどびっくりしました。。

 どうですか。栓抜き。家で使わなくなったじゃないですか。その子たちは栓抜きを使わないし、見てないわけです。そうすると、彼女たちの記憶の中に栓抜きという存在がない。栓抜きという形はあるけど、それが何かわからない、だから、自分にとって必要ではないものになっている。

 お寺も形はある。でも本当に触れるということがないと、形で終わってしまい、自分の生き方や人生と何も関わりもなければ、自分にとっていらないものじゃないですか。

 ということは、記憶を失わないためにお寺がある。記憶を失わないために経典がある。お釈迦さまが自分の目覚めた世界を語ったわけです。語ることで、その言葉が聞いた人の記憶が刻まれるのです。そして、聞いた人がその教えをまた伝えていけば、次の人に記憶が刻みこまれていくのです。自分の中にある記憶を表現しなきゃ伝わらない。伝えていきたい。言葉にはそういう願いがあるのです。報恩講もそうですね。親鸞聖人が亡くなって、命日には親鸞聖人の生涯を確認し、親鸞聖人の教えを失わないように記憶を保ってきたのです。それが門徒です。

 皆さんは子どもに親としての願いがあるでしょう。私たちにも、人として生まれてきた。そうして、どう生きていくのか、仏さまの願いがかけられているのですね。皆さんもここに来られたのは願いが届いているからじゃないでしょうか。

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 お釈迦さまも教えに出遇い、それを言葉として後でまとめられた。だから、皆さんがお釈迦さまの言葉に触れ、その願いが表現された南無阿弥陀仏に触れて、私たちが推し進められながら生きていく。

 それを「広由本願力回向」と『正信偈』にあります。回向とは願いが振り向けられているということ。その願いを本願といいます。本願には色もないし、形もないから、言葉にした。それが南無阿弥陀仏という名号、名前です。それを本尊という形にしたのです。願力、願いが私の人生の生きる力になるのです。

 人生は平坦ではありません。苦しいこと、悲しいこと、つらいこと、そういうことを身に受けながら生きているのです。病気にもなるだろうし、長生きすれば老いという問題も出てくる。何年生きたってお金の心配しなければいけない。顔を見たくもない人がいるけれど、見なければ生きられないから、人間関係の問題も消えないのです。

 私の父は72年、兄は64年。いろんなことがあった人生です。母は気が強くて、義姉さんはずいぶん苦しんだし、そんなこと何処に行ったってある話を抱えながら皆んな生きていかざるを得ないです。そりゃ、大変な人生だけど、大切な人生です。かけがえのない人生です。苦しくても、悲しくても、生きてきてよかったなという世界があるんだと、お釈迦さまは私たちに示してくださったんです。そうでなければ生きてきた意味がないじゃないですか。

 「本願名号正定業」、願いと名前とは切り離すことはできない。南無阿弥陀仏という名前を通して願いに触れていくんです。真実に触れたらどうなるか。「業」とは、私の生きてきた歴史、歩み、なりわいです。「正定業」、平たく言えば、私の生活が正しく定まる。それは本願のはたらきによらなければいけない。本願の名号、すなわち南無阿弥陀仏に真実世界が示されているんだと。私たちの先輩たちは、真実に触れることによって自分の生き方が開かれてきたと。それでは、その真実とは何なのか。

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 三帰依文を見てください。最後の方に「願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん」と書いてあります。「如来」というのは阿弥陀如来です。「如来の真実義」、如来の真実という義、意味を解したいと。阿弥陀さんがどこかいるわけではない。南無阿弥陀仏という名前の中にある真実という義を明らかにしたいということです。

 『正信偈』に「天親菩薩造論説」とあります。天親とはインドの僧侶です。『正信偈』の後半は南無阿弥陀仏のこころをインド、中国、日本の七高僧、七人の僧侶が伝えられたことが書かれています。龍樹、天親はインドの方。曇鸞、道綽、善導は中国の方。源信、源空(法然)は日本の方。

 天親菩薩は『大無量寿経』をいただいて、『浄土論』という書物を作られました。それが「天親菩薩造論説」です。その『浄土論』に「我依修多羅 真実功徳相」という言葉があります。「修多羅」とは「スートラ」を音写した言葉で、お経という意味です。もともと「スートラ」は織物の縦糸という意味なんです。人生を貫くものが縦糸です。生まれて死ぬまで私たちの人生に貫いているものがあるということを示したのがスートラ、つまり経典です。

 お経には「真実功徳の相」、功徳の姿がある。功徳ははたらき。どんなはたらきがあるかというと、私たちに「如来の真実義」、真実の意味を理解させる、そういうはたらきがある。私の力で理解するんじゃない。知らされる。受け身です。

 真実であるお経を声にして聞かなければ解することはできない。聞けば知らされる。その知らされることを親鸞聖人は「信知」とおっしゃった。信心は鰯の頭も信心ではありません。わけはわからないけど、とにかくありがたいということではないのです。

 では、何を聞くか。南無阿弥陀仏は言葉です。人間存在にとっての根本の言葉です。言葉には伝えるという願いがあります。真実に触れてほしいという根本の願いです。その弘く誓われた願いを聞く。だから、「聞信如来弘誓願」という。本願は本弘誓願と言います。短くして本願、弘誓、誓願、あるいは弘願とか本誓とかいろいろ言い方があります。人間のこれまでの歩みが願いになっている。

 弘く誓われた願いを十方のすべての人に届けたい。真実を基にして自分が生きていける世界が必ず開かれていく。どんなに苦しくても悲しくてもつらくても、必ず生きていける世界がそこに生まれてくる。どんな人間関係の中でも、必ず生きていける世界が開かれているのです。

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 私たちは善悪という価値観で生きている。善し悪しを言うことが当たり前だと思っている。「一切善悪凡夫人」であることに気づかない。自分の善いものは受け入れるけど、自分の嫌なものは受け入れたくない。嫌だと思うものは排除する。それが私たちの本音です。小池都知事が衆議院選で「排除します」と言って批判されたけど、私たちの中にも排除するという本能があります。

 排除はよくないと言いながら、自分の生活はいつも善し悪しで生きている。「あれはいい」と受け入れたり、「あれはダメだ」と排除してるわけです。自分がいいと思う世界を作り上げていこうとして、嫌な人がいたり、思うようにならない人がいたりすると具合が悪いから、いなくなったほうがいいと思ってしまいます。家庭でも、地域でも。政治とか戦争とかには、根っこにこういう善悪の問題があるのです。

 私たちは「善悪」、善し悪しという自分の考え方、価値観を足場にして生きているんですね。「われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」と、これは『歎異抄』の言葉です。善し悪しで生きるとどうなるか。その後に「われもひともそらごとをのみもうしあいそうろう」と書いてある。そらごとばっかりになる。「そらごと」を漢字で書くと「空言」「虚言」です。空虚、空っぽということです。今まで一生懸命努力してきたけど、自分の人生、何だったんだろうということでしょう。

 73歳の女性の方が「よしとする 生きた証が 何もない」という川柳を新聞で紹介してありました。仕事をし、結婚して子育てをしてきたけど、自分の生きてきた証はどこにある。何もない。皆さんはどうですか。

 私の母は今年89歳です。九州弁で帰省するたびに私に言いますよ。「長生きしたばってん、よかことはいっちょんなか」とね。「お寺の坊守さんでしょう。教え聞いてきたんじぁないの。なんば聞いてきたと」って話でね。教えに触れて生きていかなければならないのが、聞いてきたことが本当に触れていたことになっていたのかという話なんですね。

 人生はね、最後は死んでいかなければならない。どういうふうに老いていくかもわからない。今まで普通にできていたことができなくなる。こうやって皆さん来てくださっているけど、いつかお寺に来れなくなる時が来るんです。必ず変わっていくわけです。そうすると、自分の思いに合わないことが起きてくる。「あれだけお寺通ったのに何でこうなったんだ。お寺へ行ってもご利益がないじゃないか」という話になる。でも、真宗のご利益はそういうご利益じゃないですね。

 普通はどういうご利益かというと、1月1日にお寺や神社に行って、何てお願いしますか。去年はいいことなかった、今年はいいことがありますようにとお願いする。だけど、過去をなかったことにできない。過去を受けて始まりがある。ゼロからのスタートはありえない。これまでどう歩んできたかを顧みることが大事なことです。事実の中に願いがあるんです。人間の歩んできた事実は悲しみの連続ですから。戦争してきたし、殺し合ってきた悲しみの中に歴史がある。。

 今年は戦後73年、憲法制定70年です。明治政府が作った大日本帝国は1945年8月15日に終わりました。そしてそこから新しく始まっていきました。その時に、自分たちの国は明治以降、どういうふうに歩んできたかを顧みたのです。もちろん正しいこともあったけど、最後は日本全国が焦土となった。その象徴が広島、長崎。日本人だけでなく、多くの人が苦しむ結果を生んでしまった。なぜだったのか。私たちはこれまでどう生きてきたか。本当のことを失い、本当でないものを本当にしてきた結果としての1945年8月15日。これまでの自分たちの歩みを踏まえ、これまでの誤ってきたことへの悲しみ痛みが、願いとなって形が生まれた。それが憲法でしょう。ということは、これまでの中から願いが生まれてきたのです。

 私の人生で何を大事にして生きてきたのか。その結果としての今があるのです。私は何をこれから大事にして生きていかなければならないのか。これまでのままだったら始まりがない。しかし、終わっていったこれまでのことを見すえ、そのことを通して新たに始まっていくことが、私たちに願われているのです。

 2月3日の節分には何て言いますか。「鬼は外」ですね。「鬼は外」と言って、何の疑問も持たない。「今だけ、金だけ、自分だけ」です。三だけ主義で生きて、結果として自分を苦しめていくし、周りの人も苦しむような世界を作ってしまう。「一切善悪凡夫人」が作る世界は「国土人天之善悪」、善悪を基とした国土を作る私たちです。

 一人一人を大事にしていかなければならないことは知っていても、大事にするような生き方をしていない。私たちの心は序列を作る。いつも比べては、自分が上か下か気にする。上になったと思うと優越感に浸るし、下だと思うと劣等感に沈むし、そういうのが私たちの根性ですね。

 平昌オリンピックのスピードスケートで金メダルを二つ取った高木菜那さんは、妹の美帆さんが中学生のとき初出場したオリンピックでは、落選して代表になれなかったそうです。妹がオリンピックに出て脚光を浴びるのが悔しかったんでしょう。妹を応援しながら、心の中で「転んでしまえ」と思ったというんですね。インタビューを聞いていて、かつてのことを振り返って笑顔で言えるというのがいいなと思ってね。私たちはそんな心を持って生きているんですね。

 オリンピックでは小平奈緒さんもスピードスケートで金メダルを取りました。試合の後、負けたライバルの人に寄り添ったじゃないですか。あれは勝ち負けを超えてますね。競い合ってるけれど、お互いが讃え合っている。そういうことを感じますね。

 一人一人が手を取り合ってお互いが健闘を称えあう。お互いがお互いを支え合っている。ライバルやスタッフや観客の人たちがいたからで、自分だけと力ではないですね。一流選手は支えられなければやれないんだとわかっていますね。お互いさまの関係です。私があってあなたがあり、あなたがあって私がいる。親がいて子供がいる。子供がいるから親になれた。先生と生徒の関係もそうですね。みんなお互いの支えの中で存在してる。

 その一方で、勝つためにドーピングをする人や国もありますね。ロシアは国としては参加できなかった。日本でもカヌーの選手が、ライバルを蹴落とすためにドーピング薬を入れたということがありました。ああいう心が私たちの中にもあるんです。
 そういう自分中心という世界を超え、手を取り合いたいという心も私たちにはあるんです。私たちの中には両方の心がある。ときには、自分が上で、人が下というふうになるんです。真実を求めていても、真実に背いて生きているということも事実です。

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 親鸞聖人の精神が私たちの記憶からなくなると、形が崩れていく。形が崩れると、真宗寺院が真宗寺院でなくなり、真宗門徒が真宗門徒でなくなる。お内仏が仏壇、位牌棚になってしまう。

 真宗門徒というのは生き方なんです。今のままでは、真宗門徒という生き方の人が、かつて日本にいたという、絶滅危惧種だということになりかねない。絶滅しないようにするためには、まずは自らの推進です。皆さんがお寺に参って、お話を聞く。お内仏にお参りする。お内仏の推進です。ぜひ子供さんたち、お孫さんたちに、形の大切さを見せてほしい。そしたら子供さんたちに形としての感覚が身についていく。意味はだんだんとわかってきます。皆さんが生きてる時にはなかなかわからないかもしれない。おじいちゃんおばあちゃんが亡くなった時に、ああ、こういうことかとわかったりする。まずは形に触れていくことです。

 そして、一人でも多くの方にお寺に来て、教えに触れて人生を推進してもらって欲しい。どうしたら一人でも多くの方に来てもらえ、お寺が一人一人の人生を推進できる場になっていくか、住職さんと協力し合ってほしい。自分だけ聞いてればいいという話じゃない。

 昨日、ある人が言ってました。お墓参りに孫を連れて行ったら、お墓がたくさんあるから、孫が「たくさん死んだんだね」と言ったそうです。そして、「かわいそうだね」と。子供の感性です。

 お墓参りをして、おじいちゃん、おばあちゃん、そのまたおじいちゃん、おばあちゃんとかのお骨がこのお墓に安置してあるんだよと教える。そのことによって、大勢の人が生きて、その中でお前も生まれてきたんだ、自分だけじゃないという感覚を伝えていかなければならなない。

 推進員として生きるということは、教えに出遇って生きて欲しいと願われていることに目覚めていく。推し進められると言いましたけど、私が誰かを推し進めていくというふうに普通は思うわけです。それも大事ですけど、その前に自分はどういうところに立って生きてきたのかということがあります。自分の立ち位置をどこに置いて生きてきたのかを、改めて考えていく中で、自分の生き方が推進されていく。

 仏教は政治ではない。命の問題です。だから、政治的立場はそれぞれ自由。憲法に対する考えも自由です。どう生きるかも自由。こう生きろとか、ああしろとか、もしそういうのがあったとすれば、政治的なものになりかねない。安保法制に賛成の人も反対の人もいていい。だけど、どこで反対しているかという自分の立ち位置、どこで賛成しているかという自分の立ち位置が問われてくるんです。

 仏教は自利利他円満です。すべての存在と一緒に生きてるわけです。いろんなことを抱え、考え方もみんな違うんです。だけど、縁があって一緒に生きているのです。だから、自分だけよければというわけにはいかない。自利利他円満です。

 一緒に生きていく世界を伝えていく。その原理が土(ど)、つまり大地を一緒にすることです。日本の価値観とかアメリカの価値観とか、そういうことを超えて、みんなが等しく頷き合っていける世界。それを清浄国土といいます。短くして浄土。死んでから行く世界じゃない。私たちが清浄なる世界と表現されている世界に触れながら生きていくのです。

 皆さんは綺麗ですか。生まれた存在としては綺麗ですね。だけど、私の心は綺麗とは言えない。思ってることと言うことは、違う。言うこととやることも、違う。どんな立派なことを言っても、腹の中では褒められたいし、損はしたくないし、嫌な思いはしたくない。

 私たちの世界はとは言えないですね。一人ひとりの存在を傷つけてしまう世界です。その象徴が、戦争、テロ、虐待、イジメ、ブラック企業。身近なところでの問題は根っこで世界とつながっている。そういう視点を仏教は私たちに開いてくださっているんです。聞法によって感覚が養われ、生活の中で実感する。それが教えを聞くということです。

 縁がある人と世界を共有していきたいし、分かち合っていきたいじゃないですか。お寺がそういう場になっていかないといけない。時代の問題でも、それを内に持ちながら地域の方と関わりを持つことができればありがたいと思います。

 縁はそれぞれです。真宗じゃない人でも、真宗の話を聞きたいという方はいらっしゃるんですよ。○○寺の門徒しかお寺に行っちゃいけないことはない。どんな宗旨の人だってかまわない。開かれているんだから。その中で、広く、お互いが分かち合って、苦しみの中にあっても笑みがこぼれる世界です。そういう世界を私たちに開いてくださろうとしているわけです。

 今日は推進員の集いということで、推進員という言葉の意味を確かめさせていただきました。十分ではありませんが、これで終わります。ありがとうございました。
(2018年2月27日に行われた安芸南組推進員研修会でのお話をまとめたものです)