|
和田 稠先生の法話から
|
「自分は迷っていない」「迷わぬようになった」と思う時こそ「迷い」の絶頂である。
神様に助けてもらう必要がなくなったことを助かったというんです。助けてくださいと言っとる間は、神様の奴隷です。救いが必要でなくなるのが救いです。
自分の力で自分を作りかえることはできない。そのことがはっきりしたということは、すでに確かなものが感ぜられておるということです。自分を超える確かなはたらきに遇うたということに他なりません。
自分をたのむ心が駄目だから、その心をなんとかしろという教えではないんです。
仏教の教えは、過ちを犯してはならん、人に迷惑をかけてはならん、正しい生活をしなければならん、という教えではないんです。
なぜか。過ちをするものが人間というんだ。過ちがなくなったら人間ではない。
どこで一緒かというと、私も愚かな者、みな愚かな者、愚かな者だなあと、そういうところでしか一つになれない。
ところが反対やっとるんですね。賢くなって一つになろうと思うとる。賢くなったらもう終わりです。絶対に一つになれません。
苦悩をなくしたら、もはや助かる必要もなくなります。 問題がなくなったら、そこには人間はおりません。
もはやロボットが息をしとるだけです。
どんな人もみな共通です。何が共通かというと、ひとりひとり自分の世界を生きている、という点で、みな共通です。他にかけがえのない私の人生を生きているということだけが共通なんです。
わからんはずです。大人は若いころに持っておった人生に対する問いを失ってしまったんです。若者は、人間とは何か、生きるとは何か、という問いを持っておるんです。
お浄土というのは願うところにある。願いとなってそこにある。願わずにはおれない世界として、我々のところに届いておる。
日本では人を教化しようとする意識が常識になっとるんです。夫は妻を教化しようとし、妻は夫を教化しようとする。親は子供を教化しようとし、子供は親を教化しようとする。先生ばっかりで、生徒は一人もおらんのです。そんなところで何を言っても駄目です。そして、みな自分の孤独の世界の中に閉じこもっている。
本当の自分は自分ではわからんもんです。自分のものさしではとてもわからん。自分でわからんものは他によって知らされるしかない。
法蔵菩薩というのは我々の求道精神を表す言葉です。求めざるを得ない、本当の人間にならずにはおかん、と人間に生まれた者は必ず深いいのちの願いを持っておる。その求道精神を法蔵菩薩という言葉で表現したんです。求めることを一般的には宗教心と言います。
他の力を借りて幸せになるのではありません。生きる上でいろんな不満や不安はありますけれども、私を救うのは私の中に起きてきた求道精神、宗教心が私を救うんです。
救いということは、常に今でなくてはならん。目を覚ます場所は今です。差別と孤独のまっただ中で目を覚ます。そのことを往生極楽の道とおっしゃる。
お浄土という言葉で言われておる世界は、我々人間が願わずにおれない世界をお浄土と言うんです。願いの中にお浄土はすでにある。願いが我々の生活を開き、我々の片寄った認識を開いてくる。
今まで自分だけが閉じこもっておった孤独な生活から解放される。なぜ解放されるかというと、自分の生きざまが照らし出され見えてきたからです。自分が見えないままで解放されることはありません。自分が見えるということは、大きなはたらきによって照らし出されることです。そのはたらきを光と言う。
宗教というのは本を読んで理解するのではない。図書館へ行って勉強すればわかるというものではないんです。真宗に生きた人を通して、その人を生かしめておる真宗に遇うのです。正しい教えというのは生きておる人を通して、その人の命に遇って、人々に響いていくんです。仏教は広めようと思うて広まるもんではないんです。本当に真宗に生きた人の言葉を通して、その人をしてそのような言葉を発せしめたはたらきに、私もまた遇わせてもらう。
人間死んだらどうなるんやと、生きたもんがてんで好き勝手なことを言って、死者を位置づけとるんです。御先祖様にするやら、草葉の陰にやってしもうたり、お国を護る護国の英霊にしたり。このごろは天に行ってお星さまになったという人もいます。生きたものが好き勝手なことを言っているんです。
生きとる者が勝手に先祖にまつりあげて、自分の家の守り神にしたんです。だから、うっかり先祖になると、向かい三軒両隣がどれだけ不幸な目に遭うても知らん顔して、自分だけお陰様でと言って喜んでいく、そういう人間ができるんです。
我々は真宗の門徒だと言っておるけれども、本当に真宗に遇うたことがあるのか。みんな、わしはそう信じておる、わしはそう思うておる。これは自分を信頼しておるんです。阿弥陀様を信頼したり、お念仏を信頼しとるんでないんです。自分の思いを信頼しとる。そして、自分の言うことが間違いない、親鸞さまの仰せであると言って、その言うておる自分という者をいっぺんも疑うたことがないんです。
問いに答えても何にもならんのです。ところが我々は教えを聞く時に答えを期待しておるんじゃないですか。わからんことがあったらあの先生に聞きましょう、なんか答えが出てくるやろう。 答えというのは人生を終わらせることです。大事なことは、わからんことに対して答えをいただくことではないんです。人生に自分流に答えを出してしまっとったんです。その答えが何にも間に合わない。
自分でも気のつかん深い大きな問いをいただくことです。これが生きた宗教です。その問いとは何か。人間に生まれた以上、このことのために人間に生まれてきたんだなあという生きておる充実した驚きと感動を毎日毎日かみしめて生きていきたい。そのことです。
老病死という時に我々の人生の目的というものは全部影が薄くなってしまいます。その時に初めて人間に生まれたということは一体何であるか、ということが問題になるんです。それを後生の一大事と申します。
平生、自分が頼っていたものが頼りにならない。その事実を否応なしに経験してきたのでしょう。その経験した事実をまともに問うことがなかった。本当の人生に遇うたことがない。
いのちを生きるものが共に一つ世界に手を取り合っていけるような、そういう世界を開かないかぎり、私の救いはない。個人の救いは一切衆生の救いと別にあるのではない。
生徒が救われないのに先生だけが救われるということはない。子供が救われないのに親だけが救われるということはないでしょう。本当の救いとは何か。性質が違い、考え方が違い、生き方が違い、年齢が違い、学歴が違い、性別が違う。その違った者同士がどこで一つ世界を共有するか。こういうことが一番大事なんです。
どうかすると宗教というのは、自分の思いだけを満足させる。もうちょっと言うと、自分の町だけ、自分の村だけ、自分の家だけが無事安泰であればいい。そういうのが日本人の宗教です。
我々真宗門徒がどう生きるかということを問われておるんです。こちらが問うのではない。問われておる。そのどこまでも問うてくる、そのはたらきを信頼しましょう。自分の思いを信頼するのではない。私がどうあろうと、こうあろうと、どこまでもそれでよいかと問い続けてくる大きなはたらきを信頼する。それを南無阿弥陀仏と言います。
|
|