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  若原 道昭先生 「お釈迦さまが説かれた教え」 
 2007年4月14日

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 みなさん、こんにちは。ようこそお参りくださいました。若原と申します。京都からまいりました。鳥取県で住職をしておりまして、京都と鳥取の間を行ったり来たりしております。
 仏教はどういう教えであるのか、まず最初はそのへんからお話ししたいと思います。

 我々は少しでもよりよく生きたいという気持ちがあると思います。じゃあ、いい生き方というのはどういう生き方であるのか。これが人によっていろいろ違うと思います。元気で長生きがいいという方がいれば、たくさん収入があって豊かな生活をするのがいいと考える人もあるでしょうし、家族仲良く平和に過ごすのがいい生き方だと思うこともあるでしょう。いい生き方といっても人それぞれ違うと思います。仏教もよりよく生きるための教えであります。
 よりよく生きるというのは、どう生きることなのか。そして、よりよく生きていっても、いずれはみんな死んでいかないといけないわけですから、よりよく生きるということは、死ぬということも合わせて考える必要があります。よりよく生きる、よりよく死んでいく。それはどういう生き方、死に方なのかということですね。

 今日はお釈迦さまの誕生日をお祝いする釈尊降誕会の法要であります。お釈迦さまもインドで二千五百年前に、「このように生きるのがいい生き方ではないでしょうか」ということをまわりの人に説かれたわけであります。お釈迦さまが説かれた教えを多くの人が受け入れて、そしてそれが今日まで受け継がれてきておるわけであります。ですから、仏教はお釈迦さまが説かれた教えに始まるということです。

 仏教というのは仏陀が説かれた教えという意味です。仏陀というのは悟りを開かれた人、迷いを離れた人、そういう人を仏陀と言います。仏陀が説かれた教え、それが仏教であります。ですから、お経は「仏説○○経」、仏陀が説かれたと書いてあります。

 じゃ、お釈迦さまは一体何を説かれたのかというと、私たちみんなが仏陀にならせていただくための道が、お経には説かれているわけであります。仏さまにならせていただくことを成仏と言いますから、仏教というのは成仏、仏になる教えである。
 仏教とは、仏さまが説かれた教え、それから仏になるための教え、だから仏教と言うわけであります。

 仏教とは迷いの世界を離れて悟りに至る道を説く教えであるということであります。じゃ、迷いとはどういう生き方か。迷いの人生とは何かというと、自分中心でものを考えてしまう生き方であります。迷いの人生、これは他人事じゃないです。我々がまさに迷いの人生を生きておるわけであります。

 おそらくみなさんも自分の都合のいいことを求めてしまいます。ああなってほしい、こうなってほしい。あれがほしい、これがほしい。そして、ああなってほしくない、こうなってほしくない。都合のいいことは求めて、都合の悪いことは避け、起こらんようにして生きているのが私であります。
 都合のいい悪いの基準は自分であります。自分にとって都合がいいか悪いか、これが基準ですね。自分をモノサシにして、いいか悪いかを決めている生き方、これが迷いの生き方です。迷いの生き方が迷いの世界、すなわちこの世を作っていきます。

 我々は自分中心の生き方しかできない。そして、自分の都合のいいことを求め、都合の悪いことを避けて生きておりますけれども、自分の思うとおりにはならんです。これは普段からよくわかっておることです。思うとおりにならん。だから、ついイライラしたり、腹を立てたり、人とケンカをしたり、いさかいを起こしたりして、毎日を過ごしておるわけであります。

 こういう生き方が迷いであります。他人事ではなくて、今の私の姿であります。そういう迷いの世界をどうやったら抜け出すことができるか、ということが説かれてあるのが仏教なんだということですね。

 結論を申しますと、迷いの世界を離れて、まことの世界、真実の世界に生まれる、それが仏教の教えであります。真実の世界に生まれることを往生と言います。

 往生というと死ぬことと考えられていますが、そうではありません。人や車が往ったり来たりするから往来と言います。迷いの世界から真実の世界に往って生まれる。それが往生です。迷いの世界を離れて、真実の世界に生まれさせていただくことが、仏さまにならしていただくということであります。

 じゃ、一体どうやったら迷いの世界を離れて真実の世界に生まれることができるのか。そこにもまたいろんな道があるわけです。なんで道がいろいろと分かれてきたかというと、人それぞれの力に応じ、それぞれの人に合った道があるから、それを選んで行きなさいということで、道がたくさん分かれてきたわけであります。

 お釈迦さまはいろんなことを説かれて、何だかいい加減なことを言われておるように思われる方もあるかもしらんですけど、そうじゃないです。あなたはこういう道を歩みなさい、あなたは力のある人だからこの道を行きなさい、というふうに、人の能力に合った道を説かれたので、いろんな教えがあるわけです。お釈迦さまが決して嘘を言われたわけではないわけです。

 昔から聞かされた歌に、
「わけのぼるふもとの道はおほけれとおなじ高ねの月をこそみれ」
という一休さんの歌があります。山に登っていく時に登り口はいっぱいあるけれども、山の頂上に着いたら同じ一つのお月様を見るのですよという歌であります。

 そういうふうに聞きますと、道はいっぱいあるんだから、どの道を通ってもいいんだと、我々は思いがちです。けれどもよく考えてみたら、自分の力ではこの道しか登ることができないという道があるわけです。なんぼ頂上に早く着く道であっても、私の足ではとても行けない道もあります。
 たとえば、迷いの世界を離れて、まことの世界に生まれさせていただくのに、厳しい修行を重ねてその道を進むという生き方があります。厳しい修行を重ねることは誰にでもできることではないですね。我々のような普通の生活をしていたら、毎日朝から晩まで修行するなんていうことはまずできないわけですから、修行によってまことの道を歩むという生き方はなかなかできることじゃない。

 あるいは、たくさんお金のある人はお寺に寄付をして功徳を積み、悟りの身にならしていただくという道もあるそうでありますけれども、お金持ちの人は世の中にそんなにはおられんと思います。これも普通の人にはできない道であります。
 だから、私に合った道を行くとなると、道は一つしかないということになってくる。我々のような自分の力や財産を使って道を歩んでいくことのできない人間が歩ませていただける道は何か。それが他力の教え、浄土真宗の教えであります。

  2

 この私というのは、自分の欲に振りまわされた毎日を送っています。死ぬまで煩悩が消えることも絶えることもない。欲に振りまわされ、執着する中でしか生きていけない人間である。
 親鸞聖人もおっしゃっておられるように、ちょっと風邪でもひけば死んでしまうのではないかと心配になってくるぐらい、自分に執着をしておる。執着を離れることのできん人間であります。

 そういう自分の努力ではどうすることもできんような私であるからこそ、阿弥陀仏という仏さまは私を決して見捨てることはないとおっしゃってくださっておるということであります。私のこの浅ましい姿をご存じの阿弥陀さまが、私が生まれるはるか前からまことの世界、お浄土を作って準備をしてくださっておったわけであります。

 しかも阿弥陀さまは「もうまことの世界は作ってあるから、いつでも自分の力で行きなさい」というふうにおっしゃっておられるんじゃないんです。「準備が整っておるから、あとは自分で行きなさい」と言われたら、とても私には行けないです。それでは何もありがたいことはないです。

 何でありがたいかと言いますと、私が自分でまことの世界によう行かんからこそ、自分の力で歩んでいけないような人間のところにまで向こうから来てくださる、それがありがたいということであります。それが仏さまの慈悲であります。
 自分の力では迷いの世界を抜け出せない。本当の悟りの身となることはできない。そういう私が仏さまにならしていただける。私のような人間を仏さまにしてくださるのが、阿弥陀さまの仕事であります。

 口の悪い人は「阿弥陀さまなんて別にありがたいことも何ともない。迷っとる人間を救うのが仕事だから、当たり前のことであって、別にありがたいなんて思わんでもいい」というようなひねくれたことを言う人もあります。他人事のように考えておればそうかもしれませんけども、自分のことだと思ったら、自然にありがたいという気持ちがわいてくるはずであります。

 ところがもう少しふり返ってみますと、この私は心の底から迷いの世界を離れてまことの世界に生まれたいなんて、本気で思っているわけでは決してない。それが証拠に、迷いの世界でできるだけ長生きしたいと私は思っております。一日でもいいから長生きしたい。まことの世界に早く行きたいなんて、ちょっとも思わんです。それくらい浅ましいということでしょう。

 仏さまがちゃんと準備をしてくださっておるのに、そこに早く行きたいと思わんということは、仏さまの願いから私は逃げまわっているということであります。そういう私でありますから、まことの世界に行こうなんて気持ちはわいてこんし、とてもそんな力もないわけであります。
 だからこそ、仏さまのほうが私のところまで来てくださる。まことの世界に生まれることができないような者が、生まれることができないまんまに生まれさせていただく。自分の力ではとても行けないような者が、自分の力では行けないまんまに行かしてもらう。これがまことの阿弥陀さまの慈悲というものでないかと思います。

 このような私でありますけれども、私はまことの世界であるお浄土へ生まれさせていただく身であった、何の心配もせんでもよかったということに気づかせていただくわけであります。この気づかせていただくということがご信心であります。私が自分で気づくんじゃない。気づかせてくださるわけであります。
 ありがたいという気持ちがすぐにはなかなか素直に出てこんかもわかりません。それがありがたさに育てられていくことが大事なことでないかと思います。
 そして、ありがたいと思えば思うほど、自分が恥ずかしいです。仏さまがそこまで私を大切にしてくださっておるのに、この私の姿は何という浅ましいことだろうかと、ありがたい反面、恥ずかしいです。

 信仰の厚い方同士の手紙のやりとりがあったそうであります。ある人がもう一人の熱心な方に「ありがたい、ありがたい、ありがたい」と手紙にいっぱい書いて出されたそうです。そしたら返事には、「恥ずかしや、恥ずかしや、恥ずかしや」といっぱい書いてあった。ありがたさと恥ずかしさ、それが簡単にいえば信心の中身だと思います。

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 私どもはこの世の縁が尽きた時に、名残は尽きんですけれども、死にたいことはないまんまに、お浄土にまいらせていただくわけであります。死んだらそれで終わりということではない。ここが大事なところであります。死んだら何もかも終わりだと思っていたら、仏さまの教えはわからんと思います。

 今、この世の縁が尽きれば私たちは仏さまの世界に生まれさせていただくというふうに申しました。この縁という言葉ですけれども、これは仏教の基本の言葉です。

 ものごとにはみんな原因と結果がある。原因がなければ結果はないですね。だけど、原因と結果の間にはたくさんの条件があります。この条件のことを縁と言っています。

 この世界のすべてのものごとは縁によって起こる。それを縁起と言うんです。因縁生起という言葉がありますけどもね、この世の中のことはみんな原因があって、それから縁がはたらいて生まれ起こるのである。その縁と起をとって縁起と言うんですね。

 もう一つ縁ということがピンとこない、ようわからん、という人のためにこういうたとえ話があります。植物の種があって、やがてそれが実を実らせる。種(原因)がなければ実(結果)は実らんのです。だけど、種があればみんな実るかというと、そうじゃないですね。種をちょうどいい土の中に埋めてやらないとだめです。その土というのは石ころばっかりではいかんし、ほどよい水分がないといかん。そして、ほどよい暖かさがないといけません。雨も降らんといけん。太陽も照らんといけん。虫がついたらいけんし、病気になったらいけん。そういう数えきれんほどの条件が整って初めて種が芽を出し、葉っぱを茂らし、花を咲かし、実を実らせるわけです。
 もちろん、雨が降るためには雨が降るための条件がある。温度が高くなるためには、高くなるための条件がある。鳥が食べてしまわんためには、食べてしまわんための条件がある。

 そうすると、条件といったって、条件の条件の条件のと、どんどんさかのぼっていけば、これはとても数えきれんほどの条件がはたらいておる。この数えきれんほどの条件のことを縁と言うんです。
 よう考えてみたら、種も縁によってできたものでありますから、種ができた原因はどんどんさかのぼっていきます。そして、できた実がまた次の因となって、たくさんの条件が整って、次の実を実らすことができる。

 この「数えきれない」ということを仏教では「無量」と言います。「帰命無量寿如来」の無量です。量とは「はかる」という意味です。無量というのは「はかることができない」、数えきれないという意味です。数えきれない縁がはたらいて、私どもが生きておる世界のものはみんな生まれ、起こり、移り変わり、変化し、そして、壊れ、滅び、死んでいくのである。それが因縁生起、縁起ということなんですね。

 私たちの生きておる世界は縁起の世界ですよ、というのはそういう意味であります。だから、「縁起をかつぐ」とか「縁起がいい」とかと言うのは間違った使い方です。
 私どもの生きておる世界、それは因と縁によってものごとが生まれ、起こり、移り変わり、壊れ、滅びていくことをずっとくり返しております。言い換えると、ひとときも休むことなしに、縁のはたらきによってすべてのものが移り変わっておる。
 つまり、縁起の世界はすべてのものが移り変わる世界、無常の世界です。無常とは常がない、常に変わらずにあるというようなものはないという意味です。何もかもが移り変わる。もちろん、あっという間に移り変わるものがあれば、何十年、何百年かけて、ゆっくり移り変わっていくものもあります。時間の早い遅いはありますけれども、すべてのものが移り変わっていく。それが無常ということであります。

 ですから、我々の若さも健康も、いずれは失われていきます。そして最後には命も失われていくわけであります。ひとときも休むことがない。それが無常の世界であります。
 さっき縁ということを言いましたけれども、私が生まれてから、いずれは死んでいくまでの生きている間にたくさんの縁に出会うと、我々は考えます。しかし、これは順序が逆なんです。本当は縁のほうが先で、私が後です。縁は私が生まれて始まり、死ぬまではたらくんじゃない。私が生まれてきたのも縁なんです。縁あって縁起の世界の中に私が生まれてきた。縁が先で私が後なんだけども、つい自分を中心に考えます。

 そして、私が出会う縁の中にはいい縁もあれば、悪い縁もあると思っています。しかし、いい縁、悪い縁というのは、実は自分の都合で考えておるわけであります。いい縁のことを順縁と言い、自分にとって悪い縁のことを逆縁と言います。順縁というのは自分にとって都合のいい、まあ順調なということですね。追い風になるような縁。その反対に向かい風になる、逆風になるような縁が逆縁です。私にとって都合がいいか悪いかで、順縁とか逆縁とか良縁とか、都合で分けてしまっておるわけであります。けれども、これはあくまでも自分の都合で分けとるだけで、もともと縁にいいも悪いもない。自分の都合で言っとるだけです。

 縁が先で私が後ですよということは、大事な、忘れちゃいけん点です。私が生まれる前から、はるか昔から縁ははたらいている。縁があって私はこの世に生まれ、縁があって今まで生かされてきた。私が寝とる時も、何をしとる時も、縁ははたらいております。そして縁が尽きる時に死んでいく。命終わっていくわけであります。

 縁起の世界というのは、絶えず移り変わっている世界ですから、無常の世界です。無常の世界でありますから、私の思うようにはならんです。いいことはいつまでも続いてほしい。この幸せはいつまでも壊れないでほしい。そう思っても、無常ですからそういうわけにはいかんです。その代わり、悪いこともいつまでも続くわけじゃなく、悪いこともいずれは移り変わっていく。
 縁起の世界、無常の世界は私の思うとおりにならん世界です。この思うとおりにならんということを、仏教では苦と言います。思うようにならんのが苦ですから、私が避けようと思っても避けることはできんです。避けられんのが苦です。縁起の世界であり、無常の世界であり、苦しみの世界である。それが私どもが生きておる世界であります。

 そしてまた、私がいいことだけをしておっても、いい目に会うとは限らんです。一生懸命念仏を称えておっても、病気になる時はなるし、事故に遭う時は遭う。思うようにはならん苦の世界が私どもの生きておる世界であります。

 私どもはこの世の中はそういうもんだとあきらめて我慢して生きていくしかないと、普通は思いますよね。我慢するということをインドの言葉で娑婆と言うんです。私どもが生きておる世界は娑婆世界であるということであります。

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 この迷いの世界からまことの世界に生まれさせていただくということを言い換えると、本当にたしかなもの、間違いのないものに出会わせていただく。それがまことの世界に生まれるということであります。そこで宗教が生まれてくるわけであります。

 宗教にもいくつかのタイプがあります。たしかなものに出会う道にいくつかのタイプがあるわけです。
 この世の中は娑婆世界だから我慢して生きていくしかない、そしてやがて死んでいくしかないんだから、あきらめなきゃしょうがないというふうに思ってしまいます。そして、生きている間はできるだけ楽しく過ごしたい、何か楽しいものを見つけて心をまぎらわしたいというふうに、多くの人は生きておると思うんです。
 それも迷いの世界から逃れる一つの道ではありますけども、それで迷いの世界から逃れられるはずはないですね。自分の気持ちをまぎらしとるだけですから。本当の解決にはならん。

 解決するためにいくつかの方法があります。一つ目は思うようにならんこの世界を、自分の思うとおりになる世界に変えるという考え方です。たとえば、科学はそういうもんですね。寒い時でも暖かく、暑い時には涼しく暮らせるように変えたい。あるいは、病気になったら、病気がすぐに治るような薬を作り出す。それが科学です。
 思うようにならん世界を思うように生きられるように変えたいというのが科学ですけども、科学の力は万能ではないです。科学が発達して自然や環境が破壊されたりする。マイナスの面も出てきます。

 世界を思うように作りかえたいという考え方の一つが、仏さまや神さまに願い事をするという方法です。どうか私の願いをかなえてくださいと祈ることです。正直に言えば、私の欲をかなえてくださいと厚かましくお願いするのが祈りであります。私が一生懸命お願いしますから、どうぞかなえてくださいという、ギブ・アンド・テイクの関係ですね。非常に欲張りな関係であります。
 だけども考えてみれば、なんぼ神さんや仏さんにお願いしたって、自分が死なんようになるわけはないです。いつかは死なにゃいけん。あるいは、死んだ人が生き返るわけじゃない。祈るということも、自分の思うとおりに世の中を変えるということにはならん。

 二番目の方法は、この思うようにならん世界を自分の思うとおりにしたい気持ちを持たんようにしようと、自分で自分の心をコントロールして、欲を起こさんようにするという方法です。修行によって自分を磨いて、欲が出てこんように自分を変えてしまうということです。
 たとえば、良寛さんという臨済宗のお坊さんはこんなことを言われました。
「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」
 病気の時は病気が治ろうなんて思わんほうがいい。病気の時は病気でいいじゃないか。死ぬ時は何とか死なんように助かろうと思わんほうがいい。死ぬ時は仕方ない。死んだらいいんだ。

 でも、そんな悟った気持ちにはなれんですよね。第一、病人の見舞いに行って、「病気の時は病気になるがよろしく候」なんて言ったら、怒られてしまいます。こういう生き方もよほどすぐれた人にはあることかもしれませんが、我々のような人間にはとてもできんことです。

 で、残された道、これが浄土真宗の道なわけです。この縁起の世界、無常の世界、苦の世界、娑婆世界、これは思うようにならん世界であるけども、思うようにならんがままに深くうなずかせていただくことを教えられるのが浄土真宗であります。思うようにならん世界の中で、思うようにならん人生を送っとる私を包み込んでくださっておる仏さまのはたらきに気づかせていただく。そのはたらきにおまかせして生きていく。残るのは感謝しかないです。

 宗教にいくつかのタイプがあると言いました。一つは自分の欲をかなえてくださいと祈る宗教。二つ目は自分が欲を抑えるように修行して、自分を作りかえてしまう宗教。そして三つ目が深いうなずきの世界、感謝の世界を恵まれる宗教。浄土真宗は感謝の宗教です。
 あんまり「ありがたい、もったいない」と言われても、なかなか素直にそれを受けとれんところがありますけども、この感謝の宗教ということを、しばらくお話しさせていただきます。

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 先ほど諸行無常と言いましたけれども、我々は「世の中は無常である」と口では言いながら、無常の風は自分とは関係のないところを吹いておるようについ思ってしまいがちであります。けれども、そうじゃないですよね。我々はまさに無常の風の中で暮らしておるわけであります。決して他人事ではないのに、ついそのことを忘れて、いつまでも今の幸せが続くような気持ちをどこか持って生きております。

 親鸞聖人のお言葉に、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
 私どもが生きておるこの世界、みんなそらごとたわごとであって、まことがない、当てにならない世界であるとおっしゃっています。考えてみれば世の中が当てにならんのじゃなしに、一番当てにならんのは、この自分であります。この私が一番当てにならない。その当てにならない私が念仏に出会わしていただく。
「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」
という言葉があります。念仏に出会わせていただくことによって空しい人生を送ることがなくなるんですよと、親鸞聖人はおっしゃってくださっています。
 今まで空しく感じられたこの人生が豊かな人生に変わってくる。一つ一つがいとおしい、豊かなもの、大切なものに思えてくる。そういう人生に変わってくる。感謝の宗教というのはそういう教えであります。

 ところが、浄土真宗も祈りの宗教というタイプだと思っている人がいます。ですから、「阿弥陀仏という仏さまは一体どんな願い事をかなえてくださる仏さまですか。何をしてくださる仏さんですか」と聞かれる方があります。「阿弥陀さまは私どもの願い事をかなえてくださる仏さまじゃないです」と言うと、みなさんびっくりされます。「仏さんというのは願い事をかなえるから仏さんじゃないか。それが願い事をかなえないというのは、どういうことだ」とさらに聞かれます。

 その時にお話しするんですが、願い事をされているのは私のほうじゃなしに、仏さまのほうなんです。私はこの迷いの世界を離れ、まことの世界に生まれたいなんて、そんな願いは持っとらん。むしろこの迷いの世界でいつまでも長生きしたい。それが私の本心であります。そういう私の姿をごらんになった仏さまがこの私をまことの世界に生まれさせたいという願いをおこしてくださったんですよ。私が願っとるんでなく、仏さまが願ってくださり、私が願われておるんです。
 その願われておるこの私が、イライラしたり、ケンカしたり、争いごとをしたり、そんな毎日を送っとるわけであります。そういう身勝手な私でありますけれども、身勝手な私であるからこそ、阿弥陀さまの願いがかけられているわけであります。ありがたいような、何だか虫のいいような、申し訳ないような気がします。

 しかも、阿弥陀さまは「念仏しなければ救ってやらん」とか「感謝しなければ救ってやらん」とか、そういうことは一言もおっしゃらないんです。「お前がもうちょっといい人間になったら救ってやりましょう」という方ではないです。「努力して、ちょっとはましになったら救ってやるから、もうちょっとがんばれ」と、そんなことをおっしゃっておるわけではないんです。「今のままで、そのままで救う」とおっしゃってくださっておる。条件のない救いであります。
 それに対しては私どもは「ありがとうございます。おかげさまです」と申しあげるしかない。それ以上
、何を願うんですか。お願いする必要はないわけであります。それが阿弥陀さまという仏さまでありますし、浄土真宗の教えであります。

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 浄土真宗は感謝の宗教であると言いましたけれども、人間にはひねくれたところがあってですね、「感謝せい」とか「ありがたく思え」とか言われると、何だかしたくなくなってくる。素直になれんです。
 感謝とかありがたいという気持ちは、素直に、自然に出てくるものでないと意味がないわけであります。自然にありがたいという気持ちがわき出てくるのはどういう時かというと、一つは人の世話になった時ですね。助けてもらった。そういう時は自然に「ありがとうございます」という言葉が素直に出てきます。

 人の世話になった時に以外にも、感謝の気持ちがわいてくることがあります。たとえば、自然の恵みに対しての感謝。普段は当たり前のことだと思ってしまいますけども、よく考えてみたら、太陽だってありがたいですし、空気や水がないと我々生きられませんし、私どもが立っておる大地、地面も考えてみればありがたいものであります。そして、私どもの命を養ってくれる食べ物、魚や肉や野菜や、そういうものもみんな私の命を支えてくれておるありがたいものであります。普段は当たり前のことだと思っております自然の恵みも、言われてみると「ありがたいな」という気持ちがわいてきます。

 人の世話になった時や、自然の恵みに対して、素直に感謝の気持ちが出てきますけども、もう一つ大事なものが仏さまへの感謝です。これは説明を聞かんと自然には出てこんもんであります。
 我々は人と人とがお互いに助けられ合い、お互い同士が支え合って生きておりますけども、その支え合っている人を、また支えておるものがあるわけであります。太陽や水や空気もそうです。大地もそうです。そして、その太陽や水や空気や大地や作物を支えとるもっと大きなはたらきがある。それを一言で言えば、仏さまということであります。

 とても私にはすべてを理解することはできんけれども、それこそ無量の、数えきれんものによって、私は支えられておる。人の世話にもなります。人の親切も受けます。自然の恵みも受けます。そういうすべてのものを含めて、仏さまの慈悲の表れであるというふうに感じられた時に、仏さまへの感謝の気持ちが自然に出てくるんでないかと思います。

 ご信心の生活というのは感謝の生活である。ありがたければありがたいほど、「申し訳ない」とか「恥ずかしい」という気持ちも出てくるもんであります。そういう感謝の生活を我々の普段の言葉で言い表すと、「おかげさま」という言葉になります。「おかげさま」というのは、目に見えないかげの力のおかげですという意味です。

 金子みすゞという詩人にこういう詩があります。
 「ほしとたんぽぽ
 青いお空のそこふかく 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる 昼のお星はめにみえぬ
 見えぬけれどもあるんだよ
 見えぬものでもあるんだよ」

 我々を支えてくれるものすべてが、私に見えるわけじゃない。見えないけれどもあるし、また見えないものによってこそ、見えるものが支えられておる。それが「おかげさま」であります。そして、そのおかげさまによって、私どもはさまざまなものを恵まれ、生かされておるわけであります。
 「ありがとう」という言葉もそうですし、「おかげさま」も「いただきます」も「もったいない」も、みんな仏教の言葉であります。そういう我々の言葉を一言で表したのが南無阿弥陀仏というお念仏であります。

 感謝という時に、「我々は生かされておることに感謝しないといけない」と言います。「今日の命に感謝しないといけない」と言われます。でも、このこともまたひねくれた気持ちが心の中にあってですね、「なんで生かされておることに感謝せにゃいけんのだろうか」とか、「なんぼ生かされておったって、いずれは死んでしまわなければいかんのに、なんでありがたいと思わんといけんのか」とか、あるいは「みんなが生きとって、私だけが特別生かされとるわけじゃない。なんで感謝するのか」とか、「この世界は苦の世界であると言うとるのに、なんでその苦の世界に生かされておることに感謝せにゃいかんのか」と、いろいろ屁理屈を言って、逆らいたくなる気持ちがわいてきます。
 生かされておることに感謝するというのは、ただ生かされておることだけじゃなしに、生かされてお念仏の教えに出会わせていただいたことに感謝するということであります。

 教えに出会わず、何も気づかぬままに死んでしまうところだったのが、「ああ、間に合ってよかった。生きているうちに気づかしてもらってよかった。最後の電車に乗り遅れずにすんだ」という、そのありがたさですね。気づかせていただいた。生きている間に出会わせていただいたことへの感謝、これが大事でないかと思うわけです。

 今まで空しい人生を送ってきたのにですよ、空しくない人生に出会わせていただくことができた。「生きていてよかった」というふうに思えるはずであります。そして、そこから生かされていることに感謝するという気持ちから、生かされておる間、精一杯生き抜いていきたいという生き方が出てくると思うんです。どうせ無常の世界、いずれ死ぬんだから、適当に生きたらいい。そういう投げやりな人生じゃなしに、生かされておることに感謝する気持ちが自然に出てくれば、生かされておる間をどう精一杯生き抜かせていただくかということを考えたくなってきます。

 これは芭蕉の俳句です。
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
 セミは地上に出てきてからは一週間ほどしか生きておらんそうであります。その一週間ほどの地上での命でありますけども、精一杯大きい声で鳴き続けております。やがて死ぬということをそぶりにも見せずに大きい声を張り上げて生きておる。そういう姿の尊さを芭蕉の俳句は読んだものでしょう、と受けとらせていただいております。

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 私どもは普段から「命は大切である。お互い命を大切にしましょう。粗末にしてはいけません。いつまでも元気で長生きをしましょう」というようなことを言います。
 正直な気持ちですよね。お互いに元気でいつまでも長生きしたい。なんぼお浄土がええ所だと言われても、この迷いの世界のほうがいいと。この世で長生きしたいというのが正直なところであります。

 でも、その一番大事な命もやがては失われていくわけであります。こういう俳句があります。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
 桜というのは次々と散っていく。残っている桜もいずれは散っていくものである。大事な命もいつかは失われていくんです。そのことをこの俳句は教えてくれていると思います。

 時々、これまた仏教に対する誤解があります。あるいは、浄土真宗の教えに対する誤解がありまして、仏教というのは長生きをするための教えであるというふうに思っとられる方がおられます。「阿弥陀さんという方は私の命を守り、長生きをさせてくださる仏さんだ。だからありがたい」と思っておられる人があります。でも、仏教というのは長生きをするための教えじゃないです。長生きしたかったら、お医者さんのお世話になったほうがいいと思います。

 命の大切さということは、何で大切かということを考えてみることから始めてみないといけんと思うんです。我々は漠然と何とはなしに、「命は大事だ」と思いますし、言いますけども、何で大事なんでしょうか。たとえば子供に聞かれた時に、これこれだから命は大事なんだよ、粗末にしてはいけないよとは、なかなか説明できんと思うんです。

 何とはなしに命というのはかけがえがないと思っておる。かけがえがないということは代わりがないということです。「命は一回しかない。だから、大事にしなければいけない」とかですね、「死んだら終わりだ。生きとったらそのうちええことがあるかもしらん。だから、生きとらないけん。粗末にしてはいけん」というふうなことも言います。あるいは「お互いに死にたくないから大事にしましょう」というだけのことかもわかりません。あるいは、「あんたが死んだら家族のみんなが困るから、あんた一人の命でない。だから大事にせにゃいけんよ」とも言います。何で命が大事かということに関しましてどうも決め手がないです。

 我々は自分の命は自分のものだと思っております。自分の持ち物のように思っておるところがあって、自分の命だから、自分のものだから、自分が好きなようにしたらいいんだ、粗末にしようと、自殺しようと、自分の勝手だという理屈にもなってしまうわけであります。

 考えてみないといけないのは、自分の命は本当に自分のものだろうかということであります。だいたいが、この世に生まれてきたのも縁があって生まれてきておるわけであります。自分で自分の命を作ったわけじゃない。もともとが自分のものじゃないんですね。いただいた命であります。自分で自分の心臓を動かしとるわけでなく、自分の思いを超えた、何か大きなはたらきによって自分の心臓が動かされ、自分の命も支えられておる。

 そして、年とって、身体が弱り、命終わろうとする時に、自分のものだと思っておった命が、自分の思うようにはならんということもわかってきます。命というのは自分のものだと思っておったけども、自分の思いを超えたところから与えられた、自分の命を超えたところから支えられておったんじゃないか、ということがだんだんとわかってきます。
 考えてみれば、命だけじゃない。自分の思い通りになるものは一つもないです。年をとりたくないけども、とっていくし、病気になりたくないけども、病気にならざるを得ん。
 命というのは自分のものだろうかと疑問に思い始めた時、自分の思いを超えた大きな大きなはたらきがあって、そのはたらきによって命を与えられ、今まで命を支えられ、生かされてきたということに、次第次第に気づいてくる。このことを命は仏さまからのいただき物であるというふうに言うわけであります。

 気づいてくればくるほど、自分が自分がという、自分にとらわれた気持ちが崩れてくる。言い換えると、おかげさまという気持ちになってくる。今まで全部自分でやってきたつもりだったけども、おかげさまだったということに気づかされるわけであります。大きな命が私になって現れた。

 普通は、「私が命を持っておる。持っておる命が失われる時が死ぬ時だ」という言い方をしますけども、そうじゃない。よく考えてみたら、命のほうが私よりも大きい。私よりもっと大きい命のほうが私を持っておる。そうすると、我が命は我が命にあらずという気持ちになってきます。
 これを仏教の言葉で言えば、道元という方の言葉ですけども、
「この生死は即ち仏の御命なり」
 私どもの命は仏さまの命なんだということであります。ですから、命は自分のものじゃない、大切にせないかんということも、これによって子供にきちんと伝えていけるような気がしてきます。

 そうしますと、死ぬるということも何となく怖くなくなってくると言いますか、小さい私の殻を超えて大きな命に帰っていくのが死ぬということでないかと思えてきます。

 そういうふうに思ってみると、『正信偈』の一番最初の言葉の「帰命無量寿如来」、無量のいのちの仏さまに帰命します。無量の命、永遠の命の大きな命の仏さまに帰っていくんですよと書いてあります。死ぬるとはそういうことだと思えてきます。
 『淮南子』という書物にこういう言葉があります。
「生は寄なり、死は帰なり」
 「寄」とは寄宿舎の寄です。仮の宿。生きておるということは、この世に仮の宿りをしていることですよ。死ぬるということは本来の住処に帰るということですよ。そういう意味であります。

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 最後に死ぬるということについてのお話をして終わりたいと思います。わかりきったことでありますが、命ある者は必ず死んでいかなければならんわけであります。なんぼ医学が発達しても、どんないい薬ができても、死なんようになる薬はない。どんなに平均寿命が延びても、死なんようになるわけではない。「この調子で元気よく暮らしておったら、わしは死なんでもすむかもしれんな」と思っても、死なんことはあり得んわけであります。

 早く死にたくなければ年とるしかないし、年とりたくなければ若死にするしかない。どっちか取れと言われたら、若くて死ぬほうがいいか、長生きして年とるのがいいか、人によって違うとは思いますけどね。どっちにしろ避けることはできんわけであります。
 いつかは必ず命終わる日が来る。命終わると書いて、命終と読みます。命終わる日、命終日から命日という言葉が生まれてきたわけであります。私どもが生きとるかぎりは死はまぬがれん。
 ただ、我々の気持ちの中には、ずっと生きていって、その先に死があると思い込んでおるところがありますね。本当はそういう保障は何もないわけであります。ずっと生きたその果てにやがて死ぬんだとは決まっとらんわけであります。

 死の縁も無量であります。縁次第でいつどこでどういう死に方をするかわからんわけであります。ですから、生の中に死があると考えるほうが、本当の人生の姿を言い表しておる。ずっと生きていって、死があるんじゃなしに、生きとることの中に死がある。手のひらの表と裏のようなもんで、生きとると思っておっても、いつ死が訪れるかわからん。そういうものであります。

 ですから、親鸞聖人は、人が死ぬるということは驚くべきことではない、生きとる者が死ぬのは当たり前である、むしろ無常のこの私が今生きとることのほうが不思議だ、とおっしゃっています。死ぬることが不思議なのではなく、生きとることのほうが不思議である。縁次第でいつ死んでおってもおかしくなかった自分が、今もこうやって生かされておる。これは言葉では説明できん不思議なことであります。

 『法句経』に「今、生命あるはありがたし」という言葉があります。「ありがたし」とは有ること難し、あることが難しい、あり得ないということです。あり得ないことが今、目の前で起きておる。それがありがたいです。ですから、「今、生命あるはありがたし」とは、今こうやって生かされておるということは、あり得ないようなことが起こっておることなんだという意味であります。

 いずれは死んでいかなければならんわけでありますけども、我々はどうしても死を暗いイメージでとらえてしまいます。どうもお墓のイメージが死を暗いものにさせてしまっているところがあるんじゃないかと思います。死んだらどこに行くか。暗い、寂しい、冷たい、ジメジメしたところに行くんじゃないかという、怖い気持ちがしてきます。けども、しょうがないなあとあきらめて死んでいくしかない。
 私も納骨にご一緒させていただくことがあります。その時に、正直な気持ちですけども、私は死んでも墓の中に入りたくないなあと思います。暗い。冷たい。ジメジメした。何だかわからん虫がうじゃうじゃ出てくる。寂しい。そんなところに入りたくないというふうに思います。

 浄土真宗では「ご冥福をお祈りします」という言い方はせんと言いますね。冥というのは暗いという意味ですから、暗い世界で幸せになることをお祈りしますというのが、「ご冥福をお祈りします」です。
 けれども、浄土真宗の教えでは、我々は命終わったら、暗い、寂しいところに行くんじゃないですよね。無量の光の世界、明るい光の世界であるお浄土に生まれさせていただくわけであります。『正信偈』に「必至無量光明土」とあります。「必ず無量の光明の世界に至る」と出てきます。
 ですから、ご冥福をお祈りする必要はないし、仏さまがお浄土に生まれさせてくださるわけですから、祈る必要はないし、おまかせしたらいいわけであります。

 妙好人という言葉を聞かれたことがあると思います。浄土真宗の信仰の篤い人のことを妙好人と言っています。妙好人の中に、讃岐の国におられた庄松さんという方がいます。庄松さんにはいろんなエピソードが残されております。ある人が庄松さんの見舞いに来て、「庄松さんが死んだら立派な墓を造ってあげましょう」と言ったら、庄松さんは「石の下にはおらんぞ」と言われたそうであります。死んだらお浄土に生まれさせていただくのであって、お墓の中に入るんじゃないですね。

 このことで思いますのは、「千の風になって」という歌のことです。
「私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を.吹きわたっています
 秋には光になって 畑にふリそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る
 私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 死んでなんかいません
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています
 千の風に 千の風になって
 あの 大きな空を 吹きわたっています
 あの 大きな空を.吹きわたっています」

 こういう詩であります。庄松さんが言われたのもこのことですよね。死んだら墓の中に入るんじゃない。お浄土に行く。お浄土に行ったらこの世界にすぐ戻ってきて、仏さまとしてはたらかないかんわけであります。つまり、あとに残っている人、迷っている人を見守り、導くという大きな仕事があります。だから、この世の命が終わって、お浄土に生まれさせていただいた私たちは、すぐにこの世に戻ってきて大きな仕事をせにゃいかんわけであります。

 その仏さまの姿というのはもちろん見えませんけども、風となって、雪となって、雨となって、太陽の光となって、いろんな姿となって人々を守り、導いていくわけであります。
 ですから、「どうぞ安らかにお眠りください」ということも浄土真宗では使わない言葉ですね。じゃ、どう言うかというと、「どうぞ私をお導きください」というふうに申します。「仏さまとなってお導きください」と言います。

 お浄土も仏さまも目には見えませんけども、「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」。そして、見えないものによってこそ、見えるものが、私たちが支えられておるということを、金子みすゞさんは詩にうたっておられるわけであります。

 自分の目に見えるものだけがすべてじゃありません。自分の生きておる世界だけがすべてである、死んだら終わりだと思っておったら、仏教の教え、浄土真宗の教えは理解できんです。そういう見えない世界に目を向ける、気づかせていただくということが大事なことであります。
 私どもの人生は念仏の教えに出会うまでは、ただ苦しみの世界の中で生き、ただ寂しく死んでいくだけであるという、そういう人生なんだとあきらめておったけども、そうではなかった。お浄土に生まれさせていただく人生であったと知らされるわけであります。

 そのことを私どもに一生懸命呼びかけておってくださるのが阿弥陀さまでありますし、また私どもよりも先に亡くなられた方々が仏さまとなって、私どもに呼びかけておってくださっておる。その呼び声に導かれて、人生をお浄土への歩みにしたいと思う次第であります。

 ちょうどいい時間になりましたので、このへんで終わります。どうも本日は大変お疲れさまでした。ありがとうございました。
(2007年4月14日に行われました釈尊降誕会でのお話をまとめたものです)