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 八木 義彦さん「戦後を生きぬいて」

五年生 私の還らぬ灼熱(あつ)い夏

  戦後を生きぬいて 1

 1945年8月6日午前8時15分、ヒロシマの上空には一瞬二つの太陽が存在した。ひとつはこの地上くまなく暖かいぬくもりと潤い、豊穣な実りを約束してくれた。命ある物の全てに至福の恵みもたらし、輝きつづける。後者はウラニューム235を濃縮した人工悪魔の太陽「原子爆弾」だった。瞬時にして十数万の命を奪い、三十数万市民の生活、文化、財産を破壊し尽くし、ひとつの都市を丸ごと灰塵と化してしまい、後世に放射能による後遺症という目に見えない恐怖を被爆者に残してしまった。
 そして8月15日には、屈辱の敗戦にともなう食糧難と経済破壊の追い討ちで、ヒロシマは文字通り死の街と化してしまったのだ。

 家族の安否を気遣う余裕もなく、多くの市民が傷つき、目前に迫る炎と焼けつくような喉の渇きに追われて川に飛込み、上流下流へとあてもなく必死に逃げ惑うばかりだ。私も例外ではない、今起きている地獄の惨状が現実のものとして理解できないでいた。逆らうことができない人の流れに呑まれて押し流され、気が付いた時には長寿園の土手に立っていた。
 炎に追われ、次にまた襲って来るかもしれぬ災禍におびえて、みんな我先にと川に入っていく。川に入ると何故かこれで救われる、逃げ切れたのではないかと、ほっと我にかえって次の動きを自分で決める余裕ができた。
 市内は一面火の海で、黒煙を高く上げて太陽を覆い隠すほどになっている。もう市内に引き返すことなどとてもできはしない。 周囲の人達が怪我、火傷などで倒れて、正視することもできない悲惨さであり、そのうえまだ次々と避難者は増すばかりである。

 意を決して流れを川上に進み、工兵橋の上流から道にはい上がり、戸坂を過ぎてやっと矢口の駅にたどりついた。途中、道路の周辺にも助けをもとめる人、救護する人で大混乱だった。駅は三次方面に向う救援列車を待つ人で溢れかえっている。
 ここで私も行き先を決めた。母の生家が芸備線沿線の高田郡三田村(現安佐北区白木町)にあったので、矢口駅から列車で七つめの中三田駅に向った。

 客室は傷を負った避難者でごったがえし、席の間から通路デッキにまで瀕死の重傷の人達であふれかえっていた。自力では動けず通路に倒れこんで、「水を、水を下さい」と水を欲しがる人のうめき声があちこちから聞こえてくる。無傷の人などいるわけがない。それぞれが自分を支えるのに精一杯だ。
 それでも列車が駅に着く度にホームに走り、ビンやコップに水を汲んで身動きできない人の口元に差出し、喉に流し込んで励ましている。これだけの極限状況のなかにあってもお互いに助け合いの気持ちは生きていたのだった。

 中三田駅に降り立つと、そこにも近隣から多くの人が今朝、市内にでかけた身内や知人の帰りや消息を確かめに集まっている。なかには負傷者を運ぶための大八車や戸板まで持ち出していた。
 次々と降りる人の顔を覗き込んで確かめる。避難してくる被災者はみんな顔は真っ黒に汚れたり、火傷で火膨れて腫れ上がっているので、たとえ我が子であっても覗き込んで名前を確かめなければ見分けはできない。それほど酷いものだった。

 重い足をひきずって駅から出ると、駅前の県道に出る手前に祖母が来ていた。祖母には母をはじめ二人の娘が市内に嫁いでいたのだ。それぞれの家族の消息が気掛かりでじっと待ってはいられなかったのであろう。

 祖母も駅から降りる一人ひとりの顔を覗き込んでいる。私が傍まで近づいても気が付かない。声をかけるとやっと気付き、顔を見つめて「おお、義彦じゃあないか」と聞く。親は、姉弟は一緒か、怪我はしとらんかと、矢継ぎ早の問い掛けである。だが、私には何を聞かれても答える事ができない。親や姉弟とも逢えぬまま、やっと一人で祖母のもとへ辿り着いたのである。

 時間はもう午後三時は過ぎた頃だったろう。言われて気が付けば、手足も傷だらけ、顔にも血がこびりついていて、そのうえ裸足であった。それでも大きな怪我ではなかったのは幸運の一言につきる。
 祖母宅で体を洗い、痛む傷に薬をすり込み、空っぽになっていた胃袋を満たして、やっと事の重要性を現実のものとして実感できた。同時に不安感が容赦なく襲ってくる。8人いた家族が自分一人になったのではないか。もしそうであればこの先どうなるか。不安は悪く悪く広がっていった。

 じっとしておられず、有り合わせの物を着て藁ぞうりを履き、駅に向う。身内の誰か一人でも避難してきてくれと、祈る気持ちで入ってくる列車を待ち続けた。
 列車が着くたびに、多くの人が傷つき、疲れきって、魂を抜かれ、表情も意志も表せない汚れきった藁人形のようにへたへたと座りこんでしまう。想像を絶する地獄の空間から命がけで脱出できたことへの虚脱感と、ここまでくれば命だけは助かった、もう大丈夫だろうとの安心感から、緊張の糸がきれて動けなくなるのだろう。

 最終便の列車が駅を離れた。それまで、次の便で誰か降りてくる、この次の列車ではきっと誰か身内が降りてくれと、祖母と二人で待ち続けたが、最終便はわずかな希望もむなしく次の駅へ走り去った。とっぷり暮れた帰りの畔道は遠く、淋しく、悲しい道であったのを忘れられないでいる。

 眠れぬ夜が明けるのを待ちきれず、駅へ出ずにはおれない。今日も小さな駅が沢山の人であふれている。市内に身内の捜索や救援に向う人や、避難する人を助けに集まっている。それぞれ身内の安否を気遣い、無事に帰り着くのを祈る気持ちで待ち続ける人びとの顔に不安の色はかくせない。

 私も長い一日を待ち続けた。汽車も大混乱で決して時刻通りではない。あてのない時間を待つのはとても辛いもので、思いは悪い方にばかり広がって不安を駆り立ていく。列車の着くたびに期待と失望が交差する。
 今日もひたすら待ち続けたが、家族との再会は果たせない。みんなあの爆弾に殺られたんだ。これでもう自分は確実に一人ぼっちになってしまったんだ。いや、まだ誰か一人でもどこかに生きていてほしい。そう願いつつも、孤独感と恐怖感がつきまとい、小学五年生の私を絶望の崖っぷちへと誘い込んでしまう。

 8月8日、待ちきれずに祖母に作ってもらった弁当を手に市内へでかけた。被災者の汽車賃は無料だった。列車は広島駅までは行けず、戸坂で折り返し運転だった。
 市内はまだあちこちが燻り続け、何とも表現しょうもない嫌な匂いが蒸し暑さと共に鼻をつく。視界一面、焼け野原で焼け残りのビルの間から瀬戸内の島が見渡せる。一発の爆弾でやられたとはとても信じられる光景ではない。

 我が家の焼け跡、怪我人の収容場所を歩き回り探し続けたが、何一つとして手掛かりを得る事もできず、ただあちこちで無情に積み重ねられた死体の山と、痛みと喉の渇きを訴え、助けを呼ぶ悲鳴にも似た声を耳の奥に押し込まれ、逃げるようにして帰った。二度と出掛ける勇気をなくしてしまった。

 8月6日の朝までは、戦時中で経済的にも精神的にも厳しい生活ではあったが、貧しい中にもそこには一家の団欒があった。それが予想もしないほどにあっけない別れになってしまった。そこにはさようならの一言も、ただ一度の合掌も、野辺送りの悲しさへ入り込むことさえ許されなく、自分自身の生を確かめた時には別れが避けられぬ現実があった。

 あれから五日後、昼にはまだ少し間がある時刻だった。表の方から誰か尋ねてきた様子で、出てみて驚いた。そこには見知らぬご婦人に手を引かれ、妹が立っているのだ。目を見張るばかりで声が出てこない。頬を叩いてみるまでもない。夢ではなく、妹がそこに立っている。
「避難所に身寄りもなく一人うずくまっていたので声をかけました。そして、こちらの住所を聞きだし、避難の方向が同じだったのでお連れしました」
 ご婦人の言葉が耳をかすめる。もうこれで一人ぼっちではなくなったとの気持ちの高ぶりでろくにお礼の言葉も出せないうちに、ご婦人は去っていかれた。名前さえ聞かず、また告げられないまま心残りな別れになってしまった。
 妹は頬に軽い火傷を負ってはいたが、あの被爆直後の生地獄の中を小学2年生の女の子が一人で生き延び、祖母宅を記憶してここまで無事に逃げきれたことは、よほどの奇跡と強運を持ち合わせていたのだろう。

 また次の日には同居していた父方の叔父が避難してきた。叔父は肩から両手にかけて広く深い火傷をおっていて、火ぶくれの腕に包帯を巻き、その包帯から化膿した水膿が沁みだして臭う。そこに追っても払っても執拗に蝿がとまる。医者はいても薬はなく、口伝えに火傷にはキュウリやジャガイモを摺りおろして塗ると良いと聞き、すぐに試してみる。
 包帯の上から水をかけて膿でかたまった包帯をゆっくりとほどくと、なんと蛆が這っているではないか。生きた人間の体に蛆が這っているのだ。これは人間の尊厳をいたく傷つけるものであり、生きながらしてその肉体を蝕まれなければならない、恥辱的かつ屈辱的なものだ。
 蛆を水で洗い流して摺ったキュウリを布切れに塗り、傷口に貼っていく。夏の暑い盛りなので貼ったキュウリも長くはもたない。そのキュウリとて食料不足の時代で手に入れるにも楽ではなかった。

 被爆後、父親と3人の姉と弟1人の消息はつかめないまま日を重ねる。探し歩こうにもひとかけらの手掛かりさえない。

 さして広くもない祖母宅にも、市内から相次いで母方の従兄等が避難してきた。同居人が増えて手狭になり、寝食もままならなくなってしまった。そうなるとお互い気まずくなって、いさかいが始まってくる。食べ物の不足は動物の本性をあらわにして、親戚も兄弟の関係も根底から破壊してしまう。

 これを避ける為に、叔父と私、妹の3人は可部町の親戚に間借りすることに決めた。一応は気まずい混乱を回避することにはなった。だが、火傷で不自由な体の叔父37才と私11才、妹8才の3人で生計を立てなければならない。これから先が大変なのである。
 六畳一間と倉庫の軒下に焼き物のかまど一つから極貧と忍耐の生活がはじまった。日々の思いは、これほど急激な身のまわりの変わりようが悪夢であってほしいと思う。でも悪夢からさめることはなく、重苦しい現実としてのしかかってくる。その当時はそれぞれの生活が苦しく、他人の面倒をみる余裕など誰にもない。一人ひとりその日の生活で精一杯であった。

 苦しいのは衣食住のどれひとつとっても、全てが最低生活を満たしてはくれないのである。布団一枚、鍋釜にいたるまで満足な世帯道具は無く、それとて全部借り物である。向かいの高松山に行き、煮炊き用の枯れ木集めからはじめなければならない。生活物資は米をはじめ全てが配給で、金があっても自由に買えるものは何一つないのだ。
 米の配給も一ヵ月で十日分くらいしかなく、あとの二十日分は大豆粕やコウリャン、トウモロコシ等の雑穀類であった。それでも充分な量ではなく、野草(あかざ・よめな・たんぽぽ・のびる)と手あたりしだい摘んで、米粒がふわふわ浮くような雑炊で飢えをしのいだ。空き腹をかかえ、考えることは今日明日の食事の心配ばかりである。闇市に流れる米はあるが、日に日に値段がつり上がり、被災者には手がだせない価格だ。何といっても食料不足がいちばんこたえた。

 叔父の火傷も有効な治療薬がなく、皮膚が破れて赤黒く腫れあがった肩から腕一面の傷口の膿を水で洗い流し、摺りおろしたキュウリを塗り付ける。これしか治療法がない。傷を治すのでなく、なんとかして悪化を防いでいるだけだ。それでも耐えて回復を待つしかない。これからも長く苦しい治療はつづくだろう。

 政府はインフレを恐れて、国民の手持ちの金をのすべてを銀行に預金させ、紙幣に証紙を貼って再び流通させた。証紙のない紙幣は使えないので現金の強制封鎖である。引き出す時は一人にひと月いくらと決められた金額しか引き出せない。自分の預金を自由に使うこともできない。闇市の高い米が手に入るわけがないのだ。

 空襲で焼失しないようにと、日頃使わない着物や家財道具を田舎の親戚に預けておいた。その品々を近隣の農家に運び、米やその他の作物と交換してもらう。家族それぞれ思いのこもった晴れ着や掛け軸など持ち出して、それが米や麦に姿を変えていく。
 物の価値判断が見当つかない幼さなので、交換するにも相手にまかせるよりしかたない。少しばかりの米麦に換えられる着物に「ごめんなさい」と頭がさがる。もし父や姉達に生きて逢うことがあったら何と言い訳できるかと、深い反省と罪の意識にさいなまれながら、それでも明日もまた食べねばならない。それからも罪の意識を負いながら次々と持ち出しては糊口を凌ぐことになる。

 8月15日の正午になにやら重大ニュースの発表があるらしいと噂が流れた。正午に感度が悪く雑音混じりのラジオから、ポツダム宣言受諾、日本敗戦のニュースが伝わってきた。神国日本は絶対に負けないと教育されていたので、ポツダム宣言受諾、日本が戦争に負けたとのラジオ放送がすぐには現実のものとして理解できなかった。
 またそれとは逆に、子供ごころにもこれで毎日のように空襲で防空壕に飛び込んだり、夜に灯りを暗くすることもなくなった事にほっとする。それ以上に、中国の戦場に行った兄が帰ってくることの期待が大きかった。

 9月になり二学期がはじまる。可部の町は原爆による直接の被害はないので授業は受けられる。小学5年生の私と2年生の妹は白島国民学校に通っていた。が、もちろん市内の学校は校舎も焼け落ち、先生や生徒の生死も音信も不明で、新学期を開くめどなどたてようもない。
 私達兄妹はその日その日に食べるものの心配から煮炊きに使う薪集めまで一切を自分で賄わなければ暮らしはたたないのだ。生活物資の配給があると聞けば、朝早くから店に並ばなければ買えないのだから、学校には行くことができない。保護者のない者には勉強と生活は両立してくれなかった。

 着るものにも大変な苦労をした。最低限の下着さえなかなか手に入りにくい。衣料品を買うにも衣料切符が必要で、品物によって点数が決められていたが、点数は持っていても買いたい品物が店に入ってこない。たまに入荷しても絶対量が不足しているので、コネを使って密かに流され、私達の手には届いてくれない。パンツ無しで破れズボンをじかにはき、肘も袖も擦り切れたシャツ姿は情けないものだ。

 9月に入って朝晩は涼しくなってきた。秋の気配からすぐに冬になるが、冬着の用意はなにもできていない。布団にしたところで、せんべい布団で綿が粗末なために中で切れ切れになって団子に固まり、真ん中はすきまだらけで布団の用をたさない。
 散髪や入浴、洗濯にも事欠き、やっと小量ずつ手に入る硬い洗濯石鹸で入浴も洗濯もこなさなければならず、布団も着物も体も汗臭く垢染みている。

 これだけの不潔さに加え、ノミやシラミに日毎夜毎に悩まされ続ける。缶に入った蚤取り粉もあったが、さはどの効き目がなくて引っ掻き傷はたえない。人差し指に唾を付けてノミを追い回すが、ノミは跳ね回り、追っ手を逃れて布団の破れ目から綿の中にもぐり込み、畳の破れから藁の中に紛れ込む。捕えるに苦労させられる。
 シラミもやっかいで、布団や下着の縫い目の折り返しに潜んでいる。ぞろぞろと肌をはい回る。急いで下着を脱ぎ、目をこらすといるいる。下着をはい回っている。シラミは動きが鈍いので捕えるには楽だった。だか、こいつはよく殖える。衣服の縫い目に真珠と見紛うほど銀色に輝く粟粒ほどの小さな卵が見事にびっしりと並んでいる。一つひとつを爪先で潰してはいられず、入浴後の風呂釜に衣服を投げ込み、追い焚きして沸殺してしまう。これとてあまり効果はない。布団をはじめとする全部の衣類を一度に釜焚きにする事もできず、二、三日もすれば背中あたりがもぞもぞしてくる。するとまた釜に投げ込むのだ。ノミやシラミとの果てなき攻防戦が繰り返される。

 秋たけなわの10月下旬に、被爆と敗戦でうちのめされた広島は大きな雨台風に襲われた。可部の町も可部駅周辺から深川・八木・古市・祇園辺りまで、一帯が水浸しになり、立ち直りに懸命な住民に大きな打撃を与えた。

 収穫の秋が過ぎても食糧事情はまだまだ楽にはならない。相も変らず家財を持ち出しての食料調達はつづいていく。敗戦の年も暮れかかり、空き腹が悲鳴をあげている。夢にでも白いご飯を腹いっぱい食べてみたい。だが、それはたとえ夢であっても果たせぬ願望だった。

 被爆の日以来、音信不通の父親をはじめ姉弟五人の消息は依然として全く手掛かりはない。そのまま放置しておくわけにもいかず、市役所に届けを出すことにした。父親と姉が三人、弟一人と五人全員が遺体未確認のままで死亡届けを出さなければならなかった。
 10月22日、戸籍係に届けを出す手に一瞬ためらいが走った。もう一日だけ待ってみようか。遺体の確認もなく届けを出すことへの無責任さを責められてもしかたがない。だが目をつぶって手渡して受理された。

 寒さも日を追って厳しくなり、お年玉も晴れ着も餅もないのに、それでも正月はやってくる。妹と火傷の癒えない叔父の三人暮らしでは、一家の大黒柱である父親のいる安心や、母親が台所に立つ暖かさも、兄弟の賑やかなふれあいも全てを奪いさられて、目出度さなどはひとかけらもなく、ただ暗くて淋しく貧しいだけの1946年の正月だった。

 年は明けても生活に変わりはない。残り少ない衣類や家財を持ち出し、雪が舞って凍てついた道を、靴下もない裸足を破れズックに突っ込んで農家の軒先を尋ね廻り、食物との交換を懇願して歩く日がつづいた。なかには乞食に物を与えるような応対の家もあり、涙が出るほど悔しい思いをした事も一、二度ならずあった。それでも礼を言って辞さねばならず、惨めさは忘れようもない。

 苦しさも頂点にあったこの頃、父名義の預金が広島信用組合にある事がわかった。額面は2万円余り(当時の大卒初任給150円)だったのでかなりな額である。しかし、インフレに次ぐインフレで闇米が一升(約2キロ)で50円にもなっていた。その他、石鹸、マッチに至るまで生活に欠かせない物全てが日を追って値上がりしていく。

 寒さと貧しさに追いまくられながらも何とか冬をやり過ごし、陽射しも柔らかくなった。4月には新学期が始まる。私が6年生に、妹は2年生に進級するはずであった。だが、二学期も三学期も休学しているし、教科書やノート一つ買う余裕すらない。何一つとして学校へ通える条件は満たされてはいなかった。また、長い間の欠席で勉強の遅れもあってついていけない怖さもあり、勉学への意欲すら失っていたのだ。
 その頃になると学校に通う近所の子もあまり気にならず、うらやむ気もおこらず、子供心にもすっかりあきらめていた。子供の特権でもある遊びも、物事に対する好奇心も生活苦の中に深く埋没していた。道端で登下校途中の子供に出会うとそっと隠れていたが、今はそれもない。

 叔父の火傷も少し快方に向かってきた。赤くただれて化膿した面が小さくなってきた。治ったといっても傷跡は赤くもり上がってひきつり、ケロイドになっている。薄くはった皮膚はすこしの刺激でもすぐに裂けてしまって血をふきだす。普通の皮膚には戻らないので、欠かさず包帯の世話になっていた。
 叔父を気ずかいながら、その日その日の食事から薪、衣類、石鹸、歯磨き、マッチ一本に至るまで生活の全てを一人で賄って、被爆から一年を大嵐の中に翻弄されつづけながらも、しぶとく生きる術を身につけることができた。

 中国戦線に送られ、敗戦後、生死不明であった兄がなんの前触れもなくリュック一つ背負って帰ってきたのが9月のなかばだった。その頃はラジオで復員船の入港のニュースを頻繁に流していたが、ラジオなどない我が家にはニュースは伝わってこない。
 三年半ぶりに前触れのない再会で、お互いの変わりようにためらいを感じた。私達には兄の復員が地獄で仏のような喜びであった。兄も生きて帰られた嬉しさは確かにあったと思うが、ヒロシマの惨状と家屋財産の壊滅とそれにも増して、父親をはじめ姉妹弟の5人の被爆死でかなりのショックを受けていた。

 背負ったリュックには毛布と下着、少しばかりの米、そして僅かな現金を持ち帰っていた。これでは生活の足しにはならず、帰国の疲れも抜けぬまま、23才の若さで3人の扶養家族を食わすために毎日広島へ職探しにでかけた。
 戦後の混乱期でもあり、被爆まもない広島での職探しは簡単にはいかない。かといって遊んでいて食えるわけはなし、とりあえず可部町の製靴工場に職を求めた。この収入では生活はとても支えきれず、職探しと貧困は平行線を走り続ける。
 1997年5月記



  戦後を生きぬいて 1 1947~8年当時を懐古して

 兄の復員は戦災孤児となった幼い私達二人にとって天の助けにも似たものだった。だが、これで全てが解決して生活が楽になるわけでは絶対にない。生活の基盤である確かな収入の途がないうえに、政府が打ち出したインフレ抑制策である通貨統制にもかかわらず、食料品をはじめ生活必需品の高騰は日を追って激しくなるばかりだった。

 火傷の傷跡が治りきらない叔父も怪我をおして近所の製材所に臨時雇いで働き、苦しい生活を支えてくれた。就学できていない私も遊んではいられない。朝から山に行き、松葉や枯れ枝を拾い集めて、炊事や風呂を沸かす燃料を確保しなければならない。どこの家庭でも冬に備えて、夏から秋の終りまでに鎌と鋸を持って山に入り、薪を目一杯背負い込み、腰を屈め息を切らして山通いしたものだ。被災者として当時を生きぬく為には、子供といえども遊びも甘えも許されなかった。
 しかし、私にはその事が嫌だとか辛い仕事だとかの思いはなく、当然やらなければ生活が成り立たず、義務感がそれをさせたのだろう、むしろ沢山の薪を積み上げる事で安心感さえ覚えたものだ。

 遊び盛りの小学生の子供がここまで追い詰められなければならない程に、敗戦直後の混乱は言語を絶するものがあった。誰もが楽しい時には時間が意外に早く流れ、逆に苦しさに耐える時間は長く感じるものだ。子供時代は特に時間の経過を長く感じる。それが苦しい生活の中にあればなおのこと一日が長いし、先の見えないその日暮らしでは一ヵ月先の事など予測もつかない。来る日も来る日もこのまま先の見通しのない苦しい生活が一生続いていくような暗さと絶望感が世相を支配していた。

 1946年7月にアメリカはビキニ環礁で旧日本海軍の軍艦を標的に原爆実験を始めた。東京では米よこせの食糧デモもあり、何が起きてもおかしくない時代である。ただ、11月に民主憲法が公布されて主権在民の民主国家が誕生した。女性にも参政権が認められて言論も自由になった。

 しかし、貧困と空腹は依然充たされる気配すらない。明けても暮れても食事の心配から開放される事はなく、野草など入れて量を増やした雑炊で空き腹を誤魔化す。食べ過ぎなど経験した事のない胃袋は健康そのものだ。

 仕事探しに奔走していた兄がやっと三菱重工に職が決まった。観音町の独身寮に入るため、仕方なく別所帯になった。社宅に入居できる迄しばらくの辛抱である。少しだけ先に明るさが見えはじめてきた。
 翌47年春に社宅に入居が決まり、一年半間借りしていた可部町の親戚から広島市内に戻れる事になり、その日を待ち焦がれてわずかな世帯道具を整理して待った。社宅は十坪足らずの棟割長屋で、隣の話し声が筒抜けの安普請であったが、市内に住めることだけで満足で、決して贅沢は言えない。

 市の中心とその周辺の焼け跡には、焼け焦げた板切れや赤さびたトタン板を拾い集めて、辛うじて雨露を凌げるだけのバラックが建っていた。電気も水道もいまだ完全には復旧していないが、それでも人々は街の再興を期して力強く生きようと懸命に努力している。瓦礫を片付けて耕された畑に野菜が芽吹いていた。70年間は草木が生えないと言われた焦土にも新しい命が力強く生まれ育っているのだ。

 被爆の爪痕は深く広く市民を傷つけ、焼け跡を行き交う人にも一見それと判る火傷のケロイドを残す人達を数多く見かける。それでも自然は「ヒロシマ」を見放しはしなかった。原爆投下で全滅したはずのツバメが春にはその姿を見せてくれた。スズメもカラスもセミもトンボもみんな戻ってきてくれた。死の恐怖と向き合っていた生き地獄を一応は脱出することができたのである。空襲警報や戦闘機の機銃掃射からも開放された。何はなくとも、青い空と海、きれいな山や川は市民の心を潤し、励ましてくれる。

 私も妹も共に4月の新学期から入学できる事になったが、休学期間が長かったので一年遅れでの入学になり、恥ずかしさと不安は隠しようもなく、緊張の中での通学だった。ところが、級友の中にも同じ仲間はたくさんいた。

 学校は三菱重工の工業学校を間借りして授業をはじめた。これは市内の学校が殆ど焼失し教室不足になったのと、工業学校の生徒が戦争や工場に強制動員させられて閉校中だったので、市が借り受けたのだ。学校は教材も十分に揃わず、落ち着いて勉強に専念できるような設備もない。勿論給食などあるはずがなく、授業は午前中で終わった。

 社宅には三菱長崎造船所からの転勤者が多く、その子弟がクラスに何人もいて、バッテンの長崎弁がとても珍しく、外国語にでも接したような感覚だった。当時は広域な旅行をする事など夢のような時代で、我々は広島弁以外には話す言葉を知らなかったのである。
 校内ではお互いにさほど意識する事もなかったが、転勤者の社宅は一ヵ所に集中していたので、下校後の遊びでは何かと対抗意識があり、まれには小競り合いを起こすこともあった。言葉の違いからお互いの意志がスムーズに伝わらなかったのだ。

 生活は依然として厳しく、大企業の三菱でも給料の遅配があって、待遇改善のストライキが再三行なわれていた。正門前に組合員が鉢巻きをしてピケを張って出社する社員の妨害をしたり、デモを繰り返して、社宅街は騒然としていた。

 食糧の配給も滞り、米麦の代わりにトウモロコシ、コウリャン、大豆粕、ふすま等と、まるで家畜の飼料並みの代品が配られた。空腹を満たすために各家庭で色々と工夫を凝らす。社宅街の真ん中にあった県営総合グラウンドは早い者勝ちに無断で耕し、麦や芋、かぼちゃが植えられ、テニスコートやサッカー場他全ての施設が畑に化けてしまっていた。

 これらの作物が実る時期がまた大変なのである。精根こめて育てた作物が一夜にして盗まれる。麦など穂先だけを刈り盗ってしまう。無断で耕した畑なので訴えようもなく、夜中に見回りまでしなくてはならない。
 貧すれば良心も道徳も麻庫させてしまう。一部の指導者の無謀な戦争による飢餓と貧困が、日本人が古来より育んだ謙譲美徳の民心をここまで荒廃させてしまったのだ。盗みまでしなくても飢え死にはしない。辛抱して行列する気さえあれば、雑炊でも江波だんごでも手に入れることはできた。

 ただ、雑炊とはいっても米粒なんか数えるほどしか入っていない。野菜の隙間をふわっと白いものが泳いでいる程度であった。それでも一杯食べるのに長い列をつくっている。これは雑炊ではなく増水であった。
 江波だんご、これも忘れられない代用食である。材料は定かでないが、味の方は度外視して、ひたすら胃袋のご機嫌取りのために頬張り、水で流し込む。よもぎと糠、それに大豆糟を練り合わせて蒸してあったようで、喉をえぐられるような味だった。

 米の代用に配られる小麦粉や脱脂大豆の粉を混ぜ合わせて、自家製パンをよく焼いたものだ。パン焼器は自家製で、誰が考えたのか、これは世紀の大発明?といっても決して過言ではない。その理由は誰にでも簡単に作れるからだ。
 まず、食パン一個分の大きさの木箱を作り、両側に鉄板を張り鉄板にプラスとマイナスのコードをつなぐ。ただそれだけでパン焼器は出来上がる。箱の内側に食油をぬって、柔らか目のパン生地を箱に流し込み、コードをコンセントに差し込んで五分も待てばふっくらとパンができ上がる。原理は簡単で、箱の両側に張った鉄板に流れる電流が柔らか目のパン生地の水分を通してショートを起し、その熱を利用したものだ。
 窮すれば通じるとはよく言ったもので、なかなかのアイデアてはあったが、これは違法で、一度に大量の電流が流れるので度々ヒューズが切れ、漏電の危険さえあった。このように違法な事も戦後の混乱期だからできたことである。

 観音町は太田川と天満川に挟まれた河口にあって、海の恩恵を存分に受ける事ができた。貝はあさりをはじめ、とり貝、おお貝、まて貝、せと貝、岩牡蠣等の多くの貝がそれぞれの手法で獲れる。中でもとり貝が一番の狙い目だった。味が良くて、大きなものは握りこぶし位ある。
 ただ、これは潮干狩のようにはいかない。海女のように潜って取るのだ。干潮を見計らっても、3~5メートル海底の泥の中にいる。水泳パンツなどあるはずもなく、手拭いに一本紐を付けただけの越中褌で潜るのだ。胸一杯息を吸い込み、一気に潜り、底の泥を両手でひっ掻き回し、指先に触れるのを掴んで、海底を蹴って浮き上がる。その間、一分余りだが、その都度取れるものではなく確率は半分以下だった。
 たまには底に棲息しているオコゼのご機嫌を損ねて毒針の洗礼を受け、七転八倒させられる事もある。それでも遊び心と旺盛な食欲とでとり貝取りはやめられなかった。大漁のときには、塩辛や干物にして保存する事もできた。

 引き潮の中州では、板に釘を打ち込み、柄を付けて熊手に似た道具を作り、砂浜を引き回して砂に潜っている車海老が釘にかかって飛び上がるのを捕らえる。ところが、そう簡単に捕れるわけではない。広い砂浜を一時間以上引き回して二、三尾捕れば大漁だった。一尾も捕れない日が続く事も珍しくはない。それでも塩焼きの香りと比類ない味に魅せられて、砂浜での運動会はやめられない。

 その頃はカブトガニも生息していて、稀に捕まえると、これも食卓に乗せられた。まだカブトガニは天然記念物に指定されず、保護もされていなかった。たとえ天然記念物であっても、捕食から逃れることはできなかっただろう。空き腹にはどんな法律も通用しない。

 3月末から4月にかけて雀が繁殖期に入り、学校の屋根瓦の下に巣作りをする。瓦をめくると一つの巣の中に五、六個の卵がある。巣は長屋の集まりのように、間を置かず沢山並んでいた。その卵を失敬するのだが、生まれて間なしの卵は真っ白だが、殻が茶色に変わると中は雛に育ちはじめているので、真っ白な卵だけを集める。もちろん茹でて食べるのだ。小さくて面倒だったが、味は鶏卵と変わりはない。親鳥は卵を取り上げられると、健気にもすぐまた次を産んでいた。雀には誠に罪深く気の毒な事をしたと、今になって反省させられる。ただこれらの貴重なタンパク源のおかげで、貧困と食糧難の成長期を乗り越えられたことへの感謝を忘れてはいない。

 食べ盛りの子供には甘い物を口にできないのが一番辛く、甘さには餓えていた。米の代用に配られる小量の黄ザラ砂糖が唯一の甘味である。この砂糖でカルメ焼きを作るのが楽しみだった。お玉杓子に砂糖を入れ、水を少し加える。そこに重曹をひとつまみ落として火に掛け、箸でかき回すと、ふわっとふくらむ。すかさず杓子を火から下ろして杓子の底を水で冷やす。もう一度底を火で温めて杓子からはずすと、スポンジのようにふっくらしたカルメ焼きの出来上がりだ。

 もう一つ口に入る物に芋飴があった。指先大の飴は一個50銭ぐらいだったと思う。芋飴と名が付くのだから原料はさつま芋なのだろうが、製法はよく分からない。十円玉をにぎって走ったものだ。焦げた茶色の飴にはったい粉がまぶしてあり、芋の匂いが残って少々喉元にひっかかるような甘さだった。それでも本当のよい甘味を知らない子供たちには、手近にある甘美なおやつの極みであった。

 衣食住全ての環境が悪くて不潔な生活の中で、ノミ、シラミ、回虫などの寄生虫に悩まされ続けていた。ノミ、シラミは肌着の縫い目や頭髪にまで入ってくる。無意識にかきむしり、皮膚病に罹ってしまう。学校では、予防のために米軍から放出されたDDT(殺虫剤)を噴霧器で頭から首筋に吹き込まれ、息を止め、目をつむって我慢する。これでは犬や猫と同じ扱いだ。
 寄生虫駆除にはサントニン(虫下し)が用意されていた。サントニンの服用で下痢になったりもした。便所に行くと、便と一緒に白くてみみずそっくりの回虫が出るのが目ではっきりと見える。成果があったのは確かで、寄生虫の苦しみからは開放されていった。

 勉強はしなくても、腹は空いても、遊びは子供が成長の証しになるもので、遊具もなく、全部が手作りの遊びだが、自然も相手に取り入れて充実した遊びばかりだった。竹があれば、竹馬、竹トンボ、弓、紙鉄砲。板切れがあれば舟を作り、マストを立ててヨットに仕立てる。ボール紙では紙ヒコーキが作れる。好奇心と工夫と器用さでどのようにも遊びは組み立てられた。

 グループでの遊びも近ごろのように同級生に偏った横並びのグループではなく、近所であれば5~6歳の年令差の中での遊びだった。それは缶けりであったり、三角ベース、馬とび、陣とりなど、その時々仲間の集まりによって遊びは変わってくる。
 どのグループにも一人のがき大将がいて遊びを仕切る。どんな遊びの中にも年令差のハンディはあり、年下の子にはそれなりの気遣いや手加減がされた。たまには小競り合いの喧嘩もあるが、それをうまく裁くのががき大将の必須条件であり、遊び仲間のリーダーとしての信頼は厚いものがあった。

 確かで明るい見通しが立たないその日暮しの中にも、スポーツ界から明るい報せが入った。水泳で古橋広之進選手が400メートル自由形で世界新記録を出したことだ。このニュースは新聞やラジオでトップニュースとして報じられ、敗戦と生活苦に打ちひしがれた国民に自信と活力を与えた。二年後にも、全米水泳選手権で橋爪選手と共に400、800、1500メートル自由形の三種目に世界新で優勝してフジヤマのトビウオと呼ばれ、国民的英雄として国内外の話題をさらった。

 学校教育では六・三・三制義務教育が施行され、中学三年迄が義務教育になった。社会党が第一党に躍進して片山哲内閣が誕生し、5月3日には新憲法が施行された。連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(戦災孤児の集団生活物語)が放送されはじめ、孤児達のハンディに立ち向かい健気に生きる筋書きが、聴取者の涙と共感を得て大ヒットし、主題歌は子供たちの愛唱歌であり、のど自慢大会の常連歌でもあった。
 1997年9月記


  戦後を生きぬいて 3 1948~9年当時を懐古して

 連合軍の占領下におかれた日本は、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の占領政策で、日本の行政指針が決定され施行された。民心はなにかにつけてアメリカ崇拝、アメリカ至上の反共産的な社会構造に誘導されていった。ところが、労働者の権利を主張するストライキはマッカーサーの鶴の一声で中止させられてしまい、アメリカの民主主義も掛け声倒れであった。
 ただ、アメリカの風習は進駐軍によって持ち込まれ、12月になると戦争遂行を叫んでいたラジオからは何のためらいもなくジングルベルが流れてくるが、まだ国民感情としてはクリスマスを祝う気持にはほど遠いものがあった。

 寒さも厳しさを増し、正月も満足に迎えられない窮乏の中で、綿の切れた破れ布団に膝を折り背を丸めて寒さに耐える。暖房もなく、粗食で栄養状態が良くないために、寒さは一層身にこたえた。親の保護が得られない孤児の生きる途の厳しさを肌で受けとめる。
 炊事、洗濯、掃除、衣類の調達から繕いまでの主婦役と小学6年生の生活が同居した生きざまを通して、社会の善も悪も選択の余地さえなく吸収していった。童心を忘れた少年、童顔の大人といったような二面性をもった暮らしになっていた。

 中でも学校の行事がある度に淋しさ悔しさがつきまとう。お年玉も餅もない正月がやっと過ぎて春が萌す頃、小学校卒業の修学旅行があった。当時のことだから修学旅行とは名ばかりで、行き先は岩国の錦帯橋で、弁当持参の日帰り旅行だったが、旅行に着て行けるような服がない。皆と一緒に食べられる弁当も作れない。当然のことで旅行に参加することは出来なかった。

 引き続いて卒業式と中学校の入学式と行事が重なる。いくら敗戦後の窮乏時代とはいえ、それぞれ父兄も生徒も精一杯身綺麗にして母子連れ立って登校して来るのを見せ付けられると、悔しさ羨ましさを超えて腹立たしささえ覚えたものだ。
 セピア色に変色した遠い記憶が小学校卒業記念写真に貧しさを隠しきれず、そのままをレンズに捉えられて、過ぎ去ったにがい思い出として今もアルバムに残っている。

 中学に入って間もない頃から、新聞配達のアルバイトと社宅にあった共同浴場の燃料集めの手伝いを始めることになった。浴場の燃料は造船所内の製材工場から出る鋸屑と製材の端切れを、馬車を使って浴場の燃料倉庫に運び込む。同級生だった浴場の息子兄弟と三人で馬の世話も兼ねた仕事を任されていた。
 馬の世話は苦と楽が背中合わせになっている。苦の方は馬小屋の掃除だった。ゴム長靴を履き、フォークとシャベルで汚れた敷き藁を掻き出し、床に水を流しながら棒たわしで洗い、次に藁を短く切って敷き詰めて終る。これがきつい仕事で、とくに夏場は暑さと馬糞の臭いに足して、蝿や虻が顔や手足に容赦なく取り付いてくる。虻はシャツの上からでもかまわず刺し、血を吸い取る。息をつめての馬小屋掃除は難行苦行そのものだった。
 楽しみは馬に青草を与える散歩だ。裸馬にまたがって川土手の草を食べさせに行く。裸馬の背は思いのほか高くて不安定なもので、少しでもバランスを崩すと尻が滑って落馬の醜態をさらしてしまう。手綱とたてがみを握り、馬の動きに人間の方がうまく調子を合さないと乗せてはもらえない。馬の方で気を使ってくれる事は絶対にないのだ。それでも馴れてくると、この微妙なバランス感覚がまた格別な快感となり、馬小屋掃除の嫌な思いからも開放してくれた。

 市内中心部にも商店街が復興のきざしをみせ始め、日増しに人通りも増してきたが、いまだ商品は統制されていて、古着や中古品、闇物資を細々と扱う程度のものだった。そんな街中を、もく(たばこの吸い殼)拾いの戦災孤児が血眼で吸い殻を探し回る。集めた吸い殻をほぐして巻き直して売り捌き、その日の糊口をしのいでいく。踏み台一つ置いて路端で靴磨きを稼ぎにする少年達もいた。両親を失い、行政の保護さえ満足に行き届かない子供達に生きる為の選択肢は限られている。

 街角で生活の糧を支える者は他にもあった。戦地で傷つき、傷病兵として帰還した人たちが病人用の白い看護衣にサングラスをかけ、戦闘帽を被って街頭に立つ。なかには勲章を胸に付けた義手や義足の人もあり、痛々しい限りである。肩に吊り下げたアコーデオンからは、「異国の丘」や「モンテンルパの夜は更けて」などの淋しい曲が流れ、いまだ被爆の後遺症から脱しきれない市民に戦争の悲惨さを歌を通して訴えかけてくる。
 赤十字のマークが入った義援金箱を手に街行く人に深々と頭をさげ、募金を請う。その姿を駐留米兵が横目に通り過ぎてゆく。お互いに無関心を装い、目を合わす事はさけながらも、戦場で銃火を交えた勝者と敗者の胸の内を計り知る事はできないが、傷つき敗者として街頭に立ち、衆人の目にさらされながら募金を請う姿には深い心の傷が秘められている。

 侵略戦争の拡大を指導し、全ての国民に敗戦の苦渋をなめさせた為政者には強い怒りを覚える。いつの時代でも戦争による被害は、弱い者により大きなダメージを残していった。

 都市も工業地帯も灰燼と化して産業も職場もない焦土に、旧植民地から大勢の開拓民や復員の兵士が相次いで帰国してきた。しかし、帰国者の生活を支える受け皿がなく、失業者が街に溢れかえっている。その失業者救済のために失業対策事業がはじめられた。日雇い事業であり、日当もその日払いの二四〇円であったことからニコヨンと差別呼ばわりをされていた。それでも日銭の収入はありがたい。もともと必要不可欠な仕事ではなく、道路公園の清掃や草取りの軽作業であり、年寄や子供をかかえた戦争未亡人などの救済には大いに貢献した。

 暗い世相に追い打ちをかけるように、三鷹、松川と相次ぐ列車転覆事件に、下山国鉄総裁の常磐線での謀死事件が重なり、国鉄労使間で険悪な主導権争いの中で、仕組まれた謀略事件との報道がされた。しかし事件の真相は解明されないまま未解決に終った。

 隣国の朝鮮では日本の敗戦により植民地から開放され、北緯38度線を境に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に分離独立した。イデオロギーの違う二大国のエゴに操られれて、一民族が民意に反する分裂国家として誕生したのである。この悲劇も元を糾せば、日本の侵略による植民地化政策と、無謀な太平洋戦争の敗北によるもので、日本による植民地政策の責任なしとは言えない。

 敗戦から三年の歳月を衣食住の全てが何一つとして満たされないまま、ただ懸命に命を繋いできたが、インフレは依然として治まる気配もなく、生活必需品の闇価格は日増しに高騰し、公共料金までが値上げで生活を圧迫してくる。
 我が家の暮らしは相も変らず貧困そのもので、貧乏神が居心地良しと長居を決め込んでいて、いっこうに出ていく気配すらない。兄の稼ぎで間に合わない分、自分も風呂屋の手伝いや新聞配達と、家計の手助けに精を出すが、なにしろ物価高の逃げ足の速さにはついていけない。

 中学に入ってからも勉強より生活優先であった。もとより学業の成績が気になるほどの真面目さなど持ち合わせないので気楽なものである。ただ、校内行事がある時などには、保護者のいないハンディの大きさが現実のものとなって表れてしまうので、行事の度に憂欝になり、喜んで参加したことは一度もない。
 運動会がいい例だ。物の不自由な当時でも年に一度の運動会ともなれば、親とすればどんなに無理をしてでも精一杯のご馳走とおやつを用意し、子供に持たせた。被爆前の父母が健在の時には、私たち兄妹にも朝起きた時には巻き寿司に卵焼き、羊羹や果物など、心づくしの弁当が待っていたものだった。
 だが、今は遠い日の夢でしかない。弁当の工面も自分でしなければ誰も面倒は見てくれない。自分で用意できる弁当など淋しい限りだ。無理して多少米を多くしたコーリャン混じりのパサパサした飯に梅干しを入れ、イワシの丸干しを添えた弁当だった。もちろん果物などのおやつがあるわけはない。こんな弁当が恥ずかしくて友達と一緒に開くことができず、一人でこっそり校舎の陰に廻ったことを、六十才を過ぎた今でも忘れる事ができない。せめて白いご飯に煮魚とおいしい漬物で腹一杯食べるのが夢だったが、その頃はそれだけの事でも果たせぬ贅沢であった。

 だが世の中には明るい話題もあった。1949年11月3日京都大学教授の湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞することが決まった。いまだに敗戦の痛手から脱し切れず、生活の立て直しに懸命な国民に明るいニュースとして伝わり、学校でも日本人科学者の快挙が教材として使われた。

 その反面、日本の戦争犯罪責任を裁く極東国際軍事裁判では、二年半の審理を経て11月2日A級戦犯に対する判決があった。被告25人全員が有罪で、東条英機元首相ら7人が死刑の判決を受け、12月23日に巣鴨刑務所で刑が執行された。そこには戦後の明と暗が交錯した時の流れがあった。
 国民は軍事政権が遺した国家賠償という重い責を背負わされて、これからこの負の遺産を払い続けなければならない。敗戦ショックに打ちひしがれた日本国民へ戒めの十字架となった。

 一旦戦端を切れば、双方の国民の精神的経済的な負担は計り知れないものがある。物価の方も相変わらず上昇一途で沈静化する様子はない。当時の月給は2500円~3000円で、闇米がキロ60円~70円、新聞が月極めで45円、銭湯が5円で葉書は2円。ざっとこんなところである。5人家族として、闇米を20キロ買えば月給の半分以上が消えてしまう。正規の配給価格で手に入る品物など限られたもので、生活必需品のほとんどが闇価格に支配されていた。精一杯働いて稼いでも、貧乏神はすぐに追い付き追い越してしまう。

 敗戦から4年が過ぎ、スポーツや芸能も復活の兆しをみせはじめ、プロ野球、映画、歌謡曲など庶民の娯楽も日増しに活況をみせた。一世を風脚した美空ひばりの登場、「東京ブギウギ」「湯の町エレジー」、映画『青い山脈』『晩春』と、戦時中には戦意昂揚のためとして色気も味気もない軍歌や戦勝報道ばかりを軍部に強要され、長い間抑圧され、娯楽に飢えていた庶民の間に次々とヒットを飛ばした。

 繁華街も少しずつ活気が戻り、トタン葺きのバラック建てを脱して店舗建ての商店街に変貌しはじめる。たばこ屋、喫茶店、衣料品店や新登場のパチンコ屋も店開きした。パチンコは戦前にはなかった新しい賭博遊戯である。これが全国的に市民権を得る大衆賭博遊戯になるとは当時想像もできなかった。
 新天地辺りには夕暮になるとどこからともなく屋台が集ってくる。出す物は串焼きに、とんちゃん、むすび、どぶ酒などメニューは限られている。しかし、これらはみな闇商品で違法な商売だった。屋台のおやじは勿論、客の方も違法は充分承知のうえで串をくわえ、一杯の安酒をあおり、充たせぬ暮らしの憂さ晴らしをする。
 ところが、このささやかな宴にもしばしば不粋な邪魔が入った。警察の一斉取締なのだ。多くの屋台が軒を並べて賑やかに盛り上がっているが、妙に騒ついてくる。店主が何も言わずさっと消えてしまうと、そこに警官がにゅっと顔を突っ込んできたが、あとの祭りで店主はドロンを決め込んでいる。屋台は根こそぎ没収されるが、何日かしてほとぼりがさめると又ぞろ出てくる。そこには権力に負けず、底辺に生きる庶民のしたたかさがあった。
 1997年10月記


  戦後を生きぬいて 4 1950~53年を懐古して

 1949年11月プロ野球が二リーグ制になり、翌50年には広島にもプロの球団が誕生する事になった。原爆被災と屈辱の敗戦から五年、まだまだ街にはいたる所に被爆の傷跡が色濃く残り、引き続くインフレで市民生活も敗戦の痛手をそのまま引きずっていた。この疲弊しきった市民意識を高揚させるカンフル剤として球団誕生は最高の効果を表した。
 球団誕生には地元自治体はいうに及ばず、地場の財界や市民が一体となって応援し、市民一人ひとりがオーナーの球団として設立された。その名も広島城(鯉城)の鯉を冠して広島東洋カープと命名される。
 スポーツの盛んな広島県からは多くのプロ野球選手が活躍していた。それらの選手を中心にチームが編成されていき、初代監督の石本秀一他、白石勝巳、門前眞佐人、長持栄吉、岡村等、プロの選手とアマチュアからのテスト合格者でチームが形成されていった。

 ホームグランドは観音町の県営総合グランド野球場である。運営資金の乏しい球団のこと、選手の専用合宿所もなく、三菱造船の独身寮に借り住まいして開幕に備えた。選手達の日常生活やトレーニングも近所の住民と一体になっていて、食事は独身寮の食堂で食べ、風呂も三菱社宅の共同浴場に入浴に来ていた。
 私たち近所の子供は選手が入浴する時間に合わせて風呂に行き、競うようにして選手の背中を流し、少しでも話ができることに胸をはずませたものである。選手のトレーニング中に球場外に飛び出すファールボールを追い集める手伝いも、選手に憧れ話しかけてもらうのが楽しみで一生懸命に球を追い掛けた。このように選手と近隣が身近で交流しあい、市民密着型の手作り球団として産声をあげた。

 敗戦当時の絶望的ともいえる混乱状態からやっと抜け出し、貧しいなかにも少しは生活に落ち着きを取り戻し、スポーツや映画ラジオなど娯楽を取り込む余裕も生まれた。映画では『ローマの休日』『七人の侍』、歌謡曲では「上海帰りのリル」「お富さん」などが大ヒットしている。またスポーツではプロ野球、大相撲、プロレスが人気を分け合っていた。

 市の南西端にある球場は交通の便も良いとはいえず、観客は一本のバス路線か市内電車で川一つ隔てた江波停留所で降りて、約一キロの道を歩く。その他には自転車で駆け付ける客も多かった。当時自転車は重要な交通手段の一つで生活必需品である。球場周辺の空き地に縄を張った急造の駐輪場が出来て、一台10円で預り、結構な商売になっていた。
 私も試合の度に自転車預かりのアルバイトに励んだ。道路の真ん中に出て、お互いに他の店に客を取られないよう懸命に呼び込みをしたものだった。針金の付いた荷札の真ん中にミシン目を入れて、両側にまたがるように店判と日付を印した預かり券を使う。半券をミシン目から切り離して客に渡し、針金の方をハンドルに結んで預かり完了である。預かる台数によってアルバイト料が上下するので、自転車集めには目の色を変えて頑張ったものだ。

 グランド建設時にはプロ野球の使用を想定したものではなかったので観客席が狭く、スタンドに入れない客を内野のファールグランドにロープを張って入れたりもした。それでもあふれた人達はグランド外の立ち木に登って観戦するほど熱心に応援した。それほど野球がカープが市民に愛されもし、また改善されないインフレと生活不安に対する忿懣のガス抜き役にもなったのである。

 第二次大戦後、南北に分割された朝鮮半島で三十八度線を挟んで対立し、にらみ合っていた双方が火を噴き、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。北は金日成首席率いる北朝鮮軍と中国義勇軍。南は李承晩大統領の韓国軍を援助する米軍を主体とした国連軍との間で、近代兵器を駆使した熾烈な戦いとなったのである。
 隣国である日本に与える影響も非常に大きく、敗戦間もない疲弊しきった国土が再び戦火に巻き込まれる危険が無しとは言えない。アメリカの占領下にあった日本は、この戦争の後方支援基地として好むと好まざるに関わらず必然的に組み込まれていった。膨大な軍需物資の調達から輸送にかかわる雇用の増大と、生産設備の増強に伴う投資など、戦後の日本経済立ち直りの大きな原動力となった。このことは紛れもない事実である。

 また朝鮮特需とか金偏景気という言葉も生まれた。金属であれば何でも金になり、大人も子供も目の色を変えて鉄屑や銅線など金属と名の付く物を漁り回り、廃品回収業者に持ち込むとこれがよい小遣いになる。なかには道路のマンホールの蓋まではずして売り飛ばす悪質な者もあって、多くのマンホールの蓋が木製に変わる笑えない時期もあった。

 戦線は半島全土に拡大し、米軍をはじめ国連軍負傷兵への輸血用血液が大量に不足しはじめて、献血ではまかないきれず、医療機関で血液を買い取ることになった。これを通称レッドバンク(血液銀行)と呼び、安易に現金を手にできるとあって、まじめな労働を嫌う人達の血液と現金の交換窓口と化してしまった。
 我が身の命の根源である血を売り、パチンコや酒に浪費し、費い果すとまた血を搾る。こんな生活はすぐに身の破滅をまねき、度重なる売血で血液の比重が下がり採血不能となる。採血窓口に並び順番を待つ人の中には、顔も身体からもまるで生気の感じられない人が少なくなかった。それでも身にしみついた怠けの垢を落とすことができず、塩水を飲んで比重を上げ、身を削り滅ぼしてまで血を売り、挙げ句の果てはベッドに収容される者もでる始末だ。だが一方では、この事業で膨大な資産を成し事業を拡大した医療機関もあった。

 米軍の基地がある街では、戦場から休養のために一時帰投した兵士による夜の街での暴行傷害致傷事件が後を絶たなかった。一年余に及ぶ朝鮮戦争は功罪にわたり戦後まもない日本に大きな影響を与えた。またこの時期、覚醒剤や幻覚剤の乱用が横行し、暴力団が介入してこれが彼らの強力な資金源ともなり、一般市民の間にも薬物中毒者が広まり大きな社会問題になった。
 薬物は主にヒロポンで、これらの薬物依存者はポン中と呼ばれて忌み嫌われ、家族からさえも厄介者扱いされ身を滅ぼしてしまう。充分とはいかないまでも、職があって何とかその日々の糊口がしのげれば、我が身を滅ぼすような薬物に手を染めることもなかったであろう。しかし、国には大量の失業者を救済できる余力などあるはずもない。それどころか戦前に開拓民として海外に渡った人々や復員兵士が続々と帰国して職を求め、街は失業者で溢れかえった。

 我が家も例外ではなく、三菱に勤める兄も安い日給と待遇改善のストライキや給料遅配などで家計は日々に苦しく、一年遅れで入学した中学も2年生の二学期終了後に退学せざるをえなくなり、堺町の自転車店で働くことになった。

 自転車は市民の重要な交通手段であり、値段も当時のサラリーの三ヵ月分に相当した。一家の財産として現在の乗用車以上の扱いだった。最初は見習いなので、昼食付きでほんの気持ち程度の小遣いが出るだけである。当分の間は修理された自転車の掃除ばかりをさせられた。朝から晩まで次々に修理の仕上がった自転車を、油を付けたブラシで汚れを落として布切れで磨きあげる。
 この雑役を卒業するとパンク修理の仕事がきた。明けても暮れてもタイヤと格闘のパンク修理ばかりで、指が擦り切れてひび割れになり、化膿してくると指を曲げると傷みがはしり、箸を動かすのもつらくなってくる。冬場は格別だ。雨や雪で泥だらけのタイヤは硬くなり、痛めた指に容赦なく噛み付いてきた。空気漏れの無いことを調べる為に、バケツの水にチューブを浸けて確認する。すでに指先は麻庫してしまい、痛さも冷たさも感じなくなってしまう。
 年中開け放たれたトタン屋根の修理場で、夏は毛穴に塩が噴き出るほど暑く、冬は背中に氷水を流し込まれるような寒さで、自然の厳しい恩恵?を余すところなく受けた。

 その頃、同級生の息子がいた共同浴場では、燃料運搬用の荷馬車を廃めてバタンコ(自動三輪車)に切り替えた。アキツ号という名の中古の三輪車で、同級生の兄がこのバタンコで風呂の燃料運びをまかされていた。
 今度はこのバタンコに魅せられて、触りたいばかりに休みの度に燃料の積み降ろしや、バタンコの掃除を手伝ったものだ。まだ免許取得の年令には達してなかったが、車のメカに触る事とメカを知ることに好奇心をかりたてられた。

 当時の車はキーを差し込んで回せばすぐエンジンが始動するほど進化していない。特に冬場のエンジン始動は大変だった。エンジン始動のモーターなど付いていないので、クランクペダルを踏んで始動させるのだが、これが簡単ではない。キーを差し込み、燃料タンクのコックを開け、プラグ発火の電気位置を調節し、エンジン始動のペダルを踏むのだ。
 冬の寒い朝などは手順通り簡単にエンジンは始動してくれない。キャブレーターに手の平を当てエンジン内に燃料を吹き込み、プラグの発火タイミングを調節して、ハンドルにあるアクセルを絞りながら懸命にペダルを踏む。発火点が早いとエンジンが逆爆発を起こして、ペダルを跳ね上げる。ケッチンといって、これがとても恐ろしい。踏み込んだ足をおもいっきり跳ね返され、かかとを擦り剥ぐ怪我も珍しくはなかった。
 冬はバッテリーの出力も弱くなり、エンジン始動には神経をつかう。プラグを外して掃除したり炭火で焼いてみたり、それでも駄目なら最後は人海戦術で人を集めて押してもらい始動させる。老化した中古バタンコのご機嫌を取りながら使いこなすのには苦労と辛抱を強いられた。

 初期のバタンコは運転席に風防ガラスも屋根もなく、バイクと同じで全天候吹き曝し型だったので、雨の日にはカッパを着て運転しなければならない。それでも触ってみたい。交通量も規則も厳しくない時代のこと、無免許運転もさほど罪の意識を感じることもなく走らせた。

 自転車修理見習いも一年を過ぎ、下働きからメカの修理へと進んで組立作業を習得し始め、仕事が面白くなった頃にバタンコの助手にならんかという話が舞い込んできた。会社は国泰寺町にある大同石炭という会社で、石炭や無煙炭を扱う従業員三人の小さな燃料会社で、月給がきちんと出て毎週日曜と祭日が休みだった。月給も自転車店に比べれば三倍以上の5千円で、免許取得の面倒もみようと約束してくれた。
 自転車店に比べて肉体酷使では比較にならない重労働だったが、免許欲しさと給料の良さ、休みの多さという全ての条件が自転車店を辞めさせる魅力をもっていたので、若さと体力勝負で石炭運びを選択した。二つ返事で転職してしまったが、石炭運搬の仕事は決して楽なものではない。 

 石炭は山口や九州の炭坑から機帆船で宇品の貯炭場に荷揚げされる。それをバタンコに積んで得意先に配達するのが仕事だ。藁で編んだホゴという容器に石炭を詰めて運ぶ。ホゴ一杯は石炭が50キロ入る。500キロ積みのバタンコに20杯積むと1トンになる。つまり積載量オーバーの二倍積んで走るのだ。
 坂道にかかるとキンキンとノッキング音をだして喘ぎだす。ギアを次々切り替えて登りきると、エンジンとオイルが焼け付いて白い煙りを吹き上げた。下り坂になるとバタンコも運転する方もほっと一息つく。お互いに許容オーバーの重労働なのだ。

 50キロ入りのホゴは目方以上の重さを感じる。ホゴには二本の縄が付けてありそれを肩に廻して背中に背負って運ぶ。これが実に重たい、目方の重さとホゴに詰めた石炭の角がごろごろと背中に当たり、痛さは倍増する。もしも犯人の取り調べの拷問に石炭責めというのがあればこれだろう。
 暖房用で使用場所が三階や四階などの時はぞっとする。50キロの石炭を背負って階段を20回往復するのだ。急な階段は前かがみの顔が階段をこするくらいになる。20回運び終えると精根尽き果て、膝がガクガクして立っていられない。これほどきつい注文を出し、また受けた者にこの仕事を分け与えてやりたい。

 夏は炎天下で石炭の山から陽炎が立ち、熱く灼け、乾燥して黒いほこりが舞い上がり、目尻や鼻、耳の奥まで真っ黒になり、黒い汗が額から顎に伝い落ちる。冬場は工業用の燃料に暖房用がプラスされるので需要が大幅に増え、その分、秋口から仕入れが急に多くなった。

 宇品の岸壁に着く機帆船からモッコで担ぎ揚げられた石炭をトラックで貯炭場にストックする。トラックスケール(トラックに荷を積んだまま目方を計る大型の計量器)を通った車が貯炭場に着くと、スコップで荷を降す。真っ黒な埃が浜風に吹かれて舞い上がり、鼻から入る埃で口の中がざらついてくる。
 今なら全て機械で片付けられるが、当時はみな人手にたよっていたのだ。時々テレビで見る開発途上国の土木作業や農作業の映像は、40十年余り前の日本の姿そっくりそのままで、タイムスリップのビデオを見せられているようだ。

 冬場の仕事は実に辛かった。事業用の注文に暖房用がプラスされるので稼動率が三〇パーセントは増え、毎日のように残業が続いた。雨の日も雪の日も風防も屋根もないバタンコの助手席にカッパを着てしがみ付く。体は芯まで冷えて歯の根も合わないほどカタカタ震え、欲と道ずれでないととてもやれない。得意先の事務所では配達した石炭がストーブで赤々と燃え、上着を脱いで温々と仕事をしているのを見ると、腹立ちを感じずにはいられなかった。

 石炭を担いで一年余りが過ぎ、免許取得の年令(18才)になった時、会社は入社時の約束を忘れてはいなかった。免許取得の許可をくれて、これ以上の出費は自前でやれと千円支給してくれたのである。思いもしなかった心使いに感謝感激だった。

 自動車学校と免許試験場は大芝にあったが、自分は学校など入る余裕はないので、学科の本を手に入れて独学で法規の勉強をし、ぶっつけ本番で受験することにした。これが費用を節約して最短距離で免許取得する方法である。
 願書に写真と証紙を貼って提出し、後は試験日を待つばかりになった。ここまでの費用が800円かかっているので、もう絶対に失敗はできない。試験当日、受験者は約五十人ぐらいで、午前中実技試験があり、試験に合格した者だけが午後から学科試験を受けられる。
 試験車はマツダのバタンコだったが、今までマツダには乗ったことがないがまあ仕方ない。エンジン始動から試験コースに入り、模擬の踏み切りや交差点、坂道発進、S字カーブをこなして車庫入れで終わる。なかには途中で下ろされる人もあったが、自分は何とか最後まで乗りこなし、車庫入れまで無難に通過することができて一難を切り抜ける。
 実地試験で三分の一が振り落とされたが、自分の名が呼ばれて生き残ることができた。午後からは交通法規とメカの試験が待ち受ける。これに合格すれば晴れて免許を取得できるのだ。そうすれば給料も上がるだろう。この好機は絶対に逃せない。昼飯を大急ぎでかき込み、参考書の中で試験に出てきそうな箇所にアンダーラインを引いて頭にたたき込む。生まれてこのかたこれほど真剣に勉強と取り組んだ覚えはなかった。
 試験は○×式で思ったほどの難問ではなく、制限時間内に全問解答できて答案用紙を提出した。もう後戻りはできない。幸運を祈り、一週間先の発表をまつだけだ。発表待ちの一週間は時間の流れが以外に早く、さほど気をもむこともなかったが、さすがに発表の確認の時には緊張し、気持ちの高ぶりがおさまらない。掲示板に名前が載っている。合格だった。結局受験者の三分の一が合格していた。もう一度掲示板に目をやり、免許交付日を確認してやっと安堵の胸を張った。

 会社が支出してくれた千円の受験費用も800円で済み、浮いた200百円は小遣いになった。52年5月27日、晴れて自動三輪車(今は自動三輪の免許はない)の免許を手にすることができ、やっと独り立ちで生活していける自信になった。もうこれでお巡りさんの目を気にしながら無免許運転することもない。

 少しずつ得意先も増えたので配達も滞りがちになり、社長の遠縁に当たる人が入社してきた。そしてバタンコも大型で一トン積みの新車を入れることになった。熱い期待をこめて待ちかねた新車はアキツ号で、今度の車は運転席にはウィンドウも幌も付いている。これなら吹き曝しでもなく、雨の日でもずぶ濡れになることもないし、エンジンの馬力も強く、ワンキックで始動する。今までの車(オリエント号)に比べると天地の差であった。ただ、積み荷が増えた分だけ体を酷使することにはなる。

 助手から運転手に昇格して、待望の給料も千円昇給してくれた。色々な面で生活の環境は良い方向に向いてはきたが、被爆で親兄弟や財産も失い、ゼロからの出発なので、衣食住何一つとっても貧しさが付きまとう。外出着も革靴も欲しいし、休みには映画ぐらい見に行きたいと、18才の欲望が頭をもたげてくる。そこで夜のタクシードライバーのアルバイトを思い付いた。
 当時はバタンコタクシーの全盛期(バタンコの荷台を後部座席に改造したタクシー)で、街を走るタクシーの大部分はこの三輪タクシーだ。ほかにフランス製のルノーやイギリス製のオースチン、ヒルマンがいくらか走っていた。
 マイカーなど思いもよらない頃で、何といってもバタンコタクシーは料金が安く、庶民の足代わりとして重宝がられ稼動率も高い。火木土日の四日間、夜の8時から12時迄の約束で始め、市内の繁華街を流して客を拾う。昼間の重労働と夜間の運転に加え、客相手の気疲れとで体力の消耗は非常に厳しかったが、そこは若さで一年近く頑張り通した。

 タクシーの稼ぎは売り上げの歩合制で、多い月には石炭運びと変わらない収入になる。一年近く続けたタクシーアルバイトは生活環境をかなり変えた。外出着も革靴も揃い、念願のレコードプレーヤーも手にして、休日には街に遊びに出かける余裕もできた。

 その間、世情の動きも激しく、52年5月にはメーデーに参加した労働者と警察官との衝突で、死者2人、重軽傷者500人の流血惨事が起き、また日航機木星号の墜落事故が起きた。53年2月にはNHKがテレビ放送開始。五月、ソ連のスターリン首相死去。7月、朝鮮戦争終決と、世の中は目まぐるしく変わっていった。

 今までは何も考えずにその日暮らしに追われていたが、生活に少しは余裕ができて、自分の将来像を見定める時期にきていた。戦前の我が家は製麺業を生業とした自営業だったので、サラリーマンとして生計を立てる考えは持っていなかったが、被爆で全てを失い、資金も経験もない若さでは勤めを続ける以外に途はなかった。
 同じサラリーマン勤めをするなら一生石炭運びではうだつが上らないではないか。そこで思い切って転職を考え、53年9月末で二年八ヵ月務めた石炭運びに別れを告げた。そのとき他に仕事口があったわけではなく、不安を感じながら職安に駆け込んだ。

 職探しとはいっても特別に希望する仕事がある訳ではなく、また中学中退の学歴では職種も限られてしまう。求職表に所定の項目を書き込んで提出してしばらく待っていると、呼び出しがあって係りの人との面接があった。そこで食品卸小売り兼業の店が運転手を募集しているがと奨められて出向いてみた。
 場所は市内目抜きの本通り二丁目。繁華街のど真ん中で、店構えは間口の広い古風ななまこ壁で、軒先には本土佐鰹節の看板を上げた乾物屋で、場所柄小売りも併設になっていた。合名会社八百金中野商店が店の名称である。
 主人と面接したところ、明日からでも出て来るようにとのことで、給与も前社より500円アップの(7500円)で話がついて、翌日10月6日から勤め始めた。これが人生の一大転機となるが、その時にはこの会社に定年の60才迄勤めることになるとは夢にも思わなかった。
 1998年1月記