真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ


  Kさん 「薬物依存からの回復」
                            

 2007年2月24日

「薬物依存からの回復」を冊子にしました。送料込みで300円です。希望の方はメールをください。

    1、ダルクとは

 Kといいます。ダルクや薬物依存症からの回復を支援する団体のコーディネーターもしています。

 ダルクというのは薬物依存症専門のリハビリテーション・センターです。リハビリテーションとは回復ということですね。たとえば、大きな事故に遭って歩行が困難になった人が機能回復訓練をするという意味で、リハビリという言葉を理解されていると思います。ですけど、アルコール依存症や薬物依存症といった依存症のリハビリテーションはあまりなじみがないかもしれませんね。

 薬物依存症の治療はまず解毒です。身体から覚醒剤やシンナーといった薬物を抜くということです。精神病院や刑務所にいる人たちは監禁状態にあるわけですから、必然的に身体から薬物が抜けた状態になります。

 一般的には、身体に薬物が入っていない状態、しかも長いことクスリを使っていなければ、もう大丈夫だと思われるかもしれません。けれども、薬物依存症の人たちはしばらくたつとまたクスリの再使用が始まるんです。二年も三年も刑務所で服役しても、出所してすぐに覚醒剤をやって捕まったという人はいっぱいいます。

 刑務所や精神病院では、身体からクスリを抜くことはできます。しかし、クスリが自由に手に入る環境の中で、どうやって薬物をやめつづけていくかを勉強したり、どのようにすれば薬物を使わない新しい生き方が実践できるのかということを教わったりといったことは、今まであまりなされてこなかったわけです。

 ダルクはそこをするんです。解毒があって、次はどうやってクスリを使わずに生きるかということをやっているのがダルクです。刑務所や精神病院を出た後、ダルクに入寮して寝泊まりすることができますし、通所といって、自宅から通ってリハビリテーション・プログラムを受ける人もいます。

 ダルクの外郭団体では何をやっているかといいますと、まず薬物依存者の家族の支援です。子どもが脱法ハーブを吸っているとか、覚醒剤で刑務所に入っているとか、そういった人の親御さん、お母さんが多いですけど、それからパートナーといった人たちの相談に乗り、そして専門家に来ていただいて家族向けのグループセラピー、家族教室みたいなものをしています。

 10代、20代の若い薬物依存症の人が増えています。ですから、30代のお母さんたちも来ています。そういう人たちに家族プログラムに参加していただいて、親自身が変わっていき、親子関係を変えていかなければ、クスリを使っている子どもが立ち直ることは難しいですね。親子でセットなんです。親の再教育が重要になってきます。

 そして、司法矯正・保護観察機関との連携をダルクと一緒にやっています。薬物依存症の人が覚醒剤を使用して逮捕されると、留置場に十日間ぐらい置かれます。そうして起訴され、裁判が終わるまで拘置所にいることになります。ダルクでは、拘置所に収監中の薬物依存者への面会活動を行っていまして、年間100~160件の面会をしています。

 それから、去年から法務省が全国の刑務所で薬物依存者の教育を本格的に始めました。刑務所では薬物依存離脱指導と言ってますけど、ダルクから刑務所の受刑者のグループに対して、アドバイザー的に自分の体験や出所してからどうするかという話をしに行っています。

 また、学校関係、特に高校や大学からの講演依頼がとても多いわけです。時には小中学校から呼ばれることもあります。子どもたちに自分の薬物体験を話したりすることで、薬物の予防教育への協力をしています。

 薬物依存という問題は、ただ単にクスリの問題だけではなくて、他のいろんな問題とセットになっています。たとえば、薬物依存者によるクスリを使っての暴力です。あるいは、薬物依存者、特に女性には、子どものころに親や周囲の大人から虐待や性暴力を受けたことがトラウマとなっている人たちが多くいます。

 そして、重複障害と言われているものですけど、薬物依存者は薬物依存だけではなくて、他の精神疾患をわずらっていることもあります。これはクスリの後遺症でいろんな精神症状が出ている人もいますし、もともと疾患を持っていた人が薬物を使うこともあります。ですから医療機関にかかりながら、ダルクで薬物依存症のリハビリテーションをしている人は多いです。

 また、薬物使用の経験のない専門家にはなかなか言えないことでも、特に過去の薬物使用歴についてのことになると、私たちのような当事者であるピア・カウンセラーに対しては正直に打ち明けてくることがあります。

  2、ダルクを始めるまで

 皆さんのまわりに依存の問題を抱えている人がいますか? 薬物依存だけではなく、アルコール依存やギャンブル依存の人など、依存症の人は意外と身近にいるんじゃないかと思います。

 私がなぜこういう仕事を始めたかということなんですが、私自身は人助けをしようとか、ボランティアをやろうとか、そうしたことには全然関心がなくて、自分は対人支援には向いていないと、ずっと思っていました。

 「ダルクをやったらどうですか」と声をかけられてたんですけど、私はカメラマンをしていまして、あまり気乗りはしなかったんですね。カメラマンという仕事は自分の性に合ってて、写真を撮るのが好きで、それで生活しているわけです。その仕事をわざわざ捨ててまでダルクをしようという気にはなれなかったんです。

 おまけにダルクに来るような人はなかなかクスリをとめられない、ひどい薬物依存者ばっかりです。当時は公的な助成もなかったですから、そうした人たちの相手を毎日しながら、なおかつ人件費や家賃といった運営資金を何とかしなきゃいけないんですね。薬物依存者が寝泊まりする施設を始めるなんて、そんなしんどいことやってられんわみたいな感じで、ずっと断っていたんです。だけど、あることがきっかけでやろうと決断したわけです。

 それはどういうことかと言うと、私自身も薬物依存者で、薬物依存の自助グループメンバーでもあります。仕事が終わってから、晩に行われている薬物依存の自助グループのミーティングにずっと参加していました。それは自分自身のためですけど、苦しんでいる薬物依存者にメッセージを運ぶのも重要なプログラムの一つでした。精神病院に入院していたり通院している人、あるいは警察に逮捕された薬物依存者に会いに行くということを、ボランティアで空いた時間にやっていたんですね。

 当時、薬物依存者の自助グループには、病院からの要請があった際に、会いに行けるほど回復しているメンバーはほとんどいなかったんです。だから、私は自分の仕事もしないといけないし、自分の回復のためにミーティングにも行かないといけないし、専門家の要請があったら応じなければならない、という状態だったわけです。

 ある時、精神科の医者から、「シンナー依存の患者さんがシンナーをやめたいと言っている。グループに参加させたいんだけど、会いに来てくれませんか」という相談があったんです。私は「OKです。来週の水曜日は仕事が入っていないので、会いに行きます」とお約束しました。ところが約束した日の前日に、私に仕事をくれているところから連絡があり、「明日カメラマンが一人足りないから、Kさん、行ってくれないか」と頼まれたんです。「明日は精神病院に行くことになっているんだけど」と断ったんですけど、「どうしてもカメラマンがいない。頼む」と言われると、私もご飯を食べていかないといけません。病院に電話して、「急遽仕事が入ったんで、一週間先に延ばしてほしい」と連絡したんですね。

 一週間遅れて病院に会いに行きました。そしたら医者から「実は急に亡くなった。警察が検死をしている」と言われたんです。私は目の前が真っ暗になりました。私はその時、もし私が会いに行っていればその子は立ち直ったんじゃないかという後悔にかられたんです。

 仕事を断って会いに行ってたら、ひょっとしてその子が立ち直るきっかけになったかもしれない。だけど私は、仕事を選んで会うのをやめてしまった。そのために亡くなってしまった。

 今から思えば非常に傲慢な考え方であって、私が行ったからといって、その子が立ち直ったかどうかはわかりません。ただ、立ち直るかどうかは別にして、「こんな場所があるよ」「こういうプログラムがあるんだよ」ということを伝えそこなったことは事実なんですね。

 じゃ、何が必要なのかということになって、単純にボランティア、自分の身体が空いている時にするだけでは、必要としている人たちに伝えたいことが届かない。それと、生活のために仕事をしてたら、当然仕事に時間をとられますので、薬物依存者のための活動は空いている時間にちょっとする程度のことしかできない。だったら、それを仕事にしたほうが早い、ということですね。それで、写真の仕事を辞めてダルクを始めました。

 ダルクを始めるといっても、電話もないし、事務所すらないわけですから、まずはお金を集めないといけないわけですね。だけど、お金を誰かがくれるわけではないし、人脈も何もないから、どこの馬の骨ともわからない私が「ダルクを作ります」と言っても、「なんでお前に金をやらないといけないんだ」みたいな感じですよね。だけど、とりあえず「お金をください」と言って歩きまわるしかないわけです。

 それでも半年ぐらい写真の仕事をしながら頼んでいるうちに、一ヵ月分の回転資金が集まったんです。そうしてスタートしたのが大阪ダルクです。見切り発車というか、なんとかなるさという感じで始まりました。

 「薬物依存者の施設を作りたいから家を貸してください」と言っても、誰も貸してくれません。最初に借りた平屋の一軒家は、写真のサークルだとか、音楽関係の若い子が出入りするとか言って、不動産屋をだまして借りました。すごいですからね。タトゥーを入れて、髪をビンビンに染めてる子も来ますんでね。いろんなトラブルが発生して、そのうちばれるわけです。

 そういう施設は日本ではまだまだ認知されていなかったんです。だから、地域の人までだまさないと無理だというのを学びました。理解を求めてやっていたら必ず反対される。行政がからんでくると、「ちゃんと地域の了解を求めてください」と言われるわけですけど、そんなことをやっていたら絶対無理です。入寮している人たちには「近所の人と仲良くなっちゃだめ。ほんとのことをしゃべっちゃいかんよ。挨拶ぐらいはいいけど、親しくしない。深い話はやめときなさい」と言ってました。
 今でも続いているのはただ単に必要とされているからです。ダルクがないと困るわけですよ。

  3、薬物依存のプロセス

 ダルクをやってみようと思ったのは、私自身が14歳から30歳まで薬物を使いつづけてきて、計四回、延べ二年ほど精神病院に入退院をくり返したという体験があるからなんです。最初の入院は22歳、最後は29歳から30歳の時です。三回の入院はシンナー依存で、四回目は病院で処方される睡眠薬・安定剤といったクスリの依存でした。子どものころから注射が嫌いなので、覚醒剤はやったことがないんですよ。

 よく「何であなたはクスリをやったんですか」と聞かれるんです。警察では必ず聞かれます。その時には「好奇心で」と答えます。なぜ「好奇心で」と答えるかというと、「なぜクスリを使ったのか」というアンケートでは、だいたい「好奇心から」「誘われたから」という答えが多くて、そう答えたら無難だと思って言ってるだけのことなんですね。自分がなぜクスリを使ったのかというのは、本当のところは答えようがないというか。

 刑務所に入ったり、精神病院に入退院をくり返すといった段階にいたる、薬物依存症という病気になるにはプロセスがあるわけです。薬物依存進行のプロセスを説明しますと、まず初期使用です。いろんなきっかけがあるでしょう。好奇心ということもあるだろうし、誘われてということもあるだろうし。そのうちに機会的な使用、クスリが手に入った時だけやるとか、友達がクスリを調達してくれて、みんなが集まった時だけやるとか。これが二番目の状態です。それから三番目の状態が習慣的使用。薬物の使用が習慣化するわけですね。土日だけやるという人もいるし、週三回という人もいる。クスリを絶えずストックしとかないといけない。習慣的使用になるとやめにくい状態になります。その次は薬物乱用です。クスリを手に入れるために借金をするとか、万引きをしたり、恐喝や盗みをはたらいてクスリ代を手に入れるということもするようになります。

 乱用の状態からさらに進むと、薬物依存症です。こうなると自分の力ではやめられない。そして、精神病院や刑務所への出入りをくり返す。そして最後には死ぬと。自分ではやめられなくなった薬物依存症の人たちがダルクに来るわけです。

 薬物依存にはこういった段階があるんです。物知り顔の人たちが「なぜあなたは使ったのですか」と聞くわけですが、習慣的使用や乱用の段階でそんなことを聞いても、一番最初に使った時を思い出して「好奇心で使いました」と答えるだけのことなんです。

 だけど、たとえば十年間薬物を使いつづけて、そういうプロセスをふんで薬物依存症になったわけですから、薬物を使う理由はその時々にあるわけですよ。あるいは、理由はなくても使うことだってあります。「なぜ使ったのか」と質問をすることに意味があるからと聞いたところで、一番最初に使い始めた時の理由を言うだけのことだし、その理由もどっかのアンケートにあることを答えていれば間違いない。それで納得するだろうみたいな程度のものでしかないわけですね。

  4、私の薬物体験

 私は14歳の時に初めてシンナーを吸ったんですけど、それまでどういう子どもだったかというと、すごい優等生でした。通信簿はほとんど5ばっかり。中学校は教育大附属中学にトップに近い成績で入りました。

 両親とか学校の先生に「あなたはいい子ね」と言われるわけですけど、私はいつもまわりの大人の目を気にしていて、「いい子」と言われるために、いい子であることを演じつづけようとしていたと思います。自分でも気持ち悪いぐらいいい子をやっていたんですよ。ほんとは小学校五年生ぐらいには息切れしてたんですけどね。

 必死になって勉強しました。努力すれば報われると思ってたし、学校でもそういうふうに聞かされてました。だけど、だんだんしんどくなってきたんです。これは自分が望んだことではないと思うようになりました。

 自宅のトイレでビニール袋に接着剤を入れて吸ったのが始まりだったですね。最初は死ぬかもしれないと思ったけど、吸ってみたら、「どうということないな。こんなものか」という感じでした。それからは親に見つからないように時々やってました。シンナーを吸うと、身体がしびれた状態になって、幻覚や幻聴が楽しいんですね。だけど、醒めたらしんどいだけです。だから、またやるということです。

 全国のダルクのアンケートによると、クスリを始めるのは14歳が一番多いんです。中には小学生で始めたという人もいますし、仕事についてから30代になって初めてクスリをやったという人もいますからいろいろですけど、平均は14歳です。

 当時、トルエン入りの有機溶剤が入っているボンドをどこで手に入れたかというと、学校の購買部で買ってたんですよ。20円か30円でちょうど一回分です。だから、お金は大してかからなかったですね。学校に行けば薬物が手に入るという状況だったんです。

 父の転勤で関西の高校に入学しました。ところが、私は友達を作るきっかけを失ってしまい、一年の時はいつも一人でした。人見知りだったんで、人と話をするのが苦手で、学校へ行ってもいつも一人でぽつんとしていました。学校は全然面白くなかったですね。すごい緊張感がいつもあって、学校に行きたくない。さぼるようになりました。学園祭とか体育祭みたいにみんなでワーワーやってる時は、必ずエスケープして喫茶店で時間をつぶしたりしてました。とうとう昼休みには、学校で仕入れたボンドを持って駅のトイレでそれを吸い、五時間目の授業に帰ってくるということをするようになったんですね。親には「学校をやめる」と言ってました。

 高校一年の終わりごろ、ワルのグループの一人が私に声をかけてきたんです。「お前、シンナー吸うてるやろ」と言われて、「えっ。何で知ってんの」と聞いたら、「臭いがする」と言うんですよ。たかられるのかと思ったら、「シンナー教えてくれ」。不良の格好してシンナー知らないのかと思って「シンナーだったらいつでも教えてあげるよ」。

 20人ぐらい集まってるところにシンナーを持っていって、シンナーパーティーが始まったわけです。シンナーの正しい吸い方をコーチしてあげました。シンナーがきっかけで友達ができたわけです。次の日から私はそのグループに入って、学校に行くのが結構楽しくなったんです。

 一昨年、シンナーをやっていた高校時代の友達と30年ぶりで再会しました。彼は私の体験談を読んで連絡してきたんですね。そして彼は、「シンナーを教えてくれたから友達になったんと違う。一緒にロックを聞いたり、コンサートに行ったり、面白いことをお前が教えてくれたから、楽しくて友達になったんや。シンナーだけとは違う」と言ってました。私が高校時代のことを見る見方と、一番の友達の見方とはずいぶん違うんだなということがわかりました。

 私は、記憶や体験談というのはいい加減なもんだと思ってます。自分の都合のいいようにしゃべるわけですから、過去の一つの事実を話しても、話をするたびに変わっていくわけです。今の自分が過去の自分を見るフィルターがその時々で色変わりしていくので、記憶を無意識に操作するわけですよ。現在の自分が一番大切だから、今の自分が生きていくために必要なフィルターをかけて過去を見ている。それが体験談なんじゃないかと思っています。ですから、半年後には全然違う話をしているかもしれないなと、話しながらいつも思ってるんです。

 話は飛びましたが、私は高校を卒業して東京に家出しました。それは親との関係がうまくいかなかったからです。私の母親はコントローラーなんですよ。

 私は性同一性障害でもあるんです。性同一性障害という言葉は病名です。依存症で性同一性障害というのは私一人ではありません。依存症の人は一般の人よりセクシャリティの問題を抱えている人が多いのかもしれません。

 私の場合、男性として生まれているんだけど、男性としての性別というか、身体に違和感があるわけです。5歳のころから自分の身体に違和感がありました。心が女性だというわけではないんです。たぶん、心に性別はないんですね。

 どういう治療をするかというと、私の場合は男性としての肉体に違和感があるんで、身体が女性化するように女性ホルモンを服用したりしています。女性の身体になれば絶望的な感じが軽くなるんです。身体を変えずに女装していた時期もありましたけど、やはりしんどかったですね。女性の格好をすることよりも身体です。

 それで、私の性の対象はどちらかというと女性なんですよ。高校の時につき合ってた年上の女性から、ある日「別れましょう」と言ってきたんです。「なんで」と聞いたら、私の母親が彼女のお姉さんの職場まで行って、「うちの子どもは高3で、大事な時期だから、社会人のあんたがちょっかい出すんじゃないよ」と言ったんだそうです。

 別れる時、彼女に「だけど、お母さんのこと叱っちゃだめよ。あんたのことを心配してるんだから」と言われました。だけど、私は本当は母親を殺してやりたいぐらいの気持ちだったんですよ。文句を言いたいわけですね。だけど、私はいい子だから「殺したい」と言えないし、何も言わない。暴力もふるわないわけです。

 私がやったことは自分を痛めつけることでした。剃刀を持ち出して手首を切ったんです。最初のリストカットでした。それから30歳まで頻繁にリストカットをしました。だから、腕は傷だらけです。

 物音がしたので二階にやって来た母親は、私が血まみれになっているのを見て「どうしたの」と聞いてくるんですけど、私は何も言わなかったですね。私は別れた彼女との約束を守るいい子だったので、何も言わなかった。

 たぶん私は表現の仕方が間違っていたんですね。怒りをぶつけたら、母親に嫌われるのが怖い。だから、いい子でいたい。それがしんどくても、母親が望むような子どもでいたい。そのしんどさを自分を痛めつけることでまわりに訴えようとしていたと思うんですね。

 ダルクに来る人の多くは子どもの時、すでに魂がぐちゃぐちゃになっている。ストレートに自分の怒りを出せないくらい傷ついているんです。そういう人たちがクスリを使うわけです。

 私もそうでしたけど、クスリを使うのはよくないことだとみんなわかっています。どれだけ危険性があるかを知っているんです。でも、やるんです。クスリはいけないことだとわかっていても、クスリを使わざるを得ないほどの心の傷を抱えている。自傷行為をしたり、クスリを使うことで、自分自身を表現し、かろうじて生きていることができる。そういう人たちが結果的に薬物依存症になるわけです。だから、「クスリは危ないよ」とか「命を落とすよ」とか「医学的にこれだけのダメージがあるからやめときなさい」と言っても無駄です。そういうことを教えることは大切だけど、依存症の人にいくら言っても役に立たないんです。

 一昔前だと、薬物依存になるのは貧しいからとか、片親というイメージがありましたよね。そうじゃなくて、中流以上の家庭の子どもたちがいっぱいいるわけです。親が学校の先生とか医者だとか宗教家という人もいます。世間的には両親はしっかりしているし、はたから見たら「なんで」みたいな感じなんですけど、でもそういう子どもたちがダルクに来るんですね。必ずしもはた目から見て家庭がきちっとしているからといって、薬物依存にならないということではないんです。だから、薬物依存症はあまり特別なことではない、誰でもがかかる可能性がある病だと思います。

  5、薬物依存症になる


 そういうわけで、私は高校を卒業して家出したわけです。大学には行かずにバイトして、「友達のところに遊びに行く」と言って、東京へ行きました。新聞配達の寮に住み込んで、それから四年ぐらい、仕事もせずにフーテンみたいな生活をおくりました。親には一応連絡を取りましたけどね。

 親の目が届かないからクスリの量が増えていきました。薬物乱用から薬物依存という状態になったわけです。20歳のころは、一日に四缶シンナーを吸ってたんですよ。体重が今の半分ぐらいで、骨と皮みたいな状態になってガリガリでした。シンナーだけでなく、薬局で売っている鎮痛剤を二箱飲んで、マリファナを吸って、という状態でした。

 薬物依存症と言われる状態になってから、幻覚、幻聴がひどくなったんですよ。ある時などは、窓を開けて街路を見たら、みんなお巡りさんの格好をしているんです。子どもがお巡りさんの服を着て三輪車に乗っている。ヘリコプターが部屋の上を旋回しながら私を監視している。電気屋のテレビ全部に私がうつっている。そういう状態になったわけです。

 友達が母親に連絡したらしく、母が迎えに来ました。そして、実家に帰って精神病院に入院ということになって、二ヵ月ほど入院をしたんです。22歳の時です。

 退院してしばらくはシンナーを吸わなかったけど、病院でもらう睡眠薬をまとめていっぺんに飲んでひっくり返ったりということをしてましたね。

 写真学校を卒業して、東京でヌード写真制作会社に就職したんです。ある日、写真のホコリ取り用スプレーを吸ってみたら、これがいいわけですよ。いいけど、ガスは無味無臭なんですね。私、甘党ですから、甘いシンナーのほうがいいなというので、シンナーを買ってきて、また吸い始めたら、これがとまらない。そのうち密売のトルエン、シンナーの中でも純度が高いトルエンを買って吸うようになりました。

 20代は孤独だったですね。いつも寂しくて、今度こそシンナーをやめようと思うんだけど、やっぱりやってしまう。買ってきたシンナーを吸っちゃ明日仕事にならないからと、流しに捨てに行くんですけど、三十分もしないうちに売人のところに行って仕入れてきて、押入の中で泣きながら吸うんです。

 そんなにしてまで吸わなきゃいいだろうと思われるでしょうけど、薬物依存というのは、脳と薬物の関係で薬物依存症という病気になるんです。自分の心はやめたいと思っていても、脳がほしがって勝っちゃうんですよ。で、気がついたらシンナーを買いに行っている。意志が役に立たないのが薬物依存です。

 私はやめるためにいろんな努力をしたんですよ。断食道場に籠もったことがあります。そこで『般若心経』を朝昼晩読んで断食するわけです。ところが、睡眠薬だけはちゃんと持って行ってました。空きっ腹に睡眠薬がよく効くんですよ。だから、ご飯を食べなかったけど、睡眠薬を飲んでいたという状態でした。

 あと、ジョギングをしたり、趣味に没頭したり、玄米菜食、ヨーガなど、何でもしました。海にずっといたら大丈夫だろうと思って釣りをやったこともあります。仕事を一生懸命しましたし、恋人を作ることもしました。精神科の先生には十何人かかかりました。でも、やめれなかったですね。まわりの人がこうすればいいということはすべてやってみたけど、何をしてもだめ。結果的には最後はクスリを使ってしまう。気がついたらクスリを使ってたんです。

 私が子どものころから信じていた、人間は努力すれば必ずうまくいくとか、一生懸命がんばれば報われるとか、そういう神話が崩れたわけです。どんなに頑張ってもできないことがあるんです。

 27歳の時に、精神病院に二回目の入院をしました。二ヵ月後に退院して、それから一ヵ月もたたないうちにまたやって、一週間、仕事に行かずにやりつづけて、久々にすごい幻覚を見ました。

 部屋の中に大きな壺が現れて、中をのぞいたらシーラカンスがとぐろを巻いてまして、口から煙が出て、その煙が空中で人の姿になって、私に説教するんですよ。「お前はまたやっているのか。また親に金を使わすのか」と言うんです。私は「ごめんなさい。ごめんなさい」とワンワン泣きながら謝って。

 公衆電話まで走っていって、神戸の母に電話して、「お母ちゃん、やっぱりやめられない。助けて」と言うたんです。初めて親に助けを求めたわけです。部屋に帰ってみると幻覚が消えてて、「あっ、しまった」と思いましたね。「うちの親だったら、明日東京に来るだろうな。下手なことを言ってしまった」と思って私がやったことは、リストカットです。そういう時はいつもリストカットをするんです。

 部屋の中はトルエンの瓶とビニール袋と女物の下着が散乱している。当時は女装していることを誰にも言ってなくて、こっそりしていたんです。これを親に見られたらいやだなと。それよりも親にまた何か言われるのがいやだな、どうすれば自分が許されるだろうと思って、そこで私がやったのは思いきり手首を切ることなんですね。部屋中、血をなすりつけて、これだったら親が来てもシンナーを使ったことを責められることはないだろうと思ったんです。

 リストカットするのは誰かにかまってほしいからなんですよ。かまってほしい、見てほしい、ということですね。包帯やリストカットした傷跡を人に見せてね、「どうしたの」と聞かれたら、「実は昨日ね」という感じです。

 そしたら、次の日の昼に両親が来て、手首の傷の手当てに病院へ連れて行ってくれました。そしたら、四針縫うぐらいの傷で、傷を縫ったのはその時だけです。軍医上がりの年取ったお医者さんに「若いんだから、死ぬ気になれば何でもできる」と説教されて、「死ぬ気はないんだけど」と思いながら、「はいはい」と聞いていました。

 手首を切るというのも依存症なんですよ。人に叱られる前に自分で罰しとけみたいな。私はそのパターンが多いですね。私は許されたいという気持ちが強い人間で、罪悪感が強すぎるんです。自己憐憫、自分で自分を憐れむ状態になりやすいんです。

 シンナーを吸う時もそうですね。寂しい曲をかけるんですよ。カルメン・マキの「時には母のない子のように」とか、ものがなしいメロディーを聞きながらシンナーを吸って、「私はなんてかわいそうな人間なんだろう」と思うのが、すごく気持ちいいんですよ。自己憐憫の感情に酔うというか、自分はだめなんだという思いに酔いしれるというか、それがすごくいいんです。

 こないだダルクでこのことを話したら、10人中5、6人が「自分も同じだ」と言ってました。「覚醒剤を打ちながら寂しい曲を聴く」とかいったことを話してたんですけど、自己憐憫はクスリを使いつづける内的な引き金なんですよ。だから、つい自己憐憫に入りそうになったら、それをチェックして笑い飛ばさないとだめなんです。とにかく、自己憐憫には絶対に入り込まないようにすることです。

 自己憐憫は酔いの感情なんですね。怒りとか落ち込みといった感情がわきおこることはあります。しかし、感情が生じることと、その感情を引きずって酔いしれることとは別のことなんです。

 感情に酔いしれることは、クスリやお酒を使わないドライ・ドランクという症状です。飲まない依存症なんです。「自分はえらいんだ」という高揚感が続くのもドライ・ドランクです。物事に感動するのはいいんだけど、いつまでも感動してることも、その感情に酔っていることです。感情を引きずる状態が長引くと、アルコールや薬物などのを使用する引き金になってくるんです。

 いかに感情に酔わないか、どのようにしてドライ・ドランクにならないかが節度ある生き方のものさしになります。だから、私は自己憐憫などの感情に酔いしれる状態から早く抜け出す術(すべ)をいつも考えています。

 ドライ・ドランクから抜け出すためには、まず人に話をすることですね。愚痴を聞いてもらったりして、正直に自分の気持ちを出すということ。感情をためずに小出しにしていくこと。そうしたことが大切だと思います。クスリをやめてからそれができるようになりました。我慢して抑圧しているとしんどいですからね。

  6、三回目と四回目の入院

 それから写真の仕事を辞めて、実家に帰って三回目の入院をしたんです。東京で独り暮らしをしてたらまたクスリを使うだろうとよくわかりました。27歳になってましたからね、医者からも「あんた、いい年こいて何でシンナーやってんのん」と言われるわけですよ。

 入院してた大学病院の精神科には娯楽室があって、患者同士で麻雀やったりトランプやったりするんです。元気になってくると、統合失調症や躁鬱病といった病気の人と遊ぶようになってきたら、「なんであんた入院してきたんだ」と聞かれるわけです。答えにくいなと思ったけど、「実はシンナーで」と言ったら、すっごく怒られるわけです。「ぼくらはね、なりたくて病気になって、ここに入院してるんじゃない。それなのに、自分からシンナーを吸って、手首を切って入院してくるなんて、お前なんか患者の風上にも置けない」と。

 ここでも隅に追いやられたかと。そんなことを言われると、ケンカの強い人なら他の患者を抑え込もうとするんだけど、私は切れまくってリストカットするしかないんですね。刃物は持たせてもらえませんから、以前はコーラの缶の引き蓋が取れたので、それをトイレの壁でこすってとがらせて、リストカットするわけです。「こんなイヤなことがあったんだ」とやるわけです。

 退院して親の近所に住むようになって、シンナーをやめたけど、今度は精神病院でもらった処方薬、精神安定剤とかを20錠、30錠いっぺんに飲んで、時には失禁するという状態になりました。それで29歳の時に自分から入院をしたわけです。四回目の入院です。

 この時も、私はしょっちゅう手首を切ったり、薬局で鎮痛剤を買ってきて一箱飲んだりということをやってました。なぜそんなことをしたかというと、退院するのがすごく恐かったんです。問題行動を起こしたら、病院は外出禁止にして置いてくれるわけですよ。だから、病院に置いてもらうためにそういうことをしたんです。

 でも、それが私の表現方法なんですね。ほんとは医者に言えばいいわけですよ。「退院してもクスリをやめる自信がないし、その方法もわからないから、ここにもう少し置いてください」と言えばよかったんだけど、それが私にはできないんです。

 私は中学生のころからそうだったんです。何か親に対して言いたいこと、親に対して怒っていることがあっても、何も言えなかった。私には弟が二人いるんですけど、弟たちは両親とぶつかってました。だけど、私は親とぶつかったことがなくて。まわりの友達に対してもそうでした。

 酒を飲みながら私が行く大学の学部まで決めている父親に対して、「お父ちゃん、何を言ってるの。酒飲まんと説教したらどうだ」と言えてたら、私はクスリをやらなかったでしょうね。私はそれが言えなかった。本当はものすごい怒りを抱えているにもかかわらず、表面的にはニコニコしていたわけですよ。

 精神病院から外出して家に帰った時、家族が食事しながらいがみ合っていたことがあって、母親が私に「あんたはほんとにいい子ね。大きな声を出さないし、あばれないし。シンナーさえしなければいい子なのにね」と言うわけですよ。でも私としては、いい子であることがしんどいからシンナーを吸い始めたところがあるのにね。

 最後に精神病院へ入院している時でも、私は「クスリをやめる自信がない。どうしよう」と思っていたんです。クスリだけでなく、仕事をやりつづける自信もない。それをどういうふうに表現したかというと、入院中にもかかわらず、おいしくもないクスリをたくさん飲んで、手首を切って、それで退院がまた延びるということをくり返していたんです。

 つまり、私はシンナーやクスリが問題だったのと違うんです。私の中の依存が問題だったんです。薬物の問題というと、シンナーが悪いんだ、覚醒剤が悪いんだと、クスリの作用をあげて、クスリを取り締まっているわけです。

 だけど、ダルクに来る人たちは、一つの依存だけで依存症になっている人はあまりいません。八割九割の人はマルチプルユーザーといって、複合的にいろんな薬物を使っています。同時にいく種類もの薬物を使っている人がいるし、私のように最初はシンナーだったけど処方薬の依存症になってというように、薬物の種類を変えながら依存症という人もいます。

 問題は薬物よりも依存症なんですね。それがわかったのはクスリをやめてからです。クスリをやめて私に何が残ったか。依存症が残ったんです。薬物依存をやめたら、別のものに依存するようになるわけです。依存の切り替えでクスリがとまっているだけなんです。

 じゃ、何に依存するか。人に依存する。ギャンブルに依存する。仕事に依存する。ニコチン・カフェイン・食べ物・カルト・ダイエット・セックスなど、いろんな依存があります。悪い依存からいい依存にならないといけない。たとえばダルクに毎日来るのはダルクにいい依存しているからです。クスリをやめてパチンコにはまったら、それは悪い依存ですね。

  7、私はどうして薬物をやめたのか

 じゃあ、なぜ私はやめられたのかということなんですけど、とりあえず病院にいれば現実に直面しなくてすむ。そういう状況だったところへ、ある人が病院に会いに来てくれたんです。この人は私が三回目の入院をした時、同じ病室のななめ向かいのベッドにいた、私より四つ年上の人です。アル中でヤク中でした。入院中には無茶苦茶してまして、病院で酒は飲むわ、娯楽室に落書きするわ、黄疸は出ていて、私よりもひどい依存症だなと思っていたんです。ところが、彼が一年半の間、クスリもお酒も飲まずにいて、そして仕事を休んで、私に会いに来てくれたわけです。

 私の顔を見るなり、「君はほんとに意志が強いね。すべてを失っても、またクスリをやるんだから。意志の弱い人にはできないよ」と言うわけですよ。「そうか。私は本当は意志が強いんだな」と思いました。強迫的に意志が強いんだろうなと。そして、その人にアルコール依存症の人たちのための自助グループのミーティングに誘われました。

 そのころは、薬物をやめていく場所、自助的な、当事者が集まる場所がなかったので、「君がクスリのやめ方をマスターして、将来刑務所とか精神病院にやめ方を伝えにいったらどうか。まだ若いんだし」と言われたんですね。

 アルコール依存症の自助グループのミーティングに通う一方で、アルコール依存症者のための回復施設に精神病院から毎日通いました。入院中に百回ぐらい行ったかな。八畳ぐらいの小さな部屋に、綿のはみ出た座布団が敷いてあって、十人ぐらいのアル中のおっちゃんおばちゃんが車座になって話し合っている。

 私が入っていくと、「何でお前みたいな若いのが来たのか」と言われました。アルコール依存症のグループの中では私が一番若かったんです。50代、60代の、私の親世代の人ばかりでした。でも、私には行くところがなくて、とりあえず毎日行ってました。

 不思議なところだなと思いましたね。何も言わないんですよ。私が気に入ったのは、アドバイスをしないし、説教もしない。これはいいなあと思いました。

 ミーティングは言いっぱなしの聞きっぱなしというやり方です。だから、私が話したことに対して、誰かがコメントしたりしないんですよ。私が何か言ったらそれで終わりです。しゃべりたくなければ、黙っててもいいわけです。だから、私は最初のころは全然しゃべらなかったです。人の話をとりあえず聞いていました。それが私にとって安全な気がしたんです。

 なぜ自助グループでは誰もアドバイスやお節介をしてこないんだと思ったですね。今から考えると、アル中のおっちゃんおばちゃんたちはアルコール依存症で何回も精神病院に入退院をくり返してきている人ばかりです。みんな自分のことで精一杯だったんですね。

 ある日のミーティングで、「グッドアドバイスはだめだ。グッドニュースを伝えよう」という言葉を誰かが話すのを耳にしました。グッドニュースとは、「自分はお酒やクスリを一週間飲んでません」というのが、その人にとってのグッドニュースなんですね。私はグッドニュースは聞けたんです。

 ああしたら、こうしたらと言われていたら、たぶん私はうんざりして、自助グループへは二度と行かなかったでしょうね。だけど、みんなが言ってるのは自分のグッドニュースを伝えることだけで、だから誰も侵入してこない感じがしたんです。そこが非常に楽だったです。

 それまで私が関わった精神病院や警察といった人たちは、何とか薬物をやめさせようとして、私からいろんなことを聞き出そうとしたり、私に「こうしろ」と説教する人ばっかりだったんですね。ところが、そこでは説教しないんです。「いたかったらおったらええ。しゃべらんでいいよ。クスリ使いたかったら使ってもいいよ」と言われました。
 プログラムの最大のスローガンは「今日一日だけ」というものです。「今日だけやめれたらいいんですよ」と言われました。それは私にとって革命的な言葉だったですね。
「明日やってもいいんですか」
「やりたかったらやってもええよ。でも、今日だけはやめとけ」

 次の日に行ったら、やっぱり「今日だけやめとけ」と言われるだけで、先のことは一切考えない。「とりあえず今日寝る時までやめときなさい」、そういうプログラムでした。

 依存症から回復していくための古典的なドグマとして「12のステップ」というのがあるんです。最初のステップは、
「われわれは薬物依存に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」

 ギブアップしなさいということです。薬物と闘うことをやめなさい。薬物をやめようとすることをやめなさい。「えっ」と思いましたね。すごいショックでした。そんなんで薬物をやめれるわけないじゃないかと思ったけど、よく考えてみたら、私なりにいろんな方法をやり、努力をしてきたわけですよ。でも、何をしても役に立たなかった。

 ところが自助グループや施設では、「まだクスリを使えると思うんだったら試したらええ。やってみたらええねん。でも、うまくいかなかったら無力を認めなさい。そして、ここに来なさい」と言われました。

 無力であることを認めるというのはどういうことなんだ。アル中のおっちゃんおばちゃんたちが集まっているここに毎日来ることが、自分一人の力ではどうにもならないことを認めたことなんだ。ものすごく簡単なことですよね。

 じゃ、無力を認めたら次はどうすればいいんだ。「信じてゆだねなさい」となるんです。第2のステップは、
「われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じるようになった」

 これが依存症から抜け出す第二段階なんですよ。自分の力でやめようと思ったらあなたはまたやるから、自分の力を使うのをやめなさい。自分以外のものにすべてをゆだねなさい。ああ、そうか。クスリと闘ったらだめなんだな。私の体験で闘っても負けるのはわかってるし、とりあえずここに来ればいいんだ。

 第3ステップは、
「われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神、ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした」

 おまかせですよ。無力を認めて、信じたものにおまかせしなさいというわけです。「えっ、これ宗教か」と最初思いました。でも、「宗教でも何でもいいわ。とりあえずやめれたら何でもいいわ」という感じだったんです。

 でも、だんだんその意味がわかってきました。依存症の人にとって大事なのは、薬物依存という病気を治療するということより、魂の救済だと。魂が傷ついている人が依存症になっているんだから、魂の救われることがないと、薬物をやめつづけることは難しいと思います。

 一年ぐらい通いつづけました。薬物をやめようと思って行ったことはないですね。慣れてきたら「今日は誰が来てるのかな」とか、囲碁をしに行ったり。からくりもんもんを入れているスタッフが「囲碁をやろう」と誘ってきたわけですよ。「やったことないですよ」「じゃ、教えてやるから」というので、ミーティングの合間に囲碁を打ってたんです。いつも負けるわけです。負けたらくやしいでしょう。そのおっちゃんに勝とうと思って、施設へ行く電車の中で囲碁の教則本を読んで、「今日こそは負かしてやろう」という感じで、囲碁をやりに行っていたようなもんです。それも施設に行きつづける大きな動機になっていたんですね。

  8、罪の意識と共感

 何が違っていたのかな。それまで専門家、日本で有数の精神科のドクターに診てもらったこともありますけど、アルコール依存症の小さい施設とどう違ったんですかね。

 それまで医者は私の中の薬物依存症を見ようとしていた。ところが、薬物依存という病気を持った私と朝から晩までつき合ってくれたのは、アル中のおっちゃんおばちゃんだけだったんですね。薬物依存症の私を理解してくれ、受け入れて、許して、一緒にいてくれる人が私には必要だったんです。

 私は罪の意識が強いとさっき言いましたけど、薬物を人に教えたり誘うことで、若いころはずいぶん人を巻き込み、傷つけてきたと思います。もちろん、薬物を教えた友人たちばかりではなく、私の見知らぬその家族に対しても、ずいぶんな迷惑をかけてきたんでしょうね。それに加えて、私がひどい薬物の使い方をするので、なんとかやめさせようとする私のまわりの人々をも傷つけてきたと思います。

 私は、薬物を使いながらも、そんな自分をいつも責めながら薬物を使い続けていました。自分はだめな人間だ、罪深い最低の人間だと思うたびに、そういう思いから逃れたくて、また薬物を使ってしまうというサイクルが何年も続きました。罪悪感というのは薬物が身体に入ると、自己憐憫に変わり、自己憐憫という感情には妙に酔いしれることができるんです。不思議です。

 薬物依存は、助けを求められない病です。助けを求めようと誰かに電話一本するのにも、薬物の助けを借りないと受話器を取ることができないんです。ですが、受話器を取るために薬物を身体に入れた途端、助けを求めることなどどうでもよくなってしまう。その繰り返しです。

 そんな話をアルコール依存症の自助グループの仲間にしたら、「あなたがクスリを使ってやったことに、あなたの責任はほとんどない。それはクスリがさせたことだ」と言われたんですね。「仮にあなたが人を殺したとしても、それは法律的な罪はあるけど、でもあなたの責任ではない。あなたの責任はこれから薬物依存を治療していくことです。自分を責めることはとにかくやめなさい」と。

 これだけ聞くと無茶苦茶だと思われるだろうし、誤解されると困るんだけど、私はその言葉を聞いて、初めて許される気持ちを持ったんです。それまでずっと、クスリに誘い込んで迷惑をかけ、傷つけてきたということで自分を責めてきたけど、そのことをきちっと見るんじゃなく、自分を責めることをクスリを使う理由づけにしていたわけです。

 罪の意識を捨てないかぎりまたクスリを使うことになる。そしてクスリを使うことでさらに自分を責めてしまう。そういう悪循環を仲間に指摘されたわけです。「ああ、そうなんだな。これ以上自分を責めても、自分も不幸になるし、人も不幸になる。そういうことなんだなあ」と思いました。過去のことを私はどうすることもできないけれど、これから自分に何ができるかを考えていかないといけない。

 ですが、本当に心の底から罪悪感を捨てるには、薬物を使っていたころ迷惑をかけた人々に、埋め合わせのために会いに行かなければならない。私は、最近三十年以上会っていなかった、昔、迷惑をかけた友人たちの何人かと、それぞれ再会する機会を得ました。薬物を使っていたころに傷つけたり巻き込んだことを謝りましたが、返ってくる返事はどれも暖かく、「私が生きているとは思わなかった。生きていてくれただけでうれしい」という言葉も聞きました。

 それらの友人たちとの交流が再開して、私はあることに気づきました。わたしは自分の罪悪感から解放されようと思い、埋め合わせに出かけたんですけど、そんなものは友人たちに会ってものの十分もたたぬうちに消え去り、実はわたしは薬物を使っていた若いころ、友人たちに、彼らのほうが才能がある、人間関係をうまくやれる、モテる、頭がいい……等、いろんな意味で嫉妬を感じており、その感情に直面できなかったことに、今ごろになってやっと気づいたんです。そして、そのことを心の底から認めることができると、現在の人間関係の中でも、人と自分を比較して劣等感に陥ったり嫉妬したりというネガティブな感情が、以前よりずいぶん少なくなってきた気がするんです。

 ダルクでは、薬物依存症の家族の相談にのっているんです。年間150件ぐらい、200人程度の方が相談に来られます。薬物依存者の親御さんたちは自分を責めまくっているんです。「息子がクスリを使っているのは、私の育て方が悪かったからです」という感じで。しかも世間からも責められているわけです。裁判所でも、「お母さんの監督が行き届かなかったから、息子さんがこうなったんですよ」と言われるわけです。まわりからも責めつづけられる。

 でもダルクの家族プログラムでは、お父さんお母さんに「そうじゃない。あなたの責任じゃないよ。クスリを使うことは子どもが選んだことですよ」ということを伝えています。薬物依存者の家族は最初は子どもにクスリをやめさせようとして来るんですけど、実際の家族プログラムは、家族自身の生き方とか、自分の気持ちを見つめてもらうためのプログラムなんです。

 薬物依存者の家族はクスリをやめさせるためにいろんなことをやっています。あるいは、尻ぬぐいをしているんです。薬物依存写本人はクスリをやってて車をぶつけたり、借金を抱えたりしている。親はサラ金に借金を返したり、近所に迷惑をかけてたらお菓子を持って謝りに行く。そうするのが親のつとめなんだ、というわけですね。でも、薬物依存者にそんなことしてたら、子どもはますますクスリを使うだけなんです。親がサラ金の返済をするということは、クスリ代をまたサラ金から借りられる状況を作ってしまうことになるわけです。

 私もクスリをやっていたころは、親の気持ちなんて少しも考えていませんでした。親は銀行の自動支払機みたいなものという感じでしたね。家が一軒建つぐらいのお金を親に使わせました。

 だから薬物依存者の家族プログラムは、子どものために、社会に迷惑をかけないためによかれと思ってやっていることが、結果的にはますます子どもにクスリを使いつづけさせてしまう、それを何とかしなければいけないというのが、薬物依存者の家族プログラムなんですね。

 家族プログラムに出ている間にお子さんがクスリで命を落とすという人が、年に何人かはいらっしゃいます。中には、お子さんが亡くなったあともプログラムに出ておられる家族の方もおられます。それは、家族のプログラムが子どものクスリをやめさせるためというより、親自身の生き方に必要なものだからなんです。

 それともう一つ、自助グループに参加しているうちにわかったのは、私にそれまで欠けていたのは他人に共感するということなんだなということです。アル中のおっちゃんおばちゃんたちの話を聞いたら、よくわかるんですよ。似たようなところがいっぱいあるわけです。「自分と同じなんだなあ。お酒を飲みたいという気持ちになるのは、クスリと一緒なんだ。なんかイヤなことがあった時、ストレスを感じた時、飲みたくなるんだなあ」というふうに。

 違いを探すこともありました。メンバーの話を聞いて、「こいつらとは違う。こんなアル中と違う。みんな生活保護を受けてる。だけど、私は両親がしっかりしていて、親から援助を受けてここに来てるんだ」と、そんなことを考えていた時期もあったんですね。アラを探して、自分とは違うと思うことで安心しようとしたわけです。

 「お前らと違うわ」と言って、イスをけとばして出ていったこともあります。でも次の日、行くとこがないからまたすごすごとミーティングをやっているところへ戻ってくるわけです。アル中のおっちゃんおばちゃんたちは、ただニコニコ笑いながらイスを示すだけで、「昨日なんであんなに腹立ててん」なんてこと、誰も聞かないわけですよ。「まあ座り」みたいな。だから、すごく助かったんですよ。

 そうして、人と同じだなと思える時は自分の精神状態がいい時だということに気づいたんです。共感をして、同じところを探して、「そうだ、そうだ」と思える時というのは、すごく自分の精神状態がいい。逆に、違いを探している時の自分の精神状態は非常によくない。

 どうすれば楽になるのか。共感していたほうがずっと楽なんですよ。人と自分は違うと優越感にひたっていたり、コンプレックスに落ち込んだりしてる時というのは、頭の中がネガティブになってますから、調子が悪いわけですね。そういうことがわかってきたわけです。

 気がついたら一年たっていて、一年間クスリがとまってたんですよ。そろそろ仕事に、ということで施設を卒業する決心をして、面接に行きました。最初の仕事は業界紙の記者でした。ところが、人間関係がうまくいかなくて二ヵ月ぐらいで辞めたんです。今までだったら、そんな時には必ずクスリに逃げていたと思うんですよ。でも、その時は違ったんですね。卒業した施設に行って、「ああ、仕事辞めちゃった」「ほな、またリセットして仕事探したらいいやん」みたいな感じで。

 私には仲間がいたわけです。それまでは、自分一人でなんとか乗り越えていこうとして、それでプレッシャーがかかってクスリを使っていたわけです。ところが今は、どんな危機的な状況に陥ろうともクスリを使う必要がなくなったわけです。私には相談したり、支えてくれる仲間、それはアル中ですけど、仲間がいたわけです。それが今までとは変わってきたことなんですね。それから今日まで22年間、クスリを使わずにいることができてます。

 今は親との関係もよくなりました。女装したり、お化粧したりしだしてから、五年ぐらいは親と会わなかったんですよ。私は怖かったんです。親が受け入れてくれないのではないかという恐怖感と、親を悲しませるんじゃないかという不安とで。

 クスリであれだけ親を苦しめ、今はクスリをやめてホッとしている親に、今度は性同一性障害でまた苦しめるんじゃないかという思いがすごくあったから、なかなか親と会おうとしなかったんです。

 だけど、ひょんなことから両親がうちに突然来ることになりまして、ばれちゃったんですよ。短いスカートはいて、部屋の中をうろうろしてるのを見つかってしまって。父親は私がスカートをはいているのを見て、「いいじゃないか、別に」と言ってました。

 性同一性障害の私を親がどう受け入れてくれたのかわからないけど、今は両親も慣れっこになってます。去年、改名しました。母親は「あなたがよければそれでいいんじゃない」と言って受け入れてくれました。

 私の父親は80歳で、寝たきりなんですけど、今、父親からもらっているのは、人間は死ぬものだということです。人って最後はこういうふうに死に近づいていくんだなと。
 これで終わります。どうもありがとうございました。
(2007年2月24日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)