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  米本 和広さん「いい宗教と悪い宗教」 
                               
 2010年4月20日

  1、いい宗教、悪い宗教

ルポライターの米本と申します。自己紹介しますと、1990年以来、マスコミで話題になった問題のある宗教、統一教会、エホバの証人、ライフスペース、幸福の科学、浄土真宗親鸞会、冨士大石寺顕正会、法の華三法行といった教団を批判的に取材してきました。名誉毀損で訴えられたこともあります。私のことを知っている人は、反カルト的なライターと評価していると思います。
 情報リテラシー、宗教リテラシーという言葉があります。本来、リテラシーとは読み書きの能力ということですけど、情報などを読み解いて、真偽を見抜き、活用する能力という意味で使われます。宗教でもどこが問題かを見抜いていかないといけない。
 いい宗教と悪い宗教の見分け方が宗教学者や宗教社会学者の間で議論になるんですよ。私の考えは、いい宗教と悪い宗教という区別の仕方は良くないということです。いい宗教の中にも悪いところがある。悪い宗教にもいいところがある。いい宗教、悪い宗教という分け方はあまりにも単純な分け方です。いい宗教にも悪いところがあり、悪い宗教にもいいところがあると考えないと、なぜ若者たちが問題のある宗教に入るかが理解できなくなります。

  2、戦後の宗教史

 戦後の宗教史を簡単にひもとくと、戦争が終わって「神々のラッシュアワー」という言葉がはやったんですよ。マックファーランドというアメリカの宗教学者が日本の宗教事情を見て作った言葉です。戦後、神々がラッシュアワーのようにいっぱい出てきた。1952年までに約600の宗教団体が雨後の竹の子のごとく出ています。その中には、戦時中に弾圧されてなりをひそめていた教団もあります。宗教統制がありましたからね、眠らされていた人間が急に息を吹き返したところもあるんですけど。
 たとえば璽宇(じう)という教団がありました。双葉山や呉清源が信者になって有名になり、マスコミが大騒ぎしたんです。ここはお金を取るところだったんで、トラブルが起きたというので話題になりました。今はほとんど活動していません。
 それから天照皇大神宮教といって、北村サヨさんが教祖の、踊る宗教も有名になりました。東京で踊ったり、政治家に「ウジ虫野郎」と言ったんで、みんながおもしろがったんですね。
 その他、PL教団、生長の家、世界救世教、霊友会、立正佼成会、創価学会、円応教などの多くの宗教が信者を増やしていきました。
 なぜそんなに多くの宗教がラッシュアワーのように生まれたかというと、宗教を求める人がいるからなんです。中には脱税目的で宗教法人を作るとか、そういうのもありますけど、それはおいとくとして、悩める者が宗教を求めるから新しい宗教が生まれるんです。
 宗教に入る要素として、三大苦というのがあります。貧病争といって、貧困から逃れるため、病気を治すため、争いは主に嫁姑の争いです。この三つの苦から救ってあげるのが神々のラッシュアワーで生まれた宗教団体だったんです。
 創価学会の幹部がマックファーランドさんに話したことですけども、「幸福とは、信仰に基づいた生活を送り、それにより、身体的、経済的、社会的福利を経験することである」と言ってる。貧困から逃れ、病気から逃れ、争いから逃れて、心が平安になることが宗教団体の目的だと考えられたわけです。

  3、共同体・共同性への希求

 もう一つ見逃せないのは、共同体や共同性への希求ということです。どういうことかというと、農村だったら、お嫁に行くと、そのころは家父長制が色濃く残っているから、ご主人はいばっている、姑さんに仕えないといけない。お嫁さんは朝から晩まで働いて、なおかつ姑さんにいじめられる。いじめかどうかはわからないけど、嫁は鍛えるもんだったから、いじめみたいにして鍛えられる。お嫁さんはそういうどうしようもない状態から逃れたいと思うわけです。違った生活をしたいというのがあったんですね。
 都市だと、農家の二男、三男が東京に集団就職する。主に職工になるんです。町工場で働く。誰も知り合いがいない。だから、新しい共同体を求めたということがあります。
 マックファーランドさんが言ってるんですけど、日本人は個人の内面を打ち明けるのが苦手。それから、個人的な問題を人と議論するのが苦手。自分の心を閉じ込める傾向にあるらしいんです。
 会社や工場で上司に悩みを打ち明けることなんてないから、悩みを聞いてくれたり、自分のことをわかってくれる人がほしいなと思うわけです。だけど、悩みを打ち明ける場所がないんですね。そこへ新興宗教に誘われると、行ってみようかという気になるわけです。
 そこではグループがあって、月に数回、十人か二十人ぐらいが集まって、座談会を一、二時間します。創価学会の場合だと、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と題目を唱えて、それから「最近、みんなどうしてる」とか「あれからどう」といったことから話が始まって、「今、こうなんだ」と率直に打ち明けたり、悩み事を告白したりする。雰囲気はくだけたものです。
 地域共同体が崩壊しつつあったから、近所の人にそういう話をするわけにはいかない。だけど、新興宗教のグループではみんな親切だし、何でも相談できる。困ってることがあれば助け合いをする。相互扶助ですね。
 それとか、グループでリクレーションとかの活動をして、「次は何をしようか」と計画を話し合う。そんなことをしてるうちに仲間意識が持てる。一つの目標を目指してみんなでがんばるから、一体感が得られるということです。
 これは一つの共同体なんです。週に一回の座談会が楽しみになる。みんな、自分の悩みをみんなにしってもらいたい、逆に一人の信者の悩みをみんなでわかち合いたい。そんな意識はとても健康的です。
 僕は東京の下町で創価学会の会員の家に一ヵ月ぐらいお邪魔して、どんなことをやってるか見せてもらったことがあるんですよ。座談会にも参加しました。アルコールのよっちゃんという人がいるんです。アル中でホームレス気味の人です。よっちゃんが一ヵ月ぶりで座談会に来たので、「やあ、よっちゃん。よく来たね」とみんなが歓迎するんですね。
 創価学会にとってよっちゃんは何のメリットもないんですよ。お金を布施するわけじゃないし、聖教新聞を読むわけでもないし。それでも「よっちゃん。よく来たね」と声をかけるのを聞いて、暖かいな、これが共同体の良さなんだなと感じました。
 そういうふうにして共同体を作っていくんです。創価学会の共同体だったら、新人から始まって、組長、班長、支部長、地区長となっていく。婦人部があれば、青年部があるし、壮年部、文化部もあって、網の目のようにみんなが配属されるんです。そこで役割を与えられて生きがいを持つから、みんな生き生きするわけです。
 創価学会には副会長が四百人ぐらいます。地域の人から見たら、ただのおじさんなんだけど、創価学会の社会では副会長なのでみんながぺこぺこするわけです。自分は共同体の中で役割を持っているんだということで自信が持てる。
 それから、新興宗教の特徴は中央集権的だということです。縦割りになっているんです。組長がいて、班長がいて、それぞれが上からの指示に従って動くと。下の者には上からの指示を忠実に下に伝えればいい。民主主義とは言えないけど、それがまた心地いいんですね。
 創価学会では財施や物施といって、何だかんだとお金を取られるけれど、池田文化会館ができると、自分たちの家みたいに思うので不平不満が抑えられる。うまい仕組みになっているわけです。
 マックファーランドさんは「挫折し孤独な何千という人々に、新しい共同社会内部の統一と相互関係によって、救済感を与えている」と書いています。そういうふうにして新興宗教は信者を増やして伸びていったわけです。

  4,新々宗教の登場

 今の社会は息苦しくてつまんないと。生きがいを持てない。みんなが和気あいあいとして、信頼できる関係を作りたいというのがあるんですね。それで自分たちで共同体を作って、その中で活動して生きがいを見いだすという傾向が強いです。
 その傾向がより深まったのが新々宗教です。新々宗教はマスコミ用語ではカルトという言い方をしてます。だけど、新興宗教と新宗教と新々宗教との区別を言ってもあまり意味はないんで、今どきの宗教と考えたらいいかと思います。

 皆さんがご存じなのでは統一教会。1964年に宗教法人の認可されました。原理研究会という名前で大学で勧誘していたんだけど、今は原理研究会という名前も使わずに、正体を隠して勧誘してます。アンケート調査をしたり、悩みがないかと聞いて、ビデオセンターに連れていくといったことをしてるんですね。

 それからエホバの証人は戦前には灯台社と言ってました。皆さんの自宅にも来ているかもしれません。冊子を置いて、「一緒に聖書を研究しませんか」と言ったり、「子育ての悩みはありませんか」と話しかけてくる。服装は派手じゃなくて、シンプルで清楚な身なりをしています。あれは出かける時に服装をチェックしますからね。どういうふうに勧誘するかマニュアルがあって、服装のこともちゃんと書いてあるんです。赤は着ません。パステル調で、ほんわかとした感じにしています。配っている冊子ですけど、あれは自腹で買ったものです。
 もう解散しましたけど、ライフスペースは成田でミイラ事件というのを起こしました。死体を生き返らせると言ってましたね。ライフスペースは自己啓発セミナーから宗教団体に変容したんです。

 浄土真宗親鸞会は西本願寺の僧侶だった高森顕徹という人が始めた団体です。西本願寺を攻撃したことがあって、過激な行動をとるところです。新聞に本の広告がよく出ています。だけど、著者の高森顕徹が親鸞会の教祖であることは出してませんし、出版社も1万年堂出版とかチューリップ企画という会社なんですね。
 大学では歎異抄研究会という名前で新入生を誘ってました。今では完全に正体を隠し、いろんな団体名を使っています。親鸞会の名前を出さずにばれないように勧誘しろと、上から指示が出ているんです。最初から親鸞会とか統一教会だと名のればいいのに、それをしない。
 今、大学当局が要注意している宗教団体は、親鸞会、統一教会、摂理の三つです。新入生に声をかけるんだけれど、最初は宗教の「しゅ」の字も出ません。「生き方の問題を語ろう」とか「死の世界はどうなってるんだろうか」というところからだんだんやっていくんです。
 勧誘する時、あまりにも熱心でしつこい。それに排他的、攻撃的だから、他の宗教を徹底的に攻撃します。すぐ「あなたは間違ってる」となるでしょ。教団にはそれぞれの教えがあって、お互い尊重していれば平和共存できるんだけど、「間違いだ」と他の教えを否定しちゃうから問題を起こすんです。

 冨士大石寺顕正会は日蓮系です。創価学会のように日蓮正宗の信者集団だったんですけど、日蓮正宗から解散処分を受けています。顕正会は創価学会と敵対していて、信濃町にある創価学会本部を襲撃したこともあるんです。会長の浅井昭衛という人は『日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』という本を出しています。日蓮の教えを日本の国教にするのが目的です。
 それから、法の華三法行は足裏診断をしたり「最高ですか」なんてやってました。1987年に宗教法人として認可されましたけど、詐欺罪で福永法源は逮捕され、事実上、解散しています。

 このような団体が次から次への生まれてきているんです。自己啓発セミナーだとかマルチ商法も新宗教と似たところがあります。
 マルチ商法の円天というのは健康食品や健康器具を売ってたんですけど、疑似通貨を発行したのが破綻して、結局は破産したんです。代表が詐欺罪で捕まりました。でも、円天のメンバーはニコニコしていて、決して被害者には見えない。何でかと言うと、円天ではサークル組織みたいな共同体になっていたからです。
 マルチ商法は金儲けだけやってるとマスコミは書くんだけど、マルチ商法というのは親がいて、子がいて孫がいるから、濃密な人間関係になるんですね。「今日は雨が降ってて売れなかった」と言うと、「がんばれ」という感じでやっている。
 そういうことから言うと、幼児教育グループとか自然食品グループも同じところがありますね。宗教ではないけど、自然食品じゃないと病気になるとか、0歳から教育したら能力が開発されるとかいったふうに、ある特定の極端な考えを持っています。
 幼児教育グループは若いお母さんがのぼせていて、子どもの脳の開発はこれだとのめり込む。そういう人がエスカレートして極端な宗教団体に走っていく可能性は、これからどんどん出てくると思います。
 マスコミが取りあげるのは、大きくなって問題を起こしてからなんですよ。でも、その前の段階で新しい団体が次々と生まれているんです。

  5、なぜ宗教に入るか

 宗教に入信する理由は何かというと、以前は貧病争でしたよね。僕は今でもあまり変わっていないと思うんです。新たな貧病争だと思っています。
 貧困とは精神的な貧困です。お金はあって、贅沢はできないにしても、そこそこ暮らしてはいける。でも、心が貧しい。何か空しくて、充実感がない。それとか、生き方が見つからないとか、居場所がないとか言ってる若い人が多いんです。
 そして、「超能力がほしい」と思ってる人も少なくないんですよ。自分は何かすばらしい能力を持っていて、それを見つけたいと思ってるんですね。その一つが、修行によって解脱体験をすることです。解脱といっても本当に悟ったということじゃないんです。超越した気分になれたらいいというものです。
 病気は、特にぜんそくとアトピーです。子どものぜんそくとアトピーで悩んでいるお母さん方が多いんですよ。それで宗教に頼るようになる。
 西洋医学ではどこに行っても治らないと。ワラをもすがる思いでマイタケエキスを飲むとか、いろんな健康食品を試したり、健康法をやってみたりしても、どれもうまくいかない。新聞広告を見ると、こうしたら治るとある。宗教は嫌いでも、とにかくやってみようと思って、という人が多いですね。
 それから争。嫁姑だけでなく、人間関係全般の問題です。親子関係、会社の人間関係。それから人間関係の希薄さということがあります。昔は大家族だったから強烈な争いもあったけど、今は核家族になって争いがないんですよ。口をきかない。

 特に強く思うのは親子関係です。親子の間で会話がないとかね。僕の友達でも「娘が口をきいてくれない」と言ってます。「子どもが何を考えてるかわからない」と。ところが子どもの話を聞くと、「両親は僕のことを一つもわかってくれない」というような人間関係の希薄さ、ズレがある。
 親子の関係さえうまくいってれば、少々変なセミナーにはまったって、また戻ってくることができる。家庭が安全基地みたいなところがあって、子どもが出ていってワルなことをやっても、親子関係がしっかりしてれば戻ってくる。親子関係が基盤なんだけども、その基盤が薄れているんです。そのため家庭とは違う共同体を求める人が相当いるんではないかと思います。
 統一教会の信者に「何で統一教会にいるの」と聞いたら、「暖かいから」と言うんですよ。ビデオセンターに行くと、「お帰んなさい」とニコニコして迎えてくれる。自分を受け入れてくれる。その信者の話だと、自分の家に帰っても「お帰りなさい」と言われたことがないそうです。ところが、統一教会じゃ挨拶してくれて、暖かい感じがすると言うんですね。
 ある大学生に聞いたら、その子は摂理というキリスト教系の団体にはまりそうになっていたんですけど、毎日がつまらないんだそうです。授業は退屈。サークルも遊びのサークルしかない。表面的な話しかしないと言うんですよ。真面目なことを話す雰囲気じゃない。「どんな生き方をしたらいいのか」というようなことを話そうとしたら、「お前、マジ? 暗くない?」となるんですよ。
 僕が高校のころは、「人生、どう生きるべきか」なんてことをよく話したもんですけどね。武者小路実篤とかを読んで、恋愛とは何か、人生とは何かを話したけれど、今の大学生がそんなことを言ったら、「ウザイ」と冷やかされるだけです。

 夫婦の間でもそうでしょう。たとえば、妻が子育ての悩みを夫に相談したいのに、夫は聞いてくれない。そうすると、自分を理解してくれる人がほしいと思いますよね。自分の心の内面を話せる場所がほしくなるんです。そして、より確かなものを求めたい。そういうところに「人生の目的はありますか」とか言って勧誘してきて、話をちゃんと聞いてくれたら、自分の気持ちをわかってくれる気がして、その宗教に行くようになるわけです。エホバの証人だと、「理想の家庭づくり」という冊子を持って訪問伝道をしています。
 お金の問題よりも、人間関係の希薄さですね。共同体、新しいコミュニティを求める気持ちが非常に強いんじゃないかと思うんです。そういうことから宗教に入っていくんですね。

  6、どんな人がはまるのか

 じゃあ、どんな人がはまるのか。若者の場合は第一子が多いですね。これはどういうことかというと、最初の子どもというのは親も子育ての仕方がわからないので、自分の思いどおりに子どもを育てようとする。親の気持ちが前面に出るから、子どもに「こうしなさい」とつい言ってしまうんです。
 僕には三人子どもがいるんですけど、三番目は面倒くさくなってくるので、上の子に比べるとほとんどあれこれ言わなかったですね。ところが、一番上の子にはとにかく手をかけたし、気をつかいすぎた。
 そういうふうに育った子どもは、素直ないい子になるんですよ。オウム真理教に入ってるのは、みな「あのいい子が何でオウムに」でしょ。「あのいい子」というのは、親から見たいい子なんですよ。親に逆らわずにずっと来た素直な子、親の期待どおりに育ってきた子が、親にとってのいい子なんですよ。親の思いどおりに育ったいい子です。
 ところが、オウム真理教みたいな教団に入ったとなると、親は「やめろ」と言ってケンカになるじゃないですか。親子が一緒の道を歩んできたと思ってたのに、オウム真理教みたいなところに入る。「あんな道に外れた教団にうちのようないい子が入ったのは、きっとマインドコントロールされているに違いない」と、こんな言い方になるんです。「今まで親に逆らったことのないのに、こんなになって。やっぱりオウムは悪いところだ」となっちゃうんですね。
 そうじゃないんですよ。子どもは親から自立しようとして離れて、たまたまオウム真理教に入ったけれど、それは自分の意志なんです。なのに、親が頭ごなしに「やめろ」と言うからトラブルになる。
 そういう素直ないい子がはまることが多いですね。高校のころから酒やタバコをやるという、あまりよくない子はそんな宗教に入っていないみたいです。
 いい子と言われてきた子どもは親を喜ばせるいい子になろうとしてきたんです。いい子でないと、家の中に居場所がないと感じる。生きるのがしんどくなってくるわけです。そんな時に勧誘されて家とは違う共同体に行くと楽しいんですよ。
 子どもが大人になる通過儀礼としての共同体というのがあるんです。家という共同体や地域共同体とは別に、若者の共同体が昔はあったんです。ところが、最近はそういう共同生活をする場が少なくなってるんですね。だから余計にはまりやすくなっているんです。

  7、なぜはまるのか

 皆さん方の中で霊が存在していると思っている人はどれくらいおられますか。2005年でしたか、北海道大学の学生に「霊魂は実在すると思うか」と質問したところ、四割の学生が霊の実在を信じていました。
 ここがポイントなんです。霊的なことの話を聞いても、霊魂の存在を信じているかどうかで、その話を受け入れるかどうかが決まってくる。霊を信じてる子どもだったら、「なになに、どういうこと」と興味を持って聞いちゃうんです。

 もう一つのポイントは、誰がこの世を動かしているんだろうと、疑問に思うかどうかです。僕なんかは政治家がこの世の一部を動かして、それから社会団体やマスコミもある程度動かしてと、会社組織など社会を動かす作用はいろいろあると思ってます。
 だけど、そういうふうには考えずに、何か超越的なものがこの世を動かしているんじゃないかと思っている人がいます。私の人生を決めている何かがあるんじゃないか、人間の運命を左右する、そういう力を持つものがあるというふうに考える子どもが多い。
 たとえば、顕正会はバチと功徳を説きます。悪いことをするとバチが当たる、いいことをすれば功徳があると。顕正会に入っている社会人の子どものノートを親が盗み見したら、こんなことが書いてあったというんです。「今日は会社に遅刻しそうだったけれども、タクシーが目の前にとまったので、タクシーで会社に行き、遅刻せずにすんだ。これは顕正会を信じてる功徳だ」
 笑うでしょ。だけど、すべてこのようにバチと功徳で考えるんですよ。誰かが怪我をしたら、顕正会に入らなかったからだとか。取るに足らないことでも、顕正会を信じた功徳だとか、バチが当たったと思い込んでいる。

 それから、神秘的な体験も大きいですね。オウム真理教では修行によって解脱体験をします。修行をしてたら違った世界が見えてくるんです。これを精神医学の言葉では変性意識体験と言います。
 たとえば、五体投地をずうっとやっていたらいろんな鮮やかな色の光が見えたりとか、幽体離脱といって、自分の魂が肉体から抜け出て上から自分を見るという体験をしたりするわけです。水道の水がゆっくり落ちていくので、一滴一滴が光って見えるとか、音楽を聴いていても、その音楽に溶け込んだような気がするとか。それは脳の働きで神秘的な体験をするだけのことなんですけどね。
 麻薬をやるとそういった幻覚を見ることがあります。オウム真理教では解脱体験を早く経験させようとして、イニシエーションといって、麻薬を使って解脱体験をさせていたんです。
 解脱体験といっても、それがずっと続くわけではなくて、せいぜい数分、数十分のことなんです。だけど、神秘的な体験をすると、これは本物だと思うんですよ。自分が今まで経験したことのない体験だから。これこそが真実の世界なんだと。脳の働きでこうなったんじゃない、リアルの体験なんだと思うわけです。それで、変性意識を体験するとなかなか抜けられないんですね。

 統一教会は修行をするところじゃないんですけど、神体験という言葉を使います。神と対話したとか、そういう神体験を信者たちは経験しているんです。
 ある人は「神は本当にいるんですか」と訴えたら、「いるよ。ここに」という声が聞こえたというんですね。「本当ですか」と聞いたら、「本当だ」と答えたんだそうです。別の信者は統一教会をやめようかと悩んでた時に声が聞こえてきたと言うんです。「お前も裏切るのか」という声がして、ぱっと目覚めて、今も支部長をやってます。

 ヤマギシ会では七泊八日のセミナーがあるんです。特講と言ってるんだけど、これはすごいですよ。変性意識だらけでね。僕も参加したんだけど、ある人の場合、太陽が身体の中に入ってきたそうです。それでこれは本物だと思っちゃうんです。変性意識体験にすぎないんだけどね。
 踊る宗教の北村サヨさんもそうだと思います。姑にいじめられ、重労働で苦労している時にぱっと神の啓示があったんじゃないですかね。金光教や天理教などの教祖も苦しみの極限の中で神の言葉が聞こえてきたんです。
 福永法源さんもそうです。会社が倒産してどうしようかという時に、天の声が聞こえて、「立て」と。そうして法の華三法行を作って、計千億円以上のお金を集めました。それだけパワーがついたということでしょうね。

 霊の存在を信じるということと、誰がこの世を動かしているか、誰が私の人生を決めているか、こんなふうに思ってる人ははまりやすいですね。自分の人生はこんな人生ではなかったはずだ。もっとすばらしいはずだったのに。誰かが邪魔しているのか。悪霊か。だったら除霊しよう。お祓いしてもらおう。そういうふうになるんです。

  8、どこが問題なのか

 新宗教や新々宗教のどういうところが問題なのかというと、宗教は救いを求めてきた人に応えるものだと思うんですね。心の救いを求めている。自分はどう生きたらいいのだろうかとか、人間関係の希薄さがあって、そこでどうしたらいいのかといったことに応えるのが宗教です。
 グループでそういうことを話し合っているぶんには全然問題ないと僕は思うし、オウム真理教で修行しているのは別にかまわないと思うんです。修行だけやってればね。
 ところが、宗教で一番問題なのは救いを求める人を裏切ることです。その人たちが求めていることには応えず、サリンを製造させたり、高額な献金をさせるための尖兵にしたり、正体を隠して伝道勧誘させるとか、そういうことをやらせるのは問題です。上からの命令でやらされて、宗教団体の一つの駒として使われるとなったら、宗教の裏切りですよね。
 医者とか弁護士もそうです。病気を治してもらおうと思って病院に行きますよね。ところが、医療過誤になった場合は救いを求めてきた患者を医者が裏切ったことになります。医療過誤は裏切り行為です。
 弁護士さんに依頼するのは社会関係とか人間関係を適切なものにしてもらいたいからです。借金を返してくれないとか、離婚とか、そういう社会関係や人間関係を直してくれるのが弁護士です。ところが、弁護士には懲戒請求が非常に多いんです。あまり新聞沙汰にはなりませんけど、弁護士に裏切られた人はすごく多いんですよ。
 そして宗教。悩みからの救いを求めて来る人を裏切って傷つけるのは宗教団体として許せないことです。

 じゃ、どういう問題があるかを具体的に言うと、まずは高額な献金を続けさせること。一回こっきりならまだいいんですよ。献金を繰り返す。これでいいということがなくて、エンドレスになってるんですね。
 その昔、近所の人で世界救世教にはまった人がいるんです。二百万円払ったとか噂になりますよね。ところが、全然うまくいかなくて創価学会に変わったりして、またお金を使う。そういう人を「宗教渡り鳥」と僕はよんでいるんです。いろんな宗教を渡り鳥のように移っていく人がいます。

 それから、正体を隠しての勧誘と、過剰な勧誘。統一教会や親鸞会など、問題を指摘されている宗教のほとんどは正体を隠して近づいてきます。本当は勧誘が目的なのに、その宗教の名前を出さずに隠れ蓑を使って勧誘します。たとえば、『歎異抄』の勉強会、ボランティアサークル、ヨガ教室、講演会などに参加してみないかと誘うわけです。
 小中学校の生徒名簿は今は作られていないはずです。セールスや勧誘に悪用されたからなんですけど、顕正会も名簿を使って勧誘してました。高校生の信者が生徒名簿や卒業名簿で片っ端から電話して勧誘したので、高校生の間に顕正会が広まったんです。「近くまで来たんだけど、久しぶりに会わない?」と誘って、ファミレスに連れていって勧誘する。顕正会の勧誘は過激なので、帰ろうとすると「待て」と無理強いして暴力沙汰になる。傷害や暴行で逮捕された信者もいます。

 子どもへの強要という問題もあります。児童への精神的虐待です。自分の信じる宗教を子どもに押しつける。エホバの証人は子どもにとことんやります。
 エホバの証人の教えを簡単にいうと、エホバ(神)とサタンが戦いをしていて、ハルマゲドンがもうじき来るというのが前提なんです。終わりが近い。エホバがサタンを滅ぼして地上の楽園が訪れると言うんですけど、ハルマゲドンを生きのびて楽園での生活を楽しめるのはエホバの証人だけです。だから、一人でも多くの人を信者にして救おうというので熱心に伝道訪問するわけです。
 聖書の言葉を文字どおり真実だと考えているエホバの証人は、この世はサタンの支配下にあるから、サタンに毒されている、だから異教徒とは交わってはいけないと教えています。友達と遊んじゃいけない。お誕生会に誘われても行かない。部活もさせない。テレビもだめ、アニメもだめ。だもんで友達ができない。これが子どもたちにはつらいんですね。
 それとか異教の行事はしてはいけない。七夕はだめ。クリスマスはだめ。年賀状はだめ。おまけに、「私はエホバの証人ですから、七夕には参加できません」とみんなの前で言わないといけない。これを徹底してやってます。
 親戚の結婚式や葬式にも欠席する。親戚の墓参りをしない。それに、ハルマゲドンが近いからというので、子どもを大学に進学させる家庭が少ない。創価学会でも二世教育をやってるけど、エホバの証人ほどではないです。

 そして、恐怖心を煽ることも問題ですね。要するに「地獄に堕ちるぞ」というやつですね。これはエホバの証人がそうなんですけど、親鸞会や統一教会なども地獄で脅しています。
 親鸞会は最初に入ってきた人に地獄のイメージを徹底的にすり込むんですよ。地獄をリアルに説くので恐怖を感じるわけです。じゃあ、地獄から救われるためにはどうすればいいかというと、高森顕徹の講話を聞き続けることになっています。そうやって不安感を煽って脅す宗教はおかしいと思ったらいいです。
 エホバの証人の子どもたちは、ハルマゲドンが来る、エホバの証人じゃない人は地獄に堕ちると脅されて育ったから、脱会して十年以上たっても地獄の呪縛からなかなか解放されない。他の宗教団体でも、脱会したあとにも影響が残って、情緒不安定になる人が多いです。子どもに信仰を強要する宗教はよくないですね。

 ほかにも問題点はいろいろあります。だからといって、あまり神経質になるのもよくない。危険なのは異質物の排除ということです。マスコミや世論がそうじゃないですか。「カルト、だめ!」となってるでしょ。だけど、カルトとは何かというとよくわからない。どこがどのようにいけないのかを言わずに、とにかくカルトだからと社会的に排除するようになっている。
 親も、普通が一番いいとか、世間体が大切だということにこだわりすぎる。そのため、子どもに悩みがあって何かにすがろうとしたら、「それは世間体が悪いからやめなさい」とか「危険だ」と言って排除しがちなんですね。
 僕はそうは思ってなくて、いい宗教の中にも悪いところがあるし、悪い宗教の中にもいいところがあるはずだから、そこを白か黒かで分けるのではなくて、きちんと見分けていって、子どもや孫が何か言ってきたら、それをよく聞いて、何が問題なのか、何を求めているのかを考え、理性的に対処するほうがいいんじゃないかと思ってます。
 現代では悩みが既成のシステムでは救われなくなっているんです。既成宗教ではなかなか救われにくいと感じているから、小さな宗教的組織や精神世界を提供するところに行くようになる。占いや除霊をするといった小さな団体がこれからどんどん生まれてくるだろうし、会社に忠誠を尽くすだけじゃなくて、会社とは別の共同体、会社に通いながら違う場を求める社会になると思います。

  9、知人に勧誘された時にはどうしたらいいか

 僕の家の近所に創価学会の人がいるんですよ。自治会の役員をやっているのでつき合いがあるんだけど、その人から「聖教新聞を取ってくれ」と頼まれたんです。一ヵ月だけ仕方なしに取りましたけど、これは困るんですね。その時、僕はこう言ったんです。「あなたと私の関係は宗教を通した関係じゃないから、宗教は宗教としておいといて、普通の近所づきあいをしましょう。創価学会について議論してもお互いにいやな思いをするだけだから」と。
 もう一人、エホバの証人も近所にいて、勧誘してきたんですね。近所の人に誘われると断りにくいですよね。この人には「今まで友達でいたのに、エホバの証人に入る、入らないでぎくしゃくするんじゃつまらないから、今まで通りのつき合いをしませんか」と言いました。関係を続けていくためにはそういう言い方しかできませんよね。
 その人たちとは今でも普通につき合っていますよ。挨拶もちゃんとするし、世間話もする。対応を間違えると、いろんな宗教がいっぱいあるからケンカになっちゃう。下手にトラブったらそれこそ関係が切れちゃいます。

  10、子どもが入信したらどうすればやめさせることができるか

 僕は自分の著書に家の電話番号を書いています。だから、相談事の電話がいっぱいかかってくるんです。「Aという教団に入ったんだけど」という相談には、Aという宗教にはこういう問題点があると調べることはできます。そしたら必ず「じゃあ、どうしたらやめさせることができますか」と聞かれるんですね。これは難しい。
 もしも僕の子どもがと考えてみると、子どもとは何でもしゃべれる関係をまず作るということですね。
 いろんな宗教団体があるんですけど、その問題点を僕は指摘できます。問題点があるということはどこかに矛盾があるからです。それに気づかせていくのが第一歩です。そのためには関係ができていないと、問題点を指摘しても耳に入らない。
 恋愛と一緒です。一時期わあっとのぼせると、あばたもえくぼで、問題点が見えてないんですよ。そんな時に何を言っても耳に入らない。皆さん方でも結婚する時に、相手のあばたは見えなかったでしょう。それと同じように、ある宗教にのぼせている時には矛盾とか問題点は見えないんですよ。だけども、しばらくすると矛盾点に気づくんです。あれっ、おかしい、というのは必ずあるんです。
 統一教会で合同結婚式をしようとした山崎浩子さんの『愛が偽りに終わるとき』という本を読むと面白いんですよ。統一教会を熱心にやってる時でも、おかしいなと感じたと四ヵ所ぐらいに書いています。のぼせて熱心にやっている時期が収まると、おかしいなと気づくようになるんです。必ず疑問点が出てくるんです。
 統一教会の人でも、かなりの信者がおかしいなと思ってるんですよ。ところが、親が頭ごなしに「統一教会はいかん」とか「オウム真理教はだめだ」と言ったら、それで終わっちゃうんです。
 ただ「やめろ」と言ったって、やめません。それは無理なんですよ。せっかく自分で選んだんですからね。ある宗教団体に入るというのは結構勇気がいるもんです。そこに飛び込んでいったのを「やめろ」と言っても無理なんですよ。
 それに、その教団に熱中しているうちに教団以外の友達がいなくなる。人間関係を作って縛るからやめにくいということもあります。それとか、統一教会やエホバの証人では、反対する家族はサタンの手先だということになっているから、言うことを聞かないんですね。顕正会でも親や教師が反対するのは正法を妨げる魔障だと教えてるので、いくら説得しても耳を傾けないんです。
 でも、家族で話ができる関係が作られてたら、「今日こんなことを言われたんだけど、ちょっとおかしいと思った」と家族に言ったりします。そしたら、「そりゃそうだね。おかしいよね」となる。そして、「そこをもうちょっと考えみたら」と言うことができるわけです。そのうち「また献金を要求されたんだよね。これおかしいね」と言ってくる。「じゃ、その献金は何に使われるんだろう」というふうに聞く。「俺も知らない」「だけど、そんなにいつも献金してて、いったい何に使うんだろうね」と疑問点を考えさせることができます。そういうことが続いていくと自然に退会しますね。
 何でも話せる関係を作る。もし家族で話ができないのなら、子どものことを理解するような人に頼めばいい。すぐに反対するんじゃなくて相手を受け入れ、一回聞いといてから、「このあいだ言ってたことが疑問なんだけど」と返していく。そうやってると、子どもも相談してくるようになるんです。頭ごなしに命令するんじゃなくて、そこに至るまでの動機を聞いてあげてね、そして悩みを話してもらう。それから「どうしたらいいのかな」というふうに持っていくしかないと思いますね。

 基本になるのは、どんなに主義主張が違ってても、親子、夫婦で話し合えることだと、僕は思ってるんです。でも、これが一番難しい。宗教をやめさせるのよりも、そっちのほうがもっと難しいかもわからない。心の内面をお互いに打ち明けるのは家族であっても難しいですよ。
 人との関係を築けるかどうかだと思うんですね。関係を築いていなかったら、入信した子どもがその団体をやめたいと思っても、家には戻ってこれない。オウム真理教の事件があってから、地域住民が「オウムは出てけ」とやったじゃないですか。すると、オウムの信者が「どこに行けばいいんですか」と質問したんです。そしたら、ある大学の先生は「親のところに帰ればいい」と言ったんだよね。
 あちこちを転々とするよりも親の家に帰るほうがいいと思うでしょ。そうじゃないんです。親がいやだからオウムに行ったんです。なのに、なんでまたいやなところに帰らなきゃいけないの、ということなんです。親子関係がどうしようもないから逃げたのに。
 自分の家がいやで、家庭に居場所がなかった。ところが、向こうは暖かいから、そっちにいる。それなのに親は子どもの気持ちを考えずに取り戻そうとする。おかしな話です。どうしてかというと、親は自分のほうに原因があるのに、その原因を変えようとしないわけですから。親が変わろうとしないのに、子どもに「帰れ」と言っても無理なわけですよ。親子関係が原因の一つになって家を出ていった場合には、原因を変えないで「帰ってこい」と言うのは虫がよすぎるんです。

 そうはいっても、親はなかなか変われないんですよ。いい歳して今さら変われないでしょ。だけど、親が変わろうとする姿勢を見せることですね。子どもは変わろうとする親の姿勢を見てるんです。子どもとうまく会話できなくても、話を聞こうとする姿勢を見せることです。子どもは親をよく見てる。親が今までとは違うことをやろうとしてるなとわかる。それで子どもは心を開きはじめます。
 僕がいつもたとえとして話すんだけど、「ホ、ホ、ホタル来い。こっちの水は甘いぞ。そっちの水は苦いぞ」という歌があるじゃないですか。こっちの水とあっちの水とどっちが甘いかなんですよ。家庭の水が甘いのか、向こうの団体の水が甘いのかという、綱引きみたいなところがあるんです。一時期は楽しかったけども、でも家のほうがいいよなと思ったら帰ってきます。家という安全な基地、拠点があって、家族の関係がしっかりしてれば、子どもが少々変なところに行っても、また帰ってこれます。妻と夫との関係もそうだと思います。

 ある人から「女房が統一教会に入ってることがわかった」と相談があったんです。奥さんがご主人に隠れて統一教会に入ってたわけです。そして、ご主人のお金を献金してたんですよ。献金総額を調べてもらったら、合計千三百万円。子どもの保険を解約してるし、もう滅茶苦茶です。笑い事じゃない。ご主人と僕が統一教会に乗り込んでいって「金を返せ」とやったら、一千万円返してくれることになりました。
 奥さんの話を聞いたら、ご主人は会社から帰るとテレビばかり見ていて、奥さんとの会話がない。奥さんとしてはつまんない。「今日、こんなことがあったのよ」とか話をしたいじゃないですか。奥さんは家庭に居場所がないと感じていたんです。それに、子どもの将来とか、自分がガンになったこととか、いろんな不安が重なってたそうです。
 そんな時に街を歩いていたら、アンケート勧誘をしている人がいて、その人に連れていかれて、そこではまってしまい、ご主人のお金まで献金しちゃったということなんですね。ご主人と会話があって、こんな悩みがあるんだけどと話ができてれば、仮に統一教会に入っても、そんなに献金する前におかしいと気づいただろうに。
 この奥さんはまだ統一教会に入ってます。ご主人は脱会させたいわけです。だけど、脱会させる方法なんかないですよ。ご主人が変わらなきゃいけないことははっきりしているけれども、なかなか変われないんですね。僕は「奥さんが話をしたいんだから聞いてあげたら」と言うんですけど、それができない。
 このあいだ、ご主人と奥さんとが旅行に行ったんです。統一教会に行くよりも、ご主人と旅行するほうが甘い水になれば徐々に変わってくるんじゃないかと考えて勧めたんです。
 あとでご主人に話を聞いたら、奥さんがしゃべるのに受け答えするのが面倒だと言うんですよ。何十年もそうやってきたから、今さら奥さんの話を聞いて相づちを打つなんてことができないんですね。だけど、本当にやめさせたいんなら、自分が変わらざるを得ませんよね。
 僕がご主人に言ったのは、無理に脱会させることはしないということです。ただし、問題行為はやめさせる。たとえば、正体を隠しての勧誘はしない。高額献金はしない。奥さんがパートで働いて、そこからいくらか献金するのは奥さんの自由です。そういうことを言ったんです。
 僕は問題行動を起こさず、日曜礼拝に行ってるぶんにはさして問題はないと思ってるんだけど、ご主人は気持ちがすっきりしないんじゃないかな。妻は夫の言うことを聞くもんだというのがあるからね。それに、夫である自分よりも文鮮明(統一教会の教祖)のほうがいいというのはプライドが傷つくし。
 家族を大切にし、退会させようとするんなら、家族の関係を見直すしかない。そのための指針は信仰でも何でもいいんだけど、軸になるものがあって、自分を見つめて一歩ずつ変わっていく以外にないんじゃないかと思っています。どうもありがとうございました。
(2010年4月20日に行われました釈尊降誕会でのお話をまとめたものです)