真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  米村 保樹さん 
    「生きること、生かされていること 
      ―何とかなるさ人生は・・・楽天思考の勧め―」
 
                              2003年7月26日

 私は男の子三人の親ですが、結婚が遅かったもんですから、一番下の子は38歳の時の子です。今年49歳になりまして、定年まであと十年。となると、下の子が大学出る時、定年で失業しちゃうわけですね。
 だいたい私は無頓着な人間です。何とかなるさと思って生きています。それがちょっとあせりましたね。50歳が目の前に迫った時に、えっと思ったんですよ。
 その時に、いろいろ考えたんですけどね、やっぱりいらんこと考えちゃだめですね。いらんことでしたわ。考えたからといって解決するもんじゃないということに気がつかなかった。

 私の今までの生きざまをお話しさせていただきます。
 私は小学校の時にはひと月まともに学校へ行った月がないんです。虚弱体質っていうんですか、身体が弱かったんです。すぐ風邪ひいたり、熱出したり。男の子にはそういうタイプが多いみたいですけど、その典型的なもんでして、小学校時代の友人に言わせると、僕が一生懸命遊んだ次の日、「こいつ、絶対休むぞ」と思ったというくらい、弱かったんです。
 中学校の時に体操部に誘われまして、入部したんですが、初日に跳び箱を跳びそこねて、腰を打ったんです。腰が痛くて病院に行ったら、コルセットです。それからコルセット生活が始まったんです。夏の暑い時もずっとコルセットをしめてました。だから激しい運動もできない。腰は痛い。
 で、高校になります。親父が転勤族だったもんで、あちこち学校を変わる。弱い子だったもんですから、いじめによく遭う。

 ただ、根が馬鹿なほうですから、そんなに真剣に考えてはいなかったんですが、高校で一回目の休学をやった時です。ギブスベッドというのがありまして、ギブスの中に身体を入れて、動けないようにテープするんです。これ、しんどいんですよ。成長過程ですから、まだ大きくなっているだろう時に、それをやった。
 その時にお医者さんにもらった薬が、「これを二十錠以上飲んだら死ぬからな」と言われたほど強い薬だったんです。それぐらい痛みがひどかったんでしょうけど。
 で、思いましたね。これ飲んだら死ねるんだと。高校生っていうのは子どもですが、そういうの考えられるんです。死を考えました、その時に。
 またちょっとよくなって、次に観音高校に転校しました。体育祭の準備の時にまた、人が首に落ちたのかな、その後、腰がおかしくなった。で、もう一年休学になりました。
 この時すごくショックが大きかったのが、二年休学しますと、後輩が先輩になっちゃうということです。一回目の休学の時は、私は早生まれなもんですから、まあいいや、同じ学年になったと思えばいいやと。だけど、二回目はすごいショックだったです。

 ただ、県病院の先生だったんですが、「米村君、まだ若いんや。若いのにここでコルセット生活をやると、一生コルセットやるよ。コルセットはずしなさい。過激な運動はいけないけども、運動しなさい」
 こう言われたんです。これがまた難しいんですね。どっから過激かがわからない。でもその時ね、目から鱗が落ちたんですよ。
「あ、おれ、コルセットはずしても大丈夫なんだ」
 それと、
「生きていていいんだ」
 これはちょっとオーバーなんですが、普通の人と同じように生きていいんだと思うようになったんです。それから生きざまが多少変ったかもしれません。

 それと二回目の休学がとける前です。私の伯母があるお寺の仏教婦人会の会長をやっていたんですが、私、休学中ずっと寝てましたんで、その伯母が今度日曜学校があるから行ってみないかと誘ったんです。
 日曜学校ていうのがよくわからなくて、外国映画なんか見ると、教会の日曜学校に行くというのをやってますよね。そんなのかなと思って行ったんですよ。だったら子どもばっかりなんです。そして子どもらの前に、仏教青年会というのがあるんですが、そこの連中が立っていたんです。即、勧誘を受けて、その仏教青年会に行くようになりました。
 お寺が何かもわからない。仏教が何かもわからない。ただその人らが楽しそうにやってる。一緒に話しないかということで行きだしたんです。
 私はそのころ、仏教というのははっきり言って迷信だと思っていましたんで、何とも思わず、ただサークル活動的なつもりで行ったんです。
 そこで親鸞聖人の本に出会いまして、あまりにもすごい生きざまにすごいショックを受けて、それからずっと仏青に通って、真宗学の勉強を始めたわけです。

 その時気がついたんですが、なんのことはないですね、自分じゃどうしようもないことがいっぱいある。世の中には自分じゃどうしようもないことだらけなんだ。で、自分の煩悩を切り離す力を自分は持っていない。ある程度律することはできるんでしょうけど。そういうことに気がついてきたんです。
 そうすると、ものすごく人生が楽になったんです。それが「何とかなるさの精神」になったんですね。楽天的になったんです。

 よくね、若い人らと話していると、みんな決めてかかるんです、物事を。で、「こうなったらどうしよう」とか「これが心配なんだ」と言うんですね。
「なんで? お前、心配してよくなるのなら心配せい。心配してもよくならないことは心配する必要がないよ」
 これを言い出して、私、ものすごく人生が楽なんです。たしかにいろんな障害にも遭いますし、いろいろ考えていかないといけないこともありますけども、そういう生きざまっていうのがいかに楽か。
 これは仏教で教わったことです。特に浄土真宗の親鸞聖人が言っている凡夫という考え方ですね。凡夫だからできないとあきらめるんじゃなくて、できないものはできないとして認めることだと思うんです。そこから人生が変ったかなあという気がしますね。

 大学には七年行ったんですが、中退しました。中退する前から叔父の会社に行ってたんですが、そのまま勤めまして、叔父の会社を1992年に辞めたんです。なんでか。これは息子が帰ってきたからです。私にとって従兄弟ですね。従兄弟は私の部下になるんですが、社長の叔父とは親子です。親戚ですから、かえって難しい、辞める時期が来たら辞めようと思っていまして、すぽーんと辞めました。そしたら、プルデンシャル生命保険という会社からリクルートされたんです。
 行ってみてね、びっくりしたんですよ。個性のかたまりの集まりなんです。いろんな業界のトップセールスを集めてるんです。だから、一からの教育がいらないんです。売れるやつはどこ行っても売れるという単純な理論でかき集めているんです。アメリカ並みの考え方です。
 で、会社の規制がないんです、ほとんど。だから、みんなが個性が出せるんですよ。物事というのは大局的に見たら、すべて個性なんですね。枠からはみ出ているかどうか。これは個性なんです。
 変ったやつばかりなんですよ。これは不思議なんですが、みんな自分はノーマルだと思ってるんですね。
 私はノーマルなんです。変ったやつの集まりやなあ。そう思ってたら、私も言われました。変ったやつらしいんです。
  私が「高校5年行った」と言うと、「あ、勉強好きだったんだねえ」って。「大学は7年行った」と言ったら、「まだ好きだったんだねえ」って。
 これ、私にとって自分の人生ですから、個性なんですね。べつにみんな迷惑かけているわけでもないし、私の人生、変えられないわけです。
 5年行った、7年行った、私には全然普通なんですが、人が見るとおかしいと思う。みんな枠にはめる。普通、高校は3年で出るもんだ。たしかにそうかもしれないです。5年で出たら、もうおかしいんです。
 だけど、おかしいと思うことがおかしいんじゃないかと思いだしたんです。

 近ごろ思うのがですね、そういう既成概念が強いなと思うのが、逆境におかれた方だと思うんです。
 あしなが育英資金ってご存じですか。もとは交通遺児の活動だったんですが、今は震災遺児、それから自死遺児、要するに親が自殺された方、そういう奨学金を受けておられる方の集まりにあるきっかけで、5年前から行かしてもらうようになったんです。
 もともと夏の集いというのをやっておられたんですが、私どものグループがお金を寄付することができたんです。で、そのお金を使って春にも集まろうということで、春風フェスタというのやったんです。
 その時、私どもがスポンサーだったもんですから、呼んでいただけたんです。私どもはオブザーバー的に一緒に参加するだけです。
 そこで何をやるかと言いますと、まず仲良くなるためのゲームをやったりなんかする。で、最終的には自分のおかれている現状を直視させようとするんですね。何をやるか。親が亡くなったことをどう思っているかという話をする。
 重たいですよ。いやんなります。2年目は絶対に行かん。俺が行ってもなんにも役にも立たん。俺はまだ親を亡くしていない。経験もないのに意味ない。絶対行かんと言よったんですが、2年目はスポンサーがいないにもかかわらず、遺児たちが自分らで冊子を作り、その冊子を販売することによって、また集いをやったんです。

 呼ばれたんです、私は。最初は横断的な生命保険会社でやったんですが、プルデンシャルだけ呼ばれたんですね。で、スタッフではなくて、参加者として行くわけです。お金もって、会費払って。
 「なんで? 俺ら行っても役に立たないじゃん」と言ったら、リーダーというのは大学生なんですが、彼らがすごくそれを欲しているんですね。なぜか。彼らはまだ経験がない。それと、お父さんを亡くした子が多いんです。大人の男性と話す機会が少ない。結局、彼らは求めてるんですね。
 で、5年やってるんです。私は5年間ずっと三日間のスケジュールのラストまでいます。

 ここんとこ増えてきたのが、親を自殺でなくした子です。すごく多い。みんなすごく自分を責めているんです。
 ある子は、僕が出かける時、父親に話しかけていれば、父親は死んでいなかったかもしれない、そう言って自分を責めるんです。そんな子の集まりです。
 彼らが最終的に言うのが、「幸せになってもいいの」ということです。その子らがですよ。高校生が。「ぼくら幸せになってもいいの」と言うんですよ。ものすごくショックでした。
 ある子はお父さんとちょっとしたことで仲違いして、お父さんと口をきかなくなった。そのお父さんが自殺された。私がお父さんに優しくしなかったから、お父さんは死んだのかもしれない、とずっと自分を責め続けている。
 その集まりでは、言葉に出すことによって直視させようとしているんですが、その子にとってはそのことが耐えきれないわけです。
 さすがに私もたまらなくなりまして、
「それ違うよ。親は子どものことをどこまでも許せるよ。あなたがそうやってお父さんのことを思ってることを、お父さんは喜んでいると思うよ」
と言ったら、その子は大声で泣き出したんです。
 そこで考えたんです。私は自分の子どもをそうやって優しくしてるかなと。

 私のことはともかく、彼らに言葉にすることによって直視させるのはですね、人間て、直視しようとしなくて避けようとするけど、結局は引きずっているから、解決にも到らないし、けじめがつかないんだと思うんですよ。
 直視すると、いろんな解決策があることに気づいたり、あきらめが出たりすると思うんですね。あるいは、直視しようと何べんか試みることによって、壁が破れることもある。
 避けることによって、逆に重くしてることっていうのは多いように思いますね、特に精神的なことは。
 さっき言いましたように、僕は自殺を真剣に考えたことが何べんもありますんで、逃げは解決につながらないとわかっています。たしかに自分の消滅ということでは、その場から逃げられるんでしょうけど、それは意味がないということはよくわかってます。

 私は普段何をやっているかというと、お寺さんの集まりとか、いろんなところでセミナーをやっているんです。えらそうに前に立って話をしますから、みんな、先生だと誤解するんですよ。だけど、皆さんと一緒なんです。ただちょっと知識を持っているとか、ちょっときっかけがあったとか、それだけの話なんです。
 それをみんな差別してるんですね。人間の心の中で。たとえば、親がいない子を差別する。

 女房と結婚する前に、女房が障害があるようなことを言ったわけです。「私でいいの」って言うから、「なんで」って聞いたら、お父さんを亡くしていたんです。でもそのこと、私には関係ないじゃないですか。ひとりひとり心が違う、考えが違うということです。
 私は人から見ると紆余曲折の人生を送ってますんで、そのおかげで人の痛みというのがすごくわかるんです。思いやってもらったほうですから、思いやりというのが何かわかるんです。

 でも、教育の問題も含めまして、すべて思いやりが欠けているんじゃないかなあ、優しさが欠けているんじゃないかなあと思いますね。今、思いやりを持って発言できる人が減ってません? 相手の痛みがわからない人が増えていると思いません? なんでそういうことが言えるの、みたいなことが。平気になるんでしょうね。
 これは大きく見ると、教育の問題なのかもしれませんが、自分の問題なのかなあとも思います。自分が接したのと同じように、他の人も接してくれるますよね。すると、自分が人とどう接していくかということが問題となります。それの繰り返しが世の中をどう変えるか、ぐらいしか自分にできることはない。
 そういうことなんですね。たかがしれた人生ですけれど、一生懸命生きれば生きるほど、さまざまなことを見聞きして、でも自分のできることは、しれたことしかできないということなんですね。
 つらいことなどおいといて、できることはできること、できないことはできないことと、きちんとけじめをつけていくしかないんじゃないかな、人生は。
 役員やらせてもらったり、いろんなボランティアやらせてもらっているのも、自分でやりたいからです。人との関係をよくしたい、自分が楽しく生きたい、それだけの話なんです。
 そういうふうにラクーに生きてます。私の「楽に生きましょう。とにかく楽に生きましょう」というのが、どこまで伝わったかわかりませんけど、あまり思い悩みたくない。どうせ人生なら、ということです。
 以上で終わります。


(2003年7月26日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです)