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米沢 英雄先生 |
『歎異抄ざっくばらん』 |
救われるということは、生かされて生きておるということが分かることや。
風というのは、風そのものを見ることはできんけれども、風がおこす現象を通じて、風の存在を知ることができるように、具体的なものを通じて、「はたらきそのもの」を我々は察するのや。
親鸞のいう不思議というのは、当たり前のことが不思議なんだ、と。そういう当たり前のことを当たり前とせずして、そこに驚きを立てるというのが、親鸞の生き方でないかと思うんです。
皆、あのようになりたいとかこのようになりたいとかいうのを、迷いという。
私は、親鸞という人は、信仰上我々が陥りやすい落とし穴に、自分で落ちてみて、そしてそこからはいあがってきて、どうしたらはいあがれるか、そういうことを見きわめた人だと思うのですね。
真宗の救いというのは、我々が本当の姿に会うことや。
南無阿弥陀仏の教えを聞くということは、私自身を明らかにすることで、私自身が明らかになったということが、浄土真宗におけるすくいであると、こういうふうに考えられるのではないかと思うわけです。
仏法が分かるということは、今まで当り前にしておったことが、ひじょうにありがたいということになるんだと私は思うんです。
信仰上、途中には落とし穴というのがいつくかあって、親鸞も自分で落とし穴に落ちてみて、そこから這いあがってきて、自分はこういうふうに這いあがってきた、と同じ疑問を持った者にいうことができる。
本願が対象にするのは逆境の人。逆境にある人に、人間に生まれた誇りと喜びを与えたいというのが、親鸞の願いであり、その本願の念仏というのは、そういう逆境にある者にも、人間に生まれたよろこびと誇りを与えるものであり、逆境にある者こそ救われねばならんというのが親鸞の考えであったであろうと、こう思うんですね。
善人というのは順境にある人や。順境にある人はこの世だけで満足なので、そういう人にはこれ以上もう救われるということは必要なかろうと思う。
阿弥陀仏の本願というのが大切なので、阿弥陀仏という仏が実体的にあるのではない。
何かをしても恩に着せずにすむ。
一所懸命はたらいて、それを恩にきせない、それが仏恩報謝の念仏であろうと思う。つまり、空気が、太陽が、心臓がはたらいている、それらが一切我々に恩に着せないじゃないか。少しも恩に着せていない。そういうことが如来大悲というもんだろうと思う。
我が身さえ都合よければ、人は困ろうがどうしようがかまわんのやと、そういうことを極重悪人という。
自分の思いを先に立てて、自分の思いでこの世界を見ておるのを、穢土というんやね。穢土という、けがれた土というのは、自分の思いでよごしているんや。せっかくの浄土に生きていながら、そのせっかくの浄土を、自分の思いでよごしておる。
引き受けていかなければならんものを、業というんだろうと思う。
親鸞さまは、信仰上皆が陥りやすいところに、自分で落ちてみて、そこからはい上がってきて、「自分はこうしてはい上がった」と、こういうことを後の人のために告白しておられるというところが、ひじょうにいいところだと思うのです。
夢は破れんといかん。
生かされて生きておるにもかかわらず、自分の力で生きているように思って、浄土からとび出しておるではないか。
つっかい棒も大地があって支えることができる。支えられていることに気づいて人と成っていく。
親が子に願いをかけているように、子も親に願いをかけている。
どんな平凡な日々でも、宗教心があれば、いつも新しく生きていける。
人の背負えん苦労を自分は背負う、その背負わしめる力を本願力という。
仏法を聴聞するについて二通りある。聞いてだんだん自分の方がよくなっていくのと、聞けば聞くほど自分に値打ちのないことが知られてくるのとの、二通りがある。仏法を聴聞して自分がよくなるのではない。聞けば聞くほど我に値打ちのないことが知られてくる。それが仏法の聞こえようや。
南無阿弥陀仏をいくらとなえても仏法は弘まらん。それはどう生きとるか、その生きざまを見て仏法は伝わるもんやと思う。ただ南無阿弥陀仏いうたって、わしはあかんと思うんや。だから自分がどういうふうに生きているかということが一番大事ことやな。仏法に生きるというのはそういうもんやと思う。
人間だけが生かされて生きておることを知ることができる。これが分かって、初めて人間になれるんや。
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