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吉田 藤作さん
「療養生活五十五年
―ハンセン病をわずらって―」
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2006年8月29日 |
1、ハンセン病をわずらう
こんにちは。ご紹介いただきました吉田藤作です。私は昭和4年生まれの77歳です。ハンセン病をわずらったために、昭和26年に岡山にあります光明園に入りまして、今年で55年目です。
自分は八人兄弟の長男ですけど、上に姉が五人いて、六番目に生まれたんで、みんなに喜ばれて生まれたらしいんですわ。ですから、父親が自分かわいさに、いろんなところへ連れて歩いてくれたりしました。
一番最初、ハンセン病だと言われても、ショックということはなかったです。ハンセン病のことを知らなかったからね。自分の身体が何ともないから、何を言うかなと思って、不思議でかなわなかったんですわ。
だけど、顔が腫れてきて人目にもわかるようになってからは、今まで仲良くしてくれた人が家に来なくなったり、弟や妹が学校の友達を連れてこないようになったから、自分が情けない病気になったんだなあと、つくづく実感しましたね。
自分は初め、足に発病したんですわ。昭和21年のことです。ある時、仕事を終えて作業衣を脱いだら、弟が「これ、何だ」と言うので見てみると、足に豆粒ほどの小さな水疱ができとったんです。痛くもかゆくもないからね、自分じゃわからなかったんです。ハンセン病の特徴は神経が麻痺してしまうから、痛みがないんですね。そしたら父親が、近くに病者がおったからだと思うんですが、顔色を変えて、「お前、何もわからんのか」と聞いてくるんで、「何ともないよ」と答えたんです。
びっくりしました父親が、明けの日、皮膚科専門の町医者に自分を連れて行ったんですわ。そしたら、皮膚科の先生はただ見ただけで、「そんな心配するな。取り越し苦労や」と。その時は見た目では何もなかったんです。その付近は痛みがありませんでしたけどね。
ハンセン病を診断する時、表面だけじゃわかりませんからね、感覚がなくなっているかどうかを調べるために、お医者さんは筆で触ってみたり、試験管の中にお湯を入れて触ったりするんですわ。その町医者はそういうことをしなくて、「心配ありませんよ」と言って終わりです。
医者から「心配ない」言われても、父親は心配しとったんですね、どこでどうして買うてきたのか知りませんけれど、丸薬を買うてきて、「間違っとったら幸せやから、用心のために飲んでくれ」と言って、その薬を飲むように頼むんですわ。だけど、自分は身体がしんどくもないし、毎日仕事に追われて疲れて寝るから、薬を飲まずにおったら、父親が見とって、「お前、このごろ薬を飲まんやないか。忘れんと飲めよ」と言うておったんです。
戦後、兵隊に行った人がまだ帰ってこない時分でしたからね、人手のない時で、男手が足らなかったもんで、自分たちも重宝がられたんです。自分は人に負けないくらい仕事ができましたしね。だから、自分は何も思わずにのんきに仕事をしとったわけです。
けれど、福井地震があった昭和23年から、顔に腫れぼったい症状が表れてきました。そうしたら、「病気じゃないか」と近所でちらほら噂をしとったふうです。父親は聞き捨てておったんですけど、母親が「陰口をたたかれるのが情けない」言うて、愚痴をこぼしたことがありました。自分は人を避けるようになったけれど、仕事は普通にできました。医者にも行かず、薬も飲まずにおりました。
ハンセン病は遺伝する病気じゃないんですけれど、遺伝ということも考えておったんです。ですから、親戚なり、先祖なりにハンセン病になった者はいないか聞いてみましたら、ハンセン病になった人は一人もおらんのですわ、みな長生きしておって。なぜ自分がこんな病気になったのか、父親も悩んでおりました。
どこで耳にしたのか、昭和24年ぐらいから県庁の人が、療養所に行くように勧めてきました。明治40年に「癩予防ニ関スル件」という法律で、ハンセン病患者の収容、隔離が規定され、昭和6年にはハンセン病者を強制的に隔離する「癩予防法」というのができました。この法律がありましたために、県のほうからやかましく入所するように言われたわけです。
その時分には、自分も人前に出るのを気兼ねするほど顔が腫れてきました。人前には出れないけれど、家の中の仕事であれば何でもできましたしね、身体もどこが苦しいということもなかったので、なぜ自分が家族と離れて光明園に行かなきゃならないのかと思って、かなり悩みました。
普通なら、病気になったら家族に看護してもらうのに、自分はなぜ光明園に入らなきゃならないのか、入所するぐらいだったら、自分で命を絶ってしまったほうがいいんじゃないかと思って、毎日、命の絶つことを考えてました。家族は昼は仕事でおりませんから、自分一人が家におって悩んだんです。
ですけど、自分が死んでも、病気になったことで、いろいろ偏見、差別の厳しい言葉が家族に残るんじゃないかという心配も頭に浮かびましたので、とうとう自分で命を絶つことができませんでした。
法律があるから家では治療してもらえませんし、家族には迷惑をかけられない。いろんなことを聞かされて、やむを得んなと自分自身に納得させて、光明園に入ることにしたようなわけです。
2、光明園に入って
県の人からは「あなたであれば三年で治るから、早く行きなさい」とやかましく言われたんですわ。だけど、光明園は長島という島にあるんで、悪い言葉で言えば島流しと言われていて、入ったら生きて帰れないということを聞いておりましたから、自分はその当時、「三年生きられたらええんじゃなあ。三年しか自分は生きられないのかな」と思ってました
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光明園はもともと、明治42年に大阪に外島保養院というのが作られたんですけど、昭和9年の室戸台風で壊滅しまして、岡山県の長島に移されることになり、昭和13年に邑久光明園ができました。
光明園に入所する時、自分は23歳でしたし、一人で光明園まで行けるんですけれど、父親もこれが最後と思ったんじゃないでしょうか、田植え前の忙しい時期にもかかわらず、父親が「わしが送っていく」と言って、わざわざ光明園まで送ってくれたんです。父親が光明園から帰る、その後ろ姿を見て、自分は「これで最後やなあ」と思ったんだけど、おかげさんでこの年まで生かさしてもらっているんです。
それまでみんなにいやがられ、嫌われていたのに、光明園に入所してみると、同じ病者ばっかりで、いろんなことをざっくばらんに話ができるからね、それで気分がほぐれてホッとしたということはありましたね。「手がしびれている」とか、「足に釘が刺さってもわからない」とか言うと、わかってくれてね、精神的に楽になったということですわね。
最初、光明園に入所した時に、一週間ほど収容所という所におりまして、いろいろな検査を受け、この人は軽症舎に入る、この人は不自由舎と、区分けをするわけです。そして、軽症舎に入った場合は、園内の作業を何かしなければいけないというシステムになってたんです。
病院なのに園内で働くというのはおかしいと思われるかもしれませんけど、当時は療養所といっても名ばかりで、職員が少なく、軽症者、病気の軽い人が不自由な方の世話をしなければ、病院が成り立たなかったような状態だったんですわ。
ハンセン病に対する偏見、差別が厳しいために、職員を募集しても定員に満たなくて、職員として勤務してもらえる方が足りなかったんです。特に、地元からの勤務者がないので、光明園の場合は九州から募集しました。看護婦さんもいないから、看護婦さんを養成して、その方に勤めてもらおうという考えで、准看護学校を作ったんですけど、これも地元の方に来てもらえなくて、九州、沖縄の方が多く来られてました。
光明園には自治会がありまして、その時分は職員が不足していますから、自治会が運営をしとったわけです。病人の看護から、不自由者の世話から、また亡くなった時の火葬、いろんな園内作業があるわけですね。その作業をした場合には、作業賃がいくらかもらえるので、軽症者はその作業賃をこづかいにしていたんです。
ですけど、目の見えない方もおられますしね、身体の不自由な方はその作業ができない。作業のできない方は、自治会が豚舎、売店などからの収入、それと入所したら現金を自治会が全部集めて、銀行にまとめて預けて、その利息を自治会の運営費に充てるんです。そういうお金を自治会で管理して、その中からわずかですけど、不自由者にこづかいとして配布して、不自由者の方も何とか生活できるような形でやっとったわけですね。
豚舎というのは、以前は豚を三百頭ほど飼ってました。週一回のすき焼きは豚肉で、盆と正月だけは牛肉が出てね。残飯ばっかり食わせてましたから、今だったら商品にならん、脂身の多い肉でしたけど、外へも出しとりました。ニワトリもおりました。それとか、野菜を作ったり、魚をとったりもして、それも外へ出して、自治会の収入にしてました。
娯楽は、今は年をとったからしませんけど、いろんなスポーツ、野球とかテニス、卓球、何でもやりました。手の悪い人はラケットを持てないから、包帯でくくりつけてやってました。一時は子供さんがいて、少年舎がありましたから、野球をやってました。外から慰問で年に二、三回は試合に来てくれたんです。
碁や将棋も盛んで、同じ長島にあります愛生園と対抗戦をしたりしてました。目の見えない人でも、盲人将棋というんですか、「7六歩」「3四歩」などと、口で言いながら将棋をしているのには驚きました。
入所した当時は、自分は園内で働くこともできないんじゃないかなと思っていましたけど、プロミンという薬のおかげで日に日によくなりました。
薬の効果が出まして、昭和30年ごろにはほとんどの患者が無菌状態になって、伝染はしませんし、心配もいらないようになったんですわ。そんなことで、昭和30年代は入所してくる方が年に一人か二人ぐらいになって、40年以降、新しく入所してくる方はほとんど皆無です。
現在、光明園に入所しているのは240人です。どうしてかはわかりませんけど、男がハンセン病になる率が多いんですわ。私が入った時分には、三分の一が女で、男が多かったと思います。ところが、女の方が長生きされるんで、今では男女の比率がほぼ同じになりました。男が125人、女が115人です。
それもみな高齢者ばかりです。平均年齢が78歳、最高が97歳で、最年少が昭和23年生まれですから、58歳です。50代は2人おるだけですわ。ほとんど老齢者ばかりで生活しとるんです。今年に入ってから、光明園で11人が亡くなっています。光明園から出て社会で生活したい気持ちはありますけど、もう年やから自信がないね。
3、「らい予防法」
「癩予防法」という法律があるがために隔離政策がとられ、自分たちは療養所に閉じこめられて、外出もままならない。また、外からお客さんが来られても、公会堂に集まって、お客さんは舞台の上、自分たちは下におって、代表者が挨拶をして、それでお別れですわね。そうして、お客さんは見学して帰られるだけです。そんな冷たい生活をしておったんです。
ハンセン病は治る病気だし、伝染することはほとんどないから、何とかして規則を緩やかにして、自分たちの外出も自由にできるように、ということを何度か厚生省にお願いしたんですけど、緩やかになるどころか、だんだん厳しくなってきたわけですわね。そして、「癩予防法」という法律を改正してほしいと患者の自治組織が要求し、運動を起こしたのが昭和26年です。昭和28年には国会で審議されたんです。
自分は来たばっかりで何が何だかわからない状態だったんですけど、それまで昔の話を聞かしてもらったりして、うすうすは聞いておりまして、そんな法律があるんか、これは大変なところに入ったもんだなあと感じました。
光明園は穏便にということで、書面活動でお願いしようという結論が出たそうで、実力行動には出なかったんです。全国にある国立療養所十三園のうち、光明園以外の十二園までは実力行使と言うんですか、自分たちがやっている作業をしないとか、そういうことを行ったんです。しかし、結局は「らい予防法」が新たに成立して、隔離政策は続けられることになったんですわ。
それであれば、生活を改善する方法をとろうということで、いろんな運動を重ねてきました。おかげさまで、年々徐々に改善されてきたんです。
たとえば、自分が来た時は雑居部屋でね、十五畳の部屋に8人から10人で生活してました。多い時には十何人おった時もあったらしいです。何とか個室にしてほしいと、昭和35年ぐらいから要望したんですわ。それで今は個室になっています。
結婚にしましても、結婚するんだったら子供ができないように断種する、子供ができたら堕ろす、そういう規則になっとったんです。おまけに、昭和26年までは夫婦舎がなかったんですわ。それですから、結婚したら男は女の部屋に通うんです。女の部屋でも、結婚してる者ばっかりだったらいいんだけれど、雑居部屋ですからね、まだ光明園に来て日の浅い、園内を知らない若い子のところで夫婦生活をする人もいて、いろんな間違いもあったらしいですわ。
昭和26年にやっと夫婦舎が認められて、海岸近くに夫婦舎が建てられたんですね。だけど、自分たちの病気には湿気の多いジメジメした所はよくなくて、神経痛の方はとても耐えられないというので、今は廃屋になっています。
お酒も、今は自由に売店で手に入りますが、以前は飲むことができなくて、昭和28年ぐらいから正月だけ一合出るようになったんですわね。でも、人間は好きなものは工夫して、いろんなところから手に入れますからね、酒を造るわけです。ブドウが出るころにはブドウ酒を作るし、ご飯でどぶろくを造る人がおるんですわ。
自分たちが一番苦しんでいた「らい予防法」がやっと平成8年に廃止になりまして、それからは園内も一変しました。年々、職員を増員しまして、地元からも職員の方が勤務するように変わってきました。今では入所者よりか職員のほうが多い状態です。軽症者が行っておりました作業も、職員の方にしていただいています。食事は給食棟で作ってもらって、それを自分たちの病舎へ持って帰ってたんですけど、それも職員さんが三食とも車で配食してくれています。
今まで外出するのもままならなかったのが、自由に外出できるようになりました。お客さんも増えてきて、光明園では納涼大会や文化祭とか、いろんな催しがあって、その時には大勢の外来者があってにぎわっています。これは以前にはとてもじゃないけど考えられないことで、これまでも職員の方が盆踊りに参加することはあっても、子供さんを連れて来られるなんてことは考えられなかったんです。
今、光明園に来てもらいましたら、自分が入所した当時とは一変して明るくなって、一般の病院と甲乙つけがたいほど設備もよくなりました。職員の方が大勢おられて、いろんな生活の世話やら介護をしてもらっているんでね、自分たちは感謝しておるんです。
4、真宗法話会
光明園に入った時、最初に「あんたは何の宗派だ」とか「どこの学校を出たのか」とか、細かいことを聞かれます。自分の家は浄土真宗でね、ばあさんはお寺参りしか楽しみがなくて、自分を杖代わりにして、いろんなお寺に連れて行ってくれたんです。そんなことがあったもんですから、何の考えもなしに「浄土真宗です」と答えたんですわ。
それでも、縁があったんでしょうね、自分と入れ違いに退院された方だけれど、一番最初に入った部屋に熱心な方がおられたんです。毎朝、朝食前にどこやらに出かけられるから、「あんた、毎朝どこに行くんかな」と聞いたら、「そや、あんたも真宗やから一緒に参ろうや」と誘われたんですわ。
光明園では六宗団が認められておるんです。真宗、日蓮宗、真言宗、金光教、天理教、キリスト教と六つあるんですわ。光明会館という建物が光明園にはありますが、昔は礼拝堂といって、自分が入った時には今のように各宗団の寺院、教会がなかったからね、礼拝堂の中に六宗団の祭壇があったんです。そのころは入所者が多かったせいもあって、いっぱいの人が朝のお参りをしてるんですわね。
自分は真宗しか知らなかったから、各宗派のお祈りをしている光景が何とも不思議に感じてね、毎日、物珍しさもあって同室の人と一緒にお参りしては、帰りに朝食をもらって帰るようにしとったんです。
そして、福井の方で、真宗の僧籍を持った方がおられたんです。自分とは年も違うんですけど、自分をとてもかわいがってくれてね。昭和26年に夫婦棟ができると、結婚順で入るようになっとって、その方は最初に入られたんです。身体が不自由だったので、引っ越しの手伝いをしてくれと頼まれて行ったのが始まりで、毎日のようにお茶を飲みに行ったりしてたんですわ。
そういうことがあって、自分は知らなかったんだけど、友だちが「お前、真宗の役員になっとるぞ」と言うからね、「そうかなあ」と言うて、その時分にはお寺はあまり関心がなかったから、行かなかったんです。
自分が結婚しました時に、お寺の管理人室に入れば、夫婦舎よりも自分たちだけの生活ができますから、お寺に入ったというようなことです。そのために、ずるずるとお寺の世話をするようになって、真宗法話会の会長をするようになったわけですわ。
昔のお説教の時に、自分たちが病気になったのは業病なんだ、前世に悪いことをしたからその祟りだとか、「あなたたちはこういう病気になったのだからあきらめなさい」というような話をするお坊さんもいて、そういうことを聞いたことがあるからね。それはおかしいということを少しでも理解してもらえたらと思うとります。
5、家族のこと
自分の実家は弟が継いでおるんです。父親のいる間は、自分も正月には帰ってました。父親が94歳で亡くなった時には仏壇に参らせてくれましたけど、父親が亡くなりましてからは、家には寄らないようにしとるんです。どうしても偏見というんですか、昔、痛めつけられた記憶がありますから、自分が行くことで弟がいろんなことを言われるんじゃないかということが、先に思われましてね。
それというのも、母親が昭和40年に亡くなって、それから三、四年たってからですから、43年ごろですか、家に帰っておった時のことです。うちの近くの人で、光明園にいて亡くなった、自分より年上の方がおられたんですけど、その人の息子さんが、どこでどう話を聞きつけたんか知りませんけれど、自分が来とることを耳にしましてね、「あんた、面会するんやったら、神戸や大阪でしておくれ。あんたが来るために、うちまでいろんな波風が立つから、こっちに来んようにしてほしい」ということを、じかに言われましたからね。
そういう経験をしてますから、できたら自分も家のほうには行かないほうがいいんじゃないかなと思っていますんですわ。けれど、八人兄弟のうち、四人が健在でおるんで、四人が寄っては話をして、生きておることを喜んでいるわけです。
弟が結婚した時に、嫁さんには自分がおることを伏せて結婚したわけですね。ところが、昭和40年に母親が危篤になったんです。朝、食事をして、立ったとたんに倒れて、それきりで亡くなったんです。父親がわざわざ電報をくれましたけれど、自分は帰ってええもんか、自重したもんかと迷いました。だけど、友だちが「今、帰らなきゃ、あんたは帰れんようになるから、このチャンスをのがしたらいかん。帰れ」と勇気づけてくれて、おそるおそる帰ったんです。
一番最初に父親に「嫁に自分の話をしたか」ということを尋ねました。そしたら父親は「そんな話、してない」と言うから、自分は「朝、一緒に食事をしないといけない。自分が来たということを言っておくれ。あとの話は自分がするから」と父親に頼んだんです。そしたら父親は、「そんな話せんでもええ」と言ってね、「どうなってもええやないか。わしとお前で母親の葬式、出したらええから」と言うので、「そんなわけにはいかん。弟が家を継いでるんだから、弟の生活がこの先苦しくなる。ちゃんと話さなければ。自分も家に帰ることについてはかなりいろんなことを考えてきた。一言言ってくれ」と父親に無理に言わせたんです。
そして、自分が台所に行って嫁に話をしましたら、嫁は、結婚した次の日に隣の奥さんがわざわざうちに来て、「こういう兄貴がおるというのをあんた知ってますか」ということをしゃべったそうなんですね。「明けの日、隣の人が言ってきました。ですけど、私はうちの人からそれを聞きたかった」と涙を出してました。
自分は「残念ながらいろんな事情があって、あんたに隠したことは申し訳なかった。勘弁してほしい」と謝りました。嫁は病気に対する偏見はなくて、理解してくれました。そういう経緯があったから、父親がおる間は正月には家に帰れたんです。
父親が亡くなる前、ちょっと痴呆になって、「岡山が亡くなったから」と、村中に自分のことを言うて歩いたらしいんですわ。どういうことなんかわかりませんけど、それまでいろんなことを言われたから、自分が亡くなったから心配するなと、言うたらしいです。
田舎に自分名義の田んぼがあるんです。父親が亡くなっても、それがいまだに残っとったんです。そしたら弟に誰かが「兄貴は死んだんやから、早く遺産相続しとかなあかんよ」と言うたというんですね。自分は死んだと思われとるわけです。
自分の幼友達が何人かおりますけどね、こうして皆さんの前で話ができる元気な姿でおるということは、誰も知らないと思いますわ。
6、これから望むこと
病気に対する偏見、差別を何とか明るい見通しになるようにしてもらいたいと、前から自分たちは言っておるんです。自分が望むことというのは、光明園におったということによる偏見、差別がないようにしてほしい、親や兄弟が光明園に入っとったとか、病気で亡くなったんだということをおおっぴらに話ができるようにしてほしいなと思ってね、いつもそれをお願いしとるんです。
療養所に入ったら、一番最初に親からもらった名前を変えて、光明園の中で使う仮の名前にしてしまうんです。名前を変えるということは強制ではありません。自分たちだけだったら、別にそんなことはしなくてもいいわけです。だけど、療養所におることがわかったら家族に迷惑をかけるということがありますからね。家族への手紙を郵便屋さんが持っていって、自分の名前が隣近所の目に入ったら、またいやなことを言われるんじゃないかと怖れるわけですわ。
入所するまでに病気に対する厳しい偏見、差別を受けていろんな苦しみを経験してますし、家族の苦しい思いを見ておりましたからね、家族にだけはつらい思いをさせたくないという気持ちがあって、それで名前を変えるわけです。
自分の場合は、父親が「今さら名前を伏せなくていい」と言ったので、園内では本名を使っています。だけど、昭和29年に本願寺からお坊さんが来られて、おかみそりを受ける機会がありましたんで、自分もおかみそりを受けて、法名をいただいたんです。それで、外では常念という法名を使っとるんですわ。ですけど、最近は自分も自然体になったというか、本名も使ってます。
最近は理解者も増えてきたために、本名を使っている方が増えてきました。それでも、ふるさとに出す通信名はやはり本名を出さない人が多いんじゃないかと思います。自分もそうしてますしね。自分が里におった時に、病気のために家族が苦しんだということが念頭から離れませんのでね。
啓発活動をやっていただいていても、こんなふうに理解してもらえないことがあってね、光明園にいたと言えない場合とか、家族にハンセン病者がいることを隠したいという気持ちが、今でも残念ながらあるんですわ。昔、いろんなことを言われたり、いやな目で見られたことが忘れられないからね。
こないだの納涼大会でも、昭和20年に光明園で亡くなった方の遺族が来られたので、過去帳を調べましたんですわ。そしたら名前が見つかったんです。その方の話を聞いても、やはりこの病気に対しての偏見、差別はいまだに厳しいということを話しておられました。
友達で社会復帰されてる方が何人もおられますけど、光明園におったということは話せないし、自分の子供にも言っていない状態だからね。そういう友達のお宅に立ち寄ることがあって、自分は光明園に住んでおりますから、何の抵抗もなしに光明園とか愛生園の話をするんですわ。ところが、そんな話になりましたらね、「ここではそれだけは話さんといてほしい」と釘を刺されるんです。隣近所の手前、何を言われるかわからないから、光明園におった、愛生園におったということを言ってほしくないんですね。
昔の話はしたいし、光明園のことを聞きたがっている反面、病気のことは言ってもらいたくない、言えない。隠して生活しておるんだなということを、何回か体験しました。せめて家族にだけでも、光明園に入っとったという話ができんものかなと。
自分のところでも、甥の嫁には自分のことをしゃべっていないんですわ。それで、弟に何とか話をしてほしいと頼んでおるんです。甥の嫁が電話に出ますしね、年賀ハガキのやりとりもしてるし。ハガキには「邑久光明園」とは書きませんけどね。
「これは言うたほうがええよ」と弟に言うとるんです。私のほうから言って、家族の和を壊すようなことはできませんからね、弟が理解してくれることを願っておるんですけど、いまだにこの話がうまくいっておらないというのが現状であります。
それでも、啓発活動が進みまして、去年でしたか、福井から来たバスの運転手さんが何の抵抗もなしにね、「私のおじいさんがここにいたんですよ」と言われたから、「お名前は」と聞いたら、名前を言われました。「自分はその方を知ってます。その方は自分と入れ替わりのようにして退院されましたよ」と話したら、「こちらで畑をしていたと聞いた」といったことを言われました。何の抵抗もなしにそういう話を家族でできるようになったんだなあと思って、喜んだこともあるんです。
少しでも多くの方がハンセン病のことを理解していただきまして、昔いろんなことを言われておりましたけれども、今は治る病気になりまして、退院できるという話をしてもらったら、幸いです。そして、自分は光明園にいたんだということを人前で言えるような社会ができるように願っておる次第です。そういうことを皆さんに理解してもらえるような世の中に早くなってほしいと思っておるわけです。私はそれをいつもお客様に最後のお願いとして申しておるんです。 どうもありがとうございました。
(2006年8月29日(火)に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)
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