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「三つの出会い―阿難・韋提希・阿闍世」 第1回 |
2001年8月18日(土) |
第1回「宗教とは何だろうか」
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どうもご苦労様です。お暑い中、お疲れのところ、よくお集まりくださいました。先ほどご紹介いただきました、今回こちらで講座を担当いたします四衢と申します。岐阜県高山市からまいりました。楽に聞いていただければと思います。
今回の講座では『現代の聖典』というテキストを通して、ご一緒に学んでいくことになります。このテキストの20ページを開いていただくと、『仏説観無量寿経』という言葉が出てまいります。『仏説観無量寿経』というお経の冒頭部分がこのテキストの骨格になっています。このお経の内容を通しながら一緒に学んでいくという形になります。
私たちにとってなじみが深いのは『正信偈』や『和讃』と言われているものだと思います。「帰命無量寿如来」と始まる『正信偈』を今皆さんと唱和しました。『正信偈』『和讃』はお経ではなくて、親鸞聖人がお経の心を受け取って、そしてお経の心を生きていくことを自らの喜びとし、感動として作られたものです。
お経というのは「仏説」と書いてありますから、仏陀、お釈迦様が説かれた説法を仏説、お経と言います。お経と『正信偈』や『和讃』には一応違いはあります。どちらも私たちにとって大事な教えの言葉です。
私たち真宗門徒は伝統的に『正信偈』『和讃』、そしてその後に蓮如上人がお作りになった『御文』(蓮如上人のお手紙)を毎朝、自分の家のお内仏で唱和することを真宗門徒の生活の中の大事なつとめにしてきました。真宗門徒の生活の中の大事なつとめとして『正信偈』と『和讃』を唱和してきたんです。ですから「お」という丁寧な言葉をつけて、「おつとめ」という形で大事にしてきたわけです。
「偈」というのはインドのガーターという言葉がもとです。意味は「歌」ということです。『和讃』の「讃」もやはり讃えるという意味で歌です。
『正信偈』は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と、漢字七文字で一句ができています。いわゆる漢詩です。杜甫や李白といった中国の詩人がいますが、『正信偈』はああいった詩人が作る七文字の漢詩の形式になっています。漢字ばかりですから意味が取りにくいんですが、漢詩という形の歌です。
『和讃』の方もただちに分かるとは言いにくいですが、日本の言葉で作った歌ですから何となく意味がとれますね。
「ミダジョウブツノ コノカタハ
イマニジッコウヲ ヘタマエリ」
と七五七五となっています。『和讃』は基本的には七五調の和歌です。俳句や短歌を作られる方がこの中にもいらっしゃると思いますが、五や七の音で整えると日本の言葉は美しく聞こえます。『和讃』には若干字余りや字足らずもありますけれど、基本的には七五調という形の和歌の形式で作られています。
ですから、『正信偈』と『和讃』は両方とも歌です。特に『和讃』の場合は七五調という日本の言葉として調子がとれるように作られてあるわけですから、口ずさむことを念頭において親鸞聖人はお作りになったんだろうと思います。ですから歌うのが基本です。
この形を真宗門徒のおつとめとして定めて下さったのが蓮如上人です。ですから真宗門徒は五百年以上も、『正信偈』と『和讃』を毎朝夕歌うということを自分の生活のつとめとしてきた人たちであったということです。
皆さんはご家庭でおつとめをしておられますか。そういうのが今は少なくなったと思うんですね。少なくなったということは私たちに大事な問題を提起しているんです。
毎朝夕、親鸞聖人の作られた歌を歌う。何でもないことのようですが、歌というのはどういう時に出るかというと、大きな喜びを得た時に人間から歌が出るわけです。深い感動を得た時にも歌が出ます。それから、言いようのない寂しさ、悲しさを覚えた時にも歌が出ます。ですから、心の動きが歌になって表れてくるということが、歌が持っている大きな意味だと思うんです。
歌があるから自分の喜びや悲しみが表現できるということがありますし、その表現された歌を聞けば、遠く時間が隔たっていても、場所が隔たっていても、その人の喜びや悲しみが伝わってくるということがあります。それは歌というものが持っている大きな特徴だと思います。
日本で一番古い歌集は『万葉集』です。たくさんの歌がおさめられています。普通、日本の和歌集というと、百人一首がそうですが、大体は天皇や貴族という人たちやお坊さん、ああいう方たちがほとんどなんです。しかし、『万葉集』は一般庶民の歌も入っています。防人の歌というのがありますね。防人に行く兵士が家族をおいて、関東から遠く離れて行かなければならない悲しみ、あるいは送る方の悲しみが歌われています。恋の歌もあります。『万葉集』が作られたのが約千三百年前です。ですから『万葉集』を読めば、そのころの人の喜びや悲しみがわかります。
そういう意味で、『正信偈』『和讃』は親鸞聖人がお作りになった歌ですから、親鸞聖人自らが出会い、自らが生きることとなった、その教えを歌に託されたわけです。それを毎朝夕おつとめすることによって、私たちもまた親鸞聖人と同じ喜び、感動を生きようとするわけです。そういうことの表れが『正信偈』や『和讃』を歌ってきた意味ではないかと思います。
そして、おつとめをすることを通して、はたして私は親鸞聖人と同じ喜びや感動を得ているだろうか、それを生きることになっているだろうか、ということが絶えず問われてきます。あるいは問われてくるまで歌い続けたということがあると思います。
日本の仏教の中にあって、ある意味で特異な姿を持っていたのが真宗門徒だったろうと思うんです。多くの仏教宗派ではお経というものがお坊さんの専有物であって、一般の人たちが自分みずからが教えの言葉を手にする、歌うなどということは全然なかったんです。
毎朝夕おつとめをして親鸞聖人の感動とともにしようと歌うことによって、あなたは何を喜んだのか、隣の人がひどい目に遭ってしめしめと喜んだのか、人よりお金を儲かったことを喜んだのか、じゃ何を喜んだのか、という形で親鸞聖人から問われてきます。そして、はたして私は親鸞聖人と同じ喜びを得ているんだろうか、そういうことが絶えず問われてきます。
そういう問われる時間と場所を生活の中で確保していたことが、真宗門徒のおつとめの持っている非常に大事な意味だと思うんです。生活の中で自分自身が問われたり、自分の生き方が問われたりするような場所や時間を、真宗門徒は持っていたわけです。
おつとめをしなくなったことは、ある意味で私たち自身が問われることがなくなった、生活の中で自分を問うているものを見失ってしまった、そういうことになるかと思います。そして、このことは日本の中において、自分が問われるような場所と時間を生活の中で確保する人がいなくなったことになるかと思います。そのことが今日の日本の精神文化の大きな問題を生みだしているのではないかと、私自身は思っております。
現在、日本という国は不景気で、構造改革が必要だと小泉首相が言っておられます。けれどもいろんな問題をはらんでいても、世界的にみれば非常に裕福な、豊かな経済力を持った国です。そして、その経済力でもって世界中から食べ物を買い集めてきました。
日本の食糧自給率は四割を切っています。日本に住む人が食べるだけのものが国内ではできないわけです。日本人が十ほど食べるとしたら、六は外国から輸入しなければいけません。それをお金で買ってくるわけです。
そういう状態になっています。そのこと自体は悪いわけではないですね。当然必要不可欠なものもあります。しかし贅沢なものも含めて世界中から買い集めています。毎日、高級フランス料理の材料やケーキの材料から世界の珍味まで含めて、ジェット機で運んできます。経済力という力にものを言わせて、世界中から食べ物を買ってきます。
そして安い食材を作るために。アジアの国々でいろんな養殖をしています。以前、台湾から来られた人がこんなことを話されていました。台湾でこういう養殖をする、初めは日本ですごく売れる、それをもっと賃金が安い東南アジアの国々でする、それで台湾のは駄目になる、その繰り返しだ、と言っておられました。そのようにして世界中から食べ物を買ってきます。
私たちは世界の珍味を満喫しながら、あそこの店の何がおいしいか、この料理とあの料理とではどちらを食べたいかを競ったりする番組を、朝から晩までテレビで見ます。見ていると自分も食べたくなります。見ただけで腹がふくれるのならいいですが、そうはいきませんから、欲望だけがふくらんできます。あるいは、これを食べないと流行に乗り遅れるとか言われます。そんなグルメブームは日本の豊かさと快適さの象徴なのかもしれません。それが今日の日本の姿かと思います。
しかし、世界中から食べ物を買ってきても、半分近くを捨ててるんです。食べきれないわけです。たとえばスーパーなんかでは、賞味期限が過ぎると全部廃棄処分です。結婚式などの宴会の料理は、食べきれる量は決まっているのに、たくさん食べる人も食べきれないほどの料理が並んで、大半は捨ててしまいます。いろんな統計によると、世界中から買い集めたものの半分近くを捨てているわけです。
ところが地球上では六十億の人が生きていますが、半分の人が飢えています。充分に食べられないんです。そして四才以下の子どもが年間一千万人以上も飢えが原因で死んでいきます。これはユニセフの統計です。
お金の力で世界中から食べきれないほど食べ物を買ってきて、大方は捨ててしまうグルメブームにわきたっている国がある。その裏側で世界の半分の人が飢え、年に一千万を超す子どもたちが死んでいく。それが日本の姿です。そういうことが報じられたり、伝えられたりしますけど、そういうことを我々はあまり気にしません。そしてグルメブームにわきたっているわけです。
そういう私自身が問われるということがないわけです。何をやっているのか、そんなことをやるために生まれてきたのか、それが人間か、知恵ある者の姿か。人間というのは学名ではホモ・サピエンスです。リンネという博物学者が知恵あるものと名づけたんです。本当に知恵ある者の姿だろうか。そういうことが全く問われない日本に現在なっているんじゃないですか。もちろんグルメブームだけの問題じゃありません。
私の姿や私の生活が問われるという場面がほとんどなくなってしまって、自分の姿が本当に見えなくなっています。言われてみれば大変なことをしているわけです。しかし、そのことにさえ気づかないし、気がつかないようにしてしまっているような、そんな日本の現実の姿があります。
そういうことと真宗門徒がいなくなったこととは無関係なようですが、しかし自分の生活の中で、これが本当に人間か、あなた、本当に今日一日人間として生きたのか、何を喜んだんだ、悲惨な国の状況を見て、日本はよかったなあと喜んでいるのか、それが本当に暖かい喜びか、そういうことが問われる生活の時間と場面を持つ真宗門徒が全くいなくなったことと、日本人が精神文化の中で自身が問われる視点、まなざしを失ってしまうことと、別な問題ではないと思うんですね。真宗門徒はここから始まったわけですから。まさに軌を一にするような問題だと思います。
そういう意味では、真宗門徒が真宗門徒であることを失っていたということが大きな問題であることを、私自身感じております。
2
お経といいますと真宗でもお坊さんの専有物になっていまして、皆さんは法事の席なんかで、意味のわからない言葉を長々とお坊さんが読むのを、「早く終わらないかなあ」「足が痛いなあ」と思いながらじっと我慢して、お経が頭の上を素通りしていくというのが実際のところだと思います。私自身もそうですから。
けれども、親鸞聖人の『正信偈』や『和讃』のもとになったお釈迦さまの説かれたお経に、一番大事なことが伝えられているんだということをご一緒に確かめながら、私たち自身を問いただしてみようということが、『現代の聖典』を使っての講座の意味だと思います。
親鸞聖人のお言葉を通しながら、『仏説観無量寿経』をご一緒に学んでいきたいと思います。そしてそのことによって、私たちの生活の中で私自身が問われる視点を確保する、そういう姿を取り戻していきたいと思います。
真宗門徒がよりどころにすべきお経として、代々真宗門徒が受け継いできたお経が三つございます。『仏説無量寿経』と『仏説観無量寿経』と『仏説阿弥陀経』です。『阿弥陀経』は短いですから、わりとなじみがあるかと思います。これを合わせて「浄土三部経」と言います。三部経という名前のお経があるわけじゃないんです。三つあるから三部といいます。
お経は漢字で書いてありますし、読みがなもふってありませんから、意味がわからないわけです。しかし、お経が私たちにとってどういうものなのかということを、我々お経を学ぶ者に対する道しるべというか、ヒントとして、善導大師という方がこういう言葉を残しておられます。『正信偈』の中で「善導独明仏正意」とありますね。あの善導です。人の名前です。中国の唐の時代に出られたお坊さんです。『正信偈』には七人のお坊さんが出てきます。その中の一人の善導大師が、お経とはこういうことだと思ってお経を聞いて下さい、という言葉を残しておられます。
経教はこれをたとうるに、鏡のごとし。しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧開発す。
(お経の教えは、私たちにとって鏡のようなものです。いくども読み、いくどもその心を尋ねるならば、私たちに智慧を生み出します。)
お経は鏡だと善導大師は言われます。鏡はものを映すはたらきです。たとえとして鏡と言われているんですから、お経の前に立ったら本当に鏡になるということでなくて、あくまでも私たち自身を映し出すはたらきという意味です。
写真とかビデオとかがありますが、基本的には私自身を写してくれるものがないと、我々は自分自身が見えません。自分で見える範囲は限られています。自分の後ろ姿は見えないですね。顔も鏡に写さないと見えません。目玉を飛び出させたら見えますが、便利なようでもそういうわけにはいきません。何かに映さないと私自身の姿が見えないし、気がつかないわけです。
そういう意味で、お経というのは私をありのままに映し出すものだと、善導大師は言われます。私がどんなところに、どんな格好をして、どうしているのかを、あますところなく教えるのが鏡としてのお経なんです。
しかしお経は、我々が普段のぞく鏡と違って、もう少し広く見えると思うんです。これはどういうことかというと、私が隠したい、見たくないと思っているところまで、お経は映し出します。私たちは毎朝鏡を見て、一応これならばと思って外に出ます。それでも自分の見たくないところや嫌なところはできるだけ見ないようにします。お経はそうではなくて、私たちがあまり見たくない、隠しておきたい、そう思ってるところまでありのままを映し出します。
だから、私はどんなところでも、どんな姿格好をして、どんなことを行っていても、それを映し出し、その問題を気づかせる。そういうことがお経のはたらきなんです。お経が鏡になって初めて、ああ、こんなことをしていたのか、と気づいて、自分自身に目を覚ます、そういうことが智慧だと善導大師は言われるわけです。
自分自身がどこにいて、どんな格好をして、どんなことをしているのか、そういう自分自身の姿をいつも見ないまま、やみくもに動いて終わっている。そんな私たちに、お経が鏡となることで初めて、自分自身に驚いて目を覚まさせる。ああ、こんなことをしていたのか。こんな問題があったのに気づかないことにしていた。こんなことをしていたのに知らない顔をしていた。こういう自分自身に気がついて目を覚ます。それが智慧なんです。
もしもこういう教えの鏡を持たなければ、私たちはついに自分自身に気づくことがなく、どれほど身勝手なことをしていても、臆面もなく、よかった、よかったという形で生きてしまう。そういうことを善導大師は教えられたんだろうと思います。
『現代の聖典』に戻りますが、20ページに、
仏説観無量寿経
宋の元嘉中にキョウ良耶舎訳す
証信序 かくのごとき、我聞きたまえき。
文意 わたくしたちの身に、今もいきいきと聞こえる仏陀の説法を、新しく生活の事実の上に聞き開いてゆきたいと思います。
主題 ―帰依三宝―
わたしたちが『仏説観無量寿経』の「序文」を「現代の聖典」として学ぶことの意義は、単なる知的学習にとどまることなく、仏の説法として聞くことにあります。言葉によって説かれた法は、経典の教えの言葉としてわたしたちに与えられています。わたしたちが、その教えの言葉を聞く時、永遠真実の法が心に響き、身にはたらいてくるのです。わたしたちは法が聞こえてくるように教えの言葉に学ばなければなりません。どうしたらそのように学ぶことができるのでしょうか。このわたしたちの問いに答えて、曇鸞大師は「経の初めに「如是」と称することは、信を彰して能入とす。」(真宗聖典二三二頁)と教えられています。仏の説かれる法をわたしたちが信をもって共に聞くところに僧(僧伽=和合衆)の相があり、ここに帰依三宝の成就があるのです。
と書かれています。
ここにお経とはどういうことなのかのヒントが書かれています。お経の初めには「如是我聞」(「かくのごとく我聞きたまえき」)という言葉が必ず出てきます。この「如是」ということについて、曇鸞大師が「経の初めに「如是」と称することは、信を彰して能入とす」と言われています。
曇鸞大師という方も『正信偈』に出てきます。「本師曇鸞梁天子」というところです。善導大師より百年以上前に中国に生まれられた方です。
これはどういう意味かと言いますと、「如是我聞」(確かにこのお経の教えに私自身を聞き取りました)という言葉からお経が始まるが、それはお経によって教えられた私の姿を、私自身に間違いないとうなずくことが信ということだと、曇鸞大師は言われています。
お経の教えによって初めて、私は私を教えてもらい、私に気がつきました。そういう言葉が如是ということなんです。その通りだった、全くおっしゃるとおりだ、そうでした、そううなずいた言葉が如是という言葉です。そして、目覚めて気がつき、うなずくということが信だと、そのように曇鸞大師はおっしゃっています。
ですから お経とは呪文でもおまじないの言葉でもありません。私自身を教えられ、その教えを間違いなく聞き取った人から人へ受け継がれた歴史であり、その歴史を貫く教えの言葉です。
お経を上から順番に棒読みされると、どうしても呪文やおまじないとしてしか聞こえませんけれど、『現代の聖典』にはこうやって延べ書きにして意味がとりやすくなっていますから、ご一緒に学んでいきたいと思います。
教えにうなずいて、確かにここに私自身の問題、私が気がつかなかった私の姿、問題性が説かれている。そのことに間違いないとうなずいたんだと。ですから、このように私は聞きましたよという「如是我聞」という言葉からお経は始まるんです。そういうふうに、うなずいた人からうなずいた人へ受け継がれてきたのがお経なんです。
というのは、お釈迦さまが生きておられた時代は教えを文字にしなかったですから、五百年近くは口から口へ伝えられてきたんです。文字になったのはお釈迦さまが亡くなってずいぶん経ってからです。ですから、そうやってうなずいてきた歴史がお経なんです。
そして親鸞聖人を通して、お経の言葉が『正信偈』『和讃』に表され、そして今日の私たちにまで読み継がれ、読み継がれして伝わってきました。お経とはそういう歴史を貫いてきた教えの言葉なんです。そして同時にそれは受け継がれてきた時に、それにうなずいてきた人たちが無数にあったからとぎれることなく私にまで伝わってきたんだということがあると思います。
3
普段は、聞いていると長いし、どうも足も痛くなるし、できたらな避けたいなと思っているお経ですけれど、内容は非常に大事な意味を持っているものです。今回の講座によってあらためて、お経を通して私自身を学んでいけたらと思うことです。
今日は「宗教とは何だろう」というテーマでお話しすることが課題です。現在の日本の姿というものは自分自身が問われるような視点を失っている精神文化であり、それは大きな問題だ、と先ほど言いました。
宗教というのは、私自身があらためて問われ、自分自身に目を覚ませと問いかけているよびかけに出会って、自分自身に目を覚ましていく、そういうことが宗教という言葉の持っている意味です。
ところがそういう宗教の意味がほとんど失われてしまっています。それにはいろんな原因があります。その多くは、我々お寺の中にいる人間がきちんと本当の宗教の意味を伝えていないということが、まず最大の原因です。本当に申し訳ないことだと思います。
それともう一つは、世の中に宗教ということが多岐にわたっており、何でも宗教ということで使われています。オウム真理教から統一教会から霊感商法から、全部宗教という名前で言われるわけです。今日の日本の中で宗教の範疇が雑多で、ある意味で非常に胡散臭いと思われても仕方ないという状況になっています。
昨年、朝日新聞が行った大学生へのアンケートでは、「宗教に関わらない方がいい」と六割強の人が答えています。それほど胡散臭いし、変なものだと思われてしまっているわけです。
そういう日本の宗教観を明確にあらわしたのが、やはりある新聞社が行ったアンケートです。テキストの21ページにも問題点として出てきますが、「わたしたちに人生にとって、一番大切なものはなんでしょうか」という質問です。
日本人で一番多かった答えは健康です。大切なのは健康だ。身体が動いて元気であればこそ働くこともできるし、いろんなこともできる。遊びも行ける。健康が大事だ。そういう答えが一番多かったですね。
二番目は家族。いろんな意味も含めて家族というのが私の支えだと。子どもが支えだと言い、「孫」という歌が出たりしましたが、家族というものが生きる張りだということです。
しかしですね、つい最近のアンケートで、日本のお父さん達に家族の中に居場所がありますかと聞いたら、家の中心だと思っている方は20%弱でした。いかに日本のお父さんが家の中で存在感がないかとわかります。
三番目はお金です。
一番が健康、二番が家族、三番がお金だということです。まあ、そうかなあという感じがしますね。
ところが、この質問を他の国で行いますと、平均的に一番とか二番を占めるのが、宗教とか信仰という答えなんです。イスラム教の国とかカトリックの国とか、宗教が生活の中に深く根ざしている国では、宗教とか信仰という答えが多いわけです。
ただ私はそうでないといけないと言っているんじゃありません。これは文化の違いというものが大きいわけですから、これがいいんだというんじゃありません。
自分の宗教が一番大事で、一番いいんだと思うことは熱心なことだと思いますが、ある意味では狭いことになってしまって、自分の宗教が一番だ、他の宗教は認められないということを反面に持つんです。そういう宗教感覚というのはね。
インドとパキスタンは、ヒンズー教とイスラム教がお互い相容れないということが、対立の大きな軸になっています。それから旧ユーゴスラビアですね。クロアチアはカトリックです。セルビアは同じキリスト教ですが、セルビア正教というロシア正教のような宗教で、千年以上仲違いしています。それにイスラム教徒もいますから、三つ巴になっています。
自分の宗教が一番だということが対立を生むことにもなりますから、それはそれで大きな問題をはらんでいるんですけれど、それは今日のテーマからはずれますからここまでにします。
他の国で二番目が多い答えは友人です。これはある意味では日本と違うなと思いました。つまり健康、家族、お金という答えは、「あなたにとって」という質問ですから、私の健康、私の家族、私のお金ということですね。他人のお金の方が心配になるなんてことはありません。私のお金なんです。そこに「私」ということが入ってしまっているでしょう。友人というものは「私」という世界を少し超えているものですね。他の人との関係を大事にしたいという、そういう広さがあります。
三番目は家族です。
つまり、大切なものは何ですかという問いに、他の国は宗教や信仰という答えが少なからず入っているわけです。ところが日本人の答えの中には、宗教とか信仰という答えは一つも入っていない。一人もいないんです。宗教とか信仰が大切だと答えた方が一人もいない。
お坊さんでもあやしいですね。あなたの大事なものは何ですかと聞かれて、「ご信心です」とは言わないような気がします。あやしいもんですね。
で、そこに現代の日本の宗教観が非常によく表れています。現代の日本の宗教観とは、自分にとって一番大事だと思っていることを守ったり、育てたり、保証してもらうための手段や方法ということです。そういうものとして宗教を見ているわけです。
ですから、宗教や信仰が大事なものの方の側に入らないんです。大事なもののために使うものとしての宗教観があるからです。健康―無病息災、家族―家内安全、お金―商売繁昌。そういう形で宗教を切り替えて、祈り、頼み、何かすることによって保証してもらう。そういう行為が宗教だということになっています。自分の見えないところまで含めて、自分の身勝手さとか、傲慢さとか、そういうことが問われて、自分自身に目を覚ます。そんな宗教観はほとんどなくて、自分の欲と都合のために何でも使うという宗教観なんです。
病気だからと、どこかで見てもらうと、「それは何代前の先祖が祟っている」と言うわけです。先祖まで使って自分の健康を守る。「このごろ仕事がうまくいかないんです」、「それは印鑑が悪いからだ」と言われるんですね。自分の仕事がうまくいかない理由をハンコのせいにして、自分の欲のためにハンコを新しくする。
私の住む高山にそういう宗教があるんです。ハンコをよくすると仕事や商売がうまくいくと。それで、印相がいいとか悪いとか言ってハンコを新しくさせるわけです。新しくしただけではそれっきりでうまみがないですから、そのハンコは毎月お祓いに持っていかないと効き目がないということになっていまして、毎月八日なんですが、バス一台四十人のバス、みんなハンコを持って行かれます。
そうやって自分の健康、家族、お金、大事なものを守り育て、自分の欲を満足させるために、ありとあらゆるものを使うます。
ですから、人によってはいくつもの種類に関わることになります。観音さまに健康を。観音さまでは商売は駄目だから、お稲荷さんに。病気は細かく分かれていますから、何とかの病気がこの神様を、この病気はこの仏様と、とにかく保険のように宗教を使うという格好になっていくんです。
それほど宗教に向かう日本人に、朝日新聞のアンケートで、「あなたの宗教は何ですか」と聞くと、六割の人が「無宗教」と答えるんです。なぜか。自分の大事な健康や家族やお金、そういうものを守って育てたりするのは自分の力でやる。自分の甲斐性でやる。宗教を頼るのは弱い人間だ。そういう意識が反面としてあるからなんです。直接聞かれると、無宗教と答えるわけです。
ですから日本では、「私は無宗教である」と言うことが知識人や文化人の証拠みたいな錯覚があります。そういう意識も当然出てきます。
ですがその反面、先ほども言ったように、こういう自分の欲望を満足させ、都合に合わさせる、そして自分がいい目を見る、そういう宗教観に覆われてしまっています。そして、自分の快適さと便利さと豊かさを追求するために、どんなことを自分はやっているのか、どんな姿になっているのかを一度も問わない。そういう日本になっているわけです。
本来、真宗門徒と言われる方たちがつちかってきた宗教観はそうではなかったはずなんですね。親鸞聖人の言葉前にして、私は一体何を喜んでいるのか、そのことを喜ぶのは人間として胸を張れることなんだろうか、そういうことを毎日毎日問われ、自分自身を確かめていった人たちがいたわけです。しかし、そういう宗教観がほとんど消えてしまいました。欲望の道具とする宗教観しかなくなってしまったということです。
本来、宗教という言葉は仏教を指した言葉です。明治に日本が開国して、ヨーロッパの思想や学問の言葉が日本に入ってきました。それらの言葉を翻訳する日本語がないわけです。ですから哲学用語の多くは仏教の言葉を使って当てました。たとえば英語のreligionという言葉に、もともと仏教という意味だった宗教という言葉を翻訳語として使ったわけです。その時点から宗教という言葉は非常に範囲が広くなって、そして今日のような混乱があるわけです。
宗教の宗というのは「むね」を指します。「むね」というのは古い日本語です。物事の中心とか真ん中、あるいは要という意味なんです。身体の真ん中にあるから胸と言います。屋根の中央にあって全体の要になっている所を棟と言います。この「むね」に宗、胸、棟という漢字を当てたのは、日本には元々文字がなかったので、中国の文字を輸入して意味をとったからです。宗と胸と棟とに分けて違う漢字を当てたから、今は共通性がないように思っています。しかし、もともとの日本語の「むね」というのは、物事の真ん中を指したんです。
もともとの宗教という言葉の意味を真宗門徒の宗教観に合わせて言うなら、宗とは中心です。何の中心かというと、私が人間として生きる中心です。それを教えられ続けるのが宗教です。それが人間の姿か、と問われる営みを、宗教という言葉で言っていたわけです。そしてそういう宗教観を生きてきた人たちを真宗門徒と言ったんはずですね。
こういう宗教観がほとんど消えてしまいました。毎朝夕のおつとめを通してこういう宗教観を生きてきた真宗門徒がいなくなって、欲望のために使う宗教観がほとんどになってしまいました。それが現代日本の精神文化に大きな影響を与えて、大きな問題がそこに引き起こされているんだと思います。
「いのち」という言葉も古い日本の言葉です。「い」とは息です。息が出たり入ったりするのが「い」です。「ち」というのは、大きな力を持っているものを「ち」と言うんです。
『古事記』に出てくるヤマタノオロチの「チ」というのは、いのちの「ち」と同じです。これは八つ頭があって、化け物のような大きな力を持っているという意味です。
いのちの「ち」というのも、この「ち」なんです。つまり、息が入ったり出たりすることによって大きな力を得る。息が止まるとその力も終わる。そういう現象を古い日本人は「いのち」と言ったんですね。その言葉に中国から輸入した漢字を当てたわけです。
宗教の宗も「むね」という字、中心、真ん中、人間として生きる中心です。この中心をはずしてしまえば、私が人間であることから逸脱して、まさに自分の欲望のまま暴走してしまうものになる。そういう中心を鏡となる教えから教えられることによって、私が人間であることを確保していく。そういう問いかけを絶えず私の中で持っている。私が問われるような視点を生活の中で確保していく。そのことが私が人間として生きる中心なんだということを確保してきた宗教観ですね。真宗門徒がつちかってきたそういう宗教観を我々が取り戻していくことが、大事だと思うんです。
いろいろ申しましたが、そうしたことを教えを通してもう一度学び直していきたいと思います。今日はこれまでにしておきます。
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お疲れのことと思います。座談会の話を聞かせていただきまして感じたことをお話しして、次回につながる問題提起をしていきたいと思います。
今日は講座の最初ですから、いろいろわからないことや疑問がたくさんおありのことだと思います。このわからないことや疑問を大事にしていただきたいと思います。真宗の学びというのは、答えを出してわかってしまうことじゃないと思います。そんなことはわかった、こんなことはわかったということが、宗教についても人生についてもたくさんおありだったと思います。しかし、人生とはこんなものだと答えを出したところで、人生の解決になりません。
皆さん方は経験豊かですから、人生というものに簡単に答えなどないんだということを、私などよりもよく実感しておられると思います。
しかし、オウム真理教なんかでもそうですが、若い方がああいうカルト宗教に入ってしまう、その要因の一つはわかりやすさということがあるんです。そして、答えを出してくれるということ、人生とはこうだ、というふうに答えを出してくれる。そういうわかりやすさが、カルト宗教にはあるんです。
オウム真理教に入っていた人の多くは二十代、三十代です。大学を出た方が多いのですが、彼らは生まれてからずっと、答えは一つだ、答えを出して丸をもらうテストをクリアしていくことが勉強だと思ってきた人たちです。答えを出すことが正しいことだという教育をずっと受け続けてきた人たちです。ですから、答えがないことには耐えられないんです。それで、わかりやすくて答えが出ることを求めます。早くわかって答えを教えてくれるというところに魅力を感じて、カルト宗教に入っていく人が多いんです。
しかし、人生に答えなど簡単にないのだということを、皆さんも感じておられるでしょうし、もしあったとしても一つではないですね。いろんな答えがあるはずです。ですから答えがたった一つで、すぐわかるということの方が薄っぺらなことです。
私自身を学んでいくとか、私自身を問うていくことも、いきなり簡単に答えが出て、「うん、わかった」というようなわけにはなかなかいきません。むしろ、本当に問い続ける、そういう持続性というか、勇気というか、そういうものをいただいていくことが、学びの中で大事なことではないかと思います。
それから、『正信偈』『和讃』が親鸞聖人の感動や喜びの歌だと申しました。話としてはそうかな聞いても、その喜びがなかなかわからないというのは、もっともなことだと思うんですね。
けれども、たとえ言葉がわからなくても、他の国の哀愁を帯びたメロディーに人生のうらびれた悲しさを感じるということがあるでしょう。また、南米の陽気なリズムやメロディに何か躍動感を感じるということもあります。ですから、単純に言葉の意味がわかればいいんだということではないんですね。響きも大事です。
今まで真宗門徒は、親鸞聖人の喜びを我が喜びとしようという形で歌を歌い続けてきたわけです。その歌を本当に響くまで歌いこんだこともあるでしょう。あるいは、その歌の心を本当にいただくために『御文』を読むとか、お寺へ行ってお話を聞いたりして、自分はこんなふうにして心を受け取ったんだけどどうだろうか、ということをみんなで話し合うとか、そういう場をたくさん持っていたわけです。単なる個人作業ではないわけです。
『現代の聖典』の中に、「帰依三宝」という言葉が出ていましたが、仏と法と僧伽(さんが)を三宝と言います。仏教徒は「仏と法と僧伽を私の人生の宝として生きます」と名告る者です。これが仏教徒の基本です。よく仏法僧と言いますから、仏と法とは仏様と教えだから何となく大事なのかなと。しかし僧というのはお坊さんというイメージがしますから、ちょっと待ってくれということになります。しかし、僧伽とはお坊さんではなくて、インドの言葉で仲間という意味です。
つまり、教えの鏡に照らされて、こんなことに気がついたとか、こんなふうに私は聞いたんだということがあります。そのことをみんなが集まって、私はこんなふうに聞いたんだ、私はこんなふうに気がついたんだということを確かめ合うのが、僧伽の大事な意味です。確かめ合わないと、人間というのは自分勝手なところがありますから、自分に都合よく聞くんです。聞いてもないのに聞いたと錯覚するということがあります。聞き間違いですね。ですから、自分が聞いたり感じたりしたことを話し合うことによって、私はこう聞いたんだと言って、それを、あなたの錯覚じゃないか、そんなこと言っておられませんよ、聞き間違いですよ、というふうに、自分の聞き間違いや錯覚を糾してくれる仲間がいることが大事なんです。
仏教を学ぶことを個人の作業にすると危険です。自分の都合に合うように仏様や教えをこしらえてしまうんです。そういう錯覚や間違いに陥らないために、僧伽があるし、だからこそ宝なんです。本当に教えを確かめ合い、私は気がついたといい気になっていることを、そりゃ違うと糾してくれる先生や仲間を私が得たということが人生の宝だと。それが僧伽が三宝の一つであることの大事な意味なんです。
そういう場に参加して、親鸞聖人の『正信偈』『和讃』の言葉を親鸞聖人の教えの言葉として、喜びの言葉としてきた人がいることを学ぶんです。たしかに、直ちに感じられないということはあると思います。そういうことをふまえて、ご一緒に学んでいけたらと思います。
あともう一点、この中にも身近な方を亡くされたとか、あるいは大きな病気をされたということが一つのきっかけとなられた方がおられるということをお聞きしました。非常に大事なことだと思います。
『現代の聖典』の11ページにこういう言葉が出てきます。
わたしたちには、この労苦多き現代社会を充実した輝きをもって生き抜き、満足のうちに死を迎えることのできる人間になりたいという根本的要求があります。
私たちは人間ですから、労苦多い現実を生きています。「労苦多き」という言葉はいっぱい問題にぶち当たるということです。苦労がなくなったり、問題が消えたりというような人生はあり得ません。もし消えたりなくなったりしたと思ったら、それは錯覚です。問題は次から次へと与えられます。生きていることはそういうことだと思います。その問題を教えられ、気づいて、問題をきちんと見定めて、そしてそのことが自分の課題となっていく。問題から目をそらさずにきちんと問題をとらえて生きていく。そういう充実した人生を私は生きたいんじゃないだろうか、それが私たちの本当の願いじゃないだろうか。そういう言葉ですね。
そういうことを石川の浅田正作という方が明らかにしてくださっている詩があります。
思い違い
死ぬことが
情けないのではない
空しく終わる人生が
やりきれないのだ (『骨道を行く』)
私たちは死ぬのが恐いので、死ぬことが悪いことだとし、死ぬのが恐くなるなるようにと考えます。しかし、死ぬことが恐くなくなる方がよほど恐ろしいことです。死ぬことが恐くなくなった人間を作れば、権力者にとって都合がいいわけですね。戦争の兵士としても、鉄砲の玉としても、これほど便利に使える人間はいませんから。死ぬことが恐いというのは正常だと思うんです。
そうじゃなくて、死ぬことが恐いと感じた時に、死んだ後のことが不安になるのは、このままでは終われないということを我々が感じているからだと思います。このまま空しく終われない。自分に出会うことのない、自分の問題に気づくことのない、ただ身体を動かすことだけに終わっている。そのことがやりきれないのだ。本当に自分と自分の問題に気がつき、そして自分の問題に目を覚まして、智慧をもって自分の問題に取り組んでいきたい。そういう充実した人生を持ちたいんだ。そういうことが私たちの願いだということを、この詩で示しておってくださるんだと思います。
病気をしたりした時に感じられるのは、こういう問題ではないかと思います。人生にあらためてぶつかってみたい、ということが、この講座を受けるきっかけとなっておられるんじゃないかと思います。
また身近な方の死ということがきっかけになられる場合もあります。お葬式の時に歌う『和讃』があります。こういう和讃です。
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
本願力とは、教えに出会い、鏡に照らされて、自分自身が教えられて目を覚ますというはたらきです。そういう教えのはたらきに遇った者は人生が空しく過ぎないんだ、そしてそこに人が人になっていく道があります、空しく終わらない道があります、という歌です。そういうことを歌われた親鸞聖人の『和讃』をお葬式の時に歌うわけです。
つまり、労苦多き人生を生きつくされ、今亡くなられた方を前にして、私に空しく終わらない人生を生きているだろうかということが、あらためてその死から問われているわけです。そして、空しく終わらない人生を見つけて、人が人になっていく人生をきちんと歩んでほしいということが、亡くなっていかれた人が残された大きな願いですし、課題だと思うんですね。そういう、亡くなった人の課題を受けて、そこから問われ、自分の人生を見直そう、そういう形で、大事な人の死を通して、大事な問題に気づかせていただく。そして、そういう問題の与える人生を人として生きつくくして下さった方を前にして、あらためて自分が人生の問題を目を覚ましていく。こういうことがこの『和讃』を歌う大事な意味だと思うんです。
ですから身近な方が亡くなられたということは、その方から死をかけて説いて下さった大事な問題を受けていくことだと思うんです。こういうことから私たちは空しく終わらない人生を見つけて歩み出していく。そういうことが始まっていくことが大切だし、そういうことを大事に伝えてきたのが、真宗門徒であったのかなあ、と思います。
こういう問題を『現代の聖典』を学びながら感じていけたらと思います。今晩は遅くまで本当にご苦労さまでした。
(2001年8月18日(土)に徳栄寺で行われました安芸南組推進員養成講座でのお話をまとめたものです)
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