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「三つの出会い―阿難・韋提希・阿闍世」 第5回 |
2002年4月13日(土) |
第5回 「仏陀との出会い」
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どうもごくろうさまです。広島は春というよりも初夏の風情がしますが、私の住んでいる高山は、今ちょうど桜が満開です。今年は随分桜がさくのが早いですね。高山では桜も梅も桃も木蓮もみんないっぺんに咲くもんですから、よけいそういう感じがします。
NHKの朝の連続ドラマの舞台が高山なんですが、私はまだ見ていないんです。ああいうドラマの舞台に選ばれるというのは大変なことなんですよ。というのが、あのドラマを見て高山へ観光客が来てくださるということがありますし、町もそれを期待しているわけです。
いかにテレビとかに我々の生活の多くの部分が動かされているかと思います。
こないだ、新聞を一日何分読みますかという調査がありまして、平均35分です。テレビは119分という結果が出てまして、いかにみんながテレビを見ているかということです。
最近問題になっている政治家の秘書は必ず夜十時からのニュースは見ると言っておられました。テレビによって世論が作られるからです。
いいにつけ悪いにつけ、テレビという形で情報をたくさん受けながら私たちが生きているということをあらためて思います。
王舎城の物語は二千五百年前ですから、当然テレビはありません。しかし阿闍世の反逆自体が提婆からの情報が契機になっています。人間が情報によっていかに動いていくかということです。
私たちは情報を聞いて、いつでも正しく判断し、間違いのない結論を出せると、何となく大前提として思っています。けれども、情報が偏ったり、情報が間違ったりすれば、我々の判断や結論も偏りします。
親鸞聖人のような方はきっと間違いはないんだろうと思われるかもしれません。しかし親鸞聖人も、息子の善鸞という方を義絶するという事件が、親鸞聖人の晩年に起こっています。
あの事件が起こった最初のころは、善鸞からの手紙によって判断しておられますから、親鸞聖人からの判断もゆれて混乱しているわけです。
ですから、私たちはいつでも正しく間違いのない結論が出せ、判断ができると思っていますけれども、たくさんの情報に囲まれていますから、情報が偏ったり、間違っていれば、私たちも簡単に偏り、間違えるものなのだということを、あらためて考えなければならないということを思います。
2
それでは『現代の聖典』に入りたいと思います。復習の形になりますが、欣浄縁と呼ばれるところから入ってきたいと思います。52ページです。
「唯、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ。我当に往生すべし。閻浮提・濁悪世をば楽わず。この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願わくは我、未来に悪声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かいて、五体を地に投げて、求哀し懺悔す。唯、願わくは仏日、我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と。その時に世尊、眉間の光を放ちたまう。その光金色なり、遍く十方無量の世界を照らして、還りて仏の頂に住して、化して金台と為りぬ。須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みな中において現ず。あるいは国土あり、七宝合成せり。また国土あり、もっぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮のごとし。また国土あり、玻?鏡のごとし。十方の国土、みな中において現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたまう。時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと楽う。唯、願わくは世尊、我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ。」
(釈尊はただ黙って、胸のうちのありったけを吐き出す韋提希をじっと見守られるだけです。その沈黙は、やがて韋提希の心を、次第に内へと深まらせてゆきました。
「どうか世尊よ、このわたくしのために憂いや悩みのない世界をくわしくお教えください。わたくしはそのような世界にただちに生まれたいのです。汚濁と罪悪にみちたこの世にはいたくありません。この汚れた世界には、まさに地獄・餓鬼・畜生の境界におちいっているものたちが満ちみち、よからぬ輩が群をなしています。わたくしはもうこれからは悪事を耳にしたくはありません。悪人を目にしたくもありません。今、わたくしは身も心も世尊の前に投げ出して、お慈悲を願い、わたくしの罪を懺悔いたします。どうかお願いです、世の闇を破る智慧の光である仏さま、わたくしに教えて少しの濁りもない浄らかな国をみることができますようにしてくださいませ。」
と韋提希はお願いしました。
これを聞いて釈尊は、眉間から金色の光をお放ちになりました。その光は、あらゆる方角に広がる無数の世界をすべて照らしたかと思うと、すぐに戻ってきて釈尊の頭の上にとどまり、金色の台に変わりました。それはまるで須弥山のようでした。その金色の台のなかに、十方の諸仏の浄らかでえも言われぬ美しい国土が現れていました。七宝でできた国がありました。蓮華で飾られた国もありました。鏡のような国もありました。そうした無数の諸仏の国土がすべてその金色の台のなかに現れていました。その厳かで尊いありさまは目にもあざやかなものでした。釈尊は諸仏の国々を韋提希にお見せになりました。それを拝見して、韋提希は申しました。
「世尊よ、これら諸仏の国々はみな汚れなく浄らかでひかり輝いておりますが、わたくしにはいま、阿弥陀仏のおられる極楽世界に生まれたいと願う心がおこってきました。どうか、わたしに極楽世界を心寂かに思い浮かべる方法をお教えください。阿弥陀仏の真実をありのままに受け取るすべをお教えください。」)
事件が起きて悲嘆にくれた韋提希が、最終的に阿弥陀仏の極楽世界を願うという、この王舎城の物語が経典にとりあげられた根拠になる一つのクライマックスの部分が、ここにあるかと思います。
先回もふれましたが、韋提希が胸のうちのありったけを吐き出すことから考えていきたいと思います。ここを善導大師は韋提希の愚痴だと見ておられます。
私はこんな悪い子をどういう原因があって生んだんだろうかということ。そして、この子がこういうふうになった原因は友だちが悪かったんだということ。しかもその友だちは釈尊の弟子であり、従弟である提婆ではないかということ。
そういうことをお釈迦様になげかけるわけです。それを韋提希の愚痴だと、善導大師はおさえておられます。
我々も愚痴を言いますが、愚痴というのは韋提希の言葉で言いますと、私は何の罪でこんな悪い子を生んだんだ、そういう言い方をします。この当時、阿闍世は四十歳前後ですが、四十年以上も前のことを持ち出して、何でこんな悪い子を生んだんだと言うわけです。
すでに過ぎてしまった過去をなぜと問うことが愚痴だと言われるわけです。同時に、過ぎた過去は自分がやってきたことです。いいにつけ、悪いにつけ、自分がやってきたことです。そして、その結果が出ているわけです。
そのことをなぜと問うわけですけれども、問わずにおれないものが韋提希の中に動いているということがあります。しかし、問うていても結果は変わらないわけです。もう起こってしまっているわけですから。ところが、もう起こってしまっていることを自分の事実として認められないものですから、なぜこんな目に遭うのだという形で、自分の心情が吐露されていきます。
そして、もうすでに長きにわたって起こっていることですから、元に戻ってやり直そうと思っても、やり直しがきかないんですね。もうやりなおせないし、戻れないことを、戻りたいという願いの中でなぜと問うわけです。そういうことが愚痴だと見ておられるわけです。
それから、お釈迦さまは世尊、仏陀でありながら、なぜ提婆という従兄弟を持ち、提婆を弟子にしたんですかと。本当に智慧があるのなら、提婆の性情、性格を見抜いて遠ざけるべきではなかったでしょうかと。こんな事件を引き起こすまで、なぜ弟子にしておき、従兄弟という関係を保っていたのですかと。韋提希はそのようにお釈迦さまに恨みがましく訴えるわけです。
これもすでに起こってしまっていることなんですね。ですから、どうにかするということでなくて、どうしても元に戻してほしいと思っているわけですが、考えても考えてもすでに起こってしまっているわけですから、いくら考えてもやり直すことはできないわけです。しかし、どうしても考えざるをえないし、そこに悩むし、非常に恨みを持つ。そのことをずっと引きずって口に出さずにおれない。そういうことが愚痴という形でおさえられています。
お釈迦さまに対して、元に戻してほしいと願うということが心情としてあると思うんです。あなたはお釈迦さまであって、仏陀であって、大きな智慧や力を持っている者であるなら、この私の状況を元に戻してほしいと。そして提婆を罰して、追放してほしいと。そういう心情が愚痴の底にあるかと思うんです。
そして、そういうことができるのはお釈迦さまたるゆえんではないか。宗教的権威として世に認められているんだから、阿闍世をさとし、提婆を叱って元の状態に戻すのが、お釈迦さまの意味ではないのか。そういうふうにお釈迦さまに訴える心情がそこにあらわされているかと思います。
つまり、韋提希はそういうものが仏陀、お釈迦さまだと思っていたし、そういうつもりで出会っていたと思うんですね。この人は大変偉い人で、この人にはみんなが頭を下げて、この人の言うことはみんな聞いている。だから、それだけの力があるはずだ。できることならその方の話を聞いて、私もそんな力を少しでも得たい。そういうつもりでお釈迦さまの話を聞いていたし、出会っていたかと思うんです。ですから、どうしてこんなことになったんだという愚痴の中で、そういうことを願ったかと思います。
これが日本のドラマだと、ここで水戸黄門の印籠が出てくるんです。あれは権威です。あの時代は三つ葉葵の紋というのは絶対的な権威ですから、あれが出てくるとみんなひれ伏すわけです。そして黄門の言うことを聞いて、元に戻ってめでたしめでたしとなるわけです。
そういう私たちがテレビドラマで目にするような水戸黄門の印籠のような力、権威、そういうものを釈尊に期待し、そういう意味でお釈迦さまを敬っていた。そういう韋提希の姿がこういう愚痴を吐くところに現されてきます。
私たちもそうしたことを宗教に求める気持ちが、私たちの宗教心の中にあるということを、こういう形で問題にされていると思いまね。
何かお願いすれば奇跡のようなことが起こって病気が治るとか、みんなが悪いことをしなくなるとか、そういうことが宗教や道徳の意味ではないかと考えるかと思います。そうしたことを何となく願うということがあります。
現に高山には新宗教の大きな大本山があるんです。その宗教は手かざしをして、手から目には見えないものが出て、病気を治してしまうと言っているわけです。最近、相談を受けている件では、病気になったのにお医者さんに行かす、手かざしで治すと言っているんですね。手かざしで治すんだとがんばっておられるけれど、どうしたらいいでしょうか、というご相談を二日ほど前に受けまして、帰ったら対応しなければいけないんです。
これで治れば宗教ではなくて医学です。そんな形が宗教だと我々はイメージしているわけです。
2
韋提希がそういう愚痴を吐く場面へお釈迦さまは現れてきます。そしてありったけ吐き出す韋提希をじっと見守って、黙って立っておられます。つまり、愚痴の出るような現場に立ち現れて、その愚痴を全部自分の身に受け止めて、黙って立ち続けるお釈迦さまがそこに描かれているわけです。
お釈迦さまはすべてを帳消しにするのではなく、愚痴を吐かなければいけないような苦しみの中にある場に立ち、苦しみの中から出てくる言葉を全部受け止めて、じっと聞いているわけです。そこにお釈迦さまがあるんだと。
我々の期待するものと違う形でお釈迦さまが描かれています。そういうところに、お釈迦さま、あるいは仏教、教えというものの意味が表現されていると思うんです。
実際は元に戻らないわけです。すでに起こってしまっているわけです。それを元に戻してくれと願い、愚痴が出てくるわけです。
それに対して、もう戻れないのが事実だ、その事実を生きているのが我々だと。その事実を知らせ、事実に向き合わせ、事実の意味を知らせるために現れてくるのがお釈迦さまなんだと。苦しみの現場にやってくるのが如来なんだと。
「来」というのは来るという意味です。事実を自分の都合よく帳消しにして、自分の都合のよい形に戻してほしいという願いを持つ者に対して、戻せないのが事実だと、その事実に向き合わせるためにやってきたのが如来、お釈迦さまなんだです。そういうお釈迦さまの姿が描かれていると思います。
その黙って立っておられるお釈迦さまをを通して、韋提希はようやく事実に向き合っていきます。
『観無量寿経』には、
我がために広く憂悩なき処を説きたまえ。我当に往生すべし。閻浮提・濁悪世をば楽わず。
と、韋提希がお釈迦さまに請うたとあります。
この場面はお経の上ではすうっと通っていきます。しかし、自分のつけている瓔珞を投げ捨てて、そしてさんざん恨み言を言った韋提希なんですから、直ちにそれならばということではなくて、この部分はかなり時間がたっていると思います。
その時間に何も語らず、しかもその場を去らずに立っているお釈迦さまがいるわけです。そのお釈迦さまの姿を通して、韋提希が自分の事実に向き合っていた時間があるわけです。そして韋提希は、自分は閻浮提、濁悪世をねがわない、という言い方をしていきす。
閻浮提とはこの私たちが住んでいる世界、この場所のことです。『現代の聖典』の注釈には次のように説明してあります。
閻浮提 梵語ジャンブドゥヴィーバの音写。穢州などと訳す。須弥山の南方にある州で南贍部州ともいわれる。古代インドの世界観から出たものであり、われわれの住んでいる現実世界を指している。
須弥山というのはヒマラヤのことです。その南にあるのがインドです。当時のインドの人はインドしか知らないわけで、日本やアメリカ大陸を知りません。インドがすべてですから、我々の住んでいる場所を閻浮提と言ってました。須弥山の南という意味です。
そしてその場所が濁悪世になっていると。「濁」とは濁って汚れているという意味です。濁悪処という言葉も使われています。
インドにたまたま部分的に汚れた場所があるという意味ではありません。あるいは、私たちが生きている世の中にたまたま汚れた場所があるというわけではありません。全部濁悪処なんだと言っているわけですから、日本の中に部分的に濁悪処と呼ばれる所があるとか、あるいはこの世の中にたまたま悪い濁悪な者がいるということでもないわけです。すべてが濁悪処だ、汚れている、濁っていると、そういうことが言われているわけです。
そういう事実を私たちが作り、生きていた。そういうことに韋提希が向き合ってきたからこそ、こういう言葉になっていると思うんですね。
そして「濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し」と、濁悪ということでは具体的には韋提希は地獄、餓鬼、畜生という言い方をしています。
3
地獄というのはこういうところだと、源信という方が書かれています。、
我、今、帰する所なく、孤独にして同伴なし。闇の中にあって、大火炎聚に入る。我、虚空の中において、日月星を見ざるなり。
これは源信という方の書かれた『往生要集』の文章です。源信とは『正信偈』に「源信広開一代教」とあります、比叡山におられた方です。親鸞聖人よりも二百三十年前に出られています。
その『往生要集』の最初に地獄の様相が書かれてあります。かなり細かな記述で、まるで行って見てきたようなことが書いてあるんです。地獄には八段階あって、今ご紹介した文章が出てきますのは、地獄の一番深い下の所にある阿鼻地獄、無間地獄と言われている所です。
阿鼻地獄とはどこにも帰る所がなくて、ひとりぼっちで誰も寄りそってくれる人がいない。そして闇の中で火のついたような事実の中に放り込まれる。そして日や月や星を見ることがない。こういう苦しみなんだと書いてあります。
「闇の中にあって」ということは、闇というのは何も見えません。私たちは何でも見えているつもりでいますが、光がなければ何も見えません。光が当たって初めて見えるわけです。闇とは光のない世界ですから、闇の中にいるということは全く自分が見えません。同時にまわりも見えないということです。
そして「大火炎聚に入る」ですから、そういう何も見えない状態でありながら、まさに火の中にいるようなものだということです。しかし、自分のやっていることや自分の身に火がついているような問題をいっぱい抱えているのに、闇ですからその問題が見えないわけです。火の中にありながら、火を感じない。そういう鈍感さの中に落ちているのが、この場合の闇です。
そして日や月や星を見ないということは、日や月や星によって私たちは方角がわかります。知らない土地に行って朝を迎えると、向こうから太陽が出てくる。ああ、向こうが東だとわかります。東がわかればあとの方角がわかります。月や星でもそうです。方角がわかれば、自分がいる場所がわかります。
つまり日や月や星を見ないということは、方角を見失うということです。どちらへ向かって歩いていっていいのかわからない。言うならば、闇の中にあっていっぱい問題が火を噴いているのに、それを感じない。そして同時に、歩いていく人生の方向も見失ってしまう。そういう形で孤独におちていることを地獄と言うんだと、『往生要集』には記されています。
韋提希にしてみると、戻りたいと願った世界が、閻浮提・濁悪世であったことが知られてきます。息子の阿闍世にも本当の意味で出会っていなかった。出生の秘密を隠して、その部分に仮面をかぶって出会っていた。そうしたことが知らされてきます。
韋提希は阿闍世が生まれる時に殺そうとしたわけです。
一つのいのちの誕生というのは無条件に祝福されるものです。いろいろ大変な状況の中で赤ちゃんが生まれてくると、まわりを明るくしますし、生まれてくれたと祝福します。その誕生を無条件に抱きとめられることが生まれる場面にあるわけです。誰もが悪いことをしようと思ったり、とんでもないことをしようと思って、生まれてきた者はいません。生まれてくる時はみな歓迎し、喜び祝福され、無条件で抱きとめられる形で生まれてきます。
ところが阿闍世はそういう誕生の場面に深く傷を受けたわけですね。祝福されて生まれてこなかったんですから。そして、そのことを阿闍世に隠しながら親子という形で生きてきたわけですから、どこかで仮面をかぶります。
ある程度阿闍世が成長したあかつきに、実はこういうことがあって大変申し訳なかった、しかしそれは私の大きな間違いであって、今はどれほどあなたを愛していることかと言っておれば、この事件は起きなかったわけです。ずっと隠して、表面はないことにして仮面をかぶっていたわけです。
今度の事件が起こって、韋提希が幽閉されます。それまで自分をちやほやして、自分を持ち上げてくれていたまわりの者が誰もいなくなるわけです。そうすると、まわりにいて信頼していた、例えば女官ですとか、かしずいていた家来がいたわけでしょうが、そういう者が誰も来てくれなくなります。すると、そういう人たちとどこで出会っていたのかということが出てきます。
みんなは、着飾って威厳をもち、王妃の椅子に座る韋提希と出会い、持ち上げていたわけです。そして韋提希も自分は王妃の椅子と同一だと思っていたわけです。しかし、みんな椅子に頭を下げ、椅子に気を使っていただけのことだし、自分も椅子の権威を力として、まわりを自分の罪福信を中心にして気ままに扱ってきたわけです。誰ともひとりの人韋提希として出会っていなかったわけです。
こういうことがあらためて感じられたのかと思います。
王妃という椅子に座っていますから、みんな椅子に頭を下げるわけです。椅子に座っていると、これはたまたま座っている椅子だということを忘れてしまいます。椅子と自分が昔から同一だと思ってしまって、椅子の権威を使って、まわりを自由に扱おうとします。自分を中心に、自分をちやほやしてくれる者をまわりに集め、自分に苦議を呈する者は遠ざけ、都合のいいもの(福)だけを集めて、いやなもの(罪)は遠くにやってしまう。いつのまにかそういう形で椅子に君臨していた韋提希があったわけです。
国会議員も椅子にとらわれているんでしょうね。椅子に座っていると、椅子の権威というものがありますから、みんなが慕ってくれたり、頼りにしてくれたりすることがあります。そして、椅子を失えばただの人になりますから、椅子を失いたくない気持ちが出てきます。
しかし、選ばれてみんなから期待されて、椅子に座っているわけですけれども、いつの間にか椅子と自分を混同してしまって、自分の気ままに椅子の権威を使うことが出てきます。
そういうことが最近の政治家のいろんな問題になっています。椅子を守るためには嘘をつくこともありますから、いよいよ政治不信になります。
椅子を失いたくないので椅子に執われる分だけ、まわりが見えなくなります。そういうことが我々の中にもあります。私たちもその人がその椅子に座っているから頭を下げることがあります。本当にその人を尊敬し、頭を下げることもあるでしょうが、別段尊敬はしないけれども、椅子の効力がありますから、どうもどうもと頭を下げておくことがあります。
しかし、いつの間にかそういう構造の上に立っていることが見えなくなってきます。ですから、韋提希もみんなとうまくつき合っているように思っていたんでしょうね。ところが気がついてみたら、みんな椅子に頭を下げていただけだった。私も椅子と自分を混同し、みんなが私を慕っていてくれると思っていた。しかしよく考えてみれば、私も椅子の権威を利用して、気ままに人を扱っていたことがあった。椅子や瓔珞を抜きにして裸のままで人と人と出会っていなかったことが知られてきます。
そういう状況におかれて、あらためて孤独の状態になって、本当にひとりぼっちだと気がつくわけです。そしてその一人ということがまさに闇であって、人生の方向を失っていくことであった。そういう孤独におちいることが起こってくる。それが地獄だと、源信は言われているかと思います。
4
そして餓鬼ということについて、これも『往生要集』の言葉です。
自ら美食をくらいて、妻子に与えず。名利を貪るために、不浄説法せしもの
そういう者が餓鬼道に堕ちるんだと書いてあります。「自ら美食をくらいて、妻子に与えず」という文章の後に、奥さんが自分だけ食べて旦那さんに与えないということも出てきます。要するに自分だけ食べるということです。自分だけいいものを食べるとか、自分だけ都合よくする。
ですから単に食べ物だけではなくて、名利を貪るということも出てきます。自分の地位とか名誉、そういうものを貪り食べるということが餓鬼だと。
そして、自分の名誉や地位を貪るために、自分はいかに立派か、自分はいかに正しいかと正当化することを論じて止まない。不浄説法とはそういうことです。事実を言わないわけです。自分がいかに立派で正しいかを知らせる話に終始してしまう。
語弊があるかもしれませんが、鈴木宗男さんと田中真紀子さんの問題の発端となったNGOの大西さんという方が、わざわざアフガニスタンから国会の参考人招致された時に、いろんな党の方が質問されていました。ある方が、私も海外援助をいろいろやった、こういうこともやったし、ああいうこともやったと、そんなことを述べて、質問はほんのちょっとということがありました。あれは自分にいかに業績があるかということを宣伝するために質問に出たような感じがしましてえ、この人は何を言っているのかなと思いました。
本来、大西さんが参考人として呼ばれたのは、NGOがアフガン復興のための国際会議に出られなかったのはどういう事情で、どういう圧力があって、どういうわけで出られなかったのかという事実を解明するために来ていただいたわけです。自分の今までの功績を長々としゃべるのはどういうことかと思います。
自分が今までやってきたことを宣伝するとなると、名利をむさぼる不浄説法になってしまいます。
往々にして我々はそういう形で不浄説法をします。自分のいいことを全部自分だけに集めてくる。そして他の者には絶対与えない。これが餓鬼です。
第一回目の講座で、日本のグルメブームがそうだとお話ししました。世界中からお金の力で食べ物を買ってきて、半分捨てている。一年間の生ゴミの量が一千万トンです。これは日本でできる米の量と同じです。たくさんのものを買ってきて、半分は食べきれずに捨てている。しかし、地球のあちこちでは三十億の人が飢えていて、年間一千万人を超える四歳以下の子どもが飢えて死んでいきます。
そういう火を噴くような現実がありながら、自分たちがうまいものや健康食を食べることがすべてになっているわけです。火の噴くようなものが見えないわけです。そして自分たちのやっていることが全く問われない。
こういうことを抜きにして、地獄や餓鬼がどこか他の所にあるという話では決してないんです。まさにそういうことを私がやっていたということに気づいていくのがここの韋提希の部分です。
5
それから畜生というのは、
愚痴無慚にして、いたずらに信施を受けて、他の物を償わざりしもの。
と、『往生要集』に書いてあります。
「信施を受けて、他の物を償わざりしもの」というのは、もらいっぱなしということです。自分だけに全部を集めて、自分の全存在をかけて他に与えることは一切しない。そして、そういうことに何のためらいも悲しみも問題も感じない。そういうものが畜生だと言われています。
それから『現代の聖典』の注釈にもありますが、畜生というのは「傍生とも訳す」とあります。傍らを生きるということです。傍らに対するのは主です。傍生とは、常に主体的でないということです。いつも世の中に対して斜にかまえて、自分の責任を感じない。斜めから傍観するわけです。そして自分の責任として問題を考えようとしない。評論家にはなっても当事者として問題に取り組もうとはしない。そういう生き方が傍生です。主体的責任を持たないということです。
ですから畜生といっても、犬や猫といった動物のことをいっているんでなくて、人間のことです。そういうことに痛みも悲しみも感じない。平然としている。
逆に言うと、あらゆるものを傍生にしてしまうことが畜生なんですね。全部傍らにしておくわけです。自分の都合が中心にあって、いろんなものを傍らに置く。
教えでもそうです。いいお話を聞きました、参考にします、というのは、教えを傍らにしているわけです。都合のいいところだけ取って参考にするわけです。全面的に教えの前に真向かいになるわけじゃないんです。気の利いた言葉を覚えたから誰かに言ってやろうと。そうやって教えを傍らにして参考にしているわけです。
人でもそうです。政治家がそうでしょう。秘書制度を利用して都合のいいところだけ使っています。秘書という存在は傍らにしています。そして都合のいい時だけ秘書を使う。利用する価値がなくなったら傍らにポイと捨てる。そういうことが傍生です。
そうやりながら、中心に座っているのは自分の罪福信です。都合の悪いものは横にやり、福だけを、都合のいいものだけを集めていく。そういう形で生きていく。自分の弱点、鬼は外と、全部外にやってしまい、福は内と都合のいいものだけを集めていく。
6
韋提希はそんな形で人に接していたわけです。そういう自分の事実を、釈尊の無言の説法のうちに知らされてきたかと思うんです。何もなくて、「濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し」という言葉が出てきたりはしません。
人に全く会えない、地獄のような世界を自分で作って自分で生きていた。そしてその中にあって自分で苦しんでいた。韋提希はそういう自分に向き合ったわけです。
そして深くこのことを知って、「いま世尊に向かいて、五体を地に投げて、求哀し懺悔す」と。懺悔とは自分のやってきた自分のお粗末さに恥じ入って深く自分の罪を認めていくことです。立ち続けるお釈迦さまを通して自分の事実を知らされたんです。そしてそれを認め、それを懺悔した。そういう韋提希に変わっていくわけです。
そこにお釈迦さまの教化、教えのはたらきがあったと見ることができます。ただぼうっと立っていたんじゃなくて、黙って立ち続けるお釈迦さまを通して、韋提希に事実を知らせるはたらきがお釈迦さまだということです。そのはたらきにあって初めて韋提希は自分の事実に向き合って懺悔することに変わっていきます。
そしてそこから韋提希は「我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と、清浄の業処というものを見たいと願っていくわけです。
清浄というのは単に清潔で美しいということではありません。仏教で清浄という場合は、『正信偈』に「天親菩薩造論説」とある天親菩薩というパキスタンに生まれた方で、ヴァスバンドゥという名前の方がおられます。天親とか世親と言われます。この方が清浄というのはどういうことかと言うと「勝過三界道」ということが清浄ですよと教えておられます。三界道というのは迷いの世界ということです。勝過とは超えるという意味です。
私が今までやってきたことはよく考えれば地獄や餓鬼や畜生を作るようなことだった、ということに向き合った韋提希は、深く懺悔して、最初は元に戻してくれと言ったんですが、元に戻ることは地獄に戻ることになりますから、地獄を今以上に作っていくことになります。それで元に戻ることをやめます。そして無憂悩処を願います。そしていよいよその中で、自分の事実を見て、迷いを超えた世界を見せてほしいと、韋提希の中に変化が出てきます。つまり、自分がいかに迷いの中にいたかが知らされてきたということがあるかと思います。
と言いますのは、迷いを超えるというのは、迷いの世界のことは関係ありません、知りませんと、無関係のことにするんじゃないんです。もしそういう意味で清浄と言うのならば、何の関係もない話になります。こんな所があったらいいですねという話です。
迷いの世界とは我々の現実です。超えるという形で示されているのは、迷いの世界、まさに地獄、餓鬼、畜生と言わなければならないような中に生まれ、それを作っている。そういう世界の事実を照らして明らかにし、そういう問題に気づかせることが超えるということです。それによって初めて超えるという意味があるわけです。
無関係なら超えるも何もないですよ。関係ないところにそういうものがぽつんとあるということになります。
あえて迷いの世界を超えることが清浄だと言われているんです。迷いの世界にあって、それが闇であるために知らない者に、闇を破ってその事実を気づかせるというはたらきが超えるということです。そういう超えるはたらきを持っているものを清浄と天親菩薩は言っておられます。
立ち続けるお釈迦さまからそういうはたらきを受けて、自分の事実を知らされて、その自分の事実を知らしてくれる世界を見せてほしい、そういう言い方をここで韋提希はしていると思います。
その時に世尊、眉間の光を放ちたまう。その光金色なり、遍く十方無量の世界を照らして、還りて仏の頂に住して、化して金台と為りぬ。須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みな中において現ず。あるいは国土あり、七宝合成せり。また国土あり、もっぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮のごとし。また国土あり、玻?鏡のごとし。十方の国土、みな中において現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたまう。
(これを聞いて釈尊は、眉間から金色の光をお放ちになりました。その光は、あらゆる方角に広がる無数の世界をすべて照らしたかと思うと、すぐに戻ってきて釈尊の頭の上にとどまり、金色の台に変わりました。それはまるで須弥山のようでした。その金色の台のなかに、十方の諸仏の浄らかでえも言われぬ美しい国土が現れていました。七宝でできた国がありました。蓮華で飾られた国もありました。鏡のような国もありました。そうした無数の諸仏の国土がすべてその金色の台のなかに現れていました。その厳かで尊いありさまは目にもあざやかなものでした。釈尊は諸仏の国々を韋提希にお見せになりました。)
そして韋提希の所にお釈迦さまの眉間から光が出て、それが反射して帰ってきて光の台ができて、そこにいろんな世界が映ったと。玻?鏡の国とか七宝の国、自在天宮の国とかがいっぱい映ったということになっています。今でいうとビデオみたいな話です。
そういう形で、お釈迦さまから今まで聞いてきた説法が韋提希の中に甦ったということもあるんでしょう。
そういう世界を見ながら最終的に韋提希はこういうふうに言うわけです。
時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと楽う。唯、願わくは世尊、我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ。」
(それを拝見して、韋提希は申しました。
「世尊よ、これら諸仏の国々はみな汚れなく浄らかでひかり輝いておりますが、わたくしにはいま、阿弥陀仏のおられる極楽世界に生まれたいと願う心がおこってきました。どうか、わたしに極楽世界を心寂かに思い浮かべる方法をお教えください。阿弥陀仏の真実をありのままに受け取るすべをお教えください。」)
いろんな仏さまの優れた、それこそ迷いの世界を照らして破っていく、そういう超えるはたらきを持った世界を見せていただきましたが、私は今阿弥陀仏の御許に生まれようと思います、ということを韋提希は突然言い出すわけです。
いろんな世界を見ながら阿弥陀仏の浄土も見て、そしてここが一番よさそうだと思ったというんじゃないんです。阿弥陀仏の世界は出てこないんです。見ていないのに阿弥陀仏の世界を願うということが、ここに突然出てくるわけです。ここが大きな問題です。
ヒントはお釈迦さまです。取り乱して愚痴って、恨み言を言う。その韋提希の恨み言に何も反論せずに黙って立って、愚痴を聞いている。ぼんやりしているんでなく、真剣に韋提希の言葉を聞いている。しかも全部受け止めていて、そしてこの場を去りたいという無憂悩処という願いも聞いて、そしていろんな清浄な世界を見たいという願いも聞くと。
つまりそうやって韋提希の言葉に寄りそって、韋提希の願いが展開していくことにつき合っているお釈迦さまがそこにいるわけです。
しかしよく考えてみると、お釈迦さまも危険な状態にあるんです。自分を殺して仏教教団のリーダーになろうと思っている提婆、その提婆と組んだ阿闍世、この二人が組んだクーデターが成功して、阿闍世が王になっています。今度はお釈迦さまが狙われる番です。
そういう状況にもかかわらず、お釈迦さまはわざわざ王舎城の中に入っていきます。苦悩の現実にやってくるわけです。そしてその場を去らずに韋提希につき合い、深い愛情で韋提希の願いを受け止めていこうと立ち続けるその人が、韋提希の目の前にいるわけです。韋提希が自分の事実に気がついて目を覚まし、課題を明確にしていくという歩みにつき合ってくれ、はたらきかけてくれている人がいるわけです。自分の身の危険をも顧みずに。
韋提希はその全体を見ながら、お釈迦さまの足元を見たかと思うんです。一体この人は何を立場としてここに立っているのかということです。
危険なんですから他の国へ移動したらいいんです。お釈迦さまを擁護してくれる国は舎衛国といって、祇園精舎をお釈迦さまに提供している、マガダ国に対抗できる大きな国があります。そちらへさっさと身を移せばいいわけです。
しかしそういうことをせず、一番危険な場所に来て、韋提希の目覚めにつき合い続けるこの人がいる。身の危険が迫るこの現実に微動だにせず立ち続け、私につき合ってくれている。あなたは一体どこに立っているんですか。
こういう気持ちが当然韋提希の中に出てきます。
そして、あなたが立っている場所に私も立とうと思います。こう言ったわけです。あなたが立っている場所に私も立ちます。そしてこの現実に深い愛情を持ってはたらきかけるあなたが立場としているその世界を、私も立場としたいと思います。
そういうふうに言われた言葉が「阿弥陀仏の所に生まれんと楽う」ということだと思います。
韋提希は初めは無憂悩処という形で、この現実が地獄餓鬼畜生であり、私もその現実を生みだしながら大変なことをしていた、だからこの場を去って別の所へ行きたい、と考えたわけです。
しかし、その現実に立ち続けて韋提希にはたらきかけるお釈迦さまの足元を見たわけです。この現実にあなたのように立つことができるのですか。立てるとするならば私もそこに立とうと思います。そう願ったわけです。
なぜならば、今まで人として出会えなかった阿闍世がこの現実にいるわけですし、自分が好き勝手に扱ってきた王舎城の女官たちもいるわけです。一時期それを全部捨てて他の場所へ行こうと考えたんですが、阿闍世や女官やいろんな人を見捨てずに、この現実にあなたのようなはたらきを持って立ち続けることができるのならば、あなたの立っている場所に私も立つんだ。そういうことをこうした展開の中で韋提希は気づくわけです。ですからお釈迦さまがヒントなんです。
『正信偈』にこういうふうに言っておられます。
如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。
この如来とは釈迦如来のことです。『正信偈』には如来という言葉がいくつか出てきますが、阿弥陀如来を指している場合もあるし、お釈迦さまを指している場合もあります。そこを注意して読まれたらと思います。
お釈迦さまがこの世に出られたのは何のためかというと、それはただ弥陀の本願海を説くためなんだと書かれています。
つまり、韋提希の作ってきた事実をあますところなく知らせ、そして自分の事実に目を覚まさせよう、火を噴くような課題がいっぱいある事実に目を覚まさせよう。そういうはたらき、真実のはたらきですね。自分が暗いために自分とまわりを見失って、かえって世の中の闇を作り出して、さらに苦しんでいく者に対して、自らの問題に目覚めよと願いかける、愛情のある願いかけがあるのだと、そういうことを我々に先立って目覚められたのがお釈迦さまです。
そして、この愛情ある願いかけを立場として、願いかけそのものとなって韋提希に目覚めよとはたらきかけ、立ち続けるお釈迦さま。本願に目覚めた人、仏陀。事実に目覚めよという願いかけがあるんだと。その願いに我々に先立って目覚めた人仏陀が願いかけそのものとなって韋提希の前に立ち続けているわけです。そのお釈迦さまにここで初めて韋提希が出会うんです。
韋提希はそれまではお釈迦さまを偉い人だと思っていたけれども、そういう本願に目覚めた人、仏陀という意味を知らなかったと思うんですね。偉い人、知識人だと思っていた。いろんなことを知っているし、みんなが尊敬するし。
だから、お釈迦さまのお話を熱心に聞いて、その知識を分けてもらい、その知識やふるまいをまねることで、自分も立派になっていこうと考えたわけです。それだったら仏陀ではなくて、偉い先生に出会ったことになります。ですから、参考になることを聞いて役立てようと思って、お釈迦さまのお話を聞いていたのかもしれません。
そうじゃなくて、お釈迦さまは私の全存在を目覚めさせようとされる人、仏陀なんだ、そして我々に先立ってそういう真実の願いかけに目覚めてくれたんだと。そしてその願いかけがあることを我々に説いてくださっていたんだと。
それがお釈迦さまだったという意味に初めて出会って、お釈迦さまが目覚め、立っている阿弥陀仏の本願の世界に私も立って、この現実に立ち続けていきたいと思います。そういうことをここで願っているわけです。
韋提希は今まで長いことお釈迦さまのお話を聞いていたわけですが、初めて仏陀としての釈尊に出会ったわけです。言うならば、出会い直したわけです。
こうして韋提希の歩みが地に足のついたものになって出発するということが、ここの部分でないかと思います。そういうことが王舎城の物語を通して我々に教えられたと思うことです。
7
今日お話ししたことをまとめておきたいと思います。
韋提希は自分が欠点のない完成した人格となることで救われる、立派になって救われると考えていたのではないでしょうか。そして、お釈迦さまの教えをそのための手段として参考にしようとしたんです。
都合のいいところだけ取ろうかなあ、役に立ちそうなところだけ取ろうかなあ、と、教えを傍らにおいて、都合のいい時だけ使って自分を立派に見せていけるような言葉とか内容をつかんでおいて、それを使って立派になっていこう、あるいは立派な形をとっていこう、こう考えたかと思うんです。
我々はいろんなことを知りたいという知識欲求があります。そういう形でお釈迦さまに関わっていたと思うんです。
そして、お釈迦さまを参考にして学び、誰もが尊敬するお后像を目指したことが、は韋提希の出発というか、初めの姿であったかと思います。
その理想像の自分が阿闍世の反逆によってかなわなくなるわけです。韋提希は立派なお后像を目指したんですが、はからずも息子が反逆して王妃の椅子から追われてしまうわけですし、みんながうらやむ仲の良い親子三人の家庭だったわけですが、それが見事に崩壊してしまうわけです。
頻婆娑羅は幽閉されて孤独に陥りますし、韋提希も幽閉されて孤独です。阿闍世はそうじゃないのかというと、一番最初に孤独に陥っています。信頼し、愛情を持っていてくれていると思っていた両親がそうじゃなかったわけですし、国中のみんなが自分を期待し、ほめていると思っていたのに、裏に回ったら、今にとんでもないことをする奴だと見られていたわけです。阿闍世は完全に孤独に陥っていたわけです。
一つの絆で結ばれていた家族が、完全にバラバラになって孤独におちて崩壊してしまう。韋提希は理想とするお后像を目指したのにかなわなくなり、それで別の世界で救われたい、この現実を後にして別の所へ行こう、引っ越ししたいと言い出すわけです。自分のことを誰も知らない所に行ってみたい、そういう思いになったわけです。
そして、自分とその世界の問題を知り、その世界を後にして別の清らかな世界に移って救われたいと願って、それで清浄業処を願うわけです。
そうした韋提希の展開に黙ってつきあい、最後まで寄り添って立ち続けるお釈迦さまをあらためて見つめた韋提希は、韋提希に韋提希とその世界の問題をどこまでも明らかにするはたらき、それについては、全くその通りだとうなずくほかはないはたらきが、お釈迦さまのはたらきであることに気づいたわけです。仏陀としてのお釈迦さまにあらためて出会ったわけです。そしてお釈迦さまが立っている、その通りだとうなずくほかないはたらき、真実のはたらきこそが信頼して立てる場であることを知ったわけです。
こういう韋提希の展開をお話ししてきたかと思います。
もう少しまとめて言いますと、韋提希は高い能力を持った人だったわけですし、王妃ですから最高の地位です。生まれはカーストでいうとクシャトリアという王侯貴族の階級ですから、生まれを誇っていたわけです。
そして、そういうものによってきちんと秩序立てられている、もちろん内容は差別を使った支配構造ですが、それが当然とされる国で安泰な場所にいたわけです。そしてそういう中で、なお立派になるという希望や予定をたてて、そこに立とうとしていたわけです。
しかしそれらが崩れると、自分が変身できる場所、違う自分になれる場所に立とうとします。
しかしよく考えてみると、それはお后の椅子に座って作り、歪めてきた現実を見捨てることですし、息子である阿闍世を見捨てていくことになります。そして、そういう自分の課題をも放棄することになります。
そういう中で韋提希はあらためてお釈迦さまの意味を知るわけです。私たちの事実にある歪みや問題をあますところなく明らかにする真実のはたらきにふれ、そのはたらきをあらゆる人と共に目覚めようという場所が、この現実の真っ只中に開くわけです。お釈迦さまの立っている場所という形で。そこを願うということが「阿弥陀仏所を楽う」という言葉です。
そのように韋提希の気持が展開していったかと思います。
8
お釈迦さまというのは何か正しく、真実なものになって救われたというのではなく、お釈迦さまもまた自らの事実に目を覚まして救われたんです。そして事実を知らせる教えを真実という形であおがれました。それが仏陀ということです。本願海に目覚め、本願海を説かれたわけです。
私たちの側に真実があるんじゃないんです。我々に真実がないから真実になっていこうということでもないんです。私たちの側にあるのは事実です。
ここのところを私たちは混同しています。我々の方はまさに韋提希が抱えているような火を噴く問題をいっぱい抱えている事実があります。その事実を知らせるという形で真実が私たちに到り届くわけです。
ですから真実とは、事実を明らかにし、事実に目を覚まさせるはたらきが、真実です。私たちが真実になるんではないんです。我々の側には目を覚まさせなければならない事実があるんです。
私たちはいろいろ聞いて、だんだん自分が正しくなっていくという前提に立って学ぶということがあります。近代の学び方は全部そうなんです。学んで知識をたくわえて、そのことでだんだん自分が正しくなっていき、正しい判断ができる者に変わっていくんだと。
そうではなくて、情報が片寄っていれば、すぐ片寄ってしまうのが我々の事実なんです。正しい判断ができるようにならないのが我々の事実です。そういう事実をあますところなく我々に知らせるものが真実なんです。
仏教の教えを知識として聞かれることがあります。それは我々もそうなんです。知識として聞いた以上、たくわえて、覚えて、理解して、わかって、正しくなっていく。そういうのが前提になっています。ですから、お寺の話は聞いても聞いてもすぐ忘れてしまいますとか、右の穴から入って左の穴からすぐ抜けてしまいますと言われます。これが我々の事実ならそうなんだと思います。
忘れることを心配されることはありません。忘れるからまた聞けるんです。忘れずに覚えていたら、ああ、あの話は前に聞いたと思って、まじめに聞かなくなるほど横着なのが私たちです。忘れるということは非常に大事なことです。忘れるからまた聞けるわけです。
蓮如上人が『正信偈大意』という『正信偈』について大まかな意味を整理された文章があります。その中で『正信偈』の「正」について、
正というは傍に対し、邪に対し、雑に対することばなり。
と書かれています。
「対」というのは比べるという意味ですし、別だという意味、違うという意味があります。
たとえば広島カープ対阪神タイガースという場合、広島というチームと阪神というチームが野球というゲームを競い合うわけですから、点数をどちらがたくさん取れるかを比べっこするわけです。そして広島と阪神とは違います。前の回まで阪神のピッチャーをしていた選手が、次の回に広島のバッターになって出るということはありませんから、違うということがあります。
「正」ということは、これこれのことが正しいことだと蓮如上人は言われないんです。これは仏教の大事な視点です。正しいというのはこういうことだと決めて言わないんです。正しいということは「傍」ではないし、「邪」ではないし、「雑」ではないという、そういう言い方で「正」を表現します。
「傍」というのは傍らです。あらゆるものを傍らにする。教えも人もものも全部傍らにおいて都合のいい時だけ使って、いらなくなれば捨てる。
先ほど言いましたように秘書制度を傍らにして、使っていらなくなれば捨てる。秘書と議員は一体だという言い方をしますが、それは秘書がやったことですと言って、都合が悪くなれば秘書を捨てます。人もものもいのちも傍らにしていきます。人間は地球をも傍らにして使い切っていこうとしています。さんざん汚しておいて。
それから「雑」、雑じるということで言いますと、傍らにしておいて、いいものは何でもかんでも使うわけですから混じります。
観音さまにお願いをする、お稲荷さまにもお願いする。何にでもお願いしますから混じります。議員のことで言えば、政党にもいい顔をするし、自分の派閥にもいい顔をしたいし、業者にもいい顔をしたいし、地元の有権者にもいい顔をしたいわけです。これらは立場が入り混じっていますから、表裏善悪が完全に混じってしまいます。
そういう形で自分の都合のいいものだけを集めて、いらないものを捨てていこうという罪福信を中心にしますから、当然あり方が「邪」になって歪みます。そういうことでないことが正ですと蓮如上人は言われるんです。
そういうふうに言いますと、では人を傍らにすることや邪なあり方や、雑じることをやめて、正しくなっていかねばならないんだというように、私たちは聞きます。だから、それならどうすればいいんですかと聞かれるんですが、「対し」「対し」「対し」と言われているのは、そういうことではないんです。
「傍」であったり、「邪」であったり、「雑」であることをやめて、正しくなるのが正しいことだと言っておられるんじゃありません。私たちのあり方を知らせ、気づかせ、こういうことになっているんだ、目を覚ませと教えてくださるはたらきが「正」なんだということなんです。
私たちが「傍」や「邪」や「雑」というあり方に陥って、そして地獄を作り、餓鬼を作り、畜生になっている。そういう事実を我々に知らせ、どこまでも目を覚ませと関わってくるはたらきを正しいものとして信頼しなさいと。
私がこういうあり方をやめて、だんだん正しくなっていく自分を信頼していくんじゃないんだと。私たち自身を教えてくれる教えを信頼するんだと。信頼するものが違うわけです。私たちは自分がだんだん正しくなっていけることを信頼しているわけです。そうじゃなくて、どこまでも私の問題を照らし出す教えを正しいものとして信頼しなさいというふうに信頼する場所が違うんです。それが仏教の非常に大事な点だと思います。
仏陀というのは私たちが立派になるとか、正しくなることを期待しておられるんじゃありません。正しくなってから救ってやるんだということならば、もう救われなくてもいいわけです。
正しくなることを条件にされていません。がんばって立派になれとか、正しくなれとか言われるんじゃなくて、そういう言い方をすれば、がんばらなくてもいいんだ、あなたはあなたになればいいんだ、あなたはあなたの事実に目を覚まして、どこまでも問題があることに目をつけていきなさい、その問題を見えなくしたり、忘れたり、ないことにしたり、ごまかしたり、そしてそこから離れて逃げようとせずに、私がいろんな問題の真っただ中にいたんだという事実に目を覚ましなさい、そしてそのことをどこまでも教える教えを信頼しなさい、と仏陀は言われるのです。
そういう意味で、あなたはあなたになればいいと言われていると思うんです。そういう仏陀のはたらきに初めて出会い、初めて自分に出会うのです。仏陀に出会うということと、私に出会うことは一緒です。
そういう形で韋提希はあらためてお釈迦さまに出会い直していったんだと思います。そして自分の事実にきちんと立って出発するのが、これからの韋提希の歩みなんだと思います。
今日読みすすめた部分はそういうことが説かれてある大事な部分であると思うことです。
(2002年4月13日(土)に誓立寺で行われました安芸南組推進員養成講座でのお話をまとめたものです)
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