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   肥塚 侾司神父
     「キリスト教とは? ―イエスの生き方から―」
 
                                    2009年4月25日

  1 イエスとキリスト

 カトリック教会の司祭をしております肥塚と申します。今日は「キリスト教とは何か?」ということでお話しいたします。
 キリスト教の「教」とは、教会・教団・組織という面があります。それからもっと広く宗教ということ。もう一つ、教えという意味があると思います。
 では、キリストとは何かというと、イエス・キリストとは通称といいますか、個人の名前だと思っている人が多いと思うんですね。マリリン・モンローとかジェームス・ディーンというような。
 でも、キリストとは名前ではないんです。普通名詞です。キリストとは名前の一部ではなくて、称号というか。これは大切なことかと思います。イエスとキリストを混同することは僕らもしているんです。キリストがイエスを指す場合があります。だけど、本当は区別しないといけない。
 キリストとはメシアという意味です。メシアとは救世主のことで、ヘブライ語です。イエス以前から使われている言葉なんです。もともとの意味は「油を注がれた者」「油を塗られる」ということです。神様から特別な使命をもらっている人に油が塗られる。具体的には王様が任命される時、祭司が任命される時、それから預言者が任命される時に油を塗られる。
 仏陀という言葉と似ているかなと思うんですね。仏陀とは悟った人、目覚めた人のことで、それがお釈迦様、ゴータマ・シッダルタという特定の個人を指す言葉としても使われているでしょう。それと同じようなことかなと。

 時代の流れの中でメシアという言葉が救い主という意味に限定されて、神から遣わされた救世主という意味を持つようになります。ですから、イエスをイエス・キリストと言うと、イエスがキリスト、救い主だと信じるということになるんですね。ナザレのイエスとよばれる、二千年前に人間として生まれたイエスが、神から遣わされた救世主だと認めたと信仰告白をすることになるわけです。そして、イエスは十字架にかけられて死に、そして復活したということが信仰の中心になります。
 イエスを救い主として信じているということになると、宗教的なレベルになってきます。イエスは神から遣わされた私たちの救い主だと信仰告白する人たちの集まりがキリスト教という教団です。そして、イエスを救い主だと信じる宗教がキリスト教だということですね。
 イエスが私にとって、あるいは私たちにとっての救い主だと信じた人たちが、最初はイエスの直弟子が集まって教会を作り、教えを伝えてきた。そこでキリスト教という宗教が誕生するわけです。

 でも、僕はキリスト教とは何かと聞かれたら、神格化された救い主として拝む対象としてのイエス・キリストではなくて、一番中心になるのは実際に生きて、人々に語りかけた、そのイエスの教えと生き方、それがキリスト教の核になると思います。組織や教団ということではなくて、イエスという人がどんな教えを説かれたのか、どういう生き方をされたかということです。イエスは自分が語ったとおりに生きた人です。その結果が十字架での死と受けとめています。僕にとってはそこが中心かなと思うんです。
 そこに焦点を絞って極端なことを言えば、キリスト教という組織とか宗教とかでなくても、イエスの教えに従い、自分の生き方のモデルとして生きようとする生き方もあるわけですよね。
 救い主としてのイエスではなくて、イエスという人がどういう教えを説かれて、どんな生き方をしたのか、それを2000年後の私が受けいれて、その生き方を自分の生き方としてキリスト教徒として生きるということ。

 組織とか宗教ということは後からついてくることであって、ナザレのイエスという一人の人間がこの地上に生きて、その教えと生き方を自分の生き方と受けとめるということがまず第一です。
 カトリックとプロテスタントとはどうなのかということは、組織や教団のことになってくるんです。仏教とは、イスラム教はとなると、宗教というレベルになってくる。でも、今日はそういう話ではなくて、イエスという人の生き方とその教えにスポットを当てて話をさせてもらいます。それが核だと思うからなんです。


  2 善いサマリア人

 キリスト教では福音という言葉を使います。「福」は幸福、幸せ。「音」は音楽の音ではなく、音信不通の音、便りとか手紙という意味です。だから、福音とは幸せの便り、グッドニュース。人間が幸せになる便り、知らせを福音と言います。福音という言葉はもともと『旧約聖書』の中にも出てきますけれど、イエスのことを書いた福音、幸せの便りが『新約聖書』です。
 今日は『福音書』の中から、私にとってイエスの教えと生き方を伝える大切なたとえ話を三つほど選んで、イエスの思想の核になることを話させてもらおうかと思います。イエスはたとえ話の名手と言われています。たとえ話ですからわかりやすいかなと思って選んでみました。
 最初は『ルカ福音書』の「善いサマリア人」のたとえ話です。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか」と言われると、彼は答えた。「「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」とあります」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
 さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ福音書10章25節~37節)

 まず、イエスに話しかけた人が律法の専門家だとあります。聖書の民たちにとって人生の中心は天地の創造主です。それから自分たちの歴史を導いてくださる唯一絶対超越的な神様の意思に従って生きること。人間は神様が泥をこねて息を吹き込んで誕生した。神様が何もかも作られた。その神様の意思に従って生きることが人間の幸せだと考えたわけです。
 じゃあ、神様の意思がどこでわかるか。それは自然界とか人間の良心とか、そういうことを通してもわかりますけれど、神の意思が律法を通して示されます。典型的なのがモーセの十戒ですね。律法に神様の意思がある。モーセに与えられた律法を通して神様の意思を理解する。そして律法に従って生きる。イエスより前の人たちは宗教生活だけではなくて、日常生活の細々としたところまで律法に従って生きていたんです。
 その一例は、一週間に一回安息日という休みの日をもうけて、その日には労働してはいけないという律法があります。神様のことを考えるために何もしないで、その一日を神様に捧げる。その伝統を受けてカトリックでは、日曜日に仕事を休んで、自分たちの本来の姿、神様との関わり、神様の意思を問う日を持ちなさいとされています。
 イエスの時代にはモーセの十戒以外に主な律法が617ぐらいあったと言われています。みんなは律法がなかなかわからないので、専門家が人々に説いてあげていました。律法の専門家とはそういう人のことです。

 ところが、律法に説かれている文字にとらわれてしまうと、神様の本当の意思がどこにあるかを忘れてしまう危険性が起こってくると思うんです。イエスの時代にもそういうことがあった。イエスはそういうことに対しての批判、かなり厳しい批判をしています。そのために律法の専門家、律法を中心にして動いていた社会から敬遠されるというか、受け入れられなかった。それが十字架につながっていく面もあるわけです。
 それはともかく、イエスの生きていた社会では律法を中心にしていました。イエスが人々からだんだん受け入れられていって、神の意思とか、自分たちの生き方に関わること、それから神のことについて話す教師として評判が広まってきた。それで律法の専門家がイエスを試そうとした。もしかしたら律法の専門家には悪意があったととらえることもできます。

 最初に「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。これはすべての人間にとっての関心事ですよね。私たちは誰もが生まれてこようとして生まれてきたわけではなくて、気がついたら生まれてたんです。永遠の命とは言葉を換えれば、「人間、何のために生きているんだろうか」という問いと考えてもいいと思うんですね。聖書の伝統に基づくと、永遠の命を得るためには何をしたらいいんでしょうかという問いになります。
 神様からの呼びかけを受け入れて、それを律法という形で、そして聖書という形でまとめ、それに従って生きている人たちにとって、生きるために何が一番大切なんだろうか、どういう生き方をすれば本当に幸せな生き方と言えるんだろうか、といった問いをイエスの時代の言葉で言うとこういうことになります。

 イエスは「律法には何と書いてあるか」と逆に問うていきます。毎日の生活の中で生きていくモデルになって、「こうしなさい」と書かれている律法に何が書いてあるか。
 すると、律法の専門家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということだと答えます。

 律法は細かいことを言えば三千とか五千とかあるわけです。その中で何が一番大切か、当時それは理論的にも学問的にも論争になっています。たくさん律法がある中から、これだけは守りなさいというものが何か、みんな知りたかったわけです。これだけだということを知りたい、ということですね。「律法には何と書いてあるか」というのはそういう問いと考えてもいいと思うんですよ。

 そしたら律法の専門家は、神様を愛しなさい、そしてお互い同士愛し合いなさい、と答えた。この世界を命の恵みとして神様からいただいているから、その神様に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」愛しなさい。それと同じように「隣人を自分のように愛しなさい」と。

 このことはイスラエルの人たちにとっての神と自分たちとの関係を表しています。神によって私たちは造られた。私たちはすべて神様の恵みに依存している。だから、全力を尽くして神を愛する。それと同じようにお互い同士が大切にしあいなさい、と。

 それに対してイエスは「正しい答えだ」と言い、そして「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」、「正しい答え」なんだけれど、「実行しなさい」と言われた。ここがポイントです。わかっただけではだめなんだということです。
 イエスのすばらしさは、言ったことは必ず実践する人だということなんですね。それが私にとって魅力です。十字架の死というのは刑罰とかむごい死ということではなくて、イエスが教えを説き、その教えに生きた結果として十字架がある。十字架上の死にイエスの生き方が示されていると思います。

 「実行しなさい」と言われた律法の専門家は「自分を正当化」しようとした。わかっててもやっていない。イエスに一番厳しいところを突かれたのかもしれない。それで自己弁護のために、「では、私の隣人とは誰ですか」と聞くわけです。神様を愛するのはわかるけど、「愛しなさい」という隣人、大切にしなければいけない人とは誰ですか、と。

 イエスの時代よりも前にも、隣人とは誰のことかということについて論争があったようです。一つの説は、選民思想という言葉があるように、自分たちは神様から特別に選ばれた人間だ、選ばれた者が隣人なんだという考えです。
 私の思う聖書の中の選民思想はそういうことじゃないんです。神様がすべての人に一挙に声をかけるのではなくて、一人の人に声をかけて、その人をしるしとして他の人たちみんなに伝えていく。神様がイスラエルの人を選んだのはそういうことだと思うんですが、狭くなってしまって、自分たちだけが正しいということになってしまっている。
 他の人たちは神様から選ばれていない。そういう選民思想が残存としてキリスト教の中に残っています。私たちは選ばれていて、他の人たちは神様を知らない不幸な人だから、その人たちに神様のことを教えないといけないという、そういう歪んだ、間違った形での選民思想が今でもあるかもしれません。
 隣人というのは、自分を中心にして、ここまでが隣人でここから外は隣人じゃない、というふうに考えがちですよね。そこに区切りを作るわけです。区切りの中ではみんな仲良くする、だけれどもその外は、という。

 そういうのは日常生活の中でもあると思うんです。キリスト教の影響を受けた人種差別とか、日本でも天皇を中心にした体制の中で穢れた人たちの階層がある。そういう差別の問題ともつながってきます。

 仲間内では仲良くする。じゃあ、誰が仲間なのか。そういう問いかけです。そこでイエスがたとえ話をされるわけです。
 道ばたに、追いはぎに襲われて服をはぎ取られ、半殺しにされた人がいた。そこにまず最初に祭司がやって来た。その人を見ると、祭司は道の向こう側を通って行った。二番目にレビ人が来た。やはり道の反対側を通った。三番目に来た人がサマリア人。サマリア人は「その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」。そして、お金を払って「また帰りがけに寄ってみます。費用がもっとかかったら払います」と言った。そういうたとえ話をイエスはされたんですね。

 ここにイエスの思想の中心に関わることが説かれています。祭司とは、エルサレムに神殿がありまして、そこで宗教活動を司る人です。レビ人というのは、神殿で祭司のアシスタントをする人たち。今で言うと、聖歌隊とか守衛とか掃除をする人とかです。二人とも日常生活では律法を守ると同時に、エルサレムの神殿に仕える人たちなんですね。だから、神様に一番近い人たちです。神様に仕える人たちが道の反対側を通っていった。傷ついた人に気がついたから、わざわざ道の反対側を通った。

 サマリア人は一言で言えば、正統的なユダヤ人から見たら穢れた人たちとして差別を受けていた人です。イスラエルがアッシリアに占領され、移民してきた人との間に生まれた人たちをサマリア人とよんだんです。ユダヤ人は選ばれているから純血を誇っていたんです。ところがサマリア人は征服してきた民族と混血してしまったということで差別された。それは日本にもありますよね。

 もう一つ、エルサレムの中央神殿じゃなくて、自分たちのところでも礼拝していいんじゃないかと主張した。そうした宗教的な理由と政治的な理由で差別されてたんです。サマリア人に近づいたり、声をかけたり、同席したりすることは正統的ユダヤ人からするといけないことだったんですね。
 そういう穢れているとして差別されていた人たちは、当時の社会の中ではサマリア人以外にもいました。ハンセン病者は穢れた人として市民権もなくて、隔離されてました。それから売春婦。イスラエルにはローマ軍が駐屯していました。ローマ人は外国人ですから穢れている。そういう人たちと接触すると、自分も穢れてしまう。それから徴税人。税金を集める人です。当時流通していたローマのお金は外国のお金で穢れていますから、神殿にローマのお金を献金したらだめなんです。だから、イスラエルのお金に換金しないといけない。徴税人はそういうお金を扱っていて、外国のお金をさわれば、その人も穢れていることになってしまう。そういう差別される人たちがいたんですね。

 イエスはそういう人たちの仲間だった。一緒に食事をしたりしています。そういうことが当時の指導者、学者たちから受け入れられない。イエスの思想と生き方は社会の秩序を乱すことだと思われていたんです。

 このサマリア人という、人間と思われていない人が素晴らしいことをするというたとえ話をイエスがするわけですよ。このたとえ話だけでも、祭司長や律法学者からすると「あいつは危険人物だ」ということになると思うんです。当時の宗教家や学者にとっては、このたとえ話だけで死に値すると言われても仕方ないかもしれない。僕もこのたとえ話の持つ本当の意味、過激さはわからないかもしれません。
 イエスが生きていた社会では革命的だけれども、多くの人たちはここに人間の生き方があると考えた。それは2000年たった今でも同じですね。

 話は戻って、イエスが「実行しなさい」と言ったので律法の専門家は自分を正当化しようとした。そうしてこのたとえ話をした後、イエスは「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と聞きます。
 この律法学者とイエスの立場が全然違うということですね。質問をした律法の専門家は自分が中心にいます。「誰が隣人ですか」と質問したのは、自分が中心にしてどこまでが隣人なのかという区切りを聞いたわけです。
 隣人の範囲を決めて、この中ではみんな仲良くするけれど、外にいる人は愛さなくてもいいというか。こういう枠組みを作ってしまうと、つき合っていけない人ができてくる。この人の考えからすると、この範囲以外の人たちとは関わりを持たないし、愛する必要もない。自分が中心にいて、誰が隣人かを定義して、そういう人たちとだけ仲間になって社会を作っていこうとする。サマリア人たちは隣人には含まれないわけです。

 それに対して、イエスが問いかけたのは、通りかかった三人の中で傷ついた人にとって誰が隣人になったかということです。中心は自分ではなくて、傷ついて死にかけている人です。その人の隣人になる。その人を見て憐れに思って、近寄って介抱するのは誰かということですね。

 律法の専門家は困って、「その人を助けた人です」と答えた。これもうがった読み方をすれば、「サマリア人」とは口にもしたくなかったから、「その人を助けた人です」と言い換えている。

 そこで、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言います。中心は助けを必要としている人であり、その人にどう関わっていくかが大切なんです。
 すぐに神様がどうしただとか、神様を拝みましょうとかいうことになるわけですけど、それよりも先に毎日の生活の中で本当の人間としてまさに品位ある生き方をする。そういうことがこのたとえ話で問われていることなのかなと思っています。

 「その人を見て憐れに思って、近寄って」ということですけど、「見る」「憐れに思う」「近寄る」、この三つの動詞がペアになっています。まず見る。それから憐れに思って近寄る。
 「憐れに思って」と訳されている言葉は、もともとは「はらわた」という言葉なんです。「断腸の思い」というとちょっと違いますけど、倒れている人を見て内臓が我慢できなくなる。見て、じっとできなくて、行動を起こす。目の前にいる傷ついた人に近寄っていく。
 さっき言った安息日についてでも、安息日には労働してはいけないから何キロ以上のものを持ったら労働になるか、何キロ歩いたら労働か、そういうことまで律法で決められてるんですよ。
 それに対してイエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言っています。今は安息日だからとか、牛は何キロ以上あるからと言わないだろう。すぐ助けるだろう。律法よりもっと大切なものがある。神殿よりもっと大切なものがある。じゃ、何が大切なのかというと、それが三番目のたとえ話です。


  3 放蕩息子の帰還

 三番目のたとえ話をお話しする前に、神様と人間との関係について一番わかりやすいのが「放蕩息子の帰還」というたとえ話を紹介します。

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ福音書15章1節~3節、11節~32節)

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは指導者です。社会の有力者たち。徴税人や罪人(つみびと)はつき合ってはいけない人たちです。罪人を「ざいにん」と読むと犯罪者と思われますので、聖書では「つみびと」と読みます。売春婦だとか徴税人だとかサマリア人たちは罪人ということでくくられています。
 罪人と一緒に食事をするなんて許せない。そんなのが指導者であったり、神から遣わされたメシアだなんて絶対あり得ないんですね。律法に忠実であればあるだけ、純粋であればあるだけ絶対許せない。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とイエスを非難する。そして、イエスはたとえを話された。

 放蕩息子がいた。お父さんに財産を分けてもらったんだけど、放蕩の限りを尽くして食べるものもなくなった。お父さんのところに帰ろう。だけど、息子とよばれる資格がない。罪人のイメージというか、神様から遠く離れて自分勝手な生活をした息子が家に帰るわけです。

 ポイントは「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて」というところです。お父さんの方が先に見つける。お父さんにとっては息子が出て行って以来、いつも心にかかっていた。気にかかってしようがない。
 「見つけて、憐れに思い、走り寄って」とあります。先ほどはサマリア人が傷ついた人に気づいて、見て、心を動かされて近寄る。今度はお父さんが見て、気づいて、近寄る。

 弟息子は道々お父さんに何と言おうかと思って練習してるんですよ。ところが父親は弟息子にひとことも言わせず、「急いでいちばん良い服を持って来て」、そして「手に指輪をはめて」やる。何で指輪に意味があるのか。僕の先生は「これが大切なんだ」と教えてくれました。指輪は息子の資格を表すものです。

 どんな罪人でも神様は受け入れてくださる。それがイエスが罪人と食事をしている姿です。罪人と一緒に食事をしているイエスの姿が、さっき言いましたイエスの思想と生き方を目に見える形で表していると思うんです。どんな罪人でも許されるということです。
 罪人とレッテルを貼られている人は、自分たち自身も救われないと思ってたんです。しょうがないなあ、俺たちは律法を守れないし、守ろうとしても職業が穢れていたりするし、と納得していた。でも、イエスはそうじゃない。神様はむしろこういう人たちのほうこそ神様にとって気にかかると説いているんです。

 どんな罪人も許す神様の愛ということは『歎異抄』の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉と通じると思うんですね。僕も『歎異抄』のあの言葉が大好きです。神様と人間との関係は「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」と『歎異抄』にあるように、神様はどんな罪人でもちゃんとふところの中にいだいておられる。だから、神様を全力を尽くして愛しなさい。
 そこに他力本願というか。キリスト教も本質的には神様からの救いというのは、人間の努力によって律法を忠実に守ることによって獲得できるものではないというね。信じることも神様の助けがいる。神様の恵みによって信仰ができる。他力という面があるんです。人間は律法を守ることによって救いは獲得できない。それはパウロが理論的に確立していくんです。
 後半はお兄さんの話になるんですけど、今日はカットします。


  4 人間として問われること

 神様のほうが先に気がついて指輪をはめてくださるということと、傷ついた人を中心にし、そういう人たちを見て近寄っていくということ、この二つを合わせている教えが三つ目のたとえ話だと思います。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊に分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ福音書25章31節~46節)

 最後の審判といって、人間がこの世の命を終わった後、この世に終わりが来る。そうして裁きがあり、天国と地獄に行く者に分けられる。その分ける基準は何なのかというたとえ話です。
 この二つのグループは全く対照的、真反対です。天国に受け入れられた人たちに「わたしがお腹をすかせていた時に食べ物をくれたから、お前たちは天国に迎えられた」と神様は言うわけです。そうすると受け入れられた人たちは「いつ私はあなたがお腹をすかしていた時に食べ物をあげたでしょうか」と言ってるように自覚が全くない。いつそんなことをしたんだろう。そうすると、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と神様は答えます。小さい兄弟にしたことは神様にしたことなんだ。
 つまり善いサマリア人です。天国に入れられた人は宗教的にいいことをしようとか、天国に行こうとしたんじゃなくて、お腹をすかしている人が目の前にいたから、その人に食べ物をあげた。神様のためにとか、そういう意識は全然ないんです。傷ついた人がいたから、その人に何かできないかと近寄った。

 ここで傷ついた人と小さい兄弟と神様がつながっています。この傷ついた人の中に神様がいる。これはまさにマザー・テレサですよね。カルカッタの路上で死を待っている人たち。「私はその人の中のイエスに会いに行きます」とマザー・テレサは言っています。ここで、全力を尽くして神様を愛しなさいということと、隣人を愛しなさいということ、具体的には一人の兄弟にしたことが神様にしたことなんだということがつながるんです。

 そういった意味でも、サマリア人をイエスが引き合いに出すのはイエスの思想の中心です。カトリック教会はたびたび間違った方向に行くんですけど、サマリア人のたとえを大切にして社会事業や福祉事業にも関わっていこうとする。それはこういうことがあるからなんです。

 地獄に落とされた人は逆ですね。私はいつでも神様のために、教会のためにしてきました。何かあると一生懸命やりました。だけど、小さい兄弟にしなかったことは、私に何もしなかったことになるんだと神様は言われる。

 サマリア人のたとえのように、自分で何かしないといけないんじゃないかという葛藤が僕にはあります。自分のことだけでなく、他の人に目が向かないというか。ですから、僕が魅力的なのは菩薩の思想ですよね。自分が悟りを開いて仏になれるんだけれども、それにはこだわらずに、巷に戻って、本当に助けを必要とする人たちのために身を粉にしてはたらくという菩薩の思想です。これはサマリア人のたとえにつながっているところがあるのかなと。
 目の前に食べ物がない人がいる。私がおにぎりを二つ持っていたら一つを分けてあげる。それが価値があるとか報いがあるとかでなくて、そういう人間性ですね。イエスはそれを生きた人だと思うんです。
 だけど、小さい兄弟にしたこととか、隣人に、なんてことを言うと自力かなというところですよね。利他、自分ではなくて、倒れている人が中心です。それは自分の行いとしてとか、救いを獲得するための手段とか道としてすることとは違った、やむにやまれぬ気持ちでというか。

 「いつ私がいいことをしたんですか」ということですけど、イエスは「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言われています。報いを得ようと思ったらだめだ。隠れてしていても天の父は見てくださる。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」


  5 イエスの生き方に従う

 三つのたとえを急ぎ足でお話ししたんですけど、キリスト教というのはメシア、救い主ということではなくて、イエスの教えを自分の生き方として受けとめて、その教えに従って生きようとする人たちの集まりです。2000年の歴史の中でいろいろあったんですけど、根本はイエスの教えと人格と生き方、それがキリスト教の中心だと思います。

 三位一体とか十字架の死による贖罪といったことは、教団となった時に理論化しないといけなくなってから考えられたことであって、極端なことを言えば、キリスト教徒でも三位一体が何かわからない人がほとんどじゃないかなと思いますね。だから、これは信仰の奥義だとごまかしています。たぶん理論的には説明しつくせないんじゃないかなと思ってます。
 十字架上の死についても、贖罪死という見方は神学的に理論化されたことであって、原罪とかイエスがあがなった罪とは何かということで、神学に属することじゃないかなと。解釈もいっぱいあります。

 のちに理論化された教義でイエスに近づくか、それともイエスの言葉からキリスト教に近づくのかということです。ディートリッヒ・ボンヘッファーという、ナチスの強制収容所で処刑された神学者がいるんですけど、彼の獄中書簡に「たとえ神様がいなくても、神の前で、神と共に、神なしで」、この世のただ中で誠実に生きていかなければならない、という言葉があるんですね。キリスト、救世主ではない人間としてのイエスの思想を僕はすごいと思うし、教えの通りに生きた人として尊敬します。

 天地創造主の神とか三位一体とか贖罪死が全然出てこない入門書がカトリックにはあります。ということは、今のカトリックの教えにとって大切なことはそうしたことよりもイエスの思想に日本人としてどうアプローチしていくかということだと思うんです。

 井上洋治という僕の先生は「南無アッバ」と言われています。アッバとはイエスの時代に子どもが父親に「お父ちゃん」と言っていた。天のお父さんがいつも見守っていてくれるから何も心配することはないということですね。

 天国に入るのが救いとは最初にはきません。死んでいいところに行きたいというのは僕にはないです。いい人生だったなあと思うことが救いだと思いますね。こんなこと言ったら怒られるかもしれませんけど、天国があればいいけど、なくても別に。つらいことがいっぱいあっても、でもよかったなあと言える人生をおくれたらというのがあります。
 まとまりのない話になりました。どうもありがとうございます。
(2009年4月25日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)